Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

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マルセル・ジュノー博士記念碑

2008年10月16日 | 広島のオススメ!

広島平和記念公園のはずれ、平和記念資料館東館前の、平和大橋を渡ってすぐの、あまり人気のない緑の中に、小さな記念碑がある。

 

十字の形をした黒い石には「マルセル・ジュノー博士」と刻まれている。

スイス人医師である。

・・一体、どれだけの人が、この記念碑の存在を知っているだろうか?

そして、どれだけの人が「マルセル・ジュノー」がどういう人か知っているだろうか?

 

おそらく、広島の人間でも、それほど知る人はいないのではなかろうか。

記念碑にはこうある。

「1945年8月9日 赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日 広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請 9月8日 調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街に入り惨禍の実状を踏査 自らも被爆市民の治療にあたる 博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え 永く記念してこれを建てる」

当時、ジュネーブから派遣される博士たちに、日本政府が許可した入国ルートはカイロ~テヘラン~モスクワを経て、シベリア鉄道で満州に入り、新京から飛行機で東京へ至るというもの。

そこで博士は満州を経由する機会を活かし、2年以上消息不明の連合軍の英雄・ウェリントン中将とパーシヴァル中将の居場所をつきとめ、安否を確認しようと決意する。

敗戦後の日本のために、連合国に対して使える交渉の切り札とするためである。

 

戦況の差し迫った戦時下の満州で、博士は日本政府および軍部と粘り強い交渉を重ね、8月6日、ついに西安収容所の視察を実現させる。

奇しくも、広島に原爆が投下された日のことである。

 

戦後、博士がGHQを説得し、広島に15トンもの医薬品をもたらすことが出来たのは、満州での両将発見の功績によるところが大きいことは言うまでもない。

 

さらに広島だけでなく、エチオピア、スペイン、ポーランド、ドイツでも自分の命さえ顧みず、戦争被害者を治療したり、捕虜とその家族との手紙のやり取りを自らの手で行った。

 

満州で日本がどんなことをしてきたか、博士は見ている。

・・にもかかわらず、日本、広島の惨状をきき、献身的に奉仕する博士の生き方は、人種や国境、宗教を越えた真の愛のあり方を我々に教えてくれる。

 

・・かく言う自分自身、広島に来るまでマルセル・ジュノーという名前すら聞いたコトもなかったし、その存在を知るコトになったのは、広島に来て以来お世話になっているお隣の熱帯魚屋さんの社長がたずさわっているNPO法人の活動を通してである。

先日の「ジュノー音楽祭」は、博士の名からとったもので、博士の生涯を描いたアニメーション映画『ジュノー』製作のためのチャリティー・コンサートだったというワケ。

名もなき偉大な先人たちの歩みがあって、今の我々があるというコトを決して忘れてはならない・・。

 


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