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男鹿半島幻想:謎の十字路 の続きです。
日本海に津波を起こしたとおもわれる地震。多いなあー。
犠牲者の数が記録に残っていたりするけれど、情報不足の当時を考えると
被害者はかなりいたように、私は推測している。
●701年5月8日 大宝地震 (たいほうじしん) 震源:近畿地方北部 M7.0
●850年11月23日 出羽地震(でわじしん) 震源:山形県酒田市沖 M7.0
●863年7月6日 越中・越後地震(えっちゅう・えちごじしん) 新潟県沖 M7.0
●1026年6月10日 万寿地震(まんじゅじしん) 震源;島根県沖 M7.5
●1644年10月18日 秋田県、羽後本荘・象潟(きさかた) 震源:秋田県由利本荘市沖 M6.5
●1741年8月29日 寛保津波(かんぽつなみ) 震源:北海道南西沖 M6.9
●1762年10月31日 佐渡沖地震(さどおきじしん) M7.0
●1793年2月8日 青森県鯵ヶ沢地震(あじがさわ) M6.9
●1804年7月10日 象潟地震(きさかたじしん) 震源:山形秋田県境の鳥海山(ちょうかいさん) M7.0
●1810年9月25日 羽後地震(うごじしん) 震源:男鹿半島(おがはんとう) M6.5
●1833年12月7日 庄内沖地震(しょうないおきじしん) 震源:山形県酒田市沖 M7.5
●1939年5月1日 男鹿地震(おがじしん) 震源:男鹿半島 M6.8
●1940年8月2日 北海道西岸積丹半島沖地震(しゃこたんはんとうおきじしん) M7.5
●1964年6月16日 新潟沖地震 M7.5
●1983年5月26日 日本海中部地震 震源:秋田県能代沖(のしろおき) M7.7
●1993年7月12日 北海道南西沖地震 震源:北海道奥尻島沖(おくしりとうおき) M7.8
●2007年7月16日 新潟県中越沖地震(にいがたけんちゅうえつおきじしん) M6.8
●2024年1月1日 能登半島地震(のとはんとうじしん) 震源:能登半島 M7.7
津波の年表をみているうちに、
菅江真澄(すがえますみ)の「男鹿の鈴風」の
「むかし中里といって土堤に5、6軒の家があったが、ある年、鮫網(さめあみ)の漁に
でて、海が荒れ、舟がくつがえって死亡し、村もほろんで畑となった。」が浮かんできた。
鮫を獲る網など男鹿では聞いたことがないから、鮫は「小魚」という意味で、
鮫網は沿岸に設置した建て網(たてあみ)のことだろう。
「海が荒れ」は津波が打ち寄せたに違いない。
津波だけではなく、海面下の地殻も隆起し、貝塚にみえる大地も
つくったと幻想することもできる。
「謎の十字路」を書いていて、星辻神社がなぜ山の中に移動したのだろうと、
なんとなく不思議に思っていた。
落雷で焼失したためではなく、社殿・宝物が津波にさらわれたので遷宮したとすれば
理解しやすい。
参考
男鹿の旅・道・宿-鹿の細道 磯村朝次郎 編著
菅江真澄遊覧記5 菅江真澄 内田武志・宮本常一 編訳
秋田県神社庁に載っている星辻神社由緒
延暦年中、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)勅命を奉じ賊徒征討の際、
男鹿に至り、戦勝祈願のため、湯本村に北辰神社(維新後星辻神社と改称)を
勧請建立された。
その社殿は壮麗にして、神威尊厳霊妙不思議は当時世人の普く知るところであった。
その後文禄年間に至り、社殿は雷火のため焼滅、
田村将軍奉納の兵器数多くの宝物もまた焼失す。
慶安4年再建。
享保3年再度火災に逢い焼亡、この時秋田城之介実季奉納の来光定の
宝刀は失ったが、御神体は恙なく守られて来た。
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この由緒は、1810年に菅江真澄が、すでに湯本に移っていた星辻神社で聞いた話が
元になっている。(この後、真澄は男鹿震源の大地震に遭遇する。)
大同年代に坂上田村麻呂を祀(まつ)った由緒をもつ神社はかなり多く、
ひとつの模式なのだろう。残りの多くは天照大神(あまてらすおおみかみ)を多分明治時代に
祀っている。