goo

ヤンソンス~オスロ・フィルのドヴォルザーク交響曲第7番・第8番

2009年07月30日 20時06分41秒 | ライナーノート(EMI編)






 以下は、1993年2月27日に、マリス・ヤンソンス指揮オスロ・フィルハーモニーによるドヴォルザークの交響曲『第7番』『第8番』を収めた東芝EMIのCDのために執筆したライナーノートです。当時の状況がよく反映されています。当時、英EMIはヤンソンス/オスロ・フィルを、かなり積極的に売り込んでいました。ご記憶のある方も多いと思います。
 私の文章も、そうした風潮に微妙に影響されていますが、今読み返してみても、ヤンソンスの音楽性に、一定の距離感、あるいは違和感を感じていた自分自身を思い出しますが、そうした「負の方向」を追究しないのが、ライナーノートの礼儀です。とても個性的な、つまり、誰の亜流でもない才能の持ち主ですが、どういう音楽へと発展していくのかが、私には「体感」できなかった演奏家ではありました。
今度、ゆっくりと、考えてみたいと思っています。
 曲目解説原稿のストックがたくさんある東芝さんでしたが、これも、オリジナルを書かせてもらいました。先日、「クラシックの解説・入門書は〈リサイクル〉で成り立っている」などと、馬脚を表すようなことを書いている人がいましたが、私は、曲目解説を書くときはいつも、私の視点で、新たに書き下ろしていました。


《ライナーノート本文》

●マリス・ヤンソンスの演奏

 マリス・ヤンソンスは、これまでしばしば来日しているが、つい先頃(93年1月~2月)もオスロ・フィルハーモニーを率いて、日本の音楽ファンにその個性あふれる指揮を聴かせてくれた。初来日はレニングラード・フィルとの77年で、86年にも同楽団と来日し、91年にはモスクワ・フィル、92年にはサンクト・ペテルブルク・フィル(旧レニングラード・フィル)と来日している。オスロ・フィルとは88年以来5年ぶりの来日だ。
 ヤンソンスは79年にオスロ・フィルの首席指揮者に就任し、以来このオーケストラのアンサンブルを磨き、世界的なオーケストラのひとつに数えられるまでに成長させたと評価されている。今回の来日公演でも、ヤンソンスの独自の表現への意欲に、ぴたりと随いていくオケの喰い付きの良さに、ヤンソンスとオスロ・フィルとの間に育っている信頼関係が強く感じられた。
 レコーディングの分野でも最近のオスロ・フィルは、60年代のフィエルシュタット、グリューナー=ヘッゲなどとのものが数枚あった頃とは様変わりで、世界のマーケットに登場するレコーディング量が非常に多い。特に86年にEMIとヤンソンス/オスロ・フィルとの間で長期にわたるレコーディング契約が結ばれてからは、このコンビによる録音のレパートリーにも広がりが出てきて、多くのCDファンに対する知名度が高まってきたのは周知のことだ。当CDは、そうしたヤンソンスとオスロ・フィルによる新録音で、ドヴォルザークの交響曲では88年録音の第9番《新世界から》、89年録音の第5番(国内未発売)に続く第3弾となる。
 ヤンソンス/オスロ・フィルは、その東京公演(2月11日サントリーホール)でも大いに聴衆を沸かせた。ダイナミックで強靱なアンサンブルを誇示する押し出しのよさや、絶妙のオーケストラ・ドライブで折重なる音を隅々まで透けるように聴かせるのが彼等の特徴だが、いわゆるヨーロッパ音楽自体が自然に身につけているフレージングとは異なるものを持っていることも、大きな特徴だ。
 ロシア系の指揮者は概ねそうした異種のフレージングを内に抱えており、それは時に重戦車のような迫力で迫るが、同じロシア系でもヤンソンスの場合はまた違う。ヤンソンスの音楽は、半ば強引とも言えるアゴーギクで、その意識化されたカンタービレを聴かせたりするといったものだ。これは、〈熱気あふれる音楽〉とは別種の世界だ。
 また、ロシア系の指揮者としては、西欧の機能主義の洗礼をかなり強く受けていると思われるヤンソンスの音楽は、最近ますます、いわゆる〈お国ぶり〉としての〈…らしさ〉が洗い落とされ、結果として極めて無国籍的な、独自の世界を築きあげるに至っている。彼の手にかかるとロシア物も、ドイツ物も、フランス物も、あるいは日本の音楽でさえも、皆それぞれの〈…らしさ〉を喪失して、ヤンソンスの音楽と化してしまうだろうと想像される。
 ヤンソンスの演奏スタイルは、この意味で非常に〈今日的〉と言えるし、その異質なサウンドが新鮮なものとして世界各地で迎えられているのも、その故だろう。
 だが、そうしたヤンソンスの音楽は、時にアクロバティックな演出が前面に出すぎてしまうことも否定できない。様々の仕掛けが何のために置かれているのかが見えて来ず、手つきばかりが目についてしまう危険があるのだ。発見があり、感心することはあっても感動がなければ、音楽は〈心に届く〉ものからは縁遠くなり、ほうり出される。これは、高度なテクニックを持つヤンソンスと、それにどこまでも従順なオスロ・フィルとが陥りやすい甘い誘惑であるとも言えるだろう。
 ではヤンソンス/オスロ・フィルは、当CDのドヴォルザークで、どのような音楽を聴かせてくれるのだろうか。
 これは極めて率直なアプローチの演奏で、スタイリッシュにまとめ上げられたドヴォルザークと言えるだろう。この曲から揺れ動く情感やスラヴ的土着性を聴きとろうとすると肩透かしを食わされるが、そうした匂いを消し去り、気分の耽溺のないスマートさで勝負に出た演奏だ。
 充実したアンサンブルで、澄んだ弱音から豪快な最強音までダイナミズムの幅は大きいが、徹底して直線的な音楽づくりで聴かせる。それは全身から湧き上がる情緒を頼みとするクレッシェンドとは異質の世界を固持しており、雄大に弧を描くようなクレッシェンドではない。むしろストレートに音量が増大するといったものだ。その一貫した姿勢で押し通していくところに、ヤンソンスの自信の程がうかがえる。
 2曲の内では、作品そのものが暗鬱としたロマン的情緒を内包しており、気分の深い沈潜に負っている部分の残る「第7番」よりも、「第8番」の方が、音楽そのものの素性としての起伏に富んだ変化が、そのまま率直にヤンソンスの演奏の効果を引出している。
 最後にヤンソンスの経歴を簡単に記そう。
 マリス・ヤンソンスは1943年に旧ソ連のラトヴィア共和国の首都リガに生まれた。父親は親日家としても知られ東京交響楽団の名誉指揮者でもあった名指揮者のアルヴィド・ヤンソンス。レニングラード音楽院で学んだ後、ウィーンでハンス・スワロフスキーに、ザルツブルクでヘルベルト・フォン・カラヤンに就いて指導を受けた。73年からはレニングラード・フィルでエフゲニ・ムラヴィンスキーの助手を務めた。79年以来、ノルウェーのオスロ・フィルハーモニーの首席指揮者を務めている。
 オスロ・フィルは、ストックホルム・フィル、デンマーク王立管などと並ぶ北欧の代表的オーケストラで、1871年にノルウェーの生んだ大作曲家グリーグに拠って創立された歴史を持っている。

●曲目解説

◇ドヴォルザークの交響曲
 ボヘミア(チェコ)の生んだ大作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)は、その生涯に9曲の交響曲を作曲したが、生前に出版した交響曲は5曲しかない。自己にきびしかったドヴォルザークが、自作の交響曲として初めて広く公刊したのは、現在「第6番」とされているものだ。出版当時「第1番」とされ、それに続いて現在の「第7番」が「第2番」として1885年にベルリンのジムロック社から出版された。出版社の営業政策から、これに続いて、「第6番」の前に書かれた現在の「第5番」が「第3番」として出版されたため話がややこしくなってしまうが、「第7」は、これに先立つ「第6」で初めて正式に交響曲作家として名乗りをあげたドヴォルザークが、満を持して世に問うた作品にふさわしい充実した完成度をもっている。
 ドヴォルザークの全交響曲の内、最も知られているのは「第9番《新世界より》」(旧第5番)だが、しばしば「第7番」と「第8番」(旧第4番)とを合わせて、ドヴォルザークの三大交響曲と呼ばれる。
 なお、ドヴォルザークの交響曲を前述の旧番号で呼ぶ習慣は、1960年代の初頭まであったが、今日では9曲を作曲年代順に呼ぶことで統一されている。

◇交響曲第7番 ニ短調 作品70
 ドヴォルザークは、第6番(旧第1番)を1880年10月に完成し、これは翌1881年3月にプラハで初演されたが、当時の名指揮者ハンス・リヒターの尽力もあり、この作品によってドヴォルザークの名は広く国外にも知られるようになった。1884年4月には作曲者を招いてのロンドンのフィルハーモニー協会の演奏会が催されたが、ここでも好評を博した。その時に同協会から新たな交響曲の作曲と初演の指揮を依頼され、それが、この第7番となった。先にも触れたように、ドヴォルザークが自信をもって世に問うた交響曲としては第2作にあたる。
 実際の作曲にとりかかったのは同年の12月になってからだが、ロンドン訪問に先立ち83年12月にウィーンで、かねてから親交のあったブラームスの第3交響曲の初演に立合ったことで大いに啓発されたと伝えられている。また、83年に作曲されたドヴォルザークの愛国的作品、序曲「フス教徒」作品67との関連も指摘されている。ドヴォルザークの交響曲の中では、最も緊密な構成と重厚で力強い展開による濃厚なロマンが聴きものとなっている。84年12月から始められた作曲は順調に進み、翌85年の春には完了し、4月22日に作曲者自身の指揮によりロンドンで初演された。
 楽器編成は次の通り。
 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニー、弦5部。

・第1楽章 アレグロ・マエストーソ。ソナタ形式。冒頭から悲劇的な気分で開始されるが、主題を幾重にも折重ねてたたみかけていく展開や、木管のメランコリックな慰めには、ブラームスの影響も聴くことができるだろう。コーダは第1主題によって壮大なクライマックスを築く。

・第2楽章 ポコ・アダージョ。かなり中間部が拡大された自由な3部形式。ピチカートを伴って木管が優しく歌い出すが、やがて暗鬱とした気分がせり出してくる。熱情を込めて高揚を続けるが、最後には冒頭の穏やかさに還っていく。

・第3楽章 スケルツォ。ヴィヴァーチェでボヘミアの舞曲であるフリアントのリズムを巧みに取り入れているが、ポコ・メノ・モッソの中間部は一転してテンポを落とした明るさが対照的だ。

・第4楽章 アレグロ。ソナタ形式による終曲。主題的には第1楽章との関連を持っており、全体の統一感をもたらしている。ここではドヴォルザークに内在するボヘミアの民族舞曲的な要素が、重厚で雄渾な器楽的展開で迫ってくる。悲劇の影に彩られているが、力強く英雄的に盛り上がり、締めくくられる。

◇交響曲第8番 ト長調 作品88
 前作の「第7番」にはブラームスの影響が色濃く現われているが、その4年後に書かれた「第8番」は、ボヘミアの自然の中で育まれたドヴォルザークの独自の音楽が大きく花開いた作品だ。楽譜の出版元が、それまで多くのドヴォルザーク作品を刊行していたジムロック社から、イギリスのノヴェロ社に変ったため、時折《イギリス》の愛称で呼ばれることもある交響曲だが、作品そのものは、ドヴォルザークの作品中でも、ひときわ大自然ののどかさや、さわやかさを伝える美しい旋律にあふれている。
 「第7番」をブラームスの「第3番」と関連付けるのに倣って、「第8番」はブラームスの「第4番」と調性や終楽章が変奏曲形式である点などで関連付けられるが、それほど重要なことではない。むしろ、ドヴォルザーク自身の歌謡的旋律美が大きな魅力となっている作品だ。
 作曲は1889年の9月中に1ヵ月足らずの速さで順調に進み、11月の初めには全曲のスコアも完成した。初演は翌90年2月2日、プラハで作曲者自身の指揮で行われた。
 楽器編成は次の通り。
 フルート2(内、ピッコロ1持替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、テューバ1、ティンパニー、弦5部。

・第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ。ソナタ形式。もの静かな序奏で開始され、やがてフルートが澄んだ響きで第1主題を奏でる。曲は、この2つの要素にリズミカルな舞曲風の第2主題が加わり、伸びやかに展開する。

・第2楽章 アダージョ。3部形式。静けさを基調にした叙景詩のような楽章。小鳥のさえずりを模したような音型が田園風景を思わせる開始だ。中間部は素朴な賑やかさが曲を盛り上げ、やがて、雲行きがあやしくなるが、ふたたび静けさを取戻して終える。

・第3楽章 アレグレット・グラツィオーソ。3部形式。哀愁を帯びたスラブ舞曲風の旋律が、柔らかく流れるように弦楽合奏で奏される。中間部はフルートとクラリネットで開始されるが、哀感の漂う気分はそのまま引き継がれる。モルト・ヴィヴァーチェのコーダが終楽章への橋渡しとなっている。

・第4楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ。自由な変奏曲形式。トランペットによるファンファーレで開始され、チェロがゆったりとした歩みで主題を提示する。変奏しながら力強い歩みが繰り返されるが、第4変奏の次にオーボエとクラリネットに現われる旋律は第2の主題と考えてもよいもので、変化に富んだ巧みな変奏は次第にクライマックスに近づいていく。一度大きく盛り上がった後、主題の再現部とも言うべき穏やかさに戻るのは、この楽章にもソナタ形式的な要素があると見てよいだろう。最後は怒涛のような激しさを持ったコーダで終る。





goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ベートーヴェン『交響曲第9番《合唱付》』の名盤

2009年07月26日 17時08分07秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第15回」です。


◎ベートーヴェン*交響曲第9番《合唱付》

 終楽章での、指揮者を中心に奏者や合唱団と聴衆とが一体となった熱い共感を求める聴き手が多いためか、この曲の録音はことさらライブ盤が多い。古くはフルトヴェングラー/バイロイト祝祭管の、異様な熱気に蔽われたレコード史に残る名盤があるが、これについては別項に譲ろう。比較的最近のものでは、クーベリックのライブ盤と、バーンスタインの八九年コンサートのライブ盤が、いずれもその人生肯定的な姿勢が曲趣にふさわしく、前者のおおらかさ、後者の極端に遅いテンポの深い祈りがそれぞれ印象的だ。
 しかし「第九」の真価は必ずしもライブ演奏にのみ求められるわけではない。クレンペラーは、即物的なアプローチで、この曲全体から濃厚なロマンを取払ってしまった。それは、速めのテンポの抑制された表情で、各楽器の音を歌い継いでいく清澄な第三楽章に端的に表されているが、それでもなお堂々と聳え立つ「第九」の巨大さを導き出している。
 マゼールは、緻密なアンサンブルで各パートの独立性を強調している。隅々までよく聴こえる音楽が、軽いフットワークで刻むリズムに乗せられた爽快感のある演奏だ。T・トーマスはベートーヴェンの時代に準じた小編成で敢えて演奏し、明瞭な旋律線でこの曲の情感を提示する。スリムなプロポーションだが、響き合いの美しい音楽性の豊かな演奏だ。
 しかし、クレンペラー、マゼール、T・トーマスらの「第九」は、フルトヴェングラーが極めたこの曲の頂点への挑戦を初めから忌避し、まったく別の道を歩んだ場合の三者三様の解答なのだ。極めて個性的であり、おそらく、この曲に対する聴き手の標準的な欲求に素直に従った演奏ではない。この曲の演奏として、良い意味で過不足なく、標準的で、十分に感動的な演奏としては、ショルティ/シカゴ響の七二年録音が第一に挙げられる。


【ブログへの再掲載に際しての付記】
 上記の文章のレトリック、すなわち「フルトヴェングラーが極めたこの曲の頂点への挑戦を初めから忌避し」は、私自身の「第9名盤選」にも当てはまっている、という皮肉な結果になっています。このパラドックスこそが、「第9演奏論」の難しさそのものなのです。
 クレンペラー/フィルハーモニア管は、英EMIが正規のマイクセッティングで録音していたと思われるライヴ演奏が英テスタメントから発売され、改めて、クレンペラーの第9へのアプローチに対する「確信」を確認できました。
 この原稿執筆後、ラトル、ウェルザー=メストなども「第9」を出しましたが、この私の文章を、根底から書きなおさなければならないほどのインパクトは受けていません。
 上記の文章の最後に、「過不足なく、標準的で、十分に感動的な演奏」として、私がショルティ盤を挙げているのは、「個性」で選んだからではなく、正に、「よく鳴っている演奏」だからなのですが、執筆当時、そのことの意味をなかなか分かってもらえなかった文章ではあります。おそらく、今の方が、分かって下さる方は多いでしょう。






goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

シルヴェストリの「幻想交響曲」

2009年07月24日 00時58分11秒 | ライナーノート(EMI編)




以下は、山野楽器の企画で、東芝EMIとの提携で発売されたCDのために書いたライナーノートです。このCDについては、発売当時、実験的に行われていたCS放送のラジオ局での私のおしゃべり番組用の「放送台本」を、既に、このブログ4月27日にアップしています。そちらと合わせてお読みください。私は、このシルヴェストリの「幻想」については何度も言及していますが、それらについて、ここで、くどくどとは書きませんが、とにかく、おもしろい演奏のひとつであることだけは、まちがいありません。
 なお、この原稿は1996年4月4日に書かれたものです。いつものように、元データそのままです。どこも直していません。
 
 ついでながら。
 私の「幻想交響曲」演奏に関する記述で、既にこのブログに掲載済のものもいくつかあります。それらは、このブログの左側の列をずーっと下がっていくと、やがて、「検索」があります。検索条件を「このブログ内で」と指定して、キーワードに「幻想交響曲」を入れれば、並び変えて該当のブログ本文が表示されます。もちろん、そのキーワードに「シルヴェストリ」を入れれば、シルヴェストリ関連の、このブログ内での私の記述が出てきます。


(ライナーノート本文)
■シルヴェストリの「幻想」を聴く
 「幻想交響曲」の名演のひとつでありながら、廃盤となって久しいシルヴェストリ/パリ音楽院管弦楽団の演奏が、やっと手軽にCDで聴けるようになった。この「幻想」は、個性あふれる演奏解釈で知られるシルヴェストリが、フランスの名門オーケストラとの共演で残したもので、長い間、CD復刻が待たれていたものだ。
 ベルリオーズ自身も学んでいたパリ音楽院のオーケストラによる「幻想」の録音は意外に少ない。SP録音期にブルーノ・ワルターとの物と、シャルル・ミュンシュとの物があることが知られており、この内ワルター盤はCD復刻されているが、戦後のLP初期からステレオ録音期では、このシルヴェストリ盤のほかには、アタウルフォ・アルヘンタ盤が英デッカ=ロンドンにある程度だ。1967年にパリ管弦楽団として発展的解消をしてその歴史を終えたパリ音楽院管弦楽団の最後の常任指揮者アンドレ・クリュイタンスも、正規録音では、このオーケストラとの「幻想」を残していない。そうした中で、このシルヴェストリ盤は、ベルリオーズゆかりのオーケストラの「幻想」の名演の記録として、特に重要なものといえる。このオーケストラの音色の魅力と、ベルリオーズの病的な映像感覚への深い理解を示すシルヴェストリの指揮とがバランスよく結実した演奏だ。
 シルヴェストリの演奏は、彼がスラヴ系の作品でしばしば聴かせるようなアクセントのクセをあまり強調せず、むしろオーソドックスにオーケストラの比類ない美しい音色を聴かせようとして開始される。パリ音楽院管の「幻想」を聴きたいという欲求に率直に応えてくれる演奏だ。第1楽章の冒頭、「夢」の場面をしばらく聴き続け、「情熱」の場面に入る直前、50小節目(このCDでは約4分20秒付近)でコルネットのソロが登場すると、パリ音楽院管ならではの、明るい洒落っけのある響きが耳を捉える。これは、他のオーケストラからはなかなか聴けない音色で、現在のフランスのオーケストラからも、既に失われてしまったものと言ってよいだろう。シルヴェストリは、この楽章を比較的オーソドックスにまとめ上げているが、それでも、随所で弦のピチカートを強調するなど、ベルリオーズの語法に敏感に反応している。
 第2楽章もテンポの安定した演奏で、リタルダンドなどでの大きな身振りを避けて優雅に通り過ぎる。
 このCDの演奏の白眉は、第3楽章にある。比較的遅めのテンポ設定が安定しており、感情の大きな抑揚に曲想が巻き込まれないまま、低弦を強調したメリハリのくっきりした演奏が展開される。時折音楽が止まってしまいそうなほど、遅いテンポを守るが、ここでは、1音1音を明瞭に聴くことが、ことさら要求されているようだ。何も変ったことをやっていないようで、実は、このあたりが、ロマンティックな「幻想交響曲」像から一歩踏み出し、覚醒されたなかで揺れる心理の襞(ひだ)を見つめていこうとするシルヴェストリの演奏の真価が発揮されている部分だ。今日では、更にデフォルメの強い演奏も聴かれるようになったが、この録音の年代を考えると、これは、当時としては、かなり大胆な解釈だ。シルヴェストリの異能ぶりが感じられる演奏だが、特に後半で、木管が甘美な音色を持ちながらも、とつとつと吹き続け、それに弦の舞うような響きがまとわりつくあたりの、あやしげな美しさは独特だ。
 こうした噛んでふくめるような旋律の運びは、第4楽章から終楽章に至るまで一貫している。多様な音が等分に良く聞こえるようにしっかりと鳴らして、魔女の祝宴へと突入する。低域を強調した、かなり重心の低い音色だが、その上をカラフルな音が飛び交う豊かで響きのゴージャスな終曲は手応えも充分で、色彩感を確保したまま、狂乱の音楽が、力強く結ばれる。
         *
 この、録音当時フランスを代表するオーケストラだったパリ音楽院管弦楽団を指揮して、骨格の太い押し出しの強い音楽を実現しているコンスタンティン・シルヴェストリは、1913年にルーマニアのブカレストに生まれた。1945にブカレスト国立歌劇場の首席指揮者、55年からは同歌劇場の総監督に就任したが、その強烈な個性の魅力が西側にも知られるところとなり、1957年のイギリス、フランスへの演奏旅行が実現、多くの聴衆を魅了した。英EMIレコードと契約、その年の2月には、早くもフィルハーモニア管弦楽団とチャイコフスキーの交響曲第4番、第5番、第6番を録音した。この「幻想交響曲」は、その後に続けられた一連の英EMIへの録音のひとつだが、ここではオーケストラがパリ音楽院管なので、シルヴェストリの多様な色彩感への執着が、オーケストラの個性とうまくマッチングして、豊かな楽想を展開した名演となっている。
 シルヴェストリの個性に新鮮な魅力を感じた西側の聴衆によって、次第に国外での名声が高まっていったために、1961年にはイギリスのボーンマス交響楽団の首席指揮者の地位を得て、本格的に西側での活動を開始したシルヴェストリだが、まだこれからという1969年2月23日に、惜しくも50歳代半ばで世を去ってしまった。64年には来日し、NHK交響楽団に客演している。
 なお、このCDの演奏は、1960年に録音され、英EMIからSXLP-20036の番号で61年7月新譜LPとして発売された(モノラル盤と同時発売)。その後67年4月にMFP-2066の番号で再発売されたが、70年代には廃盤になっている。日本では61年12月にレコード番号XLP-1019でモノラル盤が先行発売され、翌62年4月にASC-5099でステレオLPが発売されたが、60年代半ば過ぎには廃盤となった。

■演奏曲目についてのメモ
 ベルリオーズの「幻想交響曲」は、西洋音楽史上における画期的な〈標題音楽〉として知られる。この斬新な着想の作品が作曲、初演されたのが、ベートーヴェンの「第9」の初演からわずか6年後だったという事実にも驚かされる。シューマンが「ライン交響曲」を作曲する20年も前のことだ。
 「幻想交響曲」には、作曲者自身によるプログラムが付されている。ひとりの若い音楽家がひとりの女性への恋の炎を燃やし(第1楽章)、舞踏会でも、姿を見かけ胸の高なりを覚えるが、見失ってしまう(第2楽章)。青年は、ひとりで野に出て暝想に耽けりながら恋の行く末への不安を自問自答する(第3楽章)。第4、第5楽章では、恋に破れた青年が服毒自殺を図るが、致死量に達せず、奇怪な夢を見る。そこでは青年は断頭台へと進み(第4楽章)、死後の世界では魔女を中心に祝宴が開かれているが、そこで青年は恋の相手の女性が魔女と化しているのを見る(第5楽章)。
 以上が、おおまかなストーリーだが、恋人を表わす旋律を設定して、これが各楽章で形を変えて表われるという、ワーグナーのライト・モチーフを先取りした手法が採られている点が、この作品を殊更、音楽史上のエポック・メイキングなものとしている。ベルリオーズは、この恋人を表わす旋律を、イデー・フィクス(固定楽想)と名付けている。
 各楽章には、それぞれ次のようなタイトルが付いている。
 第1楽章「夢、情熱」
 第2楽章「舞踏会」
 第3楽章「野の風景」
 第4楽章「断頭台への行進」
 第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」
 なお、初演は1830年12月5日にパリ音楽院ホールで行なわれている。



goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

オペラ歌手、岡村喬生の歌う「昭和の流行歌」

2009年07月22日 15時45分27秒 | ライナーノート(日本クラウン編)
 以下は、1999年7月に、日本クラウンから発売されたCDアルバム『知床旅情/洒落男~岡村喬生、昭和を歌う』のライナーノートとして執筆した原稿です。社会世相の移り変わりをかなり意識して書きました。これも、私が最近クラシック音楽よりも興味深く取り組んでいる「日本の近代世相史と音楽との関わり」への視点が、ベースにあります。曲目解説も、もちろん私のオリジナルです。今、読み返すと、その後の調査で判明したこと、書き加えるべき情報などもありますが、とりあえず、CD発売時のまま掲載します。



■オペラ歌手岡村喬生と、昭和の流行歌

 国際的なオペラ歌手として広く知られる岡村喬生(昭和六年、東京生まれ)が、初めて、〈日本の流行歌〉をうたってレコーディングした。いわゆるクラシック畑でも、歌曲を主なレパートリーとする歌手による〈流行歌〉録音は、これまでにもいくつかあったと思うが、岡村のようにヨーロッパの伝統あるオペラ・ハウスで本格的にオペラに取り組んできた歌手によるこうしたアルバムはめずらしい。
 選曲にあたっては、〈岡村が歌いたいもの〉を唯一のよりどころとして決められたというが、期せずして、昭和という時代を、足早に振り返るものとなった。これらの歌の題名を眺めているだけで、それぞれの時代を懐かしく思われる方も多いと思うが、これはまた、日本に生まれ、一時は新聞記者を目指して早稲田大学に学んだが、音楽家としての活動への夢が芽生え、日本を離れローマ聖チェチリア音楽院に留学、二十歳代の終わり以降、長い滞欧生活を続けて国際的評価を得るに至った岡村の〈日本のうた〉でもある。
 戦前から戦後まもない頃までの歌は、岡村の心の片隅に置かれたまま、岡村とともに海を渡っていったはずだが、昭和三十年代から五十年代の歌が町に流れていた頃、岡村はそのほとんどをヨーロッパで過ごしていた。岡村は、『有楽町で逢いましょう』のレコードも、ローマ留学中に、在ローマ大使の私邸で聞かせてもらったのだという。そうしたことに端的に表れているように、岡村にとって、これらの歌のいくつかは、それぞれの歌が生まれた時に同じ日本の空気を吸って聞いていたのではない。私の勝手な想像だが、曲によっては、オリジナルの歌唱を聞いていないものもあるのではないだろうか?
 このアルバムの魅力は、それぞれの歌のオリジナルの味わいにおもねることなく、オペラ歌手岡村喬生が、自身の音楽観を高々と掲げて聴かせてくれるところにある。思いもかけず大きなドラマを内に秘めて歌われる『誰もいない海』『知床旅情』『北国の春』『芭蕉布』などは岡村ならではの名唱だろう。
 『北帰行』では前田憲男の名アレンジと共に、かつての歌声喫茶の愛唱歌が、まったく姿を変えて歌われる。『雪の降る街を』の独特のテンポによる個性的な歌唱も、前田のアレンジが、その味わいをよく表現している。オペラ歌手としての芝居達者さが最高度に発揮されているのが『洒落男』。ここでも前田のアレンジは、昭和初期モボ・モガ時代を髣髴とさせるワルトトイフェルのワルツの一節を引用したりして、なかなか凝った仕上りだ。
 フォーク系の歌手によって大事に歌い継がれてきた『死んだ男の残したものは』や『さとうきび畑』が、これほどにスケール大きく、激しいドラマ性をみなぎらせて歌い上げられたのを、私は聞いたことがない。岡村の独自の世界が持っている説得力は、一気に聴かせて巨大な深い沈黙を聴く者に残して終える。
 このCDアルバムは、昭和と共に生きた日本の代表的オペラ歌手が、日本人としての自身の心の内に生き続けた〈昭和のはやり歌〉を、彼自身が信じ続けてきたままに歌い上げたものだ。真の意味での〈個性〉が持っている力を、改めて知るアルバムである。

■曲目解説

◎有楽町で逢いましょう
(佐伯孝夫作詞 吉田正作曲)
 昭和三十二年(一九五七年)十一月新譜としてビクターから発売された。雑誌『平凡』に連載されていた同名ラブ・ストーリーの大映による映画化の主題歌としてタイアップ制作された。歌ったのはフランク永井で、彼の代表作となった。
 フランク永井は、朝霞の米軍キャンプのクラブ・シンガー出身で、ビクターにスカウト後ジャズ・ソングを歌っていたが、この年の三月『東京午前三時』で歌謡曲に転向。続いて十月新譜『夜霧の第二国道』とヒットが続いていた。洒落た都会生活への憧れが日本中を蔽っていた時代に生まれたフランク永井の歌は、都会生活を織り込んだ内容にマッチしたあか抜けた歌い方とともに〈都会派歌謡〉のはしりとなり、また〈魅惑の低音〉と讃えられた歌声は、低音ブームの火付け役ともなった。この歌が生まれた翌年、昭和三十三年には、テレビの普及率が、遂に百万台を突破した。

◎誰もいない海
(山口洋子作詞 内藤法美作曲)
 初レコードは昭和四十三年九月にCBSソニーから大木康子の歌で発売されたが、その時は『野火子』という曲のB面だったため、ほとんど話題にならなかった。もっとも作曲はそれ以前に行われており、作曲者の内藤と結婚していた宝塚出身の歌手越路吹雪が気に入ってリサイタルなどで歌っていた。その後、山室英美子、芥川澄夫のデュエットによるトワ・エ・モアがレコードを発売し、昭和四十五年頃には、和製フォーク、グループ・サウンズ全盛期のなかで若者の歌として大ヒットした。このため、トワ・エ・モアの歌と思われているふしもあるが、この時期に越路吹雪もレコーディングしている。

◎上を向いて歩こう
(永六輔作詞 中村八大作曲)
 水原弘が歌って第一回レコード大賞を受賞した『黒い花びら』以来、数年間にわたって数々の斬新な感覚の歌で日本の歌謡曲に新しい息吹を与え続けた作詞作曲コンビの代表作。この時期の中村の作曲には、中村の主宰する工房に無名時代からアルバイトで出入りしていた作曲家武満徹が深く関与していたとも言われるが、六輔・八大のコンビによって世に出た作品が日本の歌謡史に残した影響は大きい。歌唱の坂本九とともに、6・8・9トリオとまで言われた。
 『上を向いて歩こう』はNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』の〈今月の歌〉として昭和三十五年(一九六〇年)十月に発表され話題になり、翌年、東芝レコードから発売された。後に『スキヤキ・ソング』のタイトルで全米ヒット・チャートでトップにまで昇りつめ、海外でも百万枚を超すミリオン・セラーとなった。

◎雪の降る街を
(内村直也作詞 中田喜直作曲)
 昭和二十七年度に一年間放送されたラジオドラマ『えり子とともに』は大好評のうちに放送を終えたが、ドラマの挿入歌として、台本作家と作曲担当者によって作られた歌に問い合せが殺到。翌昭和二十八年二月にNHKのラジオ歌謡として再登場、四月新譜として高英男の歌唱でキングレコードから発売されたのが『雪の降る街を』だった。テレビ放送が日本で開始されたのが、この年、昭和二十八年(一九五三年)の二月だったが、国民の大半はまだラジオが日々の生活の娯楽だった。
 高英男は、当時パリから帰国したばかりの唯一の男性シャンソン歌手として話題になっていた。『雪の降る街を』に一ヵ月先立つ三月新譜は名高いシャンソンの名曲『枯葉』だった。オリジナルのSPレコードでは、主人公が雪の街中を歩く場面での挿入曲だったということがことさらによくわかるほど、ゆっくりとリズムを刻む長い間奏が入り、三番の歌詞は歌われていない。

◎知床旅情
(森繁久弥作詞・作曲)
 俳優、森繁久弥が自身の森繁プロ第一回制作映画『地の涯に生きるもの』で北海道に長期ロケをした昭和三十四年(一九五九年)に、即興的に生まれた『オホーツクの舟歌』が元曲。昭和四十年(一九六五年)八月に『知床旅情』と改めて、森繁自身の歌でコロムビアから発売された。
 その後、フォークソング・ブーム時代の四十四年には、加藤登紀子がフォークソング調に歌って空前の大ヒットとなった。

◎酒は涙か溜息か
(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)
 昭和六年(一九三一年)十月新譜としてコロムビアから発売された。松竹映画『想い出多き女』の主題歌だった。歌唱の藤山一郎は同年七月の『北太平洋横断飛行マーチ』がデビューだが、実質的には、この『酒は……』がデビューと言ってよいだろう。作詞、作曲者は共にこれがデビュー作で、作詞の高橋は当時函館新聞の記者だった。
 これに先立つ昭和三年には時雨音羽作詞中山晋平作曲の『出船の港』が藤原義江の歌で、また野口雨情作詞中山晋平作曲の『波浮の港』が佐藤千夜子の歌でビクターから発売され、晋平ぶしが歌謡界をリードしていた。コロムビアの古賀メロディは、そうした状況に対抗するものとして、新鮮な魅力をもって迎えられた。録音機材の急速な性能向上もあって、藤山の歌唱法も、それまでの声を張り上げるものではなく、ソフトに語りかけるという新しいものだったことが斬新さを倍加した。世の中は不景気が進行し、人身売買や一家心中が話題になり、この年の九月には満州事変が勃発という暗い世相の中での発売だった。

◎北帰行
(宇田博作詞・作曲)
 昭和三十年代の初頭に東京・新宿歌舞伎町の「灯」から始まった〈歌声喫茶〉運動は、またたく間に全国に広がっていった。アコーデオンを弾くリーダーに導かれて、店内の客が歌詞の冊子を手に取り、あるいは肩を組んで合唱することで、当時の多くの学生やサラリーマンが青春を謳歌していた。
 歌声喫茶がピークに達した昭和三十六年(一九六一年)には、歌声喫茶での定番曲のレコードが各社から続々と発売された。この『北帰行』もそのひとつで、歌唱は、ダーク・ダックスと並んで歌声喫茶ファンの人気者だったボニー・ジャックスにより、キングレコードから発売された。作詞作曲は作者が学生時代の昭和十五年に行われているが、その後歌い継がれてきたものが、歌声喫茶運動のなかで結実したと言えるだろう。

◎影を慕いて
(古賀政男作詞・作曲)
 昭和歌謡史に大きな足跡を残した古賀政男は昭和六年(一九三一年)十月に『酒は涙か溜息か』でデビュー、続く十二月に『丘を越えて』が発売され、この『影を慕いて』は翌年、昭和七年三月新譜としてコロムビアから発売された。歌手は前二作と同じく藤山一郎。レコーディングにあたって、伴奏のギターは古賀自身が受け持った。
 古賀の自伝『わが心のうた』によれば、昭和四年に来日したギターの名手アンドレス・セゴビアの演奏会を聴いての興奮が覚め切らないうちに、一気に書き上げられたものだというが、発表までに二年余の年月が経過した。セゴビアの来日公演は、日本の多くのギター関係者に衝撃を与えたと伝えられているが、古賀の場合、それが自身の領域の発見に連なっていったところが幸福だった。まだ二〇歳代の青年だった古賀の原点とも言われる作品。

◎洒落男
(坂井透訳詞)
 原曲はフランク・クラメット、ルー・クラインによるもので、原題は『ゲイ・キャバレロ』。二村定一が日本語訳詞で歌うジャズ・ソングとして昭和五年(一九三〇年)一月にビクターから発売された。
 満州事変が勃発する前年にあたるこの年は、失業者が街にあふれ、不景気が深刻化していたが、その一方で都会ではカフェ、ダンスホールなどが次々にオープンしていた。作家の川端康成が、「東京にただ一つ、舶来モダーンのレビュー専門に旗上げされた」と称えた〈カジノ・フォーリー〉をエノケンが興したのも、この年だ。
 アメリカ製の新作トーキー映画が毎月のように入ってきて、スクリーンを通して海の向うの最新ヒット曲がいち早く聞かれるようになり、小さなカフェやバーに置かれた朝顔型のラッパのついた手巻き蓄音機からもレコードの音楽が流れる。海外のポピュラー音楽が急激に身近かになった時代だった。『洒落男』の訳詞は、そうした時代のモダン生活への憧れを軽妙に描いている。

◎見上げてごらん夜の星を
(永六輔作詞 いずみたく作曲)
 〈日本のミュージカル〉創造に取り憑かれていた、いずみたくと永六輔の情熱が生んだ処女作『見上げてごらん夜の星を』の主題歌。ミュージカルは伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズと橘薫が中心となって昭和三十四年(一九五九年)の夏に大阪労音で初演された。同メンバーで二年後の秋、東京で再演。昭和三十八年(一九六三年)には、坂本九、九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キングにメンバーが代り大阪、東京で相次いで上演され、シングル盤で先行発売された主題歌が、この年のレコード大賞作曲賞を受賞した。全曲収録のアルバムは、翌三十九年十二月に東芝レコードから発売されている。
 定時制高校を舞台にした青春ドラマで、シングル盤のB面に収録された挿入歌『勉強のチャチャチャ』もヒットした。

◎与作
(七沢公典作詞・作曲)
 昭和四十年頃に放送が開始され、五十年代まで人気のあったNHKのテレビ番組に『あなたのメロディ』というものがあった。全国のアマチュアの作詞作曲家が作品を投稿し、それをプロの歌手が歌って聞かせるというもので、この番組から、いくつか後世に残る流行歌が誕生した。
 昭和二十三年群馬県生まれの七沢にとっても、この『あなたのメロディ』への応募作は、一生の青春の記念となった。『与作』は、テレビ放送時には弦哲也が歌って話題を呼び、昭和五十二年度の最優秀作に選ばれた。翌年、昭和五十三年(一九七八)年に五木ひろし、千昌夫、北島三郎なども加わってのレコード各社による競作となったが、結局、北島三郎によるクラウンレコードから発売されたものが生き残った。今では北島の代表曲のひとつとして完全に定着している。

◎北国の春
(いではく作詞 遠藤実作曲)
 昭和五十二年(一九七七年)二月に千昌夫の歌で、作曲者遠藤実がコロムビアから独立して設立していたミノルフォンレコードから発売された。発売してからしばらくの間は、ほとんど話題にならなかったが、二年後、爆発的なヒットとなってミリオンセラー、国民的愛唱歌となった。70年代の終わり、それは、フォークソングやニュー・ロックのメッセージ性が薄れ、微温的な気分が蔓延してきた時代でもあった。この曲は故郷の温りややすらぎを思い出させ、都会の大学に進学した青年たちのUターン現象とも符合していたが、対象そのものは、もっと幅広かった。

◎青葉城恋歌
(星間船一作詞 さとう宗幸作曲)
 作曲のさとうは、60年代にピークを迎え社会現象にまでなっていた〈歌声喫茶〉のリーダー出身。仙台に在住し、シンガー・ソングライターとして〈杜の詩人〉と呼ばれていた。NHK仙台のFM放送に番組を持っていたが、そこに投稿されてきた詞に作曲して放送したところ大きな反響があり、キングレコードからレコードが全国発売されるに至ったのが、この『青葉城恋歌』。昭和五十三年(一九七八年)のことで、この仙台のベテラン歌手は、その年のレコード大賞新人賞も受賞してしまった。〈地方の時代〉と言われ、青年のUターン現象が話題となっていた時代だった。前年に発売された千昌夫の『北国の春』がじわじわと人気を集め、爆発的にヒットとなったのは、この『青葉城恋歌』発売の翌年だった。

◎芭蕉布
(吉川安一作詞 普久原恒勇作曲)
 沖縄の音楽シーンを絶えずリードし続けてきたマルフク・レコードの二代目代表、普久原恒勇が、大阪から帰郷して創作活動に専念しはじめていた時期に書いた傑作メロディとして広く知られる。
 本土復帰前の沖縄で、地元の琉球ラジオ放送が推進していた〈徹底したふるさと沖縄の賛歌〉という狙いで放送したホームソングのひとつで、昭和四十年(一九六五年)にハワイ二世のクララ新川の歌唱で放送された。「伝統的な沖縄音階を用いながら、沖縄民謡のポップ化を推進してきた」と評される普久原の持ち味が、この初期の作品にも既に凝縮されていると言われている。
 昭和五十三年(一九七八年)の夏にNHKの『名曲アルバム』で紹介され、全国に広く知られるようになった。

◎死んだ男の残したものは
(谷川俊太郎作詞 武満徹作曲)
 昭和四十年(一九六五年)四月二十二日、東京・お茶の水の全電通会館ホールで行われた〈ベトナムの平和を願う市民の集会〉に間に合わせるように作られたと言われている。
 戦後日本を代表する詩人のひとりと、最も国際的な評価の高い作曲家による反戦歌として話題になったが、武満自身は「政治的に歌うのではなく、たとえば『愛染かつら』の歌をうたうように歌ってほしい」といって譜面を渡したと伝えられている。
 谷川の詩集に楽譜付きで掲載されたのが最初で、それを見た森山良子がいち早くレパートリーに取り上げ、昭和四十四年(一九六九年)九月にフィリップスレコード発売の『カレッジ・フォーク・アルバム第二集』にも収録された。同じ時期にフォーク・ゲリラの騎手と言われた高石友也のシングル盤も発売され、その他、多くのフォーク系歌手がこの時期に録音したが、今日に至っても、この曲は当時の時代背景を越えて、武満が望んだとおりに、静かなメッセージを送り続けている。

◎さとうきび畑
(寺島尚彦作詞・作曲)
 多くの合唱曲や歌曲の作曲者として知られる寺島が、沖縄旅行の際に受けた印象をもとに昭和四十二年(一九六七年)に書き上げた作品。初演は新居浜で行われた四国労音の舞台で、歌唱は田代美代子だったというが、このCDでも歌われているように、全曲は10分近い大曲なのでなかなかレコーディングの機会に恵まれなかった。これをフォークソング系の森山良子がコンサートで取り上げ、LPアルバムに収録したのが昭和四十四年九月フィリップスレコード発売の『カレッジ・フォーク・アルバム第二集』だった。その後、歌声喫茶運動から登場した上條恒彦が録音するが、これは半分程度に省略した五分バージョンだった。
 この歌が世代を越えて広く知られるようになったのは、さらに二分半に短縮して昭和五十年(一九七五年)に放送されたNHKの『みんなのうた』だった。この時の放送では、短縮版を理由に森山が断ったためか、ちあきなおみが歌ったが、平成九年(一九九七年)になってのリメイク放送による『みんなのうた』では、五分バージョンで再度、初期からこの歌の普及に力を尽くしていた森山が歌った。森山が主張するように、単純な繰り返しの中から静かに反戦を訴えるこの歌の精神を短縮版で伝えるのは難しいが、シンプルな旋律から浮かびあがる情景は、どのように短縮されようと、一瞬で人々の心をとらえてしまう。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ベートーヴェン『交響曲第8番』の名盤

2009年07月18日 08時30分28秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第14回」です。

◎ベートーヴェン*交響曲第8番

 「第七」との比較で、しばしば軽妙洒脱、優美典雅な作品と評されるが、初期の交響曲とは異なり、簡素なスタイルながら、ベートーヴェン特有の振幅の大きな音楽の力強さを持っていることに変わりはない。そう考えると、「この曲のイメージの基本」と一部の聴き手にいまだに言われ続けているワインガルトナー/ウィーン・フィル盤は、今日の私たちから遠く隔たった世界として聴くにふさわしい演奏ということになる。それは同じワインガルトナーの「第九」の歌手たちの歌いぶりを聴くだけでわかる。「第九」は古めかしいが「第八」は理想だ、というのは、随分と強引な物言いだ。
 クレンペラー/フィルハーモニア管は、シンプルな明快さと堂々とした雄大さが両立した、この曲の本質を踏まえた演奏。落着きのあるテンポと重厚な響きを支えに、彫りの深い表情の雄渾な音楽で貫かれ、構築的で均衡のとれた古典的なプロポーションから、凝縮された強靱な意志、内燃する音楽のずしりとした手応えが感じられる。第二楽章での遠近感のある奥行きのある表現も見事だ。S=イッセルシュテット/ウィーン・フィルは、しなやかな流動感のある演奏だが、やはりその基本に堅固な造形を求めた安定した仕上りを聴かせる。指揮者の控え目な主張がウィーン・フィルの自発性を生み、第三楽章のトリオでの各楽器の受渡しの妙は特に味わい深い。
 マゼール/クリーヴランド管は、低域を中心に内声部の動きが手に取るように聴こえてくる緻密で澄んだ室内楽的なアンサンブルで、リズム要素への偏執的関心をあらわにした演奏。この曲が〈舞踏の聖化〉といわれる「第七」との双生児的な作品であることを強調した個性的な表現だ。ヴァント/北ドイツ放送響の輝かしくヒロイックな演奏も魅力だ。小味な曲と思っていた「第8」が、思いがけず大柄な曲になっているのが興味深い。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 文中にもあるように、この曲は、ハイドン的なものを色濃く残していた「第1番」から遠く隔たって、ベートーヴェンらしさが横溢した時期の作品だということを忘れてはいけないと思っています。その観点で、様々の演奏を取り上げた結果が、このような結果になったわけです。けれども、ジンマン/チューリッヒ・トーンハレ管の演奏のような、第7と第8の区別ができなくなるような演奏を頻繁に聴くようになった最近、ワインガルトナーのテンポが、妙に懐かしくなってきたのも事実です。ワインガルトナーは、あの時代においてはいわゆるザハリッヒな演奏で、譜面に忠実であろうとした人だけに、それなりに、しっかりと鳴っている演奏であることに変わりはないわけですから。少々ムキになってワインガルトナーはずしを進めているようにも読めて、今となっては反省しています。お察しの方もおられると思いますが、「一部の聴き手」と私が書いているのは、「一部の音楽評論家」です。3人~5人の合評スタイルで、点数を総合して名盤を順位づける「レコ芸」のための原稿だったので、最終的な点数配分を意識して書いています。今となっては、その意味では多少不純な原稿なので、申し訳なく思っています。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ウェルザー=メスト、若き日のウィーン音楽CD

2009年07月14日 11時07分17秒 | ライナーノート(EMI編)





 以下は、1991年12月18日に執筆した東芝EMI新譜CDのためのライナーノートです。メストが新進指揮者として話題になり始めたころです。私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)にも、前半の、演奏について書いた部分は収録してあります。これがオリジナルです。
 私のウィーン音楽観が、ここにも出ています。この延長上に書かれたのが、マゼール指揮で行われた1996年のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートのCD(BMGビクター)のライナーノートということになります。
 その後に知り得たこと、調べた結果で感じたこと、語るべきことなど、いろいろありますが、一度印刷物になって公にされたものですから、そのまま、とりあえず掲載します。私は最近、明治、大正、昭和初期に至る日本の西洋音楽の受容史を研究していますが、その過程でも、この19世紀末のウィーンの音楽風土をどう受け止めるかには、興味深いものがあります。


《変貌するヨハン・シュトラウスの音楽》

 ヨハン・シュトラウス2世をはじめとするシュトラウス・ファミリーが残した「ウインナ・ワルツ」のファンは多い。それは、これらの音楽が、この上もなく幸福な〈音楽のよろこび〉にあふれているからに他ならない。苦渋に満ちた音楽を書き続けたブラームスが、シュトラウスの自由に紡ぎ出されてくる旋律に羨望の念を抱いていたらしいことは、いくつかのエピソードで知られているが、シュトラウスの魅力は正に、ある時は優美に、あるときは軽やかに、口ずさみながら自然と顔がほころんでくるような旋律の美しさにある。
 そうしたシュトラウスの魅力は、今からもう40年も以前に、ウィーンの生んだ名指揮者クレメンス・クラウスとウィーン・フィルによって見事に表現されているが、それ以来、「ウインナ・ワルツ」というと、〈ウィーンのオーケストラでなければ……〉という神話のようなものができてしまったことも事実だ。確かに、その後もヨーゼフ・クリップスや、ルドルフ・ケンペ、カール・シューリヒトなどの名演がウィーンから生まれているが、クラウスが始めたウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」の指揮を、クラウスの死後から長く続けたボスコフスキーの演奏は、ウィーン的な柔和な雰囲気の表出はあるものの、決して満足のいくものではなかったと私は思っている。むしろ60年代に登場したものでは、ウィーン国立歌劇場管を振ったホーレンシュタイン盤や、クルト・ワイルとカップリングされたフィルハーモニア管とのクレンペラー盤が、意欲的な主張のある演奏だった。
 ボスコフスキーの、〈仲間意識〉に寄り添った演奏は、刻々と移り変る音楽状況に新たな一石を投じることなく20余年の歳月を重ねたが、その間に私たちを取り巻く音楽の環境は随分と変わってしまった。現代に生きる私たちは、自然に口を突いて出てくる音楽に一瞬の戸惑いを感じ、高らかに歌うことの意味を問うようになってしまったと言ってもよいだろう。かつてウィーンに君臨したマーラーが、切れ切れに断ち切られた歌を歌い継いで行かざるを得なかったように、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンらウィーンの音楽家たちが、音楽の〈抒情〉の在り方に革新的な視点を投じたように、音楽を聴く側の意識も、彼等、作曲する側の登場から数十年を経た今日に至って、徐々に変貌しつつあるのだ。だから、ボスコフスキーの後を受けて1980年から7年間にわたって「ニューイヤー・コンサート」を指揮したロリン・マゼールの演奏は、クラウスとはまったく異なったアプローチながら、明確な旋律線とリズム感で、シュトラウスのスコアそのものから豊かで変化に富んだ表情を意識的に引き出し再構築してみせ、ウィーン風のアゴーギクを逆手にとって鮮明にデフォルメして再現したものとして、興味深く聴けるものだった。マゼールと国立歌劇場との不幸な決別のあと、そうした〈冒険〉をしばらく聴くことが出来なかったが、そこに登場したのが、このウェルザー=メスト盤だ。
 フランツ・ウェルザー=メストは、1960年にリンツに生まれたということだから、まだ30歳になったばかり。この録音はW=メストが20代の時のものということになる。どちらかというと「シュトラウス集」には老練な指揮者による録音が多く、20代での録音というのは極めてめずらしい。ダイナミックな効果の聞かせ所のある曲と違って、若手の指揮者にとっては難しい曲と言えるし、まして「ウィーン音楽」には、まだ固定的なイメージが強く残っているだけに、W=メストの〈挑戦〉は、それなりの自信の表れと思って聴いたが、その成果は充分に納得のいくものだった。
 このところロンドンに活動の中心を移したW=メストだが、5~6年前はウィーンやザルツブルグに登場していたので、「ウィーン」とは縁浅からぬ関係ではあるのだが、オケはロンドン・フィル。一体どんな演奏だろうかと思いながら聴いたわけだが、それは、W=メストの豊かな音楽性に支えられた現代感覚に溢れたものだった。くっきりとしたリズムによる表情付けは丁寧だが、決して力まず、重く引き摺ることもなく、さらりと流れていく音楽が心地よい。ホーレンシュタインやクレンペラーにはある種のこだわりがあり、マゼールの場合は、そうしたこだわりの正体を暴き出してしまった感があったが、W=メストの世代になると、そうしたこだわりがまったくないのだろう。ウィーン風のスタイルに凭れかからずに、自己流で表現していることがなによりも貴重だ。クラウスのような滔々とした歌はないものの、きりりと引締まったすがすがしさが、軽やかで屈託のない歌に彩られていることも、W=メストの現代感覚と豊かな音楽性とのバランスのとれた結果だ。
 このCDは、プログラム・ビルディングもなかなか周到で、全7曲の内、構成感のはっきりしたワルツ「芸術家の生涯」と「皇帝」を初めと後半にそれぞれ置き、躍動感を前面に押し出した二つの序曲それぞれのあとに、比較的自由な曲想の「ウィーンの森の物語」と「美しく青きドナウ」を配すといった具合だ。終結部近くからいくらか激しいアチェレランドを聴かせる「南国のばら」は「ジプシー男爵」序曲の前に置かれている。
 ロンドン・フィルの弦が多少響きが薄く、艶にかけるのが惜しまれるが、W=メストの意図によく随いており、かえってウィーンのオーケストラでは、ここまでW=メストの流儀での演奏を仕上げることは出来なかっただろう。W=メストの〈挑戦〉によって、誰の亜流でもない新鮮なアプローチの「ウィーン音楽」の演奏が、また一つ加わった。古き良き伝統は、こうして、才能のある若い演奏家によって少しずつ塗り替えられていく〈光栄〉を担ってきたのだ。

《演奏曲目について》

 1825年に生まれたヨハン・シュトラウス2世は、1844年に最初のワルツを発表し成功してから1899年に世を去るまでに、 500曲近くのワルツ、ポルカ、オペレッタなどを作曲し、19世紀の後半のほとんどを、ウィーンの宮廷の繁栄とともに歩んだ作曲家だ。代表作だけでも、かなりの数にのぼるが、ここでは以下の曲目が演奏されている。

◇ワルツ「芸術家の生涯」
 1867年作曲の作品314。有名なワルツ「美しく青きドナウ」のわずか数日後に書き上げられた。この頃から、しっかりした構成の作品が見られるようになっており、これもそうした円熟期の作品のひとつだ。

◇「南国のばら」
 1880年作曲の作品388。 この年の10月に初演されたオペレッタ「女王のレースのハンカチーフ」から四つのワルツを採り、序奏、後奏を付してまとめたもの。オペレッタそのものは今日ではほとんど忘れられてしまったが、初演当時は大好評を博したと言われている。それは、おそらく、この魅力あふれる旋律に依るところが大きかっただろう。

◇喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
 1885年に初演された全3幕からなる喜歌劇(オペレッタ)の序曲。「こうもり」と並んでJ・シュトラウスのオペレッタの傑作とされている。序曲は、このオペレッタに登場するメロディーを次々に接続したもの。なお、このオペレッタからはもう1曲、同じように名旋律を接続して編んだ「宝のワルツ作品418」も生み出されている。

◇ワルツ「ウィーンの森の物語」
 1868年作曲の作品325。しばらくウィーンを離れて外国に演奏旅行に行っていたJ・シュトラウスが、帰国後、久しぶりに見たウィーンの美しさに感動して、わずか1週間で書き上げられたと伝えられている。主部に入る前、静かなチェロによる旋律の後、オーストリアの民俗楽器ツィターが独特の音を奏でるのが有名だが、これはしばしばヴァイオリンのソロでも奏され、このW=メストの演奏では、その方が採用されている。

◇ワルツ「皇帝円舞曲」
 1888年作曲の作品437。一時、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの即位40周年祝賀舞踏会で披露された作品とされていたが、それはどうやら誤りで、作品434の「皇帝祝典ワルツ」との混同だと言われている。「皇帝円舞曲」の方はベルリンで初演されており、この曲での皇帝はドイツ皇帝ウィルヘルム2世ではないかとも考えられるようになっている。舞踏会場への入場をイメージする長い行進曲風の序奏を持っているが、こうしたスタイルの確立は、ダンス音楽から発展してきたウインナ・ワルツを、演奏会での鑑賞音楽にふさわしいスケールにすることにも貢献したと評価されている。充実した内容の作品であり、J・シュトラウスの全作品の中でもひときわ美しい大輪の花だ。

◇喜歌劇「こうもり」序曲
 1874年に初演された全3幕のオペレッタの序曲。J・シュトラウスのオペレッタで最初に成功した作品であると同時に、ウィーン情緒にあふれた舞踏会の場面もあり、ウインナ・オペレッタの中でもレハール作の「メリー・ウィドー」と人気を二分する傑作だ。序曲はこのオペレッタの中の旋律を集めて接続曲とする、通常の方法が採られている。

◇ワルツ「美しく青きドナウ」
 1867年作曲の作品314。ウィーンの街を流れるドナウ川をテーマにした作品で、毎年ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでも最後に演奏されるワルツとしてあまりにも有名だ。オーストリアの第二の国歌とさえ言われるほど、ウィーンの人々に愛されている。最初は合唱付きの曲として発表されたが、歌詞が余り良い出来ではなく、それほど話題にならなかったが、数ヵ月後に管弦楽のみの演奏が行われて、一気に人気が高まったと言われている。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ベートーヴェン『交響曲第7番』の名盤

2009年07月10日 10時18分25秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第13回」です。


◎ベートーヴェン*交響曲第7番

 ライナー/シカゴ響は、堅固な構築性を持ったベートーヴェンの音楽を十全に把握した明瞭なラインに沿って、長めのフレージングで流動感のある演奏が開始され、くっきりとしたリズムの冴えがその上を流れていく。合理性と豊かな音楽性とが理想的に結合した歴史的名盤だ。
 この曲にもっと激しい〈熱〉を求めると、フルトヴェングラー/ウィーン・フィル盤を挙げる人が多い。しかし、私はモントゥ/ロンドン響の一九六三年録音が際立った演奏だと思う。モントゥの偉大さは、熱っぽさに音楽の輪郭が犠牲にならないことだ。ここではリズムは形式としてではなく、肉体の一部といってもよいが、あくまでも、その動きは明確に捉えられている。
 戦後世代の演奏も見てみよう。アバドがまだ三〇歳代前半の一九六六年に録音した彼のデビュー盤は、粘りのあるフレージングで確信にみちた力強い響きを朗々と聴かせる。第二楽章も滔々と流れる大河のような線の太い音楽が、ウィーン・フィルのふくよかな音色と相乗効果を生んでいる。現在のアバドのスリムな音楽とは傾向が違うが、この曲にはふさわしい。終楽章の盛り上がりも細部の明瞭さを決して失わないが、当時のアバドならではの熱演だ。
 プレヴィン/ロイヤル・フィルは、比較的ゆったりとしたテンポだが、のびやかで自然な生命力にあふれた生き生きとした演奏。せき込んだところのない悠然と迫る落着きのある音楽は、充実した響きと相まって風格さえ感じさせるものだが、プレヴィンの力みも衒いもない自然なアプローチが、厳しいベートーヴェン像からこの曲を開放している。しかし、これは次世代への過渡期の姿だ。例えば、ラトルやウェルザー・メストといった新世代が、フルトヴェングラー的な〈熱〉を、我々の時代にふさわしいスタイルに再構築して聴かせてくれる日が、やがてやってくるだろう。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 これを、書いた当時は、往年の演奏と若い世代の演奏、という視点を、ことさらに意識していたと思います。その上での、私なりの結論でした。この他では、室内楽的な精緻さが際立っているマゼール/クリーヴランド盤、テイルソン=トーマス/イギリス室内管なども、加えるべきでしたが、紙幅の都合で省略しました。
 このころには、ラトルの全集も、メストの「第9」も出ていませんでした。この二人については、それぞれ、新譜発売時に詩誌『孔雀船』の「新譜評」で書いています。当ブログではカテゴリー「新譜CD雑感」で掲載済です。






goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

モーツァルト『ピアノ・ソナタ第11番イ長調 k.331』の名盤

2009年07月06日 10時42分09秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第12回」です。


◎モーツァルト*ピアノ・ソナタ11番

 モーツァルトのピアノ・ソナタの中でも人気の高い曲だが、第一楽章がソナタ形式ではなく変奏曲となっており、終楽章が有名な「トルコ行進曲」と、リラックスした気分にあふれた愛らしい作品だ。
 ピリスの新盤は第一楽章の変化に富んだ演奏が、まず魅力だ。各変奏のリピートごとの曲想の描き分けや、大きなリタルダンドも無理なく聴こえる小柄の音楽を守り、その中に挟みこまれた決然としたリズムで軽やかに飛び跳ねる音は、健康的でさわやかだ。第二楽章も、重量感を感じさせないピアノの響きが美しい。終楽章は〈そそ〉とした入り方で始まり、ひとつひとつの音を楽しむように遅めの滑らかな音楽を展開する。だが、こうした意識操作の痕跡を露骨に残した演奏の出現を、どう考えたらよいのだろうか? という問題は残る。
 その点、一九五五年のバックハウスの演奏には自然に生まれでてくる素朴な愛情が感じられ、リリー・クラウスの五六年盤は、多少の大叩きによるフォームの崩れにも頓着しない情熱的な音楽のほとばしりが貴重で、それぞれ往年のモーツァルト演奏のスタイルを今に伝えている。
 バレンボイムは緻密な設計がバランスのとれた演奏と言えるだろう。第一楽章では特に音の強弱をはっきりさせた進め方で山場をいくつか設けてメリハリを付け、意識的な操作の跡を隠さない。その確信を持った音楽は終楽章で引締まった表情の行進曲がきびきびと響き始めると最高潮に達する。緊張感の持続する澄んだ世界だ。
 また、エッシェンバッハも各変奏の描き分けに細心の注意が払われ、楽章間のペース配分も均衡感がある。指揮者に転向したこの二人のピアニストの演奏が意識操作の跡を残していても、ピリスのように〈ピアノ演奏〉としての意識の過剰ではなく、〈音楽〉の総体の中で消化されているのは興味深い。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 ファジル・サイの演奏は、上記の様々な今日の演奏家の努力を軽々と飛び越えてしまったと言ってもいい、現代に生きる私たちのモーツァルトだと思います。そのことについては、4月に刊行されたばかりの許光俊ほか編『クラシック反入門』(青弓社)の174~175ページで詳しく書きました。この10年くらいの間で、最も強い印象を得たモーツァルトのピアノソナタ録音でした。
 モーツァルトのピアノソナタについて私が書いた名盤選原稿は、この1曲だけで終わりました。次回からはベートーヴェンになります。




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

タリアフェロのピアノ/モントゥのブラームス/巌本真理のシェーンベルク/チョン・トリオのドヴォルザーク

2009年07月02日 13時02分20秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

 本日の私のブログ・カテゴリー「新譜CD雑感」は、すべて、10年以上前から半年ごとに詩誌『孔雀船』に掲載を続けている「新譜CD評」の再掲載です。本日は、一昨日書き終えたばかりのもの、2009年7月発行号分です。詩誌の主宰者が快諾してくれているので、詩誌発行前のブログ掲載となります。今年前半に発売された新譜を対象に、私が触れておきたいものを4点選択しました。


《詩誌『孔雀船』リスニングルーム 2009年7月発行号掲載分》


■タリアフェロ「フランス近代ピアノ曲集」の魅力
 マグダ・タリアフェロは、五歳からピアノを習い、パリ音楽院ピアノ科に入学。当時、院長だったフォーレに才能を認められ、フォーレと公開の場で共演したこともあるという人。一三歳の時に一等賞を取ってコルトーのクラスに入ってピアノを学んだとか、一〇代でピエール・モントゥの指揮で協奏曲を演奏したとか伝えられているが、後進の指導を活動の中心に据えていたためか、SP期も含めて、残された録音は極めて少ない。このCDは、そんな彼女の数少ないステレオ録音によるピアノ・ソロ。仏エラート原盤。一九九三年に世界初CD化が国内盤で発売され、すぐに廃盤になっていたが、待望の復活がタワーレコードの企画シリーズで実現したもの。曲目が斬新で、シャブリエ、セヴラック、アーン、サン=サーンスの小品が前半。おそらくオリジナルLPのA面だろう。後半はドビュッシーの『ピアノのために』『二つのアラベスク』『喜びの島』が収められている。前半ではセヴラック『ラバ弾きの帰還』、サン=サーンス『ワルツ形式によるエチュード』が特におもしろいが、どの曲もそれぞれ興味深い。とても自由で、よく飛びはね、揺れる演奏。決して教師のキッチリとした「模範演奏」ではないが、この風変りな選曲のLPは、案外、彼女の授業用だったのかもしれない、と勝手な想像を巡らせてみた。


■モントゥ/コンセルトへボウのブラームス、ライヴ盤
 二〇世紀の偉大な指揮者のひとりピエール・モントゥは、ブラームスの音楽を好んでいたと言われているが、その交響曲録音は、正規のスタジオ録音がほとんどなく、ステレオ時代では「第二番」だけが、英デッカと蘭フィリップスにあるだけだったと思う。今回タワーレコードが、放送局の秘蔵音源などのCD化で知られる「TAHRA」原盤でキング・インターナショナルと提携して発売する「スプレマシー・セレクション」に、モントゥの「ブラームス集」二枚組が加わったのはうれしいことだ。曲目と録音年は、『交響曲第一番』(一九六三年一一月二〇日)、『悲劇的序曲』(六二年五月一四日)、『交響曲第三番』(六〇年一〇月三〇日)、『ヴァイオリン協奏曲』(五〇年一〇月一二日)。放送録音なので、当時のほとんどのヨーロッパ録音と同じくモノラル録音だが、音質は相当に良質だ。一番録音が古いミルシテインとの『ヴァイオリン協奏曲』でさえ、私が既に持っていた「AUDIOPHILE CLASSICS」盤では聴こえてこない音のニュアンスが、明瞭に伝わってくる。
 演奏は、「新奇なもの」(ほとんど「珍奇」に過ぎないのだが)を求めると肩すかしを食わされる。真摯に音楽が語るものを追究する指揮者の「ある日」の演奏記録に、素直に浸る人にだけ開かれてくる世界が、ここにも聴かれる。


■巌本真理弦楽四重奏団の傑作、シェーンベルクを聴く
 日本人の西欧クラシック音楽受容史の中で、「弦楽四重奏」というジャンルを、巌本真理四重奏団ほどに豊かな果実にまで育て上げたグループはない。彼らの活動の最初は一九六五年三月だった。メンバーは巌本真理(第一ヴァイオリン)友田啓明(第二ヴァイオリン)菅沼準二(ヴィオラ)黒沼俊夫(チェロ)。彼らの精力的なコンサート活動と、東芝を中心に行われた大量の録音によって、日本の弦楽四重奏団の演奏レベルは、飛躍的に向上した。彼らは正にこのジャンルの牽引車だった。一九七九年五月の巌本の急逝によって解散するまでの一〇数年の成果は、長く語り継がなくてはならない偉業だと思う。
 この盤の曲目は、シェーンベルク『浄夜』(第二ヴィオラ江戸純子/第二チェロ藤田隆雄)、シェーンベルク『弦楽四重奏曲第二番』(ソプラノ長野羊奈子)で、一九七二年二月に録音され東芝レコードから発売されたもの。今回のCDはタワーレコードの企画盤での発売。二〇世紀の音楽が暖かく語られる名演で、この二曲が、後期ロマン派の「プログラム音楽」の延長上に生まれた作品であることの意味も、とてもよく伝えてくれる。音楽の背景にある物語=詩への共感と確信が溢れているからだろう。この西欧ロマン主義音楽への懐疑が色濃く表れている独特の世界を、まっすぐに捉えられるのは、東洋人の美質でもある。


■親密なアンサンブルの魅力をチョン・トリオの名演で
 これもタワーレコードの「ヴィンテージ・コレクション」シリーズで復活した英デッカ録音の名盤。二枚組で一五〇〇円というもので、曲目はドヴォルザーク『ピアノ三重奏曲第三番』、同『ピアノ三重奏曲第一番』、メンデルスゾーン『ピアノ三重奏曲第一番』、ブラームス『ピアノ三重奏曲第一番』。演奏はチョン・キョンファ(ヴァイオリン)チョン・ミュンファ(チェロ)チョン・ミュンフン(ピアノ)というもの、キョンファを中心に姉、弟というアンサンブルだ。「きょうだい」だから息が合っている、という単純なことではなく、感性の共通したメンバーによる演奏という意味で、とてもインティメートな魅力にあふれた演奏だ。特に、様々な意味で、われわれ日本人と同じく「東洋」の文化環境がしみ込んでいる彼らの演奏は、スラヴ民族の色彩を色濃く持ったドヴォルザークの音楽では、私にはとてもよく馴染んで聞こえる。農耕民族的な、なだらかな起伏がうれしい演奏だ。緩徐楽章での二人の弦に包まれたピアノの優しく穏やかな響きは、幸福な瞬間を現出させている。一方、メンデルスゾーンとブラームスでは、いわゆるドイツ・ロマン派の「疾風怒濤」の表出が妙にエキセントリックになり、正統な西欧音楽に対する日本人の感性との相違を露わにしてしまっているように感じられた。



goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )