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米エヴェレスト原盤『ストコフスキーの芸術』第3弾は『ピーターと狼』『シンデレラ』『子供の領分』

2013年06月20日 10時08分20秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)
 以下は、7月24日発売のCDのために書いたライナーノートです。日本ウエストミンスター発売(日本コロムビアの販売)です。写真は解説書の表紙およびウラ表紙です。ウラ表紙は、オリジナルLP4種のジャケットです。新しいオリジナル・マスターテープにまで遡った大幅に音質が改善されたCDによるものとしては初発売となるものです。ライセンスその他については、詳しくは当ブログの『ストコフスキー』シリーズ第1弾、第2弾を参照してください。(今年の1月、2月頃に、このカテゴリー「ライナーノート(ウエストミンスター/編)」に掲載しました。)

■20世紀に生まれた「こどものための音楽」
 米エヴェレスト原盤による「ストコフスキーの芸術」第3弾は、以下の「こどものための音楽」3曲で再編成したものとなった。
●プロコフィエフ『交響的物語《ピーターと狼》』
 20世紀の代表的な作曲家のひとりセルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)は、現在はウクライナ共和国となっているロシア帝国内に生まれた。ロシア革命後にアメリカに渡り、その後パリに行き、その間の20年ほどの海外生活で近代のモダンな作風を確立した作曲家だったが、そのプロコフィエフが望郷の念の高まりから、革命後のロシア、すなわちソビエト社会主義連邦(ソ連)への帰国を決意したのが1933年だった。『ピーターと狼』は、こうして故郷に帰り着き、折からの音楽芸術に対する社会主義リアリズム礼賛と大衆化路線の波に遭遇した作曲家が、「わかりやすい音楽」を目指していた時期の作品。1936年に作曲されている。ロシア民話をベースにしているが、音楽の進行に合わせて語られる台本は、作曲者自身によって書かれており、物語に登場するキャラクターが、以下のオーケストラそれぞれの楽器に割り当てられている。
 少年ピーター(弦楽合奏)、小鳥(フルート)、アヒル(オーボエ)、ネコ(クラリネット)、ピーターのおじいさん(ファゴット)、オオカミ(ホルン3本)、狩人(ティンパニ+大太鼓)
 最初、各キャラクターの紹介から。それが終わると、次のように物語が始まる。
 ――ある朝のこと、ピーターが外へ出掛けると、良い天気に小鳥たちがはしゃいでいる。やがて、ピーターが閉め忘れた門からアヒルが外へ逃げ出す。泳げない小鳥と飛べないアヒルとのケンカ。そこへネコが登場。小鳥を捕まえようとするが、とっさに逃げる小鳥。おじいさんが現れて、オオカミが来たらどうするんだと叱って家に帰らせる。置いてけぼりのアヒルを狙ってオオカミが登場。ネコは逃げるが、足の遅いアヒルがオオカミに呑み込まれてしまう。それを見ていたピーターが、小鳥たちに協力してもらいオオカミの気を引いて捕まえようとする。狩人たちも鉄砲を持って応援に駆けつける。こうして生け捕りにしたオオカミを連れての勝利の行進。すると、呑み込まれていたアヒルがオオカミの口から、無事に飛び出す――。
●プロコフィエフ『バレエ曲《シンデレラ》』
 『ピーターと狼』が作曲された8年後の1944年の作品。誰でも知っているフランスの童話作家シャルル・ペローの『シンデレラ』に基づくバレエで、バレエの初演が1945年11月、第2次世界大戦終結の直後に行なわれている。バレエ曲は全3幕50曲から成るものだが、そこから作曲者自身によって3種の異なる組曲が編まれている。このCDでは組曲版と全曲版から、以下のようにストコフスキーによる独自の構成で抜粋され演奏されている。( )内が出典であるが、それぞれ、接続個所を中心に、ストコフスキーの改変が見られる。特に第1組曲第7曲、第8曲に、それが著しい。
 「春の精と夏の精」(第2組曲第3曲)~「舞踏会へ行くシンデレラ」(第1組曲第6曲)~「宮廷のシンデレラ」(第2組曲第5曲)~「シンデレラと王子」(全曲版)~「シンデレラのワルツ」(第1組曲第7曲)と「真夜中」(第1組曲第8曲)~「大団円とフィナーレ」(全曲版)
●ドビュッシー『組曲《子供の領分》』
 ドビュッシーが、当時3歳だった愛娘のエマ(愛称:シュシュ)に聴かせるために作曲したピアノのための組曲。1908年の作品。全6曲を作曲者の友人の作曲家アンドレ・カプレが管弦楽に編曲した。しかし、ここでもストコフスキーは独自の考えで第2曲「ジャンボ(象)の子守歌」、第5曲「小さな羊飼い」、第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」のみが演奏されている。ベースにあるのはカプレの編曲版だが、これも、ストコフスキーによって改作が施されている。

■「ピーターと狼」のナレーション史
 今では日本語によるナレーションが学校教育の現場では当たり前になってしまった『ピーターと狼』だが、じつは、録音・編集技術の制約もあったためか、LP最初期の昭和30年代前半には英語版のままでの発売が通常だった。文部省の必修教材になったこともあって、日本語版が登場したのは昭和33年11月新譜の芥川比呂志(オーマンディ指揮)の日本コロムビア盤あたりからのはずだ。続いてドイツ・グラモフォンの中村メイ子(フリッツ・レーマン指揮)が話題になったと記憶している。どちらもモノラル盤である。団塊の世代が学校で聴いていたのはほとんど坂本九(カラヤン/フィルハーモニア)の擬似ステレオ盤だが、黒柳徹子(マゼール)がステレオ盤で登場して主役の座を競い始めた。このマゼール盤は、初出LP時から、英、独、仏、日、それぞれが各国語で発売された。その後は日本語吹き替えが主流となり、日本で英語版は、バーンスタイン自身の「振り語り」盤、プレヴィンとミア・ファーロー、バレンボイムとデュ=プレの夫婦盤、ベームとカール=ハインツ・ベームによる親子盤や、ショーン・コネリー、デビット・ボウイなど人気俳優盤に限られる時期が続いた。
 当CDのストコフスキー盤は、日本でもキャプテン・カンガルーによる英語版が昭和40年代に日本コロムビアからLPで発売されたが、日本語版全盛の陰に追いやられてしまった感があり、堺正章による日本語ナレーション・バージョンに差し替えられてしまった。1975年のことだ。
 今回のキャプテン・カンガルーによる英語版の国内盤登場は久々のものだが、時代の風潮はすっかり一変してしまった。もはや、日本の児童教育はグローバル化が叫ばれ、英語教育の早期化は、社会的な要請ともなっている。そうしたことを踏まえてこのCDを聴くと、オリジナル録音のままの発売が当たり前となった今日に於いても、キャプテン・カンガルーの聞き取り易く親しみ易い英語は、最も理想的なものに思えてくる。

■「キャプテン・カンガルー」のナレーションと、ストコフスキーの見識
 「キャプテン・カンガルー」とは、アメリカの三大テレビ・ネットワークのひとつCBSの、子供向け人気番組の名称。この番組のホスト役を務めたボブ・キーシャンが、大きなポケットの付いた上着を着込んで登場したため、彼自身をキャプテン・カンガルーと呼ぶようになったという。1955年に放映されて以来1984年まで30年も続いた名物番組で、1977年にエミー賞を初受賞した後、80年から83年まで4年連続受賞をしている。この番組は日本では放送されなかったが、アメリカではこのストコフスキー盤が録音・発売された1959年~60頃に、すっかり子供の人気者だった。キャプテン・カンガルーの起用は、ストコフスキー自身の発案ではなかったかも知れないが、エヴェレストレコードとしては大きなセールス・ポイントであったに違いない。
 ジャケット記載のストコフスキー自身のメッセージでは、『ピーターと狼』という1936年に発表されてまだ〈間もない〉と言える作品の、響きの斬新さを指摘することにかなりの字数が費やされている。それは時としてフランスの近代音楽をも引き合いに出すほどのもので、このあたりにも、プロコフィエフという20世紀の作曲家の音楽的素養が、パリ時代のモダニズムの洗礼にあることを看破したストコフスキーの優れた見識が窺えるものとなっている。そしてオリジナルLPのB面には、ナレーションを省いた録音が収録されている。もともとナレーションが音楽の進行をガイドする役割を担っている作品だけに、音楽のみで聴くと、それは時として少々唐突だったり間延びしたりもするのだが、純粋にプロコフィエフが書いたサウンドを聴くことが出来る貴重な機会ともなっている。(これは1990年代の米オメガ(ヴァンガード)によるCD化では聴くことが出来る。)

■ストコフスキーと収録作品
 ストコフスキーは、20世紀という西洋音楽演奏の大転換期を代表する指揮者の一人だった。音楽はレコード、放送、映画を通じて、貴族や支配階級から開放され、大衆のものへとなっていったが、その先頭に立って音楽の普及に努めていたのがストコフスキーだったと言っても過言ではない。ストコフスキーは「啓蒙の人」だった。ストコフスキーによって解釈され指揮された音楽は、いつも、その音楽が持っている本質をわかり易く提示したものだったと言える。『ピーターと狼』のすっきりとして明瞭な響きにも、それは現れている。バレエ曲『シンデレラ』では、通常の「組曲版」や「全曲版」といった枠を取り払ったストーリー展開に合わせた構成で、戦後のプロコフィエフ作品の斬新な響きのエッセンスが聴けるわけだが、終盤の12時へと向かう時計のカウントダウンと、愛の成就の場面は圧巻だ。この流れで全編がコンパクトにまとめられているのは、この演奏しかない。
 ドビュッシー『子供の領分』抜粋も、ストコフスキーの独自の考えで構成されている。原則としてカプレの編曲版を尊重して、よく言われているほどには恣意的な改変をしないのがストコフスキーの見識だ。こうした抜粋方式はストコフスキーの得意技でもあって、最晩年にはビゼー『アルルの女』で見事な「つまみ食い」を聴かせている。

■米エヴェレストのオリジナルLPについて
 今回収録の3曲は《ストコフスキーの芸術(3)》のために編成されたもので、米エヴェレストのオリジナルLPの初出は、以下の通りであった。(カッコ内はカップリング曲)
*SDBR-3043/『ピーターと狼』(B面にはナレーションを入れる前の録音を、そのまま収録)
*SDBR-3016/『シンデレラ』(ヴィラ=ロボス『ウィラプルー』『モディーニャ』)
*SDBR-3108/『子供の領分』(プロコフィエフ『シンデレラ』『みにくいあひるの子』)
 この内、SDBR-3108は、既発売の「ストコフスキーの芸術(1)、(2) 」で詳しく触れたエヴェレストレコード末期のリリースの故か、『シンデレラ』が重複していること、表紙に『子供の領分』の記載がないなど、不可思議な登場となっていた。しかも、そのためか、ライセンス元が『子供の領分』の初出を、後年発売の「3327」としている可能性がある。「3327」は、「ストコフスキーの芸術(2)」と、「同(1)」で述べたように経営陣の総入れ替え後のリリースなので、ひょっとすると、LP時代から『子供の領分』を未発売音源と思い込んでいたのかも知れない。
 ちなみに「3327」は、エヴェレストの一連の録音プロジェクトとはかかわりのない若い作曲家ポール・チハラの新作「ウィンド・ソング」発表の場がA面で、B面にヴォーン=ウィリアムズ『すずめ蜂』と『子供の領分』が付されている。この2曲が、ストコフスキー指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団による未発表音源とされての登場と思われるが、『子供の領分』は先に述べたように再登場。『すずめ蜂』のみ初出音源だが、ストコフスキーではなく、エイドリアン・ボールト指揮ロンドン・フィルの演奏と思われる。おそらくSDBR-3006のヴォーン=ウィリアムズ『交響曲第9番』録音(これは作曲者の立会いが予定されていたが、録音当日の朝、作曲者は急逝したと伝えられている)の際に、追悼の思いから追加録音されたまま未発売となっていたものではないかと推測される。これら4点のオリジナルLPジャケットをウラ表紙に掲載した。
 なお、ストコフスキーが指揮しているニューヨーク・スタジアム交響楽団は、アメリカの名門ニューヨーク・フィルハーモニーが契約の関係で米CBS(現SONY)にしか録音できないために用いていた変名である。当時のニューヨーク・フィルは、ミトロプーロスが引退し、若きバーンスタインが音楽監督に就任したばかりだった。
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ストコフスキーのバルトーク「オケ・コン」を、エヴェレスト35mm磁気フィルム録音のピュアな再現で聴く

2013年02月13日 13時56分37秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)
*上の写真は解説書ウラ表紙に掲載したオリジナルLPジャケットです。前回第1弾のときに、シルバー・バックのジャケット特有のオモテ周囲に残る銀色の縁どりを切らずに掲載してもらうよう、印刷段階で細かく注文つけたため、今度は、シルバーバックではないこのアルバムで、撮影用原稿台のパネルが同じような銀色なので、気を利かせてわざわざ残してしまったようです。校正刷りを見ておけばよかったと悔やみましたが、間に合いませんでした。結果的に、左の上と下の角に三角の折り目が写っていないので、こっけいな偽装だということがわかる方、あるいは、左端に背文字の一部が写っていることで、通常の畳み方のジャケットだと言うことがわかる方、どのくらい、いらっしゃるでしょうか。


 以下は2月20日に発売される新譜CDのライナーノート。昨日掲載分の続きです。全体の構成については、2月8日掲載分をご覧ください。

■ストコフスキーのバルトーク「管弦楽のための協奏曲」
 ストコフスキーは20世紀の作曲家・バルトークの『管弦楽のための協奏曲』をこのCDに収録されたヒューストン響との録音しか残していない。もっとも、作曲されたのが第二次大戦終結の2年前1943年秋で、初演されたのが翌年12月(クーゼヴィッキー指揮ボストン響)だから、このストコフスキー盤が録音された1960年頃でも、それほど多くの録音があったわけではなかった。おそらく、一番有名なのはフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団による1955年の米RCA盤だろう。作曲者と同郷のハンガリー出身であることや、作曲依頼の立役者であったことから、しばしばこの曲の代表盤のように語られるが、はたして、どうだろうか?
 ライナーの生真面目な音楽づくりに比して、ストコフスキーの指揮するこのバルトークの音楽は、とても色彩感にあふれたもので、バルトークの音楽にしばしば聴かれる緊張が、ほとんど陰を潜めている。むしろなごやかで楽しい世界を作り出しているのが大きな特徴だ。オーケストラの鳴り方が全体に高域に寄ったバランスになっていて、明るい響き合いを意識して目指していると思われる。かなり個性的なオーケストラ・ドライヴで、ストコフスキーの確信犯的な職人芸の妙技が堪能できる。
 ライナー盤は、私にとって、もう半世紀も前から、どうにもつまらなくて好きではなかった。むしろ1959年録音のバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル盤が、熱っぽい演奏で魅力にあふれていると思い、愛聴していた。だが、モノクロームの世界のようなところが禁欲的でもある。だからストコフスキーの録音を、今回のように心して聴かなかった事を悔やんでいる。ストコフスキー盤は、じつに楽しい演奏で、カラフルだ。ガラクタ箱をひっくり返したような楽しさは、各楽器のソロをかなり全面に出し、テンポを微妙に変化させる自在さで達成されたものだ。思わず身を乗り出したり、クスリと微笑むような瞬間が何度も現れる。バルトークが晩年の苦しい生活の中で、これほどのユーモアを描いていたことを知り、改めて天才作曲家の痛々しいまでの繊細さを嗅ぎ取ることができるのも、ストコフスキー盤の魅力だと思う。スコアに内在する音楽の本質が抉り出されているのだと思う。

■演奏曲目についてのメモ

《バルトーク:管弦楽のための協奏曲》
 1943年に作曲された作品。アメリカに亡命したバルトークだったが、白血病に冒されていたこともあるが、ニューヨークという都市の喧騒は、ハンガリー出身のバルトークにとって、心の休まる場所ではなかったようだ。次第に健康を害し、亡命先で斡旋された教授職も続かず、経済的に困窮していたバルトークを救おうとして作曲依頼された作品のひとつ。晩年に完成した唯一のオーケストラ曲でもある。初演はクーゼヴィッキー指揮ボストン交響楽団により、1944年12月に行なわれている。バルトークが亡くなったのは、それから1年も経っていない時だった。曲名は、様々なオーケストラの楽器や合奏群を次々に選び出して協奏的に、あるいは独奏的に扱うことから付けられた。極めて20世紀的な「個人」の時代の産物と言える。全体は5つの楽章から成っている。
 第1楽章:「序章」アンダンテ・ノン・トロッポ~アレグロ・ヴィヴァーチェ
 第2楽章:「一対の遊び」アレグレット・スケルツァンド
 第3楽章:「悲歌」アンダンテ・ノン・トロッポ
 第4楽章:「中断される間奏曲」アレグレット
 第5楽章:「終曲」ペザンテ~プレスト



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ストコフスキー/ヒューストン響によるブラームス「第3交響曲」、その斬新な解釈の正当性

2013年02月12日 11時27分29秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)
*写真はオリジナルLPジャケットデザインを使用した今回のCDのライナーノート表紙とウラ表紙

 以下は、先日、8日、9日に掲載したライナーノート原稿の後半です。今月の20日に発売される新譜用のもので、本日からまた、少しずつ掲載します。伝説の「エヴェレスト35mm磁気フィルム録音」の最新リマスター音源です。詳細は、8日、9日掲載分をご覧ください。

■ ストコフスキーのブラームス「第3交響曲」
 ストコフスキーにとってブラームスの交響曲とは、どのような位置を占めていたのだろうか? 話題にする人は少ないが、ストコフスキーは1930年頃、既にブラームスの交響曲全4曲をフィラデルフィア管弦楽団を指揮して米RCAに録音している。昭和5年頃のことで、日本でもビクターから発売されている。この時期にブラームスの全交響曲を録音しているのはストコフスキーだけだろうと思う。第二次大戦後、LPレコードが発売され、やがてステレオLPの時代になって、ストコフスキーは再録音をしているが、オーケストラもレーベルも1曲ごとに異なっている。1番が英デッカへの72年録音でロンドン響。2番が英CBSへの77年録音でナショナル・フィル。3番が米エヴェレストへの58年録音でヒューストン響。4番が英RCAへの74年録音でニュー・フィルハーモニア管である。いずれもステレオ録音では正規のスタジオ・セッションは唯一のものだから、意識してカタログの空白を埋めていった観がある。
 ストコフスキーとヒューストン交響楽団によるブラームスの「第3交響曲」の演奏は、この音楽に、一般的なドイツ・オーストリア圏の音楽が持っている重厚さや、ブラームスの音楽にしばしば聴かれる晦渋さを予測すると、意表を突かれたように感じる。だが、ブラームスは楽旅を共にしたバイオリニストに刺激されて『ハンガリア舞曲集』を残した作曲家であり、多分にハンガリー気質を持った作曲家だった。その扇情的なラプソディ風の要素については、ブラームスという作曲家の体質として、もっと真剣に論じられるべきだと思う。ストコフスキーの指揮は、そうした観点から聴くと、とても示唆に富んだ解釈を聴かせる演奏であることがわかる。これと同じ時期の革新的な録音にフルトヴェングラーが世を去って数年後のベルリン・フィルを指揮したマゼール盤がある。これは実に思索的で静謐な演奏だ。ドイツ的重厚さが極端なまでに抑えられた天才的な解釈だが、思索的なスタイルに磨きをかけた演奏でハンガリー的要素は皆無だ。そして、このマゼール盤以外は、どれも多かれ少なかれ、ドイツ的重厚さから離れていない、その傾向は1990年代まで脈々と受け継がれている観があるが、唯一と言っていいラプソディックでエキセントリックな秀演が、ドラティ指揮ロンドン響による1963年のマーキュリー録音だと思う。
 だが、ストコフスキーの作り出す演奏は別格だ。テンポの緩急による表情の豊かさや、普段は陰に隠れている波打つような内声部の動き、大きな抑揚の落差がえぐり出す感情のほとばしりなど、ブラームスが譜面に書き込んだ様々な仕掛けの意味が、これほど手に取るように聞こえてくる第1楽章の演奏は他にない。一転して第2楽章はとても遅いテンポで、切なく歌い上げる。とても丁寧な演奏なのだ。各パートの響き合いが考え抜かれているのは次の第3楽章も同じだ。細部まで確信にあふれたストコフスキーの音楽は、終楽章に至っても変わらない。しゃくりあげる独特のアクセントの在り所がよく聞こえてくる。怒涛のような進行ではなく、飽くまでも細部を鳴らし切ることに集中して、一音一音確かめるように進んで終える音楽に、ブラームスが書いたのはこういう音楽だったのか、と思わず納得してしまう。

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エヴェレスト・レコードの変遷――べロック撤退後の混乱について(断章)

2013年02月09日 10時35分13秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)

 昨日の続きです。今月の20日に発売されるCDのために書き下ろしたライナーノートの一部です。詳細は、昨日up分をご覧ください。

■他社に売られた「エヴェレスト」録音とストコフスキー
 エヴェレストによるオリジナル録音の発売権も、1961年以降かなり切り売りされたようで、いくつかの楽曲は、各国でまちまちに発売されるようになった。伝えられるところによると、著作権に厳しかったストコフスキーが、「一体、どうなっているんだ」とハリー・ベロックの会計士で、ベロックがエヴェレストから撤退するに際して、その利権(株式)を買い取ったバーナード・ソロモンに尋ねるような問題も発生したという。
 今回のブラームス「交響曲第3番」、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」も、世界各国の様々なレーベルで発売されているので誤解されやすいが、どちらもオリジナルはエヴェレスト・レコードで、もちろん35mm磁気フィルムによる録音である。
 ブラームス「交響曲第3番」は、アメリカでエヴェレストが発売したものが初出だが、その後ベロックの録音・再生機を買い取った録音技師ロバート・ファインが仲立ちしたものか、なんとマーキュリー・レコードからも発売されているという。(ちなみに、スタインバーグ指揮ピッツバーグ響でブラームスの第4交響曲がエヴェレストにあるが、こちらはコマンド・レコードに引き継がれている。マーキュリー、コマンドとも、ファインによって35mm磁気フィルムによる脅威のサウンドを売り物にしたレーベルである。)
 だが、イギリスではワールドレコード・クラブから発売されたものが初出LPである。日本でのLP発売はなかったのではないだろうか。1990年代の初期には、「べスコル(Bescol)」という怪しげなレーベルからCDが出た(確か韓国プレスだったと思う)が、これもワールドレコード系のルートだろう。
 バルトーク「管弦楽のための協奏曲」の場合もイギリスではワールドレコード・クラブが初出だが、それとは別に世界最大の通販組織として知られるコンサートホール・ソサエティからも発売されていることがわかっている。日本盤も出ている。おそらく1960年代の日本では、これでしか聴けなかったと思う。ワールドレコード名での発売は他にも相当数のアイテムがあるから、おそらく、2005年ころから発売開始されたイギリスでの「エヴェレスト復刻CDシリーズ」は、このルートの複製音源からのCD化だと思われる。米ヴァンガードのデジタル化音源との表記がないからだ。

《明日からは、ライナーノート後半、「ストコフスキーの解釈の独自性と、その価値について」です。ドイツ・オーストリア圏の精神主義への礼讃から逃れられない価値観によって、ストコフスキー・ファンをも大きな錯覚の中に追い込んでいたストコフスキー観を、少しでも打ち破ろうと試みた、新しいストコフスキー論が展開できたと思っています。》



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エヴェレストレコード、驚異の35mm磁気フィルム録音による「ストコフスキーの芸術」第2弾

2013年02月08日 11時11分52秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)

 今月20日に、日本ウエストミンスターから発売される新譜のライナーノートを掲載します。
 「エヴェレスト」の35mm磁気フィルムによる驚異のアナログ録音のCD化シリーズで、「ストコフスキーの芸術」の2枚目です。曲目はブラームス「交響曲第3番」と、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」で、いずれもストコフスキー指揮ヒューストン交響楽団です。ご覧のように、表紙はブラームスのオリジナルLPデザインを再現してもらいました。
 ライナーノート全体は、かなり長文で、「ストコフスキーのエヴェレスト録音を聴く(2)」としましたが、ネット上では、書籍のような長文は読みづらいようです。特に、最近はパソコン端末で読む方や、さらには、プリントアウトして熟読する方が減って、携帯やスマホ画面で読む方が増えたようで、長文は扱いづらいようですので、4回に分割しての連続掲載とします。(ここまででも長いですね。申し訳ありません。)

■その後の「エヴェレスト・レコード」
 「エヴェレスト・レコード」の誕生に関するエピソードと、その運営会社であったベロック・インストルメンツが、その後わずか2年余で資本の引き上げという形でエヴェレスト・レコードから撤退してしまったことについては、前回のライナーノート(註:このブログでは、1月17日~18日に4回に分けて掲載しました。)で詳しく触れたとおりだが、その後のエヴェレスト・レコードの動向については、あまり触れられたことがない。ここでは、そのことについて、私の調査で知り得たことを記そう。
 私の知る限り、1950年代に生まれた数ある新興レーベルの中で、「エヴェレスト」ほど数奇な運命にもてあそばれたレーベルはないと思う。アメリカ国内で制作された自社のLPですら、ニューヨークでのプレスから西海岸・カリフォルニアでのプレスになって、かなり音質が変わったが、経営者が転々と移っていったためか、ジャケットの印刷原版が紛失してしまったようで、当時の粗悪な複写技術の故か、奇妙に色褪せたりピンボケで撮影された表紙に変わってしまったもの、演奏者のカラー写真がモノクロ写真に変更されたものなど、とても常識では考えられないものが、正規盤として流通している。極めつけは資料ファイルから撮影したものか、ファイリングのパンチ穴が左端に一列になって並んだままのものまである。新しいデザインを起こす手間と費用を省くにしても、その無神経さには驚いたものだ。そして、オリジナルの35mm磁気フィルムによる特殊な録音・再生機も売り払ってしまったため、初期の金属原盤が傷んだ後は、通常のオーディオテープにダビングした音源から起こし直した金属原盤によるプレスとなって、エヴェレスト本来の驚異的なサウンドも失われていった。
 前回発売のCD「ストコフスキーの芸術(1)」の解説(上記の註の4回分の第1回)にあるように、ハリー・ベロックが多額の投資をして製作させた特殊な録音機は、録音用と編集用とで1セットしか存在しないので、世界各国では、初出盤でさえアメリカのスタジオで製作された金属原盤を取り寄せるか、通常のオーディオテープにコピーされた音源から独自にカッティングして原盤を製作するかしか方法はなかった。(1960年初頭に日本ビクターが「トップランク」というレーベルで発売した数枚のエヴェレスト録音は、アメリカから取り寄せた原盤を使用してプレスされているものを発見している。)そのため、再発盤以降は、コピーテープからの製作ということになるわけで、CD化も、そうして行なわれてきたわけだ。
 ところが、1990年代の半ばに、米ヴァンガード社がエヴェレストの発売権を買い取った際に、まだオリジナルの35mm磁気フィルムと、その専用再生機が保存されていることが判明した。おそらくそれが、この奇跡の録音を蘇らせる最後のチャンスだったはずだ。
 35mm磁気フィルムには特殊なコーティングが施されており、経年変化による化学反応の刺激臭で目も開けていられない状態のため、ガスマスクを着用しての過酷な作業が、慎重に続けられたという。だが、その甲斐あって、米ヴァンガード社(米オメガ)はエヴェレストのオリジナルサウンドをデジタルで取り込むことに成功した。それが1996年ころから輸入された「エヴェレスト・ウルトラ・アナログ」のシリーズだ。今回、日本ウエストミンスターから発売されているエヴェレスト・シリーズは、アメリカのビジネスの慣例通り、一段落した米ヴァンガードが一括で売り払った音源を買い取って管理しているドイツ・ハンブルクに本拠がある「カウントダウン・メディア社」が、マスタリングをし直した音源で制作されている。
 制作に従事しているのは「Lutz Rippe」というエンジニア。おそらくまだ若い人だと思うが、世界中の有名エンジニアと連絡をとりながら研究しているそうで、カウントダウン・メディア社へは、エヴェレスト音源のリマスタリングを自分の手で行ないたいということで来ていると聞いた。エヴェレスト・サウンドの理想を後世に残す作業が、こうして今も続けられているのだ。

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ストコフスキーのショスタコーヴィチとスクリャービン

2013年01月18日 10時20分58秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)
昨日から連続でUPしている「エベレスト・レコード/ストコフスキー」のために執筆したライナーノート、第1集原稿の分割掲載、最終回です。日本ウエストミンスターから、まもなく(2013年1月23日)発売されます。

■このCDアルバムの演奏について
 日本では先に挙げたなかで、モノラルLPレコード時代からショスタコーヴィチの「第5交響曲」で最も話題になったのは、ロジンスキーのウエストミンスター盤だろうと思う。それに続いてシルヴェストリ盤、バーンスタイン盤といったところだろうか。ムラヴィンスキー盤は、東側のレコードということで、新世界レコード社からの発売だったから、入手が少し難しく、通好みの盤という位置づけというのが、1960年代の状況だったと記憶している。
 しかし、今回、改めてストコフスキー盤を聴いて、その音楽の進行の丁寧さに驚愕した。スコアに書き込まれた要素を、隅々までしっかりと拾い上げてしっかりと鳴らし、細部を彫琢していることに、とにかく感服した。当時の大方のイメージは、この音楽にある「抵抗」を、力強く高らかに歌い上げることに邁進するものだったのかも知れないが、そのことで取りこぼしていたことがいくつもあったのだということを、私たちの時代は知るに至っている。それは1996年に作曲者の息子マキシム・ショスタコーヴィチがプラハ響とで録音したライヴ盤あたりで、私は遅ればせながら気付かされたのだが、じつは、それよりも30年以上も前にストコフスキーが提示していたとするなら、それは、改めてこの指揮者が、新しい音楽を紹介するに際して「的確で正当な判断」をしていたということの証明になるだろう。第3楽章冒頭から数分間のインテンポの展開は、一筆書きの連続で、西欧のドラマづくりの語法とまったく異なる新しさに着目して演奏していることが感じられる。
 1950年代にショスタコーヴィチ作品を演奏していたということは、同時代の作品を演奏していたということ、すなわち、まだ、その作品からは、生まれたばかりの香気が立ち込めていたのだということを忘れてはならない。そこから、未来に残すべき作曲者のメッセージを嗅ぎ取り、明らかにするのは容易ではない。いくつにも分割された弦楽合奏の処理も、じつに細やかで、この作品が真に優しい眼差しに満ちた叙情的作品であることを証明してくれている。名人、ストコフスキー、恐るべしである。
 LPレコードでは別に発売されていたスクリャービンの『法悦の詩』が、当CDアルバムではカップリングされたが、これは1908年にニューヨークに於いてロシア系の指揮者、オーケストラによって初演された作品。こちらも1932年というかなり早い時期の録音がストコフスキー/フィラデルフィア管で行われており、その後、ミトロプーロス/ニューヨーク・フィルや、ピエール・モントゥー/ボストン響の録音が登場している。ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」と同様、ストコフスキーにとってSP期以後の正規のセッション録音は、このエヴェレスト盤が唯一のものである。
 じつに生真面目で堂々とした演奏で、1952年録音のモントゥー盤の自在な軽さや色彩感、流動性、官能性などと比較すると拍子抜けしてしまうほどだ。この曲のイメージが、モントゥーほどにこなれていないのは事実だが、ストコフスキーを批判する際の決まり文句の「演出過剰」という特徴は、誰もが知っているポピュラー名曲に限られていた事なのだということを、改めて認識する演奏ではあるだろう。新しい時代の音楽の啓蒙家・紹介者としてのストコフスキーの一面を垣間見る思いだ。
 なお、起用されているオーケストラの内、「ニューヨーク・スタジアム交響楽団」は、夏季のサマーコンサートをルーイゾン・スタジアムで開催していたニューヨーク・フィルハーモニックが、レコード会社との専属契約を逃れるために用いた変名。フルメンバーでは、1952年にはミトロプーロスと、1959年にはバーンスタインとで録音しているオーケストラだから、当時、この曲にはかなり馴染みがあったと思う。
 一方、スクリャービンで演奏している「ヒューストン交響楽団」は、1913年の創設以来、ヨーロッパの著名指揮者を数多く音楽監督に迎えているアメリカのメジャーオーケストラのひとつ。ストコフスキーは1955年から1960年まで、このオーケストラの音楽監督を引き受けていた。ハリー・ベロックの録音機は大型トレーラーに積載して移動可能だったから、それをテキサス州のヒューストンにまで運んでの録音だったはずだ。

【付記】
冒頭の写真は、今回のCDのライナーノート表紙を開いた状態です。右半分がオモテ面、左半分がウラ面です。ご覧のように、今回世界で初めて、オリジナルLPレコードのデザインを完全に再現してもらいました。(ただし、スクリャービンのLPレコードジャケットは、発売元の日本ウエストミンスターさんが、カップリング曲のタイトルを消してしまいました。)どちらもシルバー・バックの初出ジャケットを使用しましたので、周囲(三方)に銀色の縁取りをわざわざ残すために、デザイナーさんのお手間を取らせてしまいました。
この表紙のストコフスキーのカラー写真は、再発売の時から、モノクロ写真となってしまいました。近々、そのあたりのLPジャケットの変遷を、このブログ上でお目にかけようかとも思っています








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ストコフスキーの20世紀音楽録音について

2013年01月18日 10時08分33秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)
以下は、昨日の続きです。来週(2013年1月23日)に日本ウエストミンスターから発売される「エヴェレスト・レコード/35mm磁気フィルム録音シリーズ」の「ストコフスキーの芸術・第1集」のために執筆したライナーノートです。長文のため、数回に分割して掲載しています。

■このCDの演奏曲目について
《ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 作品47》
 かつて社会主義体制の壮大な実験国家として、米・ソの二大国の一方の雄だったソビエト社会主義共和国連邦が
20数年前に姿を変え、ロシア共和国となって久しい。この交響曲は、かつての米ソ冷戦時代の真っ只中を生きた、旧ソ連を代表する作曲家の一人であるショスタコーヴィッチ(1906~1975)の残した交響曲の中で、最も知られている作品。国家指導部の執拗な干渉と作曲家の良心との相克がしばしば話題になり、様々の解釈が生まれていたが、近年、やっと、作品の純音楽的評価が落ち着きつつある。それに伴い、かつて日本のレコード会社が使用していた「革命」のニックネームも、見かけなくなってきた。
 四つの楽章から成る伝統的な交響曲の構成を模しており、ソナタ形式の第1楽章、スケルツォの第2楽章を経て、緩徐楽章、フィナーレと続く。編成は、金管を多少増強しているが、木管はほぼ通常の2管編成、弦5部というものだが、第3楽章のみ、弦楽だけの特殊な8パート分けで演奏される。1937年に完成。同年11月にレニングラードでムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルにより初演されている。
《スクリャービン:交響曲第4番『法悦の詩』作品54》
 ロシア帝国が社会主義国家に生まれ変わる十月革命が起こる1917年には既に世を去っていたのが、アレクサンドル・スクリャービン(1972~1915)。19世紀末にヨーロッパに広まっていた「神秘主義」に強い影響を受けた特異な作風の作曲家として知られる。20世紀音楽の先駆者のひとりとされている。
 『法悦の詩』は、作曲者により交響曲第4番とされているが、単一楽章から成る交響詩風の作品。決まった調性を持たず、スクリャービンの考案による「神秘和音」が用いられている。楽器編成はかなり大規模なもので、4管編成、弦5部に様々の音色の打楽器、チェレスタ、ハープ2、オルガンも加わって、独特の色彩感を要求している。1908年に完成しているが、その扇情的なタイトルや、官能的な曲想の激しさが誤解を生み、ロシア国内やドイツなどでは、しばらくの間、演奏禁止の圧力がかかったと言われている。
 初演は、1908年12月にニューヨークに於いて、ロシア交響楽協会オーケストラを組織するロシア人、アルトシューレルの指揮によって行われている。

■ストコフスキーの20世紀作品録音の特質
 ストコフスキーの「進取の気骨」は、20世紀の新しい音楽傾向を伝える作品への積極的なチャレンジという点にも現れていた。ストコフスキーがアメリカ初演で多くの聴衆に紹介した作品は数多いが、その中には、ショスタコーヴィチの「交響曲第11番」もある。
 このアルバムの「交響曲第5番」の場合は、1937年にムラヴィンスキー/レニングラード・フィルで初演されたわずか2年後の1939年4月に、ストコフスキー/フィラデルフィア管が録音している。おそらく、西側諸国での初録音と思われる。アメリカでの初演は前年1938年にロジンスキーの指揮で行われているが、録音が行われたのは1942年と、三年も経ってからのことだった。レコードという形での新曲の普及で、ストコフスキーはかなり先んじていたわけだ。
 このソビエト連邦の俊英作曲家の新作は西側諸国でも評判になり、第二次大戦後には、いくつもの録音が現れるようになった。1956年時点のアメリカ国内のLPレコードでは、キャピトルがゴルシュマン/セントルイス響、コロンビアがミトロプーロス/ニューヨーク・フィルで加わり。それに、新興レーベルのウラニアがボルサムスキー/ベルリン放送響で、ヴォックスがホーレンシュタイン/ウィーン響で、ウエストミンスターがロジンスキー/ロイヤル・フィルの演奏でそれぞれ加わり、カタログのラインナップを賑わしている。正に、この作品は「鉄のカーテン」の向こう側を覗き見る「窓」だった。
 ストコフスキーのエヴェレスト盤は、こうした状況の後、最初期のステレオ録音として登場したわけだ。同じ頃の録音には、モスクワへの親善訪問コンサートで作曲者自身を感動させたと喧伝されたバーンスタイン/ニューヨーク・フィル、個性的な指揮ぶりが話題となった東欧から西側への亡命者シルヴェストリ/ウィーン・フィルなどがあり、ストコフスキー盤は、エヴェレストの活動休止もあって、少なくとも日本では、ほとんど話題にならなかったと記憶している。おそらく、多くのファンに広く知られたのは、1969年12月の、日本コロムビアによる廉価盤の発売からだろうと思う。
 今回、この稿を執筆するに際して、改めて聴き直してみたストコフスキー盤の演奏で感じたことを、以下に記そう。

⇒続きは、このあと、すぐにUPします。
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ストコフスキーのエヴェレスト録音(つづき)

2013年01月17日 11時14分50秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)
 さきほどupしたばかりのライナーノートの続きです。併せてお読みください。

■ストコフスキーの録音歴のなかでのエヴェレスト・レコード
 初期の純正ハイファイ・サウンド時期の米エヴェレストからは、レオポルド・ストコフスキーの指揮で録音されたLPレコードが11枚制作されている。CDに組み替えると、6~7枚分といったところだろうか。
 ストコフスキーは、いつの時代にも様々な分野に対して、新しい事に挑戦し続ける「進取の気骨」を持った音楽家だった。彼が「万年青年」と呼ばれるのは、それ故のことだと思うが、そうした気骨は「録音」という音楽普及のツールに対しても同様だった。しばしば語られることとして、1932年にベル研究所が行なった世界初のステレオ録音の実験への協力が挙げられるが、晩年の1974年には、日本ビクターが開発したディスクリート4チャンネルの録音を行なっていることも、忘れてはならないだろう。曲目は、レコードで世界初のブラームス交響曲全集を手がけたストコフスキーならではのブラームス「交響曲第4番」だった。1974年5月4日に行なわれた最後のオーケストラ・コンサートの曲目から選んで数週間後に行なわれた渾身のスタジオ・セッションだったが、その後も、1977年9月の死の直前までスタジオでの録音収録が進行していた英CBSとの契約の延長上には、デジタル録音(当時、日本のデノン=DENONがPCM録音と名づけて開始していたはずだ)で「田園」を録音する、という企画も予定されていたと言われている。
 まさに、技術の先端を生き抜いた音楽家というに相応しいが、そのストコフスキーだからこその、エヴェレスト録音への協力だったと言えるだろう。ハリー・ベロックが投資した新しい装置による画期的なステレオ録音は、ストコフスキーを大いに刺激したに違いないから、自らのレパートリーの中から、彼が普及に努めていた20世紀の作品が選び出されるのに、それほどの時間はかからなかっただろうと思う。そして、それらの曲目に加えて、おそらく商業的な戦略から、ステレオ効果を得やすいスタンダード人気曲も、いくつか散りばめられた。この時期は、ストコフスキーの長い録音歴の上で、彼が、長く世に残すべき自らの仕事を整理し、再検討したともいうべき重要な段階だったのだと思う。ストコフスキーにとって、まもなく80歳になろうという時期である。だから、エヴェレスト社の、わずか2年余での失速がなければ、ひょっとしたら米キャピトルでの1960年以降のいくつかの録音(特に、ショスタコーヴィチ「交響曲第11番」)が、エヴェレストの優秀録音で残された可能性があったのではないかと思う。そう考えると、エヴェレストの早すぎたオリジナル録音事業からの撤退は残念でならない。

⇒以下、続きは明日掲載します。
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ストコフスキーの35mm磁気フィルムによるエヴェレスト録音が、理想の音を再現してCD化

2013年01月17日 10時54分09秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)

 今月、日本ウエストミンスターから発売される新譜のライナーノートを掲載します。
 「ストコフスキーの芸術(1)」というCDで、曲目はショスタコーヴィッチ「交響曲第5番」と、スクリャービン「法悦の詩」で、前者がストコフスキー指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団。後者がヒューストン交響楽団です。
 ライナーノート全体は、本日掲載分がちょうど半分くらいという長文で、「ストコフスキーのエヴェレスト録音を聴く(1)」となっています。つまり、「(2)」もあるのです。すでに。書き終えました。ほんとうは全部を通してゆっくり読んでいただきたいというくらい、まとまりを考えての執筆なのですが、ネット上では、書籍のような長文は読みづらいようです。特に、最近はパソコン端末で読む方や、さらには、プリントアウトして熟読する方が減って、携帯やスマホ画面で読む方が増えたようで、長文は扱いづらいようですので、何回かに分割しての連続掲載とします。(ここまででも長いですね。申し訳ありません。)

■名録音を残したエヴェレスト・レコードの特異性
 今から50年以上も昔、世にステレオLPレコードが登場したばかりの黎明期、1958年5月に、アメリカ、ニューヨークの一隅で「エヴェレスト」という新しいレーベルが誕生した。しかし、それからわずか2年余り1960年の暮れを待たずに、創業者ハリー・ベロックは、保有していたエヴェレスト社の全株式を売却し、この事業から身を引いてしまった。副業として始めたこの部門が、思ったほど利益を生まないと、役員会で問題になったからと言われている。
 ハリー・ベロックは、映画用の35mm幅のフィルム全面に特殊な磁性体を塗布した録音テープを考案し、それを使用することが出来る録音機と再生機を、ウエストレックス社に特別注文で製造させた人物だった。当時の米ドルで1台あたり約2万ドルだったと言われているから、日本円で720万円相当、今の物価水準ならば、5千万円以上の資金を、一台の録音機に注ぎ込んだことになるだろう。軍需産業の分野で得た富を惜しげもなく使って、この画期的な事業を始めた、いわばベンチャー・ビジネスの雄だったわけだが、米エヴェレストの誇る驚異的なハイファイ・サウンドのレコードは、この、ベロックが関わっていたわずか2年余に制作された100点足らずだけである。一部のオールド・レコード・ファンが、その後のエヴェレスト盤のラインナップを見て誤解しているようだが、それは、次々に登場した別の経営者らが、エヴェレストの名声を利用して発売する新譜のために、様々の音源の買い付けを繰り返したからだ。
 しかも、ベロックが1台ずつ特注した特殊な録音/再生装置が、名録音エンジニアとして知られるロバート・ファインの手に渡って、マーキュリーおよび、コマンドという他のレーベルのオリジナル録音用に活用されるようになったことから、後のエヴェレストの再発売盤は、通常の4分の1インチ幅の録音テープにダビングされたものから制作せざるを得なくなった。そのため、当初の驚異的なサウンドが聞こえない粗雑なものに堕してしまったことも、その後のエヴェレスト・レコードのイメージを貶める要因となっていったと思う。
 最近になって日本ウエストミンスターから発売されているエヴェレスト音源のCDは、前述のオリジナルの録音テープにまで遡ってデジタルデータで取り込み、それらの驚異的スーパー・サウンドを、これまでにないほどクリアに再現して順次聴いて行こうというシリーズ。当アルバムは、そのストコフスキー・シリーズとしては第1弾である。
 このCD音源の提供元はドイツに本拠を置くカウントダウン・メディア社。米ヴァンガード(米オメガ社)が1995年以降に音源の権利を得て行なった大規模プロジェクトの成果を引き継ぎ、近年、最新技術による音質改善を試みている。したがって、かつての通常テープからのCD化と思われる2005年頃からイギリスで発売され始めたエヴェレスト復刻シリーズのCDとは、明らかに音質が異なっている。(これに関しては、シリーズ第2弾で詳述する。)

⇒以下、本日すぐ、続きを掲載します。
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ジャノーリのモーツァルト「ピアノのための変奏曲全集」(第3集)のためのライナーノート「後半」です。

2011年06月21日 10時40分01秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)


 以下は、昨日掲載分の続きです。合わせてお読みください。

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(ライナーノート、後半)


《演奏曲目について》

〔1〕モーツァルトのクラリネット五重奏曲(K. 581)の6つの変奏曲 イ長調K. 追加137
 前段の解説に「偽作説が濃厚」とある通り、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲 K. 581』終楽章のピアノ独奏版といったものである。モーツァルトは、ウィーンでフリーランスの作曲家として生活を始めてしばらく経った1784年頃から、自分を売り込む材料にするためか、自作目録を几帳面に作成するようになった。完成した日付もほとんどに記載され、冒頭の4小節が添えられているというもので、モーツァルトの全作品を整理した最初の人物ケッヘルも、大いに参考にしている。そこに、このピアノ版の記載がなく、もちろん直筆譜も発見されていないので、モーツァルトの真作が疑われているものである。原曲の『五重奏曲』は、クラリネットの名手だった親友シュタドラーのために1789年9月29日に書き終えていることが、モーツァルト自身の記録にもある。

〔2〕アレグレットの主題による12の変奏曲 変ロ長調 K. 500
 ジャノーリの演奏が収録されたオリジナルLPの解説でも「モーツァルト自身の主題による~」と記されており、しばしばそのような表記を見かけるが、あくまでも「推定」であるようだ。わずか8小節という短く軽やかな舞曲風の主題が、てきぱきと多彩に変奏されていく練達の作品。1781年に始まったウィーンに定住してのフリーランス作曲家生活が、予約演奏会や家庭教師などの収入の道も順調に推移していた1786年に書かれている。

〔3〕パイジェッロの歌劇『哲学者気取り』の「主よ、幸いあれ」による6つの変奏曲 ヘ長調 K. 398 (416e)
 ジョバンニ・パイジェッロ(1740~1816)は、ロッシーニに先行するイタリアの歌劇作曲家。その新しい傾向の音楽によって、18世紀以降の音楽に大きな影響を残したことが評価されている。最盛期には、その人気はヨーロッパ全土のみならずロシア宮廷にまで伝わったと言われる。パイジェッロが書き上げた歌劇は90曲以上ある。
 この『哲学者気取り』と訳されたオペラは喜劇仕立てのもので、その中のアリアを主題に、1783年に行われた演奏会でモーツァルトが即興演奏したものをもとに、後に出版された作品。この時期、モーツァルトの人気は上がる一方で、演奏会は満員の盛況だったという。即興的な音型の上機嫌な変奏が繰り広げられるのも、そうしたことが背景なのだろう。モーツァルトの音楽の自在な魅力が横溢している。なお、ここに言う「哲学者気取り」のニュアンスは「占星術師」を意味している。哲学者も天文学者も数学者も祈祷師も錬金術師も占星術師も区別がなかった西洋の「中世」という時代を思い起こしていただきたい。

〔4〕デュポールのメヌエットの主題による9つの変奏曲 ニ長調 K. 573
 1789年の作品。この頃になると思惑と異なり、モーツァルトの生活は苦しくなる一方だったらしい。この年の春、安定した高額収入の道を模索して、ウィーンを旅立ち、ベルリンに向かった。その途上の都市ポツダムで、チェロ奏者でベルリンの宮廷音楽監督というジャン・ピエール・デュポール(1741~1818)に会ったモーツァルトは、この人物の作品を主題にして変奏曲を書き上げ、取り入ろうとした。モーツァルト自身の目録では「6つの変奏曲」となっているが、直筆譜が未発見で、後の出版譜が「9つの変奏曲」となっているため、追加の3曲がモーツァルト自身によるものか、それとも他人が書き加えたのかがわからない。しかも、追加部分がどの変奏かもわからないという、やっかいな作品である。最後に主題が再現されるという、構成感にあふれたまとまりを持っている。

〔5〕オランダの歌「ヴィレム・ヴァン・ナッサウ」による7つの変奏曲 ニ長調 K. 25
 ケッヘル番号が示す通り、モーツァルトが10歳の少年時代の作品である。父親に連れられてヨーロッパを西へと大旅行中のオランダで書かれている。当アルバム「第1集」に収録されたK. 24と同じ頃に書かれている。「ウィレム・ヴァン・ナッソウ」はオランダ王家の始祖の名。彼を称える歌として16世紀半ば過ぎから歌い継がれており、モーツァルト父子がオランダに立ち寄った頃、父親の書簡にも「国中の誰もが口ずさんでいる歌だ」と記されている。オランダ地域の愛唱歌として人々に長く親しまれ、紆余曲折の歴史を経て1932年にオランダの国歌に制定され現在に至っているのも、この旋律である。

〔6〕フランスの歌「美しいフランソワーズ」による12の変奏曲 変ホ長調 K. 353 (300f)
 これも「第1集」に収録されているK.265 の「きらきら星変奏曲」と1対になる作品。したがって、第1集の解説で触れたように、従来はパリで書かれたとされていたものが、最近の研究で、ウィーンに戻ってからの作品と考えられるようになっている。( )で改訂された新ケッヘル番号「300f」を併記したが、一方の「きらきら星」は、最近の新しいケッヘル番号では「300e」と直近に改められている。
 主題に選ばれた旋律は、この時代のパリの人々の間で流行していた歌で、おそらくモーツァルト自身がパリで聴いて覚えていた旋律だろう。誰のために書かれた変奏曲か判明していないが、1781年から1782年と推定されている作曲時期から見て、ウィーンの貴族の夫人か令嬢のピアノ教師としての実用に供するものと思われる。だが、ジャノーリが録音を行った時代には、「一連のパリ時代の作品のひとつ」と信じられていた。ジャノーリの3集にわたる「変奏曲全集」が、こうして「パリ趣味」を匂わせて終えているのは、制作者たちのそれなりのこだわりか、とも思う。
(2011. 5. 13 執筆)


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ジャノーリのモーツァルト「ピアノのための変奏曲全集」第3集(完結編)のためのライナーノートです。

2011年06月20日 09時54分57秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)



 着々と進んでいるレーヌ・ジャノーリのピアノ演奏の復刻CDですが、今月1日に発売された『モーツァルト・ピアノのための変奏曲全集/第1集』に続いて、『同/第2集』がまもなく、29日(水)に発売されます。そのライナーノートは5月16日~17日の当ブログに掲載しました。本日分はその続き、『同/第3集』のライナーノートです。
 日本ウエストミンスターが進めてきたジャノーリ録音のCD化は、モーツァルトのピアノ・ソナタを除けば、いずれも「世界初」という快挙ですが、米ウエストミンスターのために行ったジャノーリの録音では唯一のステレオだった「ピアノのための変奏曲」は、この「第3集」で完結します。私の解説原稿は制作進行の都合で、「第2集」に続けてすぐ書き終えて入稿しましたが、CDの発売は7月下旬に予定されています。そろそろ、アマゾン等、通販サイトでの予約受け付けも始まると思います。
 この「変奏曲全集」のライナーノート前半に連載風に書き継いできた「読み物」も、これで一応の完結。事実確認と並行して書いていたので、話が行きつ戻りつして申し訳ありませんが、近いうち、単行書に収録する際に、整理してまとめます。5月16~17日掲載の「第2集」と同じく、きょうは前半の読み物のみ、掲載します。続きの、曲目解説をまじえながら演奏について書いた部分は、明日掲載します。


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(ライナーノート前半、全文)


■レコード盤に残されたレーヌ・ジャノーリ(3)


 このシリーズも最後の「第3集」となったが、ジャノーリの録音歴に関連して、前回までの当シリーズCDの曲目解説に少々補足することがあるので、先に、そのことについて触れよう。
 「第1集」第1曲目に収録されている作品は、モーツァルト作のヴァイオリン・ソナタ K. 547」終楽章のピアノ・パートと同一の作品だが、それは、同曲の大部分が、ピアノ曲としてほぼ完成していて、それにヴァイオリンの装飾(オブリガート)を加えたような音楽だったからと解説したことへの補足である。じつは、6つの変奏からなるこの原曲の内、第4変奏だけはヴァイオリンの旋律が独立して活躍するため、「モーツァルト自身は第4変奏のみ省略した」というのが、最近では定説になりつつあるのだ。ジャノーリの録音でひときわ鮮やかに曲想が変化する第4変奏が、最近の研究の結論として、おそらく他人が書き加えたものだろうとされているのだ。そのため、第4変奏を「偽作」として演奏しないケースも増えてきている。
 一方、今回の「第3集」の第1曲に収録されている「6つの変奏曲」は、モーツァルト晩年の有名な「クラリネット五重奏曲」の終楽章そのものと、ほぼ同じである。しばしば「クラリネット五重奏曲終楽章による変奏曲」と表記されたりもしているが、終楽章はもともと変奏曲形式だから、「~による」というのは矛盾した表現で、クラリネットの主旋律も弦楽四重奏の伴奏部分も、そのままピアノで弾いているといった仕上がりである。この、モーツァルト晩年の傑作がピアノで聴けるとあって最近でも人気が高い作品は、今日に至っても作品そのものに対する偽作の疑いが晴れていない。このことは、ジャノーリの録音が行われた時にも判っていたはずだが、ただ単に、「クラリネット五重奏曲の編曲である」といった解説しか、LPレコードには書かれていない。ジャノーリ版の「変奏曲全集」は、楽譜校訂の厳格さが前面に出てくるような最近のアルバム作りでは省略されてしまうかもしれない部分が収録されている、というわけである。
 ところが、当時もモーツァルトの真作と認められていたはずの変奏曲の内、唯一、『グルックの歌劇「メッカの巡礼たち」の「愚民が思うには」による10の変奏曲 K. 455』が収録されていない理由が、私にはわからない。当時のモーツァルト研究から、それらしい根拠が見当たらないのだ。
 だが、案外、その理由は単純で、LP3枚に収録しきれなかったから、というだけのことかもしれない。アメリカのレコード会社なら、十分に在り得ることである。だとしたなら、ジャノーリの演奏録音そのものは、行われていたかも知れないのである。
 だとしても今となっては、そのマスターテープの行方を辿るのは不可能だろう。むしろ、ひょっとしたらジャノーリの好みで、この「クラリネット五重奏曲」の旋律のほうが選択されて残ったのだ、と思うことにしよう。「全曲」のラインナップを検討していて、最後に大きな謎が残ってしまった――。
 さて、紙幅も尽きてしまうが、最後の「第3集」で書いておきたいと思っていたことが、ひとつある。それは、昨年8月17日、モーツァルトのピアノ・ソナタ全集のCDを2枚目まで完成させたところで亡くなったピアニスト永冨和子氏のことである。日本を代表する国際的な演奏家の草分けのひとりとしてヨーロッパ生活も長かった永冨氏だが、その永冨氏は、おそらく日本人でただひとり、レーヌ・ジャノーリに学んだピアニストでもある。1959年から10年間のパリ留学中のことだというから、ちょうど、この変奏曲全集の録音が終わったすぐ後からの時期と重なっている。
 じつは、日本ウエストミンスターから発売が開始された一連のレーヌ・ジャノーリの復刻CDシリーズの第1回発売以来、計5枚の発売が続いた「モーツァルト・ピアノ・ソナタ全集」の表紙写真は、永冨氏がジャノーリから送られて所有していた写真の提供を受けて、制作されたものだと昨年の春頃に教えられ、その時、永冨氏がジャノーリに学んでいることも知ったのだった。
 小鳥と対話している優しい表情のジャノーリが印象的な写真だった。ジャノーリのLPをずっとコレクションしている私が、初めて見る写真だったので、どのレコードから複写したのかと尋ねた私に、そんな意外な返事をくれたのは、日本ウエストミンスターの清水英雄氏である。「もうかなりご高齢だけれども、まだお元気だから、お目に掛かる機会があるといいですね」という話があったのだが、果たせなかったのが悔やまれる。私がジャノーリの「ドビュッシー」のCD化の打ち合わせに訪れたときの話である。次々にCD化されるジャノーリの試聴盤を送る度に「ジャノーリ先生の演奏をほんとうにいつも有難う」と電話や手紙で喜んでおられたという。永遠に、お話しできなくなってしまったことと、この「変奏曲全集」を聴いて戴けなくなったことが残念である。
 別項の経歴紹介欄にもあるとおりレーヌ・ジャノーリは、1950年代からパリのエコール・ノルマルでピアノ教師をしていた。最晩年の数年間、パリ音楽院でも教えているが、エコール・ノルマルは長かった。アルフレッド・コルトーに請われての就任だった。私は、ジャノーリの残したレコードが、いくつかはとても個性的な選曲と構成が副教材としての利用を想像させる(「バッハ・アルバム」2種など)こと。そして、系統だって制作された「全集」という、はっきりとしたコンセプトを持っていること、そうしたことの背景に、ジャノーリが教授職を兼任していたことが関係していると思っている。この、いち早く「モーツァルトのピアノ用の変奏曲」を網羅したアルバムという、商品としては難しい仕上がりや、同じく、いち早くショパンの14曲のワルツ全集に補遺された5曲の遺作ワルツを加えて「全19曲」としたアルバム作りなどもそうだ。シューマンのピアノ独奏曲全集は偉業と言っていい。1950年代の初頭から日本でも発売された「モーツァルト ピアノ・ソナタ全集」は、確か、LPレコード初の大事業だったと思う。そして、そうした「全集」で、いつも、それぞれの曲想のイメージを鮮明に描き分ける細やかさが感じられるのは、ジャノーリにとって、当然のことだったのだと思う。このところ、ジャノーリの残した録音をまとめて聴き直す機会を与えられて、改めて確認したことである。



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レーヌ・ジャノーリによるモーツァルト「ピアノのための変奏曲全集」第2集のライナーノート(つづき)です。

2011年05月17日 10時09分58秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)

                          
以下は、昨日のつづき。ライナーノート後半です。

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(ライナーノート後半)


《演奏曲目について》

〔1〕ドゥゼードのコミック・オペラ『ジュリィ』の「リゾンは森で眠っていた」の主題による9つの変奏曲 ハ長調 K. 264 (315d)
 ドゥゼ―ドという作曲家は、最近の研究では「きらきら星変奏曲」(「第1集」に収録)の解説でも登場するようになったが、謎の多い作曲家である。名は「ニコラ Nicolas」といい1730年代の生まれとされるが、詳しい生年、出身地、両親については不明。1792年にパリで没している。したがって「フランスの作曲家」と言われるがフランス人かどうかも怪しい。わかっているのは1770年頃にパリに現れ、1772年にコミック・オペラ『ジュリィ』で一躍、脚光を浴び人気作曲家になったということ、「フランスで活躍した作曲家」というわけである。当時パリのコミック・オペラは、替え歌あり即興ありの滑稽芝居といった趣きが濃厚だったはずだから、「きらきら星」と後に日本で名訳された子供のための歌も、当時はパリの民衆歌だった旋律をドゥゼードが『ジュリィ』の再演にあたって取り入れ、それをモーツァルトが聴いて、変奏曲の主題にしたのだろうと考えられるようになっている。
 この「リゾンは森で眠っていた」(古いLPでは「眠れるリゾン」としばしば訳されていた)変奏曲の主題旋律も、そうした借用の可能性があるが、こちらは古くから、「ドゥゼードの~」と冠されている。ジャノーリ盤のオリジナルLP解説にもそうした記載があり、さらに、「一連の」としてパリで書かれた変奏曲群の1曲という認識が表明されている。しかし現在の研究では、着想は1778年パリ滞在中だったとしても、必ずしもパリでの作曲とは限らないという推論があることは、「きらきら星変奏曲」の解説で明らかにしたとおりである。出版は1786年と、かなり遅い。
 この曲の録音では、1955年に仏パテによって録音されたフェルナン・ウーブラドゥ監修の『パリのモーツァルト』というシリーズに収められたジャンヌ=マリー・ダルレの録音が私の愛聴盤なのだが、その少し沈んだ不思議な匂いの漂う演奏に対して、色鮮やかで華やかな曲想の歌が繰り広げられているところが、いかにもジャノーリである。(ついでながら、この仏パテのアルバムには、ジャノーリの師のひとり、ラザール・レヴィの演奏も、いくつか収められている。)

〔2〕シャックとゲールの『愚かな庭師』のアリア「女ほどすてきなものはない」による8つの変奏曲 ヘ長調 K. 613
 ケッへル番号が示す通り、モーツァルト晩年、死の年1791年3月の作品である。モーツァルトは歌劇『魔笛』を書いていた。『魔笛』は、心触れあう友人であったであろう興行師シカネーダーの依頼で「歌芝居(ジングシュピール)」に作曲されたもので、歌劇とは言っても、いわゆるイタリア伝統の「オペラ」ではなかった。ジングシュピールはドイツ圏で一般的だった形式だが、モーツァルトがパリで刺激を受けたコミック・オペラ的な自在な要素も色濃く持っていた。ベネディクト・シャックとフランツ・ゲールは、そうした歌芝居の歌手、兼作曲家として、旅芸人・シカネーダー一座の花形だった。モーツァルトの『魔笛』初演は、シカネーダーのパパゲーノ、シャックのタミーノ、ゲールのザラストロという布陣だったと伝えられている。
 シカネーダーの持ち歌だった彼らのヒット作品によるこの変奏曲は、歌の前奏から全ての旋律を提示する44小節もの長さを持った主題の提示に始まる。そして変奏は、ひたすら丁寧で、きめ細かく、それでいて、思わずクスッと笑いがこぼれるような軽やかでユーモアのある動きを聴かせる。ここに、モーツァルトが抱いていたシカネーダー一座の人々への真摯な友情の発露を感じるのは、私だけではないだろう。ジャノーリのピアノも、そうした丁寧さを守り続け、洒落っ気のある曲調の変化を手際よく差し挟んで静かに弾き終えるが、変奏を重ねながら微妙な加速度が現れる名人芸が、殊更に味わいを深めている。

〔3〕フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲 ハ長調 K. 179 (189a)
 1774年、モーツァルトが18歳の頃の作品。故郷ザルツブルクに戻っていた時代の作曲だが、主題に採用されているのは、それ以前の10歳頃、父親に連れられての西方への大旅行時代、ロンドンやオランダで神童としてピアノ演奏をしていた頃に知己を得たヨハン・クリスチャン・フィッシャー(1733~1800)の作品である。フィッシャーは主としてロンドンで活躍していたオーボエ奏者で、その『オーボエ協奏曲』の終楽章ロンドのメヌエット主題が使われている。後年になってからのモーツァルトは、このオーボエ奏者を「不器用者」としてまったく評価していなかったことが残された書簡によって知られているが、この変奏曲は、几帳面で律義とでもいえるような変奏が繰り広げられる比較的長大な作品となっており、モーツァルト自身もしばしば演奏していたという記録がある。ジャノーリが録音を行った頃にも、既に「ロンドンのオーボエ奏者の作品を主題にしている」と知られていた。率直で生真面目な展開を十分に生かしたジャノーリの演奏は、ことさらに一音一音をくっきりと鳴らしているようだ。

〔4〕グレトリの歌劇『サムニウム人の結婚』の合唱曲「愛の神(行進曲)」による8つの変奏曲 ヘ長調 K. 352 (374c)
 主題に使われている旋律の作曲家、アンドレ・エルネスト・モデスト・グレトリ(1741~1813)は、ベルギー出身で、イタリアのローマで学んだ作曲家である。ローマではそれほどの成果を発揮しなかったが、フランスのコミック・オペラに開眼し、1767年の新春、20歳代半ばでパリに赴き、人気作曲家のひとりとなったという経歴の持ち主である。この歌劇『サムニット人の結婚』は、60曲を越えるグレトリの歌劇で、最初期の作品。フランスのコミック・オペラを模してローマで作曲した最初の作品から3年後、1768年に初演されたグレトリのコミック・オペラとしては第3作にあたるもの。最初にパリで初演されたグレトリ作品である。
 一方、モーツァルトの変奏曲は1781年の作品。この年モーツァルトは、とうとうザルツブルク大司教との決定的な決別をしてしまう。宮廷作曲家としての道を断たれ、フリーランスの作曲家となってしまったわけである。フリーランスと言えば聞こえがいいが、言ってみれば失業者。ウィーンに新天地を求めたが、演奏会を開いても客の入りは悪く、弟子も集まらない。この変奏曲は、そうした時期、1781年6月に書かれたと言われている。ウィーンでの最初の弟子とされるルンベーケ伯爵夫人のためのものとされ、当時のモーツァルトの生活状況から、ウィーンの貴族の嗜好に合わせて、当時のパリ文化ブームに沿った選曲だったのではないかとしばしば言われているが、作曲時期から考えて、グレトリの中心的作風を伝える作品とは言い難い。むしろ、行進曲特有の快活でわかりやすい曲想によって、親しみやすく簡潔な変奏曲に仕上がっていると見る方が自然だろう。ジャノーリの演奏からも、行進曲の快活さがよく伝わってくる。

(2011. 5. 11. 執筆)


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レーヌ・ジャノーリによるモーツァルト「ピアノのための変奏曲全集」第2集のライナーノートです。

2011年05月16日 15時49分34秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)

                          
以下は、つい先日、書き終えたばかりの解説原稿です。既に「第1集」用の原稿は4月27日(26日も参照)と5月2日に分けて掲載してあります。「第1集」は発売が6月1日(水)、この「第2集」の発売は6月29日(水)で、どちらも既に予約受付中です。今回もブログ掲載は2度に分割します。後半の演奏曲目に沿っての解説は、明日を予定しています。


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(ライナーノート本文)

■レコード盤に残されたレーヌ・ジャノーリ(2)

 モーツァルト「ピアノのための変奏曲」シリーズの第1集に続いてレーヌ・ジャノーリの残した録音を巡る話題をご紹介する前に、前回分の訂正を先に掲載する。
 第1集で、ジャノーリの録音歴について触れた中、「仏ムジディスク盤」となっているものを、通販クラブだった「仏ディスク・クラブ盤」と訂正するものだが、通販クラブの先行発売がモノラル盤のみで、ステレオ盤は両盤とも同時期だった可能性が否定できないこと、および、原盤ソースの特定が出来ていないことを、合わせてご報告する。原盤ソースに関しては、ヨーロッパに進出していたアメリカのマイナーレーベルの未発売音源を、フランスの通販クラブが買い取ったものかもしれないが、詳細は不明である。
                 *
 さて、第1集の解説では、1950年頃から開始されたジャノーリのレコード録音のキャリアが、アメリカのレコーディング・スタッフを中心に行われていたのではないかという指摘をした。そして、それによって、クリアなサウンドによる明瞭な音楽の輪郭が表現されていることを指摘したが、そうした傾向ですぐに思い出されるのが、ジャノーリとも縁浅からぬ名指揮者ポール・パレーが、戦後アメリカのデトロイト交響楽団の指揮者となって渡米し、米マーキュリーの優秀録音によってフランス音楽の精緻な響きを広く伝えたという事実だ。フランスの音楽趣味の根幹にある明析さは、例えば、カール・シューリヒト指揮パリ音楽院管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集の特異なサウンドにも現れている。そもそも、シューリヒトのフランスでの評価の高さは、その明晰さにあったとさえ言われている。
 ジャノーリの録音によって残された音楽の特質も、そうした明晰さを抜きにしては語れないと思うが、そうしたフランスの音楽趣味の背景にあるものを、私は、ドイツとフランスの演奏会場の響きの違いにあると、しばしば思っている。よく言われるように、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの会場として広く知られるウィーンの楽友協会ホールは、残響がとても長いことで知られている。だがこれは、ドイツ・オーストリア圏のどこに行っても、それほどの差はない特徴だと思う。ホールに長く残る響きは、音楽を豊かに膨らませてくれて、すべてが一体になって鳴るといった趣きがあるが、一方、フランスのホールは残響音が短く、各楽器の音が明瞭に分離して聞こえる。例えば、シャンゼリゼ劇場がそうだったという記憶が、私には強烈に残っている。そうしたフランス圏のホールは、演劇を中心に行ってきたという歴史的背景がある。残響の長いホールは、台詞の聴き取りや演説には向かないものだ。フランスの演奏家の基本的なスタンスが、そうしたホールの響きによって培われてきたと考えるのは、突飛なことだろうか?
 このジャノーリによる一連の「モーツァルトの変奏曲」録音が、半世紀も経った今日に於いても、規範となり得る演奏であることの理由が、そこにあると私は考えている。各変奏ごとに選びとられたテンポの違いや、不意に立ち現れる加速度、音色や音量の弾き分けなど、あらゆる細部が明瞭な輪郭のなかで達成されているこの演奏は、モーツァルトが残したピアノ表現の可能性の宝庫を聴くための最良の規範だと思う。
 おそらく、このジャノーリの録音は、モーツァルトのピアノのための変奏曲だけを集めたレコードとしては、世界で初めてのアルバムではなかったかと思われるが、ジャノーリの1960年前後に残した真摯な取り組みの成果に、私は今更ながら、深く感動している。
                *
 以下、「第1集」の曲目解説でも試みたように、ジャノーリによるオリジナルLPが制作されたころの曲目に対する認識を、当時の英文解説の記述を交えながら、進めて行こう。


(*続きは明日掲載予定です。)



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ジャノーリによるモーツァルト「ピアノのための変奏曲全集」(第1集)のライナーノートです。(つづき)

2011年05月02日 14時49分51秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)





 5月27日掲載分の続きです。ライナー・ノート後半、「曲目解説」の部分です。この曲目解説では、オリジナルLPレコード発売当時の「モーツァルト研究」の実情に関しても、ある程度触れるように心がけました。いまだに、日本の名曲解説書やCDライナーノートのいくつかが、戦前の知識で書いたままの本の引き写しであったりするのには呆れますが、この米ウエストミンスター盤の英文解説は、ざっと目を通した感じでも、当時の新しい知識をかなり取り入れているのがわかりました。そこで、私としては、モーツァルトが曲を書いた時代や作曲の動機などに関して、オリジナル録音制作時のディレクターや演奏者の認識に関わっていそうな事柄も、なるべく取り入れて書いてみたというわけです。
 ライナーノート前半掲載の翌日、5月28日に、続けて掲載を予定していたのですが、今村亨氏からの貴重な情報の記載を先にしたため、中断していたものです。

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《演奏曲目について》
〔1〕アレグレットの主題による6つの変奏曲 K. 54 (547b)
 旧ケッヘル番号で「54」という若い番号が与えられているが、実際には1788年7月に作曲されたモーツァルト(1756~1791)の最後の「ヴァイオリン・ソナタ」である「第43番 ヘ長調 K.547」終楽章のピアノ・パートと同一の作品で、しかも、若書きを転用してヴァイオリンのオブリガードを加えたという成立順ではなく、先にヴァイオリン・ソナタが作られたと、現在では信じられている。したがって、( )に記した新ケッヘルが、1788年頃という正しい作曲時期を示している。別のピアノ・ソナタの楽章に使われたと言われた時期もあったが、そのピアノ・ソナタは現在では偽作とされている。ジャノーリがこの曲を録音した時には、既にヴァイオリン・ソナタとの同一性は知られていたが、どちらが先に作曲されたかについては結論が出ていなかったはずだ。オリジナルLPの解説にも作曲時期の明記はない。

〔2〕サルティの歌劇『二人が争えば三人目が得をする』のミンゴーネのアリア「仔羊のように」による8つの変奏曲 イ長調 K. 460 (454a)
 ジュゼッペ・サルティ(1729~1802)はイタリアの作曲家。標題の歌劇は、しばしば意訳され『漁夫の利』とも『トンビに油揚げ』とも呼ばれる。サルティはウィーンでも活動しており、ロシアの女帝エカテリーナ2世に招聘され1785年から1801年までペテルブルクの宮廷楽長となったが、そのロシアへの出発の前に、ウィーンでモーツァルトと出会っている。モーツァルトが父親に宛てた書簡から、この変奏曲は、その際の即興的作品と思われるが、自筆譜が一部しか発見されていないため、全ての変奏が真作かが疑われている。なお、主題となっているアリアの旋律は、モーツァルト作品ではこのピアノ変奏曲の他、歌劇『ドン・ジョバンニ』の第2幕でも引用されていることが指摘されている。1784年の作品。

〔3〕サリエリの歌劇「ヴェネツィアの定期市」のアリア「わが愛しのアドーネ」による6つの変奏曲 ト長調 K. 180 (173c)
 モーツァルトにとっては3回目の、父に連れられてのウィーン訪問時の作品。1773年、モーツァルトは17歳になっていた。折から、ウィーンの宮廷楽長ガスマンが病いに倒れており、モーツァルトを何とか後釜に据えようとの父親の思惑があってのウィーン訪問だったという説がある。この変奏曲の主題は、そうした時期だけにウィーンで台頭していたアントニオ・サリエリ(1750~1825)の人気アリアの変奏曲を披露し、技量を誇示したのではないかとも言われている。しかも、アリアの主旋律ではなく、伴奏の第一ヴァイオリンの旋律を用いるという凝りようだったが、結局それは不首尾に終わり、サリエリがその直後に宮廷作曲家となり、やがて宮廷楽長にまで昇り詰めたのは周知のことである。

〔4〕きらきら星変奏曲(フランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による12の変奏曲)ハ長調 K. 265
 「きらきら星」の名で、欧米でも子供たちに親しまれている旋律である。原曲は1760年代からフランス各地で、母親に恋の悩みを打ち明ける歌として流行していた作者不詳の旋律だが、これを用いて、1777年にドゥゼードというフランスの作曲家が歌劇の一アリアを作ったため、その翌年1778年にパリを訪れたモーツァルトが、パリの聴衆を喜ばせるために作曲したものと言われていた。ジャノーリの録音も、そうした説が信じられていた時期のものだが、今日では、様々の研究により1781年~82年にウィーンで作曲されたと結論づけられている。当時のウィーンはフランス文化ブームの真っ盛りで、ヴェルサイユ宮殿を模してシェーンブルン宮殿が作られ、フランス生まれの音楽劇や流行歌も多く聴かれていた。

〔5〕ボーマルシェの喜劇「セビリアの理髪師」のロマンス「私はランドール」による12の変奏曲 変ホ長調 K. 354 (299a)
 1778年の春から、モーツァルトはパリで就職活動を始めたが、一向に望んでいる方向には進まなかった。その最中、7月には同行していた母親の死に遭遇する。こうして失意の内に9月になってパリを去るのだが、この変奏曲は、母の死の前、春から初夏の間にパリで書かれたと推定されている。当時パリでは「変奏曲」という形式が流行しており、そのためモーツァルトは、この1775年の初上演以来パリの聴衆の間でよく知られていた旋律で注目を集めようとしたのだろうと考えられている。人気劇作家ボーマルシェの喜劇『セビリアの理髪師』はロッシーニによる喜歌劇が有名だが、ここでモーツァルトが使用した主題旋律は、原作戯曲による音楽劇の挿入歌で、大衆演劇の作・編曲家として当時活躍していたA. L. ボードロンという人の作と言われている。

〔6〕C. E. グラーフのオランダ語歌曲「われは勝てり」による8つの変奏曲 ト長調 K. 24 (Anh. 208)
 作品番号が示す通り、モーツァルトがまだ10歳頃、1766年の作品と言われている。クリスティアン・エルンスト・グラーフ(1726~1803)はオランダのハーグの宮廷楽長だった人物。モーツァルトはこの頃ヨーロッパを西方へと大旅行中で、パリからロンドンへと海を渡り、1765年8月にヨーロッパ大陸に戻って来た。そして9月にオランダでグラーフの知己を得ることに成功している。翌1766年にオランダではヴィレム5世が18歳になったが、その祝祭のために宮廷楽長であるグラーフが作曲したのが、この変奏曲の主題旋律である。それを拝借して10歳の少年モーツァルトが、かなり凝った変奏曲を作って聴かせ、その神童ぶりをアピールしたというわけである。(2011. 4. 10 執筆)




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ジャノーリによるモーツァルト「ピアノのための変奏曲全集」(第1集)初CD化のライナーノートです。

2011年04月27日 08時41分20秒 | ライナーノート(ウエストミンスター/編)






 昨日の続きとなります。ライナー・ノートの本文です。冒頭の写真は、今回の初CD化に際して、表紙デザインに使用されたジャノーリ(昨日の当ブログ参照)。


◎レコード盤に残されたレーヌ・ジャノーリ(1)
                              
 このところ、日本ウエストミンスターから連続してCD化されているレーヌ・ジャノーリの米ウエストミンスターへの録音も、ついに『モーツァルト・ピアノ変奏曲全集』の発売となった。1950年代の初頭(おそらく1950年または1951年と思われる)に開始されたジャノーリの米ウエストミンスターへの録音は、これまではすべてモノラル録音だったが、今回のもののみステレオ録音である。当時のモーツァルト研究の最新情報によって「Piano Variations」としてLP3枚組アルバムにまとめて発売されているが、収録曲に現在の「全集」と、わずかの異同があることはご承知置きいただきたい。今回のCD化にあたってはオリジナルLPの曲順・構成を尊重し、そのまま3枚のCDとして順次発売される。
 以下、レーヌ・ジャノーリとレコードをめぐる話題を、3回に分けてご紹介していきたい。

                *

 第二次世界大戦後、アメリカのレコード会社は、強い「ドル」の力を背景に次々とヨーロッパに乗り込んで録音・制作をしていた。ウィーンは、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエトが戦勝国側として分割占領統治していた。当時、ヴァンガード、ヴォックス、ウラニアなどと共にウエストミンスターも、ウィーン常駐のスタッフによる録音が多かったので、その陰に隠れてあまり目立たないが、ウエストミンスターには英ニクサとの提携によるロンドン録音の他にパリでの録音も残されていて、そのいくつかが仏デュクレテ・トムソンとの提携によるものだということが知られている。
 だが私は、フランスのピアニストであるジャノーリのウエストミンスター録音は、必ずしもパリ録音ではないと思っている。それは、ジャノーリの初期録音の米盤に提携表記が見あたらないということもあるが、録音の音質が、当時のアメリカ好みのクリアなサウンドであることにもよる。そしてジャノーリが、当時ウィーンからスイス辺りでの演奏会が多かった可能性があることが、そうした想像に拍車をかけている。2枚ある協奏曲録音が、いずれもウィーン国立歌劇場管弦楽団によるものであることも、その裏付けとなるだろう。
 いずれにしても、ピアノ独奏をステレオ録音するという、当時としてはかなり「贅沢」な仕事によって、それまでのジャノーリのウエストミンスターによるピアノ録音の硬質な響きに、しっかりした定位に支えられた奥行と広がりが加わっているのはうれしいことだ。録音年が不明だが、アメリカのマイナーレーベルによるヨーロッパ録音が「ステレオ」に切り替わるのは1958年あたりからだから、このピアノ変奏曲集の録音は、おそらく1959年か1960年頃ということになるだろう。その後、ほどなくして米ウエストミンスターはオリジナル録音活動を休止してしまうので、これがジャノーリの最後のウエストミンスター録音となった。この後に続くジャノーリ録音は仏ムジ・ディスクへのショパン「協奏曲」(別記参照)であり、その後、仏アデへのショパン「ワルツ集」や、シューマン「ピアノ独奏曲全集」という膨大な仕事、そして仏エラートへの「バッハ・アルバム」となる。
 ところで、私は以前、米ウエストミンスターから1951年に発売された「バッハ・アルバム」が、ジャノーリのデビュー盤ではないかと書いたことがある。いわば、バッハに始まりバッハに行き着いた、といった風情にジャノーリの録音歴が見えてくるのだが、それが誤りであることがわかったので、この際、明記しておきたい。
 真にジャノーリのデビュー盤と思われるものは、1947年5月30日にパリで録音されて発売された仏BAMのSP盤3枚(6面)に収められたもので、曲目はベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調作品31‐3」とブラームス「狂詩曲第2番ト短調作品79-2」。これは、貴重なSPレコード音源をCD‐R盤やDVD-R盤で制作・頒布している「グッディーズ」から昨年5月にリリースされており、録音データ、原盤データはそこに記載されているものを準用した。これまでの一連の日本ウエストミンスターによるLP復刻シリーズの音源制作を担当している新忠篤氏にご教示いただいたものである。
 それを聴いていて思ったのだが、デビュー盤とされるベートーヴェンの演奏のテンポ設定の自在さ、音色のカラフルな味わいといったものが、これまで聴いてきたジャノーリのウエストミンスターへのバッハやモーツァルトにも共通しているということである。
 ひとつひとつのピアノの音の粒立ちの良さが確保されているので、飽くまでもくっきりとしたフォルムは大切にされている。だが、同時に、情感の動きを大胆に表現するジャノーリのピアノは、ハッとさせられるテンポの揺れ、せき込む瞬間を随所に盛り込みながら、強弱の絶妙な変化の合間に見え隠れする音楽が、色彩感にあふれて独特の甘い香りを放っている。その魅力を言葉にするのは難しいが、今回のような「変奏曲」では、ことさら、その変化の妙が匂い芳しい音楽の泉となって楽しませてくれる。変奏曲という形式的な厳格さを、これほどに自在に飛び交わせてくれる演奏は、ジャノーリにして初めて可能な世界なのだと思った。



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