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リスト『ピアノ協奏曲第1番』の名盤

2009年10月29日 16時21分08秒 | 私の「名曲名盤選」



 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第25回」です。

◎リスト/ピアノ協奏曲第1番

 フランソワ/シルヴェストリ盤は、感情の振幅の大きいこの曲を、縦横に駆けめぐる自在なピアノが余すところなく表現している。ピアノの自由なテンポの揺れ動きによく溶け合ったシルヴェストリの、たっぷりとした表情のオーケストラも聴いていて小気味よい。表情の多彩さで群を抜いた演奏で、この生気にあふれた遊びの精神は、正に、天才だけが成し得るものだ。
 アルゲリッチ/アバド盤は六八年に録音されたもので、この曲の華麗さ、ほとばしる情熱の表出では、もはや伝説的となった演奏だ。音楽の表情に即興的なひらめきが聴かれるのも、アルゲリッチが、やはり天才のひとりであることの証明だ。
 リヒテル/コンドラシン盤は、こまやかな表情と骨格のくっきりした音楽とが程良く融合したバランスのよい演奏。全体としては堂々としていて剛直な演奏だが、一本調子にならず、奥行を感じさせる。第2楽章での確かな覚醒感に裏打ちされたファンタジーが、好き嫌いの分かれ道だろう。
 ベルマン/ジュリーニ盤は、大仰な表現の内に傷つきやすい繊細さを持った軟らかなタッチのピアノが、切れ味を鈍くしており、多少重いが、この曲に甘い香りを漂わせている。作品が本来目指している方向からはかなり逸脱しているが、こうした演奏も可能だとは思う。
 一時期リスト弾きとして多くのファンを持っていたシフラは、この曲をEMIに二度録音しているが、一度目のシフラ/ヴァンデルノート盤のサロン音楽風の洒落た味わいには、忘れ難い魅力がある。
 しかし、洒落っ気で言えば、フランスのピアニスト、ハイドシェックがフランスの名指揮者ピエール・デルヴォー/コロンヌ管弦楽団と録音した盤が群を抜いておもしろい。かつてショパンの「第一番」とのカップリングでLPが出ていたが、もう長い間、外盤でも見ていない。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 私の文章が、おもしろくなさそうな、気乗りのしない雰囲気を終始漂わせていることに、自分でも驚いています。どれも決め手に欠けていて、書いていてあまり楽しくなかったのかも知れませんが、どうだったか、もう忘れてしまいました。ただ、あまり好きな曲ではなかったことを思い出します。レコ芸の名盤選の原稿で依頼された原稿に足していったものだったかもしれません。やはり、愛着のない曲については書くべきではないですね。
 上記の選択は、どれも、何らかの形で音楽を崩した演奏を求めているように思いましたが、私がこの曲を、「嫌だなあ」という気持ちとともに強烈に記憶したのは、私が中学2年生の時に聴いたルービンシュタインの演奏です。だから、むしろ、その演奏こそが「基準」なのかも知れません。
 この原稿を書いたずっと後になってから、偶然聴いたマーキュリーのバイロン・ジャニス盤は、現在のお気に入りです。きりっとして清々しく、気持がいい演奏です。


 
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シューマン『ピアノ協奏曲』の名盤

2009年10月27日 14時55分52秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第24回」です。

◎シューマン:ピアノ協奏曲

 シューマンの唯一のピアノ協奏曲だが、これは、初め「ピアノと管弦楽のための幻想曲」として一八四一年に書かれたものを第一楽章に転用し、それに二つの楽章を加えて三楽章構成の協奏曲としたもの。それほど厳格な構成感は持たず、むしろ全曲に一貫して流れる幻想性が美しい。
 ルプー/プレヴィン盤は、まだルプーが二〇歳代の一九七三年の録音で、その瑞々しくてしなやかなピアノがこの曲に盛られた幻想味あふれる夢を、豊かな情感で伝える演奏だ。軽やかなピアノのタッチは終楽章では羽のようにふわりと舞い上がる瞬間をさえ生み出している。プレヴィンの伴奏も感性の豊かなシャープさで、ルプーの音楽を支えている。
 R・ゼルキン/オーマンディの六四年録音は、端正で淡泊な表情で、この曲の抒情を均衡感のある音楽の中に再構築して聴かせる一方の名演。
 リパッティの桁はずれに自在なピアノは、心の襞に沁み入るようなこまやかな響きで、録音の古さを忘れさせるほどの詩情あふれる演奏だ。伴奏は若きカラヤン指揮フィルハーモニア管。
 グルダ/アンドレーエ盤の懐かしさに溢れた甘い情感、アルゲリッチ/ロストロポーヴィッチ盤の無防備な情熱も、それぞれに興味深い。
 最近登場した盤では、新人ラルス・フォークトがサイモン・ラトルと録音した演奏が新鮮な魅力にあふれている。非常に粒立ちのよい美しく鳴るピアノで、力強さ、スケールの大きさも合わせ持っているが、何より驚くのは、この曲のイメージを一変させてしまう独特のアーティキュレーションが確信に満ちて堂々と聴かれることだ。ラトルの反応の良さももちろんで、独奏と一体になった動きを聴かせる。奇を衒ったところなどひとつも感じさせず、説得力のある演奏で音楽全体を大きくわし掴みする本格派の新人の登場だ。このCDは、この曲の演奏史の転換点となるにちがいない。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 この文章を書いたころには新人だったフォークトも、すっかり大家になりつつあります。いささか気負いが感じられる古い文章を読み返して、すこし気恥ずかしくはありますが、ここで言っていること自体は、今でも変更する必要を感じません。ただ、フォークトに続く「何か」が、まだ見えてきていません。
 アルゲリッチ盤の「無防備な情熱」という表現はアイロニーです。おわかりいただけますか?

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閑話休題。「語源」に関するコラム3編です。

2009年10月23日 10時42分54秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること





 前回、このブログでご紹介した『大正・昭和の乙女デザイン』に、共著者として私を誘ってくれたのは、古くからの友人であり先輩でもある帝塚山学院大学教授の山田俊幸氏ですが、私が2005年12月に編集して制作した本『語源』(PHP研究所・刊/雑学3分間シリーズ)では、その山田氏に監修をしてもらいました。庶民文化が花開いて、それに伴って言語表現も巷で急速に豊かになった江戸時代と、明治・大正の近代化過程をメインにして、100語ほどを集めてわかりやすく解説するという目論見で、山田氏と、当時の私の覆面ペンネームだった久坂圭、そして、20年来の付き合いのある歴史作家、後藤寿一さんと、その友人で三省堂辞書部や英語教科書編集者歴のあるO氏(ペンネーム:北岡敬)で、楽しく進めた仕事でした。
 かなりランダムに集まったネタを、章立てを整え直して、最終的な原稿のアンカーは、もちろん、私がひとりで務めました。その過程で、ページ調整の必要から私が書いた「コラム」をきょうはお読みください。暇ネタで申し訳ありません。
 なお、このコラムも、もちろん、元ネタは、山田氏や後藤氏から回ってきたものですが、味付け、膨らまし、その他の細工を、かなりしてしまいました。二人からは当時、こんなふうに書いてない、と叱られました。まあ、この種の実用書編集の宿命です。最近は、受け取った原稿を前に、手も足も出せずにそのまま流してしまう編集者や、場違い、無理解な改変をする校閲者も増えてきましたが、それは論外です。
 この仕事をしていた2004~5年頃、ほぼ1~2ヵ月に1冊くらいのペースで、このシリーズを1年半で10冊作りましたが、その内、今でも愛着があるものが7、8点ほどあります。幸せなことです。


(コラム/1)
●「箱入り娘」――異聞

 大正の終わりから昭和にかけて流行した「少女小説」というものがあります。「女学生」向けの読み物で、その中にはかならずと言っていいくらい、貧しい家の女の子と「深窓[しんそう]の令嬢」という女の子が対比的に描かれていました。この、「深窓の令嬢」というのが、まったくの世間知らずというか、世間から隔離されているというか、何かの事情で世間とまったく無縁の「深窓」の中だけの社会で暮らしていて、その令嬢が、どっぷりと社会の差別のなかで生活をして苦労している貧しい女の子と出会うところから、この手の小説は進んで行くのでした。
 「深窓」という言葉が出てくるだけで、その令嬢は身分の高い、近づきがたい家格の令嬢で、ほんとうにおしゃれな洋館の出窓の外から、ちらとしか見ることができなさそうな気がしてくるものでした。「深窓の令嬢」は、ただの「お嬢様」とは格段の違いなのです。「箱入り娘」の大正ロマネスク版とでも言えましょうか?
 街角にまだ原っぱがあった1950年代には、当時全盛だった「紙芝居」にも、そうした侵してはならない高貴な存在としての「深窓の令嬢」が登場していました。紙芝居のおじさんが甲高い声色をつくって、「まぁ、どういたしましょう。わたくしには、とてもとても……」などと、精一杯、上品なせりふを演じていたのを思い出します。
 この頃には「深窓の令嬢」は、ワルガキ共の憧れでした。どういうわけか、皆、病弱で、カーテンの影からチラリと色白の透けるような頬が見える、そんなイメージでした。
 こうした「深窓の令嬢」らしきものが登場する女子高生向けの小説は、多少姿を変えて、1970年代には「ジュニア小説」として生まれ変ったようですが、ずっとスポーティになってしまったのは、時代が元気一杯だった証拠でしょうか? 最近の韓流ドラマブームから、むかしの純愛小説が見直されています。「深窓の令嬢」も復活するかも知れません。


(コラム/2)
●「おでん」――異聞

 「おでん」の語源については、第1章にありますが、ここでは、少々別の角度から。
 昭和の落語名人、古今亭に『かわり目』というのがあって、そこには、ぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきた亭主が奥さんに酒を出せの、つまみを出せのと言い、さんざん奥さんにからんだあげく、「きのうの、あの……ペンはどうした」というせりふが飛び出します。奥さんが、「ペンてなんですか」と聞き直すと、「はんぺんだよ、はんぺんがペンで、こんにゃくがニャク」と説明するくだりがあります。これは東京落語ならではの会話で、その省略も大ざっぱでいいかげんですが、こうした符牒[ふちょう]で会話する東京人、江戸っ子のせっかちさがよく出ています。
 おでんの語源とされている「田楽」が「お田」となったのも、これと同じ省略かも知れません。しかし、志ん生流に「デン」と言ったのでは、わかりにくい。やはり「おでん」でなくては、どうにもすわりが悪いようにも思えます。「デン」の手前に「お」が付いているのは、女房詞[にょうぼうことば]にしたからだと第1章で説明しましたが、この「お」については、日常的に食卓を賑わす「おみおつけ」(みそ汁の丁寧な表現)が傑作です。
 「みそ汁」は、もともとは主食(ごはん)に対する「付け」だったものが、女房詞としての丁寧表現で「お(御)」がついて「御付け」となり、さらにそれに「み(御)」がついて「みおつけ(御御付け)」となり、さらにそれでも敬意が足りないと思ったのか、もうひとつ「お(御)」をつけて、けっきょく「おみおつけ(御御御付け)」となったというのを聞いたことがあります。これもまた落語のような話ですが、古典文学にめっぽう詳しい大文豪、川端康成が書いていました。川端がどこかで聞き知った知識に違いありませんが、こうした丁寧の連続は日本人にはよくあることです。「お田」を貴族階級の女房たちが好んだのかどうかは知りようがありませんが……。


(コラム/3)
●漢字で表記されたカタカナ地名――余聞

 本文では「イギリス」をなぜ「英国」と書くのかについては書きましたが、アメリカについては、「合衆国」の由来のなかで、中国での最初の漢字表記「亜美理駕大合衆国」の紹介しかしませんでした。御存知の方も多いと思いますが、日本では昔、アメリカを「亜米利加」と書くのが一般的でした。だから「米国」なのですが、これは日本と中国とに共通のルールがあるわけではなく、発音に近い漢字を宛てていただけなので、こういうズレが起こっているのです。 音を宛てた漢字表記の国名は、中国ではまだ続いていますが、日本はすべてカタカナ表記になったので、今では廃れてしまいました。それでも、イタリア(伊太利)の伊、インド(印度)の印、オランダ(和蘭陀)の蘭、カナダ(加奈陀)の加、スペイン(西班牙)の西、ドイツ(独逸)の独、フランス(仏蘭西)の仏、など、わずか1文字で通じてしまう便利さから、新聞、雑誌やテレビニュースの見出しではこの「漢字1文字」がよく利用されています。
 ただ、ロシアは「日露戦争」と書くように「露西亜帝国」だったのですが、革命があって一度「ソビエト連邦」になったとき、「日ソ」という表現が生まれ、ふたたび現在の「ロシア共和国」となったので、ややこしくなりました。ほとんどのマスメディアや公式団体が、帝国時代のロシアと区別するために、現在のロシアの略記を「ロ」としているのです。「日露」ではなく「日ロ関係」なのです。
 ところで、こうした漢字表記は、漢字を音として利用しているだけと言いましたが、時折、漢字の意味をしっかり考慮したものがあるのです。
 例えば「牛津」。これは「オックスフォード(=Oxford)」と‘読みます’。「オックス」が「牛」で、「フォード」は、舟などが寄せられる浅瀬という意味があることから、そうした意味の漢字「津」を宛てました。「ハリーウッド(=Hollywood)」は「聖林」と書きます。クリスマス飾りの赤い実のついた枝葉の「holly 柊[ひいらぎ]」からですが「wood」と単数なのに、なぜか「林」。「グリーンランド」というデンマークの自治領は「緑州」。これは、わかりやすい!





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大正・昭和初期――「楽譜絵葉書」の世界

2009年10月21日 12時03分30秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 以下は、今年の5月に刊行された『大正・昭和の乙女デザイン――ロマンチック絵はがき』(ピエ・ブックス刊/山田俊幸、永山多貴子氏との共著)に掲載した解説の一部で、「楽譜絵葉書」という大正から昭和初期に巷間で流行していたものについて書いたものです。その華麗で魅力的なデザインの実際は、直接、本をご覧いただくことにして、とりあえずは、「楽譜絵葉書」というものが生まれた時代について、ご興味を持っていただければ幸いです。
 まだこの分野の研究は、まったく手つかずのようです。ほとんど資料も何もないところから、少しずつ、解き明かしている最中ですが、いずれ、「楽譜絵葉書の世界」として1冊にまとめてみたいと思いながら、無名の民衆たちの大正期のパワーの凄さと、今は格闘しています。


■『大正・昭和の乙女デザイン』より、第三章・冒頭解説


《第3章》歌う――乙女たちと音楽と

 明治期の「唱歌教育」が、女子教育というものを意識し始めたということを端的に象徴したものに、『女学唱歌』(共益商社)という本がある。明治三三年に第一集、三四年に第二集が発行されたが、これが十年以上もの長い間にわたって版を重ね、大正期の女学生文化にまで影響を与えていることを忘れてはならない。今ではほとんどが忘れられてしまった歌ばかりだが、これが刺激となって生まれたと思われる明治四二年発行の『女声唱歌』(水野書店)になると、「ローレライ」「野薔薇」「菩提樹」など、今でも歌われている近藤朔風の訳による歌詞が掲載されている。このあたりが、大正、昭和の「女学生文化」=「乙女文化」の萌芽と考えていいだろう。こうした楽譜書の出版と時期を同じくして、少女雑誌、女学生雑誌の創刊が盛んになったが、一方で楽譜書も、大正に入ってからは、竹久夢二をメインとする表紙画で一世を風靡した「セノオ楽譜」のシリーズなどが、女学生の間で話題になっていった。
 意識しなくてはいけないことの一つに、この『女学唱歌』から「セノオ楽譜」までの十数年の歳月がある。すなわち、女学生向けの歌が広まったことによって、次の世代が発生したとは考えられないだろうか? セノオ楽譜に熱中した少女たちを育てた「母たちの世代」があるはずなのである。こうして大正期を初期から覆っていた「セノオ楽譜」に育てられた女学生たちが、今度は、大正末期から昭和初期に興った「童謡」を子育てのツールとしていくのは、自然の成り行きだったと思う。
 もうひとつ、大事な視点がある。それは、明治期の楽譜出版が全てといってよいほどに楽器店の副業に過ぎなかったのに対して、大正期に入ると、楽譜や歌詞を売ること自体が前面に出てきたことだった。これは、音楽が民衆のものへと開かれていったことを意味している。かつて、西洋音楽を奏でる楽器は大変に高価なもので、それは大正期にもそれほど変わってはいなかったが、マンドリン、ギター、ハーモニカなど、日本人の住宅事情やフトコロ事情に近づいた楽器が、次々に大衆化されていった。
 だが、何と言っても、元手がかからないのは、「声」である。女学生たちの合唱好きは、今日の「ママさんコーラス」の比ではなかった。女学生のための楽譜ということ、すなわち「女学生に好まれる」ということは、大正末期から昭和初期の出版界、レコード界にとって、重要なファクターだった。もちろん、「女学生」は当時の社会では、いわゆる「お譲様」で、一部の層に過ぎなかったが、「そうありたい」と願う多くの若い女性たちに支えられて、「女声唱歌」は大きなマーケットになっていた。だが一方で、レコードはもちろんのこと、楽譜書も、当時の多くの庶民にとっては高嶺の花だった。
 そこで、そうした女性たちの多くが、簡便な方法で印刷物となった「音楽」を手に入れられるツールとして、この時期に発達していた「絵葉書」が用いられたのは、当然の成り行きだった。多くは、現在では無名の作詞家、作曲家、画家たちの仕事だが、そうした楽譜絵葉書ともいうべきシリーズがあったことを知る人は少ない。大正の「乙女文化」は、こうして、実用絵葉書に大きく支えられて大衆化されていったと言えるだろう。
 楽譜絵葉書の多くは「月刊」で発売されていたようだ。月刊で絵葉書集を出すというのは、人気の高かった竹久夢二の《月刊夢二ゑはがき》を模したものだろうが、山田まがねの《月刊 マガネ集》では、そのキャッチフレーズは「譜と歌と画」だった。《月刊夢二ゑはがき》がイラストと歌詞のみであったことを考えると、楽譜付きの「譜と歌と画」というコンセプトの登場は新機軸だった。しかも、やがてその楽譜に、算用数字と記号が振られるようになる。ハーモニカの楽譜だった。それは、楽譜絵葉書の多くが、女性に愛情を伝える若い学生や、書生と呼ばれた青年たちによって購入され愛好されていたことをも示しているはずだ。歌は、愛を告げる「セレナーデ」でもあった。



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シューマン『交響曲第4番』の名盤

2009年10月19日 10時59分55秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第23回」です。


◎シューマン:交響曲第四番

 「第一番」に続いて作曲されたものの、そのまま一時しまいこまれて、改訂後、四番目の交響曲として発表された作品。全四楽章が休みなく演奏されるので、単一楽章の〈交響的幻想曲〉とも言える作品。
 この壮大なひとつながりのロマンを間断なく描き切った演奏として、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルのDG録音をまず第一に挙げなければならない。彼の残した全レコーディング中でも、五指に入る傑作だ。その天性の即興性が生み出す自在な音楽の揺れ動きと感情の高まりは、曲の構成と一体となって、聴く者を掴んで放さない。シューマン独特の靄がかかった響きから立ち昇ってくる憧れが、終楽章のプレストの彼方へ吸い込まれて行った時、この世界こそがシューマンが描いたものだと信じさせる、説得力のある稀有な名演だ。
 この演奏を別格とすると、堂々とした運びの音楽でロマン派の抒情の真実に迫ったクレンペラー/フィルハーモニア管盤の正攻法の響きが忘れ難い。深く沈み込む呼吸の中にも、くっきりとした旋律線を確保しているカンテルリ/フィルハーモニア管盤は、この三〇代半ばで急逝した指揮者の豊かな才能を伝えている。
 これらの過去の演奏と比較すると、こうした翳の濃い音楽での最近の演奏の変貌ぶりが顕著に現れるが、シャイー盤の混濁のない響きで全体が良く透けた風通しのよさは、ロマン派音楽の演奏の現在を伝える新鮮さで迫る。
 ところで、冒頭で述べたように、現在聴かれているこの曲は〈改訂版〉なのだが、〈初版〉で演奏されためずらしいCDがある。ゲオルク・シュメーエ指揮ベルリン放送交響楽団による演奏で、独コッホ/シュワン(ムジカ・ムンディ)から一九八八年に発売されている。かなり大幅な改訂が行われたことが、ちょっと聴いただけでもわかる興味深い演奏だ。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 この曲は、オケの響きがかなり混濁しているとして、演奏の「現場」で指揮者がスコアいじくることがしばしばある、と言われている。かのフルトヴェングラー盤も、そうではないかと噂されているはずだが、あの不完全なDG録音とオリジナルスコアを詳細に比較検討した「徒労のような報告」をした人を、私はまだ知らない。いずれにしても、私自身は、そうしたことは些細なことだと思っている。現場では似たことは膨大にあるのだから、この曲に限って、ことさらに言うことではない。
 メロディアに「ジョージ・セル編曲版」によるロジェストヴェンスキーの若いころの録音があり、それで、「セルがスコアに手直しをしている」という噂を確信したことはあるが、あまりおもしろい演奏ではなかった。ただ、第1楽章のヒステリックな音の咆哮がきれいに鳴っている、という印象は持った。ただ、だからどうした、というほどのことはない。カルロ・ゼッキの録音が、もしあれば、かなり「いじって」いると思う。そういう指揮者だったからだ。
 上記の文章で紹介している「初稿譜」は、第2楽章にはギターなども加わっており、かなり変わったサウンドの作品だったことがわかる。作品の原点としての「混沌」をこそ、大事にするべきだ、と改めて思ったCDだ。
 バーンスタインは、この曲に向いているように感じるが、彼の場合、シューマンは「第2番」が、とてもいい。
 レコード・CDに残すのが、むずかしい曲なのだと思う。





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『唱歌・童謡100の真実』の「月の沙漠」歌詞に訂正があります。

2009年10月16日 14時41分15秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 申し訳ありません。私の近著『唱歌・童謡100の真実』の読者の方から出版社に寄せられた質問が回送されてきて、間違いに気付きましたので、急いで公表します。もちろん、再版の時には直してもらいますが、もう流通している本の読者の方の一人でも多くの方の目に、このブログが触れますことを願っています。

質問は、『月の沙漠』の歌詞2番が、
  金の鞍には金の甕 銀の鞍には銀の甕
となっているけれど、
  金の鞍には銀の甕 銀の鞍には金の甕
ではないですか? というものです。

 以下は、出版社であるヤマハミュージックメディア出版部の担当、吉田厚子さんに宛てた返信メールです。そのまま掲載します。
 ほんとうは、あってはならないことなのですが、これからも、何か重要な間違いを発見したら、このブログ上に公表します。

==========================

お問い合わせの件。
申し訳ありません。単純な「誤植」です。
正しくは、

金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
二つの甕はそれぞれに
紐でむすんでありました。

です。
ただ、実は、この歌は、長い間、
この2番を省略して録音するのが通例となっていて、
(2番を省略して歌っても、
前奏、間奏、後奏とで3分を越えてしまい、
昔のレコードでは収まらなかったのです。)
私が拠りどころにして聴いていたレコードの歌唱で確認できず、
もちろん、付属の歌詞カードでも省略されていたので、
別の文献から補充しました。
ただし、初出である大正時代の「少女倶楽部」そのものは、
見られませんでしたので、あくまでも、後の文献からの再引用です。
私の本文にもあるように、作詞者に関係なく作曲された歌ですから、
作曲者が作って配布していたという手刷り楽譜の歌詞では
どう書かれていたのかも見なければならないのですが、
これも今のところ、見つかりません。
いずれにしても、私が歌詞を引用補充する際に、
金、銀の取り違えというか、
金と銀との「色合わせ」をしてしまったのだと思います。
初出文献ではなく、この歌が流行した後の文献ですから、
100%の確証はありませんが、流布本のほとんどが、
「金の鞍には銀の甕/銀の鞍には金の甕」ですし、
ここは、画家の感覚からして、金と銀との対比があると読み取れますから、
色合わせは「無粋なこと」のはずです。
申し訳ありませんが、
再版では修正しなければなりません。

御質問者に、よろしくお伝えください。
なお、私のブログにて、今日中に、訂正を公表します。




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ベルリーオーズ『交響曲《イタリアのハロルド》』の名盤

2009年10月14日 10時35分32秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第22回」です。


◎ベルリオーズ:交響曲《イタリアのハロルド》

 革新的な傑作「幻想交響曲」に感激したパガニーニが自身のヴィオラの名器のために作曲依頼したが、草稿段階で独奏楽器の華々しさに欠けるとして、作曲依頼は解消したと伝えられている作品。曲は、その間の経過を物語るように、ヴィオラ独奏付き交響曲という特殊な編成となっている。
 デイヴィス盤は、ゆれ動く歌には不足しているが、ベルリオーズ独特の不規則なフレージングを、速めのテンポで切れ込み鋭く鮮かに表現してまとめ上げたスタンダードな名演。第二楽章のハロルドの固定楽想と巡礼の行進、鐘の音の三者三様の音も巧みな距離感で見通しよく演奏している。今井信子の独奏も表情を押さえた端整さで、全体の意図とよく融合している。
 一方、ミュンシュ盤はポルタメントをわずかにかけながら進むプリムローズのヴィオラとわたり合いながらアチェレランドする冒頭アダージョや、瞬時に炸裂する音をまじえて巧妙に織り上げられた狂乱する音をニュアンス豊かに熱っぽく響かせる終楽章、牧歌的なのどかさを満喫させる第三楽章など、ベルリオーズを得意としたミュンシュならではの名演だ。
 二度録音しているマゼールは、一度目のクリーヴランド管(独奏ヴァーノン)とのものの方が、すっきりしたプロポーションと緻密なアンサンブルに徹していて、マゼール流に安定している。しかし、この曲が〈安定〉してしまうと喰い足りなくなるのも事実だ。第一楽章から、細部の音の噛み合わせが曇りなく聴こえてくるのはさすがだが、この曲はもっと混乱していたのではないか、と思わず不安になる。しかし、第二楽章、終楽章などは、確かに面白く書かれた曲だということが、よくわかる演奏だ。
 デュトワ盤は、流麗だが上品すぎるし、バーンスタイン盤は、思い入れの深さが足どりを重くしてしまっていて、それぞれ多少疑問はあるが、注目の演奏だ。


【ブログへの再掲載に際しての付記】
 コーリン・デーヴィス盤は、うまく表現できていませんが、要するに、強い印象のある演奏ではありません。いわば「無難な演奏」として挙げているわけです。デュトワ盤もそうです。最近は、むしろ、バーンスタイン/フランス国立管盤の匂い豊かな、うっとうしいくらいの演奏に魅力を感じています。
 この曲の隠れた名演盤として忘れてはならないのは、フィッシャー=ディースカウ指揮チェコ・フィルハーモニーの演奏です。ビオラ独奏はヨゼフ・スークで、70年代半ばの「デンオン」のPCM録音の1枚。F=ディースカウはバリトン歌手として後世に名を残す人ですが、その彼が、70年頃から、指揮者としても活動を始めていて、その内の1枚がこれです。他では、バンベルク響とのシューマン『交響曲第2番』(独アカンタ)、フーゴー・ヴォルフ管弦楽曲集(英EMI)が印象に残っています。ちぎれた旋律を瞬間瞬間ごとに歌うといった離れ業の独特の味わいが、シューマンでも、この「ハロルド」でも特異な効果を上げています。言わば、「異能」の指揮者だと思っています。
 ベルリオーズの『ベンヴェヌート・チェルリーニ』序曲と『ローマの謝肉祭』を異常なくらい何度も演奏会で取り上げているマゼールですが、おそらく「ハロルド」はお気に入りの曲のはずです。あまり同じ曲を何度も録音しないマゼールですが、最後に3度目の正直で、傑作を残してくれないか、と期待しているのですが…。
 魅力を十全に引き出すことが難しい曲です。





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水野貴子のリサイタルに寄せた一文

2009年10月12日 18時56分41秒 | クラシック音楽演奏家論



以下は、先日の当ブログでお約束したものです。2000年1月31日に執筆した「水野貴子リサイタル」に寄せた文章です。確かリーフレットに使用され、当日のプログラムにも掲載されたと思います。永竹由幸氏の「推薦のことば」に続けて掲載されたものです。
 当然、先日のブログに掲載したライナーノートと似た内容になっていますが、文中に出てくる二人の歌手のイニシャル部分は、もちろん実名が記載されていましたが、原稿を渡す前に、ただ「人」とだけの表現に書き換えました。もうあれから10年近く経ちましたので、イニシャルで掲載します。イニシャルを見ただけで、クラシックオペラに詳しい方なら、誰でもわかるでしょう。私としては、ほんとうはこう書きたかった、ということです。日本という国は、たとえ正当であっても、同業の人との比較批評は慎むという慣習がありますから(特に声楽界は)、水野さんに迷惑がかかっては申し訳ないと思って、当時は一切省いて入稿したものです。


●《推薦のことば》――――――――――音楽評論家 竹内貴久雄

 水野貴子は、イタリア・オペラが持っている〈歌の力〉を伝えることができる数少ない日本人ソプラノ歌手である。日本の演奏家の西欧クラシック音楽演奏への進出は、この30年ほどの間に著しい進展を見せ、それは難しいとされたイタリア・オペラ部門にも及び、戦前からあったいわゆる〈蝶々さん歌手〉といった特例を超えた故・東敦子のような歌手を生むに至っている。だが、そうした進展を受けた今日、〈歌の力〉を伝えてくれる人として、私は水野貴子に全幅の信頼をおいている。水野は、豊かな声に頼るばかりで平板に歌ってしまうS.S.とも、声の足りなさを技巧でカヴァーするM.N.ともちがう。声と技巧がしっかりと組み合った歌を聞くことができるのが水野貴子だからだ。このことは、既に発売されているCDアルバムで実証済みだが、その水野が、オペラ・アリアのみのリサイタルを開くという。イタリア・オペラの真髄が、ひとりの日本人ソプラノ歌手によって紀尾井ホールを一杯に満たすことだろう。例えば、CDでも素晴らしかったプッチーニの「私の名はミミ」。水野貴子の歌唱は、その絶妙のコントロールによる大きくゆるやかに揺れる歌と、そこに挿入される小さく濃やかに歌われる表情の豊かさが見事だ。そして、高く飛翔し、ゆるやかに弧を描いて舞い降りてくる。感情の大きな起伏がそのまま豊麗な音楽になる声の魅力。それは、「日本人が、ついにプッチーニを歌った」と言っても過言ではない至福の瞬間だ。そのことを実感するためにだけでも、私は、当夜、紀尾井ホールに駆けつけなければならないと思っている。もちろん、水野の魅力はイタリアものばかりではない。ドヴォルザークの名作『ルサルカ』の「月に寄せる歌」では、ともすれば声を張り上げるばかりのモノトーンに陥りがちな中で、水野は虹のようにカラフルな声を聞かせる。あの、手触りを感じさせる心に届く歌唱が、当夜の演目に入っているのもうれしい。ピアノは彼女が最も信頼しているオペラ伴奏の名手大塚めぐみである。息のあったところで、名唱を盛り立ててくれるにちがいない。


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水野貴子が歌う「にほんのうた」について

2009年10月10日 15時14分47秒 | 「大正・昭和初期研究」関連






 私の近著『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメディア)は、私にとって、日本人にとっての西欧音楽受容史への関心の高まりの中での成果のひとつとなったと思っていますが、そうした一連の調査や執筆の最初期に書いたもののひとつが、以下に掲載する文章です。
 これはソプラノの水野貴子さんによる『日本のうた』というCDアルバム第2集のために書いたライナーノートです。1998年3月3日に書き終えていますから、おそらく1998年5月新譜だと思います。もう廃盤ですが、さきほど、「アマゾン」で確認したら、中古が数点ありましたから、入手は可能です。ただし、タイトルがなぜか「日本名歌集Ⅱ」となっていますので注意してください。当時は、鮫島盤がよく売れていましたが、オペラ歌手が日本の歌を歌うCDは、かなりありました。水野さんもそのひとりくらいにしか思わない人がほとんどだと思いますが、日本の歌をどう歌うかを研究し実践するということでは、最も熱心な人でした。様々な事情が重なり合って、2集までしか世に問うことができなかったのが残念ですが、この2枚のCDの投げかけたものは、いずれ、正統に理解されて花開くと信じています。
 曲目解説、演奏者プロフィールなども、すべて私が書いたものです。今となっては、曲目解説は不満だらけですが、そのまま掲載します。決して、現在の私の認識ではありません。日本の唱歌、童謡に関する記述は、現在流布している文献にも、多くの問題があり、当時もそのことに気づいていましたので、ことさら、曖昧にして逃げているところもあります。今度の私の著書『唱歌・童謡100の真実』は、それらを突き詰めていった経過報告でもあります。
 いずれにしても、水野貴子さんは、日本人で初めてのチャイコフスキー・コンクール入賞者であり、私としては、日本人のオペラも、ついにこのレベルに来たか、と感慨を持った人です。水野さんについての小文がもうひとつありますので、それを次回、掲載します。

《ライナーノート全文》

■水野貴子の「日本のうた」の魅力
 水野貴子は、かなり層が厚くなったとはいえ、まだ決して充実しているとは言い難い日本のオペラ界にあって、数少ない本格的な歌手のひとりだ。水野のそうした実力は、既発売のCD『オペラ・アリア・アルバム』(CRCC18)で、その一端を聴くことができる。水野は、オンドレイ・レナルト指揮スロヴァキア・フィルの大きく揺れ動く自在な伴奏をバックに、息の深い、豊かな歌心が突き上げてくる堂々としたプッチーニを歌い切っている。
 その水野が、一方で、日本の歌曲に積極的に取り組んでいる。既にアルバムも一枚発売され(CRCC25)、今回のアルバムが第2集となる。
 これらで彼女が心がけているのは、全身で歌い上げるオペラティックなドラマ性をストレートに表出したのでは、日本の歌のこまやかさとに違和感を生んでしまうという、従来の表現法の再検討だろうと思う。過度の反省や忌避は、不自然に抑制された歌を生んでしまうが、水野は、どのようにして両者のバランスを保たせるかを真摯に模索している数少ないオペラ歌手のひとりだ。これは、簡単なようでいて、なかなか容易ではない。
 私たちが軽く口ずさむようにして親しんでいる歌に、大きな抑揚と深々とした呼吸のある音楽的充足感を与えつつ、違和感なく響かせることに、水野は成功している。水野で聴く「日本のうた」はどれも、スケールの大きな歌い上げから恐れることなく一歩も退かない、と感じさせるところが何よりの魅力だ。これは、水野の的確なコントロールが裏付けになっているからこそ達成できたことだ。
 水野の歌は、ピアニッシモからフォルテッシモまでの大きな落差が魅力だが、それは、じわりとにじみ出るような柔和な輪郭を持っている。例えば、『花の街』の第三節。「はるのゆうぐれ」のふわりと舞い上がった後ゆるやかに降りてくるあたりに、水野の美質がよく出ている。
 『ペチカ』で、「くりやくりやと」「いまにやなぎも」「ひのこぱちぱち」のフェルマータが優しく耳に残るのは、そこに至るゆるやかな弧を描くクレッシェンドが生きているからだ。
 『霧と話した』、『烏』、『別離』などでは、言葉の明瞭なこまやかさと大きな抑揚とのバランスが的確なので、ドラマティックな表現に少しも無理がない。『箱根八里は』は、この種の歌を歌うにあたっての、オペラ歌手としての水野なりの、ひとつの結論と聴くこともできるだろう。
 今回の第2集は、第1集以上に難曲が多く、至る所で水野の挑戦と、その成果を聴くことができる。私は彼女の歌で、さらに多くの日本の歌曲を聴いてみたいと思う。それはおそらく、明治以来の日本の作曲家が取り組んできた、西洋音楽の手法で表現される日本語の魅力を、正面から見つめるよい機会になるだろう。

■曲目解説
◎さくら
 江戸時代から歌われていた旋律のひとつ。音楽取調掛(明治十二年開設)から拡張して同二十年に創設されたばかりの官立東京音楽学校が著した『箏曲集』(明治二十一年発行)に、琴の入門曲として掲載された。江戸時代には『咲いた桜』の題で別の歌詞が用いられていたが、この時に歌詞が新作された。昭和十六年(一九四一年)には、小学唱歌として、さらに新しい歌詞が作られたが、これは現在ではあまり使用されていない。日本における西洋音楽的手法の先駆者である山田耕筰が、ピアノ伴奏の歌曲として編曲したものが定着しており、このCDも、それに拠っている。

◎ひぐらし
 第二次世界大戦の終戦直後に登場した作曲家、團伊玖磨は、オペラ『夕鶴』や六曲の交響曲などで知られているが、多くの歌曲も発表している。この作品は五曲からなる歌曲集『わがうた』の第三曲で、終戦後まもない昭和二十二年(一九四七年)に作曲された。作詞は北山冬一郎による。雄弁なピアノの旋律を突き抜けるように美しい歌唱が響く。フランス近代歌曲風の感覚にあふれた佳曲。

◎かやの木山の
 詩人北原白秋は大正十一年(一九二二年)九月に、作曲家の山田耕筰と共同で芸術雑誌『詩と音楽』を創刊した。毎号の巻頭には二人の共作による歌曲が発表されたという。日本歌曲に偉大な足跡を残したコンビが、最も充実していた時期だ。この『かやの木山の』は、ちょうどその頃、創刊に先立つ七月に書かれた作品で、『童話』(コドモ社)に発表されている。初冬のいろりばたで子供を寝かしつける子守歌だが、優れた情景描写の詞と変化に富んだ旋律によって、豊かな抒情の漂う歌曲となっている。

◎中国地方の子守歌
 元歌は、岡山県西南部の街道筋に江戸時代から伝わる民謡『ねんねん守の唄』。昭和三年(一九二八年)に、この地方出身のテノール歌手上野耐之が山田耕筰に歌って聞かせたものを、山田が採譜しピアノ伴奏を付け、芸術歌曲として同年四月に発表した作品。歌詞は三番まであるが、伴奏ピアノは同じ繰返しを三度行うのではなく、それぞれに独自に付せられている。

◎鐘がなります
 冒頭、鐘の音を模したピアノが印象的な作品。北原白秋と山田耕筰のコンビによるもので、詩が『中央公論』大正十一年(一九二二年)一月号に発表され、作曲は翌年五月に行われている。現われない恋人を待ち続ける切なさを歌った作品で、大正十五年に作曲者自身のピアノ、テノールの藤原義江が歌ったレコードによって広く知られるようになった。

◎うばぐるま
 山田耕筰が充実した作曲活動を展開していた大正末期に生まれた中田喜直は、戦後の日本を代表する歌曲作曲家のひとり。その中田のデビュー作ともいうべき代表作『六つの子供の歌』の第一曲にあたるのが、この『うばぐるま』。昭和二十二年(一九四七年)に発表された。六曲の歌詞はすべて、中田の少年時代の愛読書から採られているが、この第一曲は、多くの童謡の作詞でも知られる詩人、西條八十。「静かに淡々と」と指定された旋律が付けられているが、ピアノの変化にあふれた表現に合わせて、歌も様々な表情を聞かせる。

◎箱根八里は
 長い間、江戸と京都を結ぶ東海道一の難所と言われていた箱根で、馬子たちによって唄われていた『箱根馬子唄』が元歌。昭和二年(一九二七年)に山田耕筰がピアノ伴奏を書き、テノールの藤原義江が歌って発表された。

◎別離
 明治から大正期に詩人、評論家、英文学者として幅広く活躍した上田敏の遺稿詩集として大正九年(一九二〇年)十月に刊行された『牧羊神』には、三十二編の訳詩が収められている。これらは代表作とされている『海潮音』所収の訳詩のような自由な意訳ではなく、ほとんどが原文に忠実な逐語訳の清新な口語体で書かれている。ポール・フォールの『別離』もそうしたもののひとつで、團伊玖磨がそれに相応しいモダンな曲を昭和三十年(一九五五年)に付けた。上田敏の訳詩だけではなく、フォールの原詩でも歌うことができる。時代の隔たりも、国籍の違いも感じさせない、魅力あふれる作品だ。

◎たあんき ぽーんき
 前出の、中田喜直が昭和二十二年(一九四七年)に発表した『六つの子供の歌』中の第四曲。山村暮鳥の詩による。春を迎えた田んぼの生命力をほうふつとさせる、軽快なリズムの繰り返しの中に、中田らしい抒情が見え隠れする。

◎秘唱
 平井康三郎は明治四十三年(一九一〇年)に生まれたが、戦後も現役の作曲家として活動を続けている。『平城山(ならやま)』を始めとして、多くの歌曲、合唱曲など名旋律作家として知られているが、尺八、箏などの邦楽器作品でも重要な作品を残している。『秘唱』は西條八十の作詞による作品で、秘めた思いの中に、ずしりとした手応えを感じさせる堂々たる旋律が力強い。

◎花の街
 昭和二十二年(一九四七年)、第二次世界大戦後の混乱が終わらない東京は、まだ空襲の残骸と瓦礫の山に土埃が舞上がる殺伐とした風景がいたるところで目についた。江間章子は、NHKの『婦人の時間』の委嘱を受けて、「一日も早く、花咲く街になって欲しい」という夢と希望を託して、この詞を書き上げたという。團伊玖磨がこの詞に曲を付け、NHKの『ラジオ歌謡』で放送されると、この歌はたちまち日本中に広まっていった。
 なお、第一節の「春よ春よと/かけて行ったよ」は、江間のオリジナルでは「うたいながら/かけて行ったよ」だったが、発表当時に印刷を間違えたまま広まってしまったものだという。

◎ペチカ
 北原白秋が大正十二年(一九二三年)に南満州(現在の中国北東部)を旅行しての帰国後に作詞した。旅行に同行した山田耕筰が、同年十二月に作曲し、翌年発行の『満州唱歌集 尋常一、二年用』に収められた。題名は、始めは「ペチカ」だったが、後に「ぺィチカ」と定め、歌の発音も統一したとされているが、いまだに「ペチカ」として親しまれている。

◎霧と話した
 昭和三十五年(一九六〇年)に、鎌田忠良の詩に中田喜直が作曲した。日本語の語りかけるような自然な流れを、美しく旋律に定着させる中田の歌曲作家としての豊かな才能が、見事に結実した傑作だ。

◎烏
 前出の、中田喜直が昭和二十二年(一九四七年)に発表した『六つの子供の歌』中の第二曲。童話作家として広く知られる小川未明の詩による。シューベルトの歌曲『魔王』を思わせるようなピアノ伴奏が、重要な役割を果しており、短いが極めてドラマチックな作品となっている。

◎野薔薇
 同題のシューベルトやウェルナーの作品が広く知られているが、これは三木露風の作詞、山田耕筰の作曲によるもの。このコンビでは昭和二年(一九二七年)に作られた『赤とんぼ』がよく知られているが、『野薔薇』はそれよりずっと早く大正六年(一九一七年)の八月に作曲されている。露風が北海道登別の海辺に赴いた折に、絵葉書に走り書きして耕筰に送った詩に作曲したもの。

◎野の羊
 ユーモラスな味わいのある大木惇夫の詩に、服部正が作曲した歌曲。リズミカルな伴奏に導かれて、伸びやかでのんびりした野原の情景が広がるが、その中から浮び上がる淋しさのニュアンスが巧みに織り込まれている。

◎ゆりかご
 平井康三郎は十九歳の青年時代から歌曲の創作を続けているが、この作品も、そうした初期の作品のひとつ。作詞も平井によるもので、昭和七年(一九三二年)、二十二歳の作品だ。

◎浜辺の歌
 大正二年(一九一三年)に、当時京北中学の教員だった林古渓が作詞し、雑誌『音楽』に掲載された。作曲は成田為三で、大正七年(一九一八年)に発表された。本来、歌詞は四番まであったが、当時の出版社が勝手に三番と四番をミックスした三番の歌詞を作ってしまったため、作者は三番の歌われるのを好まなかったと伝えられている。現在では、二番までの歌として定着している。

◎月の砂漠
 大正十二年(一九二三年)三月の『少女倶楽部』に、当時人気さし絵画家であった加藤まさをが自らの絵とともに掲載した詞に、それを見て心動かされた佐々木すぐるが曲を付けたと言われている。

◎青い目の人形
 大正十年(一九二一年)十二月の『金の船』に発表された。作詞野口雨情、作曲本居長世のコンビによる童謡作品では、この『青い目の人形』のほかに『赤い靴』もよく知られているが、これは同じ月の『小学女生』に発表されている。同時期に書かれた二つの作品は、外国からやってきた人形と、外国に連れられて行った日本の女の子と、ちょうど設定が逆になっているが、いずれも、「外国」が遠い存在であった時代の発想として共通している。

◎朧月夜
 大正三年(一九一四年)六月に刊行された『尋常小学唱歌 第六学年用』に掲載された十九曲の内の一曲。以来、教科書の歌として生き続けている。高野辰之が、生まれ故郷の奥信濃の情景を描写して作詞した。この時代はまだ電気が普及していなかったので、菜の花は、灯油としての菜種油を採るために必要だったという。岡野貞一が作曲した。

◎花嫁人形
 作詞は大正から昭和初期にかけて美少女画で人気のあった蕗谷虹児による。大正十二年(一九二三年)の『令女界』に自身の挿絵とともに掲載された。西條八十に依頼していた詞稿が締切に間に合わず、急遽、代役として、挿絵担当の蕗谷が自ら詞も書いてしまったものだという。作曲は杉山長谷夫。

◎七つの子
 『青い目の人形』『赤い靴』を生んだ野口雨情、本居長世のコンビによる作品。大正十年(一九二一年)七月の『金の船』に発表された。

◎赤とんぼ
 『この道』『からたちの花』とともに、山田耕筰の代表的歌曲として知られている。作詞は三木露風で、大正十年(一九二一年)八月の『樫の実』に掲載された。作曲は昭和二年(一九二七年)一月に行われている。

■演奏者略歴
◎水野貴子
 東京芸術大学卒業、及び、東京音楽大学研究科修了。日本音楽コンクール、イタリア声楽コンコルソ、日伊音楽コンコルソなどで優秀な成績を収め、一九八六年の東京オペラプロデュース公演『ビバ!ラ・マンマ』で本格的デビュー。一九八八年にイタリアに留学し、同年、オランダのコングレスヘボウ大ホールでの『ランメルモールのルチア』でタイトル・ロールを歌ってヨーロッパ・デビューを果たす。以後、ジェノヴァ、パドヴァ、トゥールーズなどのコンクールに入賞。九〇年のチャイコフスキー・コンクール声楽部門で、日本人初の第五位入賞を飾る。その後シュトゥットガルトで学ぶ。九三年には二期会の『ラインの黄金』に出演。現在、二期会会員、東京音楽大学非常勤講師。

◎大塚めぐみ
 オルガニストの父の手ほどきで、幼少の頃にピアノを始める。十五歳の時に第二回青少年音楽コンクールに入賞。武蔵野音楽大学卒業後、ポーランド政府給費留学生として国立ワルシャワ・ショパン音楽院で学び、大学院課程を修了。その後、ウィーンにて、リート伴奏法をエリック・ヴェルバに師事。コレペティトールとしてヨーロッパ各地のオペラハウスで活躍。数多くの音楽コンクールの公式伴奏者としても招待を受けている。また、室内楽奏者、作曲家としても活躍している。一九九一年にはリオ・デ・ジャネイロ国際コンクール声楽伴奏ピアニスト部門で第一位を獲得。九三年にはウィーン国際オペラ・コンクールで、最優秀伴奏者賞を受賞。現在、ウィーン国立音楽大学常勤講師。


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ショパン『スケルツォ(全4曲)』の名盤

2009年10月07日 10時13分38秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第21回」です。

◎ショパン:スケルツォ(全4曲)

 ルービンシュタイン盤は、この曲の大きな身振りを、壮大なスケールで豊かに鳴らしたスタンダードな名演だ。様々な演奏を聴いた後で、結局このゴージャスな響きに圧倒されて「やっぱりかなわないな」と思う。これに対抗できるのは、ホロヴィッツ盤くらいだろう。
 ホロヴィッツは、4曲それぞれが折りにふれて録音されたもので、4曲をまとめて録音したものはない。代表的な録音は、1番が六三年のCBS、2番、3番が五七年のRCA、4番が三六年のEMI録音だ。ホロヴィッツ盤は、その切り立った表現の凄味にぞくぞくとする。舌を巻くうまさとは、まさにこういうものを言うので、強弱の振幅が大きく、弱音には一点のくもりもない。
 この二人の演奏のあとでは、アシュケナージでさえ、おもちゃのピアノのように聞こえてしまうから困ったものだが、ワルツのように自在なひらめきを極度に必要とする曲と違って、この曲は、彼の真面目なアプローチが比較的生かされている。しかし、ショパンの「スケルツォ」は、こんなヤワな曲ではないという思いはついてまわる。
 だが、これらの演奏はいずれも、この曲の緩急の大きな落差、振幅の大きさをどう表現するかに重心が置かれている。マガロフの場合は、そうした大きな落差はずっと抑制されている。だからと言って、全体が同じ色調に染まっていないところが、マガロフの強みだ。マガロフは、言わば全体をひとくくりのファンタジーに取り込み、その枠の中での繊細な振幅を聴かせることで、変化を表現している。ひょっとすると、これが、最もこの4曲の世界にふさわしいことかもしれない。
 全曲そろってはいないが、アルゲリッチの2番、3番(2種)や、ミケランジェリの2番などは、スタイルは違うが、それぞれに豊かな発想を聴かせてくれる。


【ブログへの再掲載に際しての付記】
 付け加えるべきことが2つだけあります。ひとつはアルゲリッチ。彼女には、この原稿を書いた後にも録音があるかもしれません。
 もうひとつ。これは大事なことです。前回のブログ掲載で言及したフー・ツォンに「スケルツォ」の録音があったような気がしますが、未チェックなのです。
 友人たちにもあまり信じてもらえませんが、この10数年間のショパンの新譜は、ほんとうに追いかけている時間がありませんでした。もしフー・ツォン盤があれば、おそらく素晴らしい演奏になっているはずです。フー・ツォンの音楽性とショパンの音楽の持つ寂寥感とが生み出すものがあるはずだからです。






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ショパン『ピアノ協奏曲第1番』の名盤

2009年10月05日 10時23分46秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第20回」です。

◎ショパン:ピアノ協奏曲第1番

 アルゲリッチ/ロヴィッキ盤は、ワルシャワでのショパン・コンクール優勝時のライヴで、即興的な感性のきらめきのある記念碑的名演の記録。かつてアルゲリッチ自身が「最も好きな自分の録音」と語ったとも伝えられている。高度の集中力とインスピレーションの飛翻に満ちたピアノで、伴奏のオケからも、この天才ピアニストの演奏に接しての共感が、その音色や絶妙の〈間〉から伝わってくる。ソリスト、指揮者、オーケストラが不思議なほど三位一体となった即興性の高い演奏だ。これは確かに、アルゲリッチにとっても二度と還ってこない、ある特別な一日の貴重な記録だ。最近、九二年のライヴ盤(ワルシャワ)が発売されたが、ここでもアルゲリッチのひらめきは健在だ。自在に飛び交う、何物にも囚われない音楽の〈時〉は、このピアニストが、長い年月を経てもなお純真さを失っていなかったことの証明だ。ただ第2楽章は以前にも増して懐かしく歌うように呼吸が深く、第3楽章は生き急ぐかのように畳みかける。ショパンの「青春」との付き合い方のスタンスが変化しているわけだ。
 この曲のピアニスティックな魅力が聴かれる演奏として、ギレリス/オーマンディ盤は、もっと聴かれてよい演奏だ。音の粒立ちのよい音楽的純度の高いピアノが、とにかく魅力だ。オケの溌溂とした若さと、澄んだ音づくりもよくマッチしている。打鍵力の本当に優れたピアニストの持つ弱音の透明感もすばらしく、ピアノという楽器の美しさが堪能できる。
 フー・ツォン/タン盤は、自在なテンポの揺れ動きが、深い溜息のような息づかいの音楽として自然に表現されている。この独特の間合いから、匂い立つ寂しさに、ショパンの魅力を嗅ぎ取る人も多いだろう。また、一九五四年録音のフランソワ/ツィピーヌ盤も、その揺れ動く音楽の魅力で、独特の説得力を持っている。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 ギレリス盤を別格の演奏として、それ以外の演奏で、この文章を書いた当時の私がこだわっているのが「音楽の揺れ」にあることは明白です。それは、今も変わっていません。ただ、例えばワイセンベルク/スクロヴァチェフスキー/パリ音楽院というチームで録音された1番、2番ほか、ピアノと管弦楽のための作品集(EMI原盤)を聴くと、この曲を意識的に演奏することの面白さと難しさが一気に噴き出してくるのがわかります。とても肩に力の入った演奏で、様々なことに気づかされることだけは間違いありません。ポリー二には似合わない曲だということが、そして、だからこそアルゲリッチ、フランソワなのだ、ということを、皮肉にも確信させてくれます。




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「唱歌・童謡100の真実」は、こういう本です。

2009年10月02日 10時41分29秒 | 「大正・昭和初期研究」関連






 昨日のブログUPの後で、友人から電話をもらい、「あれじゃ、どんな本だかわからない」と言われてしまいました。たしかに、昨日掲載した「あとがき」には、そういう役目を持たせていませんでした。きょうは、どんな本で、どういう考えでまとめられたかを示している「まえがき」と「凡例」を掲載します。

 ところで、この本の表紙(昨日、このブログにも掲載しました)と、本扉のイラストは、つい先ごろ赤坂・紀尾井町の「ニューオータニ美術館」で展覧会が開かれ、新刊の作品集なども出て、にわかに脚光を浴びている大正末期から昭和初期に活躍した絵はがき・絵封筒のデザイナー「小林かいち」の作品を使用しています。この忘れられていたデザイナーの残した仕事をまとめる書籍の編集に携わったことから、今度の私の著書へのデザイン使用が実現したものです。その書籍は『小林かいちの魅力』(清流出版)です。また、2年前、「かいち再発見」へのトレンドの先鞭を付けた『小林かいちの世界』(国書刊行会)が、刊行後に新たな事実が発見されたりで、様々な修正点が発生してしまったことを受けて「改訂再版」を年内に発行する予定で進行していますが、その校訂・編集も私が担当して進めています。昨日もこのブログで書きましたが、私にとって「大正・昭和初期の文化史」は、音楽を基幹にしつつも総合的な関心事なので、充実した毎日を、このところ過ごしています。

 余談ですが、先日「乙女のクラシック」の高野麻衣さんと、「クラシックスナイパー」の打ち合わせの飲み会でお会いしたときに「麻衣さんにぴったりの本だから」といって進呈した『大正・昭和の乙女デザイン――ロマンチック絵はがき』(ピエ・ブックス)も、その派生でした。これは執筆に参加している私が自分で言うのも何ですが、実におもしろい本です。高野さんには、自身のブログ「乙女のクラシック」で感想を拝見するのを楽しみにしています。


■『唱歌・童謡100の真実』「まえがき」

 この本は、明治時代から今日に至るまでに生まれた「唱歌」「童謡」の中から、私が一〇〇曲を選び、それぞれの歌をめぐるエピソードなどを新たに調べ直して書いたものです。一〇〇曲の選択に当たっては、第二次大戦後に生まれた世代の記憶の中にあるものを中心にしましたが、その際に特に大切にしたのは、毎日の学校生活と放課後の日常生活の中での、子どもたち自身の「音楽の記憶」です。昭和三三年に制定され、どの出版社の音楽教科書にも必ず掲載されていた「必修教材」が多く選ばれているのは、そのためです。もちろん、当時小学生だった戦後の子どもたちが、「戦争をくぐり抜けてきたおとなたち」である両親や、おじいさん、おばあさんから教えられた歌、あるいは戦後民主主義の時代の自由な放送から聞こえてきた歌なども含まれています。
 それぞれの歌には、その誕生にまつわる秘話や、創作の背景にある「謎」、作者たちの興味深いエピソードなどがあります。それらは、これまでにも様々な書籍で紹介されていますが、その多くが、面白おかしく語られた「作り話」を、さらに引用したものに過ぎないということが分かってきました。いわば、おもしろ話が「伝言ゲーム」のようにして、広まってしまったのです。インターネット社会が発達した現代では、その現象に益々拍車がかかっています。大量に飛び交う情報は、正しく選別され、比較検討されなければなりません。
 この本は、そうしたこれまでの数々の秘話や情報を、一つ一つ丹念に調べ直すことから始められました。多くの人に信用されている本でさえ、発行以来長い年月を経て、今では訂正されるべきなのに放置されたままだったということも、わかってきました。その意味で、この本は、これまでの積もり積もった誤情報を洗い落としたものとも言えるでしょう。これからのち唱歌・童謡を振り返る機会に、第一番に傍らに置いていただける本となることを願っています。


■『唱歌・童謡100の真実』「凡例」

① 本書は、明治時代から昭和三〇年代までに多くの子供たちに歌われた歌の中から一〇〇曲を選択し、それぞれの歌が生まれた事情などについて述べた。これまでの多くの「唱歌・童謡」について解説された内容と異なっているとすれば、それは本書執筆のために筆者が調査した結果である。
② 配列は制作順を原則とし、詞と曲との制作時期が異なるもの、不確定なもの等については適宜、筆者が判断して配列した。全体を四章に分割したが、これは、「唱歌・童謡」制作と社会情勢との関わりにおける重要な境界線として筆者が判断したものである。
③ 本書収録の歌詞は、初出を参考にしながらも、その後の変遷を調査し、最終的に筆者の判断で掲出の詞を決定した。併載の参考譜例は、それに準じてヤマハミュージックメディアに作成をお願いした。詞、曲ともに細部の異同については、出来る限り本文中で触れるように努めた。
④ 本書掲載の作品のタイトルおよび詞の文字づかいは、初出時の表記を参照し、それを尊重しながらも、現代の読者にとっての読みやすさと読み誤り回避に配慮して、最終的には筆者の責任で校訂した。漢字の読みに関しては、初出文献のルビ、創唱者のレコード音源の聞き取りなどから、筆者が決定した。その結果、この数年の間に様々の書籍で書き換えられたもので、本書で敢えて元に戻した表記もあるが、それは筆者の調査による判断の結果である。
⑤ 「文部省唱歌」という呼称は正式には存在しないが、本書でも、既に大方の共通認識となっているとおり、明治四三年の『尋常小学読本唱歌』以降、昭和二二年の国定教科書に掲載されたものまでを「文部省唱歌」とした。明治期の様々の書籍で「唱歌」を標榜した作品にも「唱歌」という名称を用いたが、もちろん「文部省唱歌」とはしていない。
⑥ いわゆる「文部省唱歌」は、その作詞者、作曲者が一切公表されなかったため、全て、後代の推論である。多くの研究により確定したとされる説はそれを表記したが、まだ議論の余地の残るもの、推論の段階とするべきものも、出来る限り「(?)」を付して掲出した。その中には、筆者自身の推論であって、本書によって初めて公にされるものもあるが、それらに関しては本文中に経緯を示した。
⑦ 「童謡」という呼称の定義は明治から大正期にかけては相応の揺れがある。これに関しては、本書では、大正期半ばに起こった童謡創作運動以後、昭和初期に定着して今日に至っている「童謡」という語のイメージで用いている。詞・曲の発表時に「少年唱歌」「女学唱歌」「児童唱歌」「新作小唄」など、「童謡」と表記していないものも、適宜「童謡」とした。「文部省唱歌」誕生以後に生まれた公教育用以外の子どものための歌、として理解されたい。
⑧ 左欄下の「作品メモ」の「初出」「レコード発売」および、その歌手に関しては、出来る限り調査して掲出するように努めた。ただし、楽譜での初出、レコード・放送での初出に関しては不明なことも多かった。
⑨ 巻末の各索引の項目、特に事項索引の項目選択は、本書を日本の近代史上に置いて考察するという意図による筆者の恣意的な作業であることをお断りしておく。なお、索引の選択対象は、本文中だけではなく、本書の様々な項目のすべてに及んでいる。



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「唱歌・童謡100の真実」という本を書きました。

2009年10月01日 10時30分04秒 | 「大正・昭和初期研究」関連
 新しいカテゴリー「大正・昭和初期と《音楽》の研究」を、本日より始めます。
 このブログ内でも再三発言していますが、私は、いわゆる西洋クラシック音楽の日本での受容史には、以前から関心がありましたが、その、最もドラマチックな時期が「大正・昭和初期」だと思っています。レコード産業が本格的にスタートしたのもこの頃です。私が、この時代に関心を持つに至った背景をひとことで語るのはむずかしいのですが、つい最近、ヤマハミュージックメディアから出版したばかりの新刊『唱歌・童謡100の真実』(写真参照)に掲載した「著者プロフィール」と「あとがき」を、以下に全文掲載して、それに代えたいと思っています。
 新刊図書のPRで申し訳ありません。
 もちろん、「もうクラシック音楽について書くのは飽きてしまった」、というわけではありません。11月1日発売予定の『クラシックスナイパー 5』(青弓社)に、また書きました。「クラシック迷演奏家列伝」というおもしろいテーマを、編集主幹の許光俊氏からもらいましたので、入稿しました。もちろん、このところ続けている「名盤・奇盤の博物学」シリーズの一文としてのものです。(これもPRですね。)


■『唱歌・童謡100の真実』に掲載した「著者プロフィール」

 書籍編集者、音楽研究家。1949年生まれ。音楽書の校訂・編集では『ウィーン・オペラ』(ウィーン国立歌劇場350年記念国際出版書の日本語版/リブロポート刊)、音楽之友社の『大作曲家シリーズ』、泰流社の『ムジカ・ゼピュロスシリーズ』『ヤナーチェク―人と作品』などを手掛けている。詳細な調査を行って解説執筆したCD『黎明期の日本ギター曲集』(演奏:山下和仁、日本クラウン)が文化庁主催芸術祭大賞を受賞して以来、西洋クラシック音楽の日本への移入史に深く関心を持ち、研究を続けている。共著書の『大正・昭和の乙女デザイン』(ピエ・ブックス)では、大正・昭和初期の無名の民衆から生まれた音楽遺産としての「楽譜絵葉書」に、初めてスポットを当てて論及した。その他、編著書、CD解説多数。


■『唱歌・童謡100の真実』「あとがき」

 私は、昭和三一年四月に小学生になった。いわゆる「団塊の世代」のひとりである。東京近郊の町に育った私の家の近くには、メダカや小ブナやザリガニの捕れる池や田んぼがあり、戦争ごっこやチャンバラをする原っぱがあった。いつも、どこに行っても、子どもたちの歓声が聞こえていた。抜き足差し足で、人の住んでいない廃屋に入り込む冒険や、庭に敷いたゴザに座って女の子たちに交じってママゴト遊びをすることも出来たが、そこでも、カサコソと、何か怪しげな音が聞こえていた。上空を轟音を響かせて飛ぶヘリコプターから撒かれる広告ビラを追いかけて、隣り町まで行ってしまったことも、川の土手で寝そべって、ポンポン蒸気の船の音を子守歌のように聴きながら眠ってしまったこともあった。時折やってくる「ロバのパン屋」のかけるレコードの歌声や金魚売りの呼び声、紙芝居のおじさんの拍子木の音、豆腐屋のラッパ、らお屋のキセル掃除の甲高い音……、様々な情景の思い出に、いつも「音」があるのは、昭和三〇年代の町は、今と違って、様々な音に耳を澄ませることが出来たからだと思うが、私の記憶の中で「音」の印象がことさらに鮮明なのは、おそらく、他にも理由があることなのだと思う。
 私の父は「児童舞踊家」だった。様々の童謡や音楽劇に振り付けをして、子どもたちに教えていたひとりだった。昭和三〇年代には、全国のいたるところに、そうした舞踊スタジオがあって、子供たちが踊っていた。だから、私の家には山のように童謡レコードが溢れていた。毎月、レコード会社各社から、新作のレコードも見本盤として送られてきた。いつのころからかは忘れてしまったが(おそらく小学五年生くらいからだったと思うが)、父の膨大なレコードを試聴して分類・整理してレコード棚に収めるのは、本好きのために外で遊ぶことをしなくなってしまった私に、父が与えた遊びを兼ねた「仕事」となっていた。私は現在、クラシックレコード・CDの収集家、音楽評論家ということにもなっているが、私の「名盤選ゴッコ」や「聴き比べゴッコ」は、そのころからのことなのだ。そんなふうにして育った私が、書籍の編集者となり、やがて、仕事の合間に時間を作っては音楽の研究を始めるようになってしまったのは、決して偶然のことではなかったと思う。
 本書の執筆は私にとって、久しぶりに、心の底から懐かしく、楽しく、進められた。だが、こんなにもたくさんの事を思い出させてくれた経験をしたことはなかったし、こんなにも多くの先達の努力の跡に感動しながら進められた研究もなかった。このささやかな成果を本にしてくれたヤマハミュージックメディア出版部の皆さんに、感謝している。担当の吉田厚子さんには、原稿の内容チェックの際に、打ち合わせ室の脇に置かれたピアノで実際に弾いて確認するという労までしていただいた。
 私の書いたこの一〇〇曲のエピソードは、どこからでも読めるように編集してある。索引を利用して、特定のテーマを追いかけることもできる。それらは、書籍編集を長年してきた私の、私なりの工夫と自負している。従って、この本は、どこからでも拾い読みができるのだが、一度、ページの最初から順を追ってゆっくりと通して読んでいただきたいとも思っている。ひとつながりの歴史のドラマが感じられるはずなのだ。そして、特定の、ほんの数ヵ月に集中して傑作が生まれ続けている時期がいくつかあることにも、気付いていただきたい。それが、その時代に居て、互いに刺激され合って創作をしていた人たちの、生きていた証しなのだ。
 執筆に当たっては、多くの書籍、レコード・CD、インターネット上の情報を参照したが、それらの真贋を見極める作業には、思いのほか手間取ってしまった。全部は「参考文献」に挙げきれなかったが、多くの方々の真摯な情熱の成果を充分に活用させていただいた。かなりの頻度で見かけた悪意さえ感じられるねつ造情報は、注意深く排除したつもりだが、それらを信じてしまっている素朴な童謡ファンが多いことに、暗澹とした気持も持った。本文中でそれらをことさらにあげつらうのは、意識して避けてきたつもりである。「真実」だけが美しく輝けばよいからである。私の研究の不備については、読者の皆さんのご叱責を待ちたい。まだまだ、研究は続けなければならないと思っている。

二〇〇九年八月三〇日 東京・葛飾にて    竹内貴久雄


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