kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

過疎

2024-07-21 13:01:49 | 男鹿半島幻想


 6月13日に載せたスイカズラの草の山をかたづけた。
ヘビが出てくる可能性もあると思ったが、
草を寄せた穴から姿を現したのはサンショウウオだった。
 ここに移転してきたときは、道路わきの水たまりに、
サンショウウオの卵を見かけたものだったが最近は見ていなかった。
 過疎化が進めばクマに限らず、隠れていた者たちが姿を現してくる。

 男鹿市の人口は、23,749人。
若者がいないのだから、統計学など駆使しなくとも将来は見える。
男鹿に限らず、急激な人口減少が始まるのはそう先のことではない。


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 Blender 4.1.1

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海辺

2024-06-05 17:01:36 | 男鹿半島幻想


 暗く、風が強い日。
 上手く撮れなかった。
 気候のせいではなく技術力と忍耐が
落ちてきているのは認識している。

 次の日取り直したが、変わり映えしない。


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けだるい日

2024-05-23 12:30:35 | 男鹿半島幻想


 夏はどれほど暑くなるのだろう。

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ビルの明かり

2024-02-07 11:21:44 | 男鹿半島幻想


 秋田県の人口が90万人まで減少した。
 男鹿市は24000人。
子どもの姿を見ないのだから、人口減少は加速していく。

 少し大きなビルだと、滞留人口は男鹿市の人口を上回る。
 
 
 
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 Blender 4.0.2


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男鹿半島幻想:謎の十字路(2)

2024-01-14 14:58:18 | 男鹿半島幻想
 このページは、男鹿半島幻想:謎の十字路 の続きです。

 日本海に津波を起こしたとおもわれる地震。多いなあー。
 犠牲者の数が記録に残っていたりするけれど、情報不足の当時を考えると
被害者はかなりいたように、私は推測している。

●701年5月8日  大宝地震 (たいほうじしん)   震源:近畿地方北部   M7.0

●850年11月23日  出羽地震(でわじしん)   震源:山形県酒田市沖   M7.0

●863年7月6日  越中・越後地震(えっちゅう・えちごじしん)   新潟県沖   M7.0

●1026年6月10日  万寿地震(まんじゅじしん)   震源;島根県沖   M7.5

●1644年10月18日  秋田県、羽後本荘・象潟(きさかた)   震源:秋田県由利本荘市沖   M6.5

●1741年8月29日  寛保津波(かんぽつなみ)  震源:北海道南西沖   M6.9

●1762年10月31日  佐渡沖地震(さどおきじしん)   M7.0

●1793年2月8日  青森県鯵ヶ沢地震(あじがさわ)   M6.9

●1804年7月10日  象潟地震(きさかたじしん)   震源:山形秋田県境の鳥海山(ちょうかいさん)   M7.0

●1810年9月25日  羽後地震(うごじしん)   震源:男鹿半島(おがはんとう)   M6.5

●1833年12月7日  庄内沖地震(しょうないおきじしん)   震源:山形県酒田市沖   M7.5

●1939年5月1日  男鹿地震(おがじしん)   震源:男鹿半島   M6.8

●1940年8月2日  北海道西岸積丹半島沖地震(しゃこたんはんとうおきじしん)   M7.5

●1964年6月16日  新潟沖地震   M7.5

●1983年5月26日  日本海中部地震   震源:秋田県能代沖(のしろおき)   M7.7

●1993年7月12日  北海道南西沖地震   震源:北海道奥尻島沖(おくしりとうおき)    M7.8

●2007年7月16日  新潟県中越沖地震(にいがたけんちゅうえつおきじしん)   M6.8

●2024年1月1日  能登半島地震(のとはんとうじしん)   震源:能登半島   M7.7

 津波の年表をみているうちに、
菅江真澄(すがえますみ)の「男鹿の鈴風」の
「むかし中里といって土堤に5、6軒の家があったが、ある年、鮫網(さめあみ)の漁に
でて、海が荒れ、舟がくつがえって死亡し、村もほろんで畑となった。」が浮かんできた。

 鮫を獲る網など男鹿では聞いたことがないから、鮫は「小魚」という意味で、
鮫網は沿岸に設置した建て網(たてあみ)のことだろう。
「海が荒れ」は津波が打ち寄せたに違いない。
 津波だけではなく、海面下の地殻も隆起し、貝塚にみえる大地も
つくったと幻想することもできる。

 「謎の十字路」を書いていて、星辻神社がなぜ山の中に移動したのだろうと、
なんとなく不思議に思っていた。
 落雷で焼失したためではなく、社殿・宝物が津波にさらわれたので遷宮したとすれば
理解しやすい。


参考
 男鹿の旅・道・宿-鹿の細道   磯村朝次郎 編著
 菅江真澄遊覧記5  菅江真澄 内田武志・宮本常一 編訳


秋田県神社庁に載っている星辻神社由緒
 延暦年中、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)勅命を奉じ賊徒征討の際、
男鹿に至り、戦勝祈願のため、湯本村に北辰神社(維新後星辻神社と改称)を
勧請建立された。
 その社殿は壮麗にして、神威尊厳霊妙不思議は当時世人の普く知るところであった。
 その後文禄年間に至り、社殿は雷火のため焼滅、
田村将軍奉納の兵器数多くの宝物もまた焼失す。
 慶安4年再建。
 享保3年再度火災に逢い焼亡、この時秋田城之介実季奉納の来光定の
宝刀は失ったが、御神体は恙なく守られて来た。
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 この由緒は、1810年に菅江真澄が、すでに湯本に移っていた星辻神社で聞いた話が
元になっている。(この後、真澄は男鹿震源の大地震に遭遇する。)
 大同年代に坂上田村麻呂を祀(まつ)った由緒をもつ神社はかなり多く、
ひとつの模式なのだろう。残りの多くは天照大神(あまてらすおおみかみ)を多分明治時代に
祀っている。
 

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