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サイモン・ラトルが日本でCDデビューした頃

2008年08月26日 18時53分48秒 | クラシック音楽演奏家論
 古いフロッピー・データを整理していたら、懐かしい文章が見つかった。1980年代の終わりころだったと思うが、『レコード芸術』誌の編集部に依頼されて書いたもので、今をときめくベルリン・フィル音楽監督サイモン・ラトルが、日本では、まだ一部の聴き手の間でしか話題になっていない頃の「紹介文」だ。当時私は書籍の編集者としての仕事が中心だったが、私が手がけたヤナーチェクの伝記の書評を依頼するなどで交流のあった「音楽之友社」の編集者からの依頼だった。私が既にラトルを聴いていて、関心があることを知ってのものだった。
 何でも、ラトル指揮のストラヴィンスキー3大バレエの録音を一挙に発売することにした東芝EMIとしては、指揮者の知名度がないので、『レコード芸術』のカラーページ2ページ見開きで、評論家に大々的に取り上げてもらいたい、ということなのだという。今でもはっきりと覚えているが、私が「他に書く人がいるでしょう」と言うと、「いや、まだ誰も論じていないので、評価が定まっていなくて……こういう演奏家について書く人はなかなか居ないんです」と言われた。そう言う時代だったのだ。「僕は編集者で、音楽評論家じゃないよ」とも言ったのだが、それには「ウチの雑誌に書けば、それが、音楽評論家ですよ。気にすることはありません」と言われた。 そう言うわけで、編集者兼、多少の文章書きだった私が、「音楽評論家」と呼ばれるようになってしまった最初の文章が、これである。もう20年ほど昔の話だが、実は、これには後日談がある。
 それから約10年後、今から10年ほど前のことだと思うが、そのころ執筆もしながら編集を進めていた洋泉社のムックへの執筆依頼で、音楽評論の渡辺和彦氏にお会いした時のこと、池袋の居酒屋で対面した彼の第一声が、「お、やっと会えた。日本で最初にラトルについて書いた男に……」だった。そのころ、ラトルは、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルを相手の活躍が取りざたされていた。その後、したたかに、しかし楽しい酒を渡辺氏と飲んだのを、今でも覚えている。彼と初対面の夜が、こうして始まったのは、私にとって、とても幸福なことだったと、今でも思っている。

  というわけで、今から20年ほど前、当時ほとんど存在を知られていなかったサイモン・ラトルを紹介した文章として、お読みいただきたい。私自身は、20年前にラトルに持っていたシンパシーを今でも持ち続けていることを確認したが、同時に、ラトルの真価は、後10年くらい経なければならないか、とも思った。明らかに現在のラトルは「低迷期」だ。この昔の文章が滑稽に見えるかも知れないが、これがラトルの出発点でもあったはずだ。
 20年も前のものなので私としては、かなり生硬な文章が気恥ずかしいが、そのまま掲載することとした。雑誌ではタイトルは編集部が勝手に付けて掲載したが、私としては以下のようにしたかった。また、今、すぐに取り出せないので、当時の掲載誌と見比べていないが、もし掲載誌とで異同があれば、こちらがもちろんオリジナルである。

■新星ラトル! 我らの時代の「春の祭典」で日本に本格デビュー!
 サイモン・ラトルによるストラヴィンスキー三大バレエ曲のCDが、一挙に発売される。私は、昨年『ペトルーシュカ/三楽章の交響曲』を外盤で入手して以来、その、みずみずしい軽快な音楽の運びから、ラトルの才能の可能性に大きな期待を抱いていた。そして、それに続く『火の鳥/他』、今回この稿を書くにあたって初めて聴いた『春の祭典』/ミューズを導くアポロ』と、次々にストラヴィンスキー演奏のスタイルを塗りかえてゆくラトルの“我々の時代”へのメッセージに、改めて、これまでのレコード史のなかで着実に変容してきたストラヴィンスキーが、ひとつの安定期に踏み込んだ、という感慨を持った。
 では、この“現代”を体現する一九五五年生まれのサイモン・ラトルの到達点とは何なのか? 『春の祭典』のこれまでを振り返ってみよう。
  『春祭』のレコーディングは、戦前から作曲者自身や初演者モントゥーのものがあったが、彼らは当時のオーケストラの演奏技術の限界と戦いながら、とにかく細部をよく鳴らそうとしていた。この傾向は、ステレオ初期の彼らの最後のレコーディングまで変わらない。「正統を伝える」という宿命を背負った彼らのていねいな演奏は、しかし、音楽がどこか萎縮していた。
 一方、この曲の野獣性を表現したと称賛されたマルケヴィッチ~フィルハーモニア盤や、ドラティ~ミネアポリス盤などは、一気に押し切るような推進力や躍動感、あるいは荒々しさを強調したために、細部が犠牲にされてしまった。 モントゥーの遺産は、自作自演と同様に、デフォルメされたこの曲の演奏の氾濫の中で、奥深くに書き込まれたさまざまな音の存在に気付かせてくれたということに意味があるのだが、ていねいさと躍動感との間にあるこの矛盾を乗り越えることはできなかった。
 よく言われるように、『春祭』の演奏は、ブレーズ~フランス国立放送管盤の登場を待たねばならなかった。実に、初演から五十年後のことだ。ブレーズは、音楽の生命感・躍動感を確保しながら、細部の音をしっかり聴かせることに成功した。だが、その生命感の底流にあるのは、この革命的音楽の革新的演奏を、今まさに行っているのだという“前衛”としての気負いではなかったろうか。事実、ブレーズの演奏が認知され、常識となった後、一九六九年に再録音したクリーブランド管盤では、『春祭』は古典としての“安定”を得、いちいち注釈される小うるささとでもいうような、単なる説明演奏になり、ブレーズの、演奏家としての音楽性の貧しさを露呈してしまった。
 七二年になると、M・T・トーマス~ボストン響盤という、のりのよい演奏が登場し、この曲が、かつて、これほど軽快に「走った」ことがあっただろうか、と驚嘆されたものである。そして七四年、マゼール~ウィーン・フィル盤。ここでは、きわめて陰影のきめ細かな表情づけを行いながら、流麗で音楽性の豊かな演奏、よく響き、淀みのない音楽が実現されている。
 そして、遂に“我らの時代”のラトルの登場である。T・トーマスが、存分に乗って楽しみ、マゼールがオケを乗せて走らせることに成功したとするならば、ラトルは、オケと共に楽しんで語り合うことに成功した、と言えるだろう。吹き鳴らし、弾き鳴らすことをこの曲で可能にしたラトルの『春祭』のすばらしさを、ことばで表現するのはむずかしい。
 だが、例えば、落ち着いたテンポ感で一音ずつ確かめるように進行する「大地の目覚め」の中ほど、金管が伸びやかに鳴り木管が答える牧歌的な美しさと、ここで一呼吸置くすばらしさ! 徐々に音量を増しては行くが、リズムを刻む音の輪郭を一つ一つ大切にし、そこにからまってゆく音の咆哮を、定位感のある散りばめ方で、手短にはさみ込んでゆくコントロールの見事さ。このことで、全体に色彩感の豊かな流動感、疾走感が生まれてゆく……。実に走りのよい音楽だ。もちろん、それだけではない。「春のロンド」では、音の伸び縮みが自在で、気分を酔わせる表情の豊かさが特筆に価する。
 総じて、刻む音と揺れる音の描き分けが見事で、それらの音を、ラトル自身が楽しんで聴き、対話をしている、とでもいった趣きだろうか。『春祭』は一九一三年の初演後、七十年余を経て、ようやく“同時代的呪縛”から逃れ出て“語り合える仲”になったのだ。
 演奏という再現芸術が自立するのには、いつでもそれだけの年月が必要だということを、私は、ラトルの一連のストラヴィンスキーで、再認識した思いである。ちょうど、フルトヴェングラーの死の五年後にベルリンフィルを振って、マゼールがブラームスの第三交響曲でロマン派の耽溺を払拭した演奏をDGに録音したように、それは、常に、作曲者の時代と距離を置ける世代の登場まで待たねばならないということなのだ。サティのサイレンやピストルの音さえ混じえた前衛的実験作『パラード』の演奏が、ロザンタールの挑発的でギクシャクした演奏から、オーリアコンブの流麗な角のとれた演奏へと変化したことを、物足りないと一蹴せずに、積極的に評価するのも、このためなのだ。
 作曲者直伝、あるいは同時代人の演奏の価値と、後の時代の後の感性による(おそらく、作曲者が納得いかない、あるいは、自作の新たな側面に驚嘆するような)演奏とが等価になるのは、このような時なのだ。ストラヴィンスキーの演奏も、サイモン・ラトルによって、新しい時代の幕が上がったと言えるだろう。
 ところで、ラトルは、デビュー当時(一九七七年)、弱冠二十二歳で既に、英ASVに『春祭』をレコーディングしている。オケはイギリスのナショナル・ユース管弦楽団で、二十二歳の新進指揮者が青年オーケストラを振るという、記念碑的レコードである。 その後ラトルは、ヤナーチェク『シンフォニエッタ』、クルト・ワイル『七つの大罪』、シェーンベルク『ピエロ・リュネール』、ストラヴィンスキー『プルチネルラ』や、マーラー『十番』、シベリウス『五番』など、それぞれ“時代の宿命”を一身に背負っている音楽を、その重荷から解き放つ斬新な演奏を展開してきた。ラトルは、それらの曲に対する人々の期待(先入観)に頓着せず、純粋にそれぞれの音楽がもつ本質的な美を裸にして見せてきた。
 ラトルの音楽は、リズム感も素晴らしく、メリハリのきいたダイナミックなものだが、それが「グイグイと迫ってくる」重々しいものではなく、「すいすいと駆け抜けてゆく」爽快感となっているところに、彼の“現代人”としての本領がある。それは居心地のよいビート感とでもいうようなもので、旋律がその上をさらさらと流れてゆく様は、「ムキになるのはダサイんだよ」と、オジさんたちに言っているかのような小気味よさだった。 『春祭』以外の曲目に触れる余裕がなくなってしまった。だが、基本的にはいずれも同じで、三枚ともストラヴィンスキー演奏の今後を語る上で、無視できないものだということだ。特に、『ペトルーシュカ』での打楽器としてのピアノを、これほどまでにオケの音の中に溶け込ませて効果的に用いた演奏の鮮やかさや、『ミューズを導くアポロ』の均整のとれた響きのよさなど、特筆に価する。
 そして、一連のストラヴィンスキーに対する、非常にバランスのよいラトルのアプローチを聴くと、『プルチネルラ』以後のストラヴィンスキーの立場=「新古典主義」的なものが、半世紀を経て、演奏スタイルの分野で、革新的な形で花開き始めたのかもしれない、とさえ思えてくるのだ。

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こんな時代だからこそ、トーマス・ビーチャム!

2008年08月21日 11時53分52秒 | 「指揮者120人のコレを聴け!」より

以下は、1998年発行の『指揮者120人のコレを聴け!』(洋泉社ムック/絶版)からの転載です。私自身が気に入っている文章のひとつです。久しぶりに読み直してみましたが、最近、特に増えているように思う邪念にあふれた目立ちたがりの、受けねらい演奏にうんざりしたときには、ビーチャムの音楽はとても居心地がいいです。こうした率直な音楽の持っている愉悦感は、不滅なのだろうと思います。まだビーチャムをお聴きになっていない方は、ぜひ!

■「トーマス・ビーチャム」 SIR THOMAS BEECHAM (1879~1961)
  大富豪の家に生まれたビーチャムは、その持っていた財力をすべて、大好きだった音楽に注ぎ込むことのできた幸福な人だった。彼は自身の財産を投じてオーケストラや合唱団、歌劇組織を創設したが、それが、現在でも活動を続けているロンドン・フィルやロイヤル・フィル、ナショナル・オペラだ。
 音楽を正式に学んだことは一度としてなく、全て独学だったが、それでいて、指揮者として楽員に心底尊敬され、どちらのオーケストラもイギリス屈指のオーケストラに育て上げた。ただのお坊っちゃまが、趣味で音楽家を集めて、指揮者の真似事をして得意がったというのとは違う。天性の音楽家が、たまたま大金持の家に生まれ、好きなだけ使えたお金を「正しく」使ったということだ。こうした例は、めったにないことだろう。
 ビーチャムが20歳頃のこと。アマチュアのオーケストラを結成して間もなく、父親が主催したハレ管弦楽団のコンサートに指揮者として予定されていたハンス・リヒターが急病となり、代役として振ったのがデビューだと言われている。以来、半世紀以上にわたって活動を続け、彼の「財力と指揮活動」によって、イギリスに紹介された作品も数多い。イギリスの音楽文化の向上に多大な功績のあった人だ。
 ビーチャムが並はずれた才能を持った指揮者だったということは、彼が愛して止まなかったモーツァルトを晩年の58年に録音した《ジュピター》を聴いてもわかる。オーケストラは戦後に彼が創設したロイヤル・フィル。ビーチャム好みの壮麗で堂々とした響きで、伸び伸びとした音楽を満喫できる。第3楽章など、ゆったりしたテンポだが、決して弛緩しない。終楽章の見通しのよい構成感に支えられた音楽の躍動、推進力は、ビーチャムの音楽が誰からの借り物でもなく、彼自身の内から湧き起こるものであったことを示している。趣味の域を大きく踏み出した、偉大な趣味人だった。
 同じ時期のビーチャムのモーツァルト録音に、『クラリネット協奏曲K622』もある。これは、ビーチャムの懇請で呼ばれたイギリスにおけるクラリネットの名手、ジャック・ブライマーとロイヤル・フィルによる演奏。かなり遅いテンポで開始されるが、このテンポ以外には考えられないといった自然な説得力が、たちどころにあたりにたちこめる。第1楽章の終わり近く、主題が還ってくる直前の大きなリタルダンドと、そのあとのゆったりとした主題の立上がりの美しさは、正に絶品だ。第2楽章の深い呼吸には、音楽の至福の瞬間が刻まれている。第3楽章の声高にならずに綾なす音楽にいたるまで、おそらくビーチャムの音楽観でまとめられた録音だろうと思われる。ブライマーには、この後にサージェント、C・デイヴィス、マリナーと、3種も録音があるが、ビーチャム盤のテンポ、フレージングとはまったく別人のようだ。
 だが、この演奏が、58~59年という時期に行われていることが、私には興味深い。時代が大きく変わりつつあったなかで、この演奏の世界だけが、タイム・カプセルに保存されていた理想郷のような安らぎを持っている。
 誤解を恐れずに言えば、ビーチャムが「現役の」プロ指揮者ではなかったということが、この特別なモーツァルト空間を生んだと言えるのではないだろうか? 彼には、職業指揮者として絶えず新たな問題意識を披露して、人気と支持を受け続ける必要などなかったし、戦後の価値観の大転換に対しても無縁だった。ビーチャムは自分が大切に育ててきた自分の庭の果実を味わえば、それだけでよかった、ということだ。
 彼が「偉大な趣味人」だったというのは、そういうことなのだ。もう二度と、こうした幸福な音楽は生まれないだろう。こうした人を生み出すには、富の偏在と、巨万の富を使いこなせる深い教養が必要だが、今はそうしたことが可能な時代ではなくなってしまった。富の偏在を解消した民主主義が、芸術の誕生に与えた影響は大きい。
 ビーチャムは音楽を仕掛けで聴かせる人ではないから、彼の録音は基本的にはどれもみな居心地のよい秀演だが、ベートーヴェンの劇音楽《アテネの廃墟》抜粋は、ビーチャム協会合唱団の加わった合唱曲も含むもので、体温の感じられるビーチャムらしい演奏だ。
 56年にニューヨークに渡り、メトロポリタン歌劇場のメンバーたちと録音したプッチーニ《ラ・ボエーム》全曲は、イギリスでのオペラの普及に熱心だったビーチャム渾身の録音だ。
 フランス国立放送管とも相性がよかったが、中でもビゼー『交響曲』は、老いても青年のような輝きを持っていた人だったことがわかる。

【ビーチャムを聴く3枚】
●モーツァルト:クラリネット協奏曲イ長調 K.622/ロイヤルpo., ジャック・ブライマー(cl)
[To-EMIエンジェル:TOCE6805(廃盤)]1958,59年録音
●ベートーヴェン:劇音楽《アテネの廃虚》抜粋、交響曲第7番イ長調/ロイヤルpo.、ビーチャム協会cho.
[英EMI:CDM7-69871-2]1957~59年録音
●プッチーニ:歌劇《ラ・ボエーム》/RCAビクターo.,cho、ピョルリンク(te)、ロスアンヘレス(sp)、メリル(br)他
[To-EMIクラシックス:TOCE9139~40]1956年録音

 

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ストコフスキーとは?

2008年08月18日 14時12分39秒 | 「指揮者120人のコレを聴け!」より

以下は、『指揮者120人のコレを聴け!』(1998年発行・洋泉社ムック/絶版)に掲載したものの再録です。今から10年ほど前のCD発売状況下で書いていますが、ストコフスキーのどこが偉大なのかについての私の考えは変わっていません。文中の最晩年のブラームス「交響曲第4番」の録音については、別の文章で、「ストコフスキーが指揮するブラームスの交響曲など、聴く気もしない」などと聴きもしないで理不尽なことを書いた新譜月評担当者を批判したので、一時期、そのことばかりが話題になって困ったことがありましたが、そうした雑音は忘れてください。以下の文章は、コンパクトながら、ストコフスキーをトータルで考え直そうと試みた私の試作です。

■「レオポルド・ストコフスキー」 Leopold Stokowsuki (1882~1977)

●国籍:
 イギリス⇒アメリカ

●略歴:
 1882年に、ポーランド人を父、アイルランド人を母に、ロンドンで生まれた。オックスフォード・キングズ・カレッジを経て、ロンドン王立音楽院で学ぶ。22歳でアメリカにわたり、わずか29歳でフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者の座を射止め、以来アメリカ楽壇の寵児となった。晩年1972年にイギリスに戻り、74年、92歳を超えるまで指揮活動を続けたが、77年に世を去った。

●キーワード
 アメリカン・ドリーム
 サクセス・ストーリー的大出世
 機械文明とロシア的憂愁の同居

●特記事項
 本来は音楽の純度とデフォルメ度は反比例するというのが私の持論。双方が矛盾し合わない稀有な指揮者だ。

(本文)
 ストコフスキーは、戦前からのクラシック音楽ファンならこの名前を知らない人はいないというほどの大衆的人気指揮者だった。ベストセラーになったレコードは数多くあり、満90歳を越えてまだ現役だった彼は、レコード史上、最も長く人気を保持していた指揮者だった。
 しかし、そうした外見の華麗さの陰で、多くの若い演奏家や作曲家の登場の機会を作っていたことでも知られている。ストコフスキーの進取の気概によって正当に評価された作品や演奏家は意外に多い。ただの初演魔やめずらしもの好きではないのだ。
 ストコフスキーは、1950年代の後半に、長年にわたり契約していたRCAを離れ、EMI系のキャピトル・レコードと契約した。このときかなり意欲的なラインナップも要求しており、その中に、ショスタコーヴィッチの交響曲第11番が含まれている。この作品は、アメリカ初演がこのストコフスキー/ヒューストン響で1958年4月7日に行なわれ、その直後に録音されたこの曲の西側での普及に貢献した名演盤だ。絵画的な遠近感の表現や色彩感にあふれたリズムの処理、第3楽章での旋律の歌わせ方など、ストコフスキーの初演作品に対する音楽的判断の的確さ、語り口のうまさが感じられる。
 ストコフスキーは、このほか米ヴァンガード、米エベレスト、米CBSなどそれぞれに、次々といわゆる売りやすい曲と売りにくい曲とをバランスよく配分して録音を行ない、また、英デッカ/ロンドン、英パイ、英CBSなどにも精力的に録音を行なう。世界はステレオ録音の全盛時代となっていた。
 米、英を往復していたストコフスキーが正式にイギリスに戻ったのは1972年のことだった。74年を最後に引退するが、その最後の公開演奏会のライヴ録音は、BBCラジオ・クラシックスでCD化された。ブラームスの交響曲第4番をメインとしたプログラムで、これは数ヵ月後、彼の最後の録音曲目にも選ばれた。そのラストレコーディングは、当時最先端だったビクターのディスクリート4チャンネル録音で行なわれ、「SPから4チャンネルまでを体験したただ一人の指揮者」として話題になったものだ。
 録音による音楽の普及にも人一倍熱心だったストコフスキーは、もうあと少し長生きして百歳まで現役だったならば、デジタル録音まで体験できたということになる。音楽の普及に長い生涯を捧げた人らしい最後だった。
 ところでストコフスキーの指揮するディズニーの《ファンタジア》は1940年代にサウンドトラックで録音されたステレオ録音のはしりだが、それより10年以上前の1931年に、当時実験的に行なわれた世界初のステレオ録音で数曲録音しているのもストコフスキー指揮フィラデルフィア管だ。人類の夢だったハイファイ・ステレオ録音に世界で最初に参加したのがストコフスキーだったというのも、彼の気概を示している。かなり前に一度だけ関係者頒布の形でアメリカでLP化されたものを最近入手したので聴いてみたが、これは実に見事なステレオ録音だ。選ばれた曲目のひとつが《展覧会の絵》の抜粋。ステレオ効果を発揮する選曲だが、後に録音のあるストコフスキーの編曲版ではなく、有名なラヴェル版を使用している。
 ストコフスキーは、いくつかの曲で独自の解釈による強調や改作をかなり行なったので、そのことを指して非難する人もいるが、それぞれの音楽の「魅力の源泉」に忠実とも言える見識が、そうした原曲の改作でも不思議な説得力を持っている。堂々と自身の編曲であることをうたった《展覧会の絵》は、そうしたストコフスキーの個性が前面に出ている例だ。ラヴェルがラテン的な明るい響きに変容させたこの曲を、ずっと暗い、いわゆるロシア的憂愁に引き寄せた編曲は、リムスキー=コルサコフ的な近代性よりもずっとロシア的な重量感がある。
 そうした視点で、R=コルサコフ版が有名な《禿山の一夜》も、ストコフスキー版(66年録音)で聴いてみるとおもしろい。確かに派手な編曲だが、必ずしも、アメリカンナイズされたスペクタキュラーの一言で片付けられない。後半は弦楽を中心に独特の泣き節だ。ボロディンの《ダッタン人の踊り》(69年録音/グラズノフ版)も漂う雰囲気がいい。そういえば、アンナ・モッフォを独唱に迎えたラフマニノフの《ヴォカリーズ》も不思議な魅力を湛えた演奏だった。20世紀という、機械文明の急成長時代、文化の大衆消費時代を生き抜いた音楽の使徒ストコフスキーにとって、遠い故郷はロシアの大地だったのかも知れない。

【ストコフスキーを聴く3枚】
●ショスタコーヴィッチ:交響曲第11番ト短調《1905年》/ヒューストンso.
  [米EMI-CAPITOL:CDM5-65206-2]1958年録音
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調/ニュー・フィルハーモニアo.
  [Cr-BBC RADIOクラシックス:CRCB6017]1974.年5月4日ライヴ録音
●ムソルグスキー~ストコフスキー:交響詩《はげ山の一夜》、ボロディン~グラズノフ《だったん人の踊り》他/ロンドンso. ロイヤルpo. ウェルッシュ・ナショナル・オペラ合唱団
 [Po-ロンドン:POCL9881]1966年, 1969年録音

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ケネディのヴィヴァルディ/ラトル~ベルリンの「春祭」/伊福部昭作品集/フィルクスニーの新譜

2008年08月13日 12時14分10秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

(詩誌『孔雀船』2005年1月発行号に掲載した、当時の新譜CD雑感を転載します。1ヵ月ほど前の当ブログ初日から、時々、この詩誌に掲載した新譜CD雑感を遡りながら転載して来て、3年半前に執筆したものにたどり着きました。もう既に店頭であまり見かけなくなったり、オークションサイトで売りに出されているCDもあるようです。ほんとにこのごろのCDは、命が短くて困ります。)

■ナイジェル・ケネディの新しいヴィヴァルディに脱帽!
 ロック・ミュージシャンのような格好で、聴衆が正装で集まっているクラシック音楽の リサイタルに登場して見せたり、何かと〈奇行〉でも話題となったナイジェル・ケネディ だが、彼が天才ヴァイオリニストであることは間違いない。そのケネディの健在ぶりを証明する新しいCDの登場である。
 ケネディの行動は、二十年以上前から、ある一点を見据えていた。西洋クラシック音楽がすっかり形骸化してしまっていること、そして、このままでは消滅する運命にあることに、警告を発していた音楽家のひとりだった。それを、行動でも示し続けていたということなのだ。今度のCDは、リヴァプール育ちのアフロヘアの青年指揮者、サイモン・ラトルが音楽監督に就任してしまった名門、ベルリン・フィルのメンバーとともに録音された「ヴィヴァルディの合奏協奏曲集」である。パッケージには「もしあなたがヴィヴァルディの《四季》が好きなら、これも好きになる」と英文で記されている。
 ここに聴かれる音楽は、瞬間芸的にヴィヴァルディの旋律が噛みつきそうに迫ってくるもので、かしこまったクラシック音楽など、どこにもない。正に、現代に蘇った、生まれたばかりのような新鮮さで迫る音楽のほとばしりだ。EMIの輸入盤でのみ発売。

■ラトル=ベルリン・フィルの《春の祭典》がサントラ盤で
 これは、前述のサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルによる二〇世紀音楽の傑作、ストラヴィンスキー作曲《春の祭典》を収めたCDである。映画『RHYTHM IS IT!』(邦題『ベルリン・フィルと子どもたち』)のサントラ盤として、ベルリン・フィルの制作で発 売されたもの。《春の祭典》は全曲が収録されている。
 ベルリン・フィルは、ラトルが振るようになって、古楽奏法をみっちり練習させられた り、ジャズのリズムを一から叩き込まれたりと、カラヤン時代とは打って変わって、大きく変貌を遂げつつあるが、このCDも、その成果のひとつと言えるだろう。
 ラトルは、二〇歳の頃のデビュー期に、イギリスの学生オーケストラを振って同曲を録音し、三〇歳前に音楽監督に就任したバーミンガム市交響楽団と衝撃的な録音を発表しているが、このベルリン・フィルとの録音も、その延長上にある。研ぎ澄まされた響きが細部までよく透けて聞こえ、リズム要素が美しい抒情的な旋律の断片に融け合っていることが手に取るように聞こえてくる熟れた演奏だ。第二部が特にすばらしい。この自在さは、前衛が古典になった証だ。
 このCDには、冒頭にラトル自身のスピーチが収録されており、そのほか、ラトル以外の演奏家による音楽も収められている。

■「ゴジラ」の音楽も聴ける伊福部昭の作品集
 日本の作曲界の重鎮であった伊福部昭の管弦楽作品を集めたCDが廉価盤のナクソスから発売された。曲目は、アイヌの踊りに触発されたという『シンフォニア・タプカーラ』と、『ピアノとオーケストラのための《リトミカ・オスティナータ》』、そして、『ゴジ ラ』映画の作曲者としても名高い伊福部が、そうした映画音楽のエッセンスをまとめた『SF交響ファンタジー第一番』の三曲。ストラヴィンスキーの《春の祭典》も変拍子だが 、ゴジラの音楽の変拍子も、印象に残っている。『SF交響ファンタジー第一番』でも、そのゴジラのメインテーマが堂々と響きわたる。
 演奏はドミトリ・ヤプロンスキー指揮ロシア・フィルハーモニーによるもの。野太い響 きが大地を揺るがすようで、この土俗性には東洋の音楽に対する共感が溢れている。エカテリーナ・サランツェヴァというピアニストを独奏者に迎えた『リトミカ・オスティナータ』や、『シンフォニア・タプカーラ』も同種の演奏で、勢いに任せた観のある少々乱暴な演奏ではあるが、音楽の芯がしっかりした、ひた押しの演奏なので、曲を知るうえでは遜色がないだろう。片山杜秀氏による詳細な日本語解説も付いており、これで、一〇〇〇円もしない廉価盤というのは凄い。これに限らず、ナクソスの日本の作曲家シリーズは、一聴をお勧めする。

■フィルクスニー、久々の新譜が登場!
 私の敬愛するピアニスト、ルドルフ・フィルクスニーは、晩年にはBMGにいくつかの 録音をおこなったが、一時期、録音が少ないまま忘れられかけていた。日本の代表的な録音エンジニアのひとり菅野沖彦氏の熱心な働きかけで来日し、LPレコード四枚、そしてさらに、その数年後、デジタル時代の最初期に二枚のCDを残すことができた。これらは、私の知る限り、未だに廃盤のままで、菅野氏の偉業も、神話化されつつあるようだ。
 今回、ドイツ・オルフェオから一九五七年の「ザルツブルク音楽祭」のライヴ録音が発売されたのはうれしいことだ。曲目は、ショパン『ソナタ・作品五八』、ヤナーチェク『ソナタ第一番』、ムソルグスキー『展覧会の絵』全曲である。いずれも、既に正規録音が残されている曲目だが、ライヴの空気を伝える演奏でもなお、このピアニストの繊細な音楽の匂いが、少しも変わることなく漂っていることがわかる。かつて私は自分の著書のなかでフィルクスニーのことを、「聴く者に、一見静かに動かぬ水面の、かすかなさざ波に気付かせるような、そして、一度それに気付いた者の心を、限りなく浄化してゆく、そう いうピアニストだった」と表現した。鎮まりかえったザルツブルクの会場からも、そのことが伝わってくる録音だ。独オルフェオ輸入盤。

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ラトルのブリテン『イリュミナシオン』/ヘンツェ『ナターシャ~』/五嶋龍デビュー/デュメイ復活!

2008年08月09日 08時20分39秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)
(以下は、詩誌『孔雀船』2006年1月発行号に掲載した、当時の新譜CD雑感です。)

■ランボーの詩による音楽でラトル~ベルリン・フィルが快演!
 アルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』から8篇を選び、二〇世紀を代表する作曲家ベンジャミン・ブリテンによって弦楽オーケストラ伴奏付きの歌曲集『イリュミナシオン』作品18という傑作に生まれ変った音楽の、これは正に空前絶後といってよい快演だ。この作品の録音には、ブリテン自身の指揮、ピーター・ピアースの歌唱による英デッカ録音があった。CD時代には、ジェーン・グラヴァー指揮でアンソニー・ロルフ=ジョンソンの歌唱による、こまやかな神経の行き届いた演奏もある。しかし、今度のイアン・ポストリッジのテノールとのラトル/ベルリン・フィル盤の豊かなイマジネーションの発露には、心底、驚嘆した。この曲の内奥に横たわる混沌とした感情と、そこから突き上げ、ほとばしる情念の爆発との大きな落差を、これほどまでに表現し得た演奏は、他に知らない。ランボーの『イリュミナシオン』は、詩人のロンドン滞在の産物だが、それを、ポストリッジは「あまりよくは知らない英語の構造を通して語句を屈折させようとしているフランス語」と評している。ブリテンは、ランボーのフランス語にそのまま曲を付けているが、それについても、ポストリッジは「ブリテンのフランス語の用法は、ある種劇場的な、仮面の役割を果している。」と述べている。東芝EMIから邦訳付き国内盤が発売中。

■詩を愛する人にお勧めの貴重盤が限定発売
 このところ、CD小売りの大型店「タワーレコード」は、クラシック音楽の廃盤希少録音の復刻CD発売に熱心に取り組んでいる。この《タワーレコード・ヴィンテージ・コレクション》というシリーズもそのひとつ。去る10月5日に全10点が限定発売された。ドイツの現代作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェによる『ナターシャ・ウンゲホイエルの家へのけわしい道のり』という作品もその内の1枚。もっとも、一九七一年録音にもかかわらず、これまで日本ではLPレコードすら未発売だったので、このCDが、日本盤では初登場となる。私自身も、この作品は、もう随分と昔に友人宅で、当時はかなり貴重だった輸入盤で聴かせてもらったきりだったので、今回のCDを、慌てて購入した次第。パーカッションでは日本が生んだ天才、ツトム・ヤマシタがとんでもない妙技を聴かせてくれる、バリトンとピアノ四重奏、ブラス五重奏、フリー・ジャズ・アンサンブルまで加わった作品だ。《詩の朗読と音楽の集い》に迷い込んだような気分になるCDで、形式的にはシェーベルクの『月に憑かれたピエロ』を先行作とする作品と評されているヘンツェの代表作のひとつ。確かにシェーンベルク世界との近似は感じられるが、ずっとカラフルな響きでロマン派音楽の感動のさせ方が戯画化され、豊かなイマジネーションが横溢する作品だ。

■五嶋龍のデビューに、ひとまずは注目!
 御存知の方も多いと思うが、フジテレビ系列で、毎年、秋に、一年に一度というペースで『五嶋龍のオデッセイ』という番組が放映されていた。「……ていた」と書いたのは、二〇〇五年の第一〇回で、五嶋龍という少年の十年にわたる成長の記録は、ひとまず完結したからだ。そして、このCDがデビューとなった。私は十年前からこの番組を見続けてきた。それは、「五嶋龍」という小学校に入学したての少年が、姉であり天才ヴァイオリニストと称賛されている五嶋みどりの弟として、幼いながらもヴァイオリンの練習に励み、そのかたわら、柔道をも学び、柔道家となるか、ヴァイオリニストの道を歩むかで悩んだりする姿、人前で初めて演奏し、拍手喝采を浴びて照れくさそうに、しかしその反面、得意満面でもある子供らしい笑顔を見せたり、と、ひとりの人間の成長記録として、なかなか秀逸な番組だった。「ねーさんは、ねーさん、ぼくは、ぼく」と言っていた五嶋龍は、結局、こうして独自の選択としてヴァイオリニストの道へと踏みだした。彼の音楽には、よく言われるような〈神童〉の危うさがない。堂々と野太く、エロチックでさえある響き。純で奔放で、それでいて優しい歌。無伴奏のエルンスト『夏の名残のバラ』では、音楽の背後にある〈静謐〉をも感じさせる緊張が溢れている。これからが楽しみだ。

■デュメイの絶頂期の名盤がCDで復活
 もはや、大家としての名声が確立しているヴァイオリニストのひとりが、オーギュスタン・デュメイだ。これは、そのデュメイの絶頂期の録音と言っていいだろう。ヴァイオリニストは、ある時期、ほんとうに文字どおり〈バリバリ弾く〉という人が多い。デュメイもそのひとりだった。私は、最近のデュメイを聴いていないが、数年前の来日では、ちょっと物足りなかったという印象が残っている。こういうタイプのヴァイオリニストは、晩年にはどんな演奏をするようになるのだろう、と、余計なことまで考えてしまった。晩年のバイオリニストとして私がイメージするのは、メニューインとシゲティ。晩年に至っても変らないので度胆を抜かれたのがミルシティンだ。話が横道にそれてしまったが、この録音でのデュメイのように、こんなに艶があって伸びやかなヴァイオリンは、そうめったにきくことができない。音楽がひらひらと舞い降りてくる。私がこのヴァイオリニストに夢中になったのは、この時期、一九八〇年代の終わり頃のことだ。今回復活したのは一九八八年録音のメンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』と、八九年録音のラロ『スペイン交響曲』の二曲。(メンデルスゾーンとのカップリングだったチャイコフスキーの協奏曲が一番のお勧めだが)。新星堂、山野楽器、タワーレコード共同の復刻盤シリーズで発売。

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リパッティの「ショパン/ワルツ集」録音年、ねつ造説

2008年08月07日 10時47分28秒 | クラシック音楽演奏家論
以下は、『クラシック名盤・裏名盤ガイド』(洋泉社ムック・1996年発行)に掲載した文章に訂正・加筆を行ったものです。発表当時、同書のレイアウト上の文字数制限から、少々舌足らずになっていたこともあって、何人かの方が誤解なさって引用しているのを見かけ、筆者としては責任を感じていたものです。相変わらず、ややこしい話ではありますので申し訳ありませんが、ゆっくりとお読みいただければ幸いです。

■リパッティの「ショパン/ワルツ集」録音年、ねつ造説
 リパッティのショパン「ワルツ集(全14曲)」のスタジオ録音は、日本で初めてLPレコードが発売された時には、現在市場に出ているCDの表記と同様に、1950年ジュネーブでの録音、とされていた。日本コロムビアからの発売で、レコード番号はWL-5056。1953年(昭和28年)3月新譜で、この時期はまだ、東芝はレコードの発売を開始していない。
 リパッティは1947年9月にロンドンのアビーロードスタジオで同曲を録音しているが、仕上りにリパッティが納得せず、日を改めて録音し直すとした。しかし、同スタジオでの再録音の機会がないまま、結局1950年、死の数ヵ月前の7月にジュネーブで録音したこのテイクがOKされたと書かれていた。この録音のためにEMIのプロデューサー、ウォルター・レッグは最新の録音機材をジュネーブに空輸し、リパッティは当時の新薬コーチゾンの助けを借り、医師の立ち合いのもとで演奏し、やっとの思いで録音されたという感動的なエピソードも、その時に広く喧伝された。まだ1枚1枚のレコードに、日付、場所などを細かく記載する習慣がレコード界になかったころのことである。こうしたエピソードによって、1950年7月ジュネーブ録音、と理解するように書かれていた。この解説内容はその後、発売会社が東芝に移行しても継承されていた。
 ところが1970年代、レコード界は、録音データを可能な限り詳細に記載するようになっていた。リパッティのレコードも例外ではなく、東芝から一気に再発売LPが出ると、小品集でさえ1曲ごとにデータが記載されるようになった。以降、日本では20年近く、スタジオ録音の「ワルツ全14曲」は「1947年9月ロンドン録音」と記載され続け、それは1990年代に国内でリマスタリングされたCDが発売された時にも引き継がれた。
 ただ、不思議なことに、1987年に英EMIのマスターから発売された国内初CD時だけ、英盤と同じ「50年7月ジュネーブ録音」との記載とともに、例の感動的エピソードを紹介するジェレミー・シープマンの英文解説が翻訳掲載されている。だが結局、その数年後、1990年代になってから、国内でリマスタリングされたCDが発売されて70年代LP期の「1947年ロンドン録音」との表記・解説に逆戻りしたため、90年代は、まったくの同一音源が、国内盤CD(東芝)の「47年ロンドン録音」表記と、輸入盤CD(英EMI)の「50年7月ジュネーブ録音」表記とで相違が生じたまま、しばらく放置されていた。だが、やがて輸入盤の表記と一致するように改められ、過去の「1947年ロンドン録音」という記載は、誤記だったということになってしまった。
 しかし、私は、「1947年ロンドン録音」という表記こそが、期せずして表面化してしまった真実なのではないかと思っている。以下は全て私の推測である。
                *
 初出レコード時からウソをついていたのはプロデューサーのレッグだったのだろう。彼は1947年ロンドン録音の原盤を、破棄せずに保存していた。そして完璧主義者のリパッティ自身には不満であっても、無理をした1950年ジュネーブ録音の演奏の出来よりは、はるかに良いと判断した。ところが、本人がOKしなかったテイクなので、未亡人の発売許可が得られる見通しがない。そこで、この希代の名プロデューサーは、リパッティの名演を全世界のファンに聴かせるため、あの世まで秘密を抱えてゆく覚悟で、1947年録音のテイクを1950年のテイクだと偽って発売した。それが、遠く離れた日本に、何故か正しい録音データのままのサブマスターが後年届いて、日本でだけ正しく表記されていた……というのが、私の想像である。
 レコード会社の制作担当者は一般的に、データや文献に関して、出版社の編集者や校正者ほどには神経質ではない。これは私の経験でのことだが、しばしば、そう信じさせる出来事が起きている。だから、目の前の録音データを、特に疑わずにそのまま掲載するのが普通だし、いちいち他の文献などとの整合性など確認しない。初めてのCD用のマスターが届けば、今度はそこに添えられている「CDで甦ったリパッティ」という英文解説を翻訳掲載し、そこに添付されている録音データをそのまま掲載するのもまた、極めて自然なことだ。
 だが、ミステリーはさらに続く。
 では、1950年のジュネーブでの録音はどこへ消えたのか? これは、例の有名なライヴ盤「ブザンソン告別コンサート」に収録された「ワルツ集」のスイス盤LP(EMI系の正規盤)で、「ワルツ第2番」だけが、まず現われた。力尽きて最後まで弾けなかったライヴでのワルツ全曲演奏の、最後の曲目である「第2番」を加えて「ワルツ全14曲」として、スイスでは「ブザンソン告別コンサート」のLPが発売されたのだ。イギリスでもアメリカでも日本でも、「ブザンソン告別コンサート」の方ではワルツを13曲しか収録していないのに、である。
 この「ワルツ第2番」は結局新発見の別テイクとして追認され、国内盤LPでも「50年ジュネーブ録音」と表記され、その他のいくつかの曲とともに「小品集」に収録された。(2008年現在のスタジオ録音の「ワルツ全14曲」を収めたCDでは、余白にこの「第2番」も加えて収められている。)
 私はこの「ワルツ第2番」だけが、リパッティの遺言に背き世界中の音楽ファンを欺いてまで、世に出すには相応しくないとレッグが判断した「50年7月ジュネーブ録音」のショパンのワルツ演奏なのだと信じている。この「ワルツ第2番」は、「全曲録音」の中の同曲演奏とは、かなり異なったものだ。そして録音場所も、明らかに異なっている。単なる別テイクではない。レッグはジュネーブ録音の方を破棄したのだと思う。ジュネーブ録音は、現地の放送局のスタジオと人手を臨時に借りて行われたようだが、その時の関係者が持ち出していた音源なのではないかと思う。このほかの曲がいくつか1950年7月ジュネーブ録音として70年代に「新発見」され、EMIから発売されているが、それらにきわめて近い音質なのだ。
 この「ワルツ第2番」は、軽やかで輝きに満ちた「1947年(?)の全曲録音」と違って、どこか生き急いでいる人の、とても悲しい演奏だが、新薬コーチゾンに拠ってもここまでしか弾けなかった事実を、おそらく未亡人は知らされていない。
 正規のEMI録音以外のテスト録音などが、未亡人マドレーヌ・リパッティの特別の許可が下りたとして、数年前、突然ArchiphonというレーベルからCDで限定発売されたが、リパッティの録音は、未亡人の厳重な管理の元に、未亡人が承諾したものだけが世に出ているに過ぎない。限られた枚数しか世に出ないリパッティの肖像写真と同様に、彼女のイメージする「リパッティ」からの逸脱が許されていないのだ。リパッティは未亡人の中で固定化されていると言っていい。
 その意味でリパッティは〈封印された音楽家〉なのだ。リパッティの全貌が明らかにされるのは、その封印が解けるまで待たなければならない。

【以下は、洋泉社ムックに掲載した当時(1996年頃)のCDデータ】
●ショパン:ワルツ集(全14曲)[東芝・EMIクラシックス/TOCE7584](録音:1947年ロンドン)
●ショパン:ワルツ第2番(小品集「来たれ、異教徒の救い主よ」に収録)[東芝・EMIクラシックス/TOCE8353](録音:1950年ジュネーブ)
●「DINU LIPATTI: Les Inedits」[ドイツArchiphon/ARC112~3]

なお、文中の1987年発売の東芝盤は、CD番号が「CC33-3519」で、盤面記載の規格番号に英EMIのオリジナルCD番号「CDC-747390-2」が書かれている。前年の1986年に英EMIから、世界初CD化された際の番号である。1990年代に番号が変わってプライスダウンされたが、解説書の内容、録音データとも、86年版を引きついでいる。

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小澤征爾と、日本人の西洋音楽演奏

2008年08月03日 12時07分48秒 | クラシック音楽演奏家論
(以下は、1994年発行の拙著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』に収録されたものの転載です。)

■小澤征爾と、日本人の西洋音楽演奏
 潮田益子と小澤征爾/日本フィルハーモニーによるシベリウスとブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」のレコードは、いわゆる通常の意味での国内制作盤ではない。世界のメジャーレーベルの手による日本国内でのレコーディングとして、おそらく最初のものだろうと思う。この盤は、英EMIからプロデューサーとしてピーター・アンドリーが来日し、ミキサーもカーソン・タイラーがおなじく来日して直接行っている。録音会場は、当時頻繁に録音用に使われていた東京・荻窪の杉並公会堂だ。当時既に小澤征爾は、「世界のセイジ・オザワ」として活躍しており、「幻想交響曲」(トロント響)、「運命」「未完成」、「シェエラザード」、「春の祭典」(いずれもシカゴ響)、「火の鳥」/「ペトルーシュカ」(ボストン響)、といった具合で、世界をマーケットにしたレコードを次々と送り出していた頃だ。EMIとも、パリ管を振ってのチャイコフスキーの「交響曲第四番」が前年に録音されている。
 この二つの協奏曲録音は、小澤が「日本のオーケストラとの録音を行いたい」と強く希望して、試験的に行われたものだと言われている。オケは分裂前の「日本フィル」だ。ソロを弾いているのは小澤の桐朋学園時代からの後輩である潮田益子で、この二人は既にニューヨーク・フィルを舞台にして、バルトークの協奏曲での協演で成功を収めるなど、再三にわたりコンビを組んでいた。
 潮田の朗々とした造形感の確かな熱っぽい音楽は、特にブルッフの協奏曲では、聴き手の前面に大きく迫って来るスケールの大きな演奏となっている。ソリストと、指揮者とオーケストラが一体となっての豊かで充実したこの演奏には、一種のこぶしを効かせるといった趣きさえあって、疑いもなく〈日本人の感性〉が息づいており、それを自分達のものとして、世界に向けて強くアピールしてゆく確信に満ちた、自在で自発性あふれる演奏に私は共感を覚えた。もう二〇年ほど前のことだ。
             *
 数年前から小澤は、国際的な活動のかたわら、桐朋学園での恩師斎藤秀雄を記念して同窓生が毎年集うフェスティバル的なサイトウ・キネン・オーケストラを指揮して、長野県松本市でコンサートを行っている。最近ではこのオーケストラの活動そのものも録音活動も含めて国際的になってきた。この活動については様々な見方があるようだが、私は、小澤の行動の基本は、前記のEMI録音以来、一貫して大切にしているものが変っていないと思っている。
 第二次大戦後、音楽は急速に国際化し、かつて録音を通じてさえ感じることが出来たそれぞれの国や都市が育んできた音楽の個性というものが失われつつある。今日、ほとんどのヨーロッパのオーケストラが、ローカルな持ち味を減退させ、インターナショナルな均質化された響きに傾きがちなのは、誰もが認めることだろう。
 しかし、それでもなおかつ、それぞれの「らしさ」は、決してなくなってはいない。フランス人はドイツ人の真似はしないし、イギリス人はフランス人の真似をしない。メンバーが多少国際色を増しても、音楽監督を自分たちの中から出せなくても、変らない部分はある。それが歴史と伝統というものなのだ。
 私たち日本人が、西洋の音楽を聴くようになって一〇〇年余の年月が経った。その間、演奏にあたって、私たちの先人は、おそらく大変な苦労をして学び、模倣してきたに違いない。それが、私たち日本人の感性を堂々と打ち出し、世界にその真価を問うようになったのは、一九六〇年代からのことだろう。指揮者で言えば、岩城宏之、若杉弘、小澤らの世代からだ。
 それぞれが長い歴史を持ったヨーロッパ社会と異なり、私たちの歴史はまだ浅い。今私たちは、やっと、私たちなりの西洋音楽の世界を築きつつあるのだ。小澤/サイトウ・キネンの活動もそのひとつだ。
 小澤/サイトウ・キネンには、ウィーン・フィルやスカラ座管が未だに持っているような〈感性の同一性〉があると言ったら言い過ぎだろうか? これは音楽にとって幸福なことだ。彼らの演奏を〈馴れ合い〉と批判するのは、クレメンス・クラウス/ウィーン・フィルや、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルを同じ言葉で批判するのと、本質的には何ら変らない。日本人による西洋音楽は、演奏史の流れの中で、そうした段階にあるということだ。
 サイトウ・キネンがTOKYOという奇妙な国際都市での演奏を拒否しているのは、その意味で正しいと思う。私にとって実はこれは、今年一九九四年、L特急に飛び乗り、新宿駅をあとに山間を走り続けて一路松本までたどり着いての実感だ。「ここはサントリー・ホールでも東京文化でもない!」。お祭りイベント特有のスノッブな雰囲気で差引かれても、大いに価値のある空間移動だった。
 松本文化会館は、まぎれもなく日本の風土の中に建っていた。そしてコンサートの開始。オーケストラの中にはもちろん、この日のために帰国した潮田益子の姿があった。

【本ブログへの転載に際しての付記】
 潮田との「協奏曲」のLPは、もちろん当時、EMIにより海外仕様でも発売されている。一昨年、東芝EMIから、CDで復刻発売された。

 文中の「馴れ合い」は、この原稿執筆当時、「レコード芸術」誌上などで毎月のように原稿執筆をしていた音楽評論家氏の発言を踏まえたもの。この頃、小澤/サイトウキネンは、決して好意的に迎えられていたわけではなかった。また、「松本」以外での演奏をせず、もちろん、東京公演もなかったが、そのことも、何かと非難されていた。

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若杉弘と1970年代のレコード事情

2008年08月01日 22時28分43秒 | クラシック音楽演奏家論
【以下は、1994年発行の拙著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社刊・絶版)に収録したものの転載です。】

■若杉弘と、一九七〇年代のレコード事情
 読売日本交響楽団には、格別の思い出がある。このオーケストラが創設されて間もないころ、毎週日曜日の朝、日本テレビのコンサート番組に登場していたのだ。当時中学生だった私は、それほどふんだんにレコードが買えるわけでもコンサートに行けるわけでもなく、ラジオやテレビでの放送は貴重な音楽体験の場だった。放送用に無人の会場で収録した演奏なども放映する贅沢な番組で、当時、レコードの余りない珍しい曲もよく演奏された。
 第一代常任指揮者はアメリカのウィリス・ペイジという人。この人には、ずいぶんとたくさんの曲を教わったが、決して〈元気のよい〉音楽ではなかったように思う。二代、三代と、外国からの招聘指揮者が続き、四人目の指揮者として若杉弘がテレビに登場したのは東京オリンピックの後だったと思う。細くしなやかな体つきが印象的だった。ある意味ではずっと低迷していたといってよい読響が、若く意欲的な演奏をするようになったのはこの頃からだったような気がする。
 東京文化会館で「エロイカ」を聴いたときは感激して楽屋まで押しかけてしまった。今にして思えば赤面の至りだが、その日の演奏は極めて情熱的で、テンポも大きく揺れ動くものだった。そして、その節回しに日本的な感性としか形容し得ない独特の個性を湛えていた。私は初めて西欧のコピーでない〈ぼくらのベートーヴェン〉を聴いた思いがした。その日、図々しくも楽屋まで押しかけた高校生の私の質問に答えて、若杉氏は、一番指揮してみたいオーケストラとして、コンセルトヘボウの名を挙げた。「そうか、あの透明な音が本当は好きなのか」と思った私は、その後の氏の精妙さを究めていく急速な変貌を納得しつつ、毎週テレビにかじりついていた。
 若杉/読響による「田園」は、それから数年後に発売された。発売日当日に銀座の山野楽器で買った大切なレコードだ。
             *
 今でこそ、日本人演奏家の録音はめずらしくなくなったが、このレコードが発売された一九七〇年頃は、まだ日本人演奏盤は特別扱いで、かなり大きな店でないと扱っていなかったし、それらは決って〈邦人演奏家コーナー〉という奇妙な名で別の場所にまとめられていた。わざわざ日本人の演奏したベートーヴェンを大金を叩いて買うのは、かなりな変り者と思われていたのだ。当時のLPは二千円から二千五百円くらいで、今のCDと同じだが、物価が違っていた。ラーメン一杯が百円程度だったから、その頃一枚のレコードを買うのは現在では一万円札を惜しげもなく注ぎ込むに等しい覚悟が必要だった。
 〈邦人演奏盤〉と言っても、六〇年代後半から七〇年頃まではまだ日本の作曲家のものが多かった中で、岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェン交響曲全集は一きわ光る偉業だった。そして、小沢征爾がトロント響、シカゴ響などでのRCA録音を開始していた。数年前に発売されていた渡辺暁雄/日本フィルの「シベリウス交響曲全集」(旧録音)は、あっという間に姿を消していた。そのほかは、小・中学校の音楽鑑賞教材用のレコードや、予約制通信販売の出版社系のレコードに日本人演奏家が起用されていた程度で、一般市販のレコードでの日本人演奏は極めてまれだった。そうした時代だったのだ。
 この時期の若杉/読響の、いわゆるスタンダード名曲の録音には、この他、ベルリオーズ「幻想」、モーツァルト「ジュピター」、ハイドン「驚愕」「軍隊」、チャイコフスキー「白鳥の湖」「くるみ割り人形」などがビクターや、研秀出版から発売されていた。そして稲垣悠子の超名演の伴奏を務めているメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が学習研究社の十七センチ盤で、また、将来を期待されながら若くして亡くなった大橋国一の「モーツァルト、オペラアリア集」が世界文化社から発売されていた。

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