goo

驚異的なピアノ! エゴン・ペトリの最晩年、米ウエストミンスターへのステレオ録音が復刻CDで発売

2011年09月29日 12時58分18秒 | エッセイ(クラシック音楽)
写真は、9月新譜として発売されたばかりの日本ウエストミンスター盤 JXCC-1076(販売は日本コロムビア)

 実に面白いピアノ音楽の祭典である。リストの生誕200年を記念する今年、様々に発売された「リスト」のCDの白眉と言っても過言ではないと思う。少なくとも、ピアノ音楽の「驚異的な面白さ」というキーワードを冠する限り、五指に入る盤であることは間違いない。しかも、いわゆる「板(盤)起こし」の音が素晴らしい。以前にも書いたことだが、「オリジナル・マスター」に遡ったと称するリマスターCD復刻にはない、芯がずしりと座った、重量盤LPを最良の状態で再生したといった風情の、豊かな音が鳴り響く仕上がりの復刻CDである。このところ私自身のコレクションでもいくつかの復刻CD(レーヌ・ジャノーリのドビュッシーとラヴェル)でお世話になっている日本ウエストミンスターからリリースされている一連の復刻シリーズの一枚である。
 このCD、じつは、オリジナルのLPレコードは、今から半世紀ほど以前のリスト生誕150年を記念して、稀代のリスト奏者として知られたエゴン・ペトリが、自身の生誕80年を記念して録音したものである。殆んどが戦前のSP録音というペトリゆえに、唯一のステレオ録音のはずで、そのすぐ後に亡くなってしまったペトリは、来年、没後50年となる。期せずして、このたびの復刻再発売はリスト生誕200年・ペトリ没後50年の双方を記念することになったわけである。
 さて、その80歳のペトリの演奏。これが、そのきらびやかなこと、この上ない響きで聴かせる。さすが若き日に、晩年のリストと親交のあったブゾーニから直接の薫陶を受けたペトリだけに、この自身のラスト・レコーディングでの曲目は、ブゾーニのフィルターを通してのリストのピアノ編曲作品が大半を占めていて、さながら、リスト~ブゾーニ~ペトリと直伝で繋がるピアノ音楽の一側面の正統が、どのような成果をもたらしていたかを実感できるものになっている。曲目は以下のとおり。

1)メンデルスゾーン:
   「真夏の夜の夢」の音楽による結婚行進曲と妖精の踊り
2)グノー:「ファウスト」のワルツ
3)ベートーヴェンによるアデライーデ
4)リスト「メフィストワルツ」(ブゾ―ニ編曲版)
5)モーツァルト:「フィガロの結婚」のモチーフによる幻想曲

 これらは、有名なリストによる「『リゴレット』によるパラフレイズ」と同様、「結婚行進曲」でさえ、旋律を断片化して散りばめるといった作りになっていることで、ひときわ、ピア二ズムの音響美を追求するような仕立てになっている。これらを聴いて、これほどに、思わず膝を打ち、舌を巻く…という演奏はなかなか聴けない。何より嬉しいのは、音楽が色彩感にあふれて大きく飛翔していることだ。豊かな音楽の自在さを堪能して心躍るのは、こうしたものに触れた時である。
 著名な音楽評論家ハロルド・ショーンバーグはその著書『ピアノ音楽の巨匠たち』で、エゴン・ペトリを「今世紀最高のリスト弾き」と称賛しているという。私は、このペトリも含めて、ピアノの響きから色彩感の豊かな音楽性を感じる時は、いつも自在な左手の動きが聴こえると感じていたのだが、先日、ショーンバークの指摘に「ロマンティックなスタイルのピアニストの特徴的な演奏習慣として挙げられるのは、左手が微妙にズレていることだ」というのがあることを知って、全ての謎が氷解したような思いを持った。ほんのわずか、機械での計測が不可能なほどの僅かなズレが存在するのが、名手と言われる人々の特徴なのだという。正確なタッチのピアノが失ったものは大きいのだ。もう一度、音楽の本当の雄弁さを取り戻すためにも、このエゴン・ペトリが80歳の時に残した演奏を聴いて戴きたいと思う。半世紀の「時」を隔てた彼方から聴こえてくる音楽は、とてつもなく深かった。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

思いがけずボサノバの話からハリウッド音楽の一側面へと連想が……。――山田俊幸氏の「病院日記」(第8回)

2011年09月20日 19時28分56秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)
 申し訳ありません。書きかけの「エゴン・ペトリ」の新譜の感想、また書き損ねました。本日は、山田氏が、病院のベッドから以下の文章を送ってきましたので、その転載です。「書物探偵所」とは名ばかりで、めずらしく音盤の話題です。私も、つられて、長々と「付記」を書き足してしまいました。
 なお、本日の山田俊幸氏の文章は、別ブログ『「大正・乙女デザイン研究所」のページ』でも、このところ数回分を書きためていた「小林かいち物語」をスタートさせましたので、お読みいただけるとうれしいです。ベッド上で携帯電話の画面だけで推敲して書いている割には、それほど錯綜していませんでしたので、あまり手を入れずに済みました。これまで伏せられていたことも、ぽつぽつと書き進めていくようです。そんな始まりです。こちらは、私もかかりっきりになれませんので、週一、毎週火曜日にupするつもりです。

■寝たまま書物探偵所(7)

 土曜日の午前、身動きとれずにいる堺の病院に、海藤隆吉さんがCDを10枚ほど持って、東京から見舞いに来てくれた。午後には、奈良県立美術館の富本憲吉展に回るという。富本憲吉記念館の山本茂雄さんの講演があるからだ。そうした忙しさの中での見舞いである。申し訳ないこと、この上ない。
 入院の知らせでCDを聴くプレーヤーがあると知ったのでダビングしてきました、と言う。言うのは簡単だが、ダビングのための機械操作にはけっこう時間がかかっただろうと思うと、感謝である。今までは一枚のCDを繰り返し聴いていて、それもいいのだが、猪狩さんとのやり取りの中で小野木朝子の小説を思い出し、つい西海岸ジャズやボサノバが聴きたいなと思っていた矢先だ。海藤さんのCDに数枚のボサノバがあったのがうれしい。
 ボサノバと言えば「ガール・フロム・イパネマ」というのも素人臭いが、わたしにとってのボサノバはどうしてもこれでなければいけない。たぶん高校生だったか、大学に入ってだったか、FEN(ファー・イースト・ネットワーク)という駐留軍放送を聴いていてこの曲が流れ、そのリズムに感動したからだ。似て非なるものだが、当時やはりFENから流れていた「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」などにも入れ込み、ラジオをよく聞いていたものだ。
 海藤さんが持ってきてくれたのは、ジョアン・ジルベルトのベスト・アルバム、ナラ・レオンが二枚。ナラはポピュラー・スタンダードのボサノバ風味付け。初めて聴くが、寝たままにはこれがいい。ちょっとだけ、けだるい憂鬱もあり、それでいてエロティックでもある。ジョアンは言うまでもない。大怪我のおかげで、なんともいい時間が持てた。
 ボサノバ・レコードはリアルタイムには買っていない。高校生ではFENのビルボード・ヒット・チャートの聴き手だったから、アメリカン・ポピュラー・ミュージックをポツボツと買っていた。もちろん、古本が主だから新譜レコードを買うお金はない。その当時、どういう理由か町のあちこちに増え始めたカット盤のレコード店を友達から教えてもらって買い回った。カット盤とは、ジャケットの一部をパンチで穴をあけたり、切り取ったりしてある未使用の安売り盤だ。中古よりも盤質がいいので安心して買えた。時間遅れのヒット盤だったが、けっこう楽しかった。SPシングルのデル・シャノン「ラナウェー」、ボビー・ビントン「ブルー・ベルベット」、ボビー・ダーリン「マック・ザ・ナイフ」などは、まだ家に残っている。EP盤(五、六曲入っていた)では、リッキー・ネルソンの「アラバマに日は落ちて」の収録盤、映画のサウンドトラックで『バイバイ・バーディー』を見つけたときもうれしかった。『バイバイ・バーディー』は、プレスリー現象を皮肉ったミュージカルだ
ったが、青い目のアン・マーグレットが印象的で、もう一度見たいと思うが果たせないでいる。DVDはあるのだろうか。そんなポピュラー漬けの中での「ガール・フロム・イパネマ」との出会いだったのだ。
 以前、田中淑恵さんから、『本の都』で紹介してほしいと、田中さんが装幀したアントニオ・カルロス・ジョビンの自伝だったか伝記だったかをもらったことがある。なかなか面白い本で、ジョビンの人生がていねいにつづられていた。そこには「イパネマから来た娘」の逸話もあったはずだ。
 今回は、本の話は少ない。だけど思わぬCD到来から、昔話になってしまった。が、まあそれでもいいか、である。

【竹内の付記】
 「パンチ盤」というものを山田氏に教えたのは、ひょっとしたら私だったかもしれない、と思いながら、懐かしく読みました。パンチ盤については、私のブログ中では、2009年2月26日付で詳しく触れています。私のブログ内検索で「パンチ盤」をキーワードにすれば出てきますが、面倒くさい方は、以下にアクセスしてください。

  http://blog.goo.ne.jp/kikuo-takeuchi/e/c4f2f9574bcb662fa6a5671390778190

 ホアン・ジルベルトのアルバムは、「ボサノバ」の原初のスタイルを伝えるアルバムとして、あまりにも有名です。でも、私たちの高校生時代に、日本で誰もがイメージしていた「ボサノバ」は、その妻だったアストラッド・ジルベルトの「おいしい水」ではないかと、私は思っていました。気だるさが「ボサノバ」の代名詞でした。後年、ホアンの『これがリズムだ!』など初期のアルバムでボサノバを聴いて、眼から鱗だったのですが、それは、アメリカンナイズされたヒット曲としてのボサノバに慣れた私のボサノバ観が脆弱だったからでしょう。
 山田氏の文中の「マック・ザ・ナイフ」も、ヒットラーの圧政下のクルトワイル作品としての、それ、ではなく、アメリカのショウ・ビジネスの音楽としての響きに、私たちは慣れ過ぎているように思います。私たち日本人のアノ種の音楽のイメージは、ほとんど、戦後の進駐軍音楽の延長上のものによって培われているのかも知れません。
 ハリウッド映画で、『王様と私』のデボラ・カ―、『マイフェアレディ』のヘップバーン、『ウエストサイド物語』でナタリー・ウッドの歌場面を吹き替えで歌ったことで有名な名歌手マーニ・ニクソンは、米コロンビアで、ストラヴィンスキーの助手だったロバート・クラフトの指揮、監修の『シェーンベルク全集』を録音しているほどの名手ですが、クラフトとのそんなレコーディングがあるほど、いわゆるアメリカ西海岸の文化人グループに属していたようです。だから、彼女が残した『クルトワイル・キャバレー音楽集』(米RCAだったと思います。直接現物を取り出さないままブログ掲載しますので、「?」を付けておきます)というLPアルバムは、とても興味深いのです。
 このあたり、日本の大正・昭和初期の西洋音楽受容史や、第二次大戦後のウイーン音楽の動乱期と並んで、私の昔からの関心テーマなのです。少しづつ資料も集めていますが、さて、どこまで進められることか? 言葉を変えれば、バッハ以後の西欧クラシック音楽の、決して長くはない歴史の中で、20世紀に果たしたアメリカの役割と、これからの21世紀に果たすべき「アジア」の役割が、私の最近の、そして緊急の主題なのです。
 そういえば、20年ほど前の中国のオーケストラの演奏を聴くと、その西欧的感覚とのズレと、私たち日本人に親しみやすい感覚との混淆に、感慨深いものがあります。偶然入手した、わりと貴重なCD音源です。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ジャズの聴こえる小説――山田俊幸氏の「病院日記」(第7回)

2011年09月16日 12時19分52秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 しばらく「お休み」かと、油断したとたんに、山田俊幸氏のメールが飛び込んできました。このところ、病院のベッドから送りつけられてくる山田氏のメールを私のブログに転載していますが、そのおかげで、ほぼ毎日のように更新しています。彼に「ひさしを貸した」わけですが、結局、私が山田氏という「他人のふんどしで相撲を取る」結果になったかと思っていましたが、きょう届いた山田氏のエッセイを読んで、な~んだ、山田氏も他人のふんどしで相撲を取ってるんだと気づいた次第。私が、山田氏に刺激されて思い出すように、山田氏も猪狩さんに触発されているようです。
 以下、山田氏から届いたばかりのエッセイです。

  =====================

ジャズの聴こえる小説――寝たまま書物探偵所(6)

 昨日、猪狩さんからこんなメールが届いた。お馴染みの「午後のメール」である。今回は「鬱を楽しむ」とある。

 「毎日病室にいるとただでさえいやな鬱気分なり、手元の能天気なスィングジャズばかり聞いていますが、いま本当に聞きたいのは、1930年代のウォルター・デイビスというブルースピアノ歌手です。この人、当時相当人気があったらしく、いまドキュメントからのCD五枚100曲で聞ける曲はほとんど弾き語りのワンパターンで、リズム感乏しい鬱々たるスローブルース群。逃げ場のないヘルプレスの世界、こんな曲がよく売れたのが不思議です。酒場は絶対雇わないし、コンサート会場からは逃げ出したくなる音楽。しかし聞いているうち妙に引きずり込まれてしまいます。ワンパターンなのでまるでCD1枚が1曲のように聞こえてきます。いまではその鬱を楽しむ愛聴盤となりました。」

 ジャズ愛好に関しては、わたしは猪狩さんに一朝も二朝も先んじられている。わたしが教師になって猪狩さんと出会うのは八年ほどしてからだろうが、ちょうど同じ頃、同僚の国語科に藤山徹さんという人がいた。わたしはその人からモダン・ジャズの手ほどきを受けた。なにかの話しでジャズのこととなったのだろう。どんなものを聴いたらよいかなどと言う野暮な質問に、親切な藤山さんは、自分のレコードから幾つかを選曲し、カセットテープに落とし、それをわたしにくれた。それがわたしのモダン・ジャズ事始めとなった。
 なんでわたしがモダン・ジャズなのかと言うと、その頃の「現代文学」と関係している。好き嫌いは別に、その時代の現代文学を代表する二人は、大江健三郎であり、石原慎太郎だった。その二人が、モダン・ジャズへの眼差しを持っているのが気になっていたのだ。慎太郎には井上梅次監督の映画「嵐を呼ぶ男」に底通している「ファンキー・ジャンプ」があり、それは風俗的ではあったが、まさにジャズ小説だった。大江健三郎は、エッセイに時々モダン・ジャズを取り上げ、七○年代の問題作『個人的な体験』の主人公の名は、ジャズの場面など出てこないにもかかわらず、なぜかわざわざ「バード」とした。「バード」といえば、ジャズの業界ではチャーリー・パーカーに決まっている。なぜ、であった。
 そんなことと、当時愛読していた原田康子にジャズの匂いを嗅いだからだろう。原田康子には、もちろん『挽歌』から入ったのだが、『殺人者』という魅力的な中篇小説がある。全編熱に浮かされたような小説で、その熱っぽさの持続にわたしはまいってしまった。それは、『挽歌』にも『サビタの記憶』にもあったものではあるが、とりわけ『殺人者』は強烈だった。その原田康子が『殺人者』執筆の時、クリフォード・ブラウンを聴いていたという。誰なんだ、だった。たしか藤山さんの手ほどきカセットテープにはクリフォード・ブラウンはなかったと思う。そこで、思い付いて行ったのが、秋葉原の石丸電気レコード売場の外国盤売場だ。わたしはそこで、クリフォード・ブラウンが何者かも知らず、大量のレコードを片っ端から見て廻った。そしてようやく、マックス・ローチ、クリフォード・ブラウンの「キャラバン/ニューヨークの秋」を見つけ、手に入れたのだ。とりわけ、ブラウニーの不安定なトランペット・ソロが始めに流れる「ニューヨークの秋」は、どこか『殺人者』の微熱に続くようで、わたしの愛聴盤となった。
 やがて、猪狩さんも同好の士とわかって、猪狩さんに連れて行ってもらったのだろう、横浜のダウン・ビートというジャズ喫茶に行ったこともある。けっこう椅子席のあるダウン・ビートは広く、ほど近くにある有名な千種(ちぐさ)とは違って、気楽に音楽が聴けた。千種は雰囲気はいいが、十人も入ればいっぱい。常連にはいいのだろうが、多少気詰まりだったのを覚えている。
 猪狩さんの「午後のメール」から、突然、原田康子のことなど思い出したが、猪狩さんはその前のブルースが聴きたいらしい。モダン・ジャズ止まりのわたしからすると、猪狩さんの探求的好奇心には驚かされる。わたしはきっとそこまでは行かないだろう。猪狩さんの探求は、本人は自覚していないだろうが、本質的だ。わたしのそれは、どちらかと言えば表層的なのだ。一昔前の言い方で言うと、パラノ(パラノイア)とスキゾ(スキゾキッズ)の違いだ。でもいいではないか、それぞれなのだから。
 最後に、ジャズ好きへオススメ本。ウエスト・コースト派やバド・シャンク、アントニオ・カルロス・ジョビンが聴こえてきそうな小説がある。小野木朝子『クリスマスの朝』(?)。猪狩さん、ブルースで鬱を楽しむのもいいけれど、こんな小説で気晴らしもいいですよ。

   ===================

【竹内の付記】

 いやぁ、懐かしい名前のオンパレードです。クリフォード・ブラウンとマックス・ローチのLPは有名で、復刻盤が日本語解説封入で出ましたから、私も買っている愛聴盤です。70年代には、クリフォード・ブラウンのLPといえば、これ一枚きりでした。ずいぶん後になってから、パリ録音のレコードを2、3枚買いましたが、事故で夭折した人だけに、残された録音は少なかったと思いますが、ジャズLPには詳しくありませんから、うっかりした事は書けませんね。
 私がクリフォード・ブラウンを買ったのも、原田康子です。原田康子は『晩歌』の大ヒットで世に出た作家ですが、私は結局、未だにあの長編小説を読み通していません。私が最初に読んだ原田康子作品は、筑摩書房から出た『廃園』です。サイン入りの特装本を、駿河台下の三茶書房で買ったのです。美しい本です。ある種の熱っぽさの持続が独特の魅力の小説でした。あと、好きだったのは短編集『サビタの記憶』、そして、『殺人者』です。山田氏とかなり同じものを、似たような感性で読んでいるのは、やはり、時代の空気が反映されていたのでしょう。
 小野木朝子も好きでした。今では忘れてしまった人も多いでしょうが(山田氏も「?」を付けてうろ覚えのようですが)、『クリスマスの朝』は河出書房の「文芸賞」受賞作だったと思います。今でも単行本を書棚に入れてありますが、こちらは、熱っぽさよりも、ふわりとめくりあがるような浮揚感(小説中に、実際、そんな表現が出てきたはずです)が不思議な魅力でした。確かに、どちらも「音楽」が聴こえてくるような小説ですが、私は、この二人に共通しているのは「空気感」「空気の気配」のようなものの濃密さだと思っています。山田詠美もそうですし、最近では、綿矢りさが、そうです。そこが、『ファンキージャンプ』の慎太郎との違いでしょう。大江のほうが、空気感は濃いですね。『叫び声』など、特にそれを感じたことがあります。
 いずれにしても、山田氏が小説に関して「音楽」を口にするとは思いませんでした。長い付き合いですが、なぜか、山田氏は私とほとんど音楽の話をしないのです。
 もうひとつ。原田康子の話から『晩歌』のことで思い出したことがあります。子ども時代の記憶ですから、間違っているかもしれませんが、何も調べずに、思い出すままに書きます。
 あの本は北海道のガリ版刷りの同人雑誌に掲載されていた無名の少女作家・原田康子の作品を「東都書房」が発行して大ベストセラーとなったのですが、それによって資金的に余裕の出来た同社が、次に思い切って出版に踏み切ったのが、夭折して、一部でしか認められていなかった童話作家の遺稿をまとめた『新美南吉著作集』全二巻だったはずです。これがなければ、「ごんぎつね」も「てぶくろを買いに」も今ほどに知られることはなかったかもしれません。毎日出版文化賞を受賞しましたが、当時、小学校6年生だった私が図書室でその本を見つけて読んでいたら、司書の先生が、「正しく利益を使った出版社の偉業だ」というようなことを教えてくれた記憶があります。「東都書房」という名は、編集者のひとりとして出版界に身を置くようになった私の、出版社の理想のようなものの原点でもありました。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

「大正・乙女デザイン研究所」が設立されました。

2011年09月15日 15時01分55秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 9月6日付の当ブログで予告しました「大正・乙女デザイン研究所」の活動準備が整ってきましたので、「大正・乙女デザイン研究所のページ」というブログを立ち上げました。以下のURLです。(問い合わせ先なども、そこに記載してあります。)

   http://blog.goo.ne.jp/otome-design

 上記ブログは、私が直接の管理者ではありませんが、協力していますので、山田俊幸氏の送信してくる文章も、内容によってはそちらに振り分けます。ただ、9月7日から数日続いた「寝たまま書物探偵所」は、彼が送信してきたら、これまで通り私のブログの「書物に関する話題」カテゴリーに掲載します。なお、「乙女デザイン」のブログがスタートしたと聞いた山田氏は、しばらく、そちらのブログ用の連載読み物の構想を練るのに夢中になっていて、「書物探偵所ごっこ」はお休みです。(だから、昨日は、久しぶりに音楽を話題に出来たのです。昨日、文末で予告した「エゴン・ペトリ」のことを書こうと思っていたのですが、本日はこの「乙女デザイン研究所」紹介で埋まってしまいました。明日か明後日には、エゴン・ペトリを…と思っています。本日は、以下、山田俊幸氏の書いた「研究所設立概要」とその概略をご覧ください。
 
   ===================
 

    「大正・乙女デザイン研究所」設立概要

大正100周年を迎える2012年に先立ち、大正・乙女デザイン研究所を設立しました。当研究所は、大正時代を中心に「高等女学校令」が公布された明治32年から太平洋戦争が終わる昭和20年までを対象として、乙女デザインの普及と研究を目的として設立されました。
例会は毎月1回開催されますが、例会では実際に作品を見るばかりではなく、レクチャーとともにオリジナル資料に触れられる機会を設けます。さらに収集品の交換、講演会、往時の音楽を聴く会などを行い、ブログでの発信とともに大正に花開いた乙女文化を楽しむサロンといたします。ご興味のある方は、ぜひご参加ください。(山田俊幸)

《会費》
年会費(前納):1,000円
月例会の参加費:毎回1,000円
※ 入会金なし、お試し参加なし

《月例会》
(原則)毎月 第3土曜日 18:00~21:00

【第1回】小林かいちの絵封筒
 2011年11月19日(土) 亀戸文化センター/第2研修室
  (JR東日本・総武線「亀戸駅」下車徒歩2分)

【第2回】高橋春佳とクリスマス絵葉書
 2011年12月17日(土)亀戸文化センター(予定)

《役員》
所長:山田俊幸
事務局長:竹内貴久雄
代表幹事・会計:小林菜生

   ===================

 以上の「設立概要」と概略でお分かりのように、この研究所は、山田氏を中心とした「大正イマジュリィ」の研究会といった趣のものです。明治末期から大正期を経て昭和初期に至る様々な文化シーンを鑑賞するわけですが、もちろん私自身は、そうした時代の息吹の中にあった音楽と社会との関わりを探求し続けようと思っています。この時代は、レコードが普及し、ラジオ放送が始まった時代でもありますから、興味は尽きません。LPレコードやCD収集の傍ら、日本人の西洋音楽の受容史に関心を持って、これまでに『唱歌・童謡100の真実』と『ギターと出会った日本人たち』を書いてきた私ですが、この頃、やっとそれらを包んでいる日本の近代史という大きな舞台が、少し見えてきました。そしてそれが、ヨーロッパ大陸やアメリカ大陸との連環にまで繋がっていることが実感されるようになってきて、少々わくわくしています。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ジョン・オグドンの名演で聴くイギリス近代のピアノ協奏曲(ロースソン&シンプソン)

2011年09月13日 15時11分56秒 | BBC-RADIOクラシックス


 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログでは、このシリーズの特徴や意義について書いた文章を、さらに、2010年11月2日付けの当ブログでは、このシリーズを聴き進めての寸感を、それぞれ再掲載しましたので、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下の本日掲載分は、第4期発売の15点の11枚目です。

  ========================

【日本盤規格番号】CRCB-6086
【曲目】ロースソン:ピアノ協奏曲第2番
       :2台のピアノのための協奏曲
    シンプソン:ピアノ協奏曲
【演奏】ジョン・オグドン(pf)/ブレンダ・ルーカス(pf)
    プリッチャ―ド指揮BBC交響楽団/ロンドン・フィル
    シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団
【録音日】1983年5月22日、1968年8月14日、1967年9月20日

■このCDの演奏についてのメモ
 このCDには、今世紀に入ってから生まれた二人のイギリスの作曲家のピアノ協奏曲が収録されている。ピアノ独奏はいずれも、ジョン・オグドンで、内1曲は、初演のコンサートのライヴ録音となっている。
 ジョン・オグドンは戦後のイギルスが生んだトップ・クラスのピアニストで、特にロマン派作品の演奏で定評があった。このCDの演奏でも、作品の現代性の中に息づいているエモーショナルな動きやリリシズムを、詩情豊かに表現している。
 オグドンは1937年にイギリスのマンチェスターに生まれた。モーツァルト、ベートーヴェン、の権威として知られるデニス・マシューズと、無類のヴィルトーゾ的ピアニストのひとりエゴン・ペトリに学んでいる。1962年のチャイコフスキー・コンクールで、ウラディーミル・アシュケナージと二人同時優勝という、コンクール史上でもめずらしい経歴を持っている。チャイコフスキー、リスト、ラフマニノフなどで、力強い、芯のしっかりしたロマンティシズムを聴かせてくれたが、1989年に52歳という、まだこれからという時期に惜しくも世を去った。
 ロースソーンの「ピアノ協奏曲第2番」は、1951年にクリフォード・カーゾンが初演している作品だが、オグドンによるこの演奏は83年のもの。
 一方、「2台のピアノのための協奏曲」は、当CD収録の演奏が初演の記録。第2ピアノを担当しているブレンダ・ルーカス・オグドンは、ジョン・オグドン夫人で、作品が持っているピアノの打楽器的用法の力強さにも、息のあったところを聴かせている。
 最後に収録されたシンプソンの「ピアノ協奏曲」は初演を行い、この作品を捧げられたオグドンの独奏によるものだが、初演の記録ではなく、その2ヵ月程後の1967年9月の録音。ルーマニア出身の指揮者コンスタンティン・シルヴェストリが伴奏を担当している。シルヴェストリは、50年代の終わりにルーマニアでのポストを捨ててロンドンでデビュー、1961年には、イギリスのボーンマス交響楽団の首席指揮者の地位を得ている。この録音はイギリスへの帰化も果した時期のものだが、その2年後の1969年に急逝した。終曲部分での諧謔的な動きの面白さなどには、シルヴェストリならではのうまさが聴かれる。(1996.7.30 執筆)

【当ブログへの再掲載に際しての付記】
 オグドンについての私の記述が、かなり素っ気ないですが、これを書いていた当時には、オグドンにあまり関心がなかったという記憶があります。もっとも去年あたりに、リストやブゾ―ニの演奏の流れを追っていて興味を持って、EMIに残されたオグドンのレコーディングをまとめて聴いたりして、いいピアニストだなと思うようになりましたが、そのこまやかなピアニズムの印象は、この15年前に書いていた文章と変わりませんでした。
 ところで、上記の文中に「エゴン・ペトリに学んだ」とありますが、そんなことを書いていたとは、すっかり忘れていました。エゴン・ペトリは、リスト生誕200年を記念してのCDラッシュの今年、ペトリの没後50年ということもあって、来週、9月21日に『リスト/古典派~浪漫派の名曲によるピアノ作品集』というリストによるピアノ編曲を集めた復刻CDが発売されます。日本ウエストミンスター(販売:日本コロムビア)の復刻シリーズの一枚で、先日、戴いたばかりの見本盤を聴いて、そのあまりの見事さに驚いています。近々、それについても言及します。メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』の「結婚行進曲」と「妖精の踊り」や、グノー『ファウスト』の「ワルツ」など、驚異的です。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

パピニ/大木惇夫訳『ゴグの手記』(アルス昭和16年)のことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第6回)

2011年09月12日 00時01分01秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 先ほどの続編です。前回のブログupに続けてお読みください。

  ====================

寝たまま書物探偵所(5)・・・・・パピーニのこと、ヘッセの水彩画

 猪狩さんに前回の尾崎喜八の一文をメールした。すると、「午後のメール」というのが返ってきた。わたしは空き部屋がなく個室だったから、四六時中メールを打っていられるが、猪狩さんは大部屋、携帯電話の使用は限られるのだろう。それが、午後2時頃。したがって、「午後のメール」ということになる。
 そこで、前回に聞かれたヘッセと尾崎喜八の関係について、こう書いてきた。「尾崎喜八の作品も知らずにヘッセの水彩画の雲と結びつけた勝手な推論でお恥ずかしい限り」、と。わたしは猪狩さんの推論を否定したわけではない。猪狩さんが考えているように、低通したものはある、と考えている。書いたことは、二人が立っている場所が違った、ということだけだ。
 それに続けて、「当時はまだヘッセの水彩画など紹介されてなかったかと思い」と猪狩さんは書いているが、それはちょっと違っている。たしかに画集などの出版はないが、ヘッセの水彩画はけっこう紹介されているのだ。ヘッセの文献目録は、ドイツ文学研究のための学会誌『ドイツ文学』あたりにありそうだが、図書館などで調べられない身、今は触れない。だけれど、ヘッセ・ブームの始まりは日本では、第二次世界大戦下だったように思う。昭和十年代のことだ。片山敏彦の『ドイツ詩集』が新潮社から出され、同じ新潮社から『ゲーテ詩集』『リルケ詩集』(片山敏彦訳)『ヘッセ詩集』(高橋健二訳)などが出たように記憶している。そんな時期、三笠書房が『カロッサ全集』『ヘッセ全集』『リルケ全集』の刊行に踏み切った。リルケだけは昭和18年くらいに出版の『風景画論』一冊で終わったことは知っているが、他はどれだけ出たものか。その『ヘッセ全集』のカバーに、たしかヘッセの水彩画が使用されている。だいたい古本屋などで見かける『ヘッセ全集』は、そのカバーが欠けていて、赤色の表紙に、ヘッセのサインが金で箔押しされたものだけだから、なかなか水彩画にはお目にかからない。その後、戦後になって第二次ヘッセ・ブームが新潮社と三笠書房の全集、そして各社の文庫本の刊行で起こってくる。その都度、水彩画はメインではないが、サブリミナル映像のように、ひそかに紹介されていった。
 尾崎の『高層雲の下』は、それらより大分前の刊行だから、ヘッセの水彩画との関係は薄い。それよりは、ラスキンの雲や、島崎藤村の雲のエッセイなどを思い浮かべるべきだろう。だが、『山の絵本』の表紙はどうだろうか。どこかヘッセの水彩画をイメージしてもいいようだ。
 猪狩さんへの答はそんなようなものだが、せっかくの猪狩さんの二十世紀本の知識がもったいなくて、「猪狩さんも、本についての短文を書いてみませんか」と、往復書簡ではないが、誘いを出してみた。すると、「本の思い出は個人的にはありますが、人様に言えるようなことはありませんが駄文を送ります」との前置きがあり、思い出の本の短文が書かれていた。なんとそれがパピーニ。のっけが、パピーニかい、である。以下、猪狩さんからのメール。

 『ゴグの手記』(パピーニ作/大木惇夫訳/アルス)この本は何かの出張帰りにぶらっと寄った横浜の藤棚の古本屋で800円で買ったもの。パピーニはカトリックでありながら未来派の異色な作家。ゴグという超大金持ちが金に糸目をつけずとんでもないことをする奇談珍談。当時のレーニン、ガンジー、エジソンはおろかサンジェルマン伯爵をはじめ古今東西の有名人登場。その毒舌、皮肉はすごい。大金をはたいて最新音楽の作曲を依頼した話、食事とトイレの話、リラダンとの対話等々。余り話題にならないが当時の未来派、構成主義、ダダの最中の作品。 猪狩

 パピーニは、日本では大正終わりから昭和にかけて流行した作家だ。とりわけ、仏陀の生涯が版を重ねていた。猪狩さんの書いた『ゴグの手記』がアルスだったように、仏陀の本もアルスから出されていた。訳はともに北原白秋門の詩人大木篤夫(惇夫)だったと思う。
 わたしがパピーニの本を知ったのは、戦没学徒である松永茂雄の遺稿を整理していたときだ。松永がそれについて共感的に書いているのをみて、なんとか手に入れたいと思った。あの頃は、そういう本の買い方だった。だけれど、今のようにネットで探せる時代ではない。古本の目録で高いものはパスしたし、けっこうお目にかからなかった。千円くらいが、買いの基準だったので、これも入手を遅くした理由だ。だから、入手した頃には読みたいという気は失せ、手近にある満足だけが残った。どうやらそれが、わたしの古本買いの流儀になっているようだ。パピーニはそうして手に入れた。
 最近、またパピーニに出会うことがあった。宗教学者ミルチャ・エリアーデの日記の中で、である。若き日のエリアーデもまた、パピーニの仏陀の生涯を愛読していたようだ。

 ところで、猪狩さん紹介のパピーニ本、わたしはまったく知りませんでした。面白そうで、さっそく見つけたいのですが、今まで通りの本との出会いを待っていたら、いったい何時になることか。やはり、ネットかな。だけど、猪狩さんのこの紹介で、ネット読者何人かが買いに動くことは必至。困った世の中になったものです。

9月10日

   ====================

【竹内・追記】
 山田氏のことをよく知るひとは、彼がパソコンを使えないことをご存じだと思います。ですから、ネットでの探し物や買い物、携帯では出来ないパソコンでのメール送受信(文書や画像の添付操作)はもちろん、こうしたブログでの発言・情報発信などは、いつも私が代行しているのです。今回も、上記の彼の記述を読んで、頼まれたわけではないのですが、当ブログへのup前にネット検索して、彼のために1冊、『ゴグの手記』を確保しました。もうこんな時間ですから、病院時間で生活中の山田氏は就寝中だと思うので、明日の朝、報告することにします。たぶん、喜んでくれることでしょう。

(注)同日に2本のブログupがあると、何かと探しにくくなりますので、23時近いupだったこのブログの投稿時間を、日付の変わる0時1分に偽装しました。本当は、22時43分01秒でした。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

尾崎喜八と雲――山田俊幸氏の「病院日記」(第5回)

2011年09月11日 20時04分53秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 もうしばらく、山田俊幸氏が病院のベッドから毎日のように携帯でメールしてくる「エッセイ」をお読みください。余分なことですが、文末に、私の追記を付しました。

  =====================

尾崎喜八と雲――寝たまま書物探偵所(4)

 高校時代、東京の外苑前に学校があったので、親には、家のあった大崎から渋谷(環状線)、渋谷から外苑前(地下鉄銀座線)の定期を買うからと言って、お金をもらっていた。その実、定期は大崎から原宿までしか買わないで、幾許かのお金を残していた。何故そんなことをしたのかと言うと、同好の士はわかるだろうが、本代に回したかったからだ。高校時代のわたしは、このほかにも、ときどき昼を抜いて、それも本代に回していた。
 帰りは、友達が一緒のこともあったが、一人で渋谷まで歩くことが多かった。外苑前から表参道を通り、渋谷まで抜ける道は、広々としていて、その頃は自動車も少なく、気持ちよかった。学校は神宮球場の前にあった。学校を出てしばらくすると、左手に外苑前駅がある。そのあたりから前方右手のビルにVANの看板が大きく見えた。『メンズ・クラブ』だとかアイビーだとかが大流行し始めていた時代だ。縁はなかったが、どこかその建物が眩しく見えた。もっとも、わたしの目指したのは道の反対にあった古本屋さんだった。名は忘れたし、それほど出物があったわけではない。だけど、寄らないわけにはいかない気分だったのだろう。
 その頃のわたしは、右側の歩道専門で、本屋さんでもなければめったに左の歩道を歩くことはしなかった。渋谷に向かって右側には、VANを通り過ぎてしばらく行ったところに「BATTA」という喫茶店がある。そこに描かれたバッタのイラストが妙に心を引いた。この喫茶店には在学中は入らなかったと思うが、後で入ってみてBATTAの由来がわかった。北川民治のバッタのエッチングが壁面に何点か飾られていたのである。いい版画だったが、今だにその同じバッタにはお目にかからない。そしてさらに行くと、表参道に出、右手に青山学院が見えてくる。青山学院の前は、路面電車の車庫だった。そこには、ローランサンと言う喫茶店があったり、青山ケンネルなどという犬の預かり所があったりした。
 そのあたりが、ちょうど宮益坂の上になっている。そして青山学院側に洋書を置いた誠志堂書店、右手に中村書店があった。わたしのお目当てはその中村書店だった。
 この中村書店は、詩集ばかりを置いた古本屋さんで、店内の右のガラス戸付きの本だなには、数万から数十万の値が付けられた特装本や稀少詩集が並べられていた。だが、表の平台には、たしか五十円か百円で、無名の詩人たちや、詩集以外の本が並べられていた。そんな中で、わたしは東京創元社の『アルセーヌ・ルパン全集』や、北森彩のたしかパウル・クレーの線画を表紙に配した『塔のある風景』などを手に入れている。北森彩の詩集は、大分前に朝日新聞の文芸時評で林房雄が取り上げ、ずっと読みたかったものだが、機会がなかった。それでも詩壇とは無縁の詩人だったらしく、誰かへの献呈署名本だったが、そんな値段だった。その中村書店で見つけたのが、尾崎喜八訳の『ヘッセ詩集』だった。
 いつも買う本とは違って、千円くらいと高めではあったが、高村光太郎への献呈署名本。見つけた時はびっくりした。たしか限定版の三番本だった。わたしとしては、尾崎喜八は憧れの詩人、高村光太郎は高名の詩人である。当然、右のガラス戸の中に収まるものだと思い、何かの間違いだろうと思っていた。値はついているが、署名は見落としたのだろうと。そんなことだから、帳場まで本を持ってゆくのが、ためらわれた。間の悪いことに、いつもは奥さんが帳場にいるのだが、その日はオヤジさんだった。恐る恐る帳場に本を運んだ。オヤジさんが値段だけを見て包んでくれたらいいと、それだけである。無口な中村書店のオヤジさんは、この時も無口だった。ところが、本を差し出すといつもならば直ぐに包んで渡してくれるのに、今回だけは違っていた。値を見るために箱から本を出したはいいが、中を見始めたのである。ページをパラパラと開き、こちらが気づいてくれなければいいと思った「高村光太郎様/尾崎喜八」という署名まで見ている。ああ、これで「悪いけど値段を付け間違えたから」と、引っ込められてしまうかなと思った瞬間、オヤジさんはやはり無口で詩集を包み始めた。長い時間だったような気がする。戦後しばらくしての刊行だったと思うが、三笠書房版の尾崎喜八訳『ヘッセ詩集』は、こうしてわたしのものになった。
 尾崎喜八の詩は、わたしの中学生くらいからの愛誦詩だった。新潮文庫に『尾崎喜八詩集』があり、わたしはその上にカバーをかけ、そこに下手な色鉛筆画を描いた記憶がある。我が家には、多分父の蔵書だったと思うが、山の本が多くあった。そんな中に、尾崎の朋文社版『雲と草原』の初刊本があった。それを真似たのだ。
 尾崎には、アルス文庫だったと思うが、『雲』という写真集がある。東京郊外に住んでいた尾崎が撮った雲の写真を集めたものだ。平凡な写真ながら、これがなかなかよかった。『高層雲の下』『雲と草原』の他、尾崎には雲の詩は多い。その「雲」をテーマにして展示をしたいと思ったのは、ここ数年来のことだ。世の中には、人の不徳を暴いて生業にする人がいる。尾崎もまた、不徳を暴かれる一人で、その戦争協力がそれだ。たしかに、戦争協力の詩集『その糧』と写真集『雲』とは、ほとんど同時期に出たはずだが、この乖離こそが人間なのだと思う。目前の現実と逃避なのかも知れないが、わたしはそれを現実と理想と呼んでみたい。現実が過酷ならば過酷なほど、理想は美しい。尾崎が、戦争という現実を肯定していたら、あんな「雲」の写真など、呑気に撮ってはいないだろう。
 猪狩さんから、ヘッセの水彩画と尾崎の雲と、なにか関係ないのだろうかと聞いてきた。ないわけもないだろうが、ヘッセの水彩画は、心の風景への帰郷に思える。それに対して尾崎の雲は、崇高なる憧れのようでもある。その憧れは、時として、憧れの方向を過つことがあるのだ。
 数年前、田村書店の二階洋書部で、ヘッセの水彩画の画集を見つけた。その中に、尾崎の『ヘッセ詩集』の箱に使われた水彩画を見出だした。その時、何か大きな連環がとじたような思いがしたことを思い出す。
 アルス文庫の『雲』は、今は記憶にはあるが失われた本だ。こんな寝たままの時、病院から空を眺め、尾崎の写真を見たらどんなにいいだろうか。

2012.9.10


   =======================

【竹内・追記】
 山田氏がここで書いている外苑前から渋谷までの道は、いわゆる「青山通り」、国道246号です。私も、山田氏としばしば歩いたコースです。彼が「犬の預り所」と表現している青山ケンネルは、今でいうペットショップです。あの時代には、なんと言っていたでしょうか。
 都電の青山車庫跡は、今、青山劇場とか言っているこどもの城です。ミュージカル「アニー」を上演している所だと思います。
 中村書店の数軒手前にも古書店があり、それは「巽書店」といったと記憶していますが、VANに向かう角の道路向かい側にあった古書店は、私も名前を忘れてしまいましたが、ここで私は『文學界』や『文藝』のバックナンバーを買っていた記憶があります。
 私たちの高校生時代は、創刊後間もなかった週刊誌『平凡パンチ』がすっかり定着した頃です。青山通りには原宿の深夜スナック「コンコルド」の支店があり、夜になると、いわゆる「原宿族」がバイクに乗ってやってくる通りでした。革ジャン、アイビー・ルックにサングラスといった青年が、「コークハイ(ウイスキーのコーラ割り)」を飲むと絵になる町でした。
 
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

団塊の世代は「詩の季節」のなかで青春時代を過ごしていた、ということ――山田俊幸氏の「病院日記」(4)

2011年09月10日 00時01分01秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 本日も山田俊幸氏の「病院日記」です。音楽関係の話題を待って下さっている方には申し訳ありません。
 以下、山田氏が送信してきた文章をそのまま掲載します。


  ======================


寝たまま書物探偵所3・・・・熊田司個人雑誌『えむえむ』のこと


 先日、病院の見舞いに丸橋茂幸さんと熊田司さんが連れ立って来てくれた。その時、熊田さんは岡山土産の森谷南人子の展覧会カタログと、こんなものを出したのだけど、と、一冊の薄くはあるが大判の冊子を渡してくれた。
 森谷南人子(もりたに・なんじんし)は、わたしなどには版画家として親しい。いつか版画堂で、店主の樋口さんから藤井達吉の創作版画絵封筒を見せてもらったとき、南人子のものもあった。京都の佐々木文具店の見本帳ではなかったかと思う。そんな版画の類がカタログになかったのが残念だったが、「森谷南人子その後」とあって、「すべて」展のあとだから版画は「すべて」展に出たのかもしれない。
 もう一冊は『m/m』(えむえむ)と題された冊子だった。中は版画や本に関わる図版と文で満たされている。熊田さんの個人雑誌だ。
 表紙は簡潔なデザインで気持ちよいが、活字をイメージしたのだろうか、左上のだまし絵のようなワンポイントが面白い。
 びっくりしたのは、巻頭のシャルル・クロスの詩「アンリ・クロスの―三枚のアクワチントについて」の訳。熊田司訳だ。戦後になってたくさん出たサンボリスムやパルナシアンの詩を呼吸したと思われる訳で、タイトルの「吃驚仰天(びつくり・ぎやうてん)」などの表記は、なまなかな翻訳者には思いもよらない。しかも、このあたりで象徴派だの高踏派だのを偏愛する人々は、日夏耿之介だの斎藤磯雄の流儀になるのだが(亡くなった気谷誠がそうだった)、熊田訳はそこをさらっと流して軽妙である。「助役の声が叫ぶ『イジチュール氏の理性、お月さま行き!』」は名台詞である。
 江戸末・明治期の銅版画・石版画コレクターだとばかり思っていた印象が払拭されたところで、熊田さんの青春回顧が始まる。「銅版画と散文詩――私的かかずらいの来歴」が、シャルル・クロス訳の謎を解いてくれるのだ。
 この冊子には、ジャック・カロ、駒井哲郎のエッチング、ピエール・ミニャール(二世)原画のビュラン刻、ジョシュア・レイノルズ原画のメゾチント、亜欧堂田善の「大日本金龍山之図」、初代玄々堂、岡田春燈斎、細井松夫、中川耕山、河野通勢などのエッチングと、なんとも多数が紹介される。そのどれも有機的に結び付く。しかもそれが、皆、熊田さんのコレクションだと言うのだから驚きだ。その連環をつないでいるのが、図版に付けられたコメントということになる。
 そんな図版の一葉に、ちょっと毛色の変わった版画がある。モノトーンの中に突然の、淡いと言っても彩色の一葉。それが、グランウィル画、ジュフロア刻の『生命ある花』からの一葉「LIN」だ。LINは「亜麻の花」で、花言葉は感謝だという。熊田さんは、この絵を見たとき、油絵の溶き油「亜麻仁油(リンシッド・オイル)の薫香がふっと鼻先を掠めるように感じた」と言い、ドビュッシーのピアノ曲「亜麻色の髪の乙女」を「空耳に聞」いたという。絵との、うらやましくなるような幸福な出会いだ。この出会いの感激を熊田さんはこの小冊子に盛ったのだろう。
 最後に、個人的に一番おもしろかったのは、やはり私的かかずらいの来歴で、それは詩集や版画の趣味が年代的に私と共通しているからだろう。熊田さんは、パルナシアンからランボオ、ボオドレエル、マラルメに行ったらしい。いずれも、エッチングの時代の詩人たちである。わたしは、ラディゲからコクトー、リルケと悪食だったが、時代的には熊田さんの方向は分かる。東京創元社の朱色で小型の『現代日本名詩集大系』がセンスも収録も、最高に素敵な詩の羅針盤だった時代だ。もっともわたしは、同じ時期、父親が買った河出書房版の『日本近代詩大系』を眺めていた。戦後、昭和二十年代生まれの若者たちは、詩の季節に生きていたのだ。
 そうした人間には、熊田さんが並べた、飛鳥新書(角川書店)のベルトラン、伊吹武彦訳『夜のガスパール』、ボードレール、三好達治訳『巴里の憂鬱』、青磁選書のロートレアモン、青柳瑞穂訳『マルドロールの歌』、創元選書の小林秀雄訳『ランボオ詩集』、創元文庫版『富永太郎詩集』、角川書店版の菱山修三詩集『盛夏』と、詩集だの図版が並んでいると、それだけでうっとりとし、うれしくなる。
 じつはその大半をわたしも持っていた(とは言っても、大阪の大量処分でいくつかは失われているはずだ)。角川書店の飛鳥新書は、社主角川源義が折口信夫に習った縁で、社員に國學院出を、そして社を始めた時に堀辰雄の知遇を得たことによって独文、仏文のルートができた。「飛鳥」の命名は素晴らしく國學院的であり、ボードレール、三好達治の選択は素晴らしく堀辰雄的である。じっさい、堀辰雄は角川書店の出版物にアイディアを出していたのだ。
 このうち垂涎の一冊は、青磁選書の『マルドロールの歌』。残念ながら、これまで見たこともなかった。二、三年前に駒井哲郎が版画を付けた青柳の訳本は手に入れたが……と、ここまで書いて、竹内貴久雄さんから三笠文庫の『夜のガスパール』を借りっ放しにしていたことを思い出した。早くかえさねば……。

(9月9日執筆)

[追記]
『えむえむ』は、〒662-0831西宮市丸橋町八-二十五 熊田司 の刊行。

   =====================

【竹内追記】
 タイトルの「病院だより」が「病院日記」になっていることにお気づきでしょうか? どうもしばらくは、山田俊幸氏からのメールが続きそうです。パソコンをまったく使えない山田氏ですが、検索も掛けず、手許に資料本もないまま、記憶だけで、携帯で文章を綴り続けている努力と博識に、改めて感心しています。しばらく、私のブログのひさしの下をお貸しすることにしました。
 もちろん、近々、「大正・乙女デザイン研究所」という山田氏が立ち上げる組織のブログは開設しますが、内容的には、私のブログの現在のカテゴリーの方が合っているかもしれません。今は、「山田俊幸氏の病院日記」という新しいカテゴリーを起こすかどうか、迷っています。彼の知識量と、現在の有り余る時間とを掛け合わせると、2ヵ月程度はネタ切れにはならないでしょうから。
 ところで、今回の分、途中まで読んでいて「ベルトランの、あの本、貸したままじゃないか!」と憤慨していたのですが、彼も思い出したらしく、最後に突然、オチを付けています。返して貰わなくては。退院したら、しっかり要求します。
 なお、当ブログ冒頭のタイトルは、私が勝手につけたものです。また、こんな安易なタイトルを付けて…と叱られそうですが。でも、私の本音です。彼が言っていること、とてもよくわかりますし、高校、大学時代の自分を思い出しました。先日の震災を機に、本棚の組み換えを行なっているのですが、ついこのあいだ目にした、ずっとしまっておいたままだった様々の詩集など、読み返したくなりました。
 和田徹三の『白い海藻の街』、愛読書だったのですが、それを紹介してくれたのも、他ならぬ山田俊幸氏でした。渋谷・宮益坂の中村書店で買いました。


 
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

再び、草創期の「早川書房」のこと。(山田俊幸氏の「病院日記」第3回)

2011年09月09日 10時46分16秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 山田俊幸氏は、病院のベッドの上で退屈しているために、どうやら毎日、「日記」をメールしてくるつもりのようです。困ったことです。しっかり、「続きの話」が送られてきました。私が時間を取れなかったのでupが遅れましたが、これは、昨日到着分です。既にこの次の分も今朝届いていますので、のちほどupしますが、早く『大正・乙女デザイン研究所』のブログを立ち上げて、そちらで引き受けることにしないと、私のブログが山田氏に占拠されてしまいます。
 以下が、山田氏からのメールの全文です。


■寝たまま書物探偵所(2)

 猪狩富美夫さんは、わたしが中学教師だったときの同僚だ。それほど親しくない頃、お茶の水でばったり鉢合わせした。冬の雪の日だった。路面が凍りついていたのに、いつもそっくりかえって歩く癖のあるわたしは、ちょうどレモン画翠という画材屋さんの前あたりで滑って転んだ。その時、あっ、と叫んだ人がいた。それが猪狩富美夫さんだった。猪狩さんとは、それから友だちになった。
 猪狩さんとは、どうも時間のズレがあったらしい。それで出会わなかったのだ。同じお茶の水駅坂下の東京古書会館の即売会に行っていたのにだ。猪狩さんのコレクションは、社会主義系、あるいは20世紀の革命に関わる本で、政治研究のみならず、小説など多種多様であった。今でも、猪狩さんオススメの『皇帝は去ったが××は残った』(書名の記憶は曖昧だ)のおもしろさは、忘れられない。ドイツ革命の話などしたら、貸してくれた本だ。猪狩さんからは、そうした本をたくさん教えられた。
 そんな猪狩さんが集めた本をぜんぶ処分したと聞いたのは、大阪の大学に赴任してからだった。もったいないと思ったが、世の常で、場所がないの一言だった。今、思っても、あのコレクションを続けていたら、なかなか面白い20世紀文献になっていただろうのに残念だ。その猪狩さんが入院していると、メールがあった。
 同じ入院仲間ですねと、さっそく[寝たまま書物探偵所]をメールした。今どきは便利なものだ。すると、次のようなメールが返ってきた。
 「通信の内容は不案内ですが読ませて頂きます。なかで早川書房のことが書かれていますが、今のそれと大分違ったものを出していたなと記憶しています。スターリン圧政下、演劇家メイエルホリドを描いたイェラーギン「芸術家馴らし」なんかも出していました。あとオーウェルやケストラーの「真昼の暗黒」とか。通信内容とは無関係ですがまた配信して下さい。猪狩」
 いやいや、恥ずかしながら、どれも持っていません。さすがは猪狩さん。
 早川書房、侮れませんね。
             (9月8日執筆)

【竹内の注記】
 「××は残った」を調べてみました。ドイツ革命後のワイマール共和国を皮肉った言葉に「皇帝は去ったが、将軍たちは残った」があります。たぶん、このことではないかと……。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

山田俊幸氏の「病院だより」(第2回)の追補です。

2011年09月08日 15時45分47秒 | 山田俊幸氏の入院日記
 困りましたね。昨日の私のブログに掲載した山田氏の「病院だより」への私の追記を、彼の携帯にメールで送ったら、ベッドの上で「お暇」なようで、間髪入れずにメール攻撃してきました。以下、最新の、山田氏のツイッターまがいの代行です。

   =======================

第1号の岸田国士「『劇作』に告ぐ」に「東京では、『劇作』の姉妹誌を出してこれに応へようとしてゐる」とあり、これが『悲劇喜劇』だろう。早川道夫の「演劇時評」は岸田国士演出の野上彰戯曲「夢を喰ふ女」の評。文学座の出し物。ただし、大阪初演というので、関西で見ている可能性がある。劇団四季の浅利啓太の本は今度のどさくさで処分されたが、案外何か書いてあったかもしれない。劇団四季は言うまでもなく、加藤道夫の命名だった。山田

   =======================

 山田俊幸、健在です。
goo | コメント ( 1 ) | トラックバック ( 0 )

寝たまま書物探偵所(山田俊幸氏の「病院だより」第2回)

2011年09月07日 17時50分31秒 | 山田俊幸氏の入院日記

 また山田氏から私の携帯にメールがきました。救急車を呼ぶほどの大転落だったのに、「頭部」が無事だったので、ベッドの上でほんとうに手持ち無沙汰なようです。以下、彼が退屈しのぎに書いた「エッセイ」です。

   ======================

「寝たまま書物探偵所・・・・・四季派研究通信」


火災に遭った。小火で済んだが、本のいくつかは水でダメになった。その片付けで、今度は階段から落ち、病院で寝たきりとなった。仕方なく、必要、不必要を分けていた本を、雑誌だけ抜いてもらってぜんぶ古本屋さんに持って行ってもらった。古本屋さんは、そんな中で、抜きだした二括りを親切にも、病院まで届けてくれた。演劇雑誌『劇作』は、そこにあった。
おそらくこの『劇作』は、第1号(昭和22年4月1日発行)があったことと、加藤道夫の文章が載っていたから購入したのだろう。第1号には「演劇の故郷」。第11号(23年5月15日発行)には「舞台幻想1 ジヤン・ジロオドウの劇作」、第12号(6月15日発行)に「舞台幻想2 サローヤンの戯曲」が載っている。一番、加藤道夫らしいのは「演劇の故郷」で、加藤は戦争からの帰還後、能楽の発見をしたらしい。これなど、加藤の竹取物語伝説のイマジュネールとでも言える『なよたけ』に当然反映しているだろう。
この『劇作』は京都の世界文学社が出している。そこでこの雑誌をパラパラと抜き読みしていて、気づいたことがある。そんなことをちょっと書き付けておこうと思う。
11号に、早川道夫という人が演劇時評を書いている。その名を見て、オヤオヤ?と思った。なにがオヤオヤかと言うと、この人物、早川書房と関わりのある人物ではないか、と思ったのだ。
堀辰雄を調べていて、しばらく前から疑問だった本がある。『牧歌』がそれで、なぜその本が早川書房発行なのかが、ずっと気になっていた。堀辰雄本としては注目もされず、従って古書市場にもあまり現れることのない本だが、わたしにとってはどこか気になる本だった。それが、この『劇作』で了解されたようだ。
この早川道夫が早川書房に縁のある人物であるとすると、堀辰雄に至る道筋が見えてくる。早川書房は、今ではハヤカワ・ポケット・ミステリーで有名だが、たしか昭和二十年代には福永武彦の『ボードレールの芸術』、加藤道夫の『ジヤン・ジロオドウの世界』が早川書房から出版されていたはずだ。とするなら、早川書房はその最初期に、演劇のつながりで加藤、福永など、堀辰雄周辺の人々とつながり、そうしたことから、堀辰雄の『牧歌』を出すことになったと考えられる。
もっとも、これは早川道夫が早川書房と関わりを持っているということが前提の話で、この前提が崩れると、この推論は崩れるかもしれないのだが。(2012年9月7日執筆)

   ======================

【竹内による追記】

 1945年創業の早川書房の創業者は「早川清」ですから、この山田説は、ひとまずは却下、です。ただ、早川書房は、演劇界の指導的雑誌として私の学生時代にも有名だった『悲劇喜劇』を出している出版社でもありますから(山田氏は、そのことを、うっかり忘れていたようです)、何か関係があるかもしれないと調べたら、面白いことに気づきました。以下は、私の「探偵ごっこ」の報告です。

1)『悲劇喜劇』は岸田国士が1928年(昭和3年)に創刊。版元は第一書房だったが、翌年に第10号まで発行して廃刊。戦後、創業から2年目の早川書房が復刊を引き受け、季刊雑誌として1947年(昭和22年)11月に復刊第1号を刊行。第9号まで季刊で刊行して1950年(昭和25年)1月号から月刊。1964年(昭和39年)6月号で休刊したが、1966年(昭和41年1月号から復刊し、現在も発行されている。早川清は、その1966年1月から死の年である1993年まで「編集後記」を書き続けた。

2)一方、『劇作』も岸田国士が創刊に関わっており、こちらは創刊第1号は1932年(昭和7年)3月号だった。版元は白水社。通巻105号で廃刊になったが、こちらも戦後、1947年(昭和22年)4月、『悲劇喜劇』より半年ほど早く、岸田の依頼を引き受けた京都の出版社「世界文学社」(社主は柴野方彦)から復刊第1号が発行された。(山田氏が持っているのは、この復刊の「第1号」。)

3)さて、ここからが、面白いのです。
 世界文学社から発行された復刊の『劇作』は、2年後の1949年11月から、編集部が東京に移ったと言われている。(これは私は現物の奥付表示などを見ていません。ネット上の情報です。)そして、2号だけ発行して、1950年1月までで廃刊となる。

4)ここで、私は「あれ?」と思ったのです。この時、1950年1月は、東京で、早川書房の『悲劇喜劇』が月刊になっているのです。

※そこで、私の推論。「この岸田が関係していた二つの雑誌は、この時点で統合された。」

 この時期の現物の編集後記など、見てみたくなりましたが、この分野、私の専門外ですね。

※もうひとつ、私の推論。
 かなりネット上を見て回りましたが、「早川道夫」という名前の著作が、このわずか2年間の『劇作』誌にしか見当たらないのです。一冊や二冊、見つかっても良さそうなものです。こうした場合、私の経験では、何らかの事情でオモテに名前が出せない匿名氏の場合が多いのです。(これは、レコード盤上の匿名演奏家の場合も同じです。)
 だから、私は「早川道夫」なる人物は存在せず、「東京」と「京都」との二股をかけていた「早川清」が、京都の側で名を伏せて発表した記事だったのでは、という推論です。『劇作』誌上に「劇評」で忽然と現れた早川道夫が、1950年1月以降にはまったく演劇ジャーナリズムから消えている理由は、それではないでしょうか? 同じ岸田が関係している雑誌の一方に書いていた論客が、その廃刊後、継続されたほうの雑誌にまったく執筆していないとしたら、それは不思議なことですから。

 いずれにしても、山田氏は、京都の演劇雑誌繋がりで、堀辰雄の一書が早川書房から出版されていることを解こうと試みていますが、事はもっと単純で、早川書房自体の人脈が岸田国士やその周辺にあったということから解きほぐさなければならないようです。(そういえば、早川書房のミステリーやSFの翻訳者は、妙に著名な詩人のアルバイト仕事が多かったのも、そんな人脈と関係しているのかもしれません)

 山田氏の「探偵ごっこ」のおかげで、私もすこし遊んでしまいました。早川清氏の『編集後記 悲劇喜劇1966~1993』という、再復刊後の全ての編集後記を収録した非売品の本が、没後に発行されていることも知りました。もちろん、コレクター魂が騒いだので、さっそく古書サイトをチェックしました。2、3日で我が家に到着です。それを読めば、もう少しわかるかも知れませんね。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

山田俊幸氏の「病院だより」と、「大正・乙女デザイン研究所」設立のことなど

2011年09月06日 11時33分20秒 | 「大正・昭和初期研究」関連


 来月発行予定の『近代ニッポン「しおり」大図鑑』(国書刊行会)が、編集作業の大詰めにさしかかっていますが、その最中、監修者の帝塚山学院大学教授山田俊幸氏が、蔵書の整理中、階段を15段転落して第2腰椎損傷ということで、二ヵ月の入院となりました。それについては、周辺の方々宛てに山田氏からメール転送を依頼されましたので、思い出せる限りの方々に転送にてご連絡しましたが、進行中の本は、幸いなことに、私が書き上げた収録しおり全点の解説文を、読み終えてもらった後でしたので、めんどうなことにはならずに済みました。なにしろ、大阪の病院に入院中なのですから……。本人は「オレに最終ゲラを見せずに印刷に回すのか」と少々不満そうでしたが、収録しおりの選択・分類をご一緒した著名な資料収集家で新聞研究家の羽島知之氏と、最後の作業を進めるつもりでいます。
 山田氏自身は、もう既に、次の仕事に思いが向かっているようです。彼とは現在、共著の本の企画も練り上げておりますが、その先にまで構想を膨らませて、動けぬベッドの上から、退屈しのぎに、次々に資料送付、調査の代行をメールしてきて、私の仕事の邪魔をして困ります。
 また、今秋に発足を計画していた「大正・乙女デザイン研究所」のことも、あれこれと注文してきています。とても元気なのです。この研究所の活動については、近いうちに、このブログでもお知らせしますが、別途に専用のブログを立ち上げる予定です。

 ところで、その入院中の病床に、山田俊幸氏のお父上の訃報がもたらされました。昨年の御母堂に続いてのことですが、山田氏は、私宛にベッドの上から、備忘録風に長文の携帯メールを送ってきました。冒頭に「皆様へ」とありますから、いつものようにあちらこちらに転送せよ、ということなのでしょう。その意味では私信ではありませんし、それに、私も彼も、長年、著作という仕事を続けていますから、推敲して文字にしたものは、不特定多数の第三者に読まれてこそ意味が生じるとも思っていますので、このブログ読者の皆様にも公開いたします。(「===========」から下です。)
 山田氏の御両親には、私も20代のころ、よくお会いしておりましたので感慨深いものがありますし、彼が書いている思い出も、初めて聞くものはないのですが、改めて、彼が「来し方」を見つめていることに、私なりに思うことがありました。私も4年前に救急車で病院に担ぎ込まれて生きながらえた身ですから、彼が、転落しながら「ああ、これで終わりかな」と瞬間に思い、今、生き残った自分と対峙している心境がわかります。山田氏が電話口で私に、「お前が、生き残った者として何をするかを思った、と言っていた気持ちがわかったような気がする」と言ったとき、おそらく、私も彼も、よき書誌仲間だった気谷誠の、早すぎた死について思っていたのです。

   ===================

 寝ているベッドから空を見ていると、雲の海が流れています。子どもの頃、空の雲ばかり眺めていたことがありますが、ここしばらくはそんなのんびりとした一日一日となりそうです。それでも「尾崎喜八と雲」なんていう展覧会の企画を考えているのですから、困ったものです。今朝は、雲を見ながら、手元の手提げで、病院に一緒にやってきたCDカセットに入っていたグリークのピアノ曲集をのんびりと聴いています。けっこう、空の景と合ってよいようです。ナクソスの廉価盤ですが。

 わたくし事ながら自分の整理のため、記します。本日、五日の午前6時、父親をみてもらっている妹から電話があり、昨晩緊急入院した父が亡くなったと知らされました。母が父より一歳年上で、昨年みまかっていますので、同い歳で亡くなったことになります。そんな時、大阪の病院で身動きできないでいるのは、なんとも情けないかぎりです。妹があとは心配ないと言ってくれているのが、大きな助けです。

 母は、旧姓渡部。その母の父は、札幌農学校で有島武郎と同級でした。当時、有名なガンベッタ将軍のように豪快だったということで、ガンベの愛称があったそうです。その一端は、有島の未完小説『星座』に映されています。音楽家の早坂文雄とはいとこだったと聞いていて、昭和三十年代の大崎の家(竹内註:品川区大崎の山田氏の実家です)には、文雄の弟が描いた樹下の道の油絵が、長いこと飾ってありました。北海道から上京、東京美術学校在学中に亡くなったのではないかと思います。わたしは、この決して明るくはない絵を見て育ちましたが、今さらにあれが自分の美術への関わりの原点だったと思っています。また、渡部の家は小樽の富裕層で、岡倉天心門下の大智勝観にお金を出したとも聞いています。

 父は、電気学校出で、今ならば決して厚生省で出世できるはずのないキャリアでした。その父が、厚生省内でそれなりに出世したのには、戦争後の混乱が幸いしたのかもしれません。わたしがリルケ研究の塚越敏先生と知遇を得たとき、塚越先生は城真一さんを紹介してくださいました。その城さんが、大崎の実家に来たときの話です。城さんのお父さんが医者だと聞き、わたしが自分の父を厚生省の療養所担当だったと言ったのでしょう。その時、城さんはびっくりして、山田さんのお父さんはあの山田さんだったのかと、驚かれました。城さんの話では、城さんのお父さんが大阪の療養所の院長をしていた時、戦後のことでもあり暖房の燃料事情がまったく悪かったそうです。そのために毎年何人もの患者が亡くなる。なんとか石炭の特配が受けられないだろうかと相談したら、本庁と掛け合って特配が実現したと言うのです。山田さんのおかげでおおぜいの患者の命が助かったと、城さんのお父さんは城さんにもらしていたそうです。こんな話を聞くことができたのも、人間の繋がりの大きな輪があるからでしょう。
 わたしには、その父のささやかな蔵書を納めた小さな扉付きの本箱が、文学の始まりだったようです。そこには、岩波文庫のウインパー『アルプス登攀記』に白樺の皮が貼られ、「山田山岳蔵書No.なになに」と白く手書きされていて、山を憧れさせたものです。鈴木牧之の『北越雪譜』も、山の旅人小島烏水に惹かれて買ったものでしょうか。これはわたしの高校生時代の愛読書となりました。さらに、レイモン・ラディゲの人文書院版『肉体の悪魔』。秘め事のような愛読書でしたが、ジェラール・フィリップの映画を高校生で見、さらにのめり込みました。
 最近、縁あった人々と[大正・乙女デザイン研究所]というのを開設することになりました。考えてみますと、このベースには、父と母の存在があったようなのです。野長瀬正夫のなつかしい『故園の詩』、松山敏訳のエンボスというよりほとんど浮き出しの女の子が色付けされて表紙になった『シェリー詩集』など、父のものか母のものかわかりませんが、そんなものが現在のわたしを形作っています。
 今年は、社会的にも忘れられない事故や災害が頻発していますが、どうやらわたくし個人にとっても、大事な転機の年となったようです。
 皆さまには、今までいろいろとお助けいただいて今日までやってきました。感謝いたします。今後もよろしくお見守りくださいますよう、お願い致します。山田俊幸


goo | コメント ( 3 ) | トラックバック ( 0 )

イギリス「PYE」レーベルの、初期ステレオ・レコードに関連して、重要な情報が上がってきました。

2011年09月05日 21時25分01秒 | LPレコード・コレクション

 本日の当ブログ記事は、先日、8月30日分および、それに対して行われた31日付のコメントと合わせてお読みください。


 今村亨氏から、8月30日付の当ブログに関連して、メールが届きました。そのブログへのコメント書き込みに関することです。わたしも、その「瀕死の若様」を名乗るコメント氏の情報には教わること大でしたが、以下に、今村氏のメールをそのまま掲載します。コメントを下さった「若様」にも、お読みいただけるとうれしいです。

  ======================

 ファーレルの記事に思わぬ面白い書き込みがありましたね。パイの初期ステレオLPに関してコメントしてみます。

 英パイはマーキュリーやウェストミンスター等との共同製作で、'56年からステレオ録音を開始しました。ステレオLPの開発も独自に行い、'58年4月にV/L方式(縦横2方向の振動で左右の信号を記録)を発表しますが、直後に45/45方式が標準規格として採用されると、いち早く取り入れ、メジャー・レーベルに先駆けて'58年6月にヨーロッパ初のステレオLPを発売しました(※写真で示したバルビローリ指揮のベートーヴェン『交響曲1番&8番』: CSCL-70001)。しかし、ステレオ装置が直ぐに普及しなかった事や、メジャー・レーベルとの競合、そして、'59年に入ると、ATV(アルファ・テレビ)に吸収され、本社の引っ越しやスタッフの入れ替えが行われる等、大きな変更があった為、最初のCSCL70000シリーズの発売は、あまり順調には行かず、確か50枚程で終了したと思います。
 写真でご覧頂けるように、最初は何らステレオである事を強調していない、ごく簡素な体裁ですが、恐らくメジャー・レーベルのステレオLP発売が出揃った'58年秋以降は、何か目立った表示が必要になり、スタッフの多くが前に在籍していたEMIに倣って、独自のデザインでステレオのメタル・シールを作ったのかも知れません。
 兎に角、今まで判らなかった部分を明らかにする貴重な情報であり、お陰で私も実際にそうしたデザインがあった事は初めて知りました。

  ======================

 以上が今村氏からのメールです。実際、ステレオの最初期の事情は、正確なことがわからないことが多いですね。(モノラルの表記のジャケットに、思いがけず、シールを貼ったステレオ盤が入っていたりして、思わぬ拾い物をしたこともあります。)米エヴェレストや、米ウラニアのステレオ盤/モノラル盤なども、要注意ですが、経験上、英盤は、さらに不可思議なことが多々ありますし、仏盤はなおさらです。カタログがアテにならないのです。だから、「現物がある」という情報は大切なのです。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )