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小津安二郎の研究者・田中眞澄のこと。ピエール・ドゥ-カンのフォーレ「ヴァイオリン・ソナタ」のこと。

2014年05月30日 16時12分50秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 奇妙な取り合わせの表題だが、本日は、突然蘇ってきた記憶の話である。
 じつは、一昨日のこのブログに書いた東銀座の「東劇」に行ったところから、話は始まる。
 この日、映画の開始よりもだいぶ早くに着いてしまった私は、東劇ビル一階の書店で少々時間つぶしをしようと立ち入った。ここの山下書店は、場所柄から、映画、演劇、歌舞伎などの書が品揃えよく並んでいるので、何かと刺激があるのだ。この日、私はそこで思いがけなくも、懐かしい名前に目が止まった。
 田中眞澄著『小津ありき――知られざる小津安二郎』(清流出版)という書だ。
 小津安二郎について関心のある人で、田中眞澄氏の名を知らない人は居ないだろう。この30年ほどの間に、小津についての研究書を中心に、多くの映画研究、社会、文化への考察で健筆を奮ってきた。
 田中氏の名が懐かしかったのは、じつは、彼が最初に世に問うた書『小津安二郎・全発言一九三三~一九四五』(泰流社)は、私がその版元泰流社の編集長時代に手掛けたものだったからだ。
 田中氏を紹介したのは、あるフリー編集者である。いわば、次々にネタになりそうな話を持ちかけてくる人物である。その彼が、映画好きの奇人がいるんだが、会ってくれないか、と言ってきた。なんでも「小津映画が死ぬほど好きで、片っ端から資料を集めている」と言う。
 根っから、私も資料の虫だから、話が弾むかも知れないと思って時間をつくったのだが、その奇人ぶりに、かなり度肝を抜かれた。別に風貌がそうだったわけではない。その生活ぶり、だ。
 まず彼は、当時神楽坂近くにあった泰流社まで、彼の自宅アパートがどのあたりだったか忘れてしまったが、2時間近くかけて歩いてきたという。電車代がないから、とか、もったいないから、とか、時間だけはあるから、とか、少しはにかんだような笑いを口の端に浮かべ、せかせかと話した口ぶりが思い出される。
 そして、かなりの量の小津安二郎関連の新聞、雑誌の文章を書き写して束ねた紙――。切り抜きでもなければ、コピーでもない。ミミズが這ったような、しかし、その割には読み易くもある文字で几帳面に書かれていた。聞けば、コピー代がたいへんだから、だという。
 この書き写しは信用していいのですね、と私が問うと、もちろん、と、決然とした口調で答える。改行位置はもちろん、誤植と思われるものも「ママ」と脇に書き添えて写しています。テン・マルも文字遣いもそのままです、という。観ると、確かにそのようになっている。私は、彼を信じることにして、彼の持ち込んだもので『小津安二郎・全発言』の企画を立ち上げることにした。
 もちろん、その日に全部持ち込まれたわけではない。その日は一部分である。残りを借りる前に、私の方は、正式に企画を軌道にのせること、仕上げる本のコンセプトの調整や、それにともなう仕上がりの規模などを決めておかねばならず、2、3日後に電話する、と言ったが、その返事で、またびっくりした。
 なんと、電話など持っていない、という。まさに、仙人のような人物であった。
 私は彼の住所を聞き、そこに「連絡されたし」と電報を打つ、という、前代未聞の連絡方法を取り決めた。1980年頃の話である。そして、今度来社してもらうときは急ぐから電車に乗ってきてほしいと言い添えて、ポケットマネーで電車代を渡した。
 田中眞澄氏は、そんな人物だったのである。
 彼とは、ページ数の都合で、「発言集」を戦前篇でとりあえず一冊にし、そのあと、戦後編を刊行する約束だったが、社の事情で延び延びになっている内に私が泰流社を退社してしまったので、約束を果たすことが出来なかった。それが、後に、フィルムアート社から『小津安二郎戦後語録集成』として実を結んだことは、みなさんがご存知のとおりである。社内の「いいとこどり抜粋集で一冊に」という暴論を意地で跳ね返し、私と田中氏で「全発言」だからこそ、見えてくるものがあるのだ、と主張し続けたのも、今となっては懐かしい思い出だし、それが正しい判断だったと思っている。あの書は、章立てもせず、ひたすらに、編年体で小津の発言を追い続けること、活字の組み方を変えずに、すべて同じ組み方で一貫させること、一行の折返しが早く、改行のタイミングも細かい新聞・雑誌記事が多いことに配慮して、あまり一行あたりの字数を食わない2段組にする、というのが、資料の虫であった私の作ったルールだった。(その点が、戦後篇では崩れてしまったのが、私としては残念である。)
 ――そういえば、巻末の索引づくりの過程で、「麦秋」が「は」の項目に入っていたのを「む」の項目に移動させたのは、田中氏の指示だった。彼は当時、「麦秋」は「ばくしゅう」ではなく「むぎあき、むぎのあき」と読むんですよ、と主張していた。これに関しては、その後、根拠を尋ねようと思ったまま、果たせなかった。今でも、不思議に思っていることのひとつである。
 さて、「今でも…」と書いたのは、田中眞澄氏の熱心な読者ならお分かりのことと思うが、じつは、田中氏は、3年前の2011年に、65歳でこの世を去っている。私より2、3年年長だった記憶通りで、未だに生き残っている私は、まもなく65歳である。
 東劇一階の書店で偶然にも見かけた田中氏の新刊書の著者プロフィール、「二〇一一年逝去。享年六十五」の文字は衝撃だった。
 私は、『小津安二郎全発言』を出版することが正式に決定してから数日後に、社にかかってきた、北海道に住む田中氏の姉を名乗る方からの電話を思い出した。
 「弟のやっていることは、ほんとうに本にして、人様に読んでいただける価値のあるものなのでしょうか」というような趣旨だったと記憶している。
 「すばらしい仕事です。これは世に出さなくてはならない仕事です。」
 「そうですか。安心しました。よろしくお願いします。」
 そんな短いやりとりだったと思う。だが、私は、東京に残ったまま、定職にも就かずに生活を続けている弟の将来を心配する優しいお姉様の電話だったと、今でも思っている。
 田中氏の活躍は、こうして始まった。泰流社を退社してしまった私と田中氏との交流は、それきり途絶えてしまったが、田中氏の奇人的な暮らしぶりは、それほどは変わらなかったのではないかと推察している。だが、彼の死後にも、熱心な彼の理解者が、こうして彼が雑誌などに書き綴ったまま放置していた文章を、一冊にまとめようと立ち上がった。それが今度の彼の著書である。「どんなに貧乏でも、ぼくは幸せです」と言っていた彼の微笑みが目に浮かぶ。
 その田中氏と、交流が途絶えたあとで、一度だけ、連絡を取ろうと思ったことがある。
 クラシック名盤について、多くの識者のエッセイを集めたムックを編集していた時期のことだ。映画に関しては、田中氏ほど熱心ではなかった私が、彼に夢中になって話したのが、音楽の話題、名盤についての会話だった。こちらのジャンルは、田中氏のほうが、ぼくはそんなに詳しくないから、と寡黙だったが、一度、目を輝かせて語ったのが、フォーレの『ヴァイオリン・ソナタ』だった。ピエール・ドゥーカンのヴァイオリン、テレーズ・コシュのピアノによる仏エラート録音。日本コロムビアの1000円盤シリーズで出ていた。田中氏が、この曲を聴くには誰がいいですか? というので、すかさずドゥーカンの名を挙げたら、すっかり意気投合した記憶がある。それを彼に執筆してもらおうと思ったのだ。
 結局、連絡先を丁寧に辿る作業を怠って、田中氏への原稿依頼をすることがないままに終わってしまったのだが、田中氏とは、「このピアニストとの絶妙の呼吸は、絶対に他人同士ではない」という確信までも一致したことが懐かしい。当時、情報がなかったので、われわれの邪推だったわけだが、その後、このヴァイオリニストとピアニストが、やがて夫婦になったこと、夫に先立たれた未亡人テレーズ・コシュが、亡き夫の録音をプライベート盤CDで世に出したことなどがわかったのだが、そのことも、田中氏に伝える機会がないまま、彼は旅立った。またひとり、もう一度会っておきたかった人が、逝ってしまった。
 田中眞澄さん、いつか、あちらでお会いしましょう。お話したいことは、たくさんあります。

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