昨日、チェロのクリスティーナ・ワレフスカのリサイタルのピアノを担当していた時に注目して以来、折に触れて聴いているピアニスト福原彰美に声を掛けられて、久しぶりに渋谷まで、ミニ・コンサートに出かけた。
このところデュオを組んでいるヴァイオリンの鈴木舞との、ルクーとフランクの『ヴァイオリンとピアノの為のソナタ』がメイン曲で、そのほかに、フランスの女性作曲家二人、ポーリーヌ・ヴィアルドとセシル・シャミナードのサロン風小品を各々2曲ずつ、というプログラム。会場は渋谷の宮益坂を少し上ったところにある小洒落た会場「美竹サロン」である。
鈴木舞のヴァイオリンを聴くのは3度目で、確か4,5年前に初めて聴いて、日本人には珍しい、熱っぽい主張をしっかりと押し出すヴァイオリンに強い印象を持っていたところ、偶然、その少しあとで、福原に声を掛けてもらって聴いたデュオ・コンサートのヴァイオリニストが、その鈴木だったので、驚いた記憶がある。
その時、福原に尋ねたら、「彼女とはとても息が合う」というようなことを言っていたが、結局、その後、「Les Ailes」(レゼール)という名称で、この二人はデュオを結成した。ワレフスカとの一連のコンサートを聴いていたころから感じていたことだが、福原は「室内楽の名手」になり得る才があるピアニストだと思っているから、もしかしたら、今回のデュオ結成も、良い方向に向かうかも知れないと思う。
ワレフスカと違って鈴木は福原と同世代だから、同列に語るのは相応しくないかも知れないが、鈴木の音楽からは、ワレフスカに通ずるものと同質の音楽を感じる。だが、今の時点では、鈴木が同世代だからなのか、福原のピアニズムから、以前、ヴァイオリンのアモイヤルや、チェロのローゼンらとで弾いていたような、いい意味での「適度な距離感」がなくなっているようなのが、私には不満だ。
福原のピアノから、かつては聞こえていた弱音の軽さ、というか、小さな音に耳を澄ますような、薄氷をそっと踏むような繊細さ、は、どこに行ったのか、と思うところがある。
ぜいたくな欲求なのかとも思うが、相方の音楽にしっかりと寄り添う、抜群の感性のピアノだからこそ、そこまで要望したくなる。
演奏家には、「孤独になることで自分の音楽が深まる」という場合と、「よき仲間がいることで音楽が豊かになる」という場合がある。まだまだ、これからが楽しみである。
当日の2つのソナタでは、鈴木自身、これまで、何度も弾いてきた、というフランクは、曲の全容を捉え切っているような力強さで堂々としていて、聴きごたえ十分。特に、高域での絞り出すような独特の音色の美しさは凄い! テンポの微妙な揺れも、振幅の大きなスケール感で聴かせる。
ルクーは、私としては、この曲の構築性を、もう少し、しっかりさせてほしかった。この曲は、もっとフォルムがしっかりとしているのだ。思うに、フランクは、曲そのものが、がっちりと構築されているから、かなり思いのままに動かしても、びくともしない。福原も、ルクーでは、鈴木に付き合い過ぎていた。
ちなみに、〈音盤派〉を認じている私としては、両曲の愛聴盤を、以下に挙げておこう。
ルクー、フランク、ともに、まだ若かったEMI録音時代のオーギュスタン・デュメイとジャン・フィリップ・コラール盤が、わりあいよく聴く盤だ。
あと、ルクーは、この曲を日本で広めた(?)ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティ盤をよく聴く。グリュミオー盤はあまり聴かない。
フランクは、ピエール・ドゥーカンとテレーズ・コシェ盤が、むかしからの愛聴盤。ほかには、シュロモ・ミンツ盤、アン・アキコ・マイヤース盤か?
ところで、会場ではワレフスカの来日コンサート以来のお付き合いをしている渡辺一騎さんにお会いしたのだが、帰りがけ彼が、福原のピアノの美質について語る際に、往年の室内楽ピアノの名手メナヘム・プレスラーの名を口にしたのには、私も同感だった。ボザール・トリオのピアニストとして、インティメイトな音楽を半世紀以上にわたって奏で続けた彼のピアノには、独特の、対話のある音楽が息づいていた。私が福原のピアノに見ている姿も、それに近いかもしれない。
【追記】
この記事の冒頭、タイトル下にカテゴリー名称がありますが、その「エッセイ(クラシック音楽)」にカーソルを合わせてクリックすると、同じカテゴリーだけの過去記事が並びます。そこを下にスクロールして「2016年10月11日」の記事をご覧ください。それが、この本文中で言及している、福原とアモイヤル、ローゼンらとの室内楽コンサートに関連した記事です。