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江戸川乱歩賞の玖村まゆみ作品評に思う「文学は絵空事」論争――山田俊幸氏の「病院日記」(第20回)

2011年12月27日 12時27分06秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 以下は、9月の初めごろから当ブログにひんぱんに掲載した「寝たまま書物探偵所」と称する文章(山田俊幸氏が怪我入院に際して、退屈の余りに携帯で発信し続けていたものを、当ブログに転載していました。ブログの表題は、私が勝手に付けました。)の最後の受信文、10月21日到着分です。うっかり掲載し忘れていましたが、今回分を最後に山田氏は無事退院しました。
 この間、私も、彼の博識ぶりにずいぶん刺激されました。掲載が続いている間、音楽話が遠のいてしまいましたが、それなりに楽しんでくださった方も多くいらっしゃったようです。山田氏とは、今年は、大正から昭和にかけて、多くの女学生の心を捉えた「セノオ楽譜」を中心とした時代史をまとめたいと思っています。

寝たまま書物探偵所(20)・・・江戸川乱歩賞の玖村まゆみ『完盗オンサイト』と千野隆司さんの新刊『お寧結髪秘録 秘花二日咲き』 by 山田俊幸

 ちょっと前に、フックンとシメチャンという年少のお友達が見舞いに来てくれた。その時、フックンが、病床の読物ですと言って、今年の江戸川乱歩賞の本を持ってきてくれた。フックンの以前の趣味がミステリーと合わなかったので(余計なお世話だが)、たぶん奇妙な顔をしたのだろう。フックンはすぐにそれを察して、姉の知り合いの人で、サイン本なので持ってきました、と説明をしてくれた。作家をフックンはじかに知っているわけではないのだが、お姉さんは授賞式にも招かれたというのだから、姉の方はたいそう受賞者とは仲がいいのだろう。とは言っても、そのフックンも、宝塚のトップだった和央ようかと同級で仲がよかったというからうらやましい。一度、和央ようかがデビューした頃だろう、フックンに宝塚に誘われたことがある。だが、その頃は宝塚にさほど関心もなく、やだよと断ってしまったのだから、マヌケな話だ。今頃、会っておけばよかったなどと言っているのだから、さらに情けないことこの上ない。でも、残念だ。
 さて、フックンの持ってきてくれたのは、ク村まゆみ『完盗オンサイト』(講談社、8月刊行)。姓の「く」の字は王編に久。「王久」が合体して一字になったもの。たぶんコンピュータなら出るのだろうが、携帯でこの字を出すのは困難。ペンネームに難しい漢字を使うのは止めてほしい。これは、賞の選評でだれも言っていないから、わたしから言っておこう。と言った上で、サインに押された印章にあらためて見入ると、なんと本人の手彫りと思われる「王久」の合体漢字が押されている。あれあれ……だ。本人には、こだわりのある漢字なのでした。余計なお世話でしたね。
 選評から先に読む。すると、まず最初に内田康夫の文章が飛び込んできた。僕が最低点をつけた作品がなんとみごとに受賞したと言うのだから驚く、と書かれている。
 わたしは、その物言いの直接さに驚いてしまったのだが、ひょっとしたら冗談かとも思った。だが、決して冗談ではなく、非常に真面目に驚いていることに、さらに驚いた。その文面からは、「困惑」や「呆れる」というより、何を考えて受賞させたのだという「怒り」が見えている。半端ではない怒りだ。その半分は選考委員会に向けられているようなのだが、かわいそうに当然のように作者にも向けられてしまっている。ちょっと、「とばっちり」めいて、かわいそうだ。
 内田康夫のこれも、わたしからすれば、わたしのペンネームへの注文同様、余計なお世話の類いだと思うのだが、それが理由になったのだろう、次回の選考委員の名に内田康夫の名はない。これは内田康夫を乱歩賞の選考委員から辞めさせた小説となってしまったのだ。
 もっとも、内田康夫の言い分も分からないわけではない。
 選評を引くとこうだ。
 「人間の美意識というか審美眼というか感受性というか、そういったものがいかに千差万別であるかを、いやというほど思い知らされた。僕が最低点をつけた『クライミング ハイ』がなんと、みごと受賞したというのだから驚く。この作品の本質は「皇居内の盆栽」「ロッククライマー」「三人の病人」を三題噺的に組み合わせたことに尽きる。(略)その他の設定がすべて「絵空事」で表現力に欠ける。マンガの原作程度にしか評価できない。小説は所詮絵空事だから何でもありということなのか……といまだに「?」のまま。」
 これを読んでいて、なんか昔のリアリズム論争や、「文学は絵空事か」の議論を思い出してしまった。「くそリアリズム」などと言う言葉が飛び交った時代のことだ。「小説は所詮絵空事だから何でもありということなのか」などは、その時の議論とも近い。これはしばしば繰り返される議論だが、この議論でいくなら、大江健三郎にリアリティはあるのか?という議論にもなる。好き嫌いは別として、大江健三郎の小説は絵空事である。だが、ノーベル賞委員会が作品のリアリティを認めた作家でもある。川端康成もそうだ。川端の『雪国』は「絵空事」ではないのか。
 内田康夫の立場と真っ向対極に立つのが京極夏彦。京極は、これもどこかで聞いたような発言だが、「基本的に小説は何をどう書いてもいいものである。書かれている内容がどれほど荒唐無稽であろうと非現実的的であろうと、それは一向に構わないだろう。」と、内田の発言を逆なでするような選評を書く。絵空事でいいと言っているのだ。それを読んで、内田はこれが嫌だったんだなと思う。わたしの世代では、リアリズム論も閉口だが、絵空事は困るね、という内田の立場をとってしまうに違いない。でも、この作品について言うと、ちょっと違うな、である。
 わたしの読後感を書いてしまうと、この小説、絵空事なのだが、決して内田康夫が言うように作品のリアリティがないとは思わなかった。
 小説に、読み手がリアリティを求めることの方がどうかしているのだ。もし、リアリティを求めるならば、小説のリアリティとは、本来、小説の外側(作家と読者の接触点)にあるのではなく、小説の内部にあるのだと言うことを知るべきだろう。
 という意味では、この小説くらい主人公の世界を形成した(小説内部世界リアリティを持った)小説は、応募作の中では稀かもしれない。誰かが、視点の分裂を指摘していたが、そこだけは作者が小説内部のリアリティを維持できないところだった。内田に、マンガの原作程度、と呼ばれたが、マンガ、アニメに、どれだけ文学の才能が流れたか。そういう意味で言うなら、「ク村まゆみ」という作家が、自分内部のリアリティ(小説世界の構築)さえ築けたら、もっとおもしろい読物をもたらしてくれるだろう。マンガの原作に行かなくてよかった作家なのだ。
 とは言え、この作者に唯一の失敗があるとすると、ミステリーの賞に応募してしまったことかもしれない。話とアイディアはすこぶる面白かった(つまり、楽しめるエンターテイメントなのだ)が、ミステリーとしてはどうか、というのは残る。
 新しいミステリーの型、とは、ちょっと言えないかな。
              *
 ところで、『小説推理』の新人賞受賞からだいぶになるが、千野隆司さんから新しいシリーズの新刊が送られてきたらしい。それを、東京の自宅から病院に持ってきてくれた。『お寧結髪秘録 秘花二日咲き』(静山社文庫、10月刊)という新シリーズだ。前作の『寺侍市之丞』(光文社文庫)が9月刊だから、ずいぶん早い仕事である。次々と書き続けているわけだ。
 去年のことだったか、奈良の杉瀬さんの焼き物展が表参道の桃林堂であった。その時、飲みましょうというので、杉瀬さんと浅草のどぜう屋駒形で会うことにした。そこに千野さんを誘った。杉瀬さんは飲むし、千野さんもずいぶん飲めるようになっていて、わたしだけがだけが相変わらずの下戸というところだった。
 学校教師を辞めて小説一本になった時、月一冊を目途に書いていく、と千野さんは言っていた。無理だよ、と思ったが、口に出しては言わなかった。だが、なかなか思い通り行かないのではないか、この時は心配で、無理しないほうがいい、などと言ったが、千野さんはそのペースで書き続けてはいたらしい。月一冊にならないのは、出版社の都合と言うことだ。まったくの、余計なお世話だった。
 乱作が筆を荒れさせるという考えがある。だが、乱作で荒れるような筆ならとっくに荒れているのである。乱作の中に、一見、絵空事に見えはするが、作者独自の世界がそのうち仮構される。そう思っている。それが物を書くことのおもしろいところだ。
 池波正太郎の「剣客商売」を読んで、あれは「拳銃無宿」かマカロニ・ウエスタンのパクリだから怪しからんとは、誰も言わない。そんなことは、皆知っているのである。それは池波流の作品内リアリティがあるからだ。作品内部が、作者独自の世界となっているからだ。時代考証などではない。拳銃が刀に代わっただけだが、築かれた世界はウエスタンではない。もっとも、「荒野の七人」もマカロニ・ウエスタンも、ウエスタン大好きな黒澤映画のパクリだから、何が本家だか分からない。とにかく、自分の作品ごとに世界を築くことなのだろう。
 月一冊を、早いと考えるのは、仕込みが間に合わなくて、中で瑕瑾が大量に出るからだろうが、瑕瑾はないにこしたことはないが、何処までいっても、どんなにあっても、瑕瑾は瑕瑾なのだ。学生の頃、三田村なにがしが、銭形平次の時代考証がなってないと呆れ顔で言うのを聞いたことがある。それで平次物の魅力は半減もしなかった。作品の魅力とは、物語世界の魅力で、つまり構想力で、ぐいぐい引き込まれてしまうものなのだから。今回の乱歩賞の作品もそうなのだ。
 こんなところでの引き合いは申し訳ないが、わたしは造本家大家利夫の本造りや富本憲吉の仕事で、量産の意味を再認識した。やはり、造りたい(書きたい)ものはたくさんあるし、その質を保持するためにも量産という技術力は必要なのだ。
 千野さんの前作の「寺侍シリーズ」は、現代という時代に合わせて、不況時代の経営を前面に出したものだった。新機軸と言えるだろう。もっとも、以前食べ物場面が急に多くなった時、出版社の希望だろうと言ったら、その通りだと言われたが、これもあるいは出版社側の要請だったかもしれない。そして今回は、人の恨み晴らします、という短編連作。これも千野さんとしては新機軸だ。
 わたしとしては、千野さんの魅力は人情物にあると思っているが、こうした自分の持ち味とは切れたところにある作品も必要だろう。とりわけ、今度のお寧(しず)物は、映像化しやすそうで、千野さんの特性は薄まったが、その試みは良しとしよう。
 とは言っても、千野さんの筆が生き生きとするのは、子供が出てくる時だ。わたしが本当に読みたいのは、そんな時代小説なのだ。

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神坂雪佳、川端龍子等のモダン内装提案――山田俊幸氏の「病院日記」(第19回)

2011年11月22日 13時08分43秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は、10月3日に書かれて、私の携帯にメール送信されていたものですが、この一部が『産経新聞』大阪本社版の文化欄に掲載予定とのことで(山田氏は、以前から、同紙にコラムを寄稿していたと思います。)、当ブログへの全文掲載は1ヵ月先にしてほしいと注記されていたものです。「産経新聞」に掲載されたコラム(浪花おもしろ図鑑)は、下記で読むことができます。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111112/wlf11111213420011-n1.htm


寝たまま書物探偵所(19)・・・神坂雪佳、川端龍子等のモダン内装提案 by 山田俊幸


 大阪で本の処分をしたが、一冊二十円にしかならなかった。古本屋さんの付け値以上の価値があると思って買い集めた本たちだから可哀相なことをした。せめて手元に残ったものだけは、それなりの価値を付けてあげたいと思う。今回は、そんな残った雑誌の一つだ。
 『汎工芸』という雑誌が、大阪から出ている。発行人は柴崎風岬(俊吉)。この雑誌、もともとは漆の業界紙『日本漆器新聞』だったのだが、昭和八年、「工芸と建築と塗装の総合」雑誌として、時代の要求を受けて『汎工芸』と改題し、雑誌にリニューアルしたものだった。
 改題したのは、昭和八年十一月号から。この秋、大阪には台風が上陸、電車が横倒しになったり、小学校の体育館の屋根が落ちたりと、甚大な被害をもたらした。雑誌は、それから間なしの発刊だった。
 雑誌の前身の『日本漆器新聞』も、関東大震災直後の大正十二年末から始まっているという。とするなら、いずれも自然災害に縁があるといえるだろうか。当然のこと、編集は被災後の「生活スタイル」の提案となってくる。関東大震災の後、時代の流れは文化住宅が一般となって、生活全般も洋風があたりまえになってきた時期だ。和服を決定的に変えたのは、白木屋の火災だったと言われる。昭和八年の雑誌へのリニューアルは、そんな流れを追い風にした誌面の一新と改題だったのだろう。
 改題号は、おりからの国民行事だった帝展を取り上げている。だが、雑誌の最大の協力者に高村豊周(とよちか)がいることは、より興味深い。豊周は、高村光雲の息子、光太郎の弟である。大正十五年に仲間と工芸団体「无型(むけい)」を立ち上げ、造型運動の最前衛にいた。それが『汎工芸』に深く関わっていたようだ。改題号に寄せて、短歌がある。「すみよしにすみてすぐなるものいひにすべてをすすむすぐせなるらむ」。発行者の風岬は、大阪の住吉区に住んでいた。
 この雑誌でとりわけ興味深いのは、福田平八郎の芦の絵が表紙となった昭和十一年九月発行号だろう。福田平八郎の表紙絵は、「浪速の芦」という大阪住吉区に住む柴崎風岬へのやはりオマージュだろう。その号の、巻頭アートページに興味深い写真図版が掲載されていた。
 もっとも、図版には、「新造成上つた京都夷川宮崎店の外観」「新築記念の為め九月一日から六日まで婚儀調度及工芸品の展覧会を此の店舗で開かれた。」と写真説明があるだけで、そこには詳しい紹介がない。よく分からないなりに写真を見てゆくと、どうやら京都の夷川にあった「MIYAZAKI(宮崎)」という店の新築ビルで行った展覧会のようだ。写真図版は、四つほどの展示ブースを写していて、これには驚いてしまった。

(1)神坂雪佳氏を主とせる室内装飾/作品 神坂雪佳、清水六兵衛、伊東陶山、山鹿清華、江馬長閑、鈴木表朔、三木表悦、神坂祐吉
(2)橋本関雪氏を主とせる室内装飾/作品 橋本関雪、高橋道八、三浦竹泉、河村蜻山、根箭忠緑、奥村霞城、川島新三郎
(3)川端龍子氏を主とせる室内装飾/作品 川端龍子、津田信夫、北原千鹿、富本憲吉、高村豊周、高村光太郎、各務鉱三、遠藤順治、山崎覚太郎、村越道守、豊田勝秋、広川松五郎、内藤春治
(4)煎茶室/南苑老人、長尾雨山、竹内栖鳳、橋本関雪、清風与平、堆朱楊成、三好弥次兵衛、高橋道八、三浦竹泉、山本しょう園

 以上、いずれもモダン・スタイルの内装だが、わたしはこんな展覧会はまったく知らなかった。
 画家、図案家が提案する室内装飾。しかも、京都はいかにも京都らしい一級の工芸家が調度をこしらえるが、雪佳の内装はモダニズムである。東京の龍子の協力者を見ても驚く。豊周、松五郎、覚太郎、春治と无型メンバーを並べ、そこに高村光太郎、富本憲吉が加わる。なんという、前衛の提案だろう。
 雑誌を見すすめると、この展覧会の記事が見つかった。記事によるとこうだ。「『近代を基調とせる婚儀調度及家具展』/婚儀調度に於て既に知られて居る京都の宮崎タンス店では、今春早々からの計画で夷川の本店を改築中の処、漸く予定の如く竣工し九月一日から三日間同所に於て、/近代を基調とする婚儀調度から家具装飾の新築記念展覧会を開催し、次の項目を以つて各方面へ案内状が配布された。/伊藤小波先生案 婚儀調度/宇都宮誠太郎先生案 婚儀調度/橋本関雪先生を主とせる室内装飾/神坂雪佳先生を主とせる室内装飾/川端龍子先生を主とせる室内装飾/懸賞募集図案による家具と装飾/西川一草亭先生作 絵と花/佳都美会々員作 慶事用工芸品/其他婚儀調度「数種」/尚ほ外に、抹茶席、各宗家好み及び煎茶席、長尾雨山先生好み、関雪先生竹林屏風添へ」と記されている。
 ここに連なった名前を見ても、すべての室内装飾の写真を見たいのだが、残念ながら四点の写真しか掲載されていない。しかも、小さくて不鮮明だが、片鱗だけでも遺してくれたのが有り難い。

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富本憲吉刻・津田青楓画の、謎の版画雑誌を追う――山田俊幸氏の「病院日記」(第18回)

2011年11月17日 11時59分45秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 以下は、私の携帯に10月19日に到着したものとその日の夜遅く到着した続編とを合わせて、1本としました。かなり長文のエッセイになってしまいましたが、これは私ごのみの、わくわくさせる内容のエッセイです。久しぶりに、山田氏の底知れぬ「力」を感じました。退院まぢかの快挙だったと言えるかもしれません。山田氏の怪我入院というアクシデントに感謝! と言ったら叱られるでしょうけれど。


寝たまま書物探偵所(18)・・・富本憲吉刻・津田青楓画の、謎の版画雑誌 by 山田俊幸

 九月に入ったばかりのこと。ちょうど入院生活に慣れかけたあたりのことだ。わたしの入院をまったく知らないキュウセイさんから携帯に電話がかかってきた。「富本憲吉の版画表紙の本は、必要ですか?」と。富本憲吉のものが出たら教えてほしいと話していたので、そのための電話だったのだが、その本については怪我の前にすでに聞いていたらしい。思い出すと、その時は、「仕入れが高いので安くはありません」と言い、値段もその時ははっきりしないので、あまりはかばかしい返事をしなかったらしい。頼んでいたのに情けないことだが、「見せてよ」くらいの返事だったろう。それが、即売会の目録が近くなり、見にも来ないが(わたしとしては、見にゆけない)、どうするのか、目録に載せていいのか、ということでの電話だった。
 具体的にいろいろ尋ねると、件の本は版画雑誌なのだと言う。版画雑誌ならば、価格が高いのも仕方がない。とりわけ同人雑誌の版画入りはキュウセイさんが大好きのものだから、山田書店、えびな書店という本屋さんと競り合うためには、市場でだいぶ頑張ったのだろうと推察した。その頑張りが、値段に反映しているのだろう。そして、聞いたことは、「富本憲吉だと思って買ったのだけど、富本刻と書いてあって、原画は津田青楓らしい」とのことだった。
 奇妙な取り合わせの本で、電話ではらちが開かない。富本刻、青楓画のイメージがまったく湧いてこない。見なくては分からないのだが、とりあえず富本憲吉記念館の山本茂雄さんに連絡して、これこれの雑誌があるのだが、と言うと、記念館に送ってみてほしいと言われた。キュウセイさんにはそれを知らせて、もし記念館で不必要であったら、山田が引き受けるとの一言を入れて、送ってもらった。
 その後、キュウセイさんも即売会で忙しかったりしたらしく、記念館に雑誌が着いたのは十月になってから。送られた雑誌は、山本さんにはピンと来なかったらしく、元気になったら一度見てほしいとのことだった。と言われても、外出の許可をとって、さすがに一人で奈良まで行く自信はない。院内は歩けても、東京の病院に変われないのはそれが理由だった。医者からは、寝た生活ばかりでなくそろそろ外出で社会適応を、とも言われている。散歩と車での移動に堪えられるかが、直近の問題となっているのだ。そんな話を山本さんにすると、本も見せたいから車を出して外出の付き添いをしてくれると言う。奈良までは一時間ほど。どれだけ車に堪えられるかという外出の試みを、十二日に行なった。
 結果は、まだまだ脚に痛みが走り十全ではないが、外出にはちょっと自信がついた。まあ、回復には向かっているようではあった。

             *

 さて、雑誌の話である。誌名は不明。表紙には[版画号]とあるだけ。この雑誌、誌名はおろか、ほとんど出版情報がない。雑誌の発行所は「青丹社」とあるだけで、発行場所も発行年も不記載。手がかりがまったく記されていないのだ。目次には「木版」「歌と詩」が分けられ、誌面にそれがほぼ交互に載せられている。しかも、聞いた名前の歌人も版画家もいない。山本さんが雑誌を見て、あれっと思ってしまう理由は分かる。しかも、その本文版画の出来もいま一つなのだ。富本らしいと言うと、表紙と裏表紙の壺の絵くらいで、どうみても初見で高い評価は付けられないものだ。裏表紙も、壺の絵だから富本らしいというので、表現からは疑問を呈するべきだろう。収載の版画の質も高くはない。何なのだ、これは。である。
 ただ、そんな謎の状態なので、この雑誌、我が書物探偵稼業を刺激するところがおおいにある。山本さんが持っていっていいと言うので、これ幸いと雑誌を借り受けて、また病院で寝たまま探偵と洒落込んだ。
 目次を見ると、「木版」に名が載っているのは、表紙・富本憲吉氏、裏絵・久保田幽花君とあり、後は幽花と胡の人の名が並ぶ。裏表紙の絵は、久保田幽花という人物だったらしい。「歌と詩」には、海老名氏、辻井弓心、幽花(久保田)、南秋、征矢彦(水木)、五十四郎(上村五十四楼)、宮本秋水、松本もみ。いずれも、富本の知友リストには見当たらない人々である。
 そんな中で、発行所が分からないかと雑誌から地名に関わる記載を探すと、「たが為にかくは悶はん我が心生駒が里の夕くれころ」の一首が気になる。目次からすると幽花かもしれないが、作者名はない。歌われた生駒は奈良である。そして、富本の生家のある安堵の町は、生駒郡ではなかったか。そうするなら、奈良での発行かもしれない。とすると、「青丹社」はセイタン社と読むのではなく「アオニ社」と読むとすっきりする。「あおによし奈良の都」である。それを思い浮かべさせるのだ。
 この雑誌を、そのように「青丹よし奈良」発行(発信)と決めつけると、見えてくるものが多少ある。巻頭には胡の人の小版画があり、その下に、「この集をオロして私は岡山に行かねばならぬ何うか此の誌の成長を諸君に願て置く」のメッセージがある。さらに巻末にも、「此の集は売るんじやない 青丹社へ賛成の諸君に頒つんだ 僕等何の位損をしても関はん」と書きつける。こうした熱いもの言いは青年特有だ。それから推測するなら、「胡の人」と称している人物は、相当若い人物、学生ではないかと想像できる。「岡山」に行かなければいけないと言うのは、高校進学か大学進学のことに違いない。と、そこまで見てゆくと、この雑誌、木版画の質が低いとか、絵がつまらないとか言うレベルではない、木版画の歴史においての重要な位置が浮かび上がってくるのである。
 一言で言うと、奈良の中学校あたりで「版画」の制作グループがあったらしい、ということなのだ。しかも、富本憲吉と関わって。
 従来、創作版画の始まりは山本鼎の「刀画」であり、『方寸』だということになっていた。だが、わたしからすると、山本鼎にも『方寸』にも、当時は積極的なオリジナルな「版画」意識が見えず、そうは言えないだろう、と得心が行かなかった。それよりは、イギリス帰りの富本憲吉と南薫造が試みた木版画が、版画でなくては出ないオリジナルな表現を出したと考えていたのだ。とは言え、小野忠重を祖述する近代版画の展覧会は、依然と山本鼎の刀画を始まりとしていた。わたしは富本説をいくつかの場で展開し続けたが、最近ようやく儀礼的に富本憲吉を版画の流れの初期に入れるようになってきた。だが、ほとんどと言っていいのは、富本の史的重要さを考えてではない。単に富本憲吉が「版画を作ってしまった」から、展示せざるを得なかっただけなのだ。この美術館の対応は悲しい。
 木版に関しての富本の重要さは、山本茂雄さんからの示唆と、南薫造の記念館で版木を見てからのことだった。松濤美術館での展覧が先駆けとなっている。松濤の瀬尾さんがやった「創作版画の誕生」展が、唯一、富本、南を遇した展覧会だった。だが、それから富本憲吉の版画の研究が進んだわけではない。すでに言ったが、版画の展覧会と言うと富本版画を並べはするが、それについて論じたり、版画史的に整理したものはほとんどない状態なのだ。版画研究者がたくさんいるにも関わらず、である。
 富本憲吉は、ロンドンの私費留学の帰国後、奈良の自宅を拠点としてさまざまな工芸の発信をする。木版画はその中でも重要な一つだった。その手がかりは、南薫造への手紙に残されている。

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 富本憲吉が版画と取り組んだのは、ロンドンからの帰国後である。南薫造への手紙をたよりにすると、明治44年1月25日に「木版の色づりウマク行つたナー」と言う一文から始まって、美術新報社の展覧会の展示ディスプレイを考え、版画には茶の壁面がいいだろうと提案。4月10日には展覧会の入場券と栞をかねる版画を制作。会期中の4月22日に「展覧会は先ず成功の方だらう。ひつぢの群れ(拾五円)が野の人に売れた」と書く。「野の人」は翻刻者の推測だが、もし野の人ならば高山樗牛の弟、「斎藤野の人」だろうが、残念ながら斎藤野の人は42年に亡くなっている。別人だろう。
 ここで注意すべきは、「ひつぢの群れ」の版画である。展覧会からしばらくたった6月14日に、「僕は此の頃何むにもせずに木版ばかり。それと云ふのは近頃水彩でやるより木版の方が良い様に思はれる。最近のもの御覧に入れる。此れは版を用ふる皿(山田註:「版を用ふる画」ではないか?)。風景を木版にやつた処女作。South Kensingtonにある仏人のやつたヒツヂの木版が目にちらついてやつて見たくて仕方がないのでやつた。ツマラヌものだが望の半分はやれたつもりだ。」と書く。
 この、売れたひつぢの群れと、目にちらついてやったヒツヂが同一作品かどうかは、時期もズレていて不明だが、いずれもフランスの版画家アンリ・リビエールのヒツヂの作品からインスピレーションを受けたものにちがいない。同一作品であるなら、展覧会で野の人に売った一点の他、南用にも摺ったものだろうか。サウス・ケンジントンの美術館つまりV&Aは、富本、南共通の思い出のある場所でもある。リビエール版画の印象も共通の記憶だったかもしれない。
 版画の歴史と言うなら、ここでは富本側からだけでなく、南も同様に作っているのだから、南の側からも見なければ片手落ちだろう。だが、如何せんわたしの手には南の情報が全く入ってこない。広島県美で南の資料の整理を進めたとも聞くが、ネットかなにかで調べられるのだろうか。従ってここでも富本側の一方的情報によることにする。
 さて、富本は同じ6月に、多色摺り木版で「雲」の図を作成している。そして、7月8日に「今朝やつたものを御めにかける。ドローイングを木版にしたもの。/「壺その五(なむきん)」/といふ名。」と、これは単色墨摺りの版画を封入。8月18日には、小屋を描いた多色摺りの小版画を南に送っている。
 じつは富本はこの時期、三宅克己の水彩画にも関心をもち、図案ではなく水彩画に入れ込んでいた。従って、水彩の風景画を木版で起こすことに喜びを覚えていたようだ。ドローイングの木版化も、その延長線上にある。そして、この時期の作品で、多色摺り木版の技術がほぼ完成していたことを、わたしたちは知っておく必要があるだろう。その前提を理解しておかなければ、富本がこの後展開する、稚拙に見える図案木版の意味をまったく取り違えることになる。
 富本の大きな転換は、この後に訪れてくる。水彩の木版化、ドローイングの木版化が、「木版」という表現に次第に変化し、そして「模様」へと転じていくのだ。
 次の年、明治45年の5月1日には、「太平洋画会に変な焼画や木版画が列べてあるとか」と言い、木下杢太郎の『和泉屋染物店(いずみやそめものみせ)』の表紙を木版でやったと書く。この本の装幀には、富本の原版画を伊上凡骨が装幀用に彫り直したものが用いられた。
 そして、11月26日、「三越流の模様や外国の雑誌、ドイツの下等の模様が入り混じつて居る東京に居られる兄に注意を要する事を書きそえる事を光栄とする」と、模様=図案の現在を書き記す。「模様」がこの時期から主軸になったからだ。
 三越流というのは、杉浦非水のセセッション図案が登場する前の橋口五葉などの元禄模様あたりを指すのだろう。外国雑誌はこの時期だから、大方アールヌーヴォ・デザインの紹介雑誌。ドイツは、『装飾と工芸(ドイッチェ・クンスト・ウント・デコラション)』あたりの図案なのだろうか。1910年代だから、ウイーン・セセッション・デザインなのかもしれない。アール・ヌーヴォと言い、ウイーン・セセッション・デザインと言い、流行のデザインである。富本は流行のそれらを、「注意を要する」と言う。それなら、何が求められるのか。それは、富本自身が仕事の中で、木版の模様とともに証明することになる。
 富本の転換後の仕事は目まぐるしく、また、精力的だった。東京に出るべきかとも迷うが、結局は奈良法隆寺近くの安堵を拠点とする。仕事は、版画ばかりでなく、革工芸、刺繍、木彫と多岐にわたる。だが、その中でも、富本がとりわけこだわったのは、やはり「模様」と直結した木版画だった。

            *

 話が長くなったが、今回発見された雑誌『(仮題)青丹 版画号』は、富本のその時期のものなのだ。発行所は、前回に推定したように「青丹(あおに)よし奈良」から、奈良の生駒山が望めるあたりと推定。発行年も不明だが、詩歌の末尾に「一二。六、一九四一(一九一四、に訂正)」「一九一四、六」の制作日があるから、大正3年の夏あたりと考えられる。とすると、この年は三笠、田中屋での展覧会と図案研究所の開設があった年である。一般的には、楽焼きが制作の中心になった年とも言われる。その時期の版画雑誌への協力だった。
 表紙の版画だけの協力だが、それが奇妙なことに津田青楓の原画に依る、と言うのだ。
 巻末の一文を書き写そう。
 「此の集は売るんじやない 青丹社へ賛成の諸君に頒つんだ 僕等何の位(どのくらい)損をしても関はん。/今度記念にもと思つて編集皆を引き受けて遣りました木版には印刷屋もずいぶん手古摺りました。/絵と文字とは没交渉だから其の心算で読んで頂き度い這ナ小冊子だが随分骨が折れた表紙絵は青楓氏筆富本氏刀其他は自画自刀だ。/ぢや之れでお訣れ致します何だか。/此の地を去りともない。/―胡の人―」
 富本憲吉と津田青楓は、南宛書簡に「それから津田君からは未だ何むとも手紙が来ぬが今日あたりはたしか京都で展覧会をやつて居る筈」(明治45年4月7日)と見えるのが初めだろう。7月27日には「津田君に団扇をうつて貰つた金で安芸へ行かふと思ふて居たのが(略)」と書き、さらに津田が借りたという海辺の家に誘われたとも言う。急速に親密の度を深めている。団扇とは、この時、富本は肉筆団扇も制作し、それも話題になっていたのだ。それを、津田青楓が売ってくれたらしい。
 さらに、翌大正2年5月1日から6日まで、大阪三越では富本、津田の『美術工芸品展覧会』が開催された。この展覧会が好評だったことは、「私の楽焼の図案が面白いというのでよく売れました。売行は百三十円でした。」と、富本が回想をしていることでも分かる。これに対する津田青楓側の気持ちは、すでに『富本憲吉と西村伊作の文化生活』のパンフレットに書いたから再度は触れない。若者たちには濃密な熱い時間かこの時にはあったのだ。
 『(仮題)青丹 版画号』はその次の年(大正3年)の刊行だ。富本憲吉と津田青楓との合作があっても、不思議ではない。しかも、表紙版画は、富本が津田青楓に売ってもらったという団扇の図だ。よくよく因縁めいている。
 この、団扇の中の人物図を見た時、わたしはどこかで見たと思った。チャイナ服の女の子が下駄を履いて手を広げている図だ。周りにはチューリップの花盛り。そんな稚拙な絵が団扇の中に描かれる。けれども、なかなか思い出せない。ありがちなことだから、しばらくは仕方がないとあきらめていた。山本さんから雑誌を預かり、しばらくして、ようやくあれではないかと思うものがあった。とは言え、病院暮らしの身。山本さんに電話をかけて、調べてもらうこととなった。
 わたしが思い出したのは、二十年近く前に三重県立美術館で行われた『二十世紀美術再見』という展覧会だった。この展覧会には、ひょんなことでわたしが絡むことになる。そのきっかけを作ってくれたのは山本さんだった。これについては、別の機会に書こう。
 この展覧会は、わたしの強い要望で、学芸員の土田真紀さんがたくさんの装幀本を展示してくれた。書物は工芸と考えて欲しい、と言うのがわたしの言い分だった。土田さんは、そんなわたしの提案を見事に実現してくれた。現在、「本」を美術品として並べることは当たり前になっているが、当時はそんな時代ではなく、本画主義の時代だ。なにかと大変だっただろう。
 その展示物の中に、青楓の似た図があったように思ったのだ。山本さんにお願いしたのは『ル・イブウ』という雑誌。イブウは、木菟(みみずく)である。カタログを調べてもらったら、どんぴしゃり。同じ図だった。
 大正2年の刊行である。
 つまり、富本は大正2年に津田青楓が『ル・イブウ』に寄せた表紙絵を、今度は『(仮題)青丹 版画号』のために、団扇絵図に仕立て直して版画としたのであった。たしかに、津田青楓の絵は借りられているが、版画の表現は間違いなく富本憲吉のものである。彫り残しや、枠のラインのわざと行う断ち切りや彫り込み、いずれも見事なものだ。やや小ぶりで押し出しはないが、富本版画の優品として良いだろう。
 ところで、この雑誌、もう一つ書いておくべきことがある。それは「版画号」ということについて。
 この雑誌メンバーをわたしは、奈良の若い人々。高等学校学生くらいと推測したが、その学生たちが、版画と文字の冊子(雑誌)を作っているのは、驚きである。わたしは持論として、雑誌のコマ絵が自刻の創作木版になったという仮説を立てている。その推論を証拠立てるような版画なのだ。
 版画のいくつかは小杉未醒の線の細いコマ絵よりは、竹久夢二のザクッとしたコマ絵に近い。まさに大正のコマ絵スタイルなのだ。それを彼等が自刻したという。ただ、あきらかにコマ絵と違うのは、ぶきっちょながらも富本的彫り残しや断ち切り、彫り込みが見られるということなのだ。小杉未醒のコマ絵は、筆を主としたものだから突然の断ち切り、彫り込みは少ない。だが、富本の画面作りには、この彫り残し、断ち切り、彫り込みが、画面の空気感を左右する。雑誌メンバーたちは、その富本の技術を真似ているのだ。とすると、この冊子が明らかにすることは、安堵の富本の周辺に一時期ではあったが、版画のグループが存在したということなのだ。
 同じ頃、東京でも夢二周辺に版画を試みる若者たちが集まっていた。彼等が版画の新世紀を築くのだが、奈良で富本と版画制作を共有していた若者たちがいたことは、まったく知られてはいない。しかも、彼等はコマ絵ではなく「版画」を意識した制作をしていたのだ。版画の歴史を埋める、一つの大事な事実がこの雑誌によって明らかになったと言ってよい。
 このように、この冊子が富本周辺で作られたことを証拠立てるものは、他にもある。一見して富本かと思う裏絵のカップの図(久保田幽花)は、まちがいなく富本制作の楽焼きだし、「ロシヤダンス」(胡の人)も、富本の近くにあったものかもしれない。
 富本が奈良に持ち帰ったものは多い。明治44年7月28日の南宛の手紙に富本はこう書いている。
 「絵が出来き上つたら一時奈良へ来ないか。/(略)/奈良と云ふても天平の推古ばかりでない。ロシヤの音楽、アビシニアの銅、一寸眼さきの変つたものをイミテーシヨンながら御覧に入れるつもり。」
 今は失われたものが多いだろうが、その片鱗は富本憲吉記念館で見ることができる。だが、その記念館も今年度で閉館すると言う。文化を支える行政がない国だから仕方がないが、支援をしてくれる団体や企業もないことが残念だ。

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リルケと女性たちとビオ・ソフィア――山田俊幸氏の「病院日記」(第17回)

2011年11月16日 11時08分35秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は、10月11日に私の携帯に到着した山田俊幸氏のエッセイです。


寝たまま書物探偵所(17)・・・リルケと女性たちとビオ・ソフィア by 山田俊幸

 猪狩さんからの「午後のメール」、「~キッペンブルグのリルケ途中までですが読んでます」とのメールがあった。5日のことだ。すでに4日のメールで、読みはじめたと書いていたので、これを見て、猪狩さんはニーチェからリルケに行ったのかと、わたしとしてはちょっと感激をしていた。
 病院で不自由だろうに(それはわたしも同様なのでよく分かる)、ハインリッヒ・マン編集の『ニーチェの言葉』と、キッペンベルクの『リルケ』がよく手元にあったと、これも感激なのだが、猪狩さんの選択の順序がルー・ザロメの遍歴と同じなのが面白いと思った。しかも、『ニーチェの言葉』の翻訳は確か原田義人ではありませんかとメールしたら、そうだと言われ、猪狩さんが原田義人の訳でニーチェを読んでいることも、わたしをもっと嬉しくさせた。原田義人は、加藤周一や加藤道夫、福永武彦、白井健三郎などと同世代で、戦後すぐの翻訳を担った人だ。わりと若くして亡くなっていて、評論集がたしか遺稿として残されている。わたしはこの人の翻訳書も集めたことがあって、大好きな翻訳者なのだ。そして、キッペンベルクのリルケ。星野慎一の訳だ。戦後すぐのリルケ・ブームの中で翻訳された本だが、猪狩さんの読んでいるのは、「世界の人間像」という選書に収められたものだ。これは、平凡社の「世界教養全集」(?)だったかを真似して角川書店が出した選集だが、今からすると、平凡社の収載は教養を元としたオーソドックスな編集、それに対して角川書店は、それとかちあわないように人間的魅力ということで伝記を集めた類似品の「隙間」選集と言ってよい。ではあるが、現在ではけっこう読み難くなっている伝記が収められていて、この選集、なかなか便利なものなのだ。キッペンベルクのリルケがその中に入れられたのは、やはりリルケの芸術家としての生き方が当時共感を得ていたからだろう。時代は、詩の季節、リルケの季節だった。
 猪狩さんは言う。
 「リルケの基本文献を山田さんに話をするのもおこがましいですが……。リルケの死生観、とりわけ独特の「死」の観念が綴られた章は、同時代を生きた女性の感覚が直に感じ取れます。後々も様々な女性との遍歴があるようですが。」と。
 言うとおり、わたしなどは二十世紀を女性原理の時代だと思っている。ルー・ザロメがニーチェを覚醒させ、十九世紀末に神の時代を終わらせたように、リルケの人間としての死の二十世紀もまた、ルー・ザロメによってもたらされたのであった。その後のリルケも、女性たちとの感応の中で、自分を支えていったように見える。
 ジグムンド・フロイトからユングへ。帝国主義から原始共産主義へ。都市から田園へ。男性原理から女性原理へと、二十世紀は大きく舵を取ったのである。猪狩さんの言い方を借りるなら「女性の感覚が直に感じ取れる」時代になったのである。
 ビオ・ソフィア(生の知)は、生死が人間のものとなった時に生まれる。有名なニーチェの「神は死んだ」は、「神を殺してしまった」、ということなのだ。そこから、人間として生きること、人間として死ぬこと、という「生の知」の在り方が問われることになる。ドイツのユーゲント・シュティールは、青春の生命の溢れとともに、つねに死、あるいは喪失感が表裏で現れ出ている。ハインリヒ・フォーゲラーの詩画集『あなたに』は、まさにそうした人生をなぞった本だった。この流れは、ウィーン分離派の装飾画家とも見られがちなクリムトにも言えるだろう。ベートーベンのフリーズ。ここにも画家のビオ・ソフィアを見るべきだろう。クリンガーの版画連作、ベックリンの「死の島」。美術史家がなんと言おうと、このビオ・ソフィアを避けて語るわけにはいかない。
 猪狩さんが、ニーチェとリルケに感じ取ったものは、世紀末、あるいは自身の転換期に対してビオ・ソフィアが問い掛ける問題だったのだと思う。そう考えると、「朝夕めっきり寒くなってきました 。入院中ですが、体調にはくれぐれも気をつけて下さい。車椅子ですか?猪狩」と書いてきた猪狩さんが向き合っている問題は、わたしなどよりははるかに大きいのだろう。
 研究対象としてのニーチェは、あらゆる所で論じられている。だが、ニーチェを自分の問題としてとらえた論者は少ない。そんな中、日本の思想が若かった時に出版された一冊の本の名をここで挙げておこう。中沢臨川の『嵐の中』。猪狩さん、持っていますか。


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高村光太郎の書く福永武彦と山田風太郎の書く堀辰雄――山田俊幸氏の「病院日記」(第16回)

2011年11月14日 15時48分44秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 以下は、10月8日に私の携帯に到着した山田俊幸氏のエッセイです。


寝たまま書物探偵所(16)・・・高村光太郎の書く福永武彦と山田風太郎の書く堀辰雄 by 山田俊幸



 長たらしい表題だが、今回は、この話。
 病院で、古雑誌の中から戦時中の『歴程』昭和19年3月号を見つけて読んでいた。表紙素描は庫田テツ。この雑誌、詩人たちの集まりだが、巻頭に逸見猶吉の、大東亜戦下再び建国の佳節にあひてとか、空の記念日のために、とか言う時局詩が載る。「大日本帝国二千六百年……大東亜戦下、けふ再び建国のよき日にあひ」というフレーズにすべてが要約されるだろう。この逸見を『歴程』の創設者という高橋新吉説(一般的には草野心平)があるが、雑誌全体に、この逸見のトーンがただよっている。この流れで見ると、小野十三郎が「石炭(いし)搬ぶ海のほとりで」で展開する詩も、戦時下の郷土詩運動(ファシズム・ドイツのハイマート運動の日本化だろう)に繋がると思わせる。「いま。/大和の国。/宇田郡。/鎧岳の南西面。/聳え立つ/石灰安山岩の柱状節理にあたつている。/残照よ。/濃き紫の。/その陽よ。」。あるいは「天平雲」の、「より高き寒き空に/雲ありて古し」。逸見のようなあからさまな時局詩ではないが、そうも読み取れる詩ではある。高橋新吉も、「能褒野(のぼの))神社」「敢国(あえのくに)神社」「中山神社」「稲田神社」「吉備津神社」を歌っている(稲田と吉備津は随筆)。そして伊藤信吉も、愛国百人一首を、今日の糧として讃えている。
 こんな中で、高村光太郎は当然時局発言と、つい偏見でそう見てしまうが、そうではない。「彫刻その他(二)」は、短文二つを収める。相馬御風の令嬢からもらったさざれ石の美しさから始まった智恵子が集めた九十九里の貝殻の話。それと、詩の韻律の話だ。
 その詩の韻律の話に、「夜(第六歌)」という挿韻詩が載っている。
 「花は地に終(つひ)の美を夢みる夜(よ)/光に翔けて行く翼のむれ/時黒檀の部屋に燃えくづれ/影を移す輝きのウエヌスよ//われを焚(や)くいのちのふるさと 於於/われに笑む遠い記憶よ眠れ/空の露忘却の鉄に濡れ/北河 天狼 五車 夜の女王//ここにともしびの孤独の宴(うたげ)/錬金の暗い調べをささげ/たち迷ふ憤怒の霊をくだす//吹く笛のたくみに物はふるへ/夕波に浮ぶウテナのゆくへ/天の乙女にさかづきを差す」
 高村光太郎の詩ではない。「若い友の一人である象徴詩人福永武彦君は数年来の試作の結果、今夏あたり、かなり完成した脚韻を自由に使つて詩を書いた。一行十五音、四四三三行の定型詩であるが、脚韻は二綴音までを揃へてイる。脚韻形式には数種を用ひられるが、いづれもあり勝ちな無理を感じない。今はこれについての意見は述べず、ただ一例を引いて置くにとどめる」」と、高村光太郎が書いたように、福永武彦の詩なのだ。
 福永がこの時期に高村光太郎と接近していたとは、うかつながらまったく知らなかった。しかも高村光太郎は、福永がソネットの韻律詩を作る過程に立ち会ったらしい。これは、戦後になって、マチネ・ポエティック運動として成立するが、その前史として面白い。
            *
 小学館の矢沢さんが持ってきてくれた本に、山田風太郎の『戦中派焼け跡日記 昭和21年』(小学館文庫)がある。名前だけ聞いて、読んだことのない人だったが、この日記、けっこう面白かった。昭和21年というと、わたしの生まれる一年前。戦後の混乱した時代だ。その価値紊乱の時代と、いつも節を曲げながら生き延びる不快なヤカラをも、みごとに写している。
 だが、ここで取り上げるのはそれではない。風太郎の読書である。
 若い日、人はだれでも読書家だった。山田風太郎も、復員後、医学を目指す山田誠也と言う学生で、読書し、小説にも力のある学生だった。
 その風太郎が、モーパッサン、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、チェホフ、ニーチェを読み、神を語り、人間を語るが、やがて、時代の作家である永井荷風や尾崎一雄などとともに探偵小説雑誌『宝石』を求める(5月8日)。それが、風太郎の人生航路の転機となったのだろう。『宝石』に投稿した原稿を機に、推理小説家山田風太郎ができるのである。
 そんな時期、風太郎は、六月に「青春彷徨」(五日)、十月に「秋の徒歩旅行」(十一日)とヘルマン・ヘッセを読んでいる。そして、十月二十二日の日記に、次のように書く。
 「堀辰雄『聖家族』『ルウベンスの偽画』『あひびき』読。日本のヘルマン・ヘッセか(?)」と。
 以後、積極的に「姨捨」(二十五日)、「かげろふの日記」(二十八日)、「ほととぎす」(二十九日)、「麦藁帽子」「挿話」(十一月一日)、「菜穂子」(四日)と、続けざまに堀辰雄を読み継ぐ。半端ではない読み方だ。これらの作品を一冊にした本はないから、戦争末期に出て、戦後も生き残った本を風太郎は見つけたのだろう。わたしは病院暮らしだから調べることもできないが、新潮社の『聖家族』、養徳社の『姨捨』、創元社の『かげろふの日記』、『菜穂子』などが思い浮かぶ。はたして、どれだろうか。ちょっと調べたい気が起きてきた。
 こんな記事は堀辰雄研究者のだれも書きそうにないから、ここでメモっておこう。需要史には、大事な資料なのだが。


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吉川霊華の軸――山田俊幸氏の「病院日記」(第15回)

2011年11月10日 19時03分10秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 もう退院して元気を回復しつつある山田氏が、病床から10月5日に送信してきたものです。退院後は忙しいようで、何も送ってきませんから、はやく滞貨一掃してしまわないと、私のブログ本来の姿に戻れませんので、急ピッチで転載を続けます。あと5回分で終わりだったと思います。



寝たまま書物探偵所(15)・・・吉川霊華の軸 by 山田俊幸

 丸橋さんが、えびな書店店主が書いた本をもってきてくれたことを前回書いたが、その時、一緒に『視覚の現場・四季の綻び』という雑誌の第10号もいただいた。丸橋さんが関東大震災について書いている号だが、中に吉川霊華について書いているのが目についた。
 吉川霊華は魅力的な日本画家で、その線描の美しさは比類がない。鏑木清方の文章で知り、たまたまデパートの古本市で出会ったのは幸運だった。たしか、銀座松坂屋の古本市で、少し前に知りあった丹波屋さんという書画屋さんに出たのだと思う。画題は重苦しくけだるい気分に満たされた貴人が琵琶を弾ずる絵で、決して元気の出る絵ではないが、好ましい。自題共箱で、霊華らしく難しい題がついていたが、今は病院ゆえ確認もできない。そんなものを皮切りに、さほど人気のなかった霊華を、出るたびにぽつぽつと集めていった。競争相手もいなかったと思う。買えるとはいっても、渓仙と比べるとさすが東京画壇の線の画家だ。淡彩でもそれなりの値はしていた。
 それと同時に、霊華が私淑したという冷泉為恭、浮田一恵の資料も読みはじめた。為恭の軸は高価で買えなかったが、一恵だけは法然上人絵伝という巻物を得た。そんな中で、霊華の全画集も高価で手が出なかったが、古い霊華画集の類はいくつか、なんとか手に入れることができた。そんなこともあって、いっとき、飯田呉服店の売り立て図録を、錦糸町西武の源喜堂のコーナーから全部集めてもらったこともある。渓仙と霊華の作品目録を新作の売り立て目録と骨董の目録のコッピーで作ろうと思ったのだ。その類もせっせと集めた。今から思うと異常な執着だった。だが、わたしの研究の流儀というのは、そうしたものだったのだ。そういう意味では、論文でも出来るくらいの資料は手に入れていたが、それに手をつけなかったのは、わたしの気まぐれ癖と怠惰以外のなにものでもない。軸は六軸くらいにはなったはずだ。
 古い霊華の画集を見ると、収集家の名前が記されている。最高の霊華コレクションは鈴木新吉らしいが、天金という銀座の天麩羅屋もだいぶ集めていたらしい。だが、いつ頃のことか、店の火事で焼いてしまったという。この話を書いているのは、天金の息子だった池田弥三郎さんだ。随筆で読んだことがある。池田弥三郎さんは、学生時代、講義を受けたので、知っていれば霊華のことをとうぜん聞いたはずだが、わたしが霊華を知ったのは卒業後だった。
 戦後、あるいは画集の編纂時だったのかもしれないが、霊華の文集をまとめた人がいる。私家版のようだったが、それも手に入れた。いつか使うと長い間置いていたが、残念だが大阪処分で救い出すことはできなかった。一冊二十円として市場で売られた。よく知られた霊華の関わる表紙絵は、『早稲田文学』にある。それとは別に、口絵の仕事をした一冊を手に入れたことがある。キュウセイさんに薦められたのではなかったか。署名は今は分からないが、これはまだあるはずだ。霊華のこういう仕事は珍しい。また、顕彰会の依頼だったのだろう。忠臣蔵の一場面なども描いている。
 極め付きの霊華の珍品は、大阪の大学に赴任した時、ピエかなにかで知った京阪守口のデパートの古本市で手に入れたものだ。吉川霊華と平福百穂のハガキを四葉ほど張り込んだ紙で、百穂のハガキはなんとか読めるが、霊華のそれはまったく歯が立たなかった。情けないが仕方がない。もったいないだけである。
 『視覚の現場・四季の綻び』に霊華の箱書きについて書いているのは、鶴見香織という人。東近美の人らしい。知らない人だが、霊華の軸を三百数十見たという。それで箱書きの謎に突き当たったのだ。霊華は今は人気がないが、当時はそれなりの画家だ。贋物も多いと聞く。わたしのものも真贋は判然としない。研究は大変だろう。この人、青木茂さんなら知っているかもしれない。青木さん、知り合いなら、資料提供しますと、伝えてください。と言っても、病院の声、青木さんに届くかどうか。


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「えびな書店店主の記」から思い出したことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第14回)

2011年11月01日 11時21分41秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は山田氏から私の携帯に、10月5日に送信されてきたものです。

[私の余計な付け足し]
 今回分では、明治、大正期の作家・芸術家たちの底流にある「男色傾向」というか、そうした風潮――最近、私が愛用する言葉で言えば「時代の気分」とでもいったことに関しての発言と証言が、とても懐かしいものでした。私自身にも記憶や実感のあるエピソードなのです。私自身は昔から、そして今でも、「クリエイテイヴな人間は異性に煩わされるより、同性ととことん自分の内面世界を極めようとする者が多い」と思っていますから、それほど特別な事とは思っていません。ただ、それぞれの時代に、それなりの特徴があったとは思います。
 初めの方に出てくる「伊勢丹の古書市」は、そのころもう私は中古レコードのコーナー方にばかり行っていました。今にして、惜しいことをしたと思わないでもありませんが、山田氏と私との基礎的な蓄積の差とか関心の方向の違いは、既にこのころ始まっていたのだとも思いました。(by 竹内)


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寝たまま書物探偵所(14)・・・「えびな書店店主の記」 by 山田俊幸

 先日、病院に見舞いに来てくれた丸橋さんが、蝦名規『えびな書店店主の記』(港の人・四月と十月文庫1、2011年6月26日発行)を持ってきてくれた。えびな書店の目録『書架』の後書きを中心にまとめた本だ。
 わたしがえびな書店を知ったのは、たぶん伊勢丹の古本市ではなかったかと思う。それも、その古本市の始まりの頃だったろう。その頃の伊勢丹は版画堂さんなんかも出ていて、絵に興味のあるわたしなどには出物の多い古本市だった。そんな中で、えびな書店は、画家の片鱗の伺える装幀画だとか、書簡の類が、わたしなどにも買える値段で出ていた。そういう点、まことにありがたい本屋さんだった。まだまだ、肉筆画は、どの画家のものでも高価な時代だったから。
 伊勢丹のえびな書店からは、細々(こまごま)としたものをずいぶん買わせてもらった。当時、入れ込んでいた富田渓仙の年賀状とか、岡鹿之助の装幀原画とか、橋本関雪が外遊中に日本に連れて来たドイツ少女のインサイダー書簡とか、じつに様々で多様なものをもとめた。もっとも、そうしたものをじゅうぶんにその後生かしきれてはいないのが悩みだ。だけれども、今年の暮れ、岡鹿之助だけは上原近代美術館の岡鹿之助展で、ようやく展覧されるらしい。それが、多少の救いになるかもしれない。

 蝦名さんの書いた本は、『書架』で一度は読んだもののはずだが、また一冊本にまとまってみると、けっこう新鮮だった。自分の古本体験、あるいは記憶とクロスする部分もある。こういう本は、そうした面白さなのだろう。
 例えば、こんな話が出ている。会津八一が好きな蝦名さんは、「会津八一とリヒテル」で、「またその書簡に充ちている厳しさと優しさもわたしを酔わせる。人間として立派なのである。(略)早稲田のある先生が、同人雑誌にせよ八一男色説を唱えているのを読むのは、いささか不愉快なのである」と書く。それに異論はないのだが、蝦名さんを不愉快にさせたのは、早稲田の先生である丹尾安典先生。同人雑誌とは、『一寸』だ。それにはわたしも参加しているからなんとも微妙な位置にいる。丹尾の男色説が違うというだけの論拠があるわけではないし、事実で言うならば、いくつかの本を読むなら、あるいは多少そうした傾向があったのかもしれない。だが、それは明治に生まれ大正に芸術家として活動した人達に共通した「趣味(テースト)」だったろうと、わたしなどは考えている。
 わたしが学生の時、『文藝春秋』だったかに、折口信夫のそうした傾向を書いた「我が師折口信夫」という小説が出され、スキャンダル的話題を呼んだことがある。学生たちの噂は短絡的である。話題は、折口門下の先生方に及び、消息通だった死んだ横田章はいかにも見てきたように、折口信夫と西角井正慶と高崎正秀の話をしていた。「三人で学校の門を出て、渋谷の駅まで歩いて行くんだそうだ。そしていつも駅にくると、高崎帰れ、西角井来い、と言うんだそうだ」と。横田の話が見てきたようだったのは、父親が同じ國學院だったからだろう。この話も、父親世代の噂だったにちがいない。そんな横田も、いつも一緒に連れ立って行動をしていたわたしと、あの二人おかしいんじゃないのと女子学生から噂されていたのだから、らちもないことだ。
 あの出版に関してみごとだったのは、岡野弘彦さんだった。岡野さんは最後の内弟子で、雑誌が出た直後から学生たちからはあれこれと取り沙汰されていた。わたしたちは岡野さんの新古今和歌集の講義を受けていたが、講義に入る開口一番、雑誌のことに触れ、「わたくしの時には、そうしたことはありませんでした」と、その時だけはしっかりと学生の顔を見ながらしゃべり、その後は天井を見ながら語るいつものスタイルで、講義に入った。忘れられない瞬間である。
 こんな折口信夫の傾向は、じつはこの時に初めて明かされたことではなく、室生犀星がすでに書いていたことを後で知ることになる。『我が愛する詩人たちの伝記』の中でだ。
 その犀星にしても、萩原朔太郎との間でそんな傾向があったことを、日夏耿之介が書いている。朔太郎が、鎌倉の日夏をしきりに訪ねた時期があったらしい。そんなあるとき、日夏のもとに突然犀星が来て、「ぼくは君に嫉妬を感じるな」と言って帰ったと言う。
 良し悪しは別だろう。江戸時代の武士階級の共同、協力という一体意識「一所懸命」には、この男色関係が大きく関与していると、いつか滝川政次郎先生から聞いた。同心という組織は、まさにそれ(男同士の恋愛関係)を人工的に作った組織だと言う。明治の近代化で、その男色は表面上は消えたようにみえる。だけれども、大正に入ると新しい宗教も含め、小さな閉じたセクトやコロニー、友人関係といったものが芸術家を大きく育てることになる。こうした強い人間関係には、男色的な親密な要素が多少必要だとも言えるだろう。大正時代にあらわれた「趣味(テースト)」と言ったのは、そうした意味である。スキャンダル的な男色論は噴飯だが、考えるべきことではあるのだ。

 蝦名さんが中央公論の画廊でやった青山二郎の装幀展も見た。その時は、だれが集めたのか知らず、すごいものだと思った。1989年のことらしい。
 1992年の『書架』の第十五号には、カラーで古賀春江の水彩画が出ているという。これは、前の年だかの錦糸町西武の古本市で出たものだろう。そこでは、「山田さん、一足ちがいで古賀春江を逃しましたね」と言ったのは、岩切信一郎君だったかもしれない。錦糸町西武は、源喜堂書店が目録から当日の出物まで、びっくりするような価格で出品するので、わたしたちには有り難い古本市だった。そこに、なんと古賀春江が出たというのだ。「あまり面白くない水彩画だったけれど、中川紀元の鑑定がありました」とも言われた。値段も、二十万前後のようで、いかにも源喜堂らしい値付けだった。これは目録にはなかったから、会場で追加されたものにちがいなかろう。誰が買ったのかなあ、と聞くと、蝦名さんだと言われた。わたしが行った時には蝦名さんの姿はなかったから帰った後だったらしい。
 これについては、本の二カ所で触れている。「古賀春江の水彩画を得てしばらく掛けていたことがある。いずれを表と裏にすべきか分からないが、とにかく一枚の片面には短い髪の自画像、もう一面には風景が描かれていた。パウル・クレーを知る前、シュルレアリストの一人に後年組み入れられるとは本人も予測がついていない、やや腺病質らしい十六、七歳の面貌がそこに映し出されていた。自画像が四、五点しか確認されていない古賀の発展を知る貴重な資料であるには違いないが手元に残そうという気は起こらなかった。」(「原勝四郎の絵を見た最初」)と書いているのがそれだろう。そしてそれは、目録の「カラーに古賀春江の十六、七歳ごろの水彩の自画像を載せていますが(裏が風景で、中川紀元のシールがついていました)、これは即売会で見つけたものです。利をむさぼろうとしたのが天の罰するところとなって売りあぐね、結局地元に近い美術館に寄贈するところとなりました。」(「開業二十年まで」)と、美術館に収まったらしい。岩切信一郎君の言うように山田にはまったく残念だったが、結果は蝦名さんのもとに行ってよかったのだ。

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珈琲随筆――山田俊幸氏の「病院日記」(第12回)

2011年10月27日 11時41分35秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 きょうも、山田氏は「閑話休題」といった感じです。9月30日執筆送信分です。

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寝たまま書物探偵所(12)・・・ブラジレイロのことなど by 山田俊幸


 このところ、病院で寝っころがり海藤隆吉さんからいただいたCDのジョアン・ジルベルトばかり聴いている。ベスト・アルバムだが、第一曲の「アクアレラ・ド・ブラジル」の歌いはじめがすっかり気に入ってしまったのだ。「ブラジル、ブラジル、ブラジレーロ」と聞こえてくるフレーズがなんともいい。そして、いつものことだが、「ブラジレーロ」の語が聴こえると、ついブラジル珈琲のことを思い出してしまう。コーヒーの香り高い味わいとともに、と書きたいところだが、それはちょっと違う。
 「ブラジル珈琲」とは言っても、これは喫茶店名ではない。ブラジレイロという名の、ブラジルコーヒーを商った、かつてのコーヒー店のことなのだ。
 もう三十年以上も前になる。横浜反町の古書即売会で、三、四十ページほどのパンフレットを、注文で手に入れた。表紙は藤田嗣治だったと思う。そんな冊子に飛びついたのは、藤田があったからではない。「ブラジレイロ」というタイトルが、即売展目録から目に飛び込んだからだ。ずっと気になっていた名前だった。気になっていた理由は後で言おう。
 冊子は千円で、そんなペラペラものとしてはいい値付けだった。藤田の図版で値が付いていたのかもしれないが、あるいは、あの当時は珈琲趣味の本(奥山儀八郎などに人気があった)を求める人があったから、それが理由だったかもしれない。内容は、東京にあったブラジル・コーヒーの輸入代理店の宣伝。ブラジレイロはその代理店名で、小売や喫茶店も併設していたらしい。とりわけブラジル政府と親密な関係を持っていたらしく、さすがに小冊子を出せるだけの店だと思われる。
 昭和ヒトケタ後半か、昭和十年代前半の出版だったろう。図版には新築(新装?)なったブラジレイロの内装壁画がカラーで紹介されていた。宣伝冊子としては、たいへんに贅沢なものだった。その壁画が、藤田のものだったのだ。藤田は、ブラジル本国を訪問したりしているので、そんなことからの起用だったのかもしれない。内容が面白かったので、まあ、千円でもいいか、だったが、じつはこれは見込み違いだった。
 買う前から、東京のブラジレイロであることは分かっていたのだが、これで博多のブラジレイロが少しでも分かるのではないかというわたしの期待があったのだ。
 気になっていた理由というのはそれである。立原道造のことを調べていて、「ブラジレイロ」という、博多の喫茶店が気になっていた。詩人立原道造は、晩年無謀とも思われる盛岡行き(北方行き)と、九州行き(南方行き)を敢行する。その時に博多で詩人たちと会ったのが、博多の中洲にあったというブラジレイロだった。独特の雰囲気を持った喫茶店らしく、詩人たちを生み出す場として興味をもった。そのブラジレイロを知る手掛かりになるかもしれない、という思いで注文したのだったが、残念なことに予想は外れたのだ。もっとも、外れたおかげでブラジレイロ探索は長く続き、那珂太郎の「はかた」がその片鱗を描くのを見たり、ブラジレイロ(博多の詩人たちはレイロと呼んでいたらしい)で撮った写真を見つけたりしたから、それはそれでよかったのだろう。
 さて、藤田壁画のブラジレイロ冊子は、今はどこかに行ってしまったが、何年か前に現物を見る機会があった。今も残っていたのだ。

 以上はわたしのコーヒー話だが、猪狩さんからこんな「午後のメール」をもらったのは、まだ個室にいた、十日ほど前のことだ。

「珈琲をのみたい 
 それも、こくのある濃厚なやつ
 神田ブラジルあたりのあの味わいだ
 珈琲にうるさい山田さんだからもっと旨い所を知っいると思いますが、あったら教えてください。以前東大近くの珈琲屋で豆を買って帰ってましたね。私の経験ですが概してジャズ喫茶の珈琲は不味く例外的に、いまはない上野にあったブルマンを出す「イトウ」という店だけでした。そうそう、横浜西口の横浜珈琲もよく行ってましたっけ、関西はどうですか。不眠中に珈琲の話もおかしな話ですが…… 。
 不眠限界で睡眠薬昨夜から始めましたが、夜中二時間おきに目が覚めてしまいますが、ましな気分です。猪狩」

 東大近くのコーヒー店というのは、本郷三丁目交差点近くにある和田珈琲店。竹内さんに教えてもらった。ネル・ドリップだから、入れ方が難しい。ある人が、二度通しをするといいよ、と教えてくれた。多少薄めに入るのだ。上品な飲みくちだが、猪狩さんのような濃いコーヒーの好きな人には物足りないだろう。
 死んだ気谷誠はコーヒー党だったが、スタイリストだから店の雰囲気でのコーヒーだった。神保町界隈で言うと、わたしがタンゴが聴けるミロンガなら、気谷はフランスの匂いのするラドリオだった。ときどき、連れ立って入ったのは、一誠堂書店の横の路地を入ったところにある珈琲館。そこの「日陰干しコーヒー」というのに御執心だった。もちろん、味ではなく、日陰干しというネーミングが、自分の人生スタイルに照らし、気に入っていたのだ。あと、けっこうお気に入りだったのは交差点脇のトロアグロ。とは言っても、晩年は二人ともお金がなく、マクドナルドの百二十円コーヒーになっていた。
 植草甚一はおいしそうにコーヒー・エッセイを書く人だったが、その植草エッセイに「イノダのコーヒーはどうしてこんなにおいしいのだろう」というのがある。イノダは東京ではない。京都の喫茶店だ。植草がいかにも美味しそうに書いているので、京都に行くとときどき寄ることにした。飲んでみて、なるほどである。これは、猪狩さん、京都で一緒に飲みましょう。


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河治和香『命毛』のことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第11回)

2011年10月26日 11時48分39秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 本日は、遅れている掲載を少しでも消化するためもあって、話が関連している2本を同時掲載します。もっとも、内容的には「書物探偵」というより、「交友録」風です。執筆は9月26日および27日です。ただ、山田氏らしい「創作論」も展開されています。これは、2本続けて読まないと、うまく真意が伝わらないものでもあります。

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寝たまま書物探偵所(10)・・・河治和香の『命毛』 by 山田俊幸


 日曜の昼過ぎ、小学館の矢沢さんがわざわわざ堺の病院まで、河治さんの本を持って見舞いに来てくれた。
 ちょうど千野隆司さんから送ってもらった新刊の『寺侍市之丞』(光文社時代小説文庫)を読み終わって、さあ今度は何を読もう、というときのことだ。河治和香さんの本は『命毛』(小学館文庫)。歌川国芳の娘を主人公にした時代小説である。
 『命毛』は、新刊というよりも八月発行だから、ちょっと前の発行となる。河治さんからは八月の発行と同時にもらっているのだが、それを読めなかったのには理由がある。まず八月初めの小火さわぎがあり、その後、途中まで読んでいたら今度は階段からの転落事故で入院。それで本は行方不明となった。手元に本がなく、絶対安静で買いに出ることもできず、さすがに河治さんには話せずにいた。すると今度は、河治和香担当の矢沢さんが必要なものがあれば持って行きますと言ってくれたので、今回は甘えることにした。
 シリーズ名は、[国芳一門浮世絵草紙]。『侠風(きゃんふう)むすめ』『あだ惚れ』『鬼振袖』『浮世袋』『命毛』の五冊で完結した。構想から完結までは四年かかったという。客観的な批評は誰かやるだろうから、ここではちょっとインサイダーな感想を書いておくことにする。
 国芳一門とは、言うまでもなく有名な浮世絵師歌川国芳、つまり武者絵の一勇斎国芳とその弟子たちである。門弟八十人以上という大所帯の上、門下に列なる有名絵師も十人では収まらない。そんな一門をどう書くのか、というのがこの本の興味の持ちどころだろう。一つには、オムニバスという手法がある。狂言廻しを話の中心におき、魅力的な弟子たちの逸話を並べていく。戦後すぐの映画に『舞踏会の手帳』や『輪舞』というのがあったが、あの手法である。これならば過不足なく門弟の逸話を描くことができる。便利な方法なのだ。だが、河治さんはその手法を採らなかった。
 狂言廻し以上に魅力的な主人公を見つけたからだ。それが国芳の娘の「登鯉(とり)」である。話は登鯉を中心に進んでゆく。
 この主人公の選択は、おそらく著者の思惑を越えて、もうひとつ興味深い事象を小説の中でもたらした。主人公登鯉に、教養小説で言うところの「成長」がないのだ。これは面白い。登鯉は、恋でも、男でも、人格としても、成長しない。一般論だが、主人公ものの連作シリーズの場合、若いときから歳を重ねるにしたがって、主人公は成長する。失敗を克服するという「教養小説」つまり「自己形成小説(ビルドゥングス・ロマーン)」となるのだ。中里介山の『大菩薩峠』や吉川英治の『宮本武蔵』などもそうだ。だが、この主人公登鯉は違う。自分を磨きはするが、つぎのステップには向かえない。何かにしがみつこうと心が思うと、体がそれから限りなく逃げ出すのだ。だが、この場合、そんな登鯉の性格が、国芳始め一門の皆を等しく照らすことになる。こんな小説はめったにない。
 構想から完結まで四年かかったという小説だが、主人公はスキゾ的に成長しない。だが、作者は違う。作者の自己形成には、夫の死という大きな出来事があった。その影を、わたしたちはこの連作の途中から読み取ることができる。そして、本としてはその時期から、登場する人々がより深みを増してきた。河治さんには、『秋の金魚』という前作があり、そこでは巧みなストーリー・テラーの側面が出ている。最初の『侠風むすめ』も、多少それを引き継いで、話し上手である。うまく導かれてしまうのだ。あれあれ、だ。これがいいという人もいる。だが、わたしには馴染めない。それが連作三巻目の『鬼振袖』で、話がぐずぐずになる。この小説、いったいどこに行くのだろう。方向が見定まらなくなった、と言ってよい。破綻と言う言い方も出来る。ストーリー・テラーの予定調和がこの時期、崩れてしまったのではないか。
 ところで、多くの作者が、この「破綻」が「チャンス」であることを忘れている。作者としては予定調和を崩す破綻を幸いと思わなければならない。魔の時を好機に変える。そこにクリエイティブな新しい物語が始まって行く。
 この小説は、夫の死という事実に揺れながら、新しい登鯉の話へと舵を切ることになった。中身に関しては触れないというのが常道だからここでやめておくが、終わりに近づくにつれて、一門の連中がそれぞれ生き生きとしてくる。まだまだ続いてもよさそうだ。
 タイトルの『命毛』とは、聞き慣れない言葉だが、その謎解きは巻末に出てくる。山下耕作監督から教えられたという。河治さんはこういう言葉を見つける名人だ。それも、聞き上手なのだろう。
 作り事とはいえ、本人の勉強が並ではなかったことは、わたしもよく知っている。だけれど、実現には、イサオさんの協力と、編集の矢沢さんの人柄が大きいことは、傍目からも言っておこう。

        *


寝たまま書物探偵所(11)・・・・喫茶店での会話 by 山田俊幸

 『命毛』(小学館文庫)は連作[国芳一門浮世絵草紙]の最終巻であるので、「あとがきにかえて」の一文がある。そこに、わたしが河治さんに声をかけた時のことが書かれている。
 人の記憶というのは面白いもので、同じことであっても、微妙に互いの記憶は異なっているものだ。河治さんの記憶とわたしの記憶も、異なっている。それは、話し掛ける必然性をわたしが持ってしまったことと、話し掛けられる必然性のないところに話し掛けられた河治さんとの、立場の違いと言ったらよいのだろう。妙に哲学めいた言い方だが、立場が変わったら、その理解も理由付けも変わる、と言うことなのだ。
 四年前の夏だったろうか、イサオさんのグループ展風土展(ふどてん)の開催前のことだ。渋谷の松濤美術館で館員の瀬尾さんと話したあと、東急本店、109を通って渋谷まで出たわたしは、持ち歩いていた絵葉書の整理をしようと、駅近くの雑居ビル地下に行き、渋谷トップスというコーヒー店に入った。ここは時々寄る喫茶店で、けっこう一人で来る人も多く、ざわついてなく、静かなのがよい喫茶店だ。絵葉書の発行年、出版元、画家名、印刷の種類、コメントなどを専用のカードに書き込んでゆく。そんな作業をしていた。ほとんどデータらしい記載のない絵葉書からすると、けっこうな難事業で、慌ただしい中ではできない仕事である。だから、ある程度の時間と、環境が必要なのだ。
 渋谷という町は、高校時代は通り道、大学では地元だ。だから旧知の場所なのだが、全く様変わりして、昔人(むかしひと)の知るところではない。ただ、トップスのある雑居ビルの一角だけは大学の頃の渋谷を残している。そんなこともあってのトップスだった。
 その日の喫茶店内も人はまばらだった。定席があるわけではないが、だいたい行くといつも腰掛ける場所がある。入口左手の奥のベンチ風の長椅子だ。その時もそこに腰掛けた。本来ならばはじの席がいいのだが、そこには人がいたので、この日は真ん中の席となった。
 そこからは店の内部のおおよそが見渡せるのだが、わたしの前の通路を隔てた席に人が座ったのがいつだったか、その記憶がない。珍しく絵葉書に集中していたのだろう。するとそこから、わりと通る声で「今、クニヨシを調べているんです」という女性の言葉が聞こえてきた。今のような歌川国芳ブームの前のことだ。クニヨシと言ったって、クニヨシ・ヤスオのことだろうと聞き流していたら、話が井上和雄の『浮世絵師伝』のこととなった。おやおや、だ。浮世絵研究でもしているのかな、と思って岩切由里子さんのことなど思い出し、さらにある出版社に岩切さんの編集で国芳画集を出さないだろうかと交渉に行ったことまで思い出した。そんなことから、絵葉書の手も休みがちとなり、けっこう周りにも聞こえる通路向こうの老紳士と若い女性の二人の会話をなんとなく聞くことになってしまった。
 それが河治さんだった。女性は、国芳の娘の小説を書こうと思うのだけど、資料がなくて、と連れの老紳士に言う。このあたりからわたしの方は、当たり前だよ、と、どうやら、いらいらし始めたらしい。国芳のことならいざしらず、国芳の娘なんかはイサオさんに聞くしかないじゃないか、そう簡単に分かるものか、である。こうした時、いつもなら相当いらいらしても、「まあ、いいや」で、無関係に済ますのだが、この時はちょっと事情が違った。小説を書くということから、千野隆司さんとしばらく前にした話を思い出してしまったのである。それが、時代小説の資料調べの大変さについてだった。「たいへんなんですよ」。それが千野さんの言葉だった。これがいけなかった。しかも、手がかりのあまりないはずの国芳の娘を調べたいと熱心にしゃべっているのだ。そんな姿と、それを包み込むように聞いている老紳士の姿を見ていると、二人とも悪い人とも思われない。そう言えば来週、セントラル美術館での風土展が始まるではないか。イサオさんはそこにいる。それだけでも教えておいてあげよう、と思い付いた。
 そうこうしている内に、その二人は話が終わったらしく、テーブルを立ち、出口に向かう。わたしは仕方なく出口まで追いかけて行って、声をかけた。「すみません。国芳をお調べならば、イサオさんをご存知ですか」と。河治さんの記憶では、声が大きいと言われるのかもしれないと思ったらしいから、最初は何を言われたのか分からないようで、怪訝な顔をしていた。だがやがて、「イサオさんのものなら、読んでいます」との返事。「国芳のことなら、来週セントラル美術館でやる風土展にイサオさんは詰めているから、そこでお聞きなさい」。わたしの役割はそれで止めとなるはずだった。
 ところで、河治さんの記憶では、そこで、「怪しい」と思ったらしい。たしかによれよれのズボンと派手な色の色あせたTシャツ姿だから、怪しいと思われても仕方ないかもしれない。そんな時に、お名刺をいただいたら?という老紳士の声があった。こちらとしては、セントラル美術館でイサオさんと会うきっかけを作ってあげただけでよかったので、名乗るつもりもなかった。妙に勘ぐられるのは嫌だなと思ったのだ。だけれども、老紳士の言葉には抗えないような気がして、しかたなく持ち歩いていた両面コッピーで作ったぺらぺらの名刺を渡した。この名刺の方がもっと怪しいなと思いながら。
 そのあと、来週と思っていた風土展は再来週の勘違いだと分かったりしたので、名刺を渡した手前、イサオさんにことの顛末を電話した。「話している相手の紳士がニコニコと聞いていて、悪い人ではないと思ったので」ということと、「国芳の娘なんて、なかなか調べられませんよね」ということを付け加えた。イサオさんには、ちょっと怒られるかなと思ったら、面白がってくれたのが幸いだった。小説を書くと言ったって、どういう雑誌に書くのかも知らない、さらにその小説を読んだこともないのだから、無責任この上ないことだった。いい歳して、愚かな話である。熱心な話しぶりと、千野さんの大変さを思い出したばかりに迂闊なことをしたと、その後は反省しきりだった。それからしばらくして、風土展の会場で、イサオさんとお会いした。申し訳なく、反省してますと、平身低頭。するとイサオさんは、おもしろかったよ、と助け舟を出してくれた。
 その後のことは、河治さんの書いたとおりである。ただ、自分のことだから書いていないことがある。立ち会ったわけではないから想像に過ぎないが、河治さんの国芳猛勉強だ。わたしなどはイサオさんのおかげで、門前の小僧的には国芳を知っている。だが、浅いものだ。ただ、河治さんにもこの浅い耳学問をまず薦めた。環境に自分を沈めておくためにだ。そこに身を置いてみると、研究者とは違った感覚が生まれてくる。物書きにはそれが必要と思ったからだ。これも実践してくれたようだが、イサオさんのところからさまざまな浮世絵雑誌を借り出して読んでいた。大変な苦労だったろう。
 迂闊な声掛けから、結果はよかったものの、だけど今でも反省しています。イサオさん、ごめんなさい。これが偽らざる気持ちである。
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フォーゲラーの詩画集『あなたに…』と、ユーゲントシュティール――山田俊幸氏の病院日記(第10回)

2011年10月24日 13時31分46秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 前回のブログUPから、2週間近く経ってしまいました。このところ、「しおり」本の下版に忙殺されていた余波が押し寄せてきて、何も手に就かない状態でした。そうこうしているうちに、山田氏から、退院予定のメールまで来てしまいました。溜まる一方の「寝たまま探偵所」を早く掲載しなければ、と焦るばかりです。予定通りなら、今日、退院です。今は落ち着かないでしょうから、私からのメール、電話とも遠慮しています。明日か、明後日、尋ねてみます。何はともあれ、「寝たまま」が「そのまま」どころか「起きあがってしまう」という事態になりました。第20回まで溜まっています。掲載、なるべく急ぎますが、私自身は、『クラシック・スナイパー(8)』(青弓社)用の原稿を早く仕上げなくてはなりませんし……。

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ビオ・ソフィアとフォーゲラー――寝たまま書物探偵所(9)by 山田俊幸


 数年前に、思い付いて、ハインリヒ・フォーゲラーの詩画集『ディアー(あなたに…)』を自費で出版した。この詩画集は不思議な本で、十九世紀末にヴォルプスヴェーデで一度発行され、その甘やかな絵と詩章とでフォーゲラーを一躍ユーゲントシュティール(青春の様式)の王子の位置に押し上げた詩画集だった。
 この詩画集にはモデルがいる。詩画集上梓の後に結婚したマルタ・シュレーダーだ。フォーゲラーには、何枚もの写真(十九世紀末のことだから、けっこう高価だったろう)が残っていて、そこにはこの詩画集の女性そっくりなマルタと、その衣裳とを見ることができる。つまり、普通に考えるならば、恋人マルタとの愛をテーマにした詩画集だと言えるだろう。
 だが、詩と絵は短絡的な解釈を裏切る。詩に表れているのは、甘いラブ・ロマンスではない。死を隣に置いた「生」の形、別れを宿命とした「愛」の形なのだ。フォーゲラーは、そのドラマを詩画集に封じ込めるため、マルタとともに「あなたに…」を演じた、と言ってもよい。甘やかな表現の中に、厳しい現実があるように、青春(若者たち、ユーゲント)はつねに傷つきやすく、現実に対して脆いものだ。フォーゲラーもまた、ユーゲントの夢を失ってゆく。
 この詩画集が再刊されるのが、1919年のこと。詩画集が初めて出されてから20年ほどしてからだ。フォーゲラーはユーゲント・シュティールを捨て、立体派の構図に近づき、さらにプロレタリア・リアリズムを模索していた時期だ。「不思議な本で」と言ったのはそれである。なぜ、妻マルタとの訣別が決定的になってから、恋人であり妻でもあったマルタの思い出である詩画集を再刊したのか。それが、不思議なのだ。
 未練とも考えられるし、単に出版で共産主義実現のための資金を得るためとも考えられる。それでも、なぜ、である。
 いや、そのいずれも、なのかも知れない。当面の資金調達は待ったなしだ。第一次世界大戦でドイツの失ったものは大きい。目前には、経済疲弊があり、孤児がいる。ユーゲント・シュティールの時代から夢見がちで理想家だったフォーゲラーはその現実を受け入れることはできない。現実的には、そのための商品としての出版であったろう。だが、「本」というものは商品ではあるが、しばしばそれを裏切る。現実が理想を裏切るように、理想もまた現実を裏切るのだ。それは、「本」はつねにメッセージだからだ。
 ここでもそれがあったのだろう。失われたもの、失われた過去、それへの切実なメッセージがこの「再刊」には込められていたのだ。かつての愛の怯え、愛の歓喜。マルタとの自然の中の愛の生活。フォーゲラーの思いはつねにそこに還っていった。
 ユーゲント・シュティールの時代は、「ビオソフィア(生の知)」に関心が寄せられた時代でもあった。一個の「人間」として生きることが問われた時代であった。フォーゲラーのスタイルは、それを反映している。脆く傷つきやすいスタイルだが、それのなんと魅力的なことか。
 フォーゲラーの詩画集の翻訳をしてくれたのは、阪本恭子さんだった。阪本さんは、わたしの勤めている大学でドイツ語と生命倫理を教えていた。わたしは、その阪本さんから「ビオ・ソフィア」の話を聞いた。神の領域から、生命が人の領域に移ったときの「知(哲学)」の問題についてである。。それがユーゲント・シュティールと連動した動きであることに気づいたのは、それからしばらくしてだった。ニーチェからそれが始まったという。
 長い前置きだか、それが猪狩さんの「午後のメール」につながる。前回に続いて台風のさなかのメールだ。

 「入院以来二度目の台風の最中です、マンの要領を得た文章から、昨日の続きですが、抜き書きします」と言い、ハインリヒ・マンのニーチェ解説を、猪狩さんは引用する。
「彼は余りにも病んでいたので~彼ならこういうであろう~余りに健康であったので」、「ここにひとつの事実がある、一人の病者が自分の運命を認め、決してそれが終わることのないように願うまでにそれを愛ししている」、「彼は自己の果たすべきすべてのもののために、それから後10数年間しか持たなかったのである、作品、作品による力、他のあらゆる栄光を彼の光によって凌ぐこと、それ故また、健康であること、こうした一切のことのために、彼の数多い苦悩から、彼はひとつの新しい、もっと高い健康というものをつくり出した。自分が健康であると宣言した」、「実際、病気は内面の健康であり得るし、その逆も真である」、「私には何ら病的な兆候はない、最も大きな病気にあっても、私は病気にならなかった」。
 そして、マンは最後の締めくくりでこう書いているという。「彼の教義は、最も自由、最も聡明、最も高い魂たちの宗教であらねばならない。金色の氷と純粋な空とのあいだの牧場の笑いでなければならない」と。

 ニーチェから、生命への問が始まる。芸術もまた生命とともにある。「乙女デザイン」などとのんびり構えているが、その向こうにある憧れや、悲しみ、生命の危機や歓喜、それがとらえられての乙女デザインなのだ。

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【竹内の付記】
 このブログ冒頭の写真が、山田氏が文中で言っている『あなたに…』の表紙です。山田氏と私と、あと何人かの仲間とで学生時代に始めた出版組織「風信社」を発行名義にして久々に刊行した書籍です。今のところ、書店流通では扱っていませんが、まだ残部がありますので、下記「大正・乙女デザイン研究所」にお問い合わせください。頒価1500円にて、お受けしています。
 
 otome-design@mail.goo.ne.jp


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ドビュッシーと堀辰雄――山田俊幸氏の「病院日記」(第9回)

2011年10月11日 16時03分46秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 先日お伝えしたとおり、『近代ニッポン「しおり」大図鑑』のゲラ校正が終わり、索引のデータも済ませましたので、やっと一段落です。週末は、ワレフスカのCDを聴くコンサートで少しご挨拶をする機会などもあり、気分転換にはなりましたが、いつの間にか、山田氏から送信されてきている『寝たまま書物探偵所』が、私の携帯のなかで「そのまま」になっていて、しゃれになりません。なんと10回分たまっています。山田氏が執筆をしているもうひとつのブログ「大正・乙女デザイン研究所」用の「小林かいち物語」の原稿も6回分たまっています。精力的な人です。これは、怪我をして入院生活をして、かえってよかったかな、と思うほどです。それぞれ順次、原稿整理してブログ上に掲載しますので、もう少しお待ちください。
 ところで、当の山田氏ですが、ゲラ校正が終わったと知って、しばらくお休みしていた資料調査依頼を、また、遠慮なく、ベッドの上からメールでして来るようになりました。「手許で調べられないから」が、このところ「切り札」です。いつから彼の助手になったんだろうと苦笑いしながら、彼の手・足・眼の代わりをしていると、私自身も、久方ぶりに、とても刺激を受けます。私の関心のある分野にも様々に食い込んできます。山田氏の関心と知識の広がりに、改めて感心しています。以下、再開「探偵所」、9月23日に受信した分です。

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ドビュッシー随筆――寝たまま書物探偵所(8)
 by 山田俊幸

 海藤さんからいただいたCDから、ドビュッシーの「月の光」が流れてきた。静かないい曲なのだが、寝たままの状態で聴いていると、どこか安楽の国にでも引きずりこまれるような感じがする。安楽の国というのは、死の国であることはもちろんだ。
 ドイツ旅行をした時に、ミュンヘンで歌劇「ペレアスとメリザンド」を見たことがある。あれは面白かった。演出が意表を突いていたのだ。舞台中央に古びた大樹を置き、その右下に寝台。それだけの舞台セットである。登場人物は十七、八世紀風衣装で、これも好ましかった。変に現代劇風にするものもあるが、あれは苦手だ。音楽的にどうなのか。終わってからの拍手が疎らだったから、音楽としては失敗であったのかもしれないが、その大樹を用いての舞台は、わたしにとってはとても興味深いものだった。一面、能舞台のようであり、宗教学で言う「宇宙樹(コスミック・ツリー)」をも思わせた。そこですべてが始まり、そしてすべてが終わるのだ。「ペレアスとメリザンド」はメーテルリンクの原作。メーテルリンクは、神秘主義的な作風を持つ劇作家だから、日本の能の夢幻的趣とは親和するのかもしれない。さらに、「宇宙樹(コスミック・ツリー)」は、生命の樹でもある。そこに「生」があり、「死」がある。ペレアスとメリザンドの生と死が、この大樹に、すべて飲み込まれる。そんな劇に出来上がっていた。
 原作では、メリザンドは水の精の特徴を持つ。若くはない男寡の皇太子ゴローに声をかけられたのは、水に冠を落とした時。ゴローの指輪を失ったのも泉。水は生命の象徴であると同時に、死の国への入口である。そうしたイマジネーションの中、メリザンドを巡る、兄ゴローと弟ペレアスの愛の確執で話が進んで行く。ゴローのメリザンドへの執着から、ペレアスはゴローに刺され死に、メリザンドもまた傷つき、やがて命を落としてゆく。そして、ゴローの悔恨。悲歎。そんな中、老国王によって、メリザンドが臨終間近に産み落とした赤子が、次の代を継ぐものとして示されて終わる。そんな話だ。
 ミュンヘンの舞台でとりわけ印象的だったのは、原作では塔の上からメリザンドの長い髪がバサッとペレアスに落ちる場面だ。ペレアスはそれを抱きしめる。それをここでは、太い幹の樹の上から落とした。それは、はっとするような美しさだった。今でも忘れられない。
 ドビュッシーにどのような考えがあって「ペレアスとメリザンド」を歌劇化したのかは知らないが、メーテルリンクの生と死のあわいにある、運命の悪戯や微かな神秘的な兆しは理解していたのだろう。「月の光」からも、そんな微かなしるしを聴くことができそうだ。
 メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」は、一九七〇年代に杉本秀太郎が翻訳をして湯川書房から出版されたと思う。小洒落た綺麗な本だった記憶がある。チルチル、ミチルの『青い鳥』で知られるメーテルリンクが、従来思われていた子供向け作家から、神秘的な思想を持つ作家に評価変えされはじめた時期に重なる。たしか『遊』という雑誌を出していた編集工学研究所がメーテルリンクのハチの生活だったか、蟻の生活だったかを神秘学教本のように出していたことも記憶している。
 ドビュッシーからメーテルリンクに話がつい行ってしまった。ドビュッシーにもどろう。「月の光」を聴いていて、いつも想像が飛ぶのは堀辰雄の晩年のことだ。
 堀辰雄には「雪の上の足跡」という対話編がある。対話形式のエッセイというのは幾人も試みているが、あまり成功したものは見ない。そんな中で、堀辰雄のそれは傑出している。読み込んできた古今の書物と、さらに自らの人生とを、ここで綴れ織りにしたからだろう。
 ここでは、フランス文学一辺倒だと思われていた堀辰雄の知識が裏切られる。ハイネあたりの流浪する神の話が出るし、日本の古典文学にも話が及ぶ。遠藤周作は、東西比較宗教論的にも理解されるものと言い、研究としては、折口信夫との出会いが影響しているとも言うが、そんなものではない。折口とのダイアローグがきっかけにはなっただろうが、その語り口は間違いなく堀辰雄のものだ。なかんづく、トムソンにまで話が及んでいることは驚きだ。
 ジェームス・トムソンは重要な宗教詩人だが、日本の英文学でも触れられることの少ない詩人だ。「四季」が代表作だが、わたしは残念ながらその全詩を読んだことがない。ハイドンのオラトリオ「四季」はトムソンの詩に依ると言うから、日本盤のライナー・ノートでも見ればよいのかも知れない。けれども無精なわたしは、それもしていない。一度、田村書店洋書部の愛書家目録に、フューズリー他挿絵の「四季」が出て、それをもとめたことがある。造本は堅牢を旨としたもので、そこがいかにもイギリス的だが、用紙の選定や挿絵の質は並のものではない。それを見ただけでも、トムソンのイギリス文学の中での重要性がわかる。そのトムソンに、堀辰雄は「雪の上の足跡」のもっとも大事なメッセージを持たせているのだ。
 そんな中で、この対話形式のエッセイの低音部に流れているのはドビュッシーのような気がする。。堀辰雄の小説、エッセイで音楽的なものは意外と少ない。「美しい村」はフーガ形式で書いたと言うが、それはスタイルであって、音楽が聴こえてくるわけではない。だが、この「雪の上の足跡」だけは珍しく、音楽が聴こえてくる。それもあるかなきかの間(あわい)の音楽だ。この対話編、主人堀辰雄と客野村英夫との対話と、事情を知っている人にはわかるようになってはいるが、その実際は、堀辰雄は野村英夫の向こうに、死んだ年少の詩人立原道造を見ながら対話しているように思えてならない。立原には「西風の見たもの」という詩がある。堀は「雪の上の足跡」だ。この呼応は興味深い。いずれも、ドビュッシーのピアノ曲のタイトルなのだ。亡くなった年少の友との対話。堀はそれをこの対話編に潜ませた。そのことに、ドビュッシーほど最適な音楽はないだろう。
 オペラ「修善寺物語」を書いた清水脩によって、アンドレ・シュアレスの『ドビュッシー』が翻訳されたことがある。これはいい本だった。シュアレスはルオーの挿絵『ミゼレーレ』などの本文作家として有名だが、この「ドビュッシー」は佳作である。文学的解釈と片付けられないものがある。あの本に、「西風の見たもの」と「雪の上の足跡」は、どのように説明されていただろうかと、ふと思う。こんなとき、手元に本がないのは困る。

【竹内の付記】
 清水脩訳のシュアレス『ドビュッシー』は、私も持っています。昭和18年2月に地平社から発行されたもので、私が持っているのは昭和21年の再版です。「西風の見たもの」への言及はありませんが、「雪の上の足跡」は以下のようなシュアレスの言辞が訳出されています。(新かな遣い、新漢字に改めました。)
 ……執拗に繰り返されるつまづくようなリズムは、恰も怖る怖るフェルトの上を歩くように、すべったり、また立ち直ったりして進み、見渡す限りの一面の白銀の世界をたくみに暗示している。けれども、そこには宇宙の窒息するような沈黙が立ちこめ、心は悲しみに病み、憂愁に悩み、疑惑と悔恨にうちふるえている。時折かすかに吹く風に雪は斜めに舞いかかる。永い、耐えがたい路、暗闇のノスタルジアと暖かい愛情のノスタルジア、一口にいえば自分の心をただ一つのより所にして、とぼとぼと歩む果てしない孤独、それは、この世界のありとあらゆる沙漠や冬ですら、これほどとは思えぬ孤独なのだ。……
 

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ジャズの聴こえる小説――山田俊幸氏の「病院日記」(第7回)

2011年09月16日 12時19分52秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 しばらく「お休み」かと、油断したとたんに、山田俊幸氏のメールが飛び込んできました。このところ、病院のベッドから送りつけられてくる山田氏のメールを私のブログに転載していますが、そのおかげで、ほぼ毎日のように更新しています。彼に「ひさしを貸した」わけですが、結局、私が山田氏という「他人のふんどしで相撲を取る」結果になったかと思っていましたが、きょう届いた山田氏のエッセイを読んで、な~んだ、山田氏も他人のふんどしで相撲を取ってるんだと気づいた次第。私が、山田氏に刺激されて思い出すように、山田氏も猪狩さんに触発されているようです。
 以下、山田氏から届いたばかりのエッセイです。

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ジャズの聴こえる小説――寝たまま書物探偵所(6)

 昨日、猪狩さんからこんなメールが届いた。お馴染みの「午後のメール」である。今回は「鬱を楽しむ」とある。

 「毎日病室にいるとただでさえいやな鬱気分なり、手元の能天気なスィングジャズばかり聞いていますが、いま本当に聞きたいのは、1930年代のウォルター・デイビスというブルースピアノ歌手です。この人、当時相当人気があったらしく、いまドキュメントからのCD五枚100曲で聞ける曲はほとんど弾き語りのワンパターンで、リズム感乏しい鬱々たるスローブルース群。逃げ場のないヘルプレスの世界、こんな曲がよく売れたのが不思議です。酒場は絶対雇わないし、コンサート会場からは逃げ出したくなる音楽。しかし聞いているうち妙に引きずり込まれてしまいます。ワンパターンなのでまるでCD1枚が1曲のように聞こえてきます。いまではその鬱を楽しむ愛聴盤となりました。」

 ジャズ愛好に関しては、わたしは猪狩さんに一朝も二朝も先んじられている。わたしが教師になって猪狩さんと出会うのは八年ほどしてからだろうが、ちょうど同じ頃、同僚の国語科に藤山徹さんという人がいた。わたしはその人からモダン・ジャズの手ほどきを受けた。なにかの話しでジャズのこととなったのだろう。どんなものを聴いたらよいかなどと言う野暮な質問に、親切な藤山さんは、自分のレコードから幾つかを選曲し、カセットテープに落とし、それをわたしにくれた。それがわたしのモダン・ジャズ事始めとなった。
 なんでわたしがモダン・ジャズなのかと言うと、その頃の「現代文学」と関係している。好き嫌いは別に、その時代の現代文学を代表する二人は、大江健三郎であり、石原慎太郎だった。その二人が、モダン・ジャズへの眼差しを持っているのが気になっていたのだ。慎太郎には井上梅次監督の映画「嵐を呼ぶ男」に底通している「ファンキー・ジャンプ」があり、それは風俗的ではあったが、まさにジャズ小説だった。大江健三郎は、エッセイに時々モダン・ジャズを取り上げ、七○年代の問題作『個人的な体験』の主人公の名は、ジャズの場面など出てこないにもかかわらず、なぜかわざわざ「バード」とした。「バード」といえば、ジャズの業界ではチャーリー・パーカーに決まっている。なぜ、であった。
 そんなことと、当時愛読していた原田康子にジャズの匂いを嗅いだからだろう。原田康子には、もちろん『挽歌』から入ったのだが、『殺人者』という魅力的な中篇小説がある。全編熱に浮かされたような小説で、その熱っぽさの持続にわたしはまいってしまった。それは、『挽歌』にも『サビタの記憶』にもあったものではあるが、とりわけ『殺人者』は強烈だった。その原田康子が『殺人者』執筆の時、クリフォード・ブラウンを聴いていたという。誰なんだ、だった。たしか藤山さんの手ほどきカセットテープにはクリフォード・ブラウンはなかったと思う。そこで、思い付いて行ったのが、秋葉原の石丸電気レコード売場の外国盤売場だ。わたしはそこで、クリフォード・ブラウンが何者かも知らず、大量のレコードを片っ端から見て廻った。そしてようやく、マックス・ローチ、クリフォード・ブラウンの「キャラバン/ニューヨークの秋」を見つけ、手に入れたのだ。とりわけ、ブラウニーの不安定なトランペット・ソロが始めに流れる「ニューヨークの秋」は、どこか『殺人者』の微熱に続くようで、わたしの愛聴盤となった。
 やがて、猪狩さんも同好の士とわかって、猪狩さんに連れて行ってもらったのだろう、横浜のダウン・ビートというジャズ喫茶に行ったこともある。けっこう椅子席のあるダウン・ビートは広く、ほど近くにある有名な千種(ちぐさ)とは違って、気楽に音楽が聴けた。千種は雰囲気はいいが、十人も入ればいっぱい。常連にはいいのだろうが、多少気詰まりだったのを覚えている。
 猪狩さんの「午後のメール」から、突然、原田康子のことなど思い出したが、猪狩さんはその前のブルースが聴きたいらしい。モダン・ジャズ止まりのわたしからすると、猪狩さんの探求的好奇心には驚かされる。わたしはきっとそこまでは行かないだろう。猪狩さんの探求は、本人は自覚していないだろうが、本質的だ。わたしのそれは、どちらかと言えば表層的なのだ。一昔前の言い方で言うと、パラノ(パラノイア)とスキゾ(スキゾキッズ)の違いだ。でもいいではないか、それぞれなのだから。
 最後に、ジャズ好きへオススメ本。ウエスト・コースト派やバド・シャンク、アントニオ・カルロス・ジョビンが聴こえてきそうな小説がある。小野木朝子『クリスマスの朝』(?)。猪狩さん、ブルースで鬱を楽しむのもいいけれど、こんな小説で気晴らしもいいですよ。

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【竹内の付記】

 いやぁ、懐かしい名前のオンパレードです。クリフォード・ブラウンとマックス・ローチのLPは有名で、復刻盤が日本語解説封入で出ましたから、私も買っている愛聴盤です。70年代には、クリフォード・ブラウンのLPといえば、これ一枚きりでした。ずいぶん後になってから、パリ録音のレコードを2、3枚買いましたが、事故で夭折した人だけに、残された録音は少なかったと思いますが、ジャズLPには詳しくありませんから、うっかりした事は書けませんね。
 私がクリフォード・ブラウンを買ったのも、原田康子です。原田康子は『晩歌』の大ヒットで世に出た作家ですが、私は結局、未だにあの長編小説を読み通していません。私が最初に読んだ原田康子作品は、筑摩書房から出た『廃園』です。サイン入りの特装本を、駿河台下の三茶書房で買ったのです。美しい本です。ある種の熱っぽさの持続が独特の魅力の小説でした。あと、好きだったのは短編集『サビタの記憶』、そして、『殺人者』です。山田氏とかなり同じものを、似たような感性で読んでいるのは、やはり、時代の空気が反映されていたのでしょう。
 小野木朝子も好きでした。今では忘れてしまった人も多いでしょうが(山田氏も「?」を付けてうろ覚えのようですが)、『クリスマスの朝』は河出書房の「文芸賞」受賞作だったと思います。今でも単行本を書棚に入れてありますが、こちらは、熱っぽさよりも、ふわりとめくりあがるような浮揚感(小説中に、実際、そんな表現が出てきたはずです)が不思議な魅力でした。確かに、どちらも「音楽」が聴こえてくるような小説ですが、私は、この二人に共通しているのは「空気感」「空気の気配」のようなものの濃密さだと思っています。山田詠美もそうですし、最近では、綿矢りさが、そうです。そこが、『ファンキージャンプ』の慎太郎との違いでしょう。大江のほうが、空気感は濃いですね。『叫び声』など、特にそれを感じたことがあります。
 いずれにしても、山田氏が小説に関して「音楽」を口にするとは思いませんでした。長い付き合いですが、なぜか、山田氏は私とほとんど音楽の話をしないのです。
 もうひとつ。原田康子の話から『晩歌』のことで思い出したことがあります。子ども時代の記憶ですから、間違っているかもしれませんが、何も調べずに、思い出すままに書きます。
 あの本は北海道のガリ版刷りの同人雑誌に掲載されていた無名の少女作家・原田康子の作品を「東都書房」が発行して大ベストセラーとなったのですが、それによって資金的に余裕の出来た同社が、次に思い切って出版に踏み切ったのが、夭折して、一部でしか認められていなかった童話作家の遺稿をまとめた『新美南吉著作集』全二巻だったはずです。これがなければ、「ごんぎつね」も「てぶくろを買いに」も今ほどに知られることはなかったかもしれません。毎日出版文化賞を受賞しましたが、当時、小学校6年生だった私が図書室でその本を見つけて読んでいたら、司書の先生が、「正しく利益を使った出版社の偉業だ」というようなことを教えてくれた記憶があります。「東都書房」という名は、編集者のひとりとして出版界に身を置くようになった私の、出版社の理想のようなものの原点でもありました。

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パピニ/大木惇夫訳『ゴグの手記』(アルス昭和16年)のことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第6回)

2011年09月12日 00時01分01秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 先ほどの続編です。前回のブログupに続けてお読みください。

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寝たまま書物探偵所(5)・・・・・パピーニのこと、ヘッセの水彩画

 猪狩さんに前回の尾崎喜八の一文をメールした。すると、「午後のメール」というのが返ってきた。わたしは空き部屋がなく個室だったから、四六時中メールを打っていられるが、猪狩さんは大部屋、携帯電話の使用は限られるのだろう。それが、午後2時頃。したがって、「午後のメール」ということになる。
 そこで、前回に聞かれたヘッセと尾崎喜八の関係について、こう書いてきた。「尾崎喜八の作品も知らずにヘッセの水彩画の雲と結びつけた勝手な推論でお恥ずかしい限り」、と。わたしは猪狩さんの推論を否定したわけではない。猪狩さんが考えているように、低通したものはある、と考えている。書いたことは、二人が立っている場所が違った、ということだけだ。
 それに続けて、「当時はまだヘッセの水彩画など紹介されてなかったかと思い」と猪狩さんは書いているが、それはちょっと違っている。たしかに画集などの出版はないが、ヘッセの水彩画はけっこう紹介されているのだ。ヘッセの文献目録は、ドイツ文学研究のための学会誌『ドイツ文学』あたりにありそうだが、図書館などで調べられない身、今は触れない。だけれど、ヘッセ・ブームの始まりは日本では、第二次世界大戦下だったように思う。昭和十年代のことだ。片山敏彦の『ドイツ詩集』が新潮社から出され、同じ新潮社から『ゲーテ詩集』『リルケ詩集』(片山敏彦訳)『ヘッセ詩集』(高橋健二訳)などが出たように記憶している。そんな時期、三笠書房が『カロッサ全集』『ヘッセ全集』『リルケ全集』の刊行に踏み切った。リルケだけは昭和18年くらいに出版の『風景画論』一冊で終わったことは知っているが、他はどれだけ出たものか。その『ヘッセ全集』のカバーに、たしかヘッセの水彩画が使用されている。だいたい古本屋などで見かける『ヘッセ全集』は、そのカバーが欠けていて、赤色の表紙に、ヘッセのサインが金で箔押しされたものだけだから、なかなか水彩画にはお目にかからない。その後、戦後になって第二次ヘッセ・ブームが新潮社と三笠書房の全集、そして各社の文庫本の刊行で起こってくる。その都度、水彩画はメインではないが、サブリミナル映像のように、ひそかに紹介されていった。
 尾崎の『高層雲の下』は、それらより大分前の刊行だから、ヘッセの水彩画との関係は薄い。それよりは、ラスキンの雲や、島崎藤村の雲のエッセイなどを思い浮かべるべきだろう。だが、『山の絵本』の表紙はどうだろうか。どこかヘッセの水彩画をイメージしてもいいようだ。
 猪狩さんへの答はそんなようなものだが、せっかくの猪狩さんの二十世紀本の知識がもったいなくて、「猪狩さんも、本についての短文を書いてみませんか」と、往復書簡ではないが、誘いを出してみた。すると、「本の思い出は個人的にはありますが、人様に言えるようなことはありませんが駄文を送ります」との前置きがあり、思い出の本の短文が書かれていた。なんとそれがパピーニ。のっけが、パピーニかい、である。以下、猪狩さんからのメール。

 『ゴグの手記』(パピーニ作/大木惇夫訳/アルス)この本は何かの出張帰りにぶらっと寄った横浜の藤棚の古本屋で800円で買ったもの。パピーニはカトリックでありながら未来派の異色な作家。ゴグという超大金持ちが金に糸目をつけずとんでもないことをする奇談珍談。当時のレーニン、ガンジー、エジソンはおろかサンジェルマン伯爵をはじめ古今東西の有名人登場。その毒舌、皮肉はすごい。大金をはたいて最新音楽の作曲を依頼した話、食事とトイレの話、リラダンとの対話等々。余り話題にならないが当時の未来派、構成主義、ダダの最中の作品。 猪狩

 パピーニは、日本では大正終わりから昭和にかけて流行した作家だ。とりわけ、仏陀の生涯が版を重ねていた。猪狩さんの書いた『ゴグの手記』がアルスだったように、仏陀の本もアルスから出されていた。訳はともに北原白秋門の詩人大木篤夫(惇夫)だったと思う。
 わたしがパピーニの本を知ったのは、戦没学徒である松永茂雄の遺稿を整理していたときだ。松永がそれについて共感的に書いているのをみて、なんとか手に入れたいと思った。あの頃は、そういう本の買い方だった。だけれど、今のようにネットで探せる時代ではない。古本の目録で高いものはパスしたし、けっこうお目にかからなかった。千円くらいが、買いの基準だったので、これも入手を遅くした理由だ。だから、入手した頃には読みたいという気は失せ、手近にある満足だけが残った。どうやらそれが、わたしの古本買いの流儀になっているようだ。パピーニはそうして手に入れた。
 最近、またパピーニに出会うことがあった。宗教学者ミルチャ・エリアーデの日記の中で、である。若き日のエリアーデもまた、パピーニの仏陀の生涯を愛読していたようだ。

 ところで、猪狩さん紹介のパピーニ本、わたしはまったく知りませんでした。面白そうで、さっそく見つけたいのですが、今まで通りの本との出会いを待っていたら、いったい何時になることか。やはり、ネットかな。だけど、猪狩さんのこの紹介で、ネット読者何人かが買いに動くことは必至。困った世の中になったものです。

9月10日

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【竹内・追記】
 山田氏のことをよく知るひとは、彼がパソコンを使えないことをご存じだと思います。ですから、ネットでの探し物や買い物、携帯では出来ないパソコンでのメール送受信(文書や画像の添付操作)はもちろん、こうしたブログでの発言・情報発信などは、いつも私が代行しているのです。今回も、上記の彼の記述を読んで、頼まれたわけではないのですが、当ブログへのup前にネット検索して、彼のために1冊、『ゴグの手記』を確保しました。もうこんな時間ですから、病院時間で生活中の山田氏は就寝中だと思うので、明日の朝、報告することにします。たぶん、喜んでくれることでしょう。

(注)同日に2本のブログupがあると、何かと探しにくくなりますので、23時近いupだったこのブログの投稿時間を、日付の変わる0時1分に偽装しました。本当は、22時43分01秒でした。
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尾崎喜八と雲――山田俊幸氏の「病院日記」(第5回)

2011年09月11日 20時04分53秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 もうしばらく、山田俊幸氏が病院のベッドから毎日のように携帯でメールしてくる「エッセイ」をお読みください。余分なことですが、文末に、私の追記を付しました。

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尾崎喜八と雲――寝たまま書物探偵所(4)

 高校時代、東京の外苑前に学校があったので、親には、家のあった大崎から渋谷(環状線)、渋谷から外苑前(地下鉄銀座線)の定期を買うからと言って、お金をもらっていた。その実、定期は大崎から原宿までしか買わないで、幾許かのお金を残していた。何故そんなことをしたのかと言うと、同好の士はわかるだろうが、本代に回したかったからだ。高校時代のわたしは、このほかにも、ときどき昼を抜いて、それも本代に回していた。
 帰りは、友達が一緒のこともあったが、一人で渋谷まで歩くことが多かった。外苑前から表参道を通り、渋谷まで抜ける道は、広々としていて、その頃は自動車も少なく、気持ちよかった。学校は神宮球場の前にあった。学校を出てしばらくすると、左手に外苑前駅がある。そのあたりから前方右手のビルにVANの看板が大きく見えた。『メンズ・クラブ』だとかアイビーだとかが大流行し始めていた時代だ。縁はなかったが、どこかその建物が眩しく見えた。もっとも、わたしの目指したのは道の反対にあった古本屋さんだった。名は忘れたし、それほど出物があったわけではない。だけど、寄らないわけにはいかない気分だったのだろう。
 その頃のわたしは、右側の歩道専門で、本屋さんでもなければめったに左の歩道を歩くことはしなかった。渋谷に向かって右側には、VANを通り過ぎてしばらく行ったところに「BATTA」という喫茶店がある。そこに描かれたバッタのイラストが妙に心を引いた。この喫茶店には在学中は入らなかったと思うが、後で入ってみてBATTAの由来がわかった。北川民治のバッタのエッチングが壁面に何点か飾られていたのである。いい版画だったが、今だにその同じバッタにはお目にかからない。そしてさらに行くと、表参道に出、右手に青山学院が見えてくる。青山学院の前は、路面電車の車庫だった。そこには、ローランサンと言う喫茶店があったり、青山ケンネルなどという犬の預かり所があったりした。
 そのあたりが、ちょうど宮益坂の上になっている。そして青山学院側に洋書を置いた誠志堂書店、右手に中村書店があった。わたしのお目当てはその中村書店だった。
 この中村書店は、詩集ばかりを置いた古本屋さんで、店内の右のガラス戸付きの本だなには、数万から数十万の値が付けられた特装本や稀少詩集が並べられていた。だが、表の平台には、たしか五十円か百円で、無名の詩人たちや、詩集以外の本が並べられていた。そんな中で、わたしは東京創元社の『アルセーヌ・ルパン全集』や、北森彩のたしかパウル・クレーの線画を表紙に配した『塔のある風景』などを手に入れている。北森彩の詩集は、大分前に朝日新聞の文芸時評で林房雄が取り上げ、ずっと読みたかったものだが、機会がなかった。それでも詩壇とは無縁の詩人だったらしく、誰かへの献呈署名本だったが、そんな値段だった。その中村書店で見つけたのが、尾崎喜八訳の『ヘッセ詩集』だった。
 いつも買う本とは違って、千円くらいと高めではあったが、高村光太郎への献呈署名本。見つけた時はびっくりした。たしか限定版の三番本だった。わたしとしては、尾崎喜八は憧れの詩人、高村光太郎は高名の詩人である。当然、右のガラス戸の中に収まるものだと思い、何かの間違いだろうと思っていた。値はついているが、署名は見落としたのだろうと。そんなことだから、帳場まで本を持ってゆくのが、ためらわれた。間の悪いことに、いつもは奥さんが帳場にいるのだが、その日はオヤジさんだった。恐る恐る帳場に本を運んだ。オヤジさんが値段だけを見て包んでくれたらいいと、それだけである。無口な中村書店のオヤジさんは、この時も無口だった。ところが、本を差し出すといつもならば直ぐに包んで渡してくれるのに、今回だけは違っていた。値を見るために箱から本を出したはいいが、中を見始めたのである。ページをパラパラと開き、こちらが気づいてくれなければいいと思った「高村光太郎様/尾崎喜八」という署名まで見ている。ああ、これで「悪いけど値段を付け間違えたから」と、引っ込められてしまうかなと思った瞬間、オヤジさんはやはり無口で詩集を包み始めた。長い時間だったような気がする。戦後しばらくしての刊行だったと思うが、三笠書房版の尾崎喜八訳『ヘッセ詩集』は、こうしてわたしのものになった。
 尾崎喜八の詩は、わたしの中学生くらいからの愛誦詩だった。新潮文庫に『尾崎喜八詩集』があり、わたしはその上にカバーをかけ、そこに下手な色鉛筆画を描いた記憶がある。我が家には、多分父の蔵書だったと思うが、山の本が多くあった。そんな中に、尾崎の朋文社版『雲と草原』の初刊本があった。それを真似たのだ。
 尾崎には、アルス文庫だったと思うが、『雲』という写真集がある。東京郊外に住んでいた尾崎が撮った雲の写真を集めたものだ。平凡な写真ながら、これがなかなかよかった。『高層雲の下』『雲と草原』の他、尾崎には雲の詩は多い。その「雲」をテーマにして展示をしたいと思ったのは、ここ数年来のことだ。世の中には、人の不徳を暴いて生業にする人がいる。尾崎もまた、不徳を暴かれる一人で、その戦争協力がそれだ。たしかに、戦争協力の詩集『その糧』と写真集『雲』とは、ほとんど同時期に出たはずだが、この乖離こそが人間なのだと思う。目前の現実と逃避なのかも知れないが、わたしはそれを現実と理想と呼んでみたい。現実が過酷ならば過酷なほど、理想は美しい。尾崎が、戦争という現実を肯定していたら、あんな「雲」の写真など、呑気に撮ってはいないだろう。
 猪狩さんから、ヘッセの水彩画と尾崎の雲と、なにか関係ないのだろうかと聞いてきた。ないわけもないだろうが、ヘッセの水彩画は、心の風景への帰郷に思える。それに対して尾崎の雲は、崇高なる憧れのようでもある。その憧れは、時として、憧れの方向を過つことがあるのだ。
 数年前、田村書店の二階洋書部で、ヘッセの水彩画の画集を見つけた。その中に、尾崎の『ヘッセ詩集』の箱に使われた水彩画を見出だした。その時、何か大きな連環がとじたような思いがしたことを思い出す。
 アルス文庫の『雲』は、今は記憶にはあるが失われた本だ。こんな寝たままの時、病院から空を眺め、尾崎の写真を見たらどんなにいいだろうか。

2012.9.10


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【竹内・追記】
 山田氏がここで書いている外苑前から渋谷までの道は、いわゆる「青山通り」、国道246号です。私も、山田氏としばしば歩いたコースです。彼が「犬の預り所」と表現している青山ケンネルは、今でいうペットショップです。あの時代には、なんと言っていたでしょうか。
 都電の青山車庫跡は、今、青山劇場とか言っているこどもの城です。ミュージカル「アニー」を上演している所だと思います。
 中村書店の数軒手前にも古書店があり、それは「巽書店」といったと記憶していますが、VANに向かう角の道路向かい側にあった古書店は、私も名前を忘れてしまいましたが、ここで私は『文學界』や『文藝』のバックナンバーを買っていた記憶があります。
 私たちの高校生時代は、創刊後間もなかった週刊誌『平凡パンチ』がすっかり定着した頃です。青山通りには原宿の深夜スナック「コンコルド」の支店があり、夜になると、いわゆる「原宿族」がバイクに乗ってやってくる通りでした。革ジャン、アイビー・ルックにサングラスといった青年が、「コークハイ(ウイスキーのコーラ割り)」を飲むと絵になる町でした。
 
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団塊の世代は「詩の季節」のなかで青春時代を過ごしていた、ということ――山田俊幸氏の「病院日記」(4)

2011年09月10日 00時01分01秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 本日も山田俊幸氏の「病院日記」です。音楽関係の話題を待って下さっている方には申し訳ありません。
 以下、山田氏が送信してきた文章をそのまま掲載します。


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寝たまま書物探偵所3・・・・熊田司個人雑誌『えむえむ』のこと


 先日、病院の見舞いに丸橋茂幸さんと熊田司さんが連れ立って来てくれた。その時、熊田さんは岡山土産の森谷南人子の展覧会カタログと、こんなものを出したのだけど、と、一冊の薄くはあるが大判の冊子を渡してくれた。
 森谷南人子(もりたに・なんじんし)は、わたしなどには版画家として親しい。いつか版画堂で、店主の樋口さんから藤井達吉の創作版画絵封筒を見せてもらったとき、南人子のものもあった。京都の佐々木文具店の見本帳ではなかったかと思う。そんな版画の類がカタログになかったのが残念だったが、「森谷南人子その後」とあって、「すべて」展のあとだから版画は「すべて」展に出たのかもしれない。
 もう一冊は『m/m』(えむえむ)と題された冊子だった。中は版画や本に関わる図版と文で満たされている。熊田さんの個人雑誌だ。
 表紙は簡潔なデザインで気持ちよいが、活字をイメージしたのだろうか、左上のだまし絵のようなワンポイントが面白い。
 びっくりしたのは、巻頭のシャルル・クロスの詩「アンリ・クロスの―三枚のアクワチントについて」の訳。熊田司訳だ。戦後になってたくさん出たサンボリスムやパルナシアンの詩を呼吸したと思われる訳で、タイトルの「吃驚仰天(びつくり・ぎやうてん)」などの表記は、なまなかな翻訳者には思いもよらない。しかも、このあたりで象徴派だの高踏派だのを偏愛する人々は、日夏耿之介だの斎藤磯雄の流儀になるのだが(亡くなった気谷誠がそうだった)、熊田訳はそこをさらっと流して軽妙である。「助役の声が叫ぶ『イジチュール氏の理性、お月さま行き!』」は名台詞である。
 江戸末・明治期の銅版画・石版画コレクターだとばかり思っていた印象が払拭されたところで、熊田さんの青春回顧が始まる。「銅版画と散文詩――私的かかずらいの来歴」が、シャルル・クロス訳の謎を解いてくれるのだ。
 この冊子には、ジャック・カロ、駒井哲郎のエッチング、ピエール・ミニャール(二世)原画のビュラン刻、ジョシュア・レイノルズ原画のメゾチント、亜欧堂田善の「大日本金龍山之図」、初代玄々堂、岡田春燈斎、細井松夫、中川耕山、河野通勢などのエッチングと、なんとも多数が紹介される。そのどれも有機的に結び付く。しかもそれが、皆、熊田さんのコレクションだと言うのだから驚きだ。その連環をつないでいるのが、図版に付けられたコメントということになる。
 そんな図版の一葉に、ちょっと毛色の変わった版画がある。モノトーンの中に突然の、淡いと言っても彩色の一葉。それが、グランウィル画、ジュフロア刻の『生命ある花』からの一葉「LIN」だ。LINは「亜麻の花」で、花言葉は感謝だという。熊田さんは、この絵を見たとき、油絵の溶き油「亜麻仁油(リンシッド・オイル)の薫香がふっと鼻先を掠めるように感じた」と言い、ドビュッシーのピアノ曲「亜麻色の髪の乙女」を「空耳に聞」いたという。絵との、うらやましくなるような幸福な出会いだ。この出会いの感激を熊田さんはこの小冊子に盛ったのだろう。
 最後に、個人的に一番おもしろかったのは、やはり私的かかずらいの来歴で、それは詩集や版画の趣味が年代的に私と共通しているからだろう。熊田さんは、パルナシアンからランボオ、ボオドレエル、マラルメに行ったらしい。いずれも、エッチングの時代の詩人たちである。わたしは、ラディゲからコクトー、リルケと悪食だったが、時代的には熊田さんの方向は分かる。東京創元社の朱色で小型の『現代日本名詩集大系』がセンスも収録も、最高に素敵な詩の羅針盤だった時代だ。もっともわたしは、同じ時期、父親が買った河出書房版の『日本近代詩大系』を眺めていた。戦後、昭和二十年代生まれの若者たちは、詩の季節に生きていたのだ。
 そうした人間には、熊田さんが並べた、飛鳥新書(角川書店)のベルトラン、伊吹武彦訳『夜のガスパール』、ボードレール、三好達治訳『巴里の憂鬱』、青磁選書のロートレアモン、青柳瑞穂訳『マルドロールの歌』、創元選書の小林秀雄訳『ランボオ詩集』、創元文庫版『富永太郎詩集』、角川書店版の菱山修三詩集『盛夏』と、詩集だの図版が並んでいると、それだけでうっとりとし、うれしくなる。
 じつはその大半をわたしも持っていた(とは言っても、大阪の大量処分でいくつかは失われているはずだ)。角川書店の飛鳥新書は、社主角川源義が折口信夫に習った縁で、社員に國學院出を、そして社を始めた時に堀辰雄の知遇を得たことによって独文、仏文のルートができた。「飛鳥」の命名は素晴らしく國學院的であり、ボードレール、三好達治の選択は素晴らしく堀辰雄的である。じっさい、堀辰雄は角川書店の出版物にアイディアを出していたのだ。
 このうち垂涎の一冊は、青磁選書の『マルドロールの歌』。残念ながら、これまで見たこともなかった。二、三年前に駒井哲郎が版画を付けた青柳の訳本は手に入れたが……と、ここまで書いて、竹内貴久雄さんから三笠文庫の『夜のガスパール』を借りっ放しにしていたことを思い出した。早くかえさねば……。

(9月9日執筆)

[追記]
『えむえむ』は、〒662-0831西宮市丸橋町八-二十五 熊田司 の刊行。

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【竹内追記】
 タイトルの「病院だより」が「病院日記」になっていることにお気づきでしょうか? どうもしばらくは、山田俊幸氏からのメールが続きそうです。パソコンをまったく使えない山田氏ですが、検索も掛けず、手許に資料本もないまま、記憶だけで、携帯で文章を綴り続けている努力と博識に、改めて感心しています。しばらく、私のブログのひさしの下をお貸しすることにしました。
 もちろん、近々、「大正・乙女デザイン研究所」という山田氏が立ち上げる組織のブログは開設しますが、内容的には、私のブログの現在のカテゴリーの方が合っているかもしれません。今は、「山田俊幸氏の病院日記」という新しいカテゴリーを起こすかどうか、迷っています。彼の知識量と、現在の有り余る時間とを掛け合わせると、2ヵ月程度はネタ切れにはならないでしょうから。
 ところで、今回の分、途中まで読んでいて「ベルトランの、あの本、貸したままじゃないか!」と憤慨していたのですが、彼も思い出したらしく、最後に突然、オチを付けています。返して貰わなくては。退院したら、しっかり要求します。
 なお、当ブログ冒頭のタイトルは、私が勝手につけたものです。また、こんな安易なタイトルを付けて…と叱られそうですが。でも、私の本音です。彼が言っていること、とてもよくわかりますし、高校、大学時代の自分を思い出しました。先日の震災を機に、本棚の組み換えを行なっているのですが、ついこのあいだ目にした、ずっとしまっておいたままだった様々の詩集など、読み返したくなりました。
 和田徹三の『白い海藻の街』、愛読書だったのですが、それを紹介してくれたのも、他ならぬ山田俊幸氏でした。渋谷・宮益坂の中村書店で買いました。


 
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