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ロリン・マゼール追悼――「補遺」として

2014年07月16日 10時55分04秒 | クラシック音楽演奏家論
 一昨日は、私の「マゼール論」をとりあえずまとめて再録しました。つまり、ベルリン→クリーヴランド→ウイーン→ピッツバーグ→バイエルンと、マゼールが振り子のようにヨーロッパとアメリカの常任ポストを行き来して、バイエルン放送響及びウイーン・フィルとの録音が中心となったBMG時代を論じた「ニューイヤー・コンサート」のライナー・ノーツ前後までです。それで、ちょっと気になって、それ以降、私がマゼールのCDを論じたことがあるだろうかと調べてみて、意外なことに気付きました。ほとんど皆無なのです。おそらく私は、一昨日の記述のとおり、ある種の「終着点」を見定めるまで、すべてを保留していたのでしょう。その数えるほどしかないマゼールへの言及が、以下に再掲する3つの小文です。いずれも、詩誌『孔雀船』に、新譜CD雑感として書いたものです。

■マゼール~ニューヨーク・フィルのCDが、やっと登場(2007年1月執筆)
 数年前にドイツのバイエルン放送交響楽団の音楽監督を辞して、以前からヨーロッパとアメリカ双方を交互に活動拠点としてきたマゼールの、クリーヴランド、ピッツバーグに続いて三度目のアメリカでの活動拠点がニューヨークと決まったとき、私は、これが、マゼールの最後の地になるかな、と思った。マゼールは、ロマン派的な音楽演奏のスタイルに、そしてヨーロッパ伝統の二〇世紀的展開に、第二次大戦後、最も鋭く斬り込んだ指揮者のひとりだが、その彼が、幼い頃、神童としてデビューしたニューヨークに戻ったのは、象徴的な出来事だった。ご承知のように、ニューヨークは、芸術の各分野、美術から、工芸、ファッションにいたるまで、二〇世紀における、最も先鋭な発信地だった。マゼールが、自身の音楽芸術を集大成するに相応しい土地だと思ったものだ。ところが、折からの音楽ビジネス全体の不況で、ニューヨーク・フィルとの新録音がまったく発売されないという事態に陥っていた。今回のCDは、ドイツ・グラモフォンが新たに、世界各地の放送局の中継録音を使用するという形で始めたシリーズで、録音経費が節約できる、という今の時勢に沿った安直なもので録音も少々粗いが、注目盤の登場ではある。曲目は得意のリヒャルト・シュトラウスの「ドンファン」「死と浄化」「ばらの騎士」など。往年の巨匠演奏ファンを挑発しているような演奏で、抽象的哲学の靄靄[もやもや]などくそくらえ! といった中で、スコアの解析に堕さず、大きくうねる音楽の生気が漲った、充実した演奏である。「見事な絵解き」で、リヒャルトの屈折したロマンティシズムが上滑りにならず、あざとくもなく、明快に再構築されている。完成の域とはこうしたものだ。

■マゼールのフランス国立管とのマーラー「巨人」がCD化(2012年1月執筆)
 一九六〇年代の初頭と言えば、私にとっては、若き日のマゼールの演奏をテレビで見て、何かわけのわからない興奮に襲われた時期でもあった。新しい音楽の予感とでもいうものだったと思う。私の記憶に間違いがなければ、ベルリン・ドイツ・オペラと一緒に来日したマゼールが、東京交響楽団を指揮したチャイコフスキーの「交響曲第四番」が、NHK教育テレビから流れた。私の「マゼール体験」の最初の一撃である。その後のマゼールの様々な変貌の意味については、これまで、様々な機会に書いてきた。戦後演奏史の中でのマゼールの位置付け、果たした役割の大きさについて、私は誰よりも真剣に論じてきたと自負しているが、最後の変貌を目前にして、マゼールのメモリアル的なアルバムが、突然発売された。最近の輸入盤の「まとめ売りアルバム」の超廉価攻勢には半ば呆れてもいたが、これは、とても丁寧な仕事である。合併に次ぐ合併の成果(?)で、ソニーとBMGの原盤から三〇アイテムが選ばれ、全てオリジナル時のレコードジャケットを再現した紙ジャケットに一枚ずつ収め、詳細データ付きのオールカラーの解説書が付いてのボックスセットが五〇〇〇円程度というから驚きだ。誰が選定したものか、ずっとCD化されなかったフランス国立とのマーラー「巨人」が入っているので、あわてて予約したときには、こんな仕様だとは思ってもいなかった。DG+デッカ+フィリップスでもやってくれないか、と思った。

■初期DGで、ムラヴィン盤の陰に忘れられたマゼール盤の復活(2014年1月執筆)
 ロリン・マゼールは、戦後の演奏スタイルの変遷をひとりで体現し続けて変貌を繰り返してきた天才だが、若い頃の演奏以外は認めない、という頑固な聴き手も多い。私自身は、これまでにマゼールの壮大な変貌の意味について様々なところで考察してきたので、ここでは繰り返さない。前述の山田和樹やネセ=セガン、あるいは、ベルトラン・ド=ビリーらの口当たりのなめらかな音楽が台頭する時代に、マゼール自身がどのような決着を与えるか興味深いところだが、つい最近、「時代錯誤」のように若き日のマゼールの〈奇演〉が、「世紀の名盤」と銘打たれたDGの復刻シリーズで発売された。ある意味では時代の役割を終えた「名盤」が多い中、チャイコフスキーの『交響曲第4番』は、未だに多くの問題提起を残した演奏だと思う。長い録音歴を誇るマゼールだが、意外に同曲異録音は少ない。そんな中、この曲は数少ない例外だ。このベルリン・フィル盤は一九六〇年、マゼール三〇歳の録音で、この後に、ウィーン・フィルとデッカ録音、クリーヴランド管とはソニーとテラークとで2回も録音するという念の入れよう。この「抽象化の陥穽」に嵌まり込んでしまったチャイコフスキーの、謎に満ちた世界の入口作品に、マゼールが果敢に挑戦している。おそらく、「一番、わからないまま、ムキになって振っていた」演奏がこれ。だからこその、謎解き開始の原点。もう一度ゆっくり演奏史を辿りながら、聴き直してみたいと思って聴いた。

 以上の3本を読めばお分かりのように、私のスタンスはずっと変わっていないのです。自分で読み返して、あきれもし、感心もしてしまいました。マゼールは、最後に、私に大きな課題を残して去っていったのですね。


 






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マゼールの訃報に接して――「近代的な自我意識」と、シベリウスの交響曲全集

2014年07月15日 11時29分44秒 | クラシック音楽演奏家論
 昨日の「マゼール追悼」と題した私のブログを読んで、早速、友人のレコード・ディレクター川村聡氏からメールが来ました。昨日掲載した私のマゼール論へのコメントですが、興味深い内容なので、本人からの了解をもらって以下に転載します。(大勢のファンの皆さんが悲しんでいる時に、ややこしい議論で申し訳ありません。でも、マゼールなら、喜んでくれるでしょう。そういう人だったはずです。)
 以下、川村氏からのメール全文です。

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 偶然、先週の日曜日にピッツバーグ響とのシベリウスの全集BOXを手に入れて、7、6、4と聴いてきたところです。やはり、これはいい演奏ですね。シベリウスの音楽そのものをそのまま忠実に伝えるベルグルンド/ヨーロッパ室内Oの演奏を聴くと、やはり本筋はこちらだ、とは思いますが。
 2度全集を入れた、ということからも、マゼールにとってシベリウスは特別な作曲家だったのでしょう。新しいスタイルへの移行を色濃く反映した演奏ですが、私には、シベリウスに対するときマゼールはいつもよりずいぶん素直な感じに聴こえます。(ただし、BOXセットの音質は、以前発売されたものくらべて、ずいぶん悪くなっているような感じがします。こんな録音ではなかったように思います。)
 しかし、マゼールは竹内さんが書いている通り、完全にシベリウスの音楽を近代的な引き裂かれた自我、孤立した精神の苦しみと相克、として捉えていますね。4番あたりを聴けば、それがはっきりと分かる。そういった捉え方を徹底させたのがピッツバーグ盤でしょう。ロマン派、あるいは国民楽派の流れとしてシベリウスを捉えるのと同様に、それはシベリウスの本質と相容れることはないものですが、それはそれとして、その中での充実と水準の高さで、やはりあの全集はマゼールを語るには外せないものだと思います。
 竹内さんのシベリウス理解がそういう方向に向かったのも、新旧二つのマゼールの全集に導かれた部分が大きいように思います。
 カラヤンにとってもシベリウス(彼の場合は中期から後期のシベリウスに限られるが)は特別な作曲家だったようで、マゼールと並べると興味深いものがあります。そういえば、バーンスタインもそうでした。それぞれ時代を代表した指揮者たちが、揃いも揃って見当違いの演奏を自信たっぷりに残したのですから、シベリウスは、やはり、なかなか面白い存在だと思います。

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 以上が、川村氏からのメールです。彼とはシベリウス理解を巡って、ずいぶんと論争しましたが、あるとき、彼のシベリウス観に全面的に白旗を揚げたことがあります。それが、2008年7月発行の詩誌『孔雀船』に掲載した文章です。当ブログでは2008年7月28日に掲載しましたが、以下に再掲載しますので、お読みください。文中の「ある友人」は、もちろん、川村氏のことです。(じつは、私自身は、未だに、彼の言う「見当違いのシベリウス」へのこだわりを捨てきれないでいます。)

■チェクナヴォリアン指揮のシベリウス第四、第五交響曲
 イランに生まれイランの首都テヘランで学んだ後、ロンドンに渡りキャリアを積んでいったこの指揮者のベートーヴェン演奏を評して「独特の執拗な拍節感が、西欧の構築的な語法にとらわれずに聴かせる」「旋律を縦のラインできちっと仕切らずに連鎖させていくのは、いかにも中東音楽的」と書いたことがある。実は、私はシベリウスの交響曲ではマゼールの新旧2種の録音に強い関心があって、その切れ切れの歌、断裂した抒情の強調こそが、二〇世紀の作曲家シベリウスの本質だ、と思い込んでいたのだが、私のそうしたシベリウス観を、ある友人に「そんな近代的知性などを持ち出すのは、シベリウスをまったく理解していない証拠。そこにある自然、風景をそのまま受入れるだけでいいのだ」と完全否定されて、途方にくれてしまったことがある。何のことはない。このチェクノヴォリアン盤を聴いていればよかったのだ。マゼールと正反対と言っていいこの演奏は、途切れ目なくどこまでも続く山々の峯のように、あるいは、どこが分岐点かも定かでなく連続して次第に明けて行く空のように進行する音楽だ。西欧的な場面転換という論理の無効性が堂々と表現されている。いかにもチェクノヴォリアンらしい個性的な名演であり、シベリウスの音楽を解く鍵が、ここにあると思った。「タワー・レコード」独自企画の名盤復刻シリーズ。世界初CD化。(2008. 7. 28執筆)

 



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ロリン・マゼール追悼 Lorin Maazel(1930~2014)

2014年07月14日 16時13分50秒 | クラシック音楽演奏家論



 先日、7月10日付のこのブログ欄で「マゼールは終着点に行き着けるだろうか」と懸念したばかりですが、本日、マゼールがついに、この世を去ったという報道が入りました。
 このところ間違いなくマゼールは、自分の仕事の「まとめ」と「整理」に着手していました。それは、昨年あたりからのコンサート・プログラム、来年のスケジュールなどに現われていましたが、その「まとめ」を果たせずに終わってしまいました。戦後の演奏スタイルの変遷を、ひとりで表現し続けてきたと言っても過言ではないマゼールが、最後に自らをまとめることなく、自らを散らかしたままで去ってしまったことは、皮肉なことでもありますが、それが、マゼールにふさわしい最後だったのかも知れません。謎は、私たちが解かなければなりません。
 私にとってマゼールという存在は、戦後世代である私たちが西洋クラシック音楽を聴くということの意味を真摯に問う、ということそのものでしたから、格別の思いがあります。ですが、そうしたマゼールの意味については、未だに理解されていないと思っています。1960年代にマゼールを聴いて衝撃を受け、それ以来「昔のマゼールはよかった」と言い続けて40年も経ってしまった人もいれば、10数年前から突然マゼールを聴き始めて、古い録音に遡ってのマゼールの道程を聴くことなく、「最近のマゼールは、よくなった」という人もいます。それは、あまりに皮相な物言いです。
 私が、ひとまずマゼールという指揮者についてまとまった文章を書いたのは、1996年のことですが、そのころ私は、まだ実験的な放送の段階だったCS衛星放送のラジオ局で、「ロリン・マゼール完全ディスコグラフィ」と題する番組を手掛けていました。マゼールのデビュー以来の全てのレコードを、私のそれまでのコレクションだけでは足らず、さまざまな資料を調査して、世界中の中古店から取り寄せた末、録音・発売順に数枚ずつ、隔週で放送していました。
 順を追って全てを聴くというのは大事なことで、それによって私が得たものは計り知れません。「マゼール」という時間軸を伴った物差しは、戦後の演奏史全体を見る物差しともなったのです。その中から生まれたのが、下記の3本のマゼール論です。
 古くからの私の読者からは「もう何度も読んだ」とお叱りを受けるでしょうが、本日、敢えて、ここに再掲載します。きょうあたりから数日間、また、無理解なマゼール讃の文章がネット上を駆け巡り、新たなマゼール・ファンが出現すると思うので、そうした方に読んでいただきたいと思っているからです。(以下の文章、この膨大になってしまった私のブログ内の文章でも数年前にUPしてありますし、一昨年ヤマハ・ミュージックメディアから刊行された私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』にも収録してあります。)私自身のマゼール論の「まとめ」は、しばらく勘弁してください。じつは、今秋以降のマゼールのスケジュールから推して、まちがいなくマゼールは自らのまとめに入ると思っていましたので、それを踏まえて書こうと思っていたのですが、こんな結末になってしまって、いつのまにか、マゼール論をまとめる、ということが、私自身をまとめる、ということと表裏一体になってしまいました。最近、私自身が、何をすべきか、何を残すべきか、と自らの人生のまとめのごときもの、を追うようになっているのですが、そのことと抜き差しならないところに、マゼールがいるのです。私にとって、マゼールとは、それほどの存在でした。

以下、3つの文章は、いずれも1996年に執筆したものです(2年後の共著書収録時に一部改稿)。真ん中の1本は、「1996年ウイーン・フィル・ニューイヤーコンサート」CDのライナーノーツです。

マゼールを聴く
 時代の先端の感性というものは絶えず変貌してゆくが、ひとりの演奏家個人の変貌の振幅は、たいていの場合、決して大きなものではない。ところが、マゼールは、その中で数少ない例外だ。マゼールは自身の過去を否定しながら、大きな振幅で別人のごとくに変貌する。それが、彼の天才たる所以だが、それが、ことさらに、マゼールの変貌の真意を分かりにくくさせている。
 マゼールは、大きく分けてこれまで既に三回の変貌を通り越して、おそらく、一九九八年あたりから、四度目の変貌が実を結びつつある。マゼールは次々と別の場所へワープしているわけだから、昔は良かったなどと言って、最初のマゼールのイメージから一歩も動かないでいると、完全に置いてきぼりを喰ってしまうことになる。
 マゼールの変貌の最初は一九七〇年代だ。第二次大戦後に戦後世代に突き付けられていた「ロマン派的抒情精神の再構築」という命題に、最も先鋭にチャレンジしていたマゼールは、その役割に自ら終止符を打ち、バランスのとれた響きの中での、新たな普遍性の獲得を模索する世界にワープして行った。それには、ベルリン、ウィーンという戦前からの音楽伝統の中心地から、アメリカのクリーヴランドへの転身という状況の変化も手伝っていただろう。一九七二年の秋のシーズンからのクリーヴランド管弦楽団の音楽監督就任以降、マゼールは、それまでのラディカルな演奏スタイルから次第にバランスのよい響き合いへと変貌して行くが、それがひとつの完成したスタイルを獲得して、室内楽的な緻密さを押し出すに至ったのは就任五年後の一九七七年秋から開始されたCBSへの「ベートーヴェン交響曲全集」だと思う。
 そして、次の変貌は一九八〇年代にウィーン国立歌劇場の総監督就任決定を機に始まったニュー・イヤー・コンサートへの7回連続出場や、「マーラー全集」の完成によって明らかになった。抒情精神の断裂の執拗なまでの強調だ。
 三度目の変貌は、新しい「シベリウス全集」をピッツバーグ響とで開始した一九九〇年代。ここに至ってマゼールは、現代の抒情精神がその内向性を深めて、精神世界の分裂に行きつくところにまで追込んでしまったが、それをまた自らの手で収束を図りつつあるのが最近の活動だ。クリーヴランド時代の半ば頃から芽を出していたオーケストラの自発性との折り合いの付け方が、以前のように先回りせずに、オーケストラの行方を待つスタイルに変って行ったのだ。
 再びヨーロッパのポストを得て、バイエルンとウィーンに腰を落着けつつあるマゼールが、誰よりも磨き込んできた指揮棒の技術を捨てた時、この戦後の演奏史の変遷をひとりで先取りしてきた天才が、戦後五十年の演奏芸術のキーワードで在り続けた「抒情精神の復興」の方法に解答を見出す時なのだ。それは、この半世紀をかけて最も遠回りをしてきたマゼールという指揮者の大きな振幅、ブーメランの航跡のような活動の、次世代に橋渡しする総決算となるはずだ。マゼールを聴くこと、聴き続けることは、マゼールが自らに課した自己変革の道程を受け入れる事でもあるのだ。

○ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調op.93、同第3番変ホ長調op.55《英雄》/クリーヴランドo.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR9526]録音:1978年および77年
○マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》、同第7番ホ短調《夜の歌》/ウィーンpo.
[米CBS/M3K42495]録音:1982年および84年
○シベリウス:交響曲第2番ニ長調op.43、同第6番ニ短調op.104/ピッツバーグso.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR1495]録音:1990年および92年

現代を映す鏡としての「1996 ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート
 このCDは一九八〇年の初登場以来一九八六年まで連続七回、そして一九九四年の復帰から一年の空白を置いて通算九回目となったロリン・マゼール指揮による「一九九六年ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート」の記録だ。今回の登場で、戦後の指揮者では創始者のクレメンス・クラウスを抜いて、「ニューイヤー」の代名詞となった観のあるウィリー・ボスコフスキーに次ぐ、歴代第二位の出演回数を記録してしまったマゼールだが、そのためかどうか、今年のマゼールは、初登場の一九八〇年にも匹敵する成果を上げた。
 一昨年のニューイヤー復帰はいくらか力みの残る硬さが気になったが、今年のマゼール/ウィーン・フィルは凄い。昨年夏のザルツブルク音楽祭での彼らのマーラーの「第5」がCS放送でオンエアされたのを聴き、新時代の到来を予感させられたが、マゼール/ウィーン・フィルは、まちがいなく新たな世界を築きつつある。正に記念すべき元年のコンサートというにふさわしく、このところ観光コース化してしまったニューイヤーコンサートを、その眠りから目覚めさせる力を持っていた。音楽の輪郭を大きくえぐる大胆不敵な抑揚、緩急のくっきりした落差が力強い。《ウィーンの市民》や《フェニックスの羽ばたき》では、音楽の太い流れの手応えもずっしりと伝わる。《くるまば草》では音楽が途切れ、ためらいながら、なかなか前に進めないと見せて最後で全開してゆく。実に「あざとい」ウィーン音楽が聴かれる。
 これらは、ある意味で一九五〇年代を最後に最早、身体から自然に湧き出てくるウィーン音楽が誰にも表現出来なくなった時代にあっての、頭で描くキッチュなウィーンではあるのだが、今年のマゼールは、ゆったりとしたテンポ設定の悠然とした音楽をベースに、細部までよく表情の彫り込まれた造形を徹底して磨きあげている。それは相変わらずの、音楽の形が目に見えてくるような細かな指揮棒の動きと表裏一体のものだが、以前のように、それが窮屈に聴こえてこないのは、マゼールの棒がしばしば息つぎをするように止まり、そこで「待ち」の余裕を持つようになったからだ。その分だけオーケストラは十分に呼吸でき、自然で伸びやかな響きの堂々とした音楽が生まれた。
 マゼールの演奏スタイルの変遷は、現代に生きる私たちが失ってしまったもの、例えば自然に口を突いて出てくる歌、訳もなく心がなごみ涙する、そうした音楽の原初的感動を再構築する「方法論」の歴史だ。それは、何の苦もなく高らかに感動を歌い上げる自信を失ってしまった現代人の、屈折した感性そのものなのかもしれない。
 昨年暮にBMGからリリースされた「マゼール/ヴァイオリン・ソロ・リサイタル」という不思議なアルバムに寄せたマゼール自身の言葉が示唆に富んでいる。彼は、そのアルバムを長い音楽生活で最も個人的な「音楽的告白」であるとして、「私はこの録音を、音楽の美しさが人々の心をうち、演奏家と聴衆双方が目に涙を浮かべていたようなヴァイオリンの演奏が行なわれていた、幸福な時代の思い出に捧げたい」と書いている。これは、表現を変えれば、今の時代は、このような音楽が演奏できないという告白でもある。そう言えば、ヨハン・シュトラウスの伝統にならって、と言うマゼールのヴァイオリン片手の指揮には、どこまでも借物のような照れくささがつきまとっている。
 おそらくマゼールは現代の指揮者の中で、だれよりも早く、今日の音楽の不幸の源に気付き、だれよりも切実にそこからの脱出を願い、試みている。マゼールは、だれよりも真剣に、真正面からウィーンの美しい夢を描き、同時に、その屈折に敏感に反応して夢の脆さをも克明に聴かせようとする。ウィーン音楽が、過去の佳き時代の単なる再現ではなく、「今」を生きる私たちの夢の屈折を映し出す鏡だからだ。そしてそれは、落日のオーストリア帝国を生き抜き、古き佳きウィーンの栄光を描き続けたヨハン・シュトラウスの、屈折した夢とも重なり合う。ヨハンが世を去ったのは一八九九年だが、それから 約一〇〇年を経て新たな世紀転換期に差しかかろうという新時代を象徴するのが、マゼール/ウィーン・フィルの活動だと言っても過言ではない。
 蛇足ながら、このCDは録音から発売までが史上最短という、異例のスピードでリリースされるという。これは、ウィーン・フィルの録音を久しぶりに手掛けるBMG・RCAレーベルの意気込みの表われでもあるだろう。マゼール/ウィーン・フィルの録音は、今後もBMGで予定されているという。一九五〇年代末から六〇年代初頭のカラヤン/ウィーン・フィルの録音以来、久々のウィーン・フィルのRCAレーベルへの本格登場だが、それもまた新時代の幕開けにふさわしい。

ロリン・マゼール再論
 戦後世代の指揮者として録音歴だけでも、一九五七年という早いスタートだったマゼールは、既にデビューから四〇年以上経過している。それは戦後史そのものとも言えるのだが、マゼールの歴史は、戦後の演奏スタイルの変遷の、最も先鋭な部分の象徴でもある。絶えず時代の一歩先を行き、変革の先頭を歩んできたのがマゼールだ。
 一九三〇年にパリ隣接のニュイイに生まれ、幼児期にアメリカにわたって成長したマゼールが、指揮者として正式にデビューしたのは留学先のローマでの一九五三年。その四年後にベルリン・フィルを振ってのレコーディングがドイツ・グラモフォンで行われた。日本を含む世界中の音楽ファンに、マゼールは、そのわずか二七歳の若い才能の存在を示した。第二次世界大戦終結後、一〇年を経て、〈突然変異種〉のように驚嘆を持って迎えられたのがマゼールだった。
 デビュー当時の録音で、現在CDで手軽に聴けるのはストラヴィンスキー「火の鳥」組曲(ベルリン放送響、一九五七年録音)くらいだが、それだけでも、当時のマゼールの異才ぶりが伝わってくる。スコアの各段が明瞭に分割されて響き、様々な仕掛けが的確に挟み込まれる。音楽の流れは裁断され、噛み付き合い吠え合いながら進む。ここでは音楽が、終幕に向かってひとつながりのドラマへゆるやかに昇華していくといった安定はない。どの瞬間も、切り立った断崖の淵に立っている。
 それは、ドイツ系のクラシック音楽の正統的なレパートリーでも同じだ。古いLPで当時のベートーヴェンやブラームスの録音を聴くと、当時の状況の中での、マゼールの突然変異ぶりが、さらに理解できる。オーケストラは、ベルリン・フィル。ドイツ精神の牙城としてフルトヴェングラーが君臨してきたベルリン・フィルが、その主の死後3年ほどしか経っていなかった時期の録音として、マゼールの演奏は、実に大胆不敵だ。それは、明確な意図を露わにしたアーティキュレーションやフレージングだけでなく、低域に偏重しないオーケストラの響きの構築にまで表われている。
 このことは、その五年後、一九六三年から翌年にかけて、ウィーン・フィルと英デッカに録音された「チャイコフスキー交響曲全集」でも確認できる。おそらく、一九五〇年代から六〇年代にかけてのマゼールが目論んでいたのは、感情の起伏に素直なドラマの再現への決別だったはずだ。それは、戦前の巨匠たちが聴衆とともに育んできた絶対的な価値としての〈ロマン〉を、相対的に捉え返そうとする試みだった。
 マゼールのチャイコフスキーは、ためらいもなくおおらかにうたい上げるものではなかった。熱を帯びた感情の高揚は屈折し、絶えず検証されながら進行する。はにかみ屋の熱血青年。しかし、それは、マゼールひとりに限らなかった。時代は戦後世代全体に、音楽がロマンティシズムを表現することの意味を問い、疑問を発していた。照れわらいを浮かべながら愛を語り、小首をかしげながら、真実は一つではないはずだ、と感じていたのが、それを聴く私たちの世代だった。マゼールは、この時、戦後世代の感性の代弁者だったのだ。だが、少し早く、そうしたロマンの解体作業に着手していたマゼールは、やがて自ら、その収拾作業に入ってしまった。
 マゼールの演奏スタイルは、一九七〇年代に入って大きく変貌した。戦後世代としての最初の役割をまっとうしたマゼールは、自ら、その役割に終止符を打ったのだ。七〇年代の半ば以降マゼールは、次第に細部の強引なまでのデフォルメを後退させ、立体的な彫りの深さ、輪郭の明瞭さが、透けて見えるような響きの中で聴こえるようになった。音楽が軽々として自在さを持ち始めたのが、この時期だ。一九七五、七六年録音の「ブラームス交響曲全集」や、一九七七、七八年録音の「ベートーヴェン交響曲全集」が、かつてのベルリン・フィルとの録音と比べて、まるで別人の演奏のようなのに、今更ながら驚かされる。緊密な室内楽のようなアンサンブル集団、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督への就任が、それをより確実なものにしているが、それは、キャリアのスタートを伝統の真っ只中のベルリン、ウィーンを中心に始めたマゼールが、ヨーロッパの伝統を外から眺めるアメリカに育ったという原点に、立ち戻ったということでもあった。
 だが、ロマン派的情念との対決を続けたマゼールが、七〇年代の半ば以降、こうしたバランスのとれた響きの中での新たな普遍性の獲得を模索し始めたのは、時代が要求していたことでもあった。マゼール/クリーヴランドの「ベートーヴェン交響曲全集」の明るさ、軽快さは、ティルソン・トーマスの室内管弦楽団盤や、やがて、古楽器演奏へと連なっていく。マゼールの七〇年代の変貌は、正に〈時代を映し出す鏡〉としてのマゼールそのものであり、マゼールが、いつの時代でも、その時代の〈現在〉であり続ける数少ない音楽家であることを予感させたのだ。
 マゼールの変貌を象徴する録音に、2種のベルリオーズ「幻想交響曲」の録音がある。一九七七年のCBS盤と、一九八二年のテラーク盤だ。前者はこの曲の病的なグロテスクさを局限にまでおしすすめた演奏の代表盤だが、一転して後者は、響きの凹凸を刈り込んだバランスのよさへと傾斜している。その後の「幻想」の演奏が、アバド、プレヴィン、ハイティンク、デイヴィスらによって、安定したテンポと十全な響きが確保されてきたのは、偶然ではない。今日、マゼールが三たび、この曲を録音したならばどうなるか、興味は尽きない。
 一九八〇年代に再びウィーンのポストを得たマゼールは、ウィーン・フィルと「マーラー全集」をスタートさせるが、やがて行政当局と衝突して一時ウィーンを去ってしまう。この時得たポストがアメリカのピッツバーグ交響楽団。ここでは二度目の「シベリウス全集」が開始された。その双方の「全集」に共通しているのは、抒情精神の断裂という、ここ数年継続して現代人の社会的病理として関心が持たれていたテーマの深化だった。切れ切れの歌は悲痛だが、マゼールはそれを容赦なく晒した。その息づまる苦しさは、シベリウスで最後の発売となったCDに収録の初期作品「カレリア組曲」にさえ表われている。
 無邪気さを冷やかに見つめるもうひとりの自己。この複眼的視点のアイロニーが消えつつあるのが、ウィーンとミュンヘンに拠点を移し、三たびヨーロッパの伝統に身を置いた最近のマゼールだ。オーケストラの自発性に委ねる部分を増しているのは、自己閉塞的状況からの脱出が、私たちの未来に向けての、時代のテーマだからだ。時代の気分を先取りしてきたマゼールの次の変貌が期待される。

*このブログへの再々録に際しての付記
 上記「ウイーンとミュンヘンに拠点を移し、三たび~」と書いているのは、1990年代後半、バイエルン放送響とウイーン・フィルとで精力的に録音もしていたBMGとの契約時代のこと。その後、ニューヨーク・フィルに転じ、さらに、同フィル辞任後にミュンヘン・フィルに転じたことは、ご存知のとおりです。


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五嶋みどりのヒンデミット/キース・ジャレットのヘンデル/ネゼ=セガンのシューマン/マゼールの終着点?

2014年07月10日 12時32分00秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)
半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年も経過してしまいました。過去の執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分です。今年上半期分です。先週書き終えていたのですが、いつものように、すぐにブログへの掲載を手配する時間がとれなくて、そのままになっていました。まだ発行前ですが、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログに先行掲載します。


■五嶋みどりのヒンデミット「ヴァイオリン協奏曲」

 若いころ(あるいは幼いころ)から演奏していて、大人になってしまうと急に弾けなくなる、という演奏家は決してめずらしくない。メニューインもマイケル・レビンもそうだったが、妙に「わけ知り」になってつまらない演奏しかしなくなるのと違って、自身の感性を頼りに夢中で弾き切っていた人が、様々な知識の集積によって、ある種の畏怖が生まれて弾けなくなる場合、それを乗り越えて真の演奏家として大成するのは容易なことではない。かつて私は、五嶋みどりの場合も、メニューインと同じく精神世界への関心が彼女を救いつつあるようだと書いたが、昨年リリースされたヤナーチェクの「ソナタ」ほかのアルバムに続き、このエッシェンバッハの指揮する北ドイツ放送響(NDR)をバックにしたヒンデミットの「協奏曲」を聴いて、五嶋みどりが掴み取った音楽の大きさを実感した。このところ二〇世紀の音楽が演奏される機会がいたるところで増加しているのは、肥大化したロマン主義へのアンチテーゼが、作曲家から演奏家、そして聴衆にまで降りてきたからだが、中でも彼女の弾く、このヒンデミットはいい。密やかで心地よい緊張から開放へと向かっていく道筋に、思わず耳を澄ます。見事な集中力だ。この曲が、ここまで凝縮された美しさに光輝いた瞬間を、私は他に知らない。エッシェンバッハの共感あふれるバックの息づかいも見事だ。独奏者と一体になった自在さがある。この組み合わせでは数年前のモーツァルトも良かったが、それをはるかに凌ぐ音楽の奔流が聞ける。


■カシュカシアンのブラームスとキース・ジャレットのヘンデル

 ジャズと現代音楽と古楽のジャンルで個性的なリリースが、一九八〇年代から注目されていたレーベル「ECM」が、国内盤8アイテムだけ、限定盤で復刻発売された。時代の数歩先を行くレーベルだっただけに、最近の音楽状況にふさわしい発売と思った。私が購入した(つまり、不覚にも当時の私の関心からは外れていて、今回注目した)のは2点である。まず、現代音楽&古楽のレーベルとしては異例なブラームス『ヴィオラ・ソナタ集』。キム・カシュカシャンのヴィオラで贅肉をそぎ落とした音楽はシンプルで硬質だが、その表情は優しく暖かい。しかし、静かだ。この、ひっそりとした気配に漂流する音楽は、プリムローズのヴィオラとフィルクスニーのピアノによる私の愛聴盤とはまったくの別世界。明瞭なラインが開く静謐な美しさは、確かに新ウィーン派のシェーンベルクに直結する。そのことに今頃になって気付かされた演奏だが、この盤が世に出たのはもう二〇年近く前である。しかし、それよりさらに数年前に発売されたのが、写真のヘンデル『クラヴィーア組曲集』。ECMレーベルのジャズ部門の稼ぎ頭だったピアニスト、キース・ジャレットが、話題になったバッハ『フランス組曲』の二年後、一九九三年に録音したものだ。ジャケットのデザイン同様にシンプルな美しさが印象的な演奏で、私は彼のバッハに打鍵力の弱さを感じて、それきりにしてしまっていたことを思いだした。このヘンデルは、彼のタッチによく合っている。豊穣なロマン派の対極が、ストレートに提示されている。


■ネセ=セガンのシューマンに聞くネオ=ロマンの響き

 二〇一二年十一月にパリでライヴ収録されたネゼ=セガンとヨーロッパ室内管弦楽団によるシューマン『交響曲全集』が二枚組でDGから発売された。響きが澄んでいて隅々まで良く聞こえる音楽だが、それは、オーケストラの規模が抑えられているからだけではない。響きは薄いし、各パートの動きは裸にされている。だが、音楽は、どこまでも流麗でしなやかだ。しかも、それは、しっかりとロマン派の音楽のたっぷりとした情感の高まりを想起させるようなもので、おそらく、その部分が、ジョン・エリオット・ガーディナーがシューマンで達成した音楽の躍動感や推進力との大きな違いだ。ネゼ=セガンの「二番」の終楽章や、「三番(ライン)」の第二楽章の、異常なほど重い音楽の動きに、この指揮者のロマン派音楽観が垣間見える。その意味で、この演奏は一見ピリオド演奏の成果を踏まえたかのような装いを聴かせながら、じつは、ネオ=ロマンとでもいうべき新たな音響を提示しているのだ。シューマンの書いたオーケストレーションに不備があると見なしたかつての多くの指揮者は、さまざまに響きを補完する方向に走ったことが知られているが、ネゼ=セガンは、そうではない。薄く重ね合わされた響きから、ねばりにねばる音楽が聞こえてくる「ライン」の第二楽章は、特に個性的な演奏だ。だが、この小編成のシューマンが最も成功しているのは「一番(春)」だと思う。さまざまな音楽の表情が、瞬間芸的に突出してくる刺激的で新鮮な演奏である。短かく寸断されたフレーズを、瞬間々々で歌い切ろうとしている。


■マゼールが自身を総決算する時期がまもなくやってくる?

 マゼールの半世紀以上にわたる歩みは、あたかも戦後の音楽界全体の演奏スタイルの変遷史そのもののようだ、と私が総括したのは、今から十八年ほど前のことだ。その小文は一昨年刊行された第二評論集にも再録したが、その中で「誰よりも磨き込んできた指揮棒の技術を(マゼール自身が)捨てた時、戦後五〇年の演奏芸術のキーワードで在り続けた〈抒情精神の復興〉の方法に解答を見出す時なのだ」と予言した。その兆候はここ数年、時折見え隠れしていたが、二〇一一年四月から五月のフィルハーモニア管弦楽団とのマーラー交響曲連続演奏会でも、かなりの成果が生まれたようだ。先に発売された第一から第三交響曲までは、緻密なアンサンブルだけに留まっている感があったが、最近発売された第四から第六交響曲では、しり上がりに音楽の豊かな呼吸が確保されてきているのが感じられる。「第五交響曲」はマゼールの要求する表現にオケが近づいてきている。だまし絵のように折り重なる旋律をひとつひとつ明かしていくが、それは、ひところ持てはやされた末端肥大症のような音楽とはちがって、あくまでもスリム。全体が鮮やかに透けて見える。ロンド・フィナーレでも、重奏に埋没しない高域の響きが冴えている。息苦しさがなく、たとえて言えば自在に動く精密機械の動きを楽しんで追っているといった感覚。こうした演奏の延長に、私の思う「マゼールの終着点」があるはずだが、はたして、マゼールはそこにたどり着けるだろうか? このところ体調の不調でキャンセル続きなのが気がかりである。

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