1989年、秋田市高清水(たかしみず)の秋田城跡から、万葉仮名が書かれた薄く削った木札、木簡(もっかん)が出土した。
その筆跡から、書いたのは万葉集の編者である大伴家持(おおとものやかもち)と判明した。
木簡は欠損していたが、残っていた部分を
(表)春なれば、今しく悲し ・・・・
(裏)勤(ゆめ)よ、妹、早くい渡さね。取り交はし・・・
と、吉田金彦氏が判読した。
(木簡には、波流奈礼波(はるなれば)のように万葉仮名で表記されていた。)
吉田氏は研究を続け、家持(やかもち)と笠女郎(かさのいらつめ)の禁断の恋を推理した。
そして、万葉集の作者未詳歌、
「吾妹子(わぎもこ)を外(よそ)のみや見む。越(こし)の海の小潟(こがた)の海の島ならなくに。」(3116)を、家持が男鹿半島を眺めながら、笠女郎におくったものだとした。(多分最後の歌)
越の海=日本海
小潟=八郎潟
「笠女郎よ、お前を遠い蝦夷の外地からばかり離れて見ていてよいでしょうか。出羽八郎潟の海の島ではありませんから」(吉田)
「いとしい人をよそながらに眺めているだけなのであろうか。あの近づき難い越の海の島ではないことなのに」(桜井満)
私のように、ひとつ屋根の下で妻と暮らし続けていると、この歌のような感情を理解するのはむずかしい。
男鹿半島を離れてみると、岩だらけのところもきれいに見えるのだなと、せいぜい思い浮かべるくらいである。^^;
この超有名な歌人が、秋田にいたとは変だと思った方もいるだろうから、
大友家持に関連することを少しつけたしておく。
大伴家持は武人なのである。
天平 5年(733) 出羽の柵を庄内地方から高清水に移した。柵=城
宝亀 5年(774) 蝦夷反乱。
宝亀 7年(776) 出羽国志波村蝦夷反乱。陸奥国胆沢蝦夷反乱。
宝亀 8年(777) 陸奥・出羽の軍、出羽の蝦夷に破れる。
宝亀11年(780) 陸奥国、伊治呰麻呂(いじのあざまろ)反乱。
天応 1年(781) 家持、正四位 右京大夫兼春宮大夫。
春宮大夫は、
早良(さわら)皇太子の侍従長。
延暦 1年(782) 家持、春宮大夫従三位
陸奥按察使(むつあぜち)鎮守将軍。
延暦 3年(784) 長岡京遷都。
延暦 3年(784) 家持、67歳。
持節征東将軍 征東将軍=征夷将軍。
持節とは節刀を天子からいただいて赴任すること。
持節征東将軍は鎮守将軍より上で、天皇の命令を代行できる。
延暦 4年(785) 家持死亡、68歳。
吉田氏は、秋田城で死亡したと考えている。
続日本紀に「・・・中納言従三位大伴家持
死す・・・」と書かれている。
「死」は六位以下で、三位以上は「薨こう」が使われていた。
だから、こののち続日本紀に記載されたときには官位も剥奪されていた。
延暦 4年(785)
藤原種継(たねつぐ)、暗殺される。早良(さわら)親王、皇太子逮捕され憤死。
大伴継人、真麻呂など大伴一族も犯人として逮捕される。
大伴家持はすでに死亡していたが、関係しているとみなされた。
延暦 8年(789) アテルイ、蝦夷征討軍を大破。
延暦13年(794) 平安遷都
延暦16年(797) 坂上田村麻呂、征夷大将軍
延暦25年(806)
家持、復位。冤罪(えんざい)だったことを公に認められた。
教科書だけを見ていると、秋田は中央の文化が流れ込んでいない野蛮な所と思いがちだが、大伴家持もいたことを知ると見方が変わる。
参考:
・秋田城木簡に秘められた万葉集
-大伴家持と笠女郎-
吉田金彦
・逆説の日本史3
古代言霊編
平安建都と万葉集の謎
井沢元彦
・万葉集 桜井満訳注
フリーソフト カシミール使用
男鹿島を高さ4倍にして描画した。