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『唱歌・童謡120の真実』がまもなく発刊されます。

2017年02月03日 13時25分31秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 

 

 「やっと」と言うべきでしょう。2014年9月17日付けの当ブログでご報告した『唱歌・童謡100の真実』の増補、新版が、結局、2年以上の歳月を経てしまいましたが、まもなく発刊されます。下記の20曲を加えて、取り扱い曲は100曲から120曲へと膨らみましたので、48ページも増えて総ページ280ページの大作になりました。出版元のヤマハミュージックメディアさんの踏ん張り(?)で、定価1800円(税別)は据え置きです。

[01]「みどりのそよ風」

[02]「お誕生日の歌」

[03]「ろばのパン屋さん」

[04]「エンゼルはいつでも」

[05]「少年探偵団のうた」

[06]「ヤン坊ニン坊トン坊」

[07]「赤胴鈴之助」

[08]「月光仮面は誰でしょう」

[09]「ちょっときてママ」

[10]「鉄腕アトム」

[11]「ふしぎなポケット」

[12]「とんぼのめがね」

[13]「いぬのおまわりさん」

[14]「サッちゃん」

[15]「ちいさい秋みつけた」

[16]「アイスクリームのうた」

[17]「ドレミの歌」

[18]「手のひらを太陽に」

[19]「おもちゃのチャチャチャ」

[20]「おもいでのアルバム」

 

 もちろん、これまでの100曲については誤りを訂正し、また、いくつかの曲については、全面的に書き直しましたが、私としては、従来の4つの章の流れは完成されていると思っていましたので、途中に曲を加えるということを一切せずに、そのままにして置きたかったので、上記の20曲を、従来の年代順に並べた第1章から第4章までの後に、「付章/さまざまなメデイアと子どもの歌」として加えました。

 単に「20曲増やしました」というものではないのです。この「付章」の扉のリードとして、以下の文章を添えました。

       *

前章でも見てきたように、「戦後」とは、言うまでもなく、それまでの十数年に対する大きな反省の上に立った「民主化」の歩みであった。それは、メディアの多様化の促進にも現われている。多くの雑誌が創刊され、民間放送局が誕生し、それがさらに、ラジオからテレビへと広がっていった。様々のメディアが大正デモクラシーの時代以上の活気を取り戻したのだ。そうした戦後社会のダイナミックな変化を、「メディア」をキーワードにもう一度見直したのが本章である。前章と時代が重なり合っているように見えるかも知れないが、その内実は「戦中派」と「戦後派」の違いほどに大きい。

       

 そして、追加の20曲の後に以下の「追記」を入れました。

       *

■永遠につづく〈戦後〉のために――付章の「追記」として

 本書は、最初の構想では第一章から第四章までの一〇〇曲で完結していた。それが、さらに二〇曲について言及する「付章」を加えることになったのは、いったん書き終えた私の中に、ひとつの釈然としない思いが残っていたからでもあった。「付章」の扉でも触れているように、戦後の動きを追った第四章は、第三章に描かれているような戦時体制下で、抑圧され、耐えに耐えていた童謡の担い手たちの熱い想いが弾け飛んだといった趣が強くなっている。だが、ほんとうの「戦後」は、もっと違うところにあるはずだし、それは、昭和三〇年代に、まだ小学生だった「団塊の世代」のひとりである私自身の幼少期の音楽体験とも、微妙にずれていると感じていた。言わば、戦争を知らずに育った私たちの世代の、まっさらな「戦後」を見て行こうという、「戦後童謡」の再説が必要だったのかも知れない。

 こうして新たに選択された「付章」の二〇曲は私にとって、ほぼ「同時代の[コンテンポラリー]音楽」そのものである。少年時代の私自身が、それぞれの歌の中にいる。本文では触れなかったが、冒頭の「みどりのそよ風」は、妹の手を引いてしばしば行った江戸川の土手の記憶と重なり合っている。そのほかにも、いくつかの曲で、私自身の思い出が顔をのぞかせてしまっているが、ご寛容いただきたい。二〇曲の選に漏れた曲は数知れないが、私としてはこの時代の様々な特徴がコンパクトに収まるように工夫したつもりである。

 この二〇曲が生まれた背景の調査は、予想以上に困難だった。時代が現在に近接していることから、関係者が存命で、それぞれの事情によって必ずしも真実を語っていない、ということもあったが、戦後の混乱期、勃興期の放送界の混乱、レコード会社の担当者の世代交代による混乱など、様々の要因がある。だが、かろうじて見えてきた事柄から、「核」になる人物や集団が浮かび上がってきたのは、相も変わらず「歴史」という大きなドラマの神秘でもあった。

 調査した昭和二〇年代初頭から三〇年代半ば過ぎまでのわずか十五年間に、どれほど凝縮された時間が流れていたか。そのなかで、特定の人々が、それこそ八面六臂の大活躍をしていたことを、私は改めて確認した。お読みいただければわかることだが、このわずかの時間に、増子とし、長田暁二、そして、ろばの会に参加していたサトウハチロー、佐藤義美、中田喜直、大中恩らの面々の残した仕事は大きい。また、ラジオからは、これまでの「レコード童謡」にはない、まったく新しい発想の音楽が生まれ、黎明期のテレビからは、鬼才・三木鶏郎の工房に直接・間接に関わった若い才能が次々に巣立って行った。

 こうした、少年時代に私が口ずさんだ歌のひとつひとつが、先の戦争に突き進んでいったこの国の文化のあり方に対する反省の産物だったのだということに、いくつかについては、この歳になってやっと気づいたということを、私は告白しなければならない。昭和三〇年代の子どもたちのヒーローが皆、一様に「正義の味方」を標榜していたのは、理由のあることだった。「戦後」という言葉は、戦争が終わったままだからこそ、言われ続け、使われ続ける。私たちの時代が、永遠に「戦後」と呼ばれることを、誰もが望んでいるはずだ。

 なお、「付章」が今日に近接した時代だったこともあって、ここでは、ことさらに私の推論が多かったと思うが、本書全般について、それはいくつか言えることでもある。これらについて、推論は、あくまでも私の推論であって、出典を明示できるようなものではないことをお許しいただきたい。出典を明示して列記するばかりが研究ではないはずだ。たとえ「推論に過ぎない」と打ち捨てられても、最初に声を挙げなければならないほどに確信のある推論もあるということをご理解いただきたい。むしろ、こうして公刊された後、多くの方々からの異論や、私の誤りへの指摘が出てくることをお待ちしている。それが「同時代」の活発さであることを、私たちの「戦後」は、皆、理解したはずなのだ。

            * 

 私としては、この本は、これで完結したと考えています。今の私の心境としては、この後の時代については、私に続く世代の方が書くべきだと思っているのです。

 何はともあれ、昭和30年代に、この国で育っていった世代の方を始めとして、その世代に育てられたいわゆる「団塊ジュニア」の方々を中心に、多くの方に楽しんで読んでいただきたいと思っています。いわば「3丁目の夕日」の時代ですね。

 この時代のことに関しては、ネット上に、さまざまの誤情報、勘違い情報、ねつ造情報が飛び交っています。子ども時代の思い出の歌を語る時に、お読みいただける本となることを願っていますし、子ども時代のことを語る祖父母や両親の時代のことに、若いみなさんが少しでも関心を持ってくださることを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「唱歌・童謡100の真実」増補・改定版の準備に取り掛かりました。

2014年09月17日 15時35分44秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 「誕生秘話・謎解き伝説を追う」というサブタイトルを付して、2009年10月にヤマハミュージックメディアから刊行された『唱歌・童謡100の真実』は、多くの読者の関心を呼んで、おかげさまで再版も売り切れてしまいました。三版として増刷してくださるものとばかり思っていましたが、先日、編集の担当者から、増補・新版で出しませんかといううれしい打診がありました。私自身も、あの本は、「それなりにまとまっている完成されたもの」という自負と共に、もう少し別の角度から、もう一度捉え返してみたいという気持ちもありましたから、即座に承諾のお答えをしました。
 昨今の出版を取り巻く情勢には、相当に厳しいものがありますが、そのようななかで決定をしてくださったヤマハミュージックメディアの皆さんには、感謝しています。
 『唱歌・童謡100の真実』という書は、このブログにも以前掲載した同書の「あとがき」にあるとおり、私としては昭和30年代に小学校に通っていた私と同世代人の記憶や音楽体験を強く意識した語り口で執筆したつもりでしたが、編集担当者の話では、30代や40代からの読者ハガキの戻りが、ほかの同社の「唱歌・童謡」をテーマにした本よりも目立つそうです。
 それは、言ってみれば、私の息子の世代、すなわち、「団塊ジュニア」世代なのですね。これは、うれしい誤算です。
 ――というわけで、今回の増補に際しては、かねてから、このところの他の著作で深めている大正・昭和初期の文化史からの視点に加え、私の子育て時代の歌、たとえば、「犬のおまわりさん」「さっちゃん」など、テレビという新しいメデイアから生まれた歌などにも言及できたら……と、思っています。
 いつまでも「絶版・品切れ」状態で多くの方にご迷惑をかけ続けるわけにはいかないので、年内には発行の目処を付けたいと思って、構想を練り始め、執筆の準備を始めました。もちろん、初版発行後に判明した新事実なども踏まえて、既出の全100曲の記述も見直すつもりです。これまでも、全国の多くの読者の方々から、さまざまな情報を戴きましたが、何か、お気づきの点がありましたら、このブログへのコメント投稿で構いませんので、ご連絡ください。
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竹久夢二と斎藤佳三のデザイン楽譜

2013年03月07日 14時45分51秒 | 「大正・昭和初期研究」関連
▲写真は、斎藤佳三による楽譜表紙デザインの一例

 以下は、2月23日のこの場所に掲載した内容の続きとなるものです。『セノオ楽譜と大正クラシックス』と題する美術展が「高畠華宵大正ロマン館」で開催されるため、その解説文として執筆したものの一部です。展覧会の詳細その他は、2月23日の当欄をお読みください。

■夢二と佳三のデザイン楽譜
 「セノオ楽譜」は、その本格稼動となった大正4年以降、明らかに路線変更があったが、それが、「第4集」とされた『夜のしらべ』から開始されているのは興味深い。「夜のしらべ」とは「セレナーデ」のことで、当時「小夜楽」「小夜曲」などとも訳されていた。窓辺で女性に愛を囁く歌として、マンドリンやギターを抱いた吟遊詩人や、月が美しく映る川辺のゴンドラのイマジュリィと共に日本に入ってきたばかりの、今で言えば「トレンディ・アイテム」であった。この大正4年9月に発行された『夜のしらべ』が相当な売れ行きだったことは、その直後、妹尾幸次郎に説得されて様々の日本語歌詞を提供した堀内敬三の証言からもわかる。そして、この、女性向け商品イメージへの転換をより確実にしたのが、わずか半年後の大正5年4月発行の第12集『お江戸日本橋』表紙絵への竹久夢二の起用だった。夢二自身も、マンドリン演奏に強い関心を抱いていたことが知られている。
 夢二を妹尾幸次郎が起用したいきさつについては、様々な憶測がある。だが、客観的事実としてわかっていることのひとつに、大正7年6月16日に開催された「『少女』音楽大会」が、妹尾がかつて記者として在籍していた時事新報社の主催で行なわれているということがある。会場の帝国劇場は、立見席が出るほどの大盛況だったと伝えられている。
 この大会が、前年から月刊雑誌『少女』の読者アンケートの形で進められ選定された「少女愛歌」16曲を中心としたイベントだったということからも、数年前に時代の流れを読み取っていた関係者が、立案して徐々に練り上げて行った結果だったと考えていいだろう。そして、時事新報社に所属し、音楽関係者への取材をしていた妹尾が、そうした動きを事前に嗅ぎ取っていたこと、あるいは、直接聞かされていたということは、充分にありうる事だ。新聞記者が時代の風潮に敏感なのは、いつの時代も変わらない。この時期、夢二は既に「月刊・夢二ヱハガキ」が注目されていたのだから、何らかの決意を抱いて「セノオ音楽出版社」を立ち上げた妹尾が、読者に向けて路線変更を強烈に印象づける作戦として、「夢二」の起用を考えたとしても不自然ではない。
 夢二の最初のセノオ楽譜は『お江戸日本橋』だったが、その3ヵ月後の8月には『君よ知るや南の国』など、堀内敬三の詞によるオペラの一場面の歌にも夢二が登場。少女たちを夢中にさせたセノオ楽譜の路線が定着するまでに、それほどの時間はかからなかった。
                  *
 大正7年9月には、夢二自身が作詞したヒット曲『宵待草』が「セノオ楽譜106番」に登場するが、夢二は、その前年、大正6年6月発行の「第44番」で、既にセノオ楽譜に「作詞家」としても参加している。ちょうどその頃から、夢二ほどの点数ではないにしても、セノオ楽譜の表紙絵のもうひとりの常連、斎藤佳三が起用されている。大正・昭和期、黎明期の日本の作曲界をリードしたひとり山田耕筰の一年後輩で、共に東京音楽学校に学び、いくつかの歌曲も明治末期に発表している。言わば、夢二と異なり佳三は「作曲家」だったというわけだ。
 佳三が、日本における西洋音楽受容を明治初期から一貫してリードしていた唯一の官立の音楽学校である東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)に入学した明治38年、学校内は、折からのオペラ・ブームとなっていた。明治35年に欧州から帰国したばかりの岡田三郎助が、隣りあわせの東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)図案科教授となり、音楽学校生たちのあいだで盛り上がっていた「歌劇研究会」による日本人初のオペラ上演に舞台美術で協力。7月に試演されてから、まだ2年余という時期だったからである。
 斉藤佳三は、音楽学校入学の翌年、明治39年には、日本初の創作オペラ『羽衣』(小松耕輔作詞・作曲)に漁師役で出演してしまう。そして、すっかり舞台美術の世界に魅せられて音楽学校を中退。隣の美術学校に、岡田三郎助を頼って転入してしまったという経歴の持ち主。その後佳三は、小松耕輔の第2作のオペラ『霊鐘』にも出演して歌っている。このオペラは小松が、やがて帝劇オペラの作詞家として活躍してセノオ楽譜の常連にもなった小林愛雄と組んだ作品だったから、その後、舞台美術の仕事を模索していた佳三が、帝劇公演にも関わっていた可能性があるのだ。そして、妹尾幸次郎に佳三を紹介したのも、この小林愛雄だったのではないだろうか?
 舞台美術、舞台衣装などを手がけながら音楽関係の仕事を続けていた佳三だけに、佳三のデザインした表紙からは、独特の音楽的リズムが感じられる。佳三が、そうした韻律、リズミカルな繰り返しをデザインとして理論化していった背景には、佳三の音楽に対する深い理解があったのである。佳三はセノオ楽譜では、その音楽に対する知識を生かして、いくつかの訳詞での参加が見受けられるが、次第に、デザイナーとしての様々な仕事に傾注するようになっていった。
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竹久夢二の表紙絵で知られる「セノオ楽譜」の、黎明期の謎を追って…

2013年02月23日 15時47分14秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 先日、この場でも書きましたが、来月から2ヵ月間ほどにわたって開催される『セノオ楽譜と大正クラシックス』と題する美術展の準備に追われています。展示品の選択と、その構成は決まりましたし、整理して現地に送りましたが、掲示する解説パネルの原稿が、まだ終わっていないのです。
 先日は「関西方面」などとあいまいな表現で済ませてしまいましたが、場所は、四国・松山の「高畠華宵・大正ロマン館」です。ご興味のある方は、ぜひお出かけください。ひょっとすると、私が、1、2回、関連講演のトークをすることになるかも知れませんが、その場合は、もちろん、この場に告知します。
 会場のご案内HPは、下記です。
 http://www.kasho.org/bijutsukan.html 
 「セノオ楽譜」というと竹久夢二を想起される方が大半でしょう。そのこと自体は間違いではありませんが、それは、「大正時代」という、日本の近代化過程のなかでひときわ力強く動いていた時代の中に置いてみてこそ、ほんとのおもしろさが見えてくるのです。「日本人の西洋音楽受容史」研究という、もうひとつの私の関心事の次の一冊として書き上げたい本の原稿の一部として、書き始めています。
 実際の完成した本の中で、どのあたりを占めることになるか、まだわかりませんが、本日は、とりあえず書きあげた原稿の一部を公開します。(ここだけでも、私としては、かなり大胆な新説だと自負しています。)


セノオ楽譜のはじまり
 「セノオ楽譜」とは、妹尾幸次郎(ペンネーム:妹尾幸陽)が設立した「セノオ音楽出版社」の発行したA4判よりやや大判の楽譜書。明治末期に発刊の準備が開始されたようだが、正式な会社設立は大正4年(1915年)と言われている。翌年、大正5年4月に発行された「セノオ楽譜 第12集 お江戸日本橋」の表紙絵を竹久夢二が担当。以来、音楽好きの女学生を中心に人気が沸騰、わずか10年ほどの短期間に800点を越える膨大な出版点数を数えるに至った。西洋音楽の民衆への普及に与えた影響は大きかったが、昭和初期には、衰退が始まった。その理由は――

1)レコードの普及……電気吹込技術の発明による音質の向上や、昭和2年(1927年)以降の、国内プレス工場の操業開始などが普及のきっかけだった。
2)ラジオ放送の開始……NHKの前身、中央放送局が東京・名古屋・大阪で放送を開始したのが大正14年だった。
3)無声映画から音声付き映画へ……最初のサウンドトラック映画がアメリカで製作されたのは1928年(昭和3年)。以後、映画はレコード、ラジオとともに、音楽普及の有力な媒体に躍り出た。

――以上の3点に集約されるだろう。
 セノオ音楽出版社を設立した妹尾幸次郎は明治24年(1891年)生まれと言われているから、会社設立時にはまだ20歳代前半だったことになる。詳細な経歴はわかっていないが、慶応義塾大学に出入りしていたようで、そこで、黎明期の西洋音楽愛好家と接点を持ったと思われる。その後、時事新報社の記者となったとされるが、初期の「君が代」制定に絡んで、軍楽隊を指導していたフェントンの直筆譜を書き写して発表した「一記者」と伝えられる人物が妹尾幸次郎だったという証言もあることから、音楽記者として採用されていた可能性が高い。音楽方面の取材を続ける過程で、何らかの音楽界人脈を築き上げていったのだろう。
 現在、セノオ楽譜第1集として伝わっているのは『ドナウ河の漣』で、「明治43年7月1日初版」と記された奥付を持つ大正中期に印刷・発行された重版が、いくつも発見されている。続く第2集が『軍艦行進曲』で、これも初版発行は同じ「明治43年7月1日」と記載され、第3集『君が代行進曲』が「明治44年3月25日初版」とあるのに、第4集『夜のしらべ』は突然「大正4年9月25日初版発行」となる。
 一方、第1集『ドナウ河の漣』とまったく同一の表紙絵、ウラ表紙絵を持つ「音楽社出版部」発行の『月刊西欧名曲叢書第十四輯 ドナウ河の漣』という大判の楽譜書が存在していることが最近わかった。ウラ表紙に印刷された解説文もまったく同じだが、編集発行印刷が「音楽出版協会 武内粛蔵」となっており、発行日は「大正4年9月10日」で、初版か、重版かは明示されていない。そしてさらに、この「月刊西欧名曲叢書」というシリーズが明治43年から45年に数冊刊行されていること、その間のいくつかに、解説者として妹尾幸次郎の名前が見られることも分かってきた。
 このことから、まだ推論の域を出ないが、以下を提示する。
 
 1)「セノオ楽譜」の前身として「西欧名曲叢書」というシリーズがあった。
 2)何らかの分離独立が図られ、妹尾幸次郎が大正4年に会社設立に踏み切った。
 3)その時点では、まだ妹尾が過去に関与した曲譜の権利が妹尾にはなかった。
4)おそらく大正6年頃に、やっと解決が図られ、先の3点のみ出版権が妹尾に移った。
5)妹尾は、初版発行日を、前身の「西欧名曲叢書」時代にまで遡って表記した。
6)この時に通し番号制を開始し、最初のセノオ楽譜「夜のしらべ」を第4集とした。
7)第1~第3集の、「明治期の印刷・発行日を持つセノオ楽譜」は、存在しない。
8)大正9年の第220集あたりに、突如「明治44年初版」のものが数点現れるのは、前記の曲譜権利返還の追加があったからではないだろうか?

 この「8」で追加された明治期初版と記載されているのは『凱旋ポルカ』、『海軍行進 敷島行進曲』といった曲目で、先の第2集、第3集と共通して軍楽隊系列の音楽であることが興味深い。妹尾幸次郎は、明治末期の日露戦争後に日本を覆っていた愛国精神を鼓舞する「少年文化」の流れの中で、楽譜出版を発案していたと言ってよいだろう。
 では、なぜそのセノオ楽譜が、大正文化を解くキーワードともなっている「少女文化」のシンボルに変化して行ったのだろうか?

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ふたたび「サンタルチア」日本語歌詞考

2013年01月31日 11時12分04秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 昨日の私のブログに、なんと、「クラシック音楽のレコードコレクター仲間」の今村享氏から、早速のメールで疑問と情報が届きました。「唱歌・童謡」という世界での話として書いたつもりでしたが、なるほど、クラシック音楽世界から眺めると、だいぶニュアンスが変わってくるのだということを、再認識してしまいました。以下、まず、今村氏からのメールをそのまま掲載します。

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 ブログの『サンタ・ルチア』の項、拝見しました。改めて『唱歌・童謡100の真実』も読み返してみましたが、ちょっと腑に落ちない点が…
 この曲はジーリ、デル=モナコ、ディ=ステファノ等のような名テナーが歌った録音で聴いた人が圧倒的多数だと思えるのですが、そう考えると、竹内さんが本の中で言及された、ベルトラメリ能子の録音は、女性が歌った『サンタ・ルチア』が皆無と云う訳ではないにせよ、特殊な一例なのではないでしょうか?
 竹内さんが取り上げられたのは、飽くまでも‘日本語’の『サンタ・ルチア』なので、戦前ならカルーソーの録音で曲自体は知られていたのかも知れませんが、それでも、もし、そのベルトラメリ能子の録音で日本語版『サンタ・ルチア』が日本中に広まったのなら、歌詞の違いと同じくらい不思議な事のような気がしたので、少し調べてみました。
 やはり藤原義江の昭和9年発売ビクター盤があり、その録音は63年に、「われらのテナー藤原義江愛唱歌集」(JV95) としてLP復刻されています。
 中の解説書(宮沢縦一)では、《小学生でも知らないもののない名高いナポリ民謡だが、民謡といっても読人知らず的の古くから語り伝えられた歌ではない。/前の「帰れソレント」がクルテイスの作曲であるように、これもコットローの作曲で、「オー・ソレ・ミオ」などと同じく、毎年九月におこなわれるナポリのピエディグロッタの民謡祭の歌のコンクールで一等を取ったものである。この船歌はいかにも青い空、蒼い海、南の太陽の輝くナポリの歌らしく、明るく美しいが、それだけにカルーソー、ジリ、スキーパなども好んでうたい、藤原氏もお得意の一つ。サンタ・ルチアはナポリの守護神で、殉教者としてあがめられる聖女のことだが、ナポリにはその名をとった港や通りがあり、ホテルまである。もちろん、サンタ・ルチアの教会もあり、信仰心のふかい人たちがうやうやしく参詣している。》
 また、堀内敬三訳詩の歌詞は

《月は高く 空に照り
風も絶えて 波もなし
来よや友よ 舟は待てり
サンタ・ルチア サンタ・ルチア

そよと渡る 海風に
ながるるは 笛の音か
晴れし空に 月は冴えぬ
サンタ・ルチア サンタ・ルチア

いざやいでん 波の上
月もよし 風もよし
来よや友よ 舟は待てり
サンタ・ルチア サンタ・ルチア》

となっていて、竹内さんが追記の中であげられた、ベルトラメリ能子が歌った歌詞と共通している部分があります(一番)。


[ここまでが今村氏からのメール]
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 宮沢縦一氏は、さすがによく調べておられていて、当時の情報として完璧だと思いましたが、その後、宮沢氏が知らなかった事実(作曲ではなく「改作」だったなど)が分かってきたわけです。じつは、私が『唱歌・童謡100の真実』で強調したかったのは、以下の点です。

1)ナポリ民謡の原曲は、かなり悲惨で暗い内容だったが、それと似ても似つかぬ新しい歌詞を付けて、音楽祭に出品して、流行歌になった。したがって、日本では「ナポリ民謡」と表現したり「イタリア民謡」と表現したりと、表記が揺れていたが、イタリア国内では、「古くからある伝統的なナポリ民謡」という認識はないのではないか。

2)「サンタルチア」も、「ローレライ」「別れ」などと同様、セノオ楽譜愛好者をはじめとした女性ファンに支持された歌として日本に定着したのではないか? それを受けて、「日本語版サンタルチア」のレコード化は、「新小唄」として女性歌手に歌われることが多かったのではないだろうか? 女声コーラス譜もかなり流通していた。(そのレコード化のひとつが、東京音楽学校生徒の歌った日本コロムビア盤なのではないか?)

3)日本語の歌詞は、「楽譜絵葉書」などの巷間に流布している怪しげな替え歌もあるようだが、レコードを通じて戦前に定着した歌詞は、どうやら堀内敬三のもののようだ。だから、昭和30年代~40年代の歌声喫茶では「堀内訳」で歌われていた。(大正15年9月生まれの私の母親も「来よや友よ~ 舟は待てり~」と、台所で声を張り上げていたのを思い出します。)

4)ところが、同じ昭和30年代~40年代、学校の教室では、小松清の訳で歌われていた。(だから、私と同じ歳の私の妻は「かなた島へ~ 友よ行かん~」と歌うのです。)そして、どういうわけか、私のこの歌のイメージは、日本語で歌われる限り、女の人が歌っていないと、サマにならない。(女学生のコーラスだったなら、完璧! なのです。)

5)イタリア語では、私も、中学生のときに音楽室にあったレコードを放課後にこっそり掛けて、マリオ・デル=モナコ、とディ=ステファーノの聴き比べをしたのを覚えています。私はステファーノが気に入って、「カタリ・カタリ」なども入ったレコードをよく聴いていましたし、結局、10年ほど前に、東芝からCD化されたアルバムを買ってしまいました。だから、テノールの歌じゃないか、という考えは、理解できます。でも、やっぱり、この歌は、女声が似合うのです。

【追記】
 たった今、この、本日分をUPしたら、昨日分に、セノオ楽譜に関していつもコメントをくださる「誠」さんから、情報が入っていることに気づきました。公開処理をしましたので、ぜひご覧ください。やっぱり、女声が歌っています。しかも、セノオ楽譜に「妹尾幸陽」の訳と「堀内敬三」の訳の2種があるそうです。そして、堀内訳の発刊年から見ると、ひょっとすると、ベルトラメリ能子の録音が先行しているかも知れません。歌詞の細部の揺れは、その所為かもしれません。つまり、録音用にとりあえず訳したが、セノオ楽譜出版に際して推敲して決定稿とした、のかも知れないということです。(あるいは、その反対かも。)これは、ベルトラメリ盤の録音日が判れば済むことでしょう。

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『サンタルチア』、その日本語歌詞の変遷とセノオ楽譜――ナポリ民謡? それともカンツォーネ?

2013年01月30日 12時14分39秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 今、3月に関西方面で開催される予定の『セノオ楽譜と大正クラシック』という名称の展覧会の解説原稿に追われています。一昨年、東京の松涛美術館で開催された『大正イマジュリィ展』ほどの規模ではありませんが、「セノオ楽譜」や「楽譜絵葉書」など、私がこのところ取り組んでいる大正期の西洋音楽受容史の一側面を中心に取り上げる展覧会企画です。この展覧会の解説原稿をベースにして、『ギターと出会った日本人たち――近代日本の西洋音楽受容史』の続篇というか姉妹篇とでも位置づける本を書き上げたいと思っています。
 ところで、その関係で、「サンタルチア」について調べ直す延長でネット上を流していたら、日本語歌詞について、様々な意見が飛び交っているのでびっくりしました。以下は、私の4年前の著書の「サンタルチア」の項目全文です。ウイキペディアには、これと違う説が書かれていましたが、どうでしょう。私の以下の説も、それなりに様々の文献で得た知識を整理したものですが、新情報など、お教え下さる方がおられたら、コメント欄にお願い致します。


《歴史の荒波に揉まれ続けた、船乗りの歌の軌跡》

■戦前から歌われている歌詞と、教科書の歌詞は違う?
 この曲は、明治の初期に唱歌として使用された外国民謡ではないから、教科書に初めて登場したのは、第二次大戦後まもない一九四七年(昭和二二年)に発行された最後の国定教科書だった。外国曲容認の流れの中で、中学二年生の教科書に掲載されたものだった。
 そのとき採用されたのが上に掲載した(当ブログでは下にスクロール)小松清の訳詞である。その後、民間の出版社から発行された検定教科書に変わっても小松の詞が使用され続けたので、学校の教室で戦後教育を受けた子供たちのほとんどがこの詞で歌ったはずだが、一方で、「月は高く、海に照り、風もなく、波もなし」と歌い出され、「来よや友よ、船は待てり、サンタルチア」と結ばれる堀内敬三の訳詞を覚えている人も多い。なぜだろうか?
 昭和の初期に『サンタルチア』を日本語で歌ったと思われるSPレコードが発売されていることがわかっている。戦前から広く知られていた歌なのだ。どういう歌詞で歌っているのか確認できていないが、歌い手が戦前人気のあったソプラノ歌手ベルトラメリ能子(よしこ)で、彼女は堀内の戦前のヒット作『君よ知るや南の国』も歌っているから、おそらく堀内の歌詞だろうと思われる。昭和三〇年代も、街なかの歌声喫茶などでは堀内の歌詞が主流だったようだ。教室の中だけが小松の歌詞だったのかも知れない。

■ナポリ方言が標準イタリア語に変えられて消えた「殉教者の影」
 教科書に最初に載った時には「ナポリ民謡」となっていた『サンタルチア』だが、原曲についても、謎が多い。
 「サンタルチア」とは、もともとは「聖ルチア」という実在の殉教者のことで、その悲しい死を描いた元歌が一八世紀のナポリにはあったらしい。その旋律をフランス系イタリア人のテオドロ・コットラウが採集し、ナポリ方言の原曲とは異なる標準イタリア語の歌詞をエンリコ・コソヴィッチが書き、ナポリの港を讃美する漁師たちの歌として一九世紀の半ばに音楽祭に出品して以来、大ヒットとなったというのが、最近になってやっとわかりだしたこと。だから、コソヴィッチが改作した時点で「ナポリ民謡」から「カンツォーネ」に化けてしまったと考える方が合理的だ。
 メロディが、どことなくゆったりと揺られているようなのは、この曲が「舟歌」だからで、その標準イタリア語の「カンツォーネ」の歌詞には、悲しい殉教者の影はどこにも見られない。穏やかな航海を讃えるばかりだ。


【作品メモ】
初出:文部省・編『中等音楽(二)』1947年(昭和22年)7月発行
 *1958年(昭和33年)に文部省制定の中学校2年生必修教材

【歌詞】
「サンタルチア」[ナポリ民謡/訳詞:小松清]
空に白き 月の光
波を吹く そよかぜよ
かなた島へ 友よ 行かん
サンタルチア サンタルチア

しろがねの 波に揺られ
船は軽(かろ)く 海を行(ゆ)く
かなた島へ 今宵(こよい) また
サンタルチア サンタルチア

友よいざ 船に乗りて
波を越え とく行(ゆ)かん
かなた島へ 友よ いざ
サンタルチア サンタルチア
――以上、竹内貴久雄・著『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメディア刊)より

【ブログ掲載に際しての追記】
 ベルトラメリ能子のコロムビア・レコードSP盤を聴きました。私が本文で「月は高く 波に照り」と書いている部分、「月は高く 空に照り」と歌っていました。そのほか、2番の歌詞も、私の手元にある文字で流布しているものと微妙に異なっていますが、レコード盤上には「堀内敬三訳」とあります。編曲とオーケストラの指揮を山田耕筰がしていますから、録音時に変更が行なわれたのかも知れません。しかも、同じコロムビアで、昭和10年代(推定)発売のレコードでは、長尾豊という人の訳詞で、澤崎定之指揮東京音楽学校生徒の女声合唱で、まったく異なる歌詞が登場しています。そのほか、大正末期から昭和初期に、女声合唱運動がひときわ盛んだった関西方面で、昭和4年に発行された中学唱歌の民間本に、『三舟』と題して「サンタルチア」に詞が付けられているものまであるようです。いったい何通りの「サンタルチア」が見つかることか、といったところです。


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『唱歌・童謡100の真実』の訂正。「赤いろうそくと人魚」の作者は、もちろん小川未明です。

2012年02月03日 14時27分20秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメディア)の発行後、新たに発見され確定した事柄や、面目ない誤植・書き誤りなど、著者としての責任から、気付くたびにこのブログにて告知しています。このブログの左欄を下にスクロールして、「大正・昭和初期研究」関連のカテゴリーをクリックしていただけると、様々の修正情報が出てきますのでご利用ください。
 今回は、完全に私の誤記です。申し訳ありません。

■86ページ上段、本文5行目============

×「赤いろうそくと人魚」で名高い童話作家、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』~

○「赤い鳥運動」で名高い童話作家、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』~

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 『赤い蝋燭と人魚』は大正10年に「朝日新聞」に発表された小川未明の作品です。また「赤いろうそくと人魚」は巻末の索引で拾っていませんから、索引への変更・訂正はありません。
 じつは、私が上記「×」のように書いていることを指摘してくれたのは、最近知り合ったチャッピーというニックネームの私の友人です。彼は私の著作の熱心な読者で、一曲一曲、丁寧に読んでくれています。その彼から指摘をされて、あわてて本を開いてみたら、彼の言うとおりでした。執筆当時、小川未明が「赤い鳥」に発表した「今後を童話作家に」という宣言文の紹介もして、当時の「赤い鳥運動」について書こうと思っていたという記憶がありますが、とんだ誤記が残ってしまいました。お恥ずかしい限りです。

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竹久夢二と古賀春江――山田俊幸氏の「病院日記」(第13回)

2011年10月31日 10時55分53秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 本日は、10月4日のメールで、私の携帯に届いた分です。なぜ、山田氏の「病院日記」なるものが私のブログに連載されているかについては、9月6日、7日あたりに遡ってお読みいただけるとわかります。
 今回の掲載分は、音楽文化史の流れの中で大正期の夢二と「セノオ楽譜」と女学生文化、あるいは浅草オペラ文化と川端康成などに関心を持っている私にとっても、とても興味深く、示唆に富んだ発言です。改めて山田俊幸氏の博学ぶりと、それらから様々な事を紡ぎ出す発想力に感服しました。


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寝たまま書物探偵所(13)・・・竹久夢二と古賀春江 by 山田俊幸


 小火から助かり、処分もまぬがれた雑誌に、『中央美術』復興第一年第三号(昭和八年九月発行)があった。美術雑誌は千円を切ったら買うようにしていたので、これもそんな値付けだったのだろう。恩知孝四郎の「新表現手段としての版画技法」だとか、柳沢健の「メキシコの風景」という文章がある。その他、「美術界彙報(いほう)」という欄に、次の年の一月、パリでやる日本版画展覧会のプレ・イベントの記事や、「[洋画研究所新設] 二科会の東郷青児及同会所属の阿部金剛、峯岸儀一の三氏は這回、アウアン・ガルド洋画研究所を開設し研究生を招いている。その研究所は神田区小川町三の十四、スルガ台湯階上である。」などの珍しい記事も載っている。東郷、阿部は白水社のモダニズム本で一緒だが、峯岸というプロレタリア・アウアンガルドの画家がこの時点で一緒になったということは知らなかった。
 そこには、そうした展覧会情報ばかりでなく、こんな記事もあった。

「[古賀春江氏逝去] 古賀春江氏は、本名良昌、久留米市の出身である。最初中川紀元氏に学び、二科会第九回展に「埋葬」を出品して一躍その鋭才を認められた。当時の氏の作風は多少立体派の形式を加味した鋭角的な表現法をとり色調は暗く文学的な内容をもつて居た。「埋葬」はその傾向の代表作であり、フランスにも出品されて居る。其後次第に古賀氏独特な持味が現れ、色調は明快になり感覚は益々冴えて来た。中央美術展に発表された「魚市場」はこの傾向での出品の作でもあつた。氏は一方非常に写実的な作品を二科会に発表してその方面の実力を認められた。第十三回の二科展では会友に推され、第十六回展には会員に挙げられて居る。爾後作風は次第にシユールレアリズムの影響を受けて詩的な精神を加える様になり遂には日本に於ける其派の代表作家となつた。古賀氏の作品は傾向が如何に変化してもその底には何時も日本的精神の流れが見られた。今二十回展の「サーカス」其他に至る迄常に注目すべき作品を発表して居たが昨年あたりから健康勝れず、昭和八年九月十日脳神経衰弱のため逝去した。享年三十九歳であつた。」

 古賀春江の逝去の記事である。この雑誌から少し遅れて、十二月の文芸雑誌『文藝』にも古賀春江に関連した一文が載っている。
 川端康成の「末期の眼」である。この随筆で、シュール・レアリスムの画家古賀春江と竹久夢二が語られていることはよく知られている。そればかりではなく、夢二を語る場合の、定石とでもいってよい扱われ方が、この随筆はしばしばされてもいる。だが、何故、春江と夢二なのか。これについては、今まではあまり語られなかったのではないか。随筆は、戦後の刊本『純粋の声』にも収められるが、初出は『文藝』第一巻第二号(昭和八年十二月号)である。
 随筆は次のように始まっている。

 「竹久夢二氏は榛名湖畔に別荘を建てるため、その夏やはり伊香保温泉に来ていた。つい先達ても、古賀春江氏の初七日の夜、今日の婦女子に人気のある挿絵画家の品定めから、いつしか思ひ出話となり、夢二をなつかしむ言葉は熱を帯びたが、その席の画家の一人栗原信氏も云つたやうに、明治から大正のはじめへかけての風俗画家――でなければ、情調画家としては、とにかくえらいものなのであらう。少女ばかりでなく、少青年から更に年輩の男の心をも染め、一世を風靡した点、この頃の挿絵画家は、遠く及ばぬであらう。夢二氏の描く絵も夢二氏と共に年移つて来ていたにはちがひないが、少年の日の夢としか夢二氏を結びつけていない私達は、老いた夢二氏を想像しにくかつただけに、伊香保で初めて会ふ夢二氏は、思ひがけない姿であつた。」

 老齢の夢二の姿を見た印象だ。川端はこの時、三十代前半。夢二がずいぶん高齢に見えたらしい。「老いた夢二氏」とはあまりにもの言い様だが、これは川端の実感であったのだろう。
 話は、いかにも川端らしく、結構が上手に仕立てられている。古賀春江の初七日に、源氏物語の「雨の夜の品定め」の女性談義の如くに、挿絵画家の品定めが始まったというのだ。そこで、夢二の業績の並でないことに皆の話が行く。ということになるのだが、それにしては話の成り行きがいかにも唐突だ。初七日のために集まったのが誰とは特別に書いていないが、名の出された栗原信は挿絵画家ではない。とすると、そんな中での挿絵画家の品定めとはあまりにも唐突ではないか。しかも、なくなった画家が「古賀春江」、その初七日のことというのでは、いかにも場違いの感が拭えない。だいたい、初七日に知人たちが集まって、亡くなった画家の業績について語るのならいざしらず、何故、挿絵画家なのか。川端が書いていることを、そのまま、なんとなく読んでいると別に問題になることではなさそうだ。だが、である。いったん、初七日という場と、集まった人たちとを考えるなら、古賀春江の遺体を前に挿絵画家の品定めをする光景は、まことに不思議、異様、不謹慎の話と言わなくてはならない。
 ならば、これはお話を作るための川端康成の捏造なのか。だが、そうではない。それには理解があるのだ。
 ここで思い出すことは、竹久夢二という挿絵画家の明治末から大正にかけての圧倒的な人気のことである。「少女ばかりでなく、少青年から更に年輩の男の心をも染めた」と川端は書く。その通り、じつは夢二色に染められた一人に、後のシュール・レアリスム画家「古賀春江」がいたのである。
 現在、東京国立近代美術館には、古賀春江の初期資料が収蔵されている。その中に、夢二写しと言ってよい、肉筆の絵葉書などを見ることが出来る。川端たちは、初七日の席上で古賀の画業を顧み、そうした絵葉書や画稿類を見たのではなかったか。おやおや、古賀も夢二を真似て描いていたのか。あの頃は、夢二が挿絵の人気画家だったが、今は誰なんだろう。華宵だろうか、虹児だろうか、いや加藤まさをか。いやいや、夢二のスケールの挿絵画家はいないだろうね、と初七日での品定めは進んで行ったのだろう。この川端の随筆「末期の眼」には、古賀春江に、竹久夢二調の模倣時代があったという説明が抜けているのだ。
 竹久夢二という人は、単体として見るのではなく、夢二という現象として見ることによって、さらに大きく、魅力的になってゆく画家なのだ。
 この「末期の眼」は、古賀を「西洋風の色彩から出発し、オリエンタルな色彩に移り、それから再び西洋風の色彩に戻り、今また『サアカス景』などのやうに、オリエンタルな色彩に復らうとしていたさうである。『サアカス景』は絶筆である。」と、その展開を把握している。大分前に古賀春江について書いてほしいと言われ、ずいぶん調べて書いたが、この「末期の眼」をうまく活用ができなかったのが、いまも心残りだ。



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愈々、『近代ニッポン「しおり」大図鑑』が発行されます。

2011年10月07日 14時31分33秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 しばらく、ほかに何もできないほどに忙しかったのですが、やっと、近代ニッポン「しおり」大図鑑(国書刊行会から、10月31日に発行予定)のゲラ・チェックを終えました。
 とても興味深い本に仕上がりました。私のことですから、例によって、索引も充実しています。なにしろ、オールカラー200ページの中に、450点~500点近い小さな紙切れを収録したわけですから、何のしおりがどこに載っているか、わからないと不便ですので、かなりきめ細かい索引を作成しました。
 索引のことはともかくとして、一点一点の解説の執筆に、思いがけずてこずりましたが、日本の近代史の一側面を、面白く垣間見ることができました。
 どんな本なのかは、以下に、私が書いた「あとがき」を掲載しますので、ご想像ください。眺めているだけでも楽しい本です。ぜひ、ご予約ください。

■編集・解説にあたって
 本書は羽島知之氏のコレクションを中心に、監修の山田俊幸氏のアドバイスを受けて、いくつかの機関に保管されていたものを加えて編んだ「しおり」図鑑である。ここに収録したものは、膨大な羽島コレクションの一部に過ぎないが、編者のひとりとして、本書の成り立ちについて書いておきたいと思う。
 本書への各しおりの収録にあたっては、そもそも、数千枚に及ぶコレクションを前にして、大まかな選択とカテゴリー分類の作業を、ひとまず羽島氏と竹内で行なった。それは、日本の大衆文化史という大海原への船出でもあったが、そうした歴史的背景に関心を持つばかりではなく、図像としてのおもしろさ、あるいは美術史的な鑑賞という観点に照らして更に精選し、章構成の骨子にもアドバイスを与えてくれたのが大木優子氏であった。その大木氏にもコラム執筆をお願いしたが、そのほか、監修の山田氏と相談しながら、「しおり」に関連する様々な興味深い視点を、海藤隆吉、熊田司、高野麻衣の三氏にお願いすることとした。各ページ見開きごとに付した「解題」は竹内がとりあえず調査して執筆し、デザイン様式の変遷を中心に山田氏の助言を受けて最終稿とした。
 そうした過程を経て仕上がった解説原稿だが、その執筆過程で私が強く感じたことのひとつに、こうして残された「しおり」は、それぞれの最初の持ち主が、こだわりを持って保管した物が残っているのではないだろうか、という思いだった。映画のタイトルを見ても、社会的に話題となった作品や、個人が人生の節目に遭遇した映画の記念に残しておいたものなのかと想像するものが多い。天皇の崩御によって突然年号が変わったことを記憶しておこうと残されたのかと思うものもあった。戦時下の、今の観点ではとても納得しがたい価値観の披歴も、「そういう時代があった」と記憶しておきたかった人の手許に留め置かれたものが、長い年月を経てコレクターの市場に現われたものではないだろうか。しかも、その「観点」が、社会性を帯びた男性よりも、日々の暮らしに育まれた女性の関心に近い物が多いように思う。「しおり」の保存は、女性の力による部分が大きかったようにも思う。百年以上もの歳月を経過して残された様々な「しおり」のアトランダムな集積から直感的に感じられた印象は、そうしたことだったと言ってよい。
 しかし、何はともあれ、これらの「しおり」コレクションからは、思いのほか「日本の近代史」のオモテとウラが見えてくる。そのおかげで、一枚一枚のしおりの表現から手繰り寄せようとする歴史の事実は、もともと私が承知していた明治から大正を経て昭和に至る社会の世相を、遥かに凌駕する膨大で瑣末な出来事との格闘へと突き進んでしまった。たった一行の記述、ワンフレーズの表現から、数十ページにもわたる当時の出来事の解説を読破せざるを得ない広がりにも、しばしば遭遇した。本書の各ページに付された解題は、それらを要約したエッセンスに過ぎない。読者の皆さんが、お気に入りの一枚の「しおり」から思い出や歴史の旅を広げて、それぞれの心の底に眠っている記憶を呼び覚ましていただけるよう願っている。


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「大正・乙女デザイン研究所」が設立されました。

2011年09月15日 15時01分55秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 9月6日付の当ブログで予告しました「大正・乙女デザイン研究所」の活動準備が整ってきましたので、「大正・乙女デザイン研究所のページ」というブログを立ち上げました。以下のURLです。(問い合わせ先なども、そこに記載してあります。)

   http://blog.goo.ne.jp/otome-design

 上記ブログは、私が直接の管理者ではありませんが、協力していますので、山田俊幸氏の送信してくる文章も、内容によってはそちらに振り分けます。ただ、9月7日から数日続いた「寝たまま書物探偵所」は、彼が送信してきたら、これまで通り私のブログの「書物に関する話題」カテゴリーに掲載します。なお、「乙女デザイン」のブログがスタートしたと聞いた山田氏は、しばらく、そちらのブログ用の連載読み物の構想を練るのに夢中になっていて、「書物探偵所ごっこ」はお休みです。(だから、昨日は、久しぶりに音楽を話題に出来たのです。昨日、文末で予告した「エゴン・ペトリ」のことを書こうと思っていたのですが、本日はこの「乙女デザイン研究所」紹介で埋まってしまいました。明日か明後日には、エゴン・ペトリを…と思っています。本日は、以下、山田俊幸氏の書いた「研究所設立概要」とその概略をご覧ください。
 
   ===================
 

    「大正・乙女デザイン研究所」設立概要

大正100周年を迎える2012年に先立ち、大正・乙女デザイン研究所を設立しました。当研究所は、大正時代を中心に「高等女学校令」が公布された明治32年から太平洋戦争が終わる昭和20年までを対象として、乙女デザインの普及と研究を目的として設立されました。
例会は毎月1回開催されますが、例会では実際に作品を見るばかりではなく、レクチャーとともにオリジナル資料に触れられる機会を設けます。さらに収集品の交換、講演会、往時の音楽を聴く会などを行い、ブログでの発信とともに大正に花開いた乙女文化を楽しむサロンといたします。ご興味のある方は、ぜひご参加ください。(山田俊幸)

《会費》
年会費(前納):1,000円
月例会の参加費:毎回1,000円
※ 入会金なし、お試し参加なし

《月例会》
(原則)毎月 第3土曜日 18:00~21:00

【第1回】小林かいちの絵封筒
 2011年11月19日(土) 亀戸文化センター/第2研修室
  (JR東日本・総武線「亀戸駅」下車徒歩2分)

【第2回】高橋春佳とクリスマス絵葉書
 2011年12月17日(土)亀戸文化センター(予定)

《役員》
所長:山田俊幸
事務局長:竹内貴久雄
代表幹事・会計:小林菜生

   ===================

 以上の「設立概要」と概略でお分かりのように、この研究所は、山田氏を中心とした「大正イマジュリィ」の研究会といった趣のものです。明治末期から大正期を経て昭和初期に至る様々な文化シーンを鑑賞するわけですが、もちろん私自身は、そうした時代の息吹の中にあった音楽と社会との関わりを探求し続けようと思っています。この時代は、レコードが普及し、ラジオ放送が始まった時代でもありますから、興味は尽きません。LPレコードやCD収集の傍ら、日本人の西洋音楽の受容史に関心を持って、これまでに『唱歌・童謡100の真実』と『ギターと出会った日本人たち』を書いてきた私ですが、この頃、やっとそれらを包んでいる日本の近代史という大きな舞台が、少し見えてきました。そしてそれが、ヨーロッパ大陸やアメリカ大陸との連環にまで繋がっていることが実感されるようになってきて、少々わくわくしています。

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山田俊幸氏の「病院だより」と、「大正・乙女デザイン研究所」設立のことなど

2011年09月06日 11時33分20秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 来月発行予定の『近代ニッポン「しおり」大図鑑』(国書刊行会)が、編集作業の大詰めにさしかかっていますが、その最中、監修者の帝塚山学院大学教授山田俊幸氏が、蔵書の整理中、階段を15段転落して第2腰椎損傷ということで、二ヵ月の入院となりました。それについては、周辺の方々宛てに山田氏からメール転送を依頼されましたので、思い出せる限りの方々に転送にてご連絡しましたが、進行中の本は、幸いなことに、私が書き上げた収録しおり全点の解説文を、読み終えてもらった後でしたので、めんどうなことにはならずに済みました。なにしろ、大阪の病院に入院中なのですから……。本人は「オレに最終ゲラを見せずに印刷に回すのか」と少々不満そうでしたが、収録しおりの選択・分類をご一緒した著名な資料収集家で新聞研究家の羽島知之氏と、最後の作業を進めるつもりでいます。
 山田氏自身は、もう既に、次の仕事に思いが向かっているようです。彼とは現在、共著の本の企画も練り上げておりますが、その先にまで構想を膨らませて、動けぬベッドの上から、退屈しのぎに、次々に資料送付、調査の代行をメールしてきて、私の仕事の邪魔をして困ります。
 また、今秋に発足を計画していた「大正・乙女デザイン研究所」のことも、あれこれと注文してきています。とても元気なのです。この研究所の活動については、近いうちに、このブログでもお知らせしますが、別途に専用のブログを立ち上げる予定です。

 ところで、その入院中の病床に、山田俊幸氏のお父上の訃報がもたらされました。昨年の御母堂に続いてのことですが、山田氏は、私宛にベッドの上から、備忘録風に長文の携帯メールを送ってきました。冒頭に「皆様へ」とありますから、いつものようにあちらこちらに転送せよ、ということなのでしょう。その意味では私信ではありませんし、それに、私も彼も、長年、著作という仕事を続けていますから、推敲して文字にしたものは、不特定多数の第三者に読まれてこそ意味が生じるとも思っていますので、このブログ読者の皆様にも公開いたします。(「===========」から下です。)
 山田氏の御両親には、私も20代のころ、よくお会いしておりましたので感慨深いものがありますし、彼が書いている思い出も、初めて聞くものはないのですが、改めて、彼が「来し方」を見つめていることに、私なりに思うことがありました。私も4年前に救急車で病院に担ぎ込まれて生きながらえた身ですから、彼が、転落しながら「ああ、これで終わりかな」と瞬間に思い、今、生き残った自分と対峙している心境がわかります。山田氏が電話口で私に、「お前が、生き残った者として何をするかを思った、と言っていた気持ちがわかったような気がする」と言ったとき、おそらく、私も彼も、よき書誌仲間だった気谷誠の、早すぎた死について思っていたのです。

   ===================

 寝ているベッドから空を見ていると、雲の海が流れています。子どもの頃、空の雲ばかり眺めていたことがありますが、ここしばらくはそんなのんびりとした一日一日となりそうです。それでも「尾崎喜八と雲」なんていう展覧会の企画を考えているのですから、困ったものです。今朝は、雲を見ながら、手元の手提げで、病院に一緒にやってきたCDカセットに入っていたグリークのピアノ曲集をのんびりと聴いています。けっこう、空の景と合ってよいようです。ナクソスの廉価盤ですが。

 わたくし事ながら自分の整理のため、記します。本日、五日の午前6時、父親をみてもらっている妹から電話があり、昨晩緊急入院した父が亡くなったと知らされました。母が父より一歳年上で、昨年みまかっていますので、同い歳で亡くなったことになります。そんな時、大阪の病院で身動きできないでいるのは、なんとも情けないかぎりです。妹があとは心配ないと言ってくれているのが、大きな助けです。

 母は、旧姓渡部。その母の父は、札幌農学校で有島武郎と同級でした。当時、有名なガンベッタ将軍のように豪快だったということで、ガンベの愛称があったそうです。その一端は、有島の未完小説『星座』に映されています。音楽家の早坂文雄とはいとこだったと聞いていて、昭和三十年代の大崎の家(竹内註:品川区大崎の山田氏の実家です)には、文雄の弟が描いた樹下の道の油絵が、長いこと飾ってありました。北海道から上京、東京美術学校在学中に亡くなったのではないかと思います。わたしは、この決して明るくはない絵を見て育ちましたが、今さらにあれが自分の美術への関わりの原点だったと思っています。また、渡部の家は小樽の富裕層で、岡倉天心門下の大智勝観にお金を出したとも聞いています。

 父は、電気学校出で、今ならば決して厚生省で出世できるはずのないキャリアでした。その父が、厚生省内でそれなりに出世したのには、戦争後の混乱が幸いしたのかもしれません。わたしがリルケ研究の塚越敏先生と知遇を得たとき、塚越先生は城真一さんを紹介してくださいました。その城さんが、大崎の実家に来たときの話です。城さんのお父さんが医者だと聞き、わたしが自分の父を厚生省の療養所担当だったと言ったのでしょう。その時、城さんはびっくりして、山田さんのお父さんはあの山田さんだったのかと、驚かれました。城さんの話では、城さんのお父さんが大阪の療養所の院長をしていた時、戦後のことでもあり暖房の燃料事情がまったく悪かったそうです。そのために毎年何人もの患者が亡くなる。なんとか石炭の特配が受けられないだろうかと相談したら、本庁と掛け合って特配が実現したと言うのです。山田さんのおかげでおおぜいの患者の命が助かったと、城さんのお父さんは城さんにもらしていたそうです。こんな話を聞くことができたのも、人間の繋がりの大きな輪があるからでしょう。
 わたしには、その父のささやかな蔵書を納めた小さな扉付きの本箱が、文学の始まりだったようです。そこには、岩波文庫のウインパー『アルプス登攀記』に白樺の皮が貼られ、「山田山岳蔵書No.なになに」と白く手書きされていて、山を憧れさせたものです。鈴木牧之の『北越雪譜』も、山の旅人小島烏水に惹かれて買ったものでしょうか。これはわたしの高校生時代の愛読書となりました。さらに、レイモン・ラディゲの人文書院版『肉体の悪魔』。秘め事のような愛読書でしたが、ジェラール・フィリップの映画を高校生で見、さらにのめり込みました。
 最近、縁あった人々と[大正・乙女デザイン研究所]というのを開設することになりました。考えてみますと、このベースには、父と母の存在があったようなのです。野長瀬正夫のなつかしい『故園の詩』、松山敏訳のエンボスというよりほとんど浮き出しの女の子が色付けされて表紙になった『シェリー詩集』など、父のものか母のものかわかりませんが、そんなものが現在のわたしを形作っています。
 今年は、社会的にも忘れられない事故や災害が頻発していますが、どうやらわたくし個人にとっても、大事な転機の年となったようです。
 皆さまには、今までいろいろとお助けいただいて今日までやってきました。感謝いたします。今後もよろしくお見守りくださいますよう、お願い致します。山田俊幸


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明治末期美術界のベニス、ゴンドラへの憧憬が、東京美術学校に日本初のマンドリン合奏団を産んだという説

2011年05月31日 11時44分02秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 拙著『ギターと出会った日本人たち』に関連して、新しい見方のヒントをもらいましたが、そのご報告の前に、まず、近況報告。

 今、『近代ニッポン「しおり」大図鑑』(国書刊行会・刊)の編集・執筆の大詰めです。新聞号外収集・研究家としても著名な羽島知之氏の「しおりコレクション」を中心にまとめられるもので、羽島氏と私との共編。全体の監修は、日本絵葉書会々長も務める帝塚山学院大学教授の山田俊幸氏です。私自身は今、全体の編集の流れの修正と、それに合わせての解題注記の執筆に追われています。本の内容は「国書刊行会」さんのホームページに掲載されています。『大正・昭和の乙女デザイン』『大正イマジュリィの世界』(ピエブックス)、『小林かいちの魅力』(清流出版)など、私の大正・昭和文化史への関心の延長上の仕事で、とても興味深い事実が満載です。この注記執筆のための調査で、このところ大正・昭和の雑貨・化粧品・文房具・薬品・鉄道などの歴史にまで首を突っ込んで楽しんでいます。もちろん、お決まりの乙女グッズも満載の、キッチュな図鑑です。
 このあと、本文の注記に盛り切れなかったはみ出し情報も再構成しての巻末解説、登場作家・企業名解説などで仕上げになります。『乙女デザイン』の「楽譜絵葉書」の解説でも苦労しましたが、無名の作家、消滅した企業・商品が満載ですから、取り組み甲斐もあります。乞ご期待です。

 ところで、この監修もしている山田俊幸氏は、もう古くからの付き合いで、しかも私が尊敬できる数少ない、学究肌のホンモノの大学教授なのですが、その彼から、私の著書『ギターと出会った日本人たち』(ヤマハミュージックメディア・刊)について、またまた貴重な指摘やアドバイスをもらいましたので、ご報告します。
 昨日、携帯にメールされてきたものです。以下、山田氏のメール文を、そのまま掲載します。

 ↓--------------------

ギターの本、昨日読んだ。間違い二点。新版画は浮世絵リニューアル。佐藤惣之助が白樺とは、なんで読んだのか、疑問。自分で調べないで、誰かの情報を鵜呑みにした結果とみた。ギターを演奏家中心にみると、まあ、竹内式になるのだろうが、あそこに岩村・富本などのマンドリングループの美術学校グループが登場しないのは疑問だな。明治末には[ギタール]が常識として短歌に歌われるし、ギタールを持つ竹久夢二の肖像もある。ギタールへの憧れは、美術家のほうに強くあり、イマジュリィでは、多分、ギタールは早い。そうと考えると、金子薫園がベニス風景に置いたギタールは、何かを教えてくれるはず。ベニス流行が明治末にあり、岩村はラスキンからするとそれだろう。ベニス風景のゴンドラとギタール。図像を集めると面白い。

 ↑--------------------

 これに対して、とりあえず送信した私の返信は以下のとおり。

 ↓==========

ご教示、深謝。比留間賢八は東京音楽学校のはぐれ鳥ですから、美術学校のほうで愛好家を集めてマンドリン合奏を組織したのだろうとは思っていましたが、その背景に美校のベニス、ゴンドラ流行を置くという発想も知識もありませんでした。いずれにしても、あの周辺のマンドリン情報は、103ページに掲載した比留間と美校生たちとの合奏写真とともに、印刷直前に入ってきて、生飲み込みで書き直して本にしてしまったので、再調査、大幅加筆の第一候補。痛いところを突かれましたが、ヒントもらいました。

 ↑==========

メール返信では、それ以外の部分については、他の仕事で忙しい最中だったのと、いつもの山田流皮肉でもあったので放っておきましたが、「新版画」については、彼は専門家ですから、私の早とちりと舌足らずを諌めたもののはずです。
 佐藤惣之助のくだりは、彼が斜め読みしてキーワードに目が行く、という学校の先生特有の読み飛ばし方で早とちりしたもののはずです。私は惣之助が白樺派だなどとは、書いていないのです。私が書いた本文は「大正の半ばまでは、当時盛んだった生命力にあふれた作風で白樺派の系統に近い詩を書いていて、新進作家詩人として注目されていた。」です。その後、惣之助は象徴派風の作風に代わり、そこで萩原朔太郎などと交わるのです。
 わたしは、結局のところ流行歌の作詞家として成功した惣之助の「変わり身の早さ」を言いたかったのと、のちの流行歌「人生劇場」などの泥臭い人間臭さのルーツは、「象徴派」ブリっ子をする前の惣之助の作風にあるのではないか、と仮説を立てているのです。
 なお、山田氏が美術学校とマンドリンとの関わりの中で言っている「富本」は陶芸家として著名な「富本憲吉」で、この人物は、こんどの「しおり」にも登場してきます。
 美校でのマンドリン演奏の流れはかなり有名ですが、私よりも日本のマンドリン史に詳しい方が触れている事柄です。ギター史としては、話が脱線するばかりなので割愛したものです。ただ、今回の山田氏のアドバイスで、何故、比留間賢八が美校に合奏団を作ったのかが、邪推かも知れませんがすこし判った気がし始めていますので、美術畑のベニス・ブーム、ゴンドラ・ブーム(小林かいちにも有名なゴンドラ・デザインがありますし、大正期の流行歌とゴンドラも切り離せません)とギターとの関係から、美術界にまで調査を広げると、まだまだ、おもしろい事実が見つかるかもしれないと思うようになりました。

 
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『唱歌・童謡100の真実』の「ちょうちょう」に関する追加情報があります。

2011年03月02日 11時17分11秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 長くお付き合いしている帝塚山学院大学教授をしている山田俊幸氏から、携帯にメールがありました。山田氏は、昨年の春から、一部の授業に、私の『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメディア刊)を教科書として採用してくれていて、その都合で「精読」するため(これ、皮肉ではありません。念のため。)、私の記述の問題点もいくつかの指摘をしてくれました。それらの中で、必要と思われるものは既に当ブログでも、訂正や補足説明として公開してきました。
 彼のおかげで、少しずつ、継続して私の記述が磨かれていくのはうれしいことです。もちろん、私自身も調査を続けていますが、先日彼に指摘されたように、「明治」という時代に息づいていた「国学者たちの一般的教養」に関して、私の素養不足から、配慮が不十分だったと反省しきりです。
 昨年の授業がおもしろかったようで、今春からの授業にも受講希望者がいるとかで、私の本は、またまた「精読」「査読」という光栄に浴するわけです。今年は、更にまた、どのような指摘があることかと、今から覚悟しています。
 さて、その前触れと言うか、さっそく、メールが届いたというわけです。以下、そのまま転載します。

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河竹黙阿弥の人情本『真情春雨衣』に「蝶々とまれや菜の葉へとまれ、菜の葉いやなら芦の先へとまれ」の一節ありと、出久根達郎『漱石を売る』文春文庫181ページ「読書寸刻」にあり。

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 ご覧になって一目瞭然。『小学唱歌集 初編』(明治14年)の「ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ 菜の葉にあいたら 桜にとまれ」の原型でしょう。これは、知りませんでした。私の本での記述は、以下の通りです。

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 明治7年に野村秋足によって歌詞の原型が、愛知県尾張地方のわらべ歌から採集されたが、それは「蝶々とまれ、菜の葉にとまれ。菜の葉がいやなら、この葉にとまれ」という程度のものだったらしい。歌の採集を依頼したのは、黎明期の「唱歌」の推進に大きな役割を果たした文部省の伊沢修二だった

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 これは「定説」なのです。私も随分調べましたが、どの文献にも出ているので「鵜呑み」してしまったのですが、少々疑わしくなりました。野村秋足は国学者、歌人で、伊沢からの依頼で、様々の伝承歌を採集していたことは間違いないようですが、そうした伝承に、さらに元ネタがあったものか、それとも、そうした民間伝承から黙阿弥が発想したものか、あるいは、誰もが似たような発想をしていたという偶然の一致に過ぎないのか、少なくとも、何らかの書き直しが必要だと思っています。山田氏も、「たぶん元ネタは違うところにあるだろうと思っていたが、黙阿弥とは意外だった」と、今しがたの電話のやりとりで言っていました。
 ちなみに、以前、山田氏が指摘していたことですが、「さくら」に収れんさせている「唱歌版の歌詞」に、明治政府の国家意識があるはずだという指摘も、私には大きな刺激になっています。たったひとつの唱歌だけで、様々な思いが巡ってきます。真実を探る旅路は、永遠に続きそうです。


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『ギターと出会った日本人たち』が、再版決定しました。

2011年01月26日 14時00分39秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 昨年末に発売されたばかりの私の近著『ギターと出会った日本人たち――近代日本の西洋音楽受容史』(ヤマハミュージックメディア刊)が、1ヵ月足らずで、小部数ですが再版となりました。うれしいことです。
 既に、様々な方がブログやツイッタ―で関心を示してくださったり、お勧めくださったりしていて、いわゆるクラシック音楽評の文章を書いた時とは全く違う広がりに、「さすがはギターだ」と、改めてギターを愛好する人の層の厚さを実感していたところです。
 「まえがき」や「あとがき」にも書いたと思いますが(当ブログにて既報)、明治から大正、昭和初期の、いわゆる黎明期の日本のギターを取り巻く様々な出来事は、未だにまとまった記述の文献がほとんどなく、断片的な記載を総合して一冊にまとめた、ほとんど唯一の書を書きあげたという自負もありましたが、それと同時に、まだまだ足りない、とも思って、反省していた中での出版社担当者からの連絡でした。
 ご購読くださった多くの読者の皆さまからの、励ましのご発言には感謝しております。石を投げなければ波紋は広がりません。いつまでも調査・研究に明け暮れていてはいけないと思い、思い切って本にして仕舞ってよかったとは思っていますが、あの本は、「黎明期の日本のギター界」研究の、最初の一石に過ぎません。ともかく、私は石を投げ、波紋が広がりました。私自身は、あと5年先になるか10年先になるかわかりませんが、再び、このテーマを掘り下げた書を著わしたいと思っています。まだまだ、私の未知の資料があるはずです。日本のギター史研究は、ほんの入り口に立っているだけなのだと思っています。
 情報、ご意見などありましたら、出版元の「ヤマハミュージックメディア出版部、書籍編集チーム気付」で私宛にお送りください。お待ちしています。



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松濤美術館「大正イマジュリィの世界」展のギャラリー・トークが無事に終わりました。

2011年01月11日 12時22分09秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 昨年11月30日から開催されている展覧会『大正イマジュリィの世界――デザインとイラストレーションのモダーンズ』が好評のようで、関係者の一人としてよろこんでいます。
 先日の1月9日(日)は午後2時から「竹久夢二と大正・昭和初期の楽譜イマジュリィ」と題して、私が「ギャラリー・トーク」を務めました。講演会や、パネル・トークは何度か経験がありますが、もともと美術畑と音楽畑や出版界は、近いようで遠い世界だったので、「ギャラリー・トーク」という美術館の展示物の中を歩き回りながら、解説的なおしゃべりをしていくという形式は初めての経験です。でも、好きな音楽の話ですし、関心のある大正・昭和初期の日本社会のエネルギッシュな進取の気概ある時代のことですので、たのしくおしゃべりをして、無事に終えることができました。

 途中、自作のアレンジでオルゴールを鳴らすのがすっかり趣味になってハマってしまったという編曲者の石川芳(かおる)さんに特別参加していただいて、新作の「兎のダンス」のオルゴール版の披露などもしていただきました。(石川さんは昨年ひょんなことからおつきあいがはじまりましたが、ピアノ譜の編曲でとても見事な作品を作っておられるのを知ったのが最初です。銀座の山野楽器で講座をやっておられました。先日は、リストの有名なピアノ曲『愛の夢』をチェロ演奏に編曲したものを聴かせていただいて、舌を巻いたところです。音の要素の掴みと、その展開に長けた才人だと思っています。)

 聴講者の方には60人ほども集まっていただき、館内をぞろぞろと移動する様は、かなりのものでした。休日に静かに美術館で過ごしたかったという方には、申し訳ないことでしたが、集まった方々が真剣に耳を傾け、メモをとったり、うなづいてくださるのをみていて、思わず力が入って長話になってしまいました。その時のスナップ写真の1枚が、冒頭に掲載したものです。ほんとうは大勢の受講者の方が写っているものもあるのですが、プライバシーの問題もあるはずなので、ブログ公開はやめました。どうも、長年、書籍編集と言う仕事をしていたせいか、差別的表現と、著作権侵害と、プライバシー侵害には過敏になります。バックに映っている展示物はセノオ楽譜の竹久夢二の表紙です。第1会場の中ほどです。

 ピエブックスさんにご協力いただいて一般市販もしている展覧会公式図録も好評のようで、一応、編集者としての責任の一端も、果たせたかと思っています。こんな楽しい機会をあたえてくださった松濤美術館の主任学芸員・瀬尾典昭さんと、企画監修の帝塚山学院大学の山田俊幸教授に、感謝しています。

展覧会は1月23日(日曜日)まで開催されています。但し、1月17日(月曜日)は休館。


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