昨日のA新聞の国際面に
「故 沢田教一さんが撮ったベトナム」と言う記事があった。
沢田さんは1965年、ベトナム戦争のときUPI通信の記者として
サイゴンに赴任して川を渡る母子の姿を撮った
「安全への逃避」 でピュリツァー賞を受賞した。
その後も、戦場取材を重ねたが、1970年カンボジアで何者かに狙撃され
34才でなくなった。
ベトナム戦争の頃、私は中~高校生だった。
フォークソングやヒッピーなどと言う言葉も生まれた。
昨日の新聞に載っていた「安全への逃避」に写っている左端の人は
私とほぼ同じくらいの人だ。
あの頃の雑誌や新聞で、べトコンと言われたゲリラと米軍の残酷な戦闘場面の
写真を見たりしているので、この人の苦労が少しだが想像できる。
あれから約40年経っている。
最近は旅行社のツアーにベトナムがよく出ている。
物価が安くて、食べ物も美味しいとか‥。
でも、あの頃の事を新聞雑誌で見聞きしている私は、ちょっとと思う。
昨日の記事の中で、賞を受賞した翌年、沢田さんは、この母子を探し出し
礼がしたかったといって、「生活に困っていないか」と聞き、現金や食料を
おいていった。このうちの居間にはヘルメット沢田さんの写真が姿の
大事に飾ってあると書いてある。
あの時、写真に写っていたお母さんはなくなり、私と同世代のアインさん
リエンさん、そして2才でお母さんに抱かれて写っているホエさんが、
その後として写真に写って掲載されている。
旅行番組の食べ歩きなどで放送され、近代化されたように見えるベトナムだが
今も、農村では水道もなく、靴をはいた子供も見当たらないとある。
写真の背景にある田畑は豊かに実っているようで、40年の経過を感じさせる
が、早く人々の生活もそうなって欲しい。
「故 沢田教一さんが撮ったベトナム」と言う記事があった。
沢田さんは1965年、ベトナム戦争のときUPI通信の記者として
サイゴンに赴任して川を渡る母子の姿を撮った
「安全への逃避」 でピュリツァー賞を受賞した。
その後も、戦場取材を重ねたが、1970年カンボジアで何者かに狙撃され
34才でなくなった。
ベトナム戦争の頃、私は中~高校生だった。
フォークソングやヒッピーなどと言う言葉も生まれた。
昨日の新聞に載っていた「安全への逃避」に写っている左端の人は
私とほぼ同じくらいの人だ。
あの頃の雑誌や新聞で、べトコンと言われたゲリラと米軍の残酷な戦闘場面の
写真を見たりしているので、この人の苦労が少しだが想像できる。
あれから約40年経っている。
最近は旅行社のツアーにベトナムがよく出ている。
物価が安くて、食べ物も美味しいとか‥。
でも、あの頃の事を新聞雑誌で見聞きしている私は、ちょっとと思う。
昨日の記事の中で、賞を受賞した翌年、沢田さんは、この母子を探し出し
礼がしたかったといって、「生活に困っていないか」と聞き、現金や食料を
おいていった。このうちの居間にはヘルメット沢田さんの写真が姿の
大事に飾ってあると書いてある。
あの時、写真に写っていたお母さんはなくなり、私と同世代のアインさん
リエンさん、そして2才でお母さんに抱かれて写っているホエさんが、
その後として写真に写って掲載されている。
旅行番組の食べ歩きなどで放送され、近代化されたように見えるベトナムだが
今も、農村では水道もなく、靴をはいた子供も見当たらないとある。
写真の背景にある田畑は豊かに実っているようで、40年の経過を感じさせる
が、早く人々の生活もそうなって欲しい。
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