kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

青葉の笛・・・・・続男鹿半島幻想

2008-01-24 15:58:19 | 男鹿半島幻想
Aobanofue08012301
   
    明治時代の唱歌、青葉の笛
 
    一の谷の いくさ破れ
    討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
    あかつき寒き 須磨の嵐に
    聞こえしはこれか 青葉の笛
  
    更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
    わが師に卓せし 言の葉哀れ
    今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
    残れるは「花や今宵」の歌
  
    
         箙(えびら)は、矢を入れて背負う道具。 
  
  
 
 雪の結晶を撮影した日、体が冷えたせいか夜になると腹痛が起き眠れなかった。
次の日になると寒気がして関節が痛み出した。
 電気毛布を最高温度にして横になっていると、
もうろうとした頭に「青葉の笛」の幻聴が起き、
うつらうつらしても曲は流れ続け、そのうえ「男鹿半島御前落とし」の
幻覚の中を漂い始めた。
 自分の能力に合わない本を読みすぎたためかとも思えたが、
そうではなく、いつも頭にあったことが絡まり合ったすえの幻想だったようである。
  
 ひとりの女性が死んだ物語としてではなく、
ひとつの集落が滅びていった姿が頭を駆けめぐっていた。
  
 平治の乱の後、清盛は謀反人義朝の子、頼朝などを殺すことにしたが、
父忠盛の妻で清盛の継母池の禅尼に助命を嘆願され、
頼朝は殺されずに伊豆へ配流となった。
やがて、その頼朝や義経によって平氏は滅亡していった。

 「御前落とし」は、源平合戦よりもあとの時代の話である。
敵の子孫を残しておくことは禍根を残すという教訓が全国に
行き渡っていただろうから、男鹿半島でも悲惨な光景が繰り広げられたはずだ。

 女性は殺されず勝者のものになるのが普通だったが、
子どもたちが投げ込まれた荒れた海に、
あとを追って飛び込んだ女性もいたのかもしれない。
  
  
 「青葉の笛」は、平家物語に描かれている「敦盛(あつもり)の最期」と
「忠度(ただのり)の都落ち」をうたっている。
  
 一の谷の戦に敗れ、逃げて船に向かおうとしている平家軍のなかに
大将軍とらしき姿を見つけた源氏の熊谷次郎直実は、
「背を向けずに勝負をしろ」と叫ぶと、その武者は引き返してきた。
争ううち直実は相手を組み敷き、首を落とそうとその顔をみると、
自分の息子小次郎と同じ十六・七の美少年であった。
小次郎が軽傷を負っただけで自分は苦しんだのに、この少年が
討たれたと知ったなら親はどれほど嘆き悲しむことだろうと、
刀をたてることができず、逃がしやろうと思った。
しかし、後ろから味方の軍勢が押しよせてきたため、泣く泣く首を切ってしまった。
  
 鎧直垂(よろいひたたれ)をとって首を包もうとすると、
腰に錦の袋に入れた笛をさしていた。
それをみて、戦いが始まる明け方、流れてきた笛の音はこの方だったのかと知った。
そして、この少年は敦盛だったことを聞かせられる。
 やがて、直実は仏道にはいる。
  
   
 薩摩守忠度が都落ちをして行く途中、武者5人と童1人を引き連れて、
歌の師である藤原俊成(しゅんぜい)の屋敷を訪れた。
 「申し上げたいことがあってやってきました。
門はお開けにならなくともけっこうですから、
門のそばまでいらしていただけませんでしょうか。」と言った。
それを伝え聞いた俊成は「その方ならば、中にお入れになってもよい」と
門を開けさせ、対面した。
  
 忠度は「戦乱が終わり、世の中が静まったら、
勅撰和歌集のご下命があることでしょう。
そのときに、今日持参しました歌の中にしかるべき歌が
ありましたならお選びいただきたいとお願いいたします。」と、
鎧(よろい)の引き合わせから百首あまり書き留めた
巻物を取り出し、俊成に渡した。
  
  
 戦(いくさ)の前に笛や和歌を作っていた軟弱な人々と
感じるかもしれないが、この当時は音曲や言葉は神に祈る行為だったのである。
  
  



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雪粒

2008-01-21 09:14:42 | 
Yukitubu08012101


 二昔前のコンパクトカメラからレンズを取り出して、雪の結晶を撮影する装置を作った。
 
 男鹿は周辺を海で囲まれているため内陸などと比較すると気温が下がらず、降る雪の結晶をガラス板で受けてもすぐに溶けてしまう。
 ガラスは熱伝導率が高いためだろうと、CDのケースを使用した。
3分ほどは溶けずにいるので撮影可能とはなったのだが、結晶の形はどれも崩れている。
 
 写真はそのうちの一枚である。結晶が欠けているのはわかるが、粒々がついて汚らしく、いつも写真で見ているのとは比較にならない。
 写真を消去しようと思ったが、いちおう調べてみると、粒々は雲粒が氷ったもので、これが日本海沿岸の雪の特徴らしい。
自分の目で見たものを優先させることを忘れていた。
 
 男鹿の気温はそれほど低くはならないとはいえ、雪の中でじっとしていて体が冷え、一晩中腹痛で苦しんだ。
 
 「雪は天から送られた手紙である」といったのは、雪の研究者中谷宇吉郎である。
わたしがアルバイトで得たお金で最初に購入したのが、「中谷宇吉郎随筆選集」の3冊であったことを思い出した。
40年以上経過しているのだから、もう一度読み返すのもいいかもしれない。
 
 ホームページ・ブログを更新できないでいるのは、図書館から「岩波講座 日本の歴史」を5冊借りてきて読んでいるからである。かながふっていない上に、見たこともない用語の連続で、ターヘルアナトミアを翻訳した杉田玄白のような毎日である。
 
 

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水と雪と氷は同じもの?

2008-01-17 14:10:08 | 
Turara08011701


 小学校の授業で、「水と雪と氷は同じもの?」と訊かれたときの答えは、「同じもの」だったように記憶している。
 しかし、考えてみれば、同じものでないから別の形をしているのである。
構成要素が同じであっても、そのときの分子形態がことなれば、同じものとはいえないはずだ。
 
 雪がとければ・・・・春になる。雪と春は別のものである。念のため。
 
 
 ほとんど積雪はないけれど、毎日雪寄せをしている。
 終わったあとは、なんか労働をしたような崇高な気分になるけれど、
少し考えると、1銭にもならない無駄な動きをしたようにも感じる。
車がなかった頃の雪踏みが合理的なことだったにちがいない。
 合理的でなくなったとすれば、人間は退化中ということになるのかな。
 
 
 写真はGimpで編集。
 「きらめき」と「明瞭化」フィルタを使用。
昼、青空が見えたとき窓を開けて撮影した。今夜からまた雪がたくさん降るらしい。
 
 


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大社山・・・・・続男鹿半島幻想

2008-01-12 11:54:31 | 男鹿半島幻想
Katana08011201
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 秀吉が刀狩り・海賊船禁止令を出したのは、農民・寺社・漁民がそれまでは武力勢力にほかならなかったということである。
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 1189年、源頼朝が藤原泰衡を討ち、奥州を平定し、鎌倉に戻った直後、大河次郎兼任が八郎潟周辺で反乱を起こした。
 男鹿半島内にいた橘次郎公業(きんなり)を討つため、八郎潟の氷の上を進軍していたときに、氷が割れ5000人が溺れたという。
 このことは、勝者の記録である吾妻鏡(あずまかがみ)に書かれている。
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 この後に、由利中八維平(ちゅうはちこれひら)が、公業を加勢するため、「男鹿島の大社山(たいしゃやま)に向かい・・・」というようなことが書かれている。大社山とは男鹿本山・真山のことらしいが、ここの部分が気になりだしてきた。
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 この戦いで、維平(これひら)はどこかで討ち取られ、公業(きんなり)は鎌倉に逃げ帰る。
 鎌倉に伝えられた最初の内容は、「維平は逃れ、公業は討ち取られた」というものだったが、それを聞いた頼朝は二人の性格からしてその逆だろうと言った。
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 冬、新暦に換算すると2月上旬(多分)のことである。そのときの光景を思い浮かべてみると、最初から逃亡するつもりの公業が、本山・真山の寺社にたて籠(こ)もるはずなどないと、私の結論はなる。
 橘氏はもともと水軍であり、大社山と書かれている部分は脇本だろう。
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 先に気になりだしてきたと書いたのは、大社山と書かれている部分が脇本だったのではということではない。
大社山そのものが、公業とは別組織の男鹿半島に大きな影響をもった軍事集団ではなかったろうかと思ったのである。
 橘氏が本山赤神神社に寄進をしていたとしてもである。
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 キリスト教が伝道の御旗の元に、世界を植民地化していく軍事組織だったように、歴史の表面からは消え去っているけれど、日本の比叡山なども宗教組織としてだけでなく、武力軍団として男鹿半島の一部を支配していたはずだ。
 寺社にかぎらず農民・漁民もたんなる食料生産作業者ではなく、武力勢力そのもので、戦乱のたびに入れ替わってもいただろう。
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 むかし半島は重要な場所であったから争いの連続で、ほんわかした民話の世界ではなく、男鹿半島は血が流れる大地と海の世界のようにみえてくる。
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 わかりやすく書いたつもりだが、続男鹿半島幻想は多分理屈ぽくなりそうである。
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参考:男鹿市史
   大河次郎兼任の時代 小野一三 無明舎出版
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「刀」は写真+フリーソフトGimpで描いた。
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