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石黒浩己の新しいCDアルバム『Canvas――風景の見える音楽』の発売日が決定しました。

2012年12月27日 17時30分03秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)
先日予告した石黒浩己のCDアルバム『Canvas――風景の見える音楽』の発売日が2月13日に決定しました。
キングレコードからの発売です。
以下は、私が執筆したライナーノート全文です。お読みください。
もう既にアマゾンなどで先行予約が開始されています。ぜひ、お聴きいただきたいと思っています。

■石黒浩己の「祈り」と「思い」
                             
 すべては、東京・日本橋のバーのカウンターでの会話から始まった――と書くと何やら謎めいて聞こえるかもしれないが、これは、ほんとうの話である。2010年6月30日と日付まで言えるのは、待ち合わせを決めたメールのやり取りがたまたま残っていたからだ。
 その日、石黒浩己とロックグラスを傾けながら、私がひとこと呟いた。
「このごろ、いつもひとりで弾いてるけど、一匹クンと一緒にやるのって、いいんじゃない?」
 その瞬間の石黒のすばやい反応を、今でもよく覚えている。
「ぼくも、今、それ、言おうと思ってたんです。何でわかっちゃうんだろう」
 おそらく、ずいぶん前から、ふたりで同じことを考えていたのだろうと思う。正に、「電気が走る」とは、こういうことを言うのだろうと思った瞬間だった。
 一匹クンこと竹本一匹は、石黒が「BLUES ALLEY JAPAN」で弾いていた時の仲間のひとりで、石黒のCDアルバム『うつろひ』にも参加しているパーカッショニストだ。様々の響きに敏感に反応するミュージシャンで、言ってみれば、不意打ちを喰らわす風鈴の音や、かすかに聞こえる衣擦れの音まで表現しかねない、日本的な繊細さをさりげなく聞かせる名人だと、私は思っている。
 その竹本一匹との共演を私が発想したのは、その時期に石黒のソロ・ライヴを、繰り返し聴いていたからだろうと思う。彼から案内をもらうままに、赤坂、品川、神楽坂、と、ずいぶん様々な場所でのライヴを耳にしたが、彼の世界が深化しているのはわかるが、それと同じくらい、自身を追い込んでしまっているようにも感じていた。ソロ・アルバムのCDを計画していて、新曲の試録音も溜め込んでいたから、ライヴだけではなく、録音でも聴かせてもらっていたが、何か、外に向かって開放するものが必要だなぁというのが、私の感想だった。
 世の中には、ひとりぼっちで居ることが好きな人と、そうでない人とがいる。私もその、そうでない一人だ。いい音楽を聴くと、どうしても誰かと話したくなる。飲みたくなる。少々イヤなやつでも、ひとりぼっちで静かに朝を迎えるよりは誰かと話していたいと、無性に人が恋しくなる時は、心が大きく反応している時なのだ。ざわざわとした気持ちが内側から湧き上がってきて、わけもなく叫び出したくなったり……、人の心の動きには、とても不思議な力が宿っている。石黒浩己の音楽は、人との対話を求め続ける音楽なのだ、といつも思う。加えて、石黒が、いつまでもアコースティックな音楽の手触りを大切にしていることも、彼の音楽の心地よさが守り通されている理由だと思う。
 石黒浩己+竹本一匹の演奏は、こうして、2010年6月30日に発案されたが、それから数ヵ月後、彼から、いろいろ試しているし、音も録り始めたと聞いたので楽しみにしていた矢先、この国を襲った未曾有の大地震が発生した。2011年3月11日だ。今回の新しいCDアルバムには『3・11』と題された曲が収録されているが、これはもちろん、この日の出来事にインスパイアされて生まれたもの。多くのアーティストが「あの日」を作品にしているが、石黒にとって、この曲の意味は格別のものであるはずだ。
 石黒は湘南の海を眺めながら育った音楽家だ。そして数年前から、住み慣れた都心のマンションを離れ、その茅ヶ崎の実家をスタジオに改造して生活している。自分ではひと言も触れていないが、あの大津波の映像がテレビのニュースで流れたときの彼の心境は、私の想像を遥かに超えるものだったろうと思う。石黒の『3・11』が、まるで凪のように穏やかな海を思わせて始まり、それがやがて、大きなうねりとなって頂点を極め、一度収まった後、また盛り上がり、やがて静かで穏やかな音型が帰ってくると、そこに、竹本の一打ちが挟まれる――そういう音楽になっているのは、石黒の、海への祈りなのだと思う。
 私が、「一匹クンと一緒に音楽をやったら?」とけしかけてから数ヵ月後に始まっていたはずのデュオの音源がある程度揃ってきたところで起こった大地震は、石黒の音楽にも少なからず影響を与えたという。大地震後に録音したのは『3・11』のほかに、『大海へ』『Island』『ひこうき雲』の3曲だと聞いたが、ほかにもいくつか録り直したいものがあったとも言う。そのままとなったのは、先に録音した演奏テイクの出来を越えられなかったからだそうだ。
 竹本との出会いがしらの感興が勝っていたということだろうか? アコースティックな音楽の生まれる瞬間の神秘とは、そういうものだ。震災の前と後とではピアノのコンディションが異なり、しかも大きな余震で調律が狂うと調律師待ちとなったり、と様々なアクシデントを乗り越えて一枚のCDにまとめ上げるのはたいへんだったろうと思うが、竹本一匹という仲間を得て、石黒浩己が「思う」音楽を奏でているこのアルバムの誕生を、私はうれしく思っている。
 石黒は2011年5月から、ほぼ2ヵ月に1回のペースで竹本とのデュオでの演奏を、六本木の「SOFT WIND」というライヴスポットで続けているが、そこではほとんど毎回、『想う事は…』という曲を弾く。これはもう今から20年も以前、1992年に自主制作された石黒のファーストCDの最後に収められた曲だ。私の大好きな曲だし、古くからの彼のファンなら、誰もが好きな曲のはずだ。
 「想う事は…」のタイトル通り、同じ曲なのに、いつも、その日の心象風景で違って聞こえてくる。この曲は、彼の心を映す鏡なのだ。私は、この曲を弾き始める瞬間の、彼の決然とした表情が好きだ。そんな時、「石黒は音楽を〈自己表現〉にしている、数少ない音楽家のひとりなのだ」と実感する。今回のCDアルバムにも『想う事は…』が収められている。この音楽の手触りを、これからも大事にして欲しいと思っている。(2012. 11. 28)

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思いがけずボサノバの話からハリウッド音楽の一側面へと連想が……。――山田俊幸氏の「病院日記」(第8回)

2011年09月20日 19時28分56秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)
 申し訳ありません。書きかけの「エゴン・ペトリ」の新譜の感想、また書き損ねました。本日は、山田氏が、病院のベッドから以下の文章を送ってきましたので、その転載です。「書物探偵所」とは名ばかりで、めずらしく音盤の話題です。私も、つられて、長々と「付記」を書き足してしまいました。
 なお、本日の山田俊幸氏の文章は、別ブログ『「大正・乙女デザイン研究所」のページ』でも、このところ数回分を書きためていた「小林かいち物語」をスタートさせましたので、お読みいただけるとうれしいです。ベッド上で携帯電話の画面だけで推敲して書いている割には、それほど錯綜していませんでしたので、あまり手を入れずに済みました。これまで伏せられていたことも、ぽつぽつと書き進めていくようです。そんな始まりです。こちらは、私もかかりっきりになれませんので、週一、毎週火曜日にupするつもりです。

■寝たまま書物探偵所(7)

 土曜日の午前、身動きとれずにいる堺の病院に、海藤隆吉さんがCDを10枚ほど持って、東京から見舞いに来てくれた。午後には、奈良県立美術館の富本憲吉展に回るという。富本憲吉記念館の山本茂雄さんの講演があるからだ。そうした忙しさの中での見舞いである。申し訳ないこと、この上ない。
 入院の知らせでCDを聴くプレーヤーがあると知ったのでダビングしてきました、と言う。言うのは簡単だが、ダビングのための機械操作にはけっこう時間がかかっただろうと思うと、感謝である。今までは一枚のCDを繰り返し聴いていて、それもいいのだが、猪狩さんとのやり取りの中で小野木朝子の小説を思い出し、つい西海岸ジャズやボサノバが聴きたいなと思っていた矢先だ。海藤さんのCDに数枚のボサノバがあったのがうれしい。
 ボサノバと言えば「ガール・フロム・イパネマ」というのも素人臭いが、わたしにとってのボサノバはどうしてもこれでなければいけない。たぶん高校生だったか、大学に入ってだったか、FEN(ファー・イースト・ネットワーク)という駐留軍放送を聴いていてこの曲が流れ、そのリズムに感動したからだ。似て非なるものだが、当時やはりFENから流れていた「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」などにも入れ込み、ラジオをよく聞いていたものだ。
 海藤さんが持ってきてくれたのは、ジョアン・ジルベルトのベスト・アルバム、ナラ・レオンが二枚。ナラはポピュラー・スタンダードのボサノバ風味付け。初めて聴くが、寝たままにはこれがいい。ちょっとだけ、けだるい憂鬱もあり、それでいてエロティックでもある。ジョアンは言うまでもない。大怪我のおかげで、なんともいい時間が持てた。
 ボサノバ・レコードはリアルタイムには買っていない。高校生ではFENのビルボード・ヒット・チャートの聴き手だったから、アメリカン・ポピュラー・ミュージックをポツボツと買っていた。もちろん、古本が主だから新譜レコードを買うお金はない。その当時、どういう理由か町のあちこちに増え始めたカット盤のレコード店を友達から教えてもらって買い回った。カット盤とは、ジャケットの一部をパンチで穴をあけたり、切り取ったりしてある未使用の安売り盤だ。中古よりも盤質がいいので安心して買えた。時間遅れのヒット盤だったが、けっこう楽しかった。SPシングルのデル・シャノン「ラナウェー」、ボビー・ビントン「ブルー・ベルベット」、ボビー・ダーリン「マック・ザ・ナイフ」などは、まだ家に残っている。EP盤(五、六曲入っていた)では、リッキー・ネルソンの「アラバマに日は落ちて」の収録盤、映画のサウンドトラックで『バイバイ・バーディー』を見つけたときもうれしかった。『バイバイ・バーディー』は、プレスリー現象を皮肉ったミュージカルだ
ったが、青い目のアン・マーグレットが印象的で、もう一度見たいと思うが果たせないでいる。DVDはあるのだろうか。そんなポピュラー漬けの中での「ガール・フロム・イパネマ」との出会いだったのだ。
 以前、田中淑恵さんから、『本の都』で紹介してほしいと、田中さんが装幀したアントニオ・カルロス・ジョビンの自伝だったか伝記だったかをもらったことがある。なかなか面白い本で、ジョビンの人生がていねいにつづられていた。そこには「イパネマから来た娘」の逸話もあったはずだ。
 今回は、本の話は少ない。だけど思わぬCD到来から、昔話になってしまった。が、まあそれでもいいか、である。

【竹内の付記】
 「パンチ盤」というものを山田氏に教えたのは、ひょっとしたら私だったかもしれない、と思いながら、懐かしく読みました。パンチ盤については、私のブログ中では、2009年2月26日付で詳しく触れています。私のブログ内検索で「パンチ盤」をキーワードにすれば出てきますが、面倒くさい方は、以下にアクセスしてください。

  http://blog.goo.ne.jp/kikuo-takeuchi/e/c4f2f9574bcb662fa6a5671390778190

 ホアン・ジルベルトのアルバムは、「ボサノバ」の原初のスタイルを伝えるアルバムとして、あまりにも有名です。でも、私たちの高校生時代に、日本で誰もがイメージしていた「ボサノバ」は、その妻だったアストラッド・ジルベルトの「おいしい水」ではないかと、私は思っていました。気だるさが「ボサノバ」の代名詞でした。後年、ホアンの『これがリズムだ!』など初期のアルバムでボサノバを聴いて、眼から鱗だったのですが、それは、アメリカンナイズされたヒット曲としてのボサノバに慣れた私のボサノバ観が脆弱だったからでしょう。
 山田氏の文中の「マック・ザ・ナイフ」も、ヒットラーの圧政下のクルトワイル作品としての、それ、ではなく、アメリカのショウ・ビジネスの音楽としての響きに、私たちは慣れ過ぎているように思います。私たち日本人のアノ種の音楽のイメージは、ほとんど、戦後の進駐軍音楽の延長上のものによって培われているのかも知れません。
 ハリウッド映画で、『王様と私』のデボラ・カ―、『マイフェアレディ』のヘップバーン、『ウエストサイド物語』でナタリー・ウッドの歌場面を吹き替えで歌ったことで有名な名歌手マーニ・ニクソンは、米コロンビアで、ストラヴィンスキーの助手だったロバート・クラフトの指揮、監修の『シェーンベルク全集』を録音しているほどの名手ですが、クラフトとのそんなレコーディングがあるほど、いわゆるアメリカ西海岸の文化人グループに属していたようです。だから、彼女が残した『クルトワイル・キャバレー音楽集』(米RCAだったと思います。直接現物を取り出さないままブログ掲載しますので、「?」を付けておきます)というLPアルバムは、とても興味深いのです。
 このあたり、日本の大正・昭和初期の西洋音楽受容史や、第二次大戦後のウイーン音楽の動乱期と並んで、私の昔からの関心テーマなのです。少しづつ資料も集めていますが、さて、どこまで進められることか? 言葉を変えれば、バッハ以後の西欧クラシック音楽の、決して長くはない歴史の中で、20世紀に果たしたアメリカの役割と、これからの21世紀に果たすべき「アジア」の役割が、私の最近の、そして緊急の主題なのです。
 そういえば、20年ほど前の中国のオーケストラの演奏を聴くと、その西欧的感覚とのズレと、私たち日本人に親しみやすい感覚との混淆に、感慨深いものがあります。偶然入手した、わりと貴重なCD音源です。


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ピアニスト石黒浩己の音空間に、パーカッショニスト竹本一匹が乱入!?

2011年05月22日 14時46分17秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)



 きょうは、私にとっては、いつもと少々、畑ちがいの話題ですが……
 一昨日、20日(金)、六本木のライブハウス「SOFT WIND」に行きました。作曲家・ピアニストの石黒浩己氏とパーカッショニストの竹本一匹氏との、初めてのデュオ・ライヴだったのです。
 石黒浩己氏のピアノについては、以前にも当ブログで書いたことがありますので、ご興味のある方は、この頁の左欄を下にスクロールして、「このブログ内」での検索を試みてください。2008年10月にキングレコードのディストリビュートによる「ベルウッド」レーベルで発売されたアルバム『うつろひ』のライナーノーツを書きましたが、それ以前から、時折ライブを聴いて、その独特のサウンドに、いわゆる「癒し系ピアノ」と、ひと味も、ふた味も違う魅力を感じて注目していました。「環境音楽」的には、風のゆらぎのような空気感をとらえようと苦心している音楽家だと、私は思っています。
 一昨日のライブの休憩時間にも話が出ましたが、石黒氏と1年ほど前、日本橋のバーで飲んでいるときに、「《うつろひ》で共演した仲間のひとり、竹本一匹とのデュオは、刺激になっていいかも…」と私が何気なく言った時、彼から「じつは、ぼくも、このあいだから、そんなことを考えていたんですよ」と言われて、その一致から、思いがけず話が弾んだのを思い出します。竹本氏は、石黒氏が目黒の「ブルース・アレイ・ジャパン」でのライブ・セッションで組んだ5人の仲間たちのひとりで、《うつろひ》のCD制作時にも参加していますが、様々のパーカッションの響きに、とても敏感に反応するミュージシャンだと思っています。日本的な発想で言えば、不意を突かれる風鈴の音や、衣摺れの音にも似た、武満徹の言葉を借りれば「沈黙と測りあえるような」音を、さりげなく聴かせる名人です。
 もちろん、それだけではなく、かなり「熱い」音楽も持っていて、石黒氏のピアノとのそうした激しいバトルも聴きものでしたが、いつも私が言っているように、そうした激しさは、静寂を抱えた緊張に支えられてこそ、の、爆発であるのは、どんなジャンルの音楽でも同じだと思っています。
 石黒氏は数年前にタイ・プーケット島のリゾート・ホテルでの活動などから、海をテーマにした音楽が多かったのですが、帰国後、試行錯誤の後、新境地を掴んで久々のアルバム《うつろひ》を発表したわけです。しかし、このところ、なかなか仲間を集めてのライヴの開催が難しい状況が続いて、赤坂、品川のライブハウス、あるいは神楽坂の赤城神社境内の小さなライヴ・スポット(ここは伝説的な、いい場所で、石黒氏の即興スタイルの演奏も冴えていました)など、ソロのコンサートが多くなっていました。そうして、ソロ・アルバムの制作準備を続けていたわけですが、その途上、新作のデモ音源などを聴かせてもらいながら、ふっと頭の中をよぎったのが、竹本氏とのデュオだったのは、私にとって、決して単なる思い付きではなかったと思いますし、ひょっとしたら、石黒氏にとっては「必然」だったのかも知れません。
 竹本氏は、最近知ったことなのですが、キューバのハバナ音楽学院に若いころ行って、直接学んでいるのだそうです。キューバというと、私などは、子供の頃に聴いたペレス・プラードをすぐ思い出しますが、彼が、なぜキューバに向かったのかは、聞きそびれてしまいました。ただ、ペレス・プラードで私の愛聴曲『ハバナ午前3時』に収録された「キューバ幻想曲」という10分ほどの大作や、『ボンゴ・コンチェルト』の話しで盛り上がってしまいました。たぶん、短いフレーズのリフレインが多い感覚は、石黒氏の音楽のある種の傾向にも通じていると思います。
 一昨日のライブでは、石黒氏の発想の幅に広がりが生まれかかっているのが、伝わってきました。出口を求めて手探りする石黒氏に、竹本氏は、あるときは出口を見出すきっかけを与え、あるときは、出口なき場所へと追いつめる――。なかなか、おもしろい展開でした。
 次回が楽しみです。まだこれからだとは思いましたが、新しい世界が開けるような予感がありました。


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石黒浩己という作曲家・ピアニストのこと。

2010年07月07日 11時26分01秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)






 以下は、2年ほど前に、キングレコード系のレーベル「ベルウッド」から発売されたCD[規格番号:BZCS-3041]アルバムタイトル『うつろひ』のライナーノートです。まだ現役のCDですから、大型CD店の店頭、アマゾンなど通販サイトで購入できるCDですが、発売元のご了解をいただいて私のブログに掲載することにしました。このCDのライナーノートは、いわゆる西欧クラシック音楽がほとんどの私にとって、数少ない他ジャンルのCDへの執筆です。
 石黒浩己さんのピアノは、最近の言葉で言ういわゆる「癒しの音楽」の系統とみなされていますが、そのひと言で片づけられない独自の音楽語法のようなもの、響きの感覚があると思っています。以下の文中にもあるように、これからが、むしろ楽しみの人です。商業音楽に妥協し過ぎることなく、自分自身の感性にじっと耳を傾けられるような環境になるといいな、と、微力ながら応援しています。
 この2年前のアルバムが発表された後、彼は密かに「ソロ・アルバム」の制作を目論んでいたのですが、だいぶ形になりつつあると聞いています。音楽の真の魅力は、文中にもあるように、デジタル的なものではなく、不確かで不規則な動きを聴かせる「自然界」をどのようにして取り込むかという方向に向かっていますが、今、私が彼の音楽に対して言えることは、自分の中にある音楽に耳を傾けさせるような「何か」との対話の必要性です。彼の音楽に対する模索は、まだまだ続くでしょう。楽しみです。



■石黒浩己の「不思議な空間」の魅力

 私が石黒浩己のピアノをライヴで初めて聴いたのは、5年ほど前、東京・目黒の「ブルース・アレイ・ジャパン」でのことである。友人に誘われて行ったものだが、その時、はじめて聴いた彼の音楽の魅力をひとことで言えば、それは「循環していく音楽」、「ぐるりと一めぐりして元のところへ帰ってくる音楽」の魔力とでも言うものだろうか? そして演奏仲間たちに刺激され、姿を様々に変えて行く石黒のピアノの豊かな色彩――。その時、私は、石黒が「海」をテーマにした音楽をクリエイトしている「作曲するピアニスト」であること、そして、タイのプーケット島にあるリゾート・ホテルでの3年間の演奏活動の経験が、その底流にあることを知った。
 石黒浩己の音楽との衝撃的な出会いから、数年の歳月が流れてしまった。南国の海から帰ってきた石黒は、この日本という小さな国の音楽ビジネスの世界で、必ずしも恵まれていたとは言えないと思う。彼の音楽を愛する限られたファンに支えられて、石黒は弾き続けていた。そして彼の音楽はどんどん純化され、昇華され、磨ぎ澄まされていった。泉のごとく湧き続けていた、と言ってもいいだろう。
 石黒浩己の音楽は、とても気分がいい。乗せられ、広がり、前へ前へと、どんどん伸びてゆく。それは、彼の音楽が、孤独という絶対的な事実を知りながら、いつもそこから逃れるために、必死に仲間を求める音楽を演奏しているからだと思う。そしてそれは、「音楽」が人の心を揺さぶることを可能にする、たったひとつの真実でもあるのだ。
 石黒は、今回のアルバムに参加した仲間たちとの音楽を、本当に楽しんでいると思う。このメンバーとの「ブルース・アレイ・ジャパン」でのセッションは最高潮だったが、石黒は、この素敵な仲間たちとの演奏を、永遠に残したいと願い、それが実現したのがこのCDだ。音楽は、演奏するのも、それを聴くのも、一皮むけば孤独な行為なのだが、だれも、ひとりぼっちで居続けることはできない。ぼくらはいつも、ほんとうに分かり合える仲間を探し求めて、さまよい続けているのだ。このCDも、そうした仲間たちとの、大切な記録だ。それを聴ける私たちは、幸福だと思う。
 石黒浩己の音楽は、循環する環のように、ぐるりと回って元の位置に戻ってくる旋律が多い。それは、一種のだまし絵のように、音が浮遊している不思議な空間だ。最近の彼は、必ずしも「海」にこだわらず、木漏れ日や、風の音など、広く自然の「うつろい」に目を向けるようになった。デジタルで処理されてしまうものが全盛のこの時代、真に音楽的なものは、自然界の、機械で測れない空気感を捉えることなのだから、石黒浩己の仕事は、これからが楽しみである。(2008.7.29 執筆)



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倉本裕基で聴く「あの頃」の音楽の暖かさ・優しさ

2010年03月25日 15時59分36秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)





 昨年、2009年6月24日と26日の当ブログに、いわゆる「癒し系ピアノ」の第一人者と目されている倉本裕基の音楽について書いたものを掲載した。少々の縁があって、推薦文のようなものを執筆して以来、彼のコンサートはしばしば聴いており、CDの担当ディレクター氏からも、倉本の新譜が発売されるたびにサンプル盤を戴くようになって、もう何年も経っている。生来のコレクター癖から、戴くようになる以前の倉本のCDもネットでチェックして買い集めてしまい、廃盤になっているテレビドラマの音楽集まで含めて、私のCD棚の一隅を、ジャンル違いながらも占領している。
 倉本は、1970年代にラジオの人気番組「ジェット・ストリーム」の音楽担当者として、表面には名前の出ない裏方としてキャリアを積み始めた音楽家で、本質的には作曲家であって、ピアニストではないかもしれないが、ピアノを弾くことが何よりも好きな音楽家であることは間違いない。彼がソロで弾く自作のアルバムは、さながら自問自答の世界のような集中力だが、「音楽に浸る」という幸福な時間を感じさせるものになっている。
 最も、倉本がそうした世界を実現してきたのは、ここ数年のことである。業界の裏話めいたことを声高に言うのは控えたいが、私の感じではそれはやはり、レコード会社での担当ディレクターの変更が要因のひとつではあったろうと思う。2002年秋の新譜『Pure Piano(ピュア・ピアノ)』から、そうした倉本ワールドの深化が少しずつだが着実に進んできたと思っている。
 先日、4月7日発売予定の倉本裕基のニュー・アルバム『マイ・フェイバリット・ソングⅣ~時の過ぎゆくまま』の試聴盤が送られてきたので、早速聴いてみた。以下は、それに対しての「個人的な」感想である。

 倉本裕基の今回のアルバムは、まず、その選曲のユニークさが特徴だ。列記してみよう。

1. 時の過ぎ行くまま(映画「カサブランカ」より)
2. ワンス・アポンナ・サマータイム(リラのワルツ)
3. ブルーレディに赤いバラ
4. やさしく歌って(ロバ―タ・フラックのヒット曲)
5. 煙が目にしみる
6. ラ・ボエーム(シャルル・アズナブール)
7. ブルース様式での三連符 Jazz Solalより
8. プレリュード第12番(バッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻」より)
9. マホガニーのテーマ(ダイアナ・ロス)
10. 愁桜~バルカローレ(倉本裕基の新作)
11. 君に捧げるメロディー(ミシェル・ルグラン)
12. さくら横ちょう(中田喜直)
13. 夜想曲第2番 変ホ長調(ショパン)

 一見とりとめがないように見えるが、前半は私などには懐かしい「スタンダード・ナンバー」である。ひと昔前にはどこの喫茶店でも流れていたし、私が長年にわたって通っているホテルのラウンジ・バーでは、今でも生演奏で聴くことができる名曲ばかりだ。だが、倉本によるアレンジはどれもかなり凝っていて、隅々に工夫の跡が聴かれるものになっている。耳慣れたメロディが、実に豊かな表情の変化をもって1台のピアノから聞こえてくる。
 ある程度、高度なテクニックを要するアレンジである。私がしばしば耳にするBGM風の演奏とはかなり違う。だから、敢えて言えば、現在の倉本の指の動きが、そうした自身の意欲的な編曲に、万全の状態で応えられてはいない。だが、そうしたマイナスを補って余りあるのが、倉本の音楽に対する誠実な姿勢だ。音楽は、決して人を裏切らない。倉本の心情は、しっかりと伝わってくる。彼は、この歳になって尚、自身が信じる「癒しのピアノ」を、妥協せずに最高度にまで高めた編曲で弾いているのだ。これは、ピアノを愛する倉本ファンに、ぜひとも聴いていただきたいアルバムである。いわば、倉本にとって、その生涯の終盤に向けての、大いなる決意の表明ともいうべき、無謀とも言える第一歩だ。
 そしてその無謀さは、後半ではさらに拍車がかかる。7曲目、突然のジャズ的イディオムの端的な挿入、そしてバッハの密やかな世界の出現。どちらも「ピアノ」という楽器の魅力を、ひとつも飾らずにピュアに、そして手短かに聴かせる絶妙の選曲。少年時代からピアノを弾いていたという倉本らしい、初心に回帰するような瞬間が美しい。
 後半は、様々に揺れ動くピアノ音楽の世界である。中でも、かつて西欧でロマン派音楽の時代に流行った「バルカローレ(=舟歌)」を模倣した倉本の新作は、古風な日本の旋法にこだわり、日本的な郷愁を誘う独特の音楽となっている。そして、若いころに倉本が師事していた作曲家、中田喜直の歌曲「さくら横ちょう」へと導いてゆく。中田は「日本のシューベルト」の異名を持つほどの歌曲作家だが、その中田も、そして倉本も若き日に影響を受けたショパンによる名曲が、このアルバムの終わりに置かれている。無謀さの極みである。
 これはショパンを聴くというよりは、倉本裕基という音楽家が歩んできたピアノ音楽の世界への、想いの深さを伝えるものとなっていると言ってよい。もっと器用にショパンを弾く子は、たくさんいる。だが、ピアノという楽器への慈しみ、愛情を、どれほど伝えてくれるだろう。
 倉本のコンサートに行くといつも思うことだが、ピアノが好きだということがすぐにそれとわかる若い女性の聴衆が多い。スコアを持っている子を見かけることもある。倉本は、そういうファンに支えられている部分が大きい。それは、国際的な演奏家が開く演奏会に集まってくるクラシック音楽の聴衆とは、かなり雰囲気が違う。いわば、毎日の暮らしの中に音楽があるといった身近さだと言うと、誤解されるだろうか。うまく表現できないが、かしこまって鑑賞するのではなく、「この子は、自分でも友達の前で弾いているんだろうな」と思ってしまうような、そんなふうにピアノ音楽に親しんでいるようなノリの子が多い気がする。
 そうした若い倉本ファンにとっては、このアルバム前半は、私や倉本の世代と異なり、決してスタンダード・ナンバーではないだろう。初めて聴く曲かも知れないし、曲名だけは聞いたことがある、と言うかもしれない。だが、今どき、こうした時代の音楽を、本気で取り組んで聴かせようとする人は少ない。そこにこそ、倉本のこだわりがあり、そうした精神のルーツを辿るのが、アルバム後半なのだと思う。
 1960年代から70年代、80年代にかけては、音楽がとても豊かに響き、幸福に満ちていたと思う。ここに聴くかつての時代のスタンダード・ナンバーは、その意味で、「音楽は、こんなにも豊かな喜びにあふれていたんだよ」と、おじさん世代が伝えたいことを、倉本が代弁してくれているといった趣きがある。「あの頃」を伝える、今最も新しいアルバムであると同時に、団塊の世代からの、団塊世代ジュニアへのメッセージでもある。このアルバムによって、若い世代が、この時代の音楽の暖かさ・優しさに気付いてくれることを望んでいる。


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ミュージカル曲の解説(踊り明かそう/ニューヨーク・ニューヨーク/メモリー/シェルブールの雨傘)

2009年11月06日 20時41分12秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)





 本日は、私が2~3年ほど前に執筆しかけたミュージカルナンバーの解説です。実は、この原稿は『メモリー☆森公美子ミュージカル・ベスト』というCDのライナーノートとして書き始めたのですが、ついつい書き過ぎてしまい、クラシック音楽のCDの曲目解説のようになってしまったので、途中で止めてボツにした原稿です。
 その後、まったく気分を変えて、簡単な曲目ガイドと、このCD発売時にミュージカル歌手として帝劇の舞台でも活躍していた森公美子の魅力について書いた小文を完成させて渡しました。そのため、お蔵入りしてしまったのが、以下の原稿です。
 データを整理していたら出てきたので久しぶりに読み直してみましたが、それなりの情報量なので、ブログで公開することにしたというわけです。細部の推敲はしていませんが、そのまま掲載します。確かに、ポップス系のジャケット解説としては少々かったるいですが、私の記憶では、昭和40年代のミュージカルのLPレコードの解説は、どれもかなり本格的で詳しい解説が付いていたと思います。あの頃は、みんな、知識に飢えていたのでしょうね。


[1]踊りあかそう~『マイ・フェア・レディ』より
 1956年にブロードウェイで初演されて以来ミュージカルの傑作と讃えられ、6年半で2717回のロングラン公演という記録を打ち立てた名作『マイ・フェア・レディ』の代表曲。作詞アラン・ジェイ・ラーナー、作曲フレデリック・ロウのコンビによる作品。このコンビでは他に『キャメロット』も有名だ。
 このミュージカルは世界各国で翻訳上演され、日本でも東京オリンピックが行われた1964年に初演されている。この時期、日本は戦後の復興期から高度成長期へと突入していたが、そんななかで、このミュージカルの上演は大きな反響を呼び、それ以降の日本でのブロードウェイミュージカル・ブームのきっかけとなった。「踊り明かそう」は、同ミュージカルのなかでも特に知られる曲だが、最初は「一晩中踊れたら」と、より原題に近い訳で知られていた。現在の訳が定着したのは、ミュージカルの日本初演以降のことだったと思う。
 ブロードウェイ初演では、主演に当時新人だったジュリー・アンドリュースが起用されたが、日本初演と同じ1964年にオードリー・ヘップバーン主演の映画版も製作され、これもその年の内に日本で公開され大ヒットとなった。多くのミュージカルファンは、この映画でのシーンが、まず一番に思い浮かぶのではないだろうか?
 『マイ・フェア・レデイ』は、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』を原作としている。言語学者であるヒギンズ教授が、裏町で暮す貧しい娘イライザに学者的好奇心から上流階級の話し方を徹底して教育し、社交界にデビューさせるが、やがてそのイライザに恋をしてしまう、というストーリー。何ヵ月もの猛特訓の末に、やっとの思いで美しい発音ができたイライザが、その喜びを歌い上げるシーンでの歌が「踊り明かそう」だ。
 シェイクスピア以来の英国演劇の伝統を継いだ近代イギリスの代表的戯曲作家として知られるショーは、原作を尊重することを条件にミュージカル化を許可したので、ミュージカル的演出での最小限の改変しか行われなかったが、この「踊り明かそう」のシーンは原作にはない。それが、このシーンがミュージカル的に最大の見せ場となっている理由かもしれない。原作は猛特訓のさなか、イライザが泣き崩れて自室に駆け戻るところで第2幕が終わり、次の第3幕は、教育を終えたイライザの試験としてヒギンズ教授が自分の母親に引き合せる場面となる。

[2]ニューヨーク・ニューヨーク~『ニューヨーク・ニューヨーク』より
 1977年に製作されたマーティン・スコセッシ監督によるミュージカル仕立てのアメリカ映画『ニューヨーク・ニューヨーク』のメイン曲。スコセッシは、この映画の前年に『タクシー・ドライバー』で一躍有名になった監督で、この『ニューヨーク・ニューヨーク』は、彼としては珍しい音楽映画だが、無類のニューヨークっ子を自認するスコセッシによる最大級のニューヨーク讃歌でもある。
 ストーリーは、失業中のサックス奏者ジミーとクラブ歌手フランシーヌが出会い、歌手として売れ始めたフランシーヌがジミーを自分の楽団に参加させ、やがて結婚。しかし音楽上の路線の対立から破局を迎える。紆余曲折の末、数年後、かつてジミーがフランシーヌのために作った曲「ニューヨーク・ニューヨーク」をテーマにしたショウでフランシーヌは大成功。レコード会社の副社長にまで出世していたジミーと再会するが、二人の関係はもう元には戻らない、というもの。
 フランシーヌ役がライザ・ミネリ、ジミー役がロバート・デ・ニーロという、夢の共演によるラブ・ロマンスだった。
 『オズの魔法使い』で本格デビューした往年の大歌手ジュディ・ガーランドの娘であるライザ・ミネリは、この映画製作時には既にステージ歌手として高く評価されており、この映画のストーリーはライザそのもの、さらには、ライザの母親であるジュディ・ガーランドの半生をも思い起させるが、実際、この「ニューヨーク・ニューヨーク」が歌われるフランシーヌのワンマン・ショウ場面は、ライザ自身のショウともなっていて圧巻だ。
 スコセッシ監督を音楽的にサポートしているのが作詞のフレッド・エッブと作曲のジョン・カンダーのコンビ。ミュージカル『キャバレー』もこのコンビによるものだが、この映画版はライザ・ミネリの代表作にもなっている。一方、「ニューヨーク・ニューヨーク」は映画公開の数年後、1980年代になってフランク・シナトラがカヴァーして、シナトラの代表曲のひとつともなった。

[3]メモリー~『キャッツ』より
 1981年にロンドンで初演されたアンドリュー・ロイド・ウェッバー作曲の大ヒット・ミュージカル『キャッツ』を代表する曲。劇団四季による翻訳公演が幾度も行われている人気ミュージカルだから、日本での舞台上演を観たミュージカル・ファンも多いだろう。日本でのミュージカル公演の潮流のひとつにまで成長した劇団四季が、シリアスな演劇からミュージカル公演中心への路線変更を定着させたのが、この『キャッツ』の大ヒットだったと言ってもよいほどに、日本でも話題となったミュージカルだ。多くの日本のミュージカル・ファンの、ミュージカルに対するイメージを一変させた作品だったとも言えるだろう。作曲者のウェッバーは、ロック・ミュージカル『ジーザズ・クライスト・スーパースター』で既に知られていたが、この『キャッツ』で、ヒットメーカーとしての名を不動のものとした。ロンドン初演の翌年にはブロードウェイでも上演され、以来17年間7653回というロングラン公演記録を打ち立てたのだ。そして、この記録を最近破ったのが、同じウェッバー作曲の『オペラ座の怪人』だった。
 『キャッツ』の原作は、イギリス近代の代表的な詩人、T・S・エリオットが1939年に出版した詩集『おとぼけおじさんの猫行状記』で、それに作曲者の企画に賛同したエリオット未亡人の協力で未発表の原稿が加わり、最終的に完成した。
 このミュージカルは、出演者全員が「猫」という想定で、都会の片隅のゴミ捨て場が舞台というユニークな構成。年に一度、月の夜の舞踏会で選ばれた特別の猫だけが、天上界へと旅立って生まれ変われるというもの。「メモリー」の旋律は劇中で幾度も顔を覗かせるが、クライマックスの近く、かつての美貌を失ってしまった唱婦猫グリザベラがその特別な猫に選ばれ、この美しいメロディを高らかに歌い上げる。ロンドンでの初演時に歌ったのは、このグリザベラ役に当初予定していた歌手が事故で出演できなくなったため、急遽代役に抜擢されたエレーヌ・ペイジだった。その時、この歌が、ミュージカル史上空前のヒット・ソングになるとは、誰も予想していなかったに違いない。エレーヌ自身が「選ばれた特別な猫」だったのだ。

[4]シェルブールの雨傘~『シェルブールの雨傘』より
 1963年に製作されたフランス映画『シェルブールの雨傘』は、全編が歌によって進行するというユニークな作品。原案、シナリオ、監督はジャック・ドゥミで、作詞はノーマン・ギンベル、作曲はミシェル・ルグラン。この映画は翌1964年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞している。
 全編が歌によって進行する、というのは、いわゆる会話だけでなく、ほんのちょっとした呼びかけの一言でさえ、全て歌われるということ。それまで通常のミュージカルは、普通に芝居をしている場面から急に歌の場面へと切り換わるのが当たり前で、それは、ここぞという見せ場でアリアが歌われる古典的なオペラや、そこから派生したウィーンのオペレッタ(ミュージカルの源流と言ってもよいもの)以来の方法だった。ウィーンのオペレッタ歌手の息子として生まれた作曲家フレデリック・ロウの傑作『マイ・フェア・レディ』では、セリフがいつのまにか歌に変貌していることが多く、セリフから歌への繋がりにかなりの工夫が見られるが、それでも、歌の場面と芝居の場面とは 、それぞれ独立していた。
 90分余の映画全編を休みなく、ひとつながりの音楽で描くという試みは、オペラの分野でのワーグナーの楽劇に匹敵する快挙だと思うが、ミュージカル映画としては、大成功した唯一の例と言えるかも知れない。ミシェル・ルグランという鬼才を得たことが大きかったと思うが、ジャック・ドゥミ監督の見事な構成力も見逃せない。
 そうした映画だけに、個々の独立したミュージカル・ナンバーに相当するものがないが、「あなたなしでは生きられない」と繰り返し歌われる最も印象的なメイン・テーマの旋律は、「私を待っていて……」と英語の歌詞まで与えられ、大ヒット曲となった。
 映画のストーリーは、フランス北部の港町シェルブールの傘屋の娘ジュネヴィエーヴと、その婚約者である工員ギーが、折からの戦争によって召集され引き裂かれるという悲恋物語。ジュネヴィエーヴ役は、当時20歳だったカトリーヌ・ドヌーヴ。この映画が彼女の出世作となった。ただし、歌はダニエル・リカーリによる吹き替えだった。


●ここまで書いて、放棄したのですが、データには、以下、曲目だけが入力されていました。実際に発売されたCDと、曲順が入れ替わったかもしれませんが、曲目は変更していません。森さんのお気に入りの歌を集めたという、こういうCDだったのです。もちろんすべて、原語で歌っています。


[5]オール・ザット・ジャズ~『シカゴ』より

[6]オン・マイ・オウン~『レ・ミゼラブル』より

[7]私のお気に入り~『サウンド・オブ・ミュージック』より

[8]虹の彼方に~『オズの魔法使い』より

[9]トゥモロー~『アニー』より

[10]アンド・アイ・アム・テリング・ユー・アイム・ノット・ゴーイング~『ドリームガールズ』より










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倉本裕基『ハート・ストリングス・アゲイン』録音に際して

2009年06月26日 15時24分18秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)





 前回のブログ掲載文に続いて、その約3ヵ月後の2004年9月8日に執筆した、倉本のプラハ録音のニューアルバム企画発表時のプロモーション用原稿です。この企画は後に『ハートストリングス・アゲイン』と題するアルバムになりましたが、この企画発表時に、求められて書かれたものです。あまり制作担当者の意に添わなかったと記憶していますが、読み返してみて、そのことにちょっと納得もしました。私は、結局のところ、音楽で癒される人も、癒す人も、手放しでは好きになれないのだと思いました。ギリギリと痛めつけられるバルトークの音楽をじっと聴き終えて開放されるのが、例えば、私の、音楽を通してのカタルシスなのです。あるいは、どろどろのチャイコフスキーの音楽で、もみくちゃになって涙する。それが、私の憩いの時間なのです。


■倉本裕基――古都プラハでの新録音!に期待する

 倉本裕基が「癒し系ピアニスト」として脚光を浴びてしまってから、3年以上の歳月が流れた。そう。倉本は脚光を「浴びてしまった」のだ。このところの倉本の忙しさは尋常ではない。かつての深夜ラジオの名番組「城達也のジェットストリーム」以来、音楽の裏方として地味な世界で自身が愛する音楽を大事にしてきた倉本が、今では全国ツアーで飛び回り、どこの会場にも熱心なファンが押し寄せる。こんな状況を誰が予想しただろうか? その倉本の次のアルバムが、日本を遠く離れた東欧の、歴史ある美しい都市「プラハ」での録音と決まったと聞いたとき、私は瞬間的に、「倉本は、本気で自分の音楽と向き合い直そうとしているな」と思った。
 倉本裕基の音楽の基本にあるのは「ピアノとの対話」だ。倉本のリサイタルを聴いた方ならば、倉本がひとたびピアノの前に座ると、そこには倉本とピアノだけで繰り広げられる対話が始まり、大切な宝物を慈しむ純真な子供のように鍵盤の上を撫でていく倉本の姿が印象に残っているにちがいない。倉本の音楽が、スイッチONで安直に得られる「癒しの音楽」と一線を画して、心に沁み込んでくる本物の癒しと言われるのは、そうした「手触り」や「温もり」があるからなのだ。だが、最近の倉本を取り囲む環境の激変が、その貴重な美質を蝕んでしまうのではないだろうか? と危惧していた矢先のプラハ行きの発表だった。
 「プラハ」という街は、音楽の都「ウィーン」から車で数時間。ほんの少し前にはチェコスロヴァキアの首都として政治の波にも翻弄されたが、クラシック音楽にちょっと関心がある人ならば、「プラハ」は「ウィーン」と肩を並べる音楽があふれる街として名高い。かの天才音楽家モーツァルトのオペラを最初に正当に評価し、守り育てたことでも知られているし、《新世界交響曲》のドヴォルザークや《モルダウ》のスメタナゆかりの街でもある。倉本が愛するピアノの詩人ショパンも、お隣りポーランドの出身だ。
 ボヘミアの森を擁するチェコの音楽性は長い歴史によって集積されたもので、中世からの美しい街並みを残すプラハは、心の底から音楽を愛する国民性に育まれて、今でも街中に、自然な温もりと手触りのある音楽があふれている。それは、今日、様々な形で商業主義と機械化に侵されている音楽世界にあって、貴重なオアシスである以上に、音楽という「よろこび」の源泉を再確認できる、またとない場所なのだ。観光都市と化してしまったウィーンでも得られないものが、今でもそのまま残されていると言っていい。
 倉本には、チェコ・フルハーモニーやプラハ交響楽団など現地の一流オーケストラのメンバーを交えたストリングスや管楽器奏者との室内楽セッションのレコーディングまで予定されているという。指揮棒を振りながらのピアノ演奏も行われるようだ。倉本のこれまでの名曲の新アレンジに加えて、新曲も準備してのプラハ入りに期待が膨らむ。
 聴く者にとって音楽で癒されるのは容易(たやす)いことだが、他人(ひと)を音楽の力で癒すのは、厳しく孤独な作業だ。それを、ボヘミアの森に包まれた古都プラハで、手触りと温もりを大切にしている音楽仲間との新たな出会いの中で、大きく発展させて帰ってこようという倉本の50歳を越えての挑戦からは、しばらく目が離せない。倉本だからこその「something」との出会いに注目である。




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倉本裕基の音楽

2009年06月24日 09時58分56秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)

 以下の一文は、いわゆる「癒しの音楽」の第一人者とも言われている作曲家・ピアニスト、倉本裕基が、日本でのブレイクを始めたころ、新しい意欲的なソロ・アルバムが発売されることになった時、依頼されたエッセイ原稿です。私の言う「発売する側の都合」によって書かれた原稿には違いありませんが、私にとっての「癒し音楽」「倉本のピアニズム」「音楽ジャーナリズム」それぞれへの思いは、素直に書かれています。決して「売る側の都合」に合わせた原稿などではありません。この文章、ポピュラー系の雑誌の広告、全国キャラバンを始めたコンサート会場でも配られましたから、「倉本ファン」を認じている数十万人のファンの方は、どこかで見かけたかもしれませんが、このクラシック音楽を主なテーマとするささやかな私のブログへの、数百人の来訪者にとっては、初めて耳にする名前なのかもしれません。
 倉本氏には余計な記述かも知れませんが、昨年の秋(だったと思います)、彼の母校である栃木県立宇都宮高校の卒業生と在校生から構成された管弦楽団の伴奏で、若き日の思い出の曲と倉本自身が言うグリーグの「ピアノ協奏曲」を、倉本自らが弾くという「宇都宮高校管弦楽団」の創立○周年記念演奏会を聴きました。とても率直で、自分に正直な音楽が、とてもすがすがしかった。そういう音楽が、いわゆる「プロ」の世界とは別の場所で、営々と続けられているということに、久しぶりに気付かされました。
 そういえば、私が子供時代を過ごした家は、私が中学生のころになって、すぐ向かいに、「市川交響楽団」を創設してその後も指導を続けられた村上氏が引っ越して来られました。毎日、ピアノのレッスンの音が聞こえ、週末になると、アマチュアオーケストラの方たちが、かわるがわる練習に来ていたのを思い出します。それもまた、音楽に自然に接していた、とてもなつかしい思い出です。
 だいぶ脱線してしまいました。以下の、2004年5月20日に書かれた原稿を、お読みください。


■倉本ワールドの美しい風景

 倉本裕基のピアノ・リサイタルには、不思議な魅力がある。倉本は、ピアノが好きで好きでたまらないといったふうに、ひとり、一心不乱にピアノと対話を続ける。少しずつ彼自身の心の揺れ動きを開放させて行き、やがて、会場全体を大きな「ゆらぎ」の中に包み込んでしまう。倉本の音楽を中心に大きな輪が広がり、あたりの空気を澄んだものへと変えていく。ライトを浴びたステージのピアノと倉本は、どこか遠くの風景のように、聴いている私たちの前に漂い始める。……そんな倉本の、静かな、そして幸福な「ひとりぼっちの時間」を、そっくりそのままマイルームでひとりじめできるのが、この全曲新録音によるCDだ。倉本ファンはもちろんのこと、そうでない人もどこかで聞き覚えのある倉本の名曲が、新しいアレンジのピアノ・ソロ・バージョンに姿を変えて聞こえてくる。これは、ピアノという楽器の魅力を知り尽くした倉本ならではの世界だと思う。
 倉本は自身のプロフィールに「好きな場所:空気のきれいなところ。静かなところ。適温、適湿の場所」と書いているが、正に、そうした場所を描いた美しい風景画のような音楽がどこまでも続き、私たちは、その絵の中に、心地好い散歩の気分で分け入って行く。ある時は桜のトンネルをくぐり、ある時は遠く海岸線を眺めながら、ある時は落ち葉を踏みしめる音に耳を傾けながら……。倉本の音楽は、ラジオから聞こえてくるドラマが、どんな強烈な映像よりも豊かな想像力に満ちているということを知っている人の耳に、するりと入り込んでくるのだ。
 最近、私たちのまわりには、声の大きすぎる人、押し付けがましい人、暑苦しい人が大勢いる。いつから、こんな国になってしまったのだろう。けれど、静かな、空気のきれいなところで、そっと目を閉じ耳を澄ましてみれば、美しい時代の美しい風景が蘇ってくる。ひとりひとりの目の裏には、幼い日々の思い出の光景が浮ぶかも知れない。「私たちが失い始めた清洌な青春を思い出させてくれた」と日本中を沸かせたテレビドラマ『冬のソナタ』を生んだ韓国の若者たちが、私たちよりも先に、倉本ワールドを絶賛したと言われているが、これは、決して偶然ではないし、興味深い現象だ。倉本の音楽には、スイッチONで「癒しの音楽」が与えられるような世界とは違って、自然ににじみ出てくる「やすらぎ」がある。もっともっと、広く日本の様々の世代の人々に聴いていただきたいアルバムの登場である。



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「青春プレイバック・エッセイ」異聞・「ハワイアン」と「ビッグバンド」のことなど

2009年01月27日 00時27分35秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録を、21日から6日間続けました。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものでした。
 以下はその再掲載を終えての雑文です。「6回目」に「付記」として書き始めたのですが、例によってまた、長くなってしまいそうだったので、別建てにしました。どうも思い出に関わる話が長くなる傾向で、困ったことですが、合わせてお読みいただけるとうれしいです。

【ブログへの再掲載を終えての付記・自注】

 「第5回」「第6回」の収録曲は、「歌のない流行歌」のカラオケと言ったって、最初から歌詞のない曲もあるじゃないか、と思っている方も多いでしょう。しかし、この原盤レコードが発売された時代は、これらの曲に「日本語歌詞」をつけて歌うことも多かったのです。『魅せられしギター』は小林旭が歌っていたような気がしますが、確認していません。ひょっとしたら『黒い傷跡のブルース』だったかも知れません。前奏がオリジナルにそっくりのアレンジだったはずです。前奏のあと、いきなり歌いだすので、びっくりします。

 「ハワイアン」では、当時のものとしては森山加代子が「パラキン」と一緒に歌ったものがいくつか復刻CDになっていますが、それとは別に古い10インチLPがありました。たぶんデビュー・アルバムで、そこに収録されている『月影のナポリ』の日本語歌詞は、その後、彼女自身も再録音している有名な「漣健児バージョン」とは別の歌詞です。たぶん「幻の歌詞」のひとつに数えられるのではないでしょうか?

 「第6集」の曲目は、しばしばビッグバンドの演奏曲にもなりましたが、日本のビッグバンドでは、私は「原信夫とシャープス&フラッツ」よりも、「宮間利之とニューハード」の方が好きでした。一昨日の「第5集・ハワイアン」のところでちょっと触れた「ハイカラな音楽にめっぽう詳しかった」私の伯父が、「それならば、トミー・ドーシー楽団を聴いてみろ」とよく言っていたのを、今でも覚えています。その伯父は、もう数年前から、ある病院でずっと寝たきりで、話をすることも出来ません。先日、病室に訪ねていったのですが、もっと当時のことを聞いておけばよかったと悔やみました。伯父は、戦後、急に自由に聴けるようになったいわゆる「ハイカラ音楽」を、むさぼるように聴いていたひとりだったのでしょう。大正期にブームになったそうした音楽の担い手たちが、昭和初期から始まった、日増しに厳しくなる「戦時下」に耐えていたわけです。「空白の15年」という愚かな時代が、日本の西洋文化移入の歴史の中にあることを、忘れてはなりません。「大正期の音楽傾向」が、ぽっかりと、その時期を飛ばして、戦後に直結しているのには、驚くしかありません。

 「第6回」に登場するホテルは、もちろん九段下の「グランドパレス」です。28階にバーラウンジがあります。

   「あの頃」、渋谷から靖国通りを神保町の古書店街までしばしば一緒に歩いたのは、現在、帝塚山学院大学教授で、大正期、昭和初期の美術、文芸動向を研究している山田俊幸氏。山田氏には、愛書家の研究をしていた気谷誠氏(昨年10月2日付の当ブログをご覧ください)も紹介してもらいました。実は最近になって、その気谷氏が晩年に計画していた大正期の「セノオ楽譜」の研究の続きを、私なりに始めました。

 同じく「第6回」に登場する銀座の裏通りを私と一緒に歩いた中学生は、現在、北星学園大学教授で、岩波から『マーラー辞典』を出版した山我哲雄氏。山我氏は『聖書』研究の第一人者です。彼とは一時期、ずいぶんたくさんの音楽を聴きましたが、私のマーラー体験は、彼のレコードコレクションから始まっています。彼は、その頃から(つまり中学生のころから)、「聖書が分からないとマーラーがわからない」と口癖のように言っていました。

 最初に「グランドパレス」のバーラウンジで会った仕事の打ち合わせの相手とは、「ウィキぺディア」のカテゴリー「日本の出版社の歴史」中の『泰流社』の項目に私との関係が書かれている「西村社長」です。彼はニューオオタニのメインバーのカウンターを普段は使っていたのですが、その日、私の別件の用事が九段の方であったので、それなら、と指定された場所でした。


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'70年代のムード音楽定番曲

2009年01月26日 12時42分15秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 まだまだ、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。……と言って先日、21日から始めて、ついに、きょうは第6回、これで終わりです。お付き合いくださった方、ありがとうございます。


■第6集「ひとりお洒落にアダルト・ムード」(収録曲)

1)酒とバラの日々
2)スターダスト
3)ムーンリバー
4)虹の彼方に
5)いそしぎ
6)星に願いを
7)あなたと夜と音楽と
8)タラのテーマ
9)ある愛の詩
10)慕情
11)魅せられしギター
12)枯葉
13)太陽がいっぱい
14)ラブ・ミー・テンダー
15)エデンの東
16)ブーべの恋人
17)雪が降る
18)煙が目にしみる


■大人のムードが似合う場所

 中学生だったか高校生だったかの頃、今でも東京・九段下にそびえ立つ高層ホテルを見上げながら、大人になってサラリーマンになったら、こんなホテルのバーラウンジで、ひとり静かにグラスを傾けたい、などと思ったものだ。あるいは、銀座の一本裏の通りを、学校帰りに歩きながら(というのは、西銀座の中古レコード店や、新橋近くの輸入LP専門店などに行く通り道だったからだが)、開店準備で開け放たれたナイトクラブのドアの隙間からベルベットを貼りめぐらせた店内を覗きながら、いつか、こんな店で生のバンド演奏を聴いてみたいなどと思っていた。
 学校は校則で出入りを禁じていたけれど、銀座の「ACB(アシベ)」でグループサウンズを聴いたり、新宿の「ピットイン」でジャズを聴いたりはしていたが、「大人のムード」への憧れがあったのだ。年頃の高校生のほとんどが陥るように、私も人並に訳知り顔の大人への反発があったから、暗闇のなかでタバコを吸いながらジャズレコードを聴くという生活もしていたけれど、それでも、どこかで、「大人のムード」への憧れがあったのだと思う。映画もよく観たし、ミュージカルのLPや、スクリーンムードのLPもよく聴いたが、あの、豊かでゴージャスな響きが、たまらなく好きだった。
 数年の後、サラリーマンとなってしばらく経ったころ、仕事の打ち合せで先方に指定された場所が、偶然にも、かつて見上げていた高層ホテルのバーラウンジだったのには驚いた。忘れていた思いが一気に吹き出して、わくわくしながら夕方会社を出たのを、今でも憶えている。少し早めに到着した私は、先方が連絡済みだったので、すぐに窓際の席に案内された。
 その日はもう初夏だったので、日没前だった。私は次第に夜になっていく街を見下ろしながら、水割りのウイスキーグラスをゆっくりと飲んで待った。やがて、先方が現れ、打ち合せもそこそこ終わりかけた頃、天井のスピーカーから小さめに流れていた音楽が止み、ピアノ・トリオの演奏が始まった。曲は『スターダスト』。その時はじめて私は、自分が大人の仲間入りをしたような気持ちになった。学生気分が抜け、良くも悪くもささくれ立ったキツイ音楽とはちがう「お洒落」な音楽を身の回りに置く大人に、私自身が日和った瞬間でもあったのだが、その時の不思議に幸福な気分は忘れられない。
 今でも私は、そのホテルのバーラウンジに時々行く。だが、ピアノ演奏が始まると、いつも「スターダスト」か「星に願いを」をリクエストする図々しさだけは、身に付いてしまったようである。






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戦後ニッポンと「ハワイアン」

2009年01月25日 09時40分59秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 相変わらずで、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(先日、21日から始めて、きょうは第5回、あと残り1回となりました。) 


■第5集「かわいいあの娘とフラ・フラ・ムード」(収録曲)

1)アロハ・オエ
2)スウィート・レイラニ
3)夕日に赤い帆
4)ワイキキの浜辺で
5)バリバリの浜辺
6)舟を漕いで
7)マウイチャイムス
8)レイ・アロハ・レイ・マカマエ
9)ラハイナ・ルナ
10)珊瑚礁の彼方
11)ブルーハワイ
12)真珠貝の歌
13)月の夜は
14)カイマナ・ヒラ
15)フキウラ・ソング
16)タイニー・バブルス
17)小さな竹の橋
18)マリヒニ・メレ

■あこがれのハイカラ音楽だった「ハワイアン」

 「ハワイ」は今でも海外旅行の定番のひとつだが、観光地ハワイが戦後の日本人にクローズアップされたのは、昭和23年のヒット曲『憧れのハワイ航路』からだろうと思う。だが、この時期は「出船のドラの音」と歌詞にもあるとおり、船での旅だった。ハワイは戦後まもなくから長い間、最も行きたい外国であり、一番近いアメリカでもあったと思う。
 ハワイ人気の過熱は、当然のことながらハワイ音楽のブームも呼んで、日本人によるハワイアン・バンドがいくつも結成されていった。ナイトクラブの舞台には、そうしたハワイアンバンドがひっきりなしに登場していたという。ハイカラな音楽のひとつとして定着していたのだと思うが、私自身はその頃のことは、父親や叔父に聞いていたにすぎない。
 私が子供心にも憶えているのは、そうしたハワイアンのブームが落ち着いてきて、彼らが引続きハワイアン一筋で活動を続けるのか、それとも別のジャンルへと進出するのかの岐路に立っていた頃の流行歌世界だったのだろうと思う。坂本九や九重佑三子を生んだ私が大好きだったパラキンこと「ダニー飯田とパラダイス・キング」が、以前はハワイアンバンドだったと教えてくれたのは、ハイカラな軽音楽にはめっぽう詳しかった叔父だったし、「愛して愛して愛しちゃったのよ」なんて、口ずさむと親や先生に叱られたヒット曲の「和田弘とマヒナスターズ」も元ハワイアンだという。おとなになってから分かったことなのだが、その後のムード演歌の源流を溯って行くと、戦後のハワイアンブームに行き当るらしい。ハワイアンは、戦後ニッポンのハイカラな音楽の〈窓〉として、大きな役割を果したようだ。
 もちろん、その後もハワイアン一筋で活動を続けたグループもたくさんあったわけで、最近になって再びウクレレやフラダンス教室が活況となっているのも、そうした根強い支持者が活動を続けてきたからだろう。
 私個人の記憶では、遊園地やデパートの屋上のアトラクションで見たり聴いたしたハワイアンの印象が強烈だ。そしておとなたちと同じように、ハワイは行ってみたい外国となった。昭和36年に「トリスを飲んでハワイへ行こう!」という懸賞付きでウィスキーが売り出されたときには、父親にトリスを飲んでくれとせがんだものだ。まだ戦後政策の名残りで、海外旅行が自由に出来なかった時代だった。日本人の海外渡航が自由化されたのは昭和39年のこと。翌年、日本航空が初めてジャルパックを発売したのだった。



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何も恐くなかった「同棲時代」と「22歳の別れ」

2009年01月24日 01時19分04秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 まだまだ、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(先日、21日から始めて、きょうは第4回です)


■第4集「涙の青春センチメンタル・ムード」(収録曲)

1)神田川
2)フランシーヌの場合
3)白いブランコ
4)バラが咲いた
5)ひなげしの花
6)時には母のない子のように
7)忘れな草をあなたに
8)22才の別れ
9)赤い風船
10)空に星があるように
11)涙をおふき
12)同棲時代
13)なのにあなたは京都へ行くの
14)さよならをするために
15)純潔
16)禁じられた恋
17)夕日が泣いている
18)上を向いて歩こう


■一緒に暮らしたあの日々が…

 喜多条忠の作詞による『神田川』をカラオケでせつせつと歌い上げる人は、昭和40年代も後半を過ぎて、50年代に入ろうかという時期に学生だった人か、勤め始めた人と思って間違いない。今でこそ、バスルーム、エアコン付きのアパート、ワンルーム・マンションが普通のひとり暮らしになってしまったが、私の学生時代は、風呂無しが当たり前だったから、みんな銭湯に通っていた。
 銭湯の前は、どちらかの長風呂に待たされている若い男女が、いつもちらほらと居たものだった。「オーイ、出るぞー」と洗い場から隣の女湯に向けて大声を上げて出て行くのは、決まって年配のおじさん。僕ら若いモンは照れくさくって、そんなことなど出来なかった。せっかく時間を決めておいたのに、と思いながら、じっと待っていた。「洗い髪が芯まで冷えて」も、じっと待っていた。それが青春時代というものだった。
 『神田川』の歌が生まれたのは昭和48年のことである。同じ年に『同棲時代』も誕生している。同題の上村一夫の劇画のヒットから出来た歌だったが、そもそも「同棲」という言葉そのものが、この劇画によって定着した感があったほどだ。
 考えてみれば、あの時代、私たちの多くの仲間たちは、一生の結婚相手を見出すために、「同棲」という名の予行演習をしていたのだった。時代は大きく変りつつあった。親が選んだ相手と見合いするよりも、「ともだち」の延長で同棲し、小さなアパートを借りてやがて結婚し、それでも専業主婦にならず二人とも働いてお金を貯める。そんな女性の何人かがそのまま職場に残り、今で言うキャリアウーマンとなった。歌詞にもあるように、若かったあの頃は何も恐くなかったのだ。そのまま、ずっと今日に至っているカップルも少なくないだろう。
 だが、そんな時代をほろ苦く思い出す人も、数多いと思う。「卒業までの半年で」は、とても答えを出せなかったひともいるだろうし、「過ぎた日のほほえみも、かなしみも、みんな君にあげる」と言ってしまった人もいるだろう。出会いがあれば、別れもある。そんなことを歌い込んだ名曲が伊勢正三の『22才の別れ』だった。昭和50年に生まれたこの曲に涙の青春時代を感じる人は、絶対に心優しい人に違いない。別れてしまったのは何故だろう、と思い出しても仕方のないことだ。17本の誕生日のローソクが22本に増えた年までの5年間とは、まさに《同棲時代》そのものなのだ。



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朝まで語り明かした'70年代の深夜喫茶

2009年01月23日 07時32分35秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)





 また、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(先日、21日から始めて、きょうは第3回です)


■第3集「情熱の青春プレイバック・ムード」(収録曲)

1)小さなスナック
2)白い珊瑚礁
3)あの素晴らしい愛をもう一度
4)私の彼は左きき
5)空に太陽がある限り
6)あの時君は若かった
7)失恋レストラン
8)ジョニーへの伝言
9)バラ色の雲
10)ひと夏の経験
11)17才
12)さらば友よ
13)襟裳岬
14)ひとりじゃないの
15)水色の恋
16)ブルーシャトー
17)色づく街
18)それはキッスではじまった


■朝まで語り明かした深夜喫茶

 今では24時間営業のファミリーレストランが当たり前になってしまったが、昭和40年頃にそんなものがなかったことは、70年安保闘争や全共闘の時代に学生生活を送った方ならば、誰でもご存じだろう。
 もちろんコンビニエンス・ストアもなかった。コンビニ1号店と言われる「セブン‐イレブン」が東京都江東区豊洲にオープンしたのは昭和49年5月15日のこと。チェーン展開はまだまだ先のことだったが、そもそも、店名の由来が「朝7時開店、夜11時閉店」から採られていることや、初期のテレビCMのセリフが「開いててよかった!」だったことなど、今コンビニに深夜たむろしている子たちには想像もつかないことだろう。この時代、街は夜8時を過ぎるころにはほとんどの商店が入口を閉ざし、翌朝9時、10時になるまで開かなかったのだ。
 この時代に大都会で学生生活を送った方ならば、「深夜喫茶」「深夜スナック」という言葉を憶えておいでだろう。コーヒー・紅茶にトーストくらいしかメニューになかった「純喫茶」(今にして思えばスゴイ表現!)と異なりスパゲッティやピラフなどまで置いている「軽食喫茶」のいくつかが、夜中までの営業を許可されていたのだろう。初電が動き出す頃まで、ねばることが出来た。
 私などもそのひとりだったが、そんな店で朝まで級友やサークル仲間と語り明したものだ。思えば、あの頃はみんな議論が大好きだったし、たぶん、真剣だった。朝まで、尽きることもなく眠気と戦いながら口角泡を飛ばしてのディスカッションは、たわいもない恋愛論だったり青臭い文学論だったり、あるいは過激な政治論だったりと留め度がなかったが、その熱い論戦の中には、いつも音楽が流れていた。終電を逃して、ひとり取り残されてしまった時には、朝まで文庫本を読んでいたりもした。シーンとした図書館よりも、音楽とざわめきのある喫茶店のほうが集中して本が読めるようになったのも、この頃に付いたクセだろうと思う。
 話のよくわかるアニキのようなスナックのマスターがいたりもした。もちろん、カップルも現れた。「夜明けのコーヒー、ふたりで飲もうね」というノリである。現在の私の女房殿とも、そんな日があった。「朝までカレと一緒だったの」というのは、この時代、これほどに健全だった……こともあったのである。そして、《それはキッスではじまった》というカップルもたくさんいた。そんな時代だった。



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「みんな夢の中」だった昭和40年代

2009年01月22日 11時17分23秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)






 きのうの続き。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(きょうは第2回です) 

■第2集「やさしく、しっとりラブラブ・ムード」(収録曲)

1)夜霧よ今夜も有難う
2)くちなしの花
3)瀬戸の花嫁
4)知りすぎたのね
5)いいじゃないの幸せならば
6)恋の奴隷
7)北の宿から
8)長崎は今日も雨だった
9)雨の御堂筋
10)昔の名前で出ています
11)ブルーライト・ヨコハマ
12)みんな夢の中
13)君は心の妻だから
14)夜と朝のあいだに
15)今日でお別れ
16)別れの朝
17)また逢う日まで
18)夢は夜ひらく


■みんな夢の中だった?

 誰のエッセイだったか忘れてしまったが、東京オリンピックが開催されテレビ中継されているのを、当時、東京・上野の定食屋で見ていた時のことを書いているのを読んだことがある。
 テレビの画面は柔道で、図体のデカイ外国人に日本人が次々に投げ飛ばされているところだった。外国人はオランダのヘーシンク選手。ヤマシタもヨシダも、やわらちゃんもいなかった昭和39年のことである。柔道ニッポンも形無しだった。その時、ちびりちびりと燗酒を飲みながら焼魚定食を食べていた初老の客がぽつりと言った「あいつらは喰ってるものが違うからなぁ」との嘆きに心底共感した、というものだった。日本はまだまだ貧しいのだということを思い知らされた、という趣旨だった。
 けれども、この年に中学三年生だった私は、当時の日本を貧しいとは思っていなかった。これは、おそらく世代の違いなのだろうと思う。オリンピックの年に既に社会に出ていた世代と、日本の高度成長期の入口というこの時期に、まだ社会に出ていなかった私の世代とは、世の中の現象の受けとめ方が違っていたのだと思う。オリンピックに合わせて都市整備が進み、高速道路の開通もあって、街は活気に満ちていた。
 私が子供から学生、社会人となっていく過程は、日本の経済がどんどん右肩上がりになっていった時代だった。憶えておいでの方も多いと思うが「5桁昇給」という、今となっては夢のような言葉が生まれたのも、私が社会人になってまもなくのことだった。
 だから、昭和40年代の流行歌は、どれもみな、ゆったりと大らかなムードに溢れている。底意地が悪かったりしないのだ。誰もが優しいし、ガツガツ、ギスギスしていない。
 ちょうど昭和40年代の半ばの1970年が世にいう70年安保の年で、前年1969年10月には有名な「新宿争乱」(「騒乱」ではない!)があったが、その新宿は西口再開発の真っ最中。翌1970年には高層ビルが姿を見せ始めた。ほとんどの人が新宿争乱を過去の出来事にしてしまい、オープンしたばかりの京王プラザホテルや住友三角ビルに登り、遥か下に広がる新宿駅西口地下広場(デモやヤジ馬を道路交通法で規制するために、「地下通路」と改称してしまったが)のぽっかりと開いた口を、未来都市が実現したかのように、そしてその未来都市が更に発展を続けると信じて眺めていた。同じように今、これからの日本を生きて行く「平成世代」は、新しい丸の内や、汐留、六本木の超高層から、未来の夢を描いているはずなのだ。



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夢の電化生活とレコードプレーヤー

2009年01月21日 19時11分29秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 先日、子供のころの思い出をちょっと書き始めてしまったせいか、5~6年前に『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文を思い出してしまいました。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。本日より毎日、1話ずつ掲載します。6日間だけ、お付き合いください。
 アッ! ついでながら、私のカラオケ・デビューは、1974年の秋ごろ、新宿、要通り、または末広通りにあったスナックで、曲目は『くちなしの花』。編集仕事の先輩に無理やり連れて行かれて、です。もちろん、マスターがレコードをかけるカラオケで、指先で器用にレコード針の針先を降ろして曲の頭出しをして、ちょっとつかえると数小節分を戻すなんていう名人芸を、この目で見ました!


■第1集「今夜はサイコー!居酒屋ムード」(収録曲)
1)ラブユー東京
2)愛して愛して愛しちゃったのよ
3)自動車ショー歌
4)ゆうべの秘密
5)恋の季節
6)小指の思い出
7)あなたならどうする
8)四つのお願い
9)いい湯だな
10)星のフラメンコ
11)笑ってゆるして
12)X+Y=LOVE
13)オー・チン・チン
14)どうにもとまらない
15)グッド・ナイト・ベイビー
16)ここがいいのよ
17)ふりむかないで
18)柳ヶ瀬ブルース

■夢の電化生活とレコードプレーヤー

 もうずいぶん昔のことになってしまったから忘れてしまった人も多いと思うが、昭和40年代(1965~74年)は、それ以前の昭和30年代とは対照的に、日本のあらゆる分野が急成長し、目に見えるように豊かになっていった時代だった。アメリカ製のホームドラマを見ながら指をくわえて憧れていた冷蔵庫や洗濯機などの電化生活は、ちょっと父親が奮発してくれれば、我が家にも実現したし、テレビやステレオの普及率も急速に高まっていった。それは、1964年の「東京オリンピック」に向けて、日本中が一丸となって推し進めてきたものが一気に花開いた結果だ、とオトナたちは自慢していた。
 音楽を取巻く環境にも、大きな変化があった。昭和33(1958)年には「音質が断然いい」というFM放送が開始され、ステレオレコードは第1回発売があったが、これらが一般の家庭で高嶺の花でなくなるのも、昭和40年代の10年間だった。昭和40年代も半ばを過ぎた私の学生時代には、級友の学生下宿にFM付きのラジオと、中古の白黒テレビくらいがあるのは、それほどめずらしくなかった。
 実は、クラシックやジャズの分野に数年遅れて、最後まで残っていたSPレコードでの流行歌の新譜製造が全廃されたのは昭和35(1960)年だったという。EPレコード(ドーナッツ盤)とLPレコードがかかる新式のプレーヤー(当時は「電蓄」と言った!)の普及状況からの決定だったのだろう。電蓄が昭和40年代には、もはや高嶺の花でなかったことは、昭和30年代の「電化三種の神器(=白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」に代って、この頃さかんに言われ始めた「新三種の神器」に選ばれていなかったことでもわかる。新しい三種の神器は「3C」と謳われ、それはカラーテレビ、クーラー、カー(自家用車)の頭文字「C」から生まれた言葉だった。
 そうなのだ。車は高嶺の花だった。まだお台場も幕張メッセも後楽園ドームもなかったあの時代、東京・晴海の「見本市会場」で行われた自動車ショーがなつかしいぼくらは、小林旭の歌で大ヒットした《自動車ショー歌》も、よく憶えている。車と女は、見ているだけでも楽しかった……、のである。東京オリンピックが行われた1964年のヒット曲だ。
 オリンピックの宴のあと、数年が経ち、晴れてサラリーマンになったぼくらニッポンの企業戦士は、だれも《ふりむかないで》豊かなニッポンをひた走り、もう《どうにもとまらない》という高度成長時代を生き抜いてきたのだった。




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