明治時代の唱歌、青葉の笛
一の谷の いくさ破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
あかつき寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に卓せし 言の葉哀れ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や今宵」の歌
箙(えびら)は、矢を入れて背負う道具。
雪の結晶を撮影した日、体が冷えたせいか夜になると腹痛が起き眠れなかった。
次の日になると寒気がして関節が痛み出した。
電気毛布を最高温度にして横になっていると、
もうろうとした頭に「青葉の笛」の幻聴が起き、
うつらうつらしても曲は流れ続け、そのうえ「男鹿半島御前落とし」の
幻覚の中を漂い始めた。
自分の能力に合わない本を読みすぎたためかとも思えたが、
そうではなく、いつも頭にあったことが絡まり合ったすえの幻想だったようである。
ひとりの女性が死んだ物語としてではなく、
ひとつの集落が滅びていった姿が頭を駆けめぐっていた。
平治の乱の後、清盛は謀反人義朝の子、頼朝などを殺すことにしたが、
父忠盛の妻で清盛の継母池の禅尼に助命を嘆願され、
頼朝は殺されずに伊豆へ配流となった。
やがて、その頼朝や義経によって平氏は滅亡していった。
「御前落とし」は、源平合戦よりもあとの時代の話である。
敵の子孫を残しておくことは禍根を残すという教訓が全国に
行き渡っていただろうから、男鹿半島でも悲惨な光景が繰り広げられたはずだ。
女性は殺されず勝者のものになるのが普通だったが、
子どもたちが投げ込まれた荒れた海に、
あとを追って飛び込んだ女性もいたのかもしれない。
「青葉の笛」は、平家物語に描かれている「敦盛(あつもり)の最期」と
「忠度(ただのり)の都落ち」をうたっている。
一の谷の戦に敗れ、逃げて船に向かおうとしている平家軍のなかに
大将軍とらしき姿を見つけた源氏の熊谷次郎直実は、
「背を向けずに勝負をしろ」と叫ぶと、その武者は引き返してきた。
争ううち直実は相手を組み敷き、首を落とそうとその顔をみると、
自分の息子小次郎と同じ十六・七の美少年であった。
小次郎が軽傷を負っただけで自分は苦しんだのに、この少年が
討たれたと知ったなら親はどれほど嘆き悲しむことだろうと、
刀をたてることができず、逃がしやろうと思った。
しかし、後ろから味方の軍勢が押しよせてきたため、泣く泣く首を切ってしまった。
鎧直垂(よろいひたたれ)をとって首を包もうとすると、
腰に錦の袋に入れた笛をさしていた。
それをみて、戦いが始まる明け方、流れてきた笛の音はこの方だったのかと知った。
そして、この少年は敦盛だったことを聞かせられる。
やがて、直実は仏道にはいる。
薩摩守忠度が都落ちをして行く途中、武者5人と童1人を引き連れて、
歌の師である藤原俊成(しゅんぜい)の屋敷を訪れた。
「申し上げたいことがあってやってきました。
門はお開けにならなくともけっこうですから、
門のそばまでいらしていただけませんでしょうか。」と言った。
それを伝え聞いた俊成は「その方ならば、中にお入れになってもよい」と
門を開けさせ、対面した。
忠度は「戦乱が終わり、世の中が静まったら、
勅撰和歌集のご下命があることでしょう。
そのときに、今日持参しました歌の中にしかるべき歌が
ありましたならお選びいただきたいとお願いいたします。」と、
鎧(よろい)の引き合わせから百首あまり書き留めた
巻物を取り出し、俊成に渡した。
戦(いくさ)の前に笛や和歌を作っていた軟弱な人々と
感じるかもしれないが、この当時は音曲や言葉は神に祈る行為だったのである。