今期のロイヤル・オペラの「シネマシーズン」は、史上最大規模だそうで、7本のオペラと6本のバレエというラインナップです。スタンダードな出し物をずらりと揃えた、いかにもコヴェントガーデンといった内容。オペラは「蝶々夫人」「アイーダ」「ラ・ボエーム」「セヴィリアの理髪師」「トゥーランドット」「フィガロの結婚」「イル・トロヴァトーレ」の7本です。
昨日、12月9日から12月15日まで東宝シネマズ系で上映される『蝶々夫人』を、いちはやく鑑賞してきましたので、大急ぎでご紹介します。メモ書きで申し訳ありません。
演出は2003年以来だったと思いますが、コヴェントガーデンでずっと上演され続けているものを、ブラッシュアップした改訂版だそうですが、印象は、とても新鮮でした。日本人スタッフを大勢アドバイザーに迎えてのものだそうで、「日本文化へのリスペクト」をテーマにしたものだとのことですが、そのせいか、ことさらに、ピンカートンが、伝統に無理解で傍若無人なアメリカ青年、」といった感じになっていて、あれッ、という人物になっていました。鼻持ちならない、といった雰囲気を、ことさらに強調していました。
しかし、今回の演出の最大の特徴は、「舞台」の色調です。とても地味な色合いで統一されていて、それは茶の湯の世界というか、古い陶磁器のような、というか、そんな感じ。古美術に素人なので、乱暴な表現でもうしわけありませんが、例えば、ゼフィレッリの『トゥーランドット』がカラフルな日光東照宮のような色合いなのに対して、今回の『蝶々夫人』の世界は、まるで法隆寺だ、と言ったら、おわかりいただけるでしょうか?
その色合いは、かなり説得力のある世界でした。
ただ、もう30年くらい前でしたか、浅利圭太演出のスカラ座公演(マゼール指揮)の映像を見たとき、初めて、この物語の世界が、丘の上の「仮構世界」での夢物語なのだといったような意味で、絶えず、ヨコへの移動とタテ方向の移動とが交錯する世界なんだということを強調する必要がある、と思った私としては、この演出のヨコ方向の動きで終始している静かな「単調さ」の強調には「?」でした。
ベテラン、ニコラ・ルイゾッティの指揮は、立派なのですが、これでいいのかなァと思って聴いていました。多弁で輪郭のくっきりしたオケがしっかりと鳴っているのですが、そのサウンドは、どこまでも分厚く、完全に「ヴェリズモ・オペラ」(例えば、レオンカヴァッロの『道化師』やジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』のような)の響きになっているのは、演出の舞台に比して、どうなんだろう、と思いました。そのギャップこそが、この時代の音楽の特徴なのかなあとも思いましたが……。
考えてみれば、プッチーニ『蝶々夫人』の音楽が、これほどに明確に「ヴェリズモ」の響きで鳴り渡るのは、あまり聴いたことがないようにも思いました。ふだん、もっと高域の弦に寄った、水彩画のように繊細な色合いで聴いていたように(――というか、そうしているのを名演と思っていたような)気がしています。ルイゾッティの指揮で奏でるオケの音は、分厚く塗った油絵なのです。これも、このオペラの一面なのだという説得力はありました。
――というわけで、様々なことを感じ、考えさせる『蝶々夫人』です。久しぶりに、マンネリ打破の刺激満載の『蝶々夫人』でした!
【追記】
鑑賞した『蝶々夫人』のスタッフ、配役は、以下の通り。
原演出:モッシュ・ライザー/パトリス・コーリエ
再演出:デイジー・エヴァンス
美術:クリスティアン・フェヌイヤ
衣裳:アゴスティーノ・カヴァルカ
指揮:ニコラ・ルイゾッティ
蝶々さん:マリア・アグレスタ
ピンカートン:ジョシュア・ゲレーロ
スズキ:クリスティン・ライス
シャープレス:カルロス・アルヴァレス
ゴロー:カルロ・ボージ ほか
アグレスタは、このオペラのヴェリズモ的なタフさによく応える歌唱を、しっかりと聴かせていた。
シャープレスのアルバレスも、ベテランの貫禄で、よく、若者ピンカートンの過ちに苦悩する外交官を演じていた。
スズキのクリスティン・ライスも、役柄にぴたりとはまっていた。