goo

フランク:『交響曲ニ短調』の名盤

2010年02月26日 12時14分49秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第37回」です。



◎フランク:交響曲ニ短調

 この曲では、各主題・動機のつながりを明瞭にしながら、オルガンの大家でもあった作曲者が求めている重層的な音響を実現することが大切だ。また、息の長いフレージングで粘りのある音楽を持続させることも望まれる。
 アンドリュー・デイヴィス/ニュー・フィルハーモニア管盤は、副旋律との巧みなバランスで曲の構造をくっきりと聴かせる第一楽章から、重すぎない響きを確保しながら、充実した粘りある音楽のうねりを聴かせてくれる。第三楽章も弦のトレモロを少々引きずりながら、管の輝かしいフレーズを高らかに鳴らす色彩感に対する配慮もよく行届いている。指揮者もオケもベスト・コンディションと言ってよい力演だが、決して前のめりな音楽にならず、この曲の第一、第三楽章のアレグロが、いずれもノン・トロッポ指定であることの意味が納得できる、感性と情熱の均衡のとれた演奏だ。
 バルビローリ/チェコ・フィル盤は、たっぷりと溜めた深い呼吸で、繰り返し寄せては返すフレーズの淀みない揺れ動きや、優しい慰めを湛えた木管の響きなど、大きくうねる音のドラマを「全身で表現した」と言えるような感動的名演。
 モントゥ/シカゴ響盤は、抜けの良い乾いた音づくりに徹している。うねらず、粘らず、引き摺らず、くっきりとした音の輪郭を手際よくたどって行く。しかし、エネルギッシュな力強さは失われていない。第二楽章での克明な表現も、モントゥならではの名人芸。終楽章ではラテン的な明るさを引出しながら堂々と結んでいる。
 シャイー/コンセルトヘボウ管盤は、この曲のオルガン的響きを配慮したシャイーの、金管群に重きを置いた弦とのバランスを保つオーケストラ・ドライブに、応えるオケも底力を感じさせる素晴らしい響きだ。最近の録音では理想的な演奏の一つだ。


《ブログへの掲載にあたっての追記》
 この文章に付け加えることがあるとすれば、モノラル時代のもので、フルトヴェングラー指揮の英デッカ正規盤と、クリュイタンス指揮の仏パテ(EMI)盤かも知れません。この曲が生まれた背景にあるフランス近代前夜のドイツ絶対音楽に対するコンプレックスを考えた時、フルトヴェングラーのドイツ・ロマン派音楽に寄った演奏と、クリュイタンスの徹底してフランス近代の響きへの傾斜とは、好対照です。そして、その両者の背景にあるもの、フルトヴェングラーにとっては、その戦後に端緒に着いたばかりだった明瞭な響きの追求が、クリュイタンスにとっては、ベルギー国内に根強くあるドイツ的響きからの脱却が、それぞれ、この曲を媒介にして、とても顕著に感じられます。興味深い演奏を引き出す要素を持った曲なのです。








goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

「ストコフスキー/ロンドン告別コンサート」のCD、異聞、あるいは醜聞。

2010年02月23日 11時54分41秒 | 雑文


 昨日のブログには「ストコフスキー/ロンドン告別コンサート」のCDが発売された時のライナーノートを掲載しました。あのCDは、その後、CDの本質とは無縁のつまらないことで話題になってしまいました。そのことを、昨日のブログで「付記」として書き加えたのですが、やはり、本質に関わらないことが一緒に付いているのはとても醜いような気がしてきましたので、分離して本日再掲載します。せっかくのストコフスキーの晩年の名盤に寄せたライナーノートですから、それだけで読んでいただきたいのです。
 ――というわけで、昨日のうちに、分離・修正前にお読みになった方にはご迷惑をおかけしますが、以下は、昨日いったん掲載したものです。


【ブログへの再掲載にあたっての付記】
 このCDが発売された当時、「レコード芸術」誌の月評で宇野功芳氏が、まったく演奏を聴かずに、ストコフスキーの選曲をけなすという珍妙な評が掲載され、私が、そのことについて洋泉社から刊行された本の中で、高校生時代に訪ねたことのある宇野さんとすっかり変わってしまったと嘆いて書いた文章は、ネット上でもかなり独り歩きしているようで、その日の私の落胆ぶりまで、まるで講談話のように面白おかしく、実況中継風に書いているねつ造ものまで発見しておどろきました。
 その私の書いた洋泉社の文章は、当ブログ、2008年9月17日「演奏家の『晩年』を考える」に再掲載してある「啓蒙主義者の美しき晩年」がオリジナルです。それ以上のことはありません。――が、私が若き日に宇野さん宅に押し掛けるほどのファンであったこと、その宇野さんがすっかり変わってしまって、むしろ軽蔑したくなるようなことを平気でお書きになったこと、これは事実です。

 ついでながら、私がこのブログで、15年も20年も昔に書いた「名盤選」や「ライナーノート」をそのまま掲載しているのは、私自身の整理のためが一番の目的ですが、今読んでいただいても、当時のレコード会社の事情に配慮したりしていないので、少しも訂正するところがないということを示したいという気持ちもあります。先日、昭和40年代に(つまり私の高校生時代に)レコード会社におられた方とお会いして、昔話などをしましたが、10年前、20年前の評論が、そのままで、今でも意味を持つように書いている人は少ない、と言われましたが、それは嬉しいことです。毎回、原稿を書くたびに「これが一番!」を強弁していては、空しくなります。個々の演奏を、歴史の流れの中に置いて評論しなければなりません。私が様々な曲の「演奏史」を私なりに構築しようとこだわリ続けているのは、そのためです。





goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

「ストコフスキー/ロンドン告別コンサート」

2010年02月22日 16時05分13秒 | BBC-RADIOクラシックス


 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、合わせてお読みください。

 以下に掲載の本日分は、第1期30点の7枚目です。


【日本盤規格番号】CRCB-6017
【アルバムタイトル】「ストコフスキー/ロンドン告別コンサート」
【曲目】クレンペラー:メリー・ワルツ
    ヴォーン・ウイリアムス:タリスの主題による幻想曲
    ラヴェル:スペイン狂詩曲
    ブラームス:交響曲第4番 作品98
【演奏】ストコフスキー指揮/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
【録音日】1974年5月4日    

■このCDの演奏についてのメモ
 ストコフスキーは1882年にロンドンで生まれた。戦前からのクラシック音楽のファンで、この名前を知らない人はいないだろう。SP録音期から、ベストセラーになったレコードは数多くあり、おそらくレコード史上、トップクラスの人気を最も長く保持していた長寿指揮者だったろう。90歳を越えて、まだ現役だった。
 22歳でアメリカにわたり、わずか29歳でフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者の座を射止め、以来、アメリカ楽壇の寵児となったサクセス・ストーリーの持主だが、本質的には英国紳士風ダンディズムの人だった。銀髪を揺らせての、お洒落で華麗な指揮ぶりは有名だった。独自の解釈による強調や改作をかなり行ったが、それぞれの音楽の〈魅力〉に忠実と言える見識が不思議な説得力を持っており、音楽の大衆化に半世紀以上にわたって尽力した。
 晩年1972年にイギリスに戻り、指揮活動を続けたが1977年に世を去った。このCDは、ストコフスキーの92歳を祝うコンサートの全貌。イギリスでの公開のコンサートとしては最後のもので、後には数枚のレコーディング演奏があるだけ。この日のメイン・プログラムであるブラームスの交響曲も、約1カ月後にはRCA系でスタジオ録音されている。当時最先端だった4チャンネル・ステレオ録音で、「SPから4チャンネルまでを体験したただ一人の指揮者」と話題になった。生涯現役で、引退のことなど考えたことがなかったと言われるだけあって、この最後のライヴ録音も万年青年の面目躍如たるものがある。情熱的に迫るブラームス演奏の若々しさからは、この指揮者の生涯を貫いていた〈わかりやすい〉音楽が、どれほど大切であるかが伝わってくる。音楽を聴く喜びについて考えさせられる感動の一夜の記録だ。(1995.7.21 執筆)


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

「『アランフェス協奏曲』のレコード史」の続き…、そして菅原潤さんのこと。

2010年02月19日 00時24分22秒 | エッセイ(クラシック音楽)



 昨日掲載した「『アランフェス協奏曲』のレコード史」の原稿の続きが、別のフロッピー・データの中に眠っていました。それで思い出したのですが、菅原潤さんに一度、昨日の当ブログに掲載したテスト原稿を見せた時、彼が「いつまでもイエペスだと思いますか?」というような発言をして、私が「もちろん違うと思う」とお話しすると、「イエペス後について、どう見ているかを読みたい」といった話が出て、書いたものだったように思います。彼とは、ほんの少しの期間だけでしたが、ほんとうの刺激を与えてもらいました。忘れられない人のひとりです。

 以下に、追加部分を掲載します。


 1964年10月新譜だったブリームの初回録音(伴奏はコリン・デイヴィス指揮ミロス室内管弦楽団)のLPを中古店で500円で入手したので早速聴いてみた。ひと言で言えば、カッコイイ演奏である。テンポは早めでリズム感がよく、すっきりとしていて、スマート。わくわくしてくる演奏とは、こういうものだろう。ギターがビンビンと響く押し出しのよさ、グイグイと引きつける音楽の力強さは、第2楽章に入っても変わらない。イエペスの演奏では、噛んで含めるような音楽の運びが、独特の陰影を生んでいるが、ブリーム/デイヴィス盤は焦点がピタリと合った写真のような鮮明さが大きくせり出してくる。今聴くと、終楽章の1音が鳴り終わった瞬間に「やったね!」と思わず言いたくなるような小気味よさだが、発売された頃はどうだったろう。当時のレコード評で確かめられないが、イエペス盤と比べられて「余情に欠ける」とか「若すぎる演奏」とか言われて、排されたのではないかと思われるような、まったく異なった印象を受ける演奏だ。
 一方、イエペスは、アルヘンタとの録音の約10年後の1969年にアロンソ指揮でドイツ・グラモフォン系に再録音し、その陰りのあるニュアンスにますます磨きがかかった。伴奏の強弱の落差も大きく、寂しさの跡が色濃く残る演奏へと傾斜している。この盤が出た頃、少なくとも日本では「さすがイエペスの境地」と讃えられた記憶があるが、60年代から70年代に、ギター音楽に、もの悲しさ、寂しさを感じ取っていた人たちの原点は、イエペスのギターにあったように思う。
 だが、その後『アランフェス』は、ジョン・ウィリアムス盤やアリリオ・ディアス盤を始めとして、ブリーム/デイヴィス盤が開いた世界の方へと、大きく変貌を始めた。その意味でブリ―ムのレコードは、歴史を作った録音であるに違いない。



goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

「アランフェス協奏曲」のレコード史

2010年02月18日 11時56分57秒 | エッセイ(クラシック音楽)



 以下は、今年の秋に出版予定の本の関係で、私の過去の原稿データ・フロッピーの中を確認中に発見したものです。1999年の終わりごろか翌年のはじめに執筆したはずですが、未発表のものです。
 当時、私は『現代ギター』に「日本ギター界 黎明期の作曲家たち」という読み物を連載中でした。「黎明期の日本ギター曲集」というCDアルバムが山下和仁氏の演奏で日本クラウンから制作・発売されたのを受けてのものでした。そのころ同誌の編集長だった故・菅原潤氏とお話しているうちに、「ギターのLPレコードについて、何か書いてみませんか」ということになって書いたものだったはずです。「少し難しすぎるかなあ」といった感じで、保留になったまま、私も、すっかりこの原稿の存在を忘れていました。最初、フロッピーの中から出てきた時、どこのために書いたものだか記憶がなくて戸惑いましたが、しばらくしてようやく思い出しました。

 そういえば、菅原さんが、つい先ごろお亡くなりになったということも、聞きました。ギター音楽に終生、変わらぬ愛情を注いでいた菅原さんのご冥福をお祈りいたします。
 菅原さん、ありがとうございます。これは、あなたと語り合ったことから生まれた原稿です。戦後日本で発売された海外アーティストによるギターのレコードについて興味を持てたのは、あなたとお会いしたからでした


■「アランフェス協奏曲」のレコード史
 ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」は、ギター協奏曲としては最もよく知られた作品だ。1939年に書き上げられ、1940年11月にバルセロナで初演された。初演のギターを弾いたのは、作曲技法にも深く関わったと言われているレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ(1896~1981)で、伴奏はセサール・メンドーサ・ラサーリェ指揮バルセロナ・フィルハーモニー管弦楽団だった。
 このデ・ラ・マーサは「アランフェス協奏曲」の世界初録音も行なったらしい。同曲世界初録音と称する音源が、かつて山野楽器からCD化されて発売になったが、伴奏はアタウルフォ・アルヘンタ指揮スペイン国立管弦楽団である。かなり傷みの激しいSP盤から採録されたもので、聴き通すには相当な忍耐が必要だが、貴重な資料ではある。「1954年SP録音」と記載されているのだが、これは誤記のはずだ。この時期にSP盤で発売されたのは事実だと思うが、「1954年SP録音」という表現はどうだろう。1948年には米コロンビアがLPレコードを発売しており、それは世界各国に浸透していった。スペインで若干の遅れがあったとしても、1954年ならば、もっとコンディションのよい音源がありそうだ。一度、1950年頃録音と書かれた英語文献を見た記憶がある。コピーを取ったはずだが見当たらないので推定するほかないが、録音年は1950年前後とみて間違いないだろう。いずれにしても、この山野盤は、むしろカップリングされた1953年のライヴ録音によるサンス、ソル、アルベニスらの小品の方が、このギタリストの音楽を知るにはよい機会となるだろう。

 ところで、世界初録音というデ・ラ・マーサ/アルヘンタ盤はスペイン・コロンビアによる録音だが、デ・ラ・マーサにはスペインRCAによる1959年のステレオ録音がある。伴奏はクリストバル・アルフテル指揮マヌエル・デ・ファリャ管弦楽団。ひょっとすると国内初出は1972年9月新譜の廉価盤LP(RGC-1029)かも知れない。1991年10月に新星堂の1000円盤シリーズでCD化(SRC-19)されている。廉価盤ばかりで、相当に冷遇されている盤だから、この録音の重要度に気付かれていない方も多いと思う。60歳を超えたデ・ラ・マーサは決して快調ではないが、第2楽章の味わいはとても懐かしい感覚にあふれている。遅めのテンポ感が独特だし、カデンツァにも説得力がある。中古盤をみつけたらどうせ500円前後。絶対に買うべし、である。

 一方、スペインRCAに先駆けて1957年にスペイン・コロンビアがこの作品の世界初のステレオ録音を行なった相手が、ナルシソ・イエペスだった。伴奏は再びアタウルフォ・アルヘンタで、当時、アルヘンタは、スペイン・コロンビアが当時提携していた英デッカが大々的に売り出していたスペインの名指揮者。彼の推薦で、当時まだ新進のギタリストだったイエペスが抜擢されたものだった。
 イエペスのギター、アルヘンタ指揮スペイン国立管弦楽団によるこの録音こそ、現在でもカタログに残っていて(注記参照)、決定盤のひとつとされている有名な盤である。国内初出はモノラル盤で58年9月新譜。ステレオ盤は60年に発売されている。初出発売当時は、同曲唯一のレコードであるばかりか、ロドリーゴの他の作品のレコードも皆無だった。そして「アランフェス協奏曲」も、その後、63年12月新譜でタラーゴ盤(モノラル録音)が発売されるまでの5年3ヵ月の間、イエペス/アルヘンタ盤が、日本では唯一のレコードで聴ける演奏だった。
 この曲のイメージ作りにイエペス盤が与えた影響は、相当おおきなものがあっただろうと思われる。この曲を語る人は、皆、イエペス盤を念頭に置いていたし、また、それしか方法がなかったのである。6年もの歳月を経て、ようやくイエペスと違ったアプローチで同曲の魅力を日本の聴き手に鮮やかに提示したのが、ジュリアン・ブリームによる64年10月新譜のRCA盤だった。ブリームの初回録音で、伴奏はコーリン・デイヴィス指揮メロス室内管弦楽団である。

(2010年2月注記)
イエペス・アルヘンタ盤は、英デッカがすべてユニバーサルに移動してからも、長い間、日本ではキングレコードからの発売が継続しました。これは、スペインのレコード会社との特殊な契約の関係だと思われます。英デッカの音源ではないということです。けれど、そのキングとの契約も、もう切れるようです。ただ、忘れてはならないのは、「アランフェスといえばイエペス」と言っているのは日本だけの特殊事情だということです。ひところの「四季といえばイムジチ」のように、日本の音楽ファンに、自分の耳で納得するよりも大勢に順応する人のほうが多いのは、さみしいことです。






goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ウォルトン「チェロ協奏曲」「交響曲第一番」曲目解説と、ラトル/ハレルの演奏について

2010年02月16日 19時05分44秒 | ライナーノート(EMI編)

 以下は、サイモン・ラトルによるウォルトンの作品を2曲収めたEMIのCDの東芝国内盤のために書かれたライナーノートです。曲目は、リン・ハレルとの「チェロ協奏曲」と「交響曲第1番」の2曲でした。スタンダードな作品ではないので、さすがに曲目解説原稿のストックがなかったようで、「演奏論」だけでなく、曲目解説の執筆も依頼されました。この時代はまだ、こうした作品には、つまらない定説も、おざなりの曲目解説もありませんから、かなり楽しく書き進めた原稿です。後に、そのどちらか一方の曲のみ、別の曲との組み合わせで原稿が転用された記憶がありますが、以下に掲載するものがオリジナルで、1992年10月の執筆です。


■ライナーノート全文

《演奏について》
 このCDには、まだ世を去って10年ほどしか経っていないイギリスの現代作曲家ウィリアム・ウォルトンの作品が2曲収められている。いずれも意欲あふれるアプローチで新たなウォルトン演奏を提示したものと言える。
 まずリン・ハレルとサイモン・ラトルとのコンビによる「チェロ協奏曲」。ここでは、リズムを明快にしてテンポの揺れを最小限に押さえた管弦楽と、抒情性豊かで自在な独奏チェロとの対照が、冒頭楽章から印象的だ。オーケストラが、わずかの音色の変化にも敏感に反応する感性を持っているのは、ラトルの成果と言えるだろう。清洌で透明な響きで淡々とした表情を守るオーケストラと、大きな表情づけで歌うチェロとで保たれている距離感からは、これまでの多くの演奏で独奏と管弦楽部が一体となってエモーショナルに訴えていた悲劇とは異質の、悲痛な孤独が聞こえてくる。
 第2楽章では一転して独奏者は切れ切れの歌には目もくれず、技巧の冴えわたった小気味よさで、アクセントの表情づけも細かい。オーケストラが安定した動きを守り通すために、たったひとりで手向かう独奏者の孤独が、ここでも鮮やかに表現されている。
 終楽章のレントでは純度の高い静けさを背景にチェロの豊かな歌が奏され、変奏でのオーケストラの精緻を極めた響き合いも見事だ。 ラトルの指揮は、ウォルトンの抒情性の本質が、リズム要素とのせめぎ合いから生まれているという認識に立っていると思われる。そして、それは「交響曲第1番」でも徹底して表現されている。例えば、冒頭楽章での揺るぎないリズムの刻みと歌う旋律とを等分に距離を保ち続ける棒さばきや、終楽章での小さな単位でのリズムの交替の鮮やかな表現に見事に結実している。
 ウォルトンは、歌に対する偏愛を持った作曲家と思われるが、その彼が、第1交響曲の冒頭を、どのようにして今日の形に書き上げたのか、その道程についてのマイケル・ケネディの研究報告は興味深い。ケネディによれば、この楽章は初めアレグロで主題が着想されたが、それが緩やかな旋律に形を変えてしまったと言う。しかし、まもなくそれでは行き詰ってしまい、結局、今日のようなリズミカルなものになったと言う。
 このことを踏まえてラトルの演奏を聴くと、改めてウォルトンの内面での葛藤が明確に音として表現されていることに気付く。今回ラトルによって提示されたこの演奏の新鮮さは、作曲者自身の深層にある歌とリズムとのせめぎ合いを、明確に抉り出して聴かせるところにあると言えるだろう。ウォルトン作品の演奏に新たな視点を与える個性的な演奏だ。

 なお、この二つの作品の歴史的録音についても、簡単に記しておこう。
 「チェロ協奏曲」には、この作品の依嘱者で初演者のピアティゴルスキーとミュンシュ/ボストン響によるステレオ録音が、初演後まもなく米RCAにより録音されている。(モノラルはすぐに発売されたが、ステレオの発売は遅れて1964年。)
 また、「交響曲第1番」には作曲者自身の指揮、フィルハーモニア管による1951年のモノラル録音が英HMV(EMI)に残されている。
 作曲された当時の作品のイメージを伝える貴重な録音で、LPでは過去に何度か発売されているが、いずれも現在のところCDは未発売のようだ。

《曲目解説》
 今世紀のイギリスが生んだ重要な作曲家のひとり、サー・ウィリアム・ウォルトンは、1902年3月29日にランカシャー州オールダムに生まれ、1983年3月8日に81歳の誕生日を目前にして世を去った。その前年にはウォルトンの80歳を記念してロンドンで盛大に祝賀行事が行われており、生涯の最後は、お気に入りだったナポリ湾外のイスキア島の自邸で悠々自適の内に迎えた。
 晩年は平穏のなかに過ごしたウォルトンだが、この世代の作曲家に多かれ少なかれ見受けられるように、彼もまた第1次、第2次の両大戦に挟まれた〈不安の時代〉を反映した精神を内に抱え、そこからの救済を希求して止まない、深い祈りにも似た作風を持っていた。そうした時代精神が結実した作品の代表とも言うべきものが、1935年に書かれた「交響曲第1番」であり、そうした〈不安〉の種子は、戦後になって1956年に書かれた「チェロ協奏曲」の奥底にも消えることなく置かれている。

●「チェロ協奏曲」
 比較的寡作家だったウォルトンは、ピアノと管弦楽による「協奏交響曲」を別にすれば、独奏と大管弦楽との本格的な協奏曲を3曲しか書いていない。それは作曲年順に1929年の「ヴィオラ協奏曲」、1939年の「ヴァイオリン協奏曲」、そしてこの「チェロ協奏曲」だが、いずれも弦楽器のための作品であるということは、注目してよいだろう。これらに共通するのは、弦楽の特性を生かした高揚感のあるフレージングであり、カンタービレであり、それによって表現される抒情精神だ。
 「チェロ協奏曲」はウォルトンにとって戦後初の大作であるばかりでなく、〈協奏曲三部作〉を完成するものでもあった。名チェリスト、グレゴール・ピアティゴルスキーの依嘱による作品で、1956年に前述のイスキア島で書き上げられ、依嘱者に献呈された。
 初演はピアティゴルスキーの独奏、シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団の共演で、1957年1月25日にボストンのシンフォニー・ホールに於ける定期演奏会で行われた。
 楽器編成は、独奏チェロ、フルート2(ピッコロ持替え)、オーボエ2(イングリッシュ・ホルン持替え)、クラリネット2(バス・クラリネット持替え)、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ヴィブラフォン、シロフォン、シンバル、大太鼓、チェレスタ、ハープ、弦楽5部。

【第1楽章】 モデラート。他の二つの弦楽協奏曲と同様に、この協奏曲も穏やかなテンポで開始され、中間にスケルツォ的楽章を挟み、終楽章で冒頭楽章の主旋律が回想されるという形式を持っている。曲は初め、時を刻むような、あるいは、心臓の鼓動のようなリズムの伴奏部から入り、すぐさま独奏チェロによって歌われる10小節に及ぶ主旋律の登場となる。チェロの高音域を用いたこの主旋律は明らかにハ長調で始まるが、他のウォルトンの作品にも多く見られるように、次第に長短調の区別が曖昧にされて進行する。第2の主旋律は16分音符を効果的に用いた下降旋律だが、ソナタ形式を採ることもなく、木管や弦楽のピチカートなどで冒頭のリズム音型をしばしば思い出させながら、主旋律のイメージの周辺を行きつ戻りつするといった形でまとめられている。楽章の終り間近に弦楽合奏が獲得する調和のとれた美しい旋律も印象的で、これは終楽章でも再現される。
【第2楽章】 アレグロ・アパショナート。独奏チェロにとっては技巧的に至難のスケルツォ楽章だ。時折、抒情的な表情も見せるが、全体としては無窮動に近い。この楽章では独奏と管弦楽部との対立も明確に描かれている。短いカデンツァを伴っている。
【第3楽章】 レント~アレグロ・モルト~アダージョ。主題と作曲者が〈インプロヴィゼーション(即興的演奏)〉と名付けた4つの変奏で構成されている。弦楽のピチカートに導かれて独奏チェロで主題が呈示され、やがて木管を中心に注意深く管弦楽が加わり第1変奏となる。木管、ホルン、ヴィブラフォン、シロフォン、チェレスタ、ハープなどが時折アクセントを交えながら、独奏チェロが柔らかく歌い継いで行くが、チェレスタの一打を合図に管弦楽部が静まり、独奏チェロのみの第2変奏が始まる。ここは起伏の激しい部分だ。第3変奏では全管弦楽の咆哮による喧操の中に叩き込まれる。第4変奏で、再び独奏チェロのみがラプソディー風に奏され、やがて、アダージョの終結部では、冒頭楽章を想起させる旋律が戻ってきて、遠く遥か彼方に思いを馳るようにして曲を終える。

●「交響曲第1番」
 ウォルトンは交響曲を2曲残しているが、その内「第2番」は、戦後の1959年になってから書かれている。「第1番」は、「ヴィオラ協奏曲」という大作を書き終えていたウォルトンが、さらに、ベートーヴェンを理想とした絶対音楽の大曲を作曲したいと考えて、1932年にロンドンで着手した作品と言われている。
 だが作曲は思うようにはかどらず、最終的に全曲が完成したのは1935年8月31日のことだ。その間、再三の初演予告の日がやってきて、待ち切れなくなった主催者の懇請によって、前年の1934年12月3日には第3楽章までの初演が行われてしまった。全曲の初演は翌1935年11月6日に行われた。会場はどちらもロンドンのクイーンズ・ホールだった。
 いずれの初演とも指揮は、作曲者によってハミルトン・ハーティーに委ねられている。(当時ハーティーは、ハルレ管弦楽団からロンドン交響楽団に移ったばかりで、その移籍して最初のシーズンの呼び物としてこの作品の初演が位置付けられていたようだ。)オーケストラは第3楽章までの1934年はロンドン響だが、翌年の全曲初演では日程の都合からか、BBC交響楽団に替わっている。
 この曲は、作曲された当時のヨーロッパを蔽っていた時代の気分を十全に反映しており、両大戦間の特殊な時代状況を証言する傑出した交響作品として、オネゲルの「第3番」、ルーセルの「第3番」などとともに、長く記憶に留められる作品となっている。
 楽器編成は、フルート2(ピッコロ持替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ(奏者2)、小太鼓、シンバル、タムタム、弦楽5部。

【第1楽章】 アレグロ・アッサイ。ピアニッシモでティンパニの連打から開始され、ホルンのハーモニーに蔽い被さるようにリズミカルで震えるような弦が加わると、すぐにオーボエに第1主題が現れる。荒々しく悲痛さを伴って音量を増し、リズム要素も追い立てるように続く。第2主題は第1ヴァイオリンによって呈示される。どちらの主題もその終りに急激な動きの音型を持っていることで共通している。一応ソナタ形式風だが、極めて自由で複雑な展開で底力のある悲劇性を強調し、せき立てていくリズムの緊迫感が終始全体を蔽っている。比較的明瞭な形でオーボエの第1主題が弦で還ってくる中間部は静かさを取戻すが、それもまた、すさまじい管弦楽の咆哮へとなだれ込み、悲劇の中を一歩ずつ踏みしめるような短い再現部を経てコーダへと追い立てられて行く。
【第2楽章】 プレスト・コン・マリーツィア。発想標語の〈コン・マリーツア〉は「悪意をもって」という意味。その言葉が暗示するものが巧みに生かされた、鋭く刻むようなリズムに支配された楽章だ。そして悪意だけではなく、嘲笑や皮肉も込められていると聴き手に感じさせる変化に富んだ内容を持っている。
【第3楽章】 アンダンテ・コン・マリンコーリア。発想標語の〈コン・マリンコーリア〉は「憂鬱に」といった意味のウォルトンの造語。一転して穏やかなテンポに変り、心を塞ぐような憂愁を帯びた旋律をフルートのソロが奏する。暝想的な〈夜の音楽〉だが、どことなく空虚な雰囲気の漂う旋律だ。やがてやってくる弦楽合奏が表現する高揚感は、ウォルトンの弦楽への偏愛が生んだ幸福な結果と言えるだろう。弦のピチカートを従えたクラリネットの旋律も重要だ。次第に激しい慟哭の表情を示しながら音量を増していくが、冒頭のフルートの旋律に戻って静かに終る。
【第4楽章】 マエストーソ。突然の夜明けのようにファンファーレ風の旋律で開始される。楽章全体は4つの部分からなっており、テンポの速まる第2部は、第1部で呈示された様々な動機が不規則なリズムによって展開されていく。ひとしきり静まりフーガ主題が呈示され、自由に、そして激しくフガート風に展開され、不規則なリズムとフーガ主題が錯綜する第3部へと連なっていく。ここでのクライマックスはティンパニの連打を伴ったフォルティッシモで、そこから第4部となり、この楽章冒頭のファンファーレ風の旋律がマエストーソで還ってくる。寄せては返す旋律で高らかに歌い上げるエピローグだが、どこか空虚さを伴い、シベリウスの「第5交響曲」の結末を思わせる放り出されるような終り方が象徴的だ。(1992.10.4. 執筆)


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

エイドリアン・ボールトが指揮する「エリック・コーツの音楽」

2010年02月15日 10時47分09秒 | BBC-RADIOクラシックス





 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、合わせてお読みください。

 以下に掲載の本日分は、第1期30点の6枚目です。


【日本盤規格番号】CRCB-6016
【アルバムタイトル】エリック・コーツの音楽
【曲目】すべてエリック・コーツ作曲)
    「浮かれ人」序曲
    ロンドン組曲
    組曲「3人のエリザベス」
    行進曲「コーリング・オール・ワーカーズ」
    サマセットの緑の丘
    結婚式の道化師
    石割り人、ジョン
    ダム・バスター・マーチ(映画「暁の出撃」より)
【演奏】サー・エイドリアン・ボールト指揮/BBCコンサート管弦楽団
    イアン・ウォレス(バス・バリトン)
【録音日】1975年6月11日、1975年6月18日    

■このCDの演奏についてのメモ
 イギリスの、国民的人気作曲家エリック・コーツの作品を、まとめて聴くことができるめずらしいCD。
 もっともイギリス国内では、昔も今もエリック・コーツの作品のレコードやCDはクラシックのカタログに必ず載っていて、決してめずらしいものではない。そうした中に、指揮者でもあったエリック・コーツ自身の演奏したレコードもまじっているが、当CDの録音が行われた1970年代に発売されていたレコードの指揮は、チャールズ・マッケラス、ジョージ・ウェルドン、チャールズ・グローヴズ、そして、このCDでも指揮をしているエードリアン・ボールトといった名前が目に付く。ボールト盤は1976年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団と録音した英リリータ・レコードで1度発売されただけで、長い間廃盤のようだ。当CDは、この前年に行われたBBC放送のための録音。
 他の3人の指揮者は皆、今世紀の生まれだが、1889年に生まれ1983年に世を去ったボールトにとって、1886年生まれのエリック・コーツは同世代にあたる。時代と共に歩んだ大衆作曲家の作品の録音として、このボールト盤は、数少ない同時代人の演奏として貴重なものだ。
 バス・バリトンのアイアン・ワレースは1919年ロンドン生まれ。46年にオペラ・デビューし、グラインドボーンなどで活躍したが、ミュージカルなど活動範囲をひろげ、ラジオ出演や執筆など多方面の仕事もこなすという。(1995.8.8)





goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

近藤朔風と堀内敬三と、セノオ音楽出版(追記)

2010年02月14日 12時14分14秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 昨日の当ブログに質問が寄せられました。同様の誤解が生じない内にと思い、以下にお答えを掲載します。

 ご質問は、昨年8月に出版されたばかりの『竹久夢二「セノオ楽譜」表紙画大全集』(国書刊行会)で『ただよふ小舟』は「532番」とあるが、ほんとうに「332番」の誤植なのか? 単なる推論なのか? という趣旨でした。
 昨日は強く書きませんでしたが、やはり、こうしたことは、ブログ上でもはっきり断定しなくてはいけないのだと反省しました。

 私のコレクションの中に、大正末期頃発行と思われるセノオ音楽出版社発行の「セノオ楽譜目録」があります。これは「セノオ何番と御注文願上候」と最上端に書かれたセノオ音楽出版社の正規の目録です。この「332番」が「ただよう小舟」(この時点で「ただよふ」ではなく、既に仮名遣いに揺れがあります。)であると明記されています。
 ちなみに「532番」など500番系列は歌の楽譜ではありません。目録では別建ての「セノオのバイオリン楽譜」とあるページに、532番としてショパンの「軍隊ポロネーズ」が載っています。バイオリン用の編曲版でしょう。

 『ただよふ小舟』の番号がおかしいことは、表紙だけを見ないで、奥付の表記、日付などを見れば気がつく誤記です。まして、「大全集」の形で編集するという全貌を通して見比べられるという機会があったわけですから、当然、気づかなくてはならないことだと思っています。同書の「一覧表」で『ただよふ小舟』だけが、ぽつんと離れた場所に掲載されているのを見ていると、悲しくなります。

goo | コメント ( 1 ) | トラックバック ( 0 )

近藤朔風と堀内敬三と、セノオ音楽出版

2010年02月13日 13時54分02秒 | 「大正・昭和初期研究」関連
 2月8日付けの当ブログにいただいた「誠」さんからのコメントによって、「セノオ楽譜332番」に近藤朔風についての記述があることを知りました。
 実は、最近になって、ある研究の関係から、セノオ楽譜のコレクションを相当数お預かりしているのですが(何のためかは、いずれ公表します。今はまだその段階ではありませんので、ご了承ください。)、その中に、幸いなことにご指摘の332番もありましたので、以下、簡単にご報告します。

 セノオ楽譜332番は『独唱 ただよふ小舟』でイギリスの作曲家J・K・ナイト(knight)の歌謡作品です。原題は「Rocked in the Cradle of the Deep」と書かれ、英語の原詩も掲載されていますが原詩の作者は記されていません。
 私の手元にあるものは大正13年(1924年)11月18日発行の初版ですが、表紙のセノオ楽譜マークの下の番号が誤記されていて、532番となっています。奥付その他は332番で統一されています。
 掲載されている訳詞は堀内敬三のもので、おそらく堀内によると思われる無署名の「略解」に、次の記述があります。(妹尾が書いた文章ではないはずです。)

 此の歌は既に翻訳せられて大正十二年に日本日曜学校協会に依つて編纂された日曜学校讃美歌の第三十九番に収めてある。また二十年以前に故近藤朔風氏の作られた優秀な訳詞もある。私が不敏を省みず此の新しい訳詞を作つたのはセノオ楽譜出版に際し著作権の関係上どうしても他に方法が無かつたからである。

 この記述が正しいとすれば、近藤朔風の訳詞は明治37年(1904年)に存在していたことになります。近藤の『女声唱歌』発行以前です。このことも記憶に留めなくてはなりませんが、とりあえずは、近藤訳とセノオ楽譜について、です。
 まだ私の想像に過ぎませんが、ここで堀内が言っている「他に方法がなかった」というのは、近藤訳を使用していた既存の出版社があったということではないかと思います。そして、のちに、ある時期から突然セノオ楽譜への近藤訳の登場が増えるのは、その出版社が廃業したか、あるいはセノオ音楽出版社が権利を買い取ったかではないかと思います。少なくとも、この、セノオ楽譜のよき協力者であった堀内の文面からは、近藤訳が優秀だという認識があること、出来れば近藤訳を使用したいという気持ちを持っていることが、痛いほどに伝わってきます。
 私も『唱歌・童謡100の真実』で指摘していますが、近藤訳の素晴らしさは他に代えがたいものがありますし、近藤の早逝は、西洋の歌を日本に取り入れていこうと模索していた人々にとってたいへんな損失でしたから、それを惜しみ、ぜひともセノオに加えたいと堀内と妹尾が意気投合した可能性、そしてその実現に向けて精力的に動き出したことは、十分にあり得ることです。
goo | コメント ( 1 ) | トラックバック ( 0 )

気谷誠、最期の3週間――その音楽とともに暮らした日々

2010年02月12日 17時28分35秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること

 以下は、2010年1月31日に東京・一ツ橋の「学士会館」202号室における「気谷誠を偲ぶ会」で行われた私の「講演(?)録」です。類まれな愛書家・美術史家として多くの人々に慕われた気谷誠ですが、その晩年の心境について、彼が愛聴していた音楽を聴きながら語ったものです。
 私はもともと人前で話すのが苦手ですので、あらかじめ話したいことをメモし、間が持たなくなるのが怖いので、お相手を引き受けていただいたフリーアナウンサーの西村祐美さんに質問や相槌できっかけをつくっていただくという「台本」も作成した上での本番でした。15年ほど前、黎明期のCS衛星放送ラジオで毎週のように番組をこなしていたころを思い出しながらの下準備でした。
 当日の録音を聴き直しながら少し手を加えて、事前の台本を以下に掲載します。大きく脱線してプライベートなことまで話してしまった部分だけは省略しましたが、ほぼ、実際のトークの再現です。
 なお、「偲ぶ会」そのものの趣旨や全体の内容などは、当ブログ「1月16日」および「2月4日」をごらんください。

=========================

本日は、気谷誠くんのためにお集まりいただいて、ありがとうございます。入り口でご案内しましたように、本日、予定しておりましたソプラノの越智まりこさんが、ご都合で来ていただけなくなりましたので、その越智まりこさんに歌っていただく予定だった曲目と、曲目決定に至った気谷誠の最晩年の心境などを、気谷誠と私とのエピソードを交えながら、私なりにご紹介したいと思っております。
私ひとりでは、ちょっと心細いものですから、テレビ朝日などで活躍しておられる西村祐美さんに、お相手をお願いしました。西村さん、よろしくお願いいたします。

【西村(以下、聞き手と表記)】今、竹内さんが、「きょうの曲目決定に至った気谷さんの最晩年の心境」とおっしゃっていましたけれど、それは、どういう意味なのですか?

実は、気谷誠は、葬式などはしなくていい、と言っていたらしいのです。ところが、きょうの「偲ぶ会」の中心になった山田俊幸さんが、私とは別に気谷と会って、「それでは残された者の気持ちが収まらない」と言ったところ、それでは、ということで、気谷が晩年に多少の交流のあった越智まりこさんに3曲うたってもらって、追悼会をしてくれ、ということになったのです。

【聞きて】そうだったんですか。その3曲とは何だったのでしょう。

ボードレールの詩に作曲されたものばかりで、デュパルク作曲の「旅への誘い」と「前世」、そして、悲劇の放蕩作家リラダンが、尊敬するボードレールの詩にメロディをつけたという、めずらしい曲、「愛し合うふたりの死」の3曲です。

【聞きて】気谷さんは、なぜ、その3曲を選んだのですか?

ほんとのことはわかりませんけど、私なりに想像というか、推理した考えがあります。

【聞きて】ぜひ、お聞きしたいですね。

 その前に、気谷誠が亡くなる直前にまで掲載を続けていた彼のブログを、思い出していただきましょう。これを読んでいただけますか? これは、彼が世を去る5日前のもので、彼の遺書『西洋挿絵見聞録』に、あとがきのようにして収められている「静かな悦楽」と題された文章です。

【朗読】
「静かな悦楽」
 若いころ斎藤磯雄さんの『詩話・近代ふらんす秀詩鈔』や『フランスの歌曲』などに親しみ、デュパルクが曲を付けたボードレールの詩「前世」や「旅への誘い」に耳を傾けた。その後もSPやLPやCDを集め、愛聴した。今でもなつかしく聴き返す。このたび音盤を処分するにあたり、デュパルクの歌曲を収めたものを数えてみると、20種類以上もあって驚かされた。呆れたものである。
 手元に一枚だけ残したのはジェシー・ノーマンが歌う「前世」を収めたCDだ。比較的体調の良い午前中に書斎のソファーに横たわり、タンノイの15インチモニターから流れてくるこの曲に静かに耳を傾けていると、自分がすでに死んでしまっていて、どこか遠い国から自分の前世を回想しているような、そんな気持ちになってくる。実際ノーマンの歌声には、この世の彼方から吹いてきてあの世の彼方に向けて吹き抜けていくような神秘的な響きが込められている。
 私はこの曲の中の静かな悦楽(voluptes calmes)という言葉が好きだ。詩の第一連、第二連で曲想が次第に高まり、第三連の一行目(C’est la, c’est la …)で曲はフォルテッシモを極め「静かな悦楽」に向けて降りてゆく。

   そこにこそ私は生きた、静かな悦楽に包まれて、
   C’est la que j’ai vecu dans les voluptes calmes

 (注)邦訳は福永武彦。歌曲では冒頭の「c’est la」が2回繰り返して歌われる。

 今までの自分の人生を振り返り、こんなにも幸せなひとときは無かったような気がする。柔らかな秋の日に包まれたそのひとときが、ようやく私の人生に訪れた静かな悦楽のときであるような気がするのである。

【聞きて】(即興で感想。)

(~それを受けて)実は、気谷がこの冒頭に書いている「斎藤磯雄さんの本に親しんで、デュパルクが曲を付けたボードレールの詩に親しんでいた」という青春の日々を、気谷が突然思い出したのは、この日ではないか、というのが、彼の最期の数週間のブログの中にあるのです。

【聞きて】そういう、「特別な日」があるのですか?

そうなんです。今、読んでいただいたのは「9月17日」のブログですけれど、彼が自分の余命がほとんどないことを知って、大急ぎで、4台のオートバイと、厖大な本の整理を始めたのが8月の29日です。

【聞きて】気谷さんが、ご自分の病気の深刻なことを知ったのは、いつなのですか?

8月の28日です。その翌日からの行動開始です。一日たりとも無駄にできない、という感じの、すばやい行動ですね。そして、蔵書の整理中のことが、9月3日のブログに書かれています。
「2日の午後、整理中に見つかったカセットテープがどうしても聴きたくて、タクシーに乗って石丸電気でデッキを買う。おかげで発熱。」
――、そう書かれているのです。体調の不良をおして、無理してでも出かけ、カセットテープがかけられる装置を手に入れて聴いたのが「これだ」というものが、気谷が亡くなった後、自宅のCD棚から見つかりました。

【聞きて】そんなにしてまで聴きたかったカセットテープって、何だったのでしょう?

1983年11月26日に行われた、「同時代」という雑誌を出していた同人雑誌グループ「黒の会」の講演記録なんです。その講演で話をしているのが、気谷が若いころに愛読していたという、フランスの詩について書かれた本の著者の斎藤磯雄さん――もうそうとうにご老体だったはずですが――、その斎藤磯雄さんなのです。
私は、気谷がそのカセットテープを見つけて、どうしても聞きたくなったという瞬間が、目に浮かびます。ある意味では、斎藤磯雄のフランス詩の読み方そのものが、気谷のフランス趣味の原点のひとつだとも思っていますから。

【聞きて】竹内さんは、そのカセットテープを聴いてみたのですか?

もちろん、聴きました。斎藤さんの講演があって、そのあとにミニコンサートもありました。そして、そこで、デュパルクの「旅への誘い」も、さっき言ったリラダンが作曲した「愛し合う二人の死」も歌われていました。お聴かせしましょう。

【「愛し合う二人の死」を聴く】

(聴き終えて)当時、「黒の会」は新進気鋭のフランス文学者たちの集ったハイレベルの集団でしたから、パリ留学から帰国した一流のソプラノ歌手とピアニストによって演奏されています。おそらくリラダンの歌は、日本での初演だと思われますし、このあと、一度も歌われていないかもしれません。気谷くんがプライベートに保存していた今から27年ほど前の講演会場のしろうと録音ですが、貴重な記録です。
次に、有名なボードレール作詞、デュパルク作曲の「旅への誘い」を聴きましょう。

【「旅への誘い」を聴く】

(聴き終えて)気谷が「旅への誘い」の録音をレコードやCDで何種類持っていたかはわからないけれど、これはかなりいい演奏ですね。発売されているCDの歌手やピアニストに比べても、少しも遜色がない名演だと思いました。そして、このミニコンサートの前に行われている斎藤磯雄さんの講演も聞き応えのするもので、気谷がこの記録の入ったカセットを見つけた時、どうしてもまた聞きたくなった理由がわかるような気がしました。

【聞きて】ところで、竹内さん。気谷さんが、追悼会で歌ってほしいと指定した曲は3曲ありましたよね。もう1曲は、何ですか?

それが、さっき、あなたが朗読したブログで引用されていた「前世」ですよ。ボードレール作詞、デュパルク作曲です。もう一度、最後の部分を読んでいただこうかな。

【聞きて】(「静かな悦楽」おわりの数行を朗読)

どうですか? それが、彼の心境だったのです。
では、気谷が「気に入っている」とブログにも書いている、最期の日々に愛聴していたジェシー・ノーマンのソプラノで、「前世」を聴きましょう。

【「前世」を聴く】

気谷は、こうして「静かな悦楽」にひたりながら、あの世へと旅立っていったのだと、私は信じています。

【聞きて】でも、気谷さんのブログは、さっき私が朗読した「静かな悦楽」が最期なのですか?

「静かな悦楽」と題されたエッセイがブログに掲載されてから、5日目に、気谷は世を去っているのですが、実は、その2日後の9月24日に、奥様によって掲載されたブログのエッセイが、気谷の遺した最期の言葉です。私は、奥様に確かめていませんが、事前に作成されていて、自分の死を見届けてから掲載するように、あらかじめ言い残していたのだと思います。
読んでいただけますか? 気谷誠の、最期のブログ・エッセイです。

【朗読】
「別れの曲」
 ショパンのピアノ練習曲作品10の3に、「別れの曲」という愛称がついた小曲がある。有名な曲だからどなたもご存知であろう。中学生のころであったか、左手で和音をおさえ、右手で主旋律をひくという拙い奏法で、オルガンをよく弾いた。中でも愛奏したのがこの「別れの曲」である。子供用に編曲されていて堀内敬三さんの詩だったろうか「春の日 そよ風 花散る緑の丘…」という有名な歌詞がついていた。ショパンの旋律をなぞるだけで、なんだかずいぶんと偉くなったような気になったものである。
 高校を卒業し、大学浪人一年目の夏休み、高校のころ同級だった女友達と、そのころはまだ京橋にあったフィルムセンターの「音楽映画の特集」というのに足を運んだことがある。そのなかに昭和10年に公開された「別れの曲」(ゲーザ・フォン・ボルヴァリ監督, 1934)という映画があり、心を打たれた。ポーランドの青年ショパンがパリに出て脚光を浴びるまでの物語で、その主題曲がショパンのピアノ練習曲作品10の3に歌詞をつけた曲であった。一人前の芸術家になるにはあんなにも愛らしく可憐なふるさとの恋人を袖にしなければならないものかと、妙に感心した。
 ショパンのピアノ練習曲作品10の3を「別れの曲」と呼ぶのは、どうやら日本だけの習慣のようだ。それは昭和10年にこの映画がヒットし、またその後「別れの曲」というタイトルで日本語の歌詞をつけられ、愛唱されてきたからである。フランスにもドイツにも、このメロディーに歌詞をつけた曲はあるが、特に「別れの曲」という名前はついていない。映画「別れの曲」にはフランス語版とドイツ語版があるが、映画のなかで歌われるこの曲の歌詞も、特に別れとは関係がない。浪人のころ私がみたのは日本で初演されたのと同じフランス語版のほうである。昭和10年に刊行された『仏和対訳 別れの曲』(平原社トーキー・シリーズ 第30巻)から歌い出しの部分を引用する。

  吾が心 そなたに捧げん
  この調べ 吾が胸は そなたに囁き…

 以前、BSで放送されたドイツ語版をみたことがあるが、ほぼ同じような内容だった気がする。要するに、いろんな国でいろんな歌詞が作られ歌い継がれているのだろう。
 音盤に吹き込まれたものの中で私が格別珍重しているのは、フランスのリリックソプラノ、ニノン・バランという人が歌った「親密(アンティメイト)」という歌曲である。この歌もまたショパンのピアノ練習曲作品10の3にフランス語の歌詞をつけたものであるが、恐らく映画のヒットに合わせ、当事日本で発売されたSPレコードである。この人の優しい、魔法のような歌声を聴いていると、「別れの曲」に親しんできた長い歳月の間に起きた様々な出来事が、すべて甘美な幻影に包まれてよみがえってくるのである。


(朗読を聴き終えて)どうもありがとう。では、今、読んでいただいた中にあったニノン・ヴァランが歌う「別れの曲」を、聴いていただきましょう。

【「別れの曲」を聴く】

(聴き終えて)これは、9月11日、つまり、気谷誠が亡くなる10日ほど前、彼と話している時に、たぶん、急に思い出して彼が引っ張り出してきた音源だと思います。彼が自身でSPレコードの音を録音したCD-Rでした。本日の記念品として、入り口で差し上げたCDが、その複製です。その1曲目です。
この気谷が作成したCD-Rについては、CDに附属の解説書で簡単に触れていますので、お読みください。

============================


 当日、私が用意していた「台本」はここまでですが、以下に、その特製CDに付された私の「解題」を再録します。

【「解題」】
 気谷誠自身のブログ「ビブリオテカ・グラフィカ」の最後に、この文章が掲載されている。気谷誠の絶筆である。
 私は気谷が亡くなる二週間ほど前に、彼の病状が回復不能であると聞いて筑波の自宅を訪ね最後の会話をしたが、その久しぶりの音楽談義のなかから、思いがけなくも、このニノン・ヴァランの「別れの曲」(=「親密」)へと話が移った。気谷は、体力・気力ともに極度に衰弱したからだを無理に起こし、隣室に消えて行った。
 かなりの時間が経過してから、大事そうに手の中に収めて持って出てきたのが、今回「気谷誠を偲ぶ会」で配布することにしたこのCDのマスターとなったCD-Rだった。表紙に手書きで曲名、演奏者などが記載されただけのもので、彼が自分で古いSPレコードから採集した音だと言っていた。(この、今回の配布盤では、彼が最期の日々を綴った一連のブログ上の文章の内、「別れの曲」の数日前に掲載された「静かな悦楽」で言及しているデュパルク「前世」を、彼の別のコレクションから、バリトンのシャルル・パンゼラが歌っているもので加えた。)
 デザインは配布のために私が素人づくりしたものだが、表記の文字はすべて、彼が記載していたままである。CD後半の田中路子は、同じく、彼が格別の関心を持っていたソプラノ歌手である。その興味深い経歴については詳しく触れないが、日本のクラシック音楽受容の歴史に欠くことのできない足跡を残した人物である。


 当日の私の講演は、以上の「解題」の内容、そして、1月24日付けの当ブログに掲載した「追悼文」の内容とほぼ同じことを、台本を離れて少々お恥ずかしいほどに即興でお話して、なんとか終えました。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

『女声唱歌』と『セノオ楽譜』との関連で、ひとつわかったこと。

2010年02月08日 13時54分22秒 | 「大正・昭和初期研究」関連
 昨年12月22日付けで掲載の当ブログ「『女声唱歌』と『セノオ楽譜』との間、――再説」に、一昨日寄せられたコメントは公開扱いにしましたので、ご覧になった方もおられると思いますが、以下にコメント全文を引用して、若干のご返事をしたいと思います。コメントをくださった「誠」さん、ありがとうございます。

=============================

タイトル:お久し振りです。
名  前: (誠)
日  時:2010-02-07 11:53:08
コメント:

最近,妹尾幸陽氏に関する新しい記事がありました。
 http://www.keiogakuyukai.com/Forum-06-ozasa.htm
セノオ楽譜に関する内容に多少誤りもありますが,
戦後の妹尾氏の動向について,大変興味深いエピソードが載っています。
さて本題ですが,記事中に『1910(明治43)年から楽譜出版に手を染め、
1915(大正4)年には「セノオ音楽出版社」を設立』とあり,
私もこの説に同意します。その根拠としまして,
(後の)セノオ楽譜2番の初版(明治43年7月1日発行)の,
印刷者は妹尾氏個人の名であり(発行者・出版社は別),
今の所,これより古い発行年を持つものは見ていません。

==============================

 セノオ楽譜は大正4年から発行という記述が多いのですが、明治43年7月1日という発行日の「第1集」があると指摘した私でしたが、この誠さんの記述で、それが個人名での仕事であったらしいことが、わかりました。これは重要なことです。
 そして、「セノオ楽譜誕生は大正4年」という多くの記事の誤りは、どうやら、「セノオ音楽出版社の設立」との混同だったということでしょう。
 誠さんがご紹介くださったネット上の記事は、慶応義塾大学楽友会のサイト内の「フォーラム」に寄稿された小笹和彦さんの長大な論文です。これもセノオ楽譜周辺ばかりではなく、様々に参考になりそうです。ゆっくりと読んでから、ご紹介したいと思っています。

 いずれにしても、12月22日のブログで私が表明している「謎の探求」は、まだまだ続けなくてはなりません。特に、近藤朔風と妹尾幸陽と二見孝平の三人を繋ぐものの発見、です。

《付記1》
2月13日付けで、再度「誠」さんから、このページにコメントで貴重な情報が寄せられました。ありがとうございます。たいへん参考になりました。公開扱い処理をしましたので、このページの少し下、「コメント(1)」の(1)の部分をクリックしてみてください。別ウインドウで「コメント文」が表示されます。

《付記2》
上記コメント中にあるセノオ楽譜332番は『独唱 ただよふ小舟』で、私の手元にもあります。誠さんのご指摘で、近藤朔風訳が使えない云々の記述の存在を知った次第です。見落としておりました。このことに関して、2月13日付けの当ブログに書きましたのでご覧ください。




goo | コメント ( 1 ) | トラックバック ( 0 )

サン=サーンス:『交響曲第3番《オルガン付》』の名盤

2010年02月06日 15時01分45秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第36回」です。

◎サン=サーンス:交響曲第3番《オルガン付き》

 サン=サーンスは練達の作曲技法で、様々な様式を巧みに取り入れて構成的な作品を書いている。時にはそれが禍いしてスタイルの品評会のようになってしまうこともあるが、この〈オルガン付き〉はサン=サーンスの最高傑作とも言うべきもので、壮大なスケールで描かれた巨大な建造物を思わせる交響曲だ。
 レヴァイン盤はベルリン・フィルの重厚さ、輝かしさをフルに引き出した雄大な演奏。レガートの効果的な多用による流麗で、しかもエモーショナルな動きの自在な音楽が滔々と流れる。全曲を貫いている濃密な気分と、緊張の持続も格別のもの。スケールの大きなロマンティシズムの手応えを感じる総合的に優れた演奏だ。
 マルティノンがエラートに録音した盤は、混濁のない清澄な響きを素地に音の輪郭をくっきりとさせた演奏。それは、全体の構造が感覚的に把握され切っているからで、幾層にも分かれた重層的な音の鳴りが魅力。第一楽章の第二部は実に美しい響きだ。第二楽章の前半のトリオでの洒脱さも好ましい。マルティノンは、この録音の五年後に「サン=サーンス交響曲全集」としてEMIに再録音しているが、オルガン独奏がアランからカヴォティに代っているだけでなく、マルティノンの指揮も感覚的な冴えが後退している。
 チョン・ミュンフン/パリ・バスティーユ管盤は、情感の大きな振幅を表現し得たチョンの、豊かな感受性と将来性を知る演奏。何よりもこれほどに熱っぽい演奏は最近では稀だ。金管の輝かしい響きなどは後退し、色彩感も少ないが、全体をトータルに包み込んで進んで行く線の太い音楽が聴こえる。レヴァインが結局のところ、ゴシック的な縦のラインの美学の中でこの曲を捉えているのに対して、チョンは横に連なるなだらかなラインを見出している。西欧音楽の伝統からは生まれない新しい個性だ。

《ブログへの掲載にあたっての追記》
 私がここで言及しかけている「タテの線」と「ヨコの線」の問題は、私が最近大きなテーマとして考えている「日本人の西洋音楽受容」にも関わっています。久しぶりに15年も昔の自分の原稿を読み返して、感慨深いものがあります。確かにこの時期あたりから、私は、おぼろげながら考えていた日本人の西洋音楽受容の特質について、一歩踏み込み始めたのです。まだまだ読み解けていませんが、これからも考察を続けたいと思っています。
 この曲では、しばしば、シャルル・ミュンシュがボストン交響楽団と録音したRCA盤を推す声が聞かれますが、あれは私は昔から、奇妙に「散らかった」響きの演奏だと思っています。当時のRCA録音がリヴィングステレオという商標の華麗な録音を売り物にしていたこともあって、最新のCD化の音では、ますます、その作り物めいた音のいやらしさが耳について困りました。ミュンシュ・ファンを任じている私をして、残念ながら「珍演」の部類に入れたくなる演奏と思っています。
 
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

サージェント/ジャック・ブライマーのモーツァルト「クラリネット協奏曲」

2010年02月05日 13時00分08秒 | BBC-RADIOクラシックス

 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、合わせてお読みください。

 以下に掲載の本日分は、第1期30点の5枚目です。


【日本盤規格番号】CRCB-6015
【曲目】モーツァルト:歌劇「後宮からの逃走」序曲
           クラリネット協奏曲 k.622
    メンデルスゾーン:「結婚行進曲」~「真夏の夜の夢」より
    シューベルト:交響曲第8番「未完成」
【演奏】サー・マルコム・サージェント指揮/BBC交響楽団
    ジャック・ブライマー(クラリネット)
【録音日】1965年8月13日、1964年9月5日    

■このCDの演奏についてのメモ
 指揮のマルコム・サージェントは、1895年に生まれ1967年に世を去ったイギリスの指揮者。1921年に、ロンドンの夏の風物詩として有名な〈プロムナード・コンサート〉(プロムス)で指揮者デビューをした経歴を持ち、第2次大戦後も〈プロムス〉の指揮で毎年のようにロンドンっ子を沸かせた。合唱指揮者としても今世紀最高と謳われ、ヘンデルの「メサイア」、エルガーの「ゲロンテウスの夢」は得意曲だった。BBC響とは1950年から57年まで首席指揮者を務めた関係。当CDの64、65年のコンサートでも息の合ったところを聴かせ、たっぷりとした〈ため〉を抑制してすらりとした弦楽の響きや輝かしい金管など、ドイツ風の演奏とは違う、サージェントとロンドンの聴衆とで培ってきたスタイルが十全に実現されている。
 一方、クラリネットのジャック・ブライマーは1915年に生まれたイギリスを代表するクラリネット奏者。ロイヤル・フィル、BBC響、ロンドン響の首席奏者を歴任するかたわら、王立音楽院で後進の指導にあたり、ソロや室内楽活動も活発に行なった。モーツァルトの「協奏曲」は得意曲で、59年にビーチャム/ロイヤル・フィルと、64年にコリン・デイヴィス/ロンドン響と、71年にマリナー/アカデミー室内と録音している。当CDはデイヴィス盤の数カ月後の録音だが、若き日のデイヴィスの引き締まった造形感に呼応した普遍性を追及したような録音に比べて、当CDでは、以前のビーチャム時代のような柔和な表情に加えて、ライヴらしい自在な即興性が聴かれ、ブライマーの筋の通った確かな技術を支える、豊かな音楽性に触れることが出来る。(1995.6.27)





goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

「気谷誠を偲ぶ会」終了のご報告と、特製CDの頒布について

2010年02月04日 12時43分58秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること
 「気谷誠を偲ぶ会」が無事、終わりました。やっと残務も一通りかたづいて落ち着いたので、ご報告をします。
 なんといっても私にとっては、「気谷誠を語る」といったトークを1時間近くも務めたのが、大変でしたが幸せでした(写真参照)。メモと当日の録音から、来週あたりにはこのブログ上にトーク内容を掲載しますが、とりあえずは、ご連絡、ご報告をいくつか。

当日入り口で配布した「ごあいさつ」は以下のとおりです。

=============================

          「気谷誠を偲ぶ会」ごあいさつ

2010年1月31日(日曜日)/午後1時30分~
東京・一ツ橋「学士会館」202号室

 版画研究家、愛書家、さらにオートバイ愛好家として、わたしたちの共通の友人であった気谷誠が2008年9月22日に没してから、もう一年以上たってしまいました。
 気谷は、その亡くなる直前に「やりたいことはすべてした。あとは音楽を聴いて残された日々を過ごすだけだ。葬式もしない」と、強い決意を言い残しました。ですが、それでは残された者の気持ちの整理がつかないとの山田俊幸の言を受け、「それなら、越智まりこさんに数曲歌ってもらって、友人たちへのお別れ会としてくれ」との言葉を遺すこととなりました。このお別れ会は、そうした事情で行われることになったわけですから、主催する友人としては、生前に親しかった人々のみならず、この度、気谷誠の遺著として編まれたアーツアンドクラフツ社の『西洋挿絵見聞録――製本・挿絵・蔵書票』を読んで気谷をより深く知りたいと思った人々にまで開かれた場として「偲ぶ会」を設けることが、気谷誠をより生かすことになると考え、自由に参加していただく会ということにしました。
 気谷誠が希望していたのは、ボードレールの詩を歌曲化した「旅への誘い」「前世」「愛しあう二人の死」の3曲でした。本日、越智まりこさんのご都合で、急遽予定していたささやかなコンサートが中止となりましたが、気谷誠の愛聴していた音源でそれらの音楽を聴いていただいて追悼といたします。版画や書籍ばかりではなく、音楽にまで広がっていた気谷誠の世界を、お味わいください。

●2時より、下記のトークと音楽鑑賞を予定しております

演題「気谷誠、最期の3週間――その音楽とともに暮らした日々について」

話し手:竹内貴久雄(友人・音楽研究家)/ 聞き手:西村佑美(フリー・アナウンサー)

演奏曲目:ボードレール詩/デュパルク曲「旅への誘い」(1983年「黒の会サロン」の記録)
     ボードレール詩/リラダン曲「愛し合う二人の死」(前同)
     ボードレール詩/デュパルク曲「前世」(ジェシー・ノーマン)
     ショパン作曲「別れの曲」(親密)(ニノン・ヴァラン)


               「気谷誠を偲ぶ会」発起人を代表して 山田 俊幸

==============================

 お気づきかと思いますが、上記は、1月16日付けの当ブログ掲載の、山田俊幸氏作成の告知文を流用して書き直しています。16日付けで告知していた越智まりこさんのソプラノ独唱というミニコンサートが中止になって、私がお話しすることになったのです。
 告知掲載の翌々日には、越智さんから山田氏に連絡が入っていましたが、告知後だったため、無用の混乱を避けるために当日の変更発表としました。コンサートを楽しみになさっていた方には申し訳ないこととなりましたが、気谷自身が亡くなる直前まで聴いていたお気に入りの本格的フランス歌曲の歌い手による貴重な音源を、お集まりくださった方々にお聴きいただく機会となって、よかったようにも思っています。真に気谷誠の魂の安らかならんことを願う人々による、すばらしい「音楽葬」になったように思っています。ご参集の皆様、ありがとうございました。

 なお、会場で配布しました特製CDについて、当日参加できなかった多くの方からお問い合わせをいただいておりますので、急遽、下記の方法で頒布することになりました。
 聴いてくださる方にお送りしますので、お申込みください。
 なお、配布資料は「気谷誠略年譜」のほか、追悼文や書評、新聞記事のコピーなど。特製CDの内容は、すべてSP盤の音源で、気谷のコレクションから作成されたもの。ニノン・ヴァランが歌う「別れの歌」(ショパン)「月の光」(フォーレ)「旅への誘い」(デュパルク)のほか、田中路子の歌唱2曲、パンゼラの歌唱1曲の計6曲が収録されています。


【「気谷誠を偲ぶ会」当日配布資料および、特製CD「気谷誠●別れの曲」】

◎頒布価格:2000円(送品手数料を含む)
◎お申込み先:(郵便振替口座)00120-6-134399 「風信社」
 郵便振替用紙に、「気谷誠を偲ぶ会」資料希望、と明記し、送品先住所、氏名をご記入ください。
◎その他のご連絡、お問い合わせは、当ブログのコメント欄をお使いください。非表示設定となっていますので、私が読むだけです。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )