ネットで調べても出てこない人名であるが、菅江真澄(すがえますみ)「男鹿の秋風」に
載っていて、その標柱を船越(ふなこし)の善昌寺(ぜんしょうじ)境内に男鹿市で立てている。
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天正16年(1588年)、脇本追鼻崎(おいばなさき)の太平城主、阿倍友季(ともすえ)は、
同族の実季(さねすえ)との争い敗れ、かろうじて逃げ延びた。
そして、甲斐(かい)の国からきて友季に仕えていた大庄屋の森元有全にかくまわれた。
実季の探索はきびしく、密告した者もあったのだろう、友季は生き恥をかきたくないと、
切腹をした。
かくまっていた森元有全も捕まえられたが、死罪になるところ、「主君を守ろうした忠義」を
感心されて、国外追放ですみ、故郷の甲斐(かい)に帰って暮らした。
慶長7年(1602年)、関が原戦後の大名配置がえで、佐竹氏が秋田に転封(てんぽう)されると
聞いた有全は、常陸(ひたち)におもむき、佐竹氏に願い出て荷物輸送の先達(せんだつ≒案内人)と
なって、ぶじ土崎港に運んだ。その功によって、有全はまた男鹿の大庄屋に復帰した。
その後、船越水道の渡し船の権利も占有した。
藩は水道の水位がいくら下がろうとも、橋を架けることを禁止している。
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甲斐から男鹿に来て大庄屋になり、軽い処分で追放された後、佐竹氏にとりいり再び
男鹿に戻ってきた森元有全の正体はなんだったのだろうか。
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船越も、昔は火事が多かったせいだろう、境内には秋葉神社があった。
秋葉神社の祭神は、イザナギとイザナミの間に生まれた火の神、
火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)である。
イザナミはこの神を産むときに陰部を火傷(やけど)し、それが原因で亡くなる。
本宮は浜松市。
【参考】
菅江真澄遊覧記(5) 菅江真澄。内田武志・宮本常一編訳 平凡社 東洋文庫119
船越誌 磯村朝次郎
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