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福原彰美の真価が眩しく光ったシューマン『ピアノ四重奏曲』――ハイフェッツ門下の巨匠たちとの共演で――

2016年10月11日 15時27分50秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 

 

 一昨日、10月9日、連休中の日曜日に横浜・山手ゲーテ座ホールで行われた「第2回・樅楓舎コンサートシリーズ」を聴いた。ピアニストの福原彰美が参加するということで誘われてのもので、演奏者はヴァイオリンがピエール・アモイヤル、ヴィオラがポール・ローゼンタール、チェロがナサニエル・ローゼンという錚々たる顔ぶれに、若い福原が加わってのシューマンの傑作『ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47』がメインのプログラム。これに先立って、ナサニエル・ローゼンがバッハ『無伴奏チェロ組曲 第3番』を、ポール・ローゼンタールがバッハ『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』から「シャコンヌ」と、ヘンデル(ハルヴォルセン編)『パッサカリア』を披露するというコンサートである。

 ご存知の方もあるかと思うが、アモイヤル、ローゼンタール、ローゼンの三人はいずれも南カリフォルニア大学で数年間、大ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツに学んだということで、言わば同門の同窓会のようなくつろいだ雰囲気のなかで行われたコンサートに、孫娘が呼ばれて一緒に演奏するといった趣きがあった、と書くと誤解されてしまうだろうか? 久しぶりに、インティメートな暖かさが漂う幸福な音楽を味わう時間が、ゆったりと流れていった。

 しかし、誤解は解かねばならない。シューマンの四重奏曲は、すばらしい演奏だったが、何よりも私が驚嘆したのは、福原のピアノが、ともすれば四人がそれぞれの思いで熱っぽく語り出してしまうこの曲を、第1楽章冒頭から、しっかりとまとめ上げていたことだ。この曲ではピアノがことさらにペースメーカーであることは、古くはリヒテル盤やグールド盤でも証明されているが、アモイヤルと目を合わせて最初の一音を発する決然とした福原の表情が、すべてを物語っていた。数年前、福原からのメールでサンフランシスコ交響楽団の「室内楽シリーズ」にソリストとして参加したことを知った際に、現地の新聞のコンサート評が「小柄で可憐な女性としか見えなかったフクハラが、音楽が開始されると、大の男たちを自分のペースに引き付けてしまった」というような表現で好評価を与えていたと記憶しているが、そのことを思い出しながら、私は、この夜の類まれな、といってよい名演に酔いしれていた。共演者が優れた演奏を繰り広げるときの、福原の集中度、音楽への没入の深さには、並外れたものを感じる。室内楽奏者としての福原の資質、なかなかのものだと改めて思った。鳴り止まない拍手の末、アンコールで再度「四重奏曲」の第3楽章「アンダンテ・カンタービレ」が演奏されたが、思わず涙腺が緩んでしまうのを、私は禁じえなかった。

 

          *

 

 さて、ここまで書いて、私は、数ヶ月前に書きかけたままで放置してしまった文章を引きずり出さなければならない。じつは、今年の5月に行われた福原のリサイタルについての「感想」をブログにUPすると約束したまま、果たせないでいたのだ。その書きかけで放置した文章とは、下記のものである。

 

          *

 

先日、5月25日に「福原彰美ピアノリサイタル 2016」を聴きに行った。東京墨田区の「すみだトリフォニー小ホール」、15歳で単身渡米しサンフランシスコ音楽大学で研鑽を積んだ後、ジュリアード音楽院に進み、さらに思うところあって再度サンフランシスコに居を戻し、ニューヨークとサンフランシスコの双方を拠点にしていた福原が、ほぼ年一回、帰国して行っていた自主リサイタルである。

今回のリサイタルに際して福原が付けたタイトルが「ピアノに込めた想い~たくさんのありがとう」だと聞いて、少々の違和感を覚えたのは私だけだろうか? あたかも、引退を決意したピアニストのファイナル・リサイタルのようではないか? だが、じつはそうではない。これは、福原の新たな決意の表明だったようだ。思えば15歳で単身渡米する直前のリサイタルの記録である福原の最初のソロアルバムCDから、もう15年の歳月が流れている。福原は今、折り返し地点に立っているのだ。仄聞するところによれば、これからしばらくは日本での活動にウエイトを高めることになるようで、日本でのマネージメント事務所を決めたのも昨年のことだった。

福原自身も認めていることのようだが、いくつかの偶然が重なり合ってチェロのクリスティーナ・ワレフスカとの共演が実現してからの福原の音楽は、じわじわと変貌していった。私は、彼女のピアノに注目したのがワレフスカとの2010年の共演からだが、その時の彼女の、ぴったりとチェロに随いていくピアノのみずみずしい響きが、豊かで幅のある音楽を獲得していく過程を、ずっと追ってきたつもりだ。――

 

          *

 

 ――この先が書けなくなってしまい、放置してしまったものだ。

 何度か書いてきたことだが、私は、演奏家について書くということを対外的にしてきている以上、それぞれの演奏家やその周辺の人との個人的な接触を殊更に避けることを原則としてきた。いろいろお声を掛けられても、演奏後に楽屋を訪ねたりもしないで帰ってしまう失礼を多くの方にしているが、それを破ったのはギターの山下和仁と、この福原彰美だけだと言っていい。父親が舞踊家だった私が、子供のころから、舞台袖や楽屋の持っている独特の緊張感や孤独感に過敏すぎるのかも知れないが、個人的なお付き合いが筆鋒の自由さを失ってしまうことへの畏れもあると思う。

 じつは、このときも、数年前に福原を陰で支え続けているお母上が、ワレフスカとの共演を収めたCDを聴きながら「あの子が、こんなふうにピアノを弾くようになったなんて」と洩らされていたことを、ふと思い出して、思うところがあったからだ。

 さて、今回のシューマン「四重奏曲」に誘われたときには、私は福原に、以下のメールを送っている。

 

このあいだのリサイタルのこと、

何か書こうと思いながら、果たせませんでした。

ごめんなさい。

以前から気になっていた、あることが、

どうしても私のなかで解決つかず、

書きあぐねてしまいました。

じつは、最近の貴方のピアノから、

辺りのかすかな気配や、

ふと聞こえてくる小さな音の色合いの変化とでもいった、

あなただけが持ちえた美しいものが陰を潜めて、

堂々とした、恰幅のいい音楽に向かっているように感じていることを、

手放しでよろこべないでいるのです。

ですから、今度の、

室内楽でのあなたの演奏がたのしみなのです。

聴き合うこと、奏で合うこと、

その一期一会のなかで、あなたの音楽の感性が、

自在に響くことを期待しています。

音楽は、孤独なものではないはずです。

聴き合い、響き合ってこそ、

高く飛翔していくのだと思っていますし、

その相手は、高く、遠く、はるか彼方にあってこそ、

美しい時を生むのだと思っています。

抽象的な物言いで、申し訳ありません。

 

           *

 

 ことほど左様に、私は、個人的な付き合いに踏み込んでしまうと、「音楽評論」が停止してしまうのだ。とは言え、こんなことを公けにしてしまうというのも、何やら――である。願わくは、ご笑覧いただきたい。

 ただ、私が最近感じている「疑問」とは、おそらく、このところの福原のソリストとしての立ち位置が、どこかひとり合点というか、誰にも相談しないで進めてしまう、というか、何かしらの不自由さに入り込んでしまったように感じているということだと思っている。福原が最近、もうひとつ、私に言ってきたことに、何人かの恩師のひとり(そして、とても大切にしていた恩師)故・松岡三恵氏の演奏を収めたCDが、関係者の尽力でやっと制作されたのだが、それを聴いていていろいろ思うことがあったということだった。ジュリアードでの指導法に疑問を感じていたようだったのが一昨年あたりだったし、だからこそのサンフランシスコへの復学だったのだろうし、福原は、改めて自身の軸線を立て直そうとしているのかも知れない。

 ただ、間違いなく私が確信していることは、福原彰美というピアニストは、いよいよ、大きな音楽を掴みかけている、ということである。またしばらくは、目が離せない。

 

 

 

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クラリネットの名曲・名演盤で、ロマン派音楽の誕生過程をたどると…

2015年09月01日 11時18分23秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 少し前のことです。クラシック音楽好きのC…君が「ロマン派の始まりは何でしょう」といったような大命題を問いかけてきました。そんな一生かかっても結論の出ないことを、よく簡単に尋ねるなァと思いながらも、私なりに様々と考える機会をもらったのは、C…君のおかげです。以下は、その答えへの試みのひとつとして、お読みください。忙しく働いているC…君にも便利なコンパクトな2時間半(75分×2)で聴き終えられる「CDコンサート」風に仕立ててあるのは、C…君のためのチョイスをそのまま、以前から頼まれているある愛好会のCD鑑賞会に転用して書き起こした解説文だからです。使い回しで申し訳ありませんが、つい最近のオリジナルです。読み返してみたら自分ながら割とおもしろい仕上がりと思ったものですから、ここに掲載します。ご感想なり、ご叱責なりいただければ幸いです。

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《クラリネットで辿るロマン派音楽の誕生》
 ロマン派の黎明期は、さまざまの楽器が、その性能を急速に向上させた時代でもありました。例えばモーツァルトは、最初は大嫌いだったクラリネットのための傑作を晩年に残しましたが、それは、楽器の性能の向上と、それを使いこなせる名手に出会ったことがきっかけでした。このクラリネットのふくよかで色合い豊かな音色は、瞬く間にオーケストラの響きの重要な役割を占めるに至りました。音楽に「色香」が与えられたのがロマン派の時代だとすれば、オーケストラの響きに一番色香を加えることに寄与した楽器が「クラリネット」ではないでしょうか。
 モーツァルトがクラリネットの魅力に惹かれたのは晩年のことでしたが、モーツァルトの晩年の音楽の、あの何とも形容しがたい味わいのある響きこそ、ロマン派誕生の「気配」とでもいうものでしょう。本日は、クラリネットに焦点を当てて、モーツァルトからブラームスまでのクラリネット音楽の魅力をたどってみましょう。演奏家もすべて異なるように構成しました。お楽しみください。

■ウェーバー:「クラリネットのための小協奏曲 変ホ長調 op. 26」
ザビーネ・マイヤー(cl)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団                   (1985年録音/英EMI盤)
ウェーバーは、シュポアと並んで、ロマン派初期にたくさんのクラリネット曲を作りました。クラリネット協奏曲第1番、第2番という傑作があるのですが、本日は時間の関係で「小協奏曲(コンチェルトシュトゥック/コンチェルティーノ)」をお聴きください。バロック音楽とはまるで趣きの異なる、甘く優しい音楽が至福の世界を広げます。クラリネットはドイツ・オーストリア系の美音の奏者ザビーネ・マイヤー。伴奏のオーケストラが滋味あふれる響きで聴かせるドレスデン・シュターツカペレという絶妙の組み合わせです

■シュポア:「クラリネット協奏曲 第1番 ハ短調 op. 26」
ジルヴァーズ・ド・ペイエ(cl)コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団
(1961年録音/英DECCA盤)
シュポアはクラリネット協奏曲だけでも第6番まで書いています。きょうお聴きいただく第1番は、中でも、その軽やかで柔和な曲想が魅力の傑作です。ド・ペイエは60年代に活躍したイギリス系の名手。その気品にあふれたクラリネットをお聴きください。

■モーツァルト:「クラリネット五重奏曲 イ長調 kv. 581」
エドゥアルト・ブルンナー(cl)ハーゲン弦楽四重奏団
(1987年録音/独DG盤)
モーツァルト晩年の傑作です。この曲が、これほど夢見るように、そして揺れ動く心を映す鏡のように響く演奏はない、と思ったのが、このブルンナー+ハーゲンSQ盤です。もう、完全にロマン派の音楽の熱っぽさが響きます。ブルンナーは南ドイツの州都ミュンヘンにある名門バイエルン放送交響楽団の主席奏者を長く務めていました。ハーゲンSQは、そのインティメート(=親密)な演奏スタイルが絶大な支持を得ているグループです。

■メンデルスゾーン:「クラリネット・ソナタ 変ホ長調」
エンマ・ジョンソン(cl) ジョン・レネハン(pf)
(2012年録音/英ニンバス盤)
若き日のメンデルスゾーンが書いていたと言われているクラリネット・ソナタをお聴きください。演奏は、80年代に17歳でデビューしたイギリスの天才少女エンマ・ジョンソンの成熟ぶりを伝える最近のCD。古典的な形式感からはみだしてくる抒情精神が、静かに、美しく広がります。ジョンソンのピアニッシモは消え入りそうに小さく鳴り、ピアノがそれを大事に包み込みます。このやりとりに耳を傾けるのは、ロマン派音楽の醍醐味です。

■ウェーバー:「クラリネット五重奏曲 変ロ長調 op. 34」
リチャード・ホスフォード(cl)ゴーディエ・アンサンブル
(2005年録音/英ハイぺリオン盤)
ウェーバーの「クラリネット五重奏曲」は、モーツァルト、ブラームスと並び「クラリネット五重奏曲」の三大傑作のひとつと讃えられている名曲です。今日は、だれが主役でもなく、全員でこの名曲を奏でている、といった趣きの演奏スタイルで聴きましょう。クラリネットならではの音色を最大限に生かした第3楽章は、特に聴き物です。クラリネット奏者の名前を掲げてありますが、じつは、このCDの表紙には「ゴーディエ・アンサンブル」の表記しかなく、中の解説書に、ひとりひとりの名前が記載されているだけなのです。このアンサンブルは、ヨーロッパ室内管弦楽団とイギリス室内管弦楽団という、いずれもイギリスを代表する室内管弦楽団で中心的に活躍しているメンバーが集って室内楽を演奏する目的で1988年に結成されました。ひとりひとりの技量が高く、それでいて、そのインティメートな味わいで高く評価されているグループです。

■シューマン:「3つのロマンス op. 94」第1曲
ポール・メイエ(cl) エリック・ル・サージュ(pf)
(1993年録音/日デノン盤)
メンデルスゾーンの音楽的な盟友だったシューマンは、古典的な音楽の造形を不定形で不安定なもの、いびつなものへと変貌させていった最初の奇人だと、私は思っています。そのシューマンも、クラリネットが奏でる不思議な音楽を、いくつも書いています。きょうは時間の都合で、この曲だけを聴いていただきますが、これだけでも、充分にシューマンの独自の世界を感じていただけるでしょう。演奏は、1990年代に数々の個性的アルバムを発表した、ポール・メイエとル・サージュのコンビです。怪しげな旋律にしっかりと芯を与えています。

■ブラームス:「クラリネット五重奏曲 ロ短調 op. 115」
リチャード・ストルツマン(cl)東京カルテット
(1993年/独BMG録音)
三大クラリネット五重奏曲の最後の傑作です。どうかすると、渋すぎて随いて行かれないといった感じで、暗闇に迷い込んでしまったような演奏に出会う曲ですが、私が「クラリネットは、これほどに、ゆらめく音楽を演出する楽器なのだ」と、耳を洗われた思いをした最初の演奏がこれです。東京カルテットは、日本人を中心に1970年代に結成された弦楽四重奏団ですが、初めてヨーロッパ、アメリカでメジャー・レーベルに次々に録音をして数々の受賞にも輝いた四重奏団です。彼らの新鮮なブラームス解釈に、イギリスの名手ストルツマンがピタリと合わせて、ブラームスの音楽から、くっきりとした輪郭と、音楽の深部にある「ゆらぎ」が両立した世界を表出させることに成功しました。この深遠な世界こそが、ロマン派音楽の目指した「心の内にある音楽」です。

 

 

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ドヴォルザークのアメリカ体験と『新世界交響曲』誕生の背景についての一考察 覚書

2015年07月21日 15時08分07秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 

 数年来のクラシック音楽好きの友人C…君が、FMラジオで聞きつけて、ドヴォルザークの「新世界交響曲」作曲の背景には、構想だけで終わったアメリカ・インディアンの物語「ハイアワサ」を素材としたオペラがあって、それを復元したCDがあると言い出して、もう一度しっかり聴いてみたい、と言ってきました。
 もうお解りの方も多いでしょう。2、3年ほど前だったか、ナクソスの「アメリカン・コンポーザー・シリーズ」の1枚だと思いますが、ちょっと奇妙なCDが出ました。「ドヴォルザークのアメリカ」と題されたアルバムのことです。ドヴォルザークの構想していたオペラ「ハイアワサ」のためのスケッチから作成された「メロドラマ」という代物を中心としたもので、かなりでっち上げくさいものではありますが、そこから始まったC…君とのやりとりで、以前から考えていた様々なことを少し整理したので、その一端を以下に掲載しておくことにしました。もちろん「未定稿」、「そう言われてみれば~」みたいな感じで、ドヴォルザークが受けたアメリカ的インスピレーションについて、少し考えてみたことの中間報告です。

 

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 最初C…君からは、「アメリカの風」というタイトルでさまざまなアメリカの作曲家の音楽が聴けるようなプログラムに、との提案があったのですが、20世紀の西洋音楽のなかでの「アメリカ」の位置というか意味合いというものは、簡単に語れるものではないと思っていますから、それは無理でした。「アメリカ的」なるものは、モーツァルト以降に熟成した19世紀の「ドイツロマン派」の温床をひっくり返してしまったといっていいほどの、大きなものなのだと、私は仮説しているのです。そして、それに続く21世紀は、アメリカが中心になって起きた「ポスト・ロマン」の動きが、アジアと中東を中心に、「ネオ・ロマン」へと回帰し始める、という仮説です。
 それと、もうひとつ大事なことは、ドヴォルザークがアメリカに行ったころは、アメリカに渡ったチェコ移民の大きな居留地が出来ていたということ。そして、現在のアメリカの、夏の学生キャンプとか、フォークダンスのナンバーなどにチェコ移民の影響が残っている、ということです。YMCAの歌だった「おお牧場はみどり」は、今や日本人のほうがよく知っていますが、あれは、チェコ民謡が原曲です。そのことは『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメデイア刊)で、数年前に少し触れました。カントリー&ウエスタンのメロディも、そう見ていくと、「新世界交響曲」の第2楽章を思い出させます。――というように、どこまでも連想は続きます。

 

 「新世界交響曲」は、当時、ヨーロッパにとって〈新大陸〉として話題となっていたアメリカに新しく設立された音楽院の院長として赴任したドヴォルザークが、そのアメリカから様々な刺激を受けて生んだ傑作といわれています。けれども、その実体は、「黒人霊歌」のメロディが引用されていると、しばしば指摘されているような単純な話ではなく、もっと複雑なものがある、と言われています。そのひとつ、当時、ドヴォルザークが構想を進めていたアメリカ・インディアンの英雄譚を元にしたオペラが、新世界交響曲の源流だとする説を「音」にして聞かせるCDが数年前に発売され、話題になりました。
 それが、このCD(写真)です。

 

 
 

 「構成:ヨーゼフ・ホロヴィッツ&ミヒャエル・ベッカーマン/音楽:ドヴォルザーク」とクレジットされ、『メロドラマ《ハイアワサ》』(ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー詩)というものです。演奏者はアンヘル・ジル=オルドニエ編曲・指揮 ポスト・クラシカル・アンサンブルで、彼が編曲者でもあり、ケヴィン・ディアスというバスバリトン歌手がナレーターです。
 全体が6トラックに分かれていて、それぞれ「プロローグ」「ハイアワサの求愛」「ハイアワサの結婚式の宴」「ミンネハハの死」「パウ=プク=キーウィスの狩り」「エピローグ(ハイアワサの出発)」と題されています。
 未完のまま放置されてしまったオペラ『ハイアワサ』のために残されたメモは、旋律のスケッチに過ぎないようですが、愛読していたロングフェローの叙事詩「ハイアワサの歌」のチェコ語訳の断章が書き添えてあるので、ある程度の場面設定ができるようです。ただし、それが劇音楽なのか、歌のメロディなのか、どの楽器で演奏されるのかなど、まったくわからないので、「新世界交響曲」を参考にして指揮のジル=オルドニエが作り上げた編曲に、それぞれ該当すると思われる詩の朗読を重ね合わせて構成したと主張しているのが、この「メロドラマ」です。
 これを聴くと、「新世界交響曲」の所々に不可思議に現われる歌謡的な旋律の謎の一端(つまり、純粋にソナタ形式的な展開ではなく不意に曲想が変わったりする、ある種の風変わりさのことを言っています)が解けるようには思いますが、さて?
 そして、このCDは、メロドラマ「ハイアワサ」に続けて、ウイリアム・アームズ・フィッシャーの『ゴーイン・ホーム』が収録されています。「新世界交響曲第2楽章」によると注記され、「W・アームズ・フィッシャーの作詩と書かれています。歌っているのが先のナレーターです。もちろんオーケストラ伴奏曲です――というより、第2楽章を歌っている、という不思議なバージョンです。
 この「新世界交響曲」第2楽章の旋律に歌詞を付けたフィッシャーという人物は、ドヴォルザークのアメリカでの音楽院の同僚です。作曲者の了解をもらって作られた作品だそうですが、アメリカでは最初、この歌のほうが交響曲よりも有名になりました。日本でも堀内敬三の名訳「家路」で大正時代から愛唱され、この歌が交響曲の原曲だと勘違いしている人も多いのですが、作られた順序は逆です。
 ただ、この第2楽章の主題旋律は、この時期、ドヴォルザーク自身が院長をしていた音楽院の生徒だった黒人青年が歌う黒人霊歌に熱心に耳を傾け、書き留めていたものと深い関わりがあると伝えられています。この時、ドヴォルザークは、そうしたヨーロッパの伝統的な構造から大きくかけ離れた構造を持つメロディにこそ、未来の音楽の可能性が潜んでいると気づいたはずです。ドヴォルザークが院長を務めていたナショナル音楽院は、当時から人種差別のない革新的な思想で運営されていて、この後、20世紀の音楽シーンの様々な影響(コープランド、ガーシュイン、デュ-ク・エリントン)の源流ともなりますが、それも、この時期にドヴォルザークが関心を示した「アメリカの土地に眠る音楽」を掘り起こすことから始まったことと思われます。
 じつはメロドラマ「ハイアワサ」には、明確に新世界交響曲と同じ旋律のほかに、ドヴォルザークの『ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ』作品100の第2楽章の旋律が「ハイアワサの求愛」に現われます。このあたり、ヴァイオリンの小品として後に有名になったドヴォルザークのピアノ曲『ユモレスク 作品101-7』を思い出させます。(そう言えば、ガーシュインが6歳の時に音楽の魅力に取り憑かれた作品が、この「ユモレスク」だったというのは有名なエピソードですね。)
 「新世界交響曲」の終楽章の構想は、なかなかまとまりませんでした。そこで、ドヴォルザークは、当時かなり大きな規模になっていたアメリカに於ける「チェコ人の入植地」に出掛けます。そののどかな草原地域での母国語を話す人々との触れ合いから刺激を受け、一気に終楽章が完成したと伝えられています。アメリカの大自然の広がりは祖国の風景を思い出させ、それに黒人霊歌の旋律、リズムが、チェコの民族舞曲と重なり合って行ったのでしょう。

  こうして、ブラームスの強い影響を受けていたドヴォルザークの作風が、大きく変わり始めました。ドイツの伝統的な音楽から大きく踏み出して、真にドヴォルザークらしい作品を次々に書き上げた晩年の充実した作品群として、作品95の「新世界交響曲」に「弦楽四重奏曲《アメリカ》作品96」「弦楽五重奏曲 作品97」と続くわけですが、この流れの最後にあるのが「チェロ協奏曲 作品104」です。アメリカ在任中にほとんど完成し、任期を終えて祖国に戻ってから完成した作品ですが、この傑作もまた、アイルランド出身のアメリカの作曲家ヴィクター・ハーバートの「チェロ協奏曲」が刺激となっているということが、最近、立証されています。ヴィクター・ハーバートもアメリカでのドヴォルザークの同僚ですが、院長として在任していたドヴォルザークを、自身が独奏する自作の「チェロ協奏曲」の初演に招待し、チェロ協奏曲の書法についてドヴォルザークに大きな刺激やヒントを与えたとされている人物です。そして、ドヴォルザークは、この「チェロ協奏曲」の完成後は、「交響曲」「ソナタ」「協奏曲」「弦楽四重奏曲」など、古典的な形式を堅固に守る作品をほとんど書かなくなり、祖国の民話に材を採った交響詩やオペラの作曲などに多くの時間を割くようになります。
 ドヴォルザークがアメリカによって目覚めさせられたこととは、何だったのでしょうか? 軽々に断定することはできませんが、ひょっとするとそれは、ヨーロッパの伝統からの開放だったのではないでしょうか? ドヴォルザークがアメリカに渡った時期は、建築様式では「脱ゴシック建築」がトレンドで、「プレーリー・スタイル(=草原様式)」が提唱されていました。それが「時代のアトモスフィア(=気分)」でした。そんなことを重ね合わせて考えてみると、おもしろいかも知れないと思っています。つまり、「新世界交響曲」や「アメリカ四重奏曲」や「チェロ協奏曲」などの傑作群は、「望郷の念」が生んだものではなく、ずっと彼を縛り付けていたドイツ・オーストリアの音楽伝統から解き放たれた心が生んだ作品だということです。そう思ってコープランドやアイヴス、バーバーの作品を聴くと、何かしらの感慨があります。それは、どこまでも広がる草原の輝きのようなものかも知れません。

 

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福原彰美『ピアノリサイタル2015』を聴いて

2015年03月17日 11時27分42秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 

 先週の金曜日、3月13日の夕方、サンフランシスコとニューヨークを中心に活躍しているピアニスト、福原彰美が一年に一度、必ず帰国して行っている自主リサイタルを聴きに行った。すみだトリフォニー小ホールである。曲目は次のような意欲にあふれたもので、福原自身によって『故郷への憧れ――ロマン派時代に響いた遥かなる鐘』と題された。

スカルラッティ:ソナタ K. 9 ニ短調『田園』
         ソナタ K. 27 ロ短調
         ソナタ K. 96 ニ長調『狩』

ブラームス:4つの小品 op. 119
        間奏曲 ロ短調
        間奏曲 ホ短調
        間奏曲 ハ長調
        ラプソディ 変ホ長調

ショパン:マズルカ第15番 ハ長調 op. 24-2
      マズルカ第25番 ロ短調 op. 33-4
      バラード第1番 ト短調 op. 23

 ここまでの3群のプログラムで、いったん休憩に入った。
 これを見てお気づきの方も多いと思うが、小品4曲があたかも小さな交響曲宇宙のように組み合わされたブラームスの作品になぞらえるように、スカルラッティ作品とショパン作品が3曲ずつ福原によって選び取られ組み合わされ、それぞれ、ひとつながりの世界を形成するように仕立てられたプログラム・ビルディングである。各々のグループが、導入曲から終曲に向かって間断なく奏されるのを聴いて、改めて福原が、それぞれの曲に、はっきりとした方向性を与えていることを確信した。特に、スカルラッティはお気に入りのようで、じつによく響く、色彩豊かな音楽が、水を得た魚のように跳ね回る。スカルラッティのソナタを近代ピアノで奏する意味を、はっきりと伝えてくれる数少ないピアニストの仲間入りを福原が果たすのは、もう時間の問題だと思った。おそらく、彼女の中では既に方法が見えているのだろう。

 それに比べるとショパンはどうだろう。ショパンを弾くには覚醒し過ぎていないだろうか? 覚醒しているからには、言葉は悪いが、ショパン世界の、ある種のいい加減さ・だらしなさに代わる世界が確立していなければならない。だから、福原のショパンはまだ、よく弾けているが酔えない。彼女の弾くリストに聴かれる陶酔感との違いが、それだと思う。

 ブラームスの小品は、「とうとう、ブラームス晩年の作品を弾くようになったか」と、ここ数年の福原の成長をずっと聴いてきた私にとって、感慨深いものだった。この4曲を、どのようにして有機的につなげ、融合させ、干渉させ合って、ひとつの世界をつくり上げるかが大きな課題なのだが、それに福原はよく応えていた。内省的な音楽が、ワルツの3拍子に入って突如、視界を広げ、それが終曲へのリズム変化へと導かれて行くのは、福原のピアノが繊細な色合いの変化をも実現しているからだ。この一、二年の福原の変化に一時、音楽の構えが大きくなるにつれて、彼女本来の小さな音での粒立ちの良さと色彩の鮮やかさが後退しているように感じ危惧していたが、それは杞憂に過ぎなかったようだ。スカルラッティでの美点が、ここにも生きている。

 休憩のあと、プログラムは大きく変わり、数年前に福原が日本初演をしたアメリカで活躍する俊英作曲家ライアン・フランシスの『ねじまき鳥プレリュード集』で開始された。この作品の斬新な魅力については、既に、初演の際に別のところで書いたので繰り返さないが、福原の演奏は、彼女が、もうすっかりこの曲を手中に収めていることが伝わってくる佳演だった。彼女のピアノ演奏での、さまざまな色合いが選び取られ、ひとつひとつの音が立っているという美質と、この曲の特徴とが、うまく合致していると思う。次にこの曲を弾くときには、もっと自分に引き付けて感情移入してしまっても、決して、この作品のフォルムは崩れないだろう。

 プログラムの最後に置かれたのが、ラフマニノフ『ピアノソナタ第2番 op. 36』だった。作曲者自身によって短縮された1931年版ではなく、1913年のオリジナル版での演奏である。両版の折衷のようなホロヴィッツ版がしばしば演奏されているが、オリジナル版は、特に第1楽章がかなり長いようだ。執拗な繰り返しの多用がさらに強調されているが、福原の演奏は、その辺りの演奏がすばらしい。繰り返し寄せては返すうねりに、豊かな色彩が与えられ、聴く者を放さない。じつに柔和でカラフルな第一楽章が実現している。これは、この曲の演奏に於いて、極めて特徴的なことだ。曲の冒頭が、叩き付けるように開始されるのが常だが、それが、福原の手にかかると、まったく様相を一変させて、するりと入る。その必然を納得するまでに、さほどの時間はかからなかった。
 ひっそりと穏やかな第二楽章は、雲間の明るさ。そして第三楽章で初めて、福原のたたみ掛けに激しさが加わる。しかし、ここでも福原の演奏は個性的だ。独特の拍節感のあいまいさが、旋律を、小節線をはずしたようなひとつながりのものにして揺れ動く。そして、最後まで、きらきらとした色彩感を保ち続ける。私は、この曲の極めて野太い、ずしりとしたものであったはずの「ロシア的憂愁」が、かくも美しく飛翔するのを、初めて聴いた。私が、福原は他の誰とも代え難い個性を手にしつつある、と確信した瞬間である。

 アンコールに、福原はショパンの前奏曲『雨だれ』を選んだ。その繰り返される音型が、あたかも、ラフマニノフのソナタが奏でた鐘の音型のように響いた。ラフマニノフのソナタを終えた後にはふさわしいショパンだった。
 そして、もう1曲、スカルラッティの囀りで軽やかにリサイタルは閉じられた。
 福原彰美は順調に成長している、と改めて思った一夜だった。

 福原はわずか15歳で日本を離れて単身渡米し、サンフランシスコ音楽大学とジュリアード音楽院で研鑽に励み、今でも一年の大半をアメリカで過ごしているが、そのためだろう、福原のピアニズムの根底に日本人的な特質をあまり感じない。だから、ある種のスクエアな音楽、あるいは折衷的な音楽に傾斜してしまうかも知れないということを、私は一番恐れていた。だから、その福原が独自の世界を育んで大きく成長していることを、今、うれしく思う。少女然としていた福原も、いつの間にか30歳を越した。来年のリサイタルが楽しみである。日本のつまらない音楽マーケットの動向など気にせず、自分の道を歩み続けて欲しいと思っている。


 

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リカルド・オドノポゾフというヴァイオリニストとドイツ・シャルプラッテンに、接点はあるのか? という話

2014年06月17日 10時31分10秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 このところ、ちょっと必要があって我が家にあるシューベルトの器楽曲のコレクションを振り返っていて、以前から気になったまま放置していたことを、ひとつ思い出した。それが、冒頭に掲げた写真のCDである。「Marchenbilder」(aにはウムラウトが付くが、私のパソコン環境では簡単に出せないのでご勘弁)と大書され、これはしばしば「おとぎの絵本」といささか外れた訳題が与えられているシューマンの作品113(「メルヘン風の挿画」とでも訳すか)のタイトルだが、その下に書かれた「ロマンティック室内楽曲集」の通り、そういうコンセプトの2枚組CDアルバムだ。シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスの曲を収めている。この中のシューベルト作品を演奏しているヴァイオリニスト、リカルド・オドノポゾフについて書いた短文で、このアルバムを紹介したことがある。
 それは、もう15年ほども前の『クラシックの聴き方が変わる本』(洋泉社)というムック中の「演奏家たちの歳のとり方」というエッセイの一部分だったが、一昨年刊行した私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア)に再録した時に、慌しく編集作業をしていたため、初出時に字数制限で注記できなかったままのものを、ふたたび、そのままにしてしまっていたことを思い出したのだ。
 以下、その短文の再掲載と、とりあえずの注記、そして、追記である。

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■飛ぶ空がなくなった「能ある鷹」
――リカルド・オドノポゾフ(vn)

●シューベルト:ヴァイオリン・ソナタ イ長調、幻想曲ハ長調/エドゥアルト・ムラツェク(pf)[独ART:0029252ART]a.1972
●ガーシュウィン(ハイフェッツ編曲):《ポーギーとベス》組曲/ハンス・リヒター・ハーザー(pf)[独BAYER-DACAPO:BR200-004CD]1953

 1914年生まれのオドノポゾフは、34年には若くして、クレメンス・クラウスの推薦でウィーン・フィルのコンサート・マスターに就任した。だが、シュナイダーハンとの第1コンサート・マスター争いに破れ、37年にウィーン・フィルを去ってアメリカにわたり、56年まで、ニューヨークを本拠地に活躍した。アメリカは必ずしも、オドノポゾフの音楽傾向が深く理解される環境ではなかったようで、56年から再度ウィーンに戻り、ウィーン音楽アカデミーの教授として後進の指導にあたった。オドノポゾフが、ウィーン・フィルの第1コンサート・マスター争いに破れた背景には、おそらく、ヴァイオリン奏法の上での、当時のウィーンの主流のスタイルとのズレがあったものと思われるが、アメリカにわたった彼は、そこでもまた、文化伝統とのギャップに悩まされたようだ。結局、演奏家として第一線での活躍の機会を逃したまま、全盛期を過ぎてしまったオドノポゾフ。そういう不運な人の美しい歌がシューベルトだ。

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 ここまでが、再録の短文。以下、注記と追記。
 まず、シューベルトの曲名、「ヴァイオリン・ソナタ イ長調」だが、これは、このCDの表記をそのまま和訳したもので、ここで演奏されているのは、最近は「二重奏曲」(デュオ)と表記されている作品である。
 次に、レーベルを「独ART」と書いているが、写真にも写っているように赤いロゴマークは確かにその通りだが、盤面や○P表示などを見ると「edel company」とある。1995年製造のドイツ盤。つまり東西ドイツの統一後の製品だ。そして、その当時から気になっていたのが、この録音の原盤ソースがどこなのか、である。これは、70年代のレコード目録を丹念に見るのを怠けているので、まだわかっていない。ただ、つい最近、たまたま、カップリングされているシューマン「チェロとピアノのための民謡風の5つの小品 op. 102」の演奏者が無記載だったのが気になって、いっしょにカップリングされている「op. 113(おとぎの絵本)」を曲名+演奏者でドイツのアマゾンでチェックして、当たりを付けて意外なところに行き着いた。両曲ともに収録されたエテルナのレーベルのCDが出ていたのだ。演奏時間が一致するから、この演奏者で間違いない。
 それで、一気に連想風に思い出したのが、キングレコードから「ハイパー・リマスタリング」シリーズで7年前に発売された「ドイツ・シャルプラッテン」レーベルの「シューマン室内楽曲集」。ひっぱり出して見てみたら、やはり、作品113、102とも同じ演奏だった。「灯台下暗し」である。演奏家がわからないと思ったまましまい込んでいたCDが、数年前から私の手元にある盤と同一だったというわけだ。どちらの曲もピアノがアマデウス・ウェーバージンケ、チェロがユルンヤーコブ・ティム、ヴィオラがディトマール・ハルマンという陣容である。
 ということは、1995年の「ART」というロゴで発売されたオドノポゾフの演奏も、東側の録音だった可能性が出てきた、というわけである。たしか、ヨーロッパに戻ったオドノポゾフは、最晩年に因縁のウイーン・フィルから名誉団員の称号を受けたはずだが、1971~72年あたりに、東側での録音を残す機会があったということなのか。またひとつ、調べなくてはならないことが増えてしまった。このヴァイオリニストについては、以前にも、ウィーンの演奏スタイルの変遷史の中にきちんと置いて考えてみたい演奏家のひとりだと、どこかに書いたままにしていたことまで思い出してしまった。クーレンカンプやシュナイダーハンよりも、その、時代とのギャップの在り様で、興味深いことが出て来そうな予感がするのだが…。
 オドノポゾフに、話題を戻そう。オドノポゾフの「デュオ」は、例えば、グリュミオーとヴェイロン=ラクロワとの堂々たる演奏に較べて小ぢんまりした世界なのだが、「かつて」の、軽やかな音楽の、心地よい幸福が残された世界が味わえる。それは、このドイツ・シャルプラッテン盤のいわゆるライプチッヒゆかりの演奏家で固められた「シューマン室内楽曲集」についても言えることで、一種のタイム・カプセルを開いたかのごとき体験が得られる演奏と言っていいだろう。じつに居心地のよい音楽が展開されている。
 ちなみに、この「edel company」あるいは「ART」というレーベル、キングのハイパー・リマスタリングに対抗しうる高音質で、その、芯のしっかりとした温かな音が魅力だ。おそらく、かなりいい状態のマスターを使用している。決して怪しげなレーベルではない。――私が、このCDの価値を知らないだけなのかも知れない。確か、私の記憶では、このCDは、当時、渋谷のHMVに居た板倉重雄氏にオドノポゾフを探していると言った時に、強力に勧められて購入したはずだ。
 懐かしい店のことまで、思い出してしまった。きょうは、このところネット検索ばかりしている自分を、少々反省した。



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小津安二郎の研究者・田中眞澄のこと。ピエール・ドゥ-カンのフォーレ「ヴァイオリン・ソナタ」のこと。

2014年05月30日 16時12分50秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 奇妙な取り合わせの表題だが、本日は、突然蘇ってきた記憶の話である。
 じつは、一昨日のこのブログに書いた東銀座の「東劇」に行ったところから、話は始まる。
 この日、映画の開始よりもだいぶ早くに着いてしまった私は、東劇ビル一階の書店で少々時間つぶしをしようと立ち入った。ここの山下書店は、場所柄から、映画、演劇、歌舞伎などの書が品揃えよく並んでいるので、何かと刺激があるのだ。この日、私はそこで思いがけなくも、懐かしい名前に目が止まった。
 田中眞澄著『小津ありき――知られざる小津安二郎』(清流出版)という書だ。
 小津安二郎について関心のある人で、田中眞澄氏の名を知らない人は居ないだろう。この30年ほどの間に、小津についての研究書を中心に、多くの映画研究、社会、文化への考察で健筆を奮ってきた。
 田中氏の名が懐かしかったのは、じつは、彼が最初に世に問うた書『小津安二郎・全発言一九三三~一九四五』(泰流社)は、私がその版元泰流社の編集長時代に手掛けたものだったからだ。
 田中氏を紹介したのは、あるフリー編集者である。いわば、次々にネタになりそうな話を持ちかけてくる人物である。その彼が、映画好きの奇人がいるんだが、会ってくれないか、と言ってきた。なんでも「小津映画が死ぬほど好きで、片っ端から資料を集めている」と言う。
 根っから、私も資料の虫だから、話が弾むかも知れないと思って時間をつくったのだが、その奇人ぶりに、かなり度肝を抜かれた。別に風貌がそうだったわけではない。その生活ぶり、だ。
 まず彼は、当時神楽坂近くにあった泰流社まで、彼の自宅アパートがどのあたりだったか忘れてしまったが、2時間近くかけて歩いてきたという。電車代がないから、とか、もったいないから、とか、時間だけはあるから、とか、少しはにかんだような笑いを口の端に浮かべ、せかせかと話した口ぶりが思い出される。
 そして、かなりの量の小津安二郎関連の新聞、雑誌の文章を書き写して束ねた紙――。切り抜きでもなければ、コピーでもない。ミミズが這ったような、しかし、その割には読み易くもある文字で几帳面に書かれていた。聞けば、コピー代がたいへんだから、だという。
 この書き写しは信用していいのですね、と私が問うと、もちろん、と、決然とした口調で答える。改行位置はもちろん、誤植と思われるものも「ママ」と脇に書き添えて写しています。テン・マルも文字遣いもそのままです、という。観ると、確かにそのようになっている。私は、彼を信じることにして、彼の持ち込んだもので『小津安二郎・全発言』の企画を立ち上げることにした。
 もちろん、その日に全部持ち込まれたわけではない。その日は一部分である。残りを借りる前に、私の方は、正式に企画を軌道にのせること、仕上げる本のコンセプトの調整や、それにともなう仕上がりの規模などを決めておかねばならず、2、3日後に電話する、と言ったが、その返事で、またびっくりした。
 なんと、電話など持っていない、という。まさに、仙人のような人物であった。
 私は彼の住所を聞き、そこに「連絡されたし」と電報を打つ、という、前代未聞の連絡方法を取り決めた。1980年頃の話である。そして、今度来社してもらうときは急ぐから電車に乗ってきてほしいと言い添えて、ポケットマネーで電車代を渡した。
 田中眞澄氏は、そんな人物だったのである。
 彼とは、ページ数の都合で、「発言集」を戦前篇でとりあえず一冊にし、そのあと、戦後編を刊行する約束だったが、社の事情で延び延びになっている内に私が泰流社を退社してしまったので、約束を果たすことが出来なかった。それが、後に、フィルムアート社から『小津安二郎戦後語録集成』として実を結んだことは、みなさんがご存知のとおりである。社内の「いいとこどり抜粋集で一冊に」という暴論を意地で跳ね返し、私と田中氏で「全発言」だからこそ、見えてくるものがあるのだ、と主張し続けたのも、今となっては懐かしい思い出だし、それが正しい判断だったと思っている。あの書は、章立てもせず、ひたすらに、編年体で小津の発言を追い続けること、活字の組み方を変えずに、すべて同じ組み方で一貫させること、一行の折返しが早く、改行のタイミングも細かい新聞・雑誌記事が多いことに配慮して、あまり一行あたりの字数を食わない2段組にする、というのが、資料の虫であった私の作ったルールだった。(その点が、戦後篇では崩れてしまったのが、私としては残念である。)
 ――そういえば、巻末の索引づくりの過程で、「麦秋」が「は」の項目に入っていたのを「む」の項目に移動させたのは、田中氏の指示だった。彼は当時、「麦秋」は「ばくしゅう」ではなく「むぎあき、むぎのあき」と読むんですよ、と主張していた。これに関しては、その後、根拠を尋ねようと思ったまま、果たせなかった。今でも、不思議に思っていることのひとつである。
 さて、「今でも…」と書いたのは、田中眞澄氏の熱心な読者ならお分かりのことと思うが、じつは、田中氏は、3年前の2011年に、65歳でこの世を去っている。私より2、3年年長だった記憶通りで、未だに生き残っている私は、まもなく65歳である。
 東劇一階の書店で偶然にも見かけた田中氏の新刊書の著者プロフィール、「二〇一一年逝去。享年六十五」の文字は衝撃だった。
 私は、『小津安二郎全発言』を出版することが正式に決定してから数日後に、社にかかってきた、北海道に住む田中氏の姉を名乗る方からの電話を思い出した。
 「弟のやっていることは、ほんとうに本にして、人様に読んでいただける価値のあるものなのでしょうか」というような趣旨だったと記憶している。
 「すばらしい仕事です。これは世に出さなくてはならない仕事です。」
 「そうですか。安心しました。よろしくお願いします。」
 そんな短いやりとりだったと思う。だが、私は、東京に残ったまま、定職にも就かずに生活を続けている弟の将来を心配する優しいお姉様の電話だったと、今でも思っている。
 田中氏の活躍は、こうして始まった。泰流社を退社してしまった私と田中氏との交流は、それきり途絶えてしまったが、田中氏の奇人的な暮らしぶりは、それほどは変わらなかったのではないかと推察している。だが、彼の死後にも、熱心な彼の理解者が、こうして彼が雑誌などに書き綴ったまま放置していた文章を、一冊にまとめようと立ち上がった。それが今度の彼の著書である。「どんなに貧乏でも、ぼくは幸せです」と言っていた彼の微笑みが目に浮かぶ。
 その田中氏と、交流が途絶えたあとで、一度だけ、連絡を取ろうと思ったことがある。
 クラシック名盤について、多くの識者のエッセイを集めたムックを編集していた時期のことだ。映画に関しては、田中氏ほど熱心ではなかった私が、彼に夢中になって話したのが、音楽の話題、名盤についての会話だった。こちらのジャンルは、田中氏のほうが、ぼくはそんなに詳しくないから、と寡黙だったが、一度、目を輝かせて語ったのが、フォーレの『ヴァイオリン・ソナタ』だった。ピエール・ドゥーカンのヴァイオリン、テレーズ・コシュのピアノによる仏エラート録音。日本コロムビアの1000円盤シリーズで出ていた。田中氏が、この曲を聴くには誰がいいですか? というので、すかさずドゥーカンの名を挙げたら、すっかり意気投合した記憶がある。それを彼に執筆してもらおうと思ったのだ。
 結局、連絡先を丁寧に辿る作業を怠って、田中氏への原稿依頼をすることがないままに終わってしまったのだが、田中氏とは、「このピアニストとの絶妙の呼吸は、絶対に他人同士ではない」という確信までも一致したことが懐かしい。当時、情報がなかったので、われわれの邪推だったわけだが、その後、このヴァイオリニストとピアニストが、やがて夫婦になったこと、夫に先立たれた未亡人テレーズ・コシュが、亡き夫の録音をプライベート盤CDで世に出したことなどがわかったのだが、そのことも、田中氏に伝える機会がないまま、彼は旅立った。またひとり、もう一度会っておきたかった人が、逝ってしまった。
 田中眞澄さん、いつか、あちらでお会いしましょう。お話したいことは、たくさんあります。

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a young American composer, Ryan Francis

2014年03月14日 14時14分03秒 | エッセイ(クラシック音楽)
It is blog of Kikuo Takeuchi here.
Kikuo Takeuchi is a Japanese music critic(change of the expression in performing; Japanese culture in pre-war period) and an LP collector.


About 2 years ago I heard a composition by a young American composer, Ryan Francis. The work consisted of 8 preludes written for solo piano, inspired by “The Wind-Up Bird Chronicle” by a distinguished Japanese novelist, Haruki Murakami. It contained imaginative allusions to “The Thieving Magpie,” from Rossini’s opera of the same name; “Bird as Prophet,” from Schumann’s character pieces; and “Birdcatcher,” from Mozart’s opera, " The Magic Flute."Mr. Francis’s impeccable craftsmanship and acute sense of tone impressed me immensely. His music expressed an incredible freedom of structure, yet every note seemed perfectly suited for his musical phrasing and total design.
Within a year later, I heard more of Ryan Francis’s compositions---“Etudes for Piano” and “Tri Cantae” --- both performed by Japanese pianist, Akimi Fukuhara. Those pieces alone convinced me that this young composer had established a unique vision for his ompositional style.
Moreover, Ryan Francis’s music has a huge range of emotions. One can perhaps find a similarity between Francis’ music and the music of Romanticism, where human emotions were the primary factor, the very essence of it. In the modern era, we have become overly self-conscious about expressing raw emotions, while in the 20th century we seem to have departed from Romanticism to the more classical forms of structure and balance. Nonetheless, Ryan Francis has apparently discovered an innovative technique of creating a balance between form and emotion in his compositions. Every note, even those in unison, avoid an impression of ambiguity.
It boldly expands its dynamic range and articulation, yet manages to command the listener's attention with moments of deep silence, as if the musical line connects to the nature of the universe, expanding and constricting at the same time. One can only be excited to anticipate the future works of Ryan Francis, as I believe his music is a precursor to a rebirth of Romanticism, yet reinforced with novel ideas of structure and tonality.
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ライアン・フランシスの作品に注目する

2014年03月14日 13時48分24秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 以下は、先日(3月7日付)のこの場に書いた「福原彰美リサイタル2014」への感想の中で、「ライアン・フランシスの作品については、別の機会に」としたお約束で掲載するものです。
 じつは、以下に掲載する文章は、昨年、あることで必要となったために執筆したライアン・フランシス作品に対する「推奨文」です。ライアン・フランシス氏にも読んでもらおうと、知人を通じて英文にも訳してもらいました。英訳のチェックをしてくれたのは、「ニューヨーク・タイムズ紙」にクラシック音楽関係の寄稿をしている方なので、私のややこしい日本語表現を、直訳の英文と日本語のニュアンスを伝えて、的確な英文にしてくれたものと思っています。このあと、その英訳文も、別項にして単独でupします。
 日本ではまだ、その名を知る人は少ないですが、ライアン・フランシスは、注目すべき若手作曲家の一人だと思っています。先日演奏された作品は、日本初演曲ではありましたが、ライアン・フランシスとしては旧作に属するもの。現代の作曲家としては比較的稀な、ロマン的な音楽の動きが、注意深く織り込まれた作品でしたが、以下に触れた作品の印象を凌駕するものではないように思いました。


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 ライアン・フランシスの作品を初めて耳にしたのは、2011年1月にすみだトリフォニー小ホールで行われた「福原彰美ピアノ・リサイタル」だった。世界的に著名な日本の作家、村上春樹の小説『ねじ巻き鳥クロニクル』にインスパイアされたという、8曲から成る『前奏曲集』である。ロッシーニ「どろぼうかささぎ序曲」や、シューマン「予言の鳥」、モーツァルト「魔笛」の「鳥刺しの歌」などの旋律が変形されて挿入された、じつに手の込んだピアノ独奏曲だった。その巧みな音づかいで突き抜けていく斬新な響きが印象に残った。自在に飛び跳ねる音楽の伸びやかさと、それでいて絞り込まれ、選び抜かれた音の組み立てに、強く魅かれた。
 その後、一年ほどの間に、ライアン・フランシスの新作を続けて聴く機会に恵まれた。いずれもピアノ曲で、『エチュード』、『トライカンテ』という作品(すべて福原彰美の独奏)だが、それはライアン・フランシスという若い作曲家が、既に自身の創作の語法に確信的な方向性を掴んでいることを感じさせるものだった。
 ライアン・フランシスの音楽は、感情の抑揚の幅がとても大きい。人間の情念の動きに全幅の信頼を寄せていたロマン派の時代と、それは似ている。だが、過剰な自意識の発露に恥じらいの感覚を持ち込んだ近代に至って、20世紀という抑制と均衡の古典的フォルムに逃げ込んだ音楽の時代を経た今日にあって、ライアン・フランシスの世界では、フォルムとエモーションとの新たな関係が築かれている。彼の音楽は、同時に響きあうすべての音が、それぞれ裸形で置かれ、混濁が注意深く取り払われている。彼の音楽は、大胆に拡散しながらも、細心の注意深さで、沈黙の深さを計測し続けている。それは、あたかも、拡散と収縮を同時に行っている宇宙の神秘と通じているかのようだ。我々の時代に蘇生した新たなロマン主義の芽として、ライアン・フランシス作品の今後に注目している。

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「福原彰美ピアノ・リサイタル2014」への感想が、私のブログにコメントで寄せられました。

2014年03月10日 11時23分04秒 | エッセイ(クラシック音楽)


 先日のこの場に載せた「福原彰美ピアノ・リサイタル」についての私の小文に、早速、とても心温まるコメントが寄せられました。すぐに公開扱いとしましたので、お読みになった方も多いと思いますが、より多くの方に読んでいただきたいと思いましたので、以下に、そのコメント全文を掲載します。

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極上の時間でした (吉田一郎)

2014-03-07 22:39:49

一昨日の福原さんのリサイタル、私も拝聴しました。ピアノの演奏技術のことはわからないので、適切なコメントはできませんが、これまで足を運んだコンサートの中で、特に印象に焼きつく感動的な演奏を聴かせていただいたと思います。
彼女が18歳の頃録音したCDと、ネットでたまたま発見したワレフスカとのピアソラの動画で、彼女の演奏を聴いたことがあるだけで、おそらく清楚で端正なピアノを弾くのではないかと勝手に想像していましたが、良い意味で完全に裏切られました。
感情表現の深さと豊かさは驚くほどです。心から演奏することを楽しみ、音と対話しながら、一音一音を慈しんで弾いている誠実さが、ステージからひしひしと伝わってきました。当然、聴き手としてもおろそかに聴き流すわけに行かず、終演のころには、ヘトヘトに疲れてしまいました。もちろん、快い疲労です。
これだけ感情の揺れを表現できるスケールの大きさを備えているからこそ、あのワレフスカに寄り添うことができたのだと納得した次第です。
とにかく、濃密で幸福な時間を過ごしました。フルコースのご馳走を堪能したあと、更に予想外の2皿(ラフマニノフとストラヴィンスキー)が出てきたという感じです。
今後も福原さんの演奏はフォローしていきたいと考えています。竹内先生、ぜひ彼女の成長を見守り続けてあげてください。

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 改めて、福原彰美のピアノ演奏の「力」を強く感じました。こうして、より多くの方が、彼女のピアノに触れる機会を作ってくださることを願っています。
 なお、これを機会に、私のブログの「カテゴリー分類」を久しぶりに変更しました。
 これまで「ワレフスカ&福原彰美」としていたカテゴリーから、福原のピアノについてのみ言及している文章を抜き出して「エッセイ(クラシック音楽)」に移動させました。そして、残ったものだけで「ワレフスカ来日公演関連」というカテゴリーを新設しました。今後は、福原に関するものを探す場合は、パソコン画面では左側欄外をスクロールして「ブログ内検索」で「福原彰美」で検索してください。「~来日関連」に残っているものを2、3本拾って、「エッセイ」30数本のなかから福原への言及を5、6本拾い出してくれると思います。数えませんでしたが、今日現在で488本の文章を載せているこのブログ内で、10本ほどはあるようです。比較的多いほうでしょう。それだけ、私自身が書きたいことを持っている演奏家のひとりだということです。


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「福原彰美ピアノ・リサイタル2014」を聴いて――この一年の福原の、変貌の端緒を確認して思ったこと

2014年03月07日 18時23分30秒 | エッセイ(クラシック音楽)


 一昨日の3月5日(水曜日)にすみだトリフォニー小ホールで行われた「福原彰美ピアノ・リサイタル」を聴いた。ニューヨークとサンフランシスコを拠点に活躍している彼女が、5年前から、年1回、必ず帰国して開催している自主コンサートである。毎回、アメリカの若手作曲家の作品の日本初演や世界初演を必ず交えて、コンセプチュアルなプログラム構成で聴かせるもので、5回目となった今回は、『夜に紡ぐ~ロマンティシズムの灯り』と題された。
 スカルラッティの『ソナタ』K. 213(L. 108)、『同』K. 13(L. 486)で開始され、ショパン『ノクターン』第16番、『バラード』第4番、ラフマニノフ『音の絵』39-5、『同』39-1、『同』33-9と続いて、休憩後に、彼女のリサイタルではすっかり馴染みとなったアメリカの作曲家ライアン・フランシス(1980年生まれ)の『コンソレーション』日本初演。最後にラヴェル『夜のガスパール』全曲で締めくくられた。
 福原彰美のピアノについて、私はこれまで、機会あるごとに積極的にコメントをするようにしてきたが、昨年のクリスティーヌ・ワレフスカとの2回目の日本公演ツアーは、ワレフスカのコンディションが最後まで満足の行く状態に回復しなかったこともあって、何も触れずに終わってしまった。だが、福原の好サポートは、以前にも増して心に留まるものだった。
 じつは、その2回目の全国ツアーがスタートした昨年3月の数ヶ月前、福原は、サンフランシスコ音楽院から、ジュリアード音楽院での勉学へと転進して以来住み慣れていたニューヨークのアパートメントを引き払い、古巣のサンフランシスコでの研鑽を進める決断をしていた。そのことについて彼女は、核心の部分については黙して語らなかったが、ジュリアードで学んだものに留まれない「何か」を感じ取っているに違いない、と様々に推測しながら私なりに納得したのを、昨日の事のように思い出す。
 いずれにしても、それが引き金になったものか、あるいは順序が逆なのかはわからないが、明らかに彼女は、奏法の大改造に着手した。そして、昨夜、彼女のピアノを長年にわたって聴き続けている聴衆が多数集った会場で、――(そうなのだ。福原のリサイタルでは、10代のころからの彼女を聴き続けているに違いない熱心で真摯な聴き手に、よく出会う)――その成果の一端が披露された。

           *

 ご存知の方も多いと思うが、サンフランシスコに戻ってからの彼女は、ティルソン=トーマス率いるサンフランシスコ交響楽団の首席奏者たちを中心にした「室内楽コンサート」にも参加して好評を博し、その室内楽ピアニストとしての才能でも頭角を現わし始めたが、ソリストとしての福原彰美のピアノは、さて、どのような変貌へと向かっているのだろう。
 ここ数年、ブラームスやシューマン、あるいはリストなどの作品を通して、ロマンティシズムの有り様を探求してきている福原は、昨年のリサイタルでのシューマン『幻想曲』にも聴かれたように、手の内に入った確信に満ちた表現が隅々にまで行き渡り、細心の注意を払ったかのように色づけされたピアノの響きに、大きな特徴があったと思う。鮮やかな色合いと、危うさと紙一重の軽やかな繊細さが魅力だった。だから、その反面、有無を言わせぬ力強さに欠けることに不満を持つ聴き手がいたことも事実だ。私自身は、例えば往年のルドルフ・フィルクスニーのように、「かすかな音の変化に耳を澄ました者にだけ届く音楽」があってもいいではないか、とさえ思っていた。
 かつて私はフィルクスニーの音楽をこんなふうに表現した。

フィルクスニーは、言わば「音の小さなピアニスト」だったと言えるだろう。聴く者に、一見静かに動かぬ水面の、かすかなさざ波に気付かせるような、そして、一たびそれに気付いた者の心を、限りなく浄化してゆく、そういうピアニストだった。だから、独奏もさることながら、室内楽の分野でも傑出した録音を残している。室内楽での相手との聴き合い、語り合いながらの進行には、素晴らしい瞬間の煌めきを聴くことができた。

 そんなふうに、福原の世界もイメージしていた私が、自分の不明を恥じたのが昨年のワレフスカとのコンサート・ツアーでの福原のピアノだった。まだ、変貌の端緒に着いたばかりだったから、それほど特徴的ではなかったが、それでも、音楽がグイと前に出てくるような「大きな構え」が垣間見られるようになり、それは日増しに高まっていった。不調のワレフスカが彼女を頼みとしていたのを、妙に納得してしまったほどだった。(そのことに気付いた方もいたようだ。ネットへの書き込みで、それを発見したときは、わかる人にはわかってしまうものだ、と思った。)
 考えてみれば、福原彰美というピアニストは、まだ30歳前後という若さなのだ。まだ、ふた皮も三皮も剥けて行くに違いない。だが、その原点である彼女の美質は、決して失われないだろう。これまで半世紀以上も様々な演奏家を聴いてきたが、真のアーティストは、どんなに変貌しても、その原点の光が失われたことはなかった。各々の特質が、「取って付けた」ものではなく、「内から滲み出てくる」ものだからこそ、なのだ。

           *

 さて、前置きが長くなってしまった。一昨日のリサイタルの演奏について少し書いておこう。
 全曲目の中で最も印象に残ったのが、ラフマニノフ『音の絵』からの3曲である。音楽的に振幅の大きな演奏で、力づよい低域の輪郭の上を、高域が自在に跳ね回るといった趣きで、右手と左手のバランスが一回り大きな段階で達成されているように感じた。それが、ラフマニノフの音楽の背景にある重さを、陰影の濃いものにしていた。
 それはショパンの2曲、特に『バラード』でも言えることだが、はて、これは福原のショパンにとって相応しいことだろうか? シューマンやブラームスの演奏では、これは間違いなく、福原の大きな成果となるはずだが、ショパンには、かつての福原のショパンから時折聞こえてきた危うさに似たニュアンスが薄れていることが惜しまれた。福原のピアノが導き出す弱音のニュアンスの細やかさが後退しているのは、おそらく、構えの大きな音楽を、福原自身がまだ持て余しているからだと思う。自身の変貌の過渡期にあるのだと思う。だが、このことは次回に期待しよう。最高に美しい弱音は、芯を捉える強い打鍵力にしっかりと制御されたときに生まれるものだからである。
 このところいつも、リサイタルの冒頭で数曲採りあげることの多いスカルラッティの『ソナタ』は、低域の輪郭が一段と冴える方向に変貌してきた福原のピアノを堪能することができたのが収穫だろうか。
 しかし、コンサートの最後に置かれたラヴェル『夜のガスパール』は、曲のイメージがしっかりと定位するに至らないままに弾いているといった印象が拭えなかった。福原は基本的に、極めてクレバーなピアニストである。それぞれの曲の構造や仕掛けに対する鋭い洞察が群を抜いていることは、いつも彼女自身が執筆しているプログラム・ノートを読めばわかることだ。だから、『夜のガスパール』に対しては、不満が残った。福原のことだから、いずれ別の機会に、『夜のガスパール』にも鮮やかな演奏を披露してくれることだろう。それを待っていたいと思った演奏だった。
 ライアン・フランシスについては別の機会に書きたいと思っているが、これまでの福原のリサイタルで聴いた限りでは、繊細な感覚を持った俊英として楽しみな作曲家だと思っている。
 蛇足ながら、当日はアンコールを求める大勢の拍手に応えて、ラフマニノフ『音の絵 33-2』と、昨年弾いていたストラヴィンスキー『ペトルーシュカからの3章』第1曲が弾かれた。いずれも手の内に入った好演だった。

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駆け足で辿る西洋音楽史(3)「近代/現代」

2014年03月04日 15時45分32秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 前々回から続いてきた本稿は、これで終わりです。いわゆる「二〇世紀音楽」の時代へと連なっていくわけですが、それは、レコード、ラジオ、映画など、急速に発達した様々のメディアの影響下に音楽が置かれた時代であり、交通網の発達によって「西洋音楽」が「西洋」から外に飛び出してしまった時代の始まりでもあったのですが、「音楽文化史家」の立場からの考察を始める以前の私自身は、まだ、その視点の重大さにまだそれほど気づいていませんでした。今となってはいささか不満のある旧稿ですが、そのまま掲載します。(本稿のオリジナル執筆時の経緯は、「(1)」をご覧ください。)


●近代/現代

■個性の重視が背景となった民族意識の発露
 ロマン派の時代も終わり頃になると音楽は、それぞれの地域の特性を持ち出すようにもなってきました。もちろん、その背景として、社会的には、様々な民族運動の高まりが関係していますが、個人の問題としては、各人の感性を大切にするという気運の影響もあります。それらをまとめて〈国民楽派〉と呼ぶこともありますが、互いに連係していたわけではありません。むしろロマン派と近代の音楽をつなぐものと考えるのが自然でしょう。
 代表的な作曲家としては、ロシアのチャイコフスキー、ボヘミアのドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグなどがいます。チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」や「弦楽セレナード」には、寒いロシアの雪原のような広がりが感じられるかも知れません。ドヴォルザークの「スラヴ舞曲」にはボヘミアの土の香りが、グリーグの「ソルヴェイグの歌」からは、北欧の調べが聞こえてくる気になるでしょう。
 しかし、それらはどれも、映画の伴奏音楽のようなこじつけや、辻つま合わせの音楽ではないのです。それぞれ、その場所に生まれ育ってきた作曲家自身の、内面にある感情から生まれてきた音楽なのです。自分の心を映す鏡にまで発達した音楽は、こうして、ひとりひとりの感性の違いを、くっきりと定着させられるようにまでなったのです。

■〈後期ロマン派〉は世紀転換期の音楽
 近代の音楽と言われるものは、一般的には19世紀最後の10年間ほどから、第一次世界大戦終結の1918年過ぎまでの約30年間を指しています。別名〈世紀転換期〉とも言います。 この時代の流れのひとつに、マーラー、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウスなど、ドイツ、オーストリアの〈後期ロマン派〉と呼ばれる人々がいます。
 彼らが与えられた共通の大きな影響は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」における〈半音階的和声〉でしたが、それは現代の音楽に大きな革命をもたらしたシェーンベルクの〈十二音技法〉へと突き進んで行きました。
 後期ロマン派では、もうひとり、ブルックナーの存在も特異なものです。ブルックナーは、人間中心の主観主義全盛のロマン派時代の最後に現れた異端児と言ってもいいでしょう。宗教的な世界に彩られたブルックナーの音楽は、人間的世界から遠く離れた高みから、客観的に音楽世界を構築するといった広大無辺な「交響曲」を数多く生みました。
 また、古典派時代以降、作曲の分野ではほとんど見るべきもののなかったイギリスにも、後期ロマン派的な成果を収めた作曲家、エルガーが登場しました。交響曲、協奏曲など、オーケストラ作品の大曲に傑作がありますが、ヴァイオリンのための小品としてよく知られる「愛のあいさつ」も美しい作品です。エルガー以降、イギリスの作曲界は、ヴォーン・ウィリアムス、ホルスト、ブリテンなど様々な作曲家によって多くの成果を上げて、現代に至っています。

■ナショナリズムから近代、現代の音楽へ
 19世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパは、民族国家形成の社会運動に伴って、各地で、ナショナリズムに目覚めた人々が活躍しました。これらの動きは、ロマン派音楽の範囲に入る〈国民音楽〉として発生しましたが、やがて発展して、ヨーロッパ中央を中心とした音楽に疑問を持ち始めた〈現代の音楽〉への橋渡しともなりました。
 ドヴォルザーク以後のチェコからはヤナーチェクが、グリーグ以後の北欧からはフィンランドのシベリウスが登場しています。
 一方、ヨーロッパ中央に影響されたチャイコフスキーに批判的だった同世代のロシアの作曲家たちは、民族主義を前面に押し出して活動しました。彼らは「ロシア五人組」と呼ばれ、特にボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフが有名です。
 「ロシア五人組」がフランスの近代音楽に与えた影響にも大きいものがあります。中でもムソルグスキーのピアノ曲は、〈印象主義〉の音楽を確立したドビュッシーに大きな影響を与えました。また、リムスキー=コルサコフは、近代管弦楽法の父とも讃えられ、巧みで効果的な色彩感あふれるオーケストラの用い方は、後の時代への大きな遺産となりました。リムスキー=コルサコフの見事な管弦楽法は、「交響組曲《シェエラザード》」で聴くことができますが、ドビュッシーより、ほんの少し後の世代のラヴェルの管弦楽法にも、このリムスキー=コルサコフの影響が聴かれます。彼らの作品は、正にオーケストラの音色できらびやかに織られた絵巻物です。
 スペインでは、グラナドス、アルベニス、ファリャなどが活躍しますが、彼らには、フランスの近代音楽の祖とされるドビュッシーの確立した〈印象主義〉音楽の影響を聴くことができます。

■ワーグナーの影響から出発した近・現代の音楽
 これまでの西洋音楽の歴史は、旋律は落ち着くべきところに落ち着いて終わるという、安定した着地感とでもいうものを中心にしてきました。それが〈機能和声〉の考え方です。
 ところが、ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」で、そうした達成感を先送りすることを試みました。この方法は次第に調性を曖昧にして、ついには、〈無調音楽〉へと突き進んで行きました。それを〈十二音技法〉として確立したのがシェーンベルクです。
 それは〈新ウィーン楽派〉として、アルバン・ベルク、ウェーベルンへと受け継がれて行きましたが、その他にも、多くの今世紀の作曲家に多くの影響を与えました。調性感の喪失の周辺をさまようアルバン・ベルクの作品は、マーラー以後のウィーンの抒情精神の現代的な帰結のひとつとして、痛切なものがあります。また、ウェーベルンは、その瞬間々々に意味を求める点描的な作風を中心に、第二次大戦後の世界の若い世代にまで影響を残しています。
 一方、ワーグナーの影響から出発したものの、フランスでは、サティやドビュッシーのように、古代趣味とも結びついて、五音音階、全音音階、中世の教会旋法などを用いて、意図的に脱ワーグナーを試みる動きが起こりました。ドビュッシーは和音を西洋音楽の伝統的な進行から開放し、一見断片的でとりとめのない姿から、独創的な呼び交わしで光のスペクトルを束ねていくような音楽を作りました。言わば、一定の方向に意味付けしながらつなぎ合わせて終結へと向かうのではなく、瞬間のきらめきをそのまま積み上げていくといった感覚で、これを一応〈印象主義的和声法〉と呼んでいます。
 ドビュッシーの音楽は、ドイツを中心としたロマン主義からの決別に、決定的な影響を与えて現代に至っています。それは、例えば、民族主義的な研究から出発して全音音階的な語法で今世紀の音楽のあり方のひとつを示したハンガリーのバルトークや、リムスキー・コルサコフ的作風から出発したストラヴィンスキーにも聴かれるのです。

■古典への回帰とリズム重視の音楽の台頭
 ストラヴィンスキーは、印象主義的な作風から原始主義的でエネルギッシュな音楽に至り、やがてロマン派的情緒を排した新古典主義的な作風へと向かいました。バルトークも古い民族音楽やバッハの研究を通して新古典主義的な傾向を持っていますが、一方で、原始主義的な面も備え、打楽器を多用する張り詰めた音楽などをたくさん残しました。
 高らかに歌い上げる音楽から、打楽器の多用に象徴されるリズム重視の音楽への転換も、今世紀の音楽の大きな特徴のひとつです。その中には、ガーシュインに象徴される〈ジャズ〉のリズムも忘れることができません。ジャズの影響は、パリを中心としたラヴェルや、それ以降のミヨー、プーランクなどに飛火し、一時期パリに居たロシアのストラヴィンスキーやプロコフィエフにも現れています。
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駆け足で辿る西洋音楽史(2)「ロマン派の時代」

2014年02月28日 15時07分21秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 一昨日の続きです。この原稿の性格については、一昨日のまえがきをご覧ください。
 一昨日の掲載分に、コメント欄への「質問」が寄せられました。真面目な内容でしたので、そのままコメント公開の処理をしましたので、ご覧いただければお分かりくださる方も多いかと思いますが、私としては、予期せぬ内容でした。
 確かに、「アルビノーニのアダージョ」を例に出すのは、あの原稿の執筆時であった17年前には、「アルビノーニの真作」ではないにしても、彼の作品の断片を再編した「復元作品」といった程度の認識があったように記憶していますが、どうだったでしょうか? 執筆当時も、印刷前になって、若干の補足をしたようにも記憶していますが、文章の骨格は変更しませんでした。
 なぜならば、全体の文脈からもご推察いただけると思いますが、私の文意は、古典派以前の音楽が共通して持っている「様式感」にあるからですし、現在では「アルビノーニのアダージョ」は100%「アルビノーニ」作ではなく、二〇世紀の人間の「擬作」と判明しているのは、コメント氏のご質問通りですが、それが、二〇世紀の作品としてではなく、巧妙に、古い時代の様式に似せて作られたものだから、です。
 考えてみれば、「パッヘルベルのカノン」にも、似たことが言えるわけで、それほどに、この時代の音楽「らしさ」が端的に凝縮された作品は、ほんとうはひとつもない、ということの証左なのかも知れないと思いました。「擬作」であるがゆえに、「わかりやすく」その時代「らしさ」を具体化している、というのは、一種アイロニカルではありますね。



●ロマン派

■ロマン派音楽は、心を映す鏡
 ロマン派音楽の範囲は非常に広く、様々な姿を見ることができます。1800年代のほぼ全般、つまり、19世紀全体に流れる様々な音楽傾向の総称と言ってもよいでしょう。
 18世紀後半の古典派音楽の時代は、作曲家ひとりひとりが心の動きを大胆に表現する方向へと、音楽を少しずつ開放して行きました。その古典派最後の巨人ベートーヴェンは、ロマン派音楽を最初に切り開いた人としても、音楽史上の重要な作曲家となりました。
 ロマン派の時代の作曲家は、心の微妙な動きを反映するための大胆な転調や和声的な強弱法を拡大させましたが、それは、古典派の時代に飛躍的に発展し完成したソナタ形式や、性能の向上した楽器の用法なしには達成できなかったものなのです。
 感情の高揚が、音楽表現と結びついたロマン派音楽は、物語的、劇的な表現や、詩的、絵画的表現が、感情の動きと積極的に結び付くということでもありました。例えば、ベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」を聴きましょう。第1楽章が「田舎に着いたときの楽しい気分」と題され、ソナタ形式の展開のなかで、見事に〈気分の高揚〉が表現されています。
 こうした主観的な感情と形式との結合は、シューベルト、メンデルスゾーンといった初期のロマン派の作曲家のなかで、次第に深められて行きました。
 シューベルトの「交響曲第8(7)番《未完成》」の第1楽章も、二つの主題が提示された後の、展開部での二つの主題の動きは、不安な感情の劇的な展開として、ロマン派の表現を示しています。
 また、メンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」の第1楽章も、古典派的な均整のとれた形式からはみ出してしまう、感情の高まりが感じられます。そして、ベートーヴェンが「田園交響曲」で試みた絵画的表現が、明るく弾む気分と暗く沈む気分との交錯するなかで、美しい風景画の世界のように描かれています。

■心の奥底の揺れ動きを捉えた初期ロマン派
 シューマンの場合は、さらにロマン派的な〈心のひだ〉の奥深い所にまで進んで行った作曲家と言えるでしょう。シューベルトの後を受けて歌曲の世界で傑作を残したシューマンは、文学の世界と結びつきながら、矛盾し、苦しみ、悩み続ける心の動きを調性の揺れ動きのなかに表現しました。長調から短調へ、短調から長調へと、移ろい行く魂そのもののように、音楽で心のあいまいさを表現しました。その幻想的な世界は、ピアノ曲や交響曲でも、充分聴きとることができます。
 ポーランドが生んだ〈ピアノの詩人〉と呼ばれるショパンも、この時代で忘れることはできません。ショパンが詩人と呼ばれるわけは、その作品の自在な転調、修飾を多用した旋律、そして自由にテンポを揺らす独特の音楽の運びなどによるものです。ショパンの音楽の持つ〈揺らぎ〉は、ロマン派音楽におけるピアノ曲で、ひときわ独創性に輝くものです。

■《標題音楽》を生み出したロマン派の音楽
 ベートーヴェンが「田園交響曲」で道を開いた、音楽と絵画や物語との結合は、《標題音楽》というジャンルも生み出しました。
 フランスの作曲家ベルリオーズは、ベートーヴェンの崇拝者でしたが、その彼が、残した「幻想交響曲」は、物語的展開や、事物の描写が、音楽形式と密接に関わりあった傑作です。この交響曲には、主人公の恋人を表現する旋律が設定され、それが、物語の展開に合わせて各楽章で姿を変えて現れます。「野の風景」と題された第3楽章では、ベートーヴェンが「田園交響曲」の第4楽章の嵐の描写で試みたような、風景と、その投影としての心の動きとが、丹念に描かれています。
 「序曲《フィンガルの洞窟》」を書いたメンデルスゾーンも、絵画的表現に優れていますが、この作品も、単なる情景描写ではなく、その風景を見ている作曲者個人の心が投影されていることに気付かれるでしょう。
 標題音楽は、リストによって、「交響詩」というジャンルとなりますが、リストの「交響詩《前奏曲》」では、「人生は、死に至る前奏曲である」という詩を受けて、人生そのものを表現しようとさえしています。また、「ファウスト交響曲」「ダンテ交響曲」などでも、文学の影響を大規模な作品のなかで実現しました。

■文学と結合した音楽が総合芸術としての歌劇に結実した
 ベルリオーズ、リストといった標題音楽は、シューマンに聴かれる主観的、情緒的な音楽としてのロマン派音楽とは異なった方向に進んで行きました。音楽と文学、思想、哲学との融合は、抽象性、幻想性は残しながらも、より大掛かりで視覚的には具体性を持った総合的な表現芸術としての歌劇に発展して行ったのです。その頂点がワーグナーです。
 ワーグナーは、最後には、自ら台本を書き、自分の作品専用の劇場を作らせるのですが、それは、ワーグナーという人間自身が、作曲家という枠に収らない、総合的な芸術全体の支配者であったことを意味しています。
 一方、ワーグナーの時代は、イタリアにはヴェルディが活躍していました。イタリアの音楽とロマン主義との関わりは、決して分かりやすいものではありませんが、ヴェルディが「オテロ」などシェイクスピアの戯曲を元にした歌劇で追及した人間の心理的葛藤は、正に、ロマン派の時代のものでしたし、それに続く〈ヴェリズモ・オペラ〉の運動も、装飾としての音楽から、人間存在そのものを捉える真摯なものへ突き進もうという狙いの帰結でした。
 こうしたイタリアオペラの歴史は、ベートーヴェンとほぼ同じ時期に活躍していたロッシーニによって変革されて以来の長い歴史の中で培われてきたものです。その意味でロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲は、豊かな物語性や表現の大きさだけでなく、〈人間のドラマ〉としてのロマン主義の芽を宿した作品として聴くことができるのです。
 フランスでは、歌劇はビゼーの「カルメン」が、時の哲学者ニーチェに「ワーグナー以上だ」と絶賛されるのですが、若くして世を去ってしまいました。

■純粋に音楽と向かい会ったブラームス
 ワーグナーによって、音楽は局限にまで拡大されて行きましたが、その一方で、そのような大掛かりな総合芸術といった考えを振り回さずに、静かに、純粋に音楽と取り組み続けたのがブラームスでした。
 ブラームスは、この時代におけるどの作曲家よりも熱心に、バッハからベートーヴェンに至る音楽の手法を研究しました。ブラームスによって、音楽の形式の美しさと、形式からはみ出して行く感情の高揚とが攻めあう、緊張と弛緩が混ざりあった音楽が生まれました。有名な「交響曲第3番」第3楽章の旋律は、そのひとつです。ここには、野放図に拡散して行かない張り詰めた美しさや儚さと、そうした世界への憧れを持った幻想的世界が広がっています。拡大された和声の豊かで個性的な進行が、色鮮やかな世界を築いています。この孤高の美しさも、ロマン主義音楽の一方の頂点です。
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駆け足で辿る西洋音楽史(その1)「古典派音楽の成立」

2014年02月26日 15時13分57秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 古い文書ファイルを整理していたら、面白いものを見つけました。1997年7月17日の日付がありますから、17年も前に書いた原稿です。いわゆるクラシック音楽の入門用に執筆したもので、古典派の成立から近代・現代までを駆け足で辿ったものです。最近は「ユーキャン」を名乗っている通信販売の会社が「日本音楽教育センター」とかいう名称で活動していた時代に依頼したものです。セット物に付随していた冊子のためのもので、ルネサンスからバロック期までは、別の方の執筆のはずです。私のことをよく知っている方はニンマリなさるでしょうが、私、バッハ、ヘンデル以前は苦手なのです。古典派以降なら、ということでお引き受けした原稿です。
 じつは、今、久しぶりにザッと読み返しただけなので、ちょっと不安なのですが、一応かなり面白く書けてる――というか、私の西洋音楽観の原点が凝縮されているようにも思いましたので、私自身の考え方を整理するためにもなると思い、そのまま、この場に掲載することにします。もとより、数万部(数万セット)か、それ以上、世の中に出回っている文章ですし、そうなることを前提にお渡しした原稿ですから、内容のすべてに対して私に責任があるわけですが、執筆から20年近くも経っていますので、細部に修正の必要を感じる部分もあるかも知れません。その場合は、この場にて訂正・修正・補足をします。まずは「古典派の成立」の部分を、お読みください。(CDセットの付録冊子ですから、実際に聴ける音楽を例に挙げながら話を進めています。)明日以降、順次、掲載します。


●古典派の音楽

■古典派の代表はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの三人

 古典派の音楽とは、18世紀の半ばから19世紀の初頭までの、ウィーンを中心としたヨーロッパ音楽の傾向を指しています。誰でもが知っている音楽家の名前を挙げれば、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの三人に代表される音楽ということになるでしょう。
 彼らは、音楽史的には、バッハやヘンデルなどの後の世代ということになりますが、この三人の音楽が時代の頂点を極めるに至った背景には、その時代が持っていた状況や雰囲気というものを忘れることはできません。
 既に見てきたように、西洋音楽のこれまでの歴史にとっては〈教会〉の力は、とても大きなものがありました。古典派の時代は、それが少しずつ、ふつうに生活して生きている人々の世界へと近づいてきた過程にあったと言えるでしょう。それは、音楽が表現芸術として自立し始めたということでもありました。

■古典派に至るまでのさまざまな動
 古典派音楽が完成するまでには、社会的な様々の背景を無視することはできません。
 まず第一に、文化活動の中心が、これまでの教会から、王侯貴族たちのサロンへと移ってきたことです。それによって、音楽のスタイルも、荘重でどっしりとした権威あるものから、優美で軽やかなものへと変りました。
 第二には、バッハの息子のエマニュエル・バッハ(C・P・E・バッハ)などが提唱した「真実で自然な感情表現」を求めた結果に生まれた音楽傾向が挙げられます。これは、音楽に対照的な動きや感情の動きを高らかに歌い上げる要素を持込みました。
 そして第三には、ゲーテ、シラーといった文豪たちが推進した主観性の強い文学様式の運動です。これは「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)」と呼ばれていますが、これが、音量の増減の大胆な対照効果が可能になったこの時代の楽器の性能向上と結びついて、ベートーヴェンの力強くほとばしる音楽にまで到達したのです。

■表現力を増した古典派の音楽
 古典派音楽の発達は、主として器楽の分野が担っています。それには、各々の楽器の性能の向上と、それに伴う合奏技術の発達といった時代の要素は見逃せません。当時の作曲家、特に才能があふれるほどあった作曲家ほど、次々に広がっていく可能性に吸い寄せられるように、自らの表現を深めて行きました。
 ジャンルとしては、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲などの作曲技法が特に進歩しましたが、それらは、いずれも、各々の楽器の音色の複雑な重なり合いを楽しむような立体的な音楽として、飛躍的に表現の可能性を広げて行きました。また、チェンバロにとって代ったピアノの、音域や音量の幅の広さも、音楽表現に大きな変化をもたらしました。ハイドンやモーツァルトの後期の「ピアノ協奏曲」には、この楽器の豊かな音域、音量によって広がった表現力を使い切ろうとする意欲的な作品が現れます。そして、やがてベートーヴェンの「熱情ソナタ」のように、ピアノ1台で、幅広い表現が可能になりました。
 「〈表現〉の幅が広がった」、と言われても、どういうことなのか、すぐにはピンと来ないかも知れません。では、ハイドンの「弦楽四重奏曲第67番《ひばり》」をお聴きいただきましょう。どうですか? このハイドン以前の音楽、例えば、有名なアルビノーニの「アダージョ」やパッヘルベルの「カノン」、あるいはヴィヴァルディの「四季」などを思い出してみてください、それらと、このハイドンの「ひばり」は、何かが違う、と思われることでしょう。その〈何か〉が、古典派の時代の〈表現〉に対する強い意志の力なのです。それは、モーツァルトを経てベートーヴェンで頂点を極めました。
 ベートーヴェンは「コリオラン」序曲のような短い作品でさえ、凝縮された中に巨大なドラマを盛り込むことが出来ましたが、それは、表現意欲の強さをベートーヴェン自身が持っていただけで達成できたのではありません。そうした表現を実現する楽器の性能の向上、合奏技術の進歩、作曲技法の発展など、古典派の時代が、時代の変化のなかで花開かせてきたことでもあるのです。

■古典派の時代に確立したソナタ形式
 そうした豊かな表現力を、形式の面から支えたのが〈ソナタ形式〉です。
 〈ソナタ形式〉とは、第1、第2の二つの主題旋律を提示する〈提示部〉と、その二つの主題がからまり合う〈展開部〉、二つの主題が元の形で戻ってくる〈再現部〉の三部分から成り立ち、全体の初めと終わりに、序奏部と終結部(コーダ)が付く、というのが基本のスタイルです。
 ハイドンの「弦楽四重奏曲第67番《ひばり》」や、モーツァルトの「交響曲第41番《ジュピター》」、あるいはベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」のそれぞれ第1楽章を聴いてみましょう。印象的な旋律がすぐに耳に飛込んできますが、それが第1主題です。やがて、かなり性格の異なる旋律が、これもまた、印象深く演奏されますが、これが第2主題。二つの主題を性格的な対比、対立の構図でとらえるのは、ソナタ形式が完成するためには、ぜひとも必要な考え方でした。
 ソナタ形式は、耳が慣れてくると、自然に理解できるものです。とても印象的な目立つ旋律が2種類現れて、いったん落ち着いた後、その旋律がかなり変形されて聞こえてきたところからが展開部。やがて、最初と同じ旋律がくっきりと聞こえてくると、それが再現部の始まりといった具合で、全体には、とてもまとまりのあるものです。これが、西欧的な価値観の産物であることは、言うまでもないことです。

■楽曲の組み合わせ方も完成した古典派音楽
 交響曲や室内楽が、その第1楽章にソナタ形式を用い、第2楽章がゆったりとしたテンポの音楽、第3楽章がメヌエットと呼ばれる3拍子の優雅な舞曲、第4楽章が急速なテンの音楽による締めくくり、という組曲形式として完成したのも、ハイドン、モーツァルトの時代からです。
 〈メヌエット〉の楽章は、モーツァルトの「ディヴェルティメント第17番」の第3楽章を聴いてもすぐにわかるように、〈複合3部形式〉といって、真ん中に〈トリオ〉と呼ばれる異なった旋律を置いて、その前後をメヌエットで挟むというのが一般的です。これもまた、異なった旋律で対比させた後、再び、「元へ戻る」という安定した感覚を求めたものと言えるでしょう。
 ベートーヴェンは優美なメヌエット楽章を、激しさを持った〈スケルツォ〉の楽章に入れ替えましたが、トリオ部分を持つ複合3部形式は守られました。
 協奏曲では、メヌエット楽章が省略された3楽章構成が定着しましたが、第1楽章がソナタ形式であること、第2楽章や第3楽章に複合3部形式が採用されることがあるなど、形式としての完成には、同じような傾向が見られます。そして、様々な楽器それぞれを得意とする名手が出現し、華やかで美しい独奏を聴かせる作品が多く生まれました。モーツァルトの「ホルン協奏曲」や「クラリネット協奏曲」などは、その好例です。

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ミュンシュ1948年録音『幻想交響曲』への疑問から始まった、この時期のHi-Fi的音質の良さの謎が解けました

2013年12月17日 17時49分52秒 | エッセイ(クラシック音楽)



 12月10日に始まった「仮説」から、ずっと続いています。ご興味のある方は遡ってお読みください。
 以下は、昨日、私が提示した疑問への今村氏からの返信です。そのまま、転載します。

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なるほど、竹内さんの興味の中心は、何故ミュンシュ/フランス国立の『幻想』が同時代のSP復刻より格段に音が良いのか、に関して、でしたね。
米コロンビアが新しいフォーマットのLPを発表したのが1948年6月21日で、年内に百枚程のタイトルをカタログに揃えましたが、LP発売が先行したものは、ほんの数枚だけで、ほぼ全てが45~48年に発売されたSPのLP発売であり、中には40年に発売された古いタイトルも含まれていました。
問題は、これ等の録音が従来のSP録音の方法(直接カッティングする)でマスターを製作していたのかどうか、という事になると思いますが、これには岡俊雄氏が、来日したゴダード・リーバーソンに訊いた話が参考になるでしょう。
それは、1948年夏の時点で、未だ米国でもテープレコーダーは録音に使用されてなかった(米コロンビア、RCAが一斉にテープレコーダーを使い始めたのは1950年から)が、米コロンビアでは40年代の初めから、40cm、331/3回転のラッカー・マスターを使い、外周の音の良いところだけに、10分程度の録音を行い、そこからSP用のマスターを製作していたので、LPは、この40cmマスターに遡ってトランスファーされていた、というものです。
この方法は米コロンビアがいち早く取り入れたものですが、RCAも48年頃には採用していたようで、米国のメジャー・レーベルの録音クオリティは、テープレコーダーが使用される前に、既に従来のSP時代より、一段階進んでいた事になります。
これにffrr等のハイファイ録音で有名な英デッカが注目し、やはり48年頃には40cmラッカー・マスターを採用したという事ですから、竹内さんがブラームス『協奏曲』で推測された話は、米コロンビアの出張録音では?  という点を除けば、ほぼ当たっているのではないでしょうか。
ミュンシュは当時、パリ音楽院管などで英デッカにいくつか録音しているので、48年の英デッカの製作なら、既に新しい40cmラッカー・マスターを取り入れていて、通常のSP録音より優れていたとしてもおかしくないという事です。
しかし、これはブラームスのヴァイオリン協奏曲に関する事で、それは話の枕に過ぎないと竹内さんは繰り返していますが、ここで竹内さんの『幻想』録音に関する推測に合致するかも知れない、全く新たな可能性が出て来ました。
それは、例の有名なミュンシュが表紙になった『ライフ』誌(1949年12月19日号)の記事に、[ミュンシュの名前は今まで米国音楽界ではビッグではなかった。彼は1946-47年シーズンに、ボストン響、ニューヨーク・フィル、シカゴ響、ロサンゼルス・フィル等の客演指揮者として、初めて米国を訪れた。また、1948年には、フランス国立放送管を率いて、米国ツアーを行った。]とあり、そうなると、既に40cmラッカー・マスターが使用されていた米国内で、『幻想』が録音された可能性もあるかも知れません。
勿論、この40cmラッカー・マスターは放送用トランスクリプション・ディスクと同じ規格なので、米コロンビアというより、CBSが録音したものかも知れないですが、いずれにせよ、ミュンシュ/フランス国立放送管の録音に関して、米国ツアー中の製作の可能性も有ると言えるのではないでしょうか。

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 SP録音時代末期の高音質音源はテープレコーダーの類を使用しているのでは? というのが、思い込みに過ぎないということがわかりました。
 LPレコードの製作には、極小の溝を刻む技術が不可欠だったと聞いたことがあります。いわゆる「マイクログローヴ」です。この極小の溝で細かく詰め込んだものをプレスする素材としてシュラック盤では無理があり、試行錯誤の末、やっと塩化ビニールに辿りついたとも聞きましたが、それ以前のものが40cm盤というわけですか。それも外側から数cmだけしか使えなかったとは…。10分間でどのくらい内周まで進んで行ったのでしょうね。私は、テープレコーダーの技術が1940年代の半ばのアメリカでは実験的に成功していたのかと思っていましたが、そうではなかったわけです。テープレコーダーでの録音が1950年からとは意外でした。ということは、その普及までは、かなり急速な進展だったのですね。
 じつは、舞踊家だった私の父親は、仕事での必要もあって、確か1950年代の半ばには東京通信工業(略称は「東通工」、ブランドは「SONY」)の普及型テープレコーダーを買っていました。1958年の5月に亡くなった私の祖父の声を、その死後に何度も聞いた記憶がありますから、おそらく1956年か57年に購入したのだと思います。昭和で言うと31年か32年です。
 私の家は、1958年のテレビ購入より先に、テープレコーダーが在ったのです。私が小学1年生か2年生。親戚が集って宴会となって歌が出ると、私は父親の命を受けて録音係。当時の「一時停止ボタン」は指で押さえ続けなければならなかったので、親指の腹が真っ赤になってしまったのを覚えています。
 ――思わぬ方向に脱線してしまいました。きょうの今村氏からの情報は、目からうろこ、でした。テープ録音は、意外と歴史が浅いのですね。だから、ステレオ収録がなかなか進まなかったわけです。でも、そのテープを使ってRCAがステレオでの収録を始めるまでには、わずか1、2年ですし、そのまた6、7年後には、マイクログローヴの両側に別々の音を刻み、別々に取り出すという「ステレオ・レコード」製造の技術が完成したわけですから、凄いことです。

 ミュンシュ/フランス国立放送局管が1948年にアメリカ演奏旅行に行っていたという事実は、うっかり見落としていました。ますます米コロンビアの技術で録音された可能性が高まりました。

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レナルディ/ミュンシュのブラームス『ヴァイオリン協奏曲』についての、いくつかの疑問への続報

2013年12月16日 17時39分02秒 | エッセイ(クラシック音楽)
先日、レナルディ/ミュンシュのブラームス『ヴァイオリン協奏曲』の録音日についての疑問を提示しましたが、早速、今村亨氏から、返信がありましたので、以下に掲載します。
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 レナルディの録音日については、ネット検索した中の幾つかを参照しました。
 当時の有名な批評家アーヴィング・コロディンのレビューと共に紹介すると、以下の通りです。

《オッシー・レナルディが作った、オーケストラとの協奏曲録音は、1948年6月27日に録音された、シャルル・ミュンシュ指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管との、ブラームス『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』である。発売された時、この録音はハイフェッツ、シゲティ、ヌヴー、メニューイン等に匹敵し得る価値があると見なされた。アーヴィング・コロディンは『録音された音楽の新しいガイド』(1950年ダブル・デイ出版社、ニューヨーク)の中で、この78回転盤セットを評し、「レナルディがスコアから引き出したシゲティ、ハイフェッツ、ヌヴー等、以前に提供された如何なる録音ソースにも優る豊かな色彩の数々だけが、この演奏の価値なのではない。レナルディの演奏はとても実演的で若々しいが、陥りやすい大衆受けを狙った表現が、一貫してコントロールされている。ミュンシュの伴奏は極めて優秀にそれを支えている。」と述べている。》

 こうした古い録音には、いつの間にか幾つかのデータが混在してしまうのが常ですが、少なくとも1948年製作のSP録音であるのは確かでしょう。

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 以上が、今村氏からの返信です。今村氏も、私の真意を誤解しているようなので、念押ししますが、私は、この演奏の「初出」がSP盤であることに疑問を持ってはいません。ただ、最初期の米コロンビアのLPレコードの音源が、「商品としてのLPレコード」の発売前に、いくつかが「SPレコード」で発売されているのと同じことが、1948年録音のこの英DECCA録音でも言えるのではないだろうか、ということです。
 米コロンビア最初期のLPの音源は、その数年後に(「アントレ」という名のシリーズだったと思いますが)LPで発売した旧吹き込みSP盤のLP化とは異なる優れた音質なのだと、喧伝していたはずです。当時は、それを「Hi-Fi録音」と言っていたように記憶しています。このところ、この場で話題にしているミュンシュ/フランス国立放送局管の1948年12月録音や、同年の6月とも9月ともいわれているレナルディとミュンシュの共演盤が、実感として、聴き慣れたシュラック盤からの板起こしの音とは違うなァと思ったということなのです。このあたり、SP盤やSP時代の録音に詳しい方なら当たり前なのかも知れませんが、それでも、同じ頃、1948~49年の英EMIのSP録音のCD化より、ずっと「Hi-Fi」に聞こえるのです。
 私の気の迷いだったら、お騒がせ、申し訳ないことです。

 ところで、この一件で気になってしまったので、久しぶりにJames Creighton『DISCOPAEDIA of VIOLIN』を引っぱり出してみました。私の手元にあるのは、第2版ですが、そこでは、今村さんのご指摘どおりの米盤と英盤のSP盤番号、LP盤番号ともに掲載されていますが、何と、録音日がまったく記載されていませんでした。これは、この本では比較的めずらしいことです。つまり、この第一級のヴァイオリン資料が編纂された時点では「録音日不詳」だったということになります。そして、米・英のDecca盤に並んで、米Everest盤のSDBR3314という番号が掲載されていました。Everestレーベルが、様々な古い音源を買い漁っていた時代のものです。権利が複数社にまたがっていたり、権利社があいまいになっていたり、経営難で売却されたりしたものが対象になっていたと思います。と、いうことは、このレナルディ/ミュンシュ盤、Deccaのオリジナルの仕事ではなかったのかも……なんて、また泥沼です。

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