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スメタナ「わが祖国(「モルダウ」ほか)名盤選の付記を書いていて生まれた雑文です。

2009年11月27日 17時53分34秒 | 雑文
 以下は、このひとつ手前のもののために書き始めた「付記」=「追記」が、思いがけず広がってしまったものです。私自身の「メモ」として、後でブログ内検索をしやすくするため、別のカテゴリー=「雑文」としてアップします。
 「付記」が以下のようになってしまったのは、そもそも、昨日、「クラシック・スナイパー 6」の打ち合わせがあり、許光俊氏、鈴木淳史氏、平林直哉氏らと久しぶりに会ったのですが、最近のクラシック演奏会について下馬評を繰り広げる話の輪の外で、古い演奏の録音を聴くことの意味を、ひとりで考えていたせいかもしれません。みなさん、ノリが悪くてごめんなさい。
 そう言えば、その席に居るさなかに、近々発売されるコンピレーションCD『王様のレコード VOL.1~懐かしのテレビまんが大行進』『王様のレコードVOL.2~夢と希望の未来へ バック・トゥ・ザ 60's』に絡んだライブ・イベントの打ち合わせと、そのCD発売に合わせた書籍『王様のレコード~日本歌謡史を飾った名盤・珍盤・秘蔵盤を大公開!!!』(鈴木啓之・著/愛育社・刊)のゲラ進行が遅れていることでの連絡電話が入ったりと、かなり、頭の中が錯綜したまま、夕べは寝てしまったということも関係しているかもしれません。
 その鈴木啓之氏の、60年代歌謡史を概観するドーナツ盤コレクションは、相当なものです。CDと書籍、どちらの発売も楽しみにしています。これもまた、音楽と社会との関わりを探っている私にとって、とても刺激になることですので、その制作過程に多少なりとも加わらせていただいて、わくわくしています。
 発売記念イベントは、12月3日、丸の内の「ケンウッド・スクエア」で開かれますから、この時代の大衆音楽にご興味のある方は、覗いてみてください。但し、会場が狭いので、要予約とのことです。私の新刊書『唱歌・童謡100の真実』も、紹介して即売していただくことになっています。


■「スメタナ:わが祖国」名盤選の追記として書き始められた「2009年11月27日のメモ」

 正直なところ、この曲を通して、じっと耳を傾けているのは、少々退屈なところもありますが、もう随分前、この原稿を書いた時には、辛抱して聴き続けたという思い出があります。この曲の「連作」たる所以(ゆえん)を実感したのは、後にも先にも、この時かぎりです。「モルダウ」の他では、「高い城」が、まとまりのある曲だったと記憶しています。
 「モルダウ」単独の録音では、フルトヴェングラー/ウィーン・フィルの録音が、私の中学生時代からの愛聴盤。コーダの、怒濤のような盛り上がりは圧巻ですが、ウィーン・フィルがあんなに熱くなる瞬間を持ち得ていたのは、50年代から60年代初頭まででした。決して、ただ単にフルトヴェングラーが指揮しているから燃えた、というわけではありません。ナチの時代を生き抜いて、生き残った者たちだけがわかる「熱い」ものが、たぎっているのです。
 私は最近、日本の大正期から昭和初期の日本社会と音楽と大衆との関係に関心が大きくシフトしているのですが、もちろん、その延長で、戦時下の日本や、戦後、GHQ統制下の「配給された民主主義」の下にあった時代にも、関心が増しています。そして、それと同時に、同じような趣旨で、もし時間があれば、ナチ政権下のドイツ・オーストリアから、戦後の連合国統治時代、ハンガリー動乱による難民、亡命者、売春婦が溢れていたという戦後のウィーン社会と音楽との関係も、整理して考えてみたいと思っています。
 私は50年代半ばの「開放前後」のものと思われる「ウィーン音楽」の古いLPアルバムをいくつか持っているのですが、まだ、全体を大きく繋ぐものを見つけられずにいます。映画「第3の男」の舞台は、奥が深い様々な問題を含んでいます。映画誕生の舞台裏も、です。
 


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スメタナ:『わが祖国(「モルダウ」ほか)』の名盤

2009年11月27日 17時49分08秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第29回」です。

◎スメタナ:「連作交響詩《わが祖国》全曲」

 第二曲「モルダウ」が特に有名だが、全六曲の連作交響詩を通して演奏される機会も多い。もともと全曲がイメージ的に統一できるよう、第六曲で冒頭第一曲の主題を回想するなど、通して演奏される方が自然な曲でもある。第二次大戦以後、「プラハの春」音楽祭のオープニングで必らず演奏されるようになったこともあって、一部の人々にとっては、特別の意味合いを持つ曲ともなっている。
 バイロイト復興コンサート初日のフルトヴェングラーの第九や、ベルリンの壁崩壊を記念するバーンスタインの第九と同様の意味で、特異な価値を持たされてしまったクーベリック/チェコ・フィルの九〇年ライブは、確かに、その独特の雰囲気など、別格といってよい演奏だが、クーベリックにとっても、チェコ・フィルにとっても、必ずしもベストの演奏ではないと思う。
 クーベリックは、シカゴ響、ウィーン・フィル、ボストン響、バイエルン放送響などとも録音を残している。その中では、彼の意図が率直かつ明快に音として実現されているウィーン・フィル盤が、多少作為が見え隠れするものの、最もこの指揮者の特質を伝えているように思う。
 この曲をチェコ・フィルとで録音している指揮者は多い。前述のクーベリックの他、ターリッヒ、カルロ・シェイナ、アンチェル、ノイマン、スメターチェク、ビエロフラーヴェクなど、正にチェコ・フィルにとって国民的愛奏曲だが、その中でのベストは、何といってもアンチェルとの盤だろう。その自然でなだらかな、しかも彫の深い表情は、この曲の最もスタンダードな名演と呼ぶにふさわしい。
 チェコ・フィルを離れても、この曲のローカルな特殊性がなくなるわけではないが、チェコ以外の演奏では、ドラティ/コンセルト・ヘボウ管が直截な表現で響きを充実させた演奏で、すっきりと聴かせる。

《ブログへの掲載にあたっての追記》
 本日、「追記」を書き始めたら、思いがけず、長々と脱線を始めてしまいました。そこで、追記は別立ての「雑文」カテゴリーとします。きょう、これに続けてアップします。


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グリーグ:『ピアノ協奏曲』の名盤

2009年11月25日 10時54分18秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第28回」です。

◎グリーグ:ピアノ協奏曲

 いわゆるロマン派の時代を代表するピアノ協奏曲の傑作のひとつであるこの曲のロマン性を、完璧に表現し得た演奏として、リパッティ/ガリエラ盤はレコード史に残る至宝のひとつだ。自在なテンポの揺れ動き、感情の高揚に自然に付いていくアチェレランド、時折見せるメランコリックな感傷の翳など、リパッティの音楽性と曲趣との幸福な一致が生んだ名盤だ。リパッティの感情の動きにぴったりと追随してゆくガリエラの名伴奏も素晴らしい。
 リヒテル/マタチッチ盤は、思考の積み重ねの末に再構築されたロマンと言っていいだろう。しばしば拡大されたディテールが前面にせりだしてきて、「おやっ」と思わせる。知の力の優った演奏だが無感情ではなく、気分の沈潜の有り様について考えさせる不思議な個性にあふれている。
 フランス・クリダ/マーカル盤は、ことさらにロマン派風の高揚を表現せず、ピアノ的な粒立ちのよいきめこまかな表情を、浅い呼吸で聴かせる。隅々までよく透けて聴こえてくるクリダのピアノによって、作品の素性としてのロマン的情感が滲み出てくる。この曲の演奏に新たな可能性を示した演奏だ。
 ゲザ・アンダ/クーベリック盤は、硬質の澄んだタッチのピアノで、この曲の透きとおるように美しい抒情を十全に表出した標準的な名盤。。柔和で充実した響きのクーベリックのベルリン・フィルが、さらにそれを支え、総合的に高レベルな演奏となっている。
 ところで、この曲の現在演奏されている版はグリーグ自身によって晩年に改訂、決定稿とされたものに拠っている。初演以来かなりの年月の間使用されていた原典版は、若いグリーグが師と仰いだリストの意見の入ったもので、響きもかなりリスト的だ。この版でロジェ・デルヴィンエル/広上淳一/ノールショピング響が演奏した興味深いCDがある。

《ブログへの掲載にあたっての追記》
 この原稿を書いている時には、すっかり忘れていましたが、カーゾン/フィエルスタート~ロンドン響のデッカ録音は、とても生真面目な気持ちの良い演奏です。この原稿の執筆後に出たはずの小川典子/ウード~ベルゲン・フィルのBIS盤は思い切りの良さで魅力のある演奏。アンスネス/キタエンコ~ベルゲン・フィルのヴァージン盤も新鮮な印象を受けた記憶がありますが、どちらも、まだ聴き込んではいません。



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作詞家「清水かつら」こそが、「童謡」の始祖?

2009年11月20日 12時06分23秒 | 「大正・昭和初期研究」関連




  以下は、先日の当ブログ掲載と同じく、10月に発売したばかりの私の著書『唱歌・童謡100の真実』(ヤマハミュージックメディア)で、そのページ調整のために書いた「コラム」の内のひとつです。1冊の書を書き上げて、そのゲラを通して読みながら、即興的に問題提起として書き残したメモ書きのようなものです。ここに盛られたテーマを掘り下げていくのが、次の仕事だと思っています。
 私は、「童謡」というジャンルの確立の歴史そのものが、まだ解明されていないと考えているのです。そして、かなり広く流布している「本居長世は童謡の始祖」という説、あるいは「中山晋平は童謡の父」という見方には、異論があると言いたいのです。
 また、このコラムの最後に少しだけ触れている「大衆派VS芸術派」という二分論は、どちらかと言えば、後出しジャンケン組だった人たちが、自分の仕事にハクを付けようとした見方に騙された結果と考えるべきだと思ってもいます。


■最初から「童謡」だった作品、あとから「童謡」になった作品

 本書でも掲載している『靴が鳴る』『叱られて』『雀の学校』など、いくつもの童謡の詞を書いている「清水かつら」は、一八九八年(明治三一年)に東京市深川(現在の江東区)に生まれ、一九五一年(昭和二六年)に、五十三歳の若さで世を去った作詞家だ。
 清水は、その一番最初に話題になった『靴が鳴る』が一九一九年(大正八年)一一月号の雑誌『少女号』に掲載されていることでもわかるように、日本の童謡第一号とされている『かなりや』がメロディを付けて発表されたとされている一九一九年(大正八年)五月に、わずか半年遅れているだけだ。
 『かなりや』は、鈴木三重吉の主宰する雑誌『赤い鳥』に一九一八年(大正七年)一一月号に掲載されたが、それは西條八十の詞だけで、成田為三によって作曲されたのは、その半年後だ。
 実は、最初の段階では『赤い鳥』の童話創作運動の派生として生まれた「童謡創作運動」は、メロディを伴っていなかった節がある。つまり、夏目漱石が使いはじめたとも言われている「童謡」という日本語の、最初の意味を発展させた「子どものための詩」といった意味でしか、「童謡」という言葉を用いていなかった可能性があるのだ。それにメロディを付けようと考えたのは、明治末から次第に熱を帯びていた、「文部省唱歌」から離れた自由な歌の創作を目指すという、社会全体の気分のようなものがあったからだと思う。まだ根拠の希薄な私見に過ぎないが、清水かつらが弘田龍太郎と組んで『少女号』で発表を続けた「童謡」創作の動きの方が、『赤い鳥』よりも早くから計画されていたかも知れないのだ。
 いずれにしても、清水と弘田のコンビは、真の意味で、「童謡の先駆者」であると思う。一方で、流行歌(新小唄)から参入した中山晋平も、ドイツ帰りの山田耕筰も、そして、演劇畑から児童歌劇を経て参入してきた本居長世も、それぞれの立場の延長上に「童謡」の可能性を見出して追ってきた者たちの、延長上の結果なのだというのは、言いすぎだろうか? 本書でも様々な箇所で指摘しているが、プロテスト・ソングを童謡に発展させたり、芸術歌曲だったはずのものを「童謡」に仕立て直したり、音楽劇の場面を切り取ったりと、「反・文部省唱歌」としての童謡ブームの実像を、もう一度検証したいと思っている。
 「大衆派童謡作家」「芸術派童謡作家」と二分して考える人がいるようだが、それは童謡の本質から離れる見方だと思う。



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「城ケ島の雨」の梁田貞が見ていた、もうひとつの夢

2009年11月17日 10時44分06秒 | 「大正・昭和初期研究」関連
 以下は、先々月に出版したばかりの『唱歌・童謡100の真実――誕生秘話・謎解き伝説を追う』(ヤマハミュージックメディア)の中扉手前に、ページ調整で書いたコラムの内の1本です。まだ現役の本ですから、本文をこのブログに載せるわけには行かないですが、コラムの掲載ならば、出版社さんも、大目にみてくれるでしょう。
 最近の私のテーマのひとつ、大正・昭和初期の日本での西洋音楽受容史を探索している中から、偶然、目に触れたわずか8ページの楽譜書を眺めていて、即興で書きあげたものです。下版直前の夜のことでした。


■テノールの美しい歌声が知る「昼の夢」とは

 童謡『とんび』で知られる作曲家、梁田[やなた]貞[ただし]には、いわゆる流行歌のジャンルに、北原白秋の作詞による『城ケ島の雨』という大ヒット作がある。大正期から昭和初期にかけて、多くの青年の心を捉え一世を風靡した「新作小唄」の名曲である。
 梁田は一八八五年(明治一八年)に北海道に生まれ、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)で声楽を学んだ人で、もともとテノール歌手としての活躍を目指していたようだ。一九一三年(大正二年)に東京の有楽座で開催された新劇運動の雄、島村抱月が主催する「芸術座音楽会第一回演奏会」のために作られた『城ケ島の雨』の初演で美しいテノールの歌声を聴かせたのは、作曲の梁田自身だった。芸術座公演では、翌年に、看板女優の松井須磨子が劇中で歌った『カチューシャの唄』(野口雨情作詞・中山晋平作曲)も大ヒットしているが、そうした芸術座を発信地とした歌の先鞭を付けたのが『城ケ島の雨』だった。梁田の作曲の特徴は、その朗々と歌い上げるメロディにあると思うが、それは『とんび』も同じだった。高らかに歌い上げる伸び伸びとしたメロディが、テノール歌手を目指していた梁田の志向を表しているように思う。
 この梁田が東京音楽学校を卒業した一九一一年(明治四四年)に作曲した作品に、『昼の夢』というものがある。今ではすっかり忘れられてしまった作家、高安[たかやす]月郊[げっこう]の作詞で、「薔薇[そうび]はなさく陰に伏して、詩[うた]を枕に仰ぎ見れば、詩の心は花に入りて、笑むよ花びら、笑みて笑みて詩となるよ」といった内容のもの。一九一四年(大正三年)に十字屋楽器店から発行された楽譜には、フルート(またはヴァイオリン)とピアノによる伴奏譜も書かれており、その表紙の絵は、当時は東京美術学校の教員だったはずの田辺至が寄せている。
 梁田の「まえがき」には、「この拙い曲を公けにするにあたり、美しい詞をお与え下すった高安月郊先生と、装幀の労をお執り下すった田辺至先生に感謝の誠を捧げる」とあり、卒業記念作品の出版のような楽譜だ。
 私は、昭和に入ってからの奥田良三によるテノール独唱の録音でしか聴いたことがないが、おそらく、梁田自身の青春の「夢」の結実した歌として、彼自身も歌っていたに違いない。そう思わせるような美しい歌曲である。同じ「まえがき」の中で梁田は、「この曲を、私の歌声でおとなしく眠ってくれたふるさとの妹に捧ぐ」としている。

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ビゼー:『アルルの女』の名盤

2009年11月13日 11時54分02秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第27回」です。

◎ビゼー:アルルの女

 劇のための二十七曲の付随音楽から、大管弦楽用に作曲者自身が四曲を選んで編曲したものが、今日、第一組曲と呼ばれている。第二組曲は他の曲からの転用も含めて友人のギローがまとめたものだが、今日、ほとんどの場合、この二つの組曲はまとめて演奏、録音されている。
 ピアノを含む二十七名の小オーケストラがオリジナルの編成だが、これはホグウッド/セント・ポール室内管による録音が、六曲の抜粋だが発売されている。
 組曲版では、まずミュンシュ/ニュー・フィルハーモニア管が、ビゼーのリリカルでありながら旋律線の力強い骨太な音楽を十分に表現して聴き応えがする(但し第一組曲の全四曲に第二組曲第四曲ファランドールを加えた五曲のみ)。細部にこだわらない悠然とした運びは、思わず深呼吸をするような広々とした世界を作り出している。
 クリュイタンス/パリ音楽院管は、いくらか線は細いが、その色彩感豊かな陰影に富んだ美しさは、いまだにこの曲のベストワンと呼ばれて不思議ではない一方の名演だ。これは第一、第二組曲それぞれ全曲録音されている。
 アバド/ロンドン響は細心の注意を払って、微妙な曲想の変化、音色の移り変りを丁寧にたどっている。ここでの豊かな色彩感は、あくまでも意識的に操作され形成されたものだ。私たちの時代は、こうした演奏を楽しむことを覚えたのだ。
 ストコフスキー/ナショナル・フィルは聴かせどころをよく心得た語り口の巧い演奏。映画音楽でも聴いているような、映像が目に浮かぶ面白さにあふれていて、思わず引き込まれて、からだが揺れてくる。第二組曲は第一曲を中間部のみ演奏して経過句的に利用して第二曲は省略。第三曲に続けるなど、かなり自由にアレンジされているが、音楽の楽しさとは何であったのかを考えさせる名人芸の記録として推賞したい。

《ブログへの掲載にあたっての追記》
 この原稿を書いた後、マゼール/クリーヴランド管の演奏を聴いて、マゼールのバッハ「管弦楽組曲」を聴いたときに似た爽快感を感じたのを覚えています。くっきりとしたメロディの動きや重なりが聞こえてきて、とてもスタイリッシュな演奏。「カリヨン」は、敢えて早めのテンポで機械的にリズムを刻ませるなど、いたるところに個性がある演奏ですが、ビゼーの魅力は旋律線の野太さにあるのですから、その意味で、ビゼーの音楽の本質を鋭く突いた演奏です。フランス系の指揮者では、プレートルやスーストロに向いた音楽だと思っています。
 確か、オリジナルの劇音楽版がCDで発売されていて、それがとても面白かったという記憶があるのですが、それが、本文で触れたセントポール盤だったか、それとも別の曲数が多いCDがあるのか思い出せません。
 今、大正・昭和初期のデザイナー「小林かいち」の画集の編集校訂で忙しくしているので、後日、CD棚をゆっくりと点検してご報告します。







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ビゼー『交響曲第1番』の名盤

2009年11月10日 16時21分18秒 | 私の「名曲名盤選」




 5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第26回」です。


◎ビゼー:交響曲第一番

 ビゼーが十七歳の時、パリ音楽院の学生時代に書かれた習作。作曲後八十年を経て発見され、初演された若き日のビゼーの傑作だが、先人の影響が色濃く残っており、若々しい、ビゼーらしい骨格のくっきりした躍動感と、習作的な古典的造型とが同居した特異な曲だ。
 そうしたこの曲の二面性を十全に表現した演奏として、まず挙げられるのはサラステ/スコティッシュ室内管盤だ。くっきりとしたラインの造型的な美しさの中に、躍動感あふれるのびやかさが実現されている。この澄んだ奥行きのある響きは魅力だ。サラステの、若々しくシャープな感性がなし得た演奏。
 小沢征爾/フランス国立管盤は、躍動感よりも、しなやかな流動感に重きを置いた演奏。ゆったりと長めに設定されたフレージングを生かす、控え目なフォルテで貫かれた第一楽章を聴いただけでも、この曲における次項のミュンシュ風アプローチから離れて、新たな像をこの曲で築き上げようとする小沢の意気込みがわかる。最後まで流麗で淀みのない世界から踏み出すことなく聴き通せる美しさが聴きもの。これは意外としたたかな個性的演奏だ。
 この曲のフランス国内初演を若き日に手掛けたミュンシュ/フランス国立放送管盤は、積極性のある前向きな演奏で、弾力的な魅力にあふれている。その分だけ、均衡感への配慮が犠牲になっているとも言えるが、この熱気は貴重だ。少々騒々しいが、この曲を青春の音楽として聴くならば、こうした演奏がスタンダードと長い間言われてきた、代表的な演奏だ。
 ビーチャム/フランス国立放送管盤は、この曲の古典的性格のイメージを決定づけた往年の名演。堂々としたシンフォニックな演奏だが、重々しくなりすぎないところに、ビーチャムの趣味の良さが出ており、バランスのとれた演奏となっている。

《ブログへの掲載にあたっての追記》
 こんなことを言っては叱られてしまうでしょうけれど、久しぶり、15年ぶりに自分の原稿を読んで、教わるところが多々あって、とても刺激になりました。私自身が、今ではこの原稿を書いていた40代半ばからかなりの距離を置いてしまいました。この原稿を書いていたころのような気持ちで「青春の音楽」を語ることは、もうできなくなっていると思い知り、少々寂しくもあり、懐かしくもあり、嬉しくもある旧稿に出会った……といった心境ですが、編集者としての視点で私自身の旧稿を読んでみても、この曲のベストを的確に語っているとは思いました。
 実は、この名盤選の原稿を書いてから、これまでの15年間、この曲の新録音に出会っていないような気がしています。何か、別のすばらしい演奏をご存知の方がおられましたら、ぜひ、コメントをお寄せください。



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ミュージカル曲の解説(踊り明かそう/ニューヨーク・ニューヨーク/メモリー/シェルブールの雨傘)

2009年11月06日 20時41分12秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)





 本日は、私が2~3年ほど前に執筆しかけたミュージカルナンバーの解説です。実は、この原稿は『メモリー☆森公美子ミュージカル・ベスト』というCDのライナーノートとして書き始めたのですが、ついつい書き過ぎてしまい、クラシック音楽のCDの曲目解説のようになってしまったので、途中で止めてボツにした原稿です。
 その後、まったく気分を変えて、簡単な曲目ガイドと、このCD発売時にミュージカル歌手として帝劇の舞台でも活躍していた森公美子の魅力について書いた小文を完成させて渡しました。そのため、お蔵入りしてしまったのが、以下の原稿です。
 データを整理していたら出てきたので久しぶりに読み直してみましたが、それなりの情報量なので、ブログで公開することにしたというわけです。細部の推敲はしていませんが、そのまま掲載します。確かに、ポップス系のジャケット解説としては少々かったるいですが、私の記憶では、昭和40年代のミュージカルのLPレコードの解説は、どれもかなり本格的で詳しい解説が付いていたと思います。あの頃は、みんな、知識に飢えていたのでしょうね。


[1]踊りあかそう~『マイ・フェア・レディ』より
 1956年にブロードウェイで初演されて以来ミュージカルの傑作と讃えられ、6年半で2717回のロングラン公演という記録を打ち立てた名作『マイ・フェア・レディ』の代表曲。作詞アラン・ジェイ・ラーナー、作曲フレデリック・ロウのコンビによる作品。このコンビでは他に『キャメロット』も有名だ。
 このミュージカルは世界各国で翻訳上演され、日本でも東京オリンピックが行われた1964年に初演されている。この時期、日本は戦後の復興期から高度成長期へと突入していたが、そんななかで、このミュージカルの上演は大きな反響を呼び、それ以降の日本でのブロードウェイミュージカル・ブームのきっかけとなった。「踊り明かそう」は、同ミュージカルのなかでも特に知られる曲だが、最初は「一晩中踊れたら」と、より原題に近い訳で知られていた。現在の訳が定着したのは、ミュージカルの日本初演以降のことだったと思う。
 ブロードウェイ初演では、主演に当時新人だったジュリー・アンドリュースが起用されたが、日本初演と同じ1964年にオードリー・ヘップバーン主演の映画版も製作され、これもその年の内に日本で公開され大ヒットとなった。多くのミュージカルファンは、この映画でのシーンが、まず一番に思い浮かぶのではないだろうか?
 『マイ・フェア・レデイ』は、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』を原作としている。言語学者であるヒギンズ教授が、裏町で暮す貧しい娘イライザに学者的好奇心から上流階級の話し方を徹底して教育し、社交界にデビューさせるが、やがてそのイライザに恋をしてしまう、というストーリー。何ヵ月もの猛特訓の末に、やっとの思いで美しい発音ができたイライザが、その喜びを歌い上げるシーンでの歌が「踊り明かそう」だ。
 シェイクスピア以来の英国演劇の伝統を継いだ近代イギリスの代表的戯曲作家として知られるショーは、原作を尊重することを条件にミュージカル化を許可したので、ミュージカル的演出での最小限の改変しか行われなかったが、この「踊り明かそう」のシーンは原作にはない。それが、このシーンがミュージカル的に最大の見せ場となっている理由かもしれない。原作は猛特訓のさなか、イライザが泣き崩れて自室に駆け戻るところで第2幕が終わり、次の第3幕は、教育を終えたイライザの試験としてヒギンズ教授が自分の母親に引き合せる場面となる。

[2]ニューヨーク・ニューヨーク~『ニューヨーク・ニューヨーク』より
 1977年に製作されたマーティン・スコセッシ監督によるミュージカル仕立てのアメリカ映画『ニューヨーク・ニューヨーク』のメイン曲。スコセッシは、この映画の前年に『タクシー・ドライバー』で一躍有名になった監督で、この『ニューヨーク・ニューヨーク』は、彼としては珍しい音楽映画だが、無類のニューヨークっ子を自認するスコセッシによる最大級のニューヨーク讃歌でもある。
 ストーリーは、失業中のサックス奏者ジミーとクラブ歌手フランシーヌが出会い、歌手として売れ始めたフランシーヌがジミーを自分の楽団に参加させ、やがて結婚。しかし音楽上の路線の対立から破局を迎える。紆余曲折の末、数年後、かつてジミーがフランシーヌのために作った曲「ニューヨーク・ニューヨーク」をテーマにしたショウでフランシーヌは大成功。レコード会社の副社長にまで出世していたジミーと再会するが、二人の関係はもう元には戻らない、というもの。
 フランシーヌ役がライザ・ミネリ、ジミー役がロバート・デ・ニーロという、夢の共演によるラブ・ロマンスだった。
 『オズの魔法使い』で本格デビューした往年の大歌手ジュディ・ガーランドの娘であるライザ・ミネリは、この映画製作時には既にステージ歌手として高く評価されており、この映画のストーリーはライザそのもの、さらには、ライザの母親であるジュディ・ガーランドの半生をも思い起させるが、実際、この「ニューヨーク・ニューヨーク」が歌われるフランシーヌのワンマン・ショウ場面は、ライザ自身のショウともなっていて圧巻だ。
 スコセッシ監督を音楽的にサポートしているのが作詞のフレッド・エッブと作曲のジョン・カンダーのコンビ。ミュージカル『キャバレー』もこのコンビによるものだが、この映画版はライザ・ミネリの代表作にもなっている。一方、「ニューヨーク・ニューヨーク」は映画公開の数年後、1980年代になってフランク・シナトラがカヴァーして、シナトラの代表曲のひとつともなった。

[3]メモリー~『キャッツ』より
 1981年にロンドンで初演されたアンドリュー・ロイド・ウェッバー作曲の大ヒット・ミュージカル『キャッツ』を代表する曲。劇団四季による翻訳公演が幾度も行われている人気ミュージカルだから、日本での舞台上演を観たミュージカル・ファンも多いだろう。日本でのミュージカル公演の潮流のひとつにまで成長した劇団四季が、シリアスな演劇からミュージカル公演中心への路線変更を定着させたのが、この『キャッツ』の大ヒットだったと言ってもよいほどに、日本でも話題となったミュージカルだ。多くの日本のミュージカル・ファンの、ミュージカルに対するイメージを一変させた作品だったとも言えるだろう。作曲者のウェッバーは、ロック・ミュージカル『ジーザズ・クライスト・スーパースター』で既に知られていたが、この『キャッツ』で、ヒットメーカーとしての名を不動のものとした。ロンドン初演の翌年にはブロードウェイでも上演され、以来17年間7653回というロングラン公演記録を打ち立てたのだ。そして、この記録を最近破ったのが、同じウェッバー作曲の『オペラ座の怪人』だった。
 『キャッツ』の原作は、イギリス近代の代表的な詩人、T・S・エリオットが1939年に出版した詩集『おとぼけおじさんの猫行状記』で、それに作曲者の企画に賛同したエリオット未亡人の協力で未発表の原稿が加わり、最終的に完成した。
 このミュージカルは、出演者全員が「猫」という想定で、都会の片隅のゴミ捨て場が舞台というユニークな構成。年に一度、月の夜の舞踏会で選ばれた特別の猫だけが、天上界へと旅立って生まれ変われるというもの。「メモリー」の旋律は劇中で幾度も顔を覗かせるが、クライマックスの近く、かつての美貌を失ってしまった唱婦猫グリザベラがその特別な猫に選ばれ、この美しいメロディを高らかに歌い上げる。ロンドンでの初演時に歌ったのは、このグリザベラ役に当初予定していた歌手が事故で出演できなくなったため、急遽代役に抜擢されたエレーヌ・ペイジだった。その時、この歌が、ミュージカル史上空前のヒット・ソングになるとは、誰も予想していなかったに違いない。エレーヌ自身が「選ばれた特別な猫」だったのだ。

[4]シェルブールの雨傘~『シェルブールの雨傘』より
 1963年に製作されたフランス映画『シェルブールの雨傘』は、全編が歌によって進行するというユニークな作品。原案、シナリオ、監督はジャック・ドゥミで、作詞はノーマン・ギンベル、作曲はミシェル・ルグラン。この映画は翌1964年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞している。
 全編が歌によって進行する、というのは、いわゆる会話だけでなく、ほんのちょっとした呼びかけの一言でさえ、全て歌われるということ。それまで通常のミュージカルは、普通に芝居をしている場面から急に歌の場面へと切り換わるのが当たり前で、それは、ここぞという見せ場でアリアが歌われる古典的なオペラや、そこから派生したウィーンのオペレッタ(ミュージカルの源流と言ってもよいもの)以来の方法だった。ウィーンのオペレッタ歌手の息子として生まれた作曲家フレデリック・ロウの傑作『マイ・フェア・レディ』では、セリフがいつのまにか歌に変貌していることが多く、セリフから歌への繋がりにかなりの工夫が見られるが、それでも、歌の場面と芝居の場面とは 、それぞれ独立していた。
 90分余の映画全編を休みなく、ひとつながりの音楽で描くという試みは、オペラの分野でのワーグナーの楽劇に匹敵する快挙だと思うが、ミュージカル映画としては、大成功した唯一の例と言えるかも知れない。ミシェル・ルグランという鬼才を得たことが大きかったと思うが、ジャック・ドゥミ監督の見事な構成力も見逃せない。
 そうした映画だけに、個々の独立したミュージカル・ナンバーに相当するものがないが、「あなたなしでは生きられない」と繰り返し歌われる最も印象的なメイン・テーマの旋律は、「私を待っていて……」と英語の歌詞まで与えられ、大ヒット曲となった。
 映画のストーリーは、フランス北部の港町シェルブールの傘屋の娘ジュネヴィエーヴと、その婚約者である工員ギーが、折からの戦争によって召集され引き裂かれるという悲恋物語。ジュネヴィエーヴ役は、当時20歳だったカトリーヌ・ドヌーヴ。この映画が彼女の出世作となった。ただし、歌はダニエル・リカーリによる吹き替えだった。


●ここまで書いて、放棄したのですが、データには、以下、曲目だけが入力されていました。実際に発売されたCDと、曲順が入れ替わったかもしれませんが、曲目は変更していません。森さんのお気に入りの歌を集めたという、こういうCDだったのです。もちろんすべて、原語で歌っています。


[5]オール・ザット・ジャズ~『シカゴ』より

[6]オン・マイ・オウン~『レ・ミゼラブル』より

[7]私のお気に入り~『サウンド・オブ・ミュージック』より

[8]虹の彼方に~『オズの魔法使い』より

[9]トゥモロー~『アニー』より

[10]アンド・アイ・アム・テリング・ユー・アイム・ノット・ゴーイング~『ドリームガールズ』より










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ウクライナ共和国オデッサ・フィルのCDを聴く(2)

2009年11月04日 13時20分05秒 | ライナーノート(日本クラウン編)







 以下は、当ブログ前回の続きです。執筆は1997年10月22日です。


■オデッサ・フィルの第2弾を聴く
 個性的で意欲的なアルバムを続々と発表するイギリスASVレーベルによる〈ウクライナ音楽シリーズ〉は、第1弾のコレッサとスコリークの作品に続いて、グリエールとスタンコヴィチの作品の登場となった。演奏は、もちろん第1弾と同じくウクライナを代表するオーケストラ、オデッサ・フィルハーモニーで、指揮も前作と同じく音楽監督のホバート・アールだ。
 第1弾は、〈ウクライナ音楽の父〉とまで讃えられるコレッサと、その直系の弟子スコリークの作品によって、ウクライナ西部高地、リボフ州を中心とした純正ウクライナ音楽の持ち味を強烈に印象付けてくれたが、今回の第2弾は、かなり傾向が異なるアルバムとなっている。
 ウクライナ共和国は、西はポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアに接した高地(カルパチア山脈)、東から北にかけてはロシアに接している。南は黒海に面しており、かつての文化の交流地オデッサは、黒海で最大の海岸都市だった。キエフは、そうしたウクライナの首都として、中央の高地に位置しており、ロシアのモスクワの影響をも受けていた。
 前回のアルバムの作曲家コレッサらが西の高地リボフを中心とした音楽家であったのに対して、グリエールは中央のキエフに生まれた。生地キエフの音楽学校で学んだ後、モスクワ音楽院に進み、イッポリトフ・イワーノフに作曲法を学んだ。コレッサがプラハを初めとする東ヨーロッパの影響を受けたのとは、かなり対照的だ。
 このアルバムは、グリエールの中で実を結んだロシアの音楽教育の成果が見え隠れするためか、前作のコレッサらのウクライナ音楽よりもずっと私たちには馴染みやすい部分が多いが、それでも随所で、前作で知り得たウクライナ音楽の味わいに気付かされる。ウクライナ音楽が様々な顔と歴史を持っていることを示してくれる当シリーズの本領発揮と言ったところだ。第2弾の登場で、今後の系統立てての発売が、さらに楽しみになった。

■グリエールと、その作品
 グリエールは、1875年1月11日にウクライナの首都キエフに生まれたが、前述のようにモスクワ音楽院に進学、その後も母校で、多くの作曲家の育成に尽力した。組曲「コーカサスの風景」の作曲者として知られる、師イワーノフの影響からか、ロシア革命後の一時期、外コーカサス地方のアゼルバイジャン、ウズペクなどの作曲家の協力を得て現地の民族音楽を採譜するなどして歌劇、音楽劇を作曲。革命後のソビエト連邦内で、積極的にアジア的な民族音楽要素の取り入れを行った。アゼルバイジャン民族オペラ「シャー=セネム」や、ウズペク民族オペラ「レイリとメジヌン」などが、その成果として知られている。
 ところで、グリエールの代表作として広く知られているのは「バレエ《赤いけしの花》」だろう。特にその中の「ソビエト水夫の踊り」は単独で演奏される機会も多い。グリエールは、この作品によって、外コーカサス地方からモスクワに登場した最大の作曲家ハチャトリアンにさきがけて、民族色を前面に押し出したソビエト・バレエの先駆者として永遠に記憶されるに違いない。

●バレエ組曲「タラス・ブーリバ」
 グリエールは、音楽のロシア化を推進し、アジアや中東的な民族音楽を幅広く吸収しながら、それらを西欧音楽の手法で処理していった作曲家だったが、そのグリエールが故郷ウクライナからポーランドにかけての民族音楽の採集を1920年頃に行っている。それは1921年(1説には27年)に「交響的絵画《サポローシュのコサック》」としてまとめられ、まもなくオデッサで初演されている。
 バレエ組曲「タラス・ブーリバ」は、それから更に四半世紀後、グリエールが76歳の晩年にまとめ上げられた。最後の場面の音楽には、旧作の「交響的絵画」の旋律がそのまま転用されている。この第9曲「サポローシュの人々の踊り」が全曲中で、最も素朴に聞こえ、第1弾のアルバムのコレッサの作品を想起させるのは偶然ではないだろう。
 それに比較して第1曲から第8曲には、グリエールがウクライナ音楽を〈洗練させていった〉過程ともいうべきものがはっきりと聴き取れる。第2曲や第5曲の広々とした高原を思わせる旋律にも、西欧的なくっきりとした枠組みが、拍節感の中から聞こえてくる。極めて折衷的な安定を感じさせる作品だが、それでも、グリエール晩年の故郷を思う心情をよく伝える美しい曲ではある。1952年1月26日にモスクワに於て、作曲者自身の指揮モスクワ放送交響楽団によって初演され、その後、死のわずか1ヵ月前の1956年5月にもオデッサで演奏されている。
 なお「タラス・ブーリバ」は15世紀に実在し、その勇気ある行動で讃えられたコサックの隊長の名前。この人物を主人公にしたゴーゴリの小説がよく知られ、そこから発想を得た作曲家ヤナーチェクの管弦楽曲「タラス・ブーリバ」が有名。同名のグリエールの作品はバレエ組曲で、別記の全9曲で構成されている。

■スタンコヴィチと、その作品
 スタンコヴィチは1942年にウクライナの南西部、カルパチア山脈に位置するスヴァリアヴァに生まれ、キエフ音楽院に進んだ。1970年に卒業したスタンコヴィチは、世代的にはグリエールと大きく離れているが、グリエールとは、ボリス・リャトキンスキーという弟子を挟んでの孫弟子の関係にあたるようだ。
 スタンコヴィチが音楽を学んだ時代は、ソビエト連邦の一員としてのウクライナ共和国として、彼も社会主義リアリズムの影響下にあったが、その中にあって、スタンコヴィチは自身の独自のスタイルを確立し、ウクライナの若い世代の作曲家として、指導的立場を得るに至ったという。
 スタンコヴィチは1970年代の半ば頃から既に、注目を浴びた個性的作品をいくつか発表している。中でも、ウクライナの民間伝承に取材した「民族オペラ《シダの花》」(1978)が多くの反響を呼び、その後は民族バレエの分野に進出して、キエフ歌劇場を主な舞台として次々に話題作を発表した。
 このCDに収められた「バレエ組曲《ラスプーチン》」は1989年に舞台上演された後に組曲としてまとめられた。
 民族オペラやバレエというジャンルは、かつてグリエールがたどった道筋でもある。このあたりに、彼らの音楽観や芸術としての表現手段の傾向が見えてくるように思う。と同時に、スタンコヴィチの出身が、カルパチア山脈地方であることにも注目したい。
 このポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアといった国々と接するウクライナの高地は、前回のアルバムで紹介された〈ウクライナ音楽の父〉コレッサを生んだ地でもあり、おそらく、音楽を生む土壌として、今後、ボヘミアやハンガリーとの関係においても、多くの興味深い発見があると思われる地域だ。彼らウクライナの音楽を、ロシア音楽の範疇に封じ込めるような愚は犯してはならないだろう。「ラスプーチン」の第2曲で、オーケストラの団員が唱和する力強いギャロップのリズムや、それに続く第3曲の、マーラーを思わせるような弦楽の美しいアダージョを聴きながら、そう感じた。

■演奏者について
●指揮者ホバート・アールについて
 このウクライナの作曲家の作品をウクライナのオーケストラが演奏したCDの指揮者が、カリブ海に臨む南米ベネズエラの首都カラカス出身と聞くと、意外に思われるかも知れない。しかも、このホバート・アールは、アメリカの名門プリンストン大学に在学中に〈イシドール&ヘレン・ザックス記念賞〉を音楽の分野で受賞し、1983年に主席で卒業したという経歴を持っている。同年ヨーロッパにわたり、ウィーン音楽アカデミーにおいて指揮法を学び、ザルツブルクではフェルディナンド・ライトナー、タングルウッドではバーンスタインや小沢征爾に師事している。
 1987年には自らのアンサンブルを創設し、ニューヨークやヨーロッパ各地で様々な作曲家の初演や、今日ではほとんど埋もれてしまっている19世紀末から今世紀初頭にかけて作られた作品の紹介といった意欲的な仕事に取り組んでいる。
 ホバート・アールとオデッサ・フィルハーモニーとの協演は1991年に始まった。翌年には音楽監督に就任し、オデッサ・フィルを率いての世界演奏旅行も行っている。
 1994年3月16日、ホバート・アールは外国人として初めて、〈ウクライナ優秀芸術家〉の称号を与えられた。
 前作のアルバムで、アールは音楽の骨格の掴み方の的確さ、シャープで知的な指揮ぶりを披露したが、今回のグリエール作品では、作品の持つ西欧的な構成感への視点が的確で、それをベースに民族的旋律が表層を彩っているといった作品の構造が、明瞭に、響きとして達成されている。郷愁にあふれた旋律での伸びやかな歌心も、弦楽の透明感の中で達成されている。スタンコヴィチの作品では、その現代性と郷愁を持った抒情が、切れのよいバトン・テクニックでクリアに表現されていると感じられる。この指揮者の西欧音楽的な要素に対する的確な反応ぶりからは、個性派の若手指揮者として、いずれはスタンダードなクラシック音楽のレパートリーも聴いてみたいという興味が湧いてくる。

●オデッサ・フィルハーモニー管弦楽団
 ウクライナ共和国は、名ヴァイオリニストのダヴィード・オイストラッフ、ナタン・ミルシテイン、ミッシャ・エルマン、レオニード・コーガン、そしてチェロのピアティゴルスキーらを生んだ国としても知られている。
 ウクライナが多くの優れた弦楽奏者を輩出していることには驚かされるが、オデッサ・フィルハーモニーは、そうした〈弦楽〉の国ウクライナの代表的オーケストラとなるべく1936年に創立され、ラクリンやテミルカーノフ、ザンデルリンクといった指揮者たちと活動してきた。
 1991年にホバート・アールが主席指揮者に任命され、モスクワ、サンクト・ペテルブルク、キエフ、リボフなどで大々的な成功をおさめ、翌1992年、アールは音楽監督に就任した。同年のブレゲンツの春の音楽祭やウィーン楽友協会においては、最高の賛辞をもって迎えられ、1993年にはアメリカ合衆国に演奏旅行に出かけ、各地で熱狂的な歓迎を受けて、さらに翌年はドイツのケルン、イギリスのロンドンをまわり大成功をおさめた。
 数多くの弦楽奏者を生んだ国のオーケストラらしく、弦楽アンサンブルの美しさはかなりの水準だ。もともと音楽性の豊かな集団のようなので、アールのような良い指導者のもとでの、これからの発展が期待できる。
         
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ウクライナ共和国オデッサ・フィルのCDを聴く(1)

2009年11月01日 15時11分32秒 | ライナーノート(日本クラウン編)




 以下は、ウクライナの首都オデッサにある「オデッサ・フィルハーモニー管弦楽団」の初CDのライナー・ノートです。英ASVレーベルの国内盤(日本クラウン)で、1997年9月24日に執筆を終えたものです。日本語文献のまったくない作曲家の作品であり、演奏しているオーケストラも、指揮者も、同じくまったく情報がなかったので、かなり苦労しましたが、興味深い仕事でした。翌月には、同シリーズの第2弾のライナーノートも執筆しました。これは次回の当ブログに掲載予定です。




■初登場のオデッサ・フィルを聴く
 個性的で意欲的なアルバムを続々と発表するASVレーベルから、また初登場作品のアルバムが発売された。先頃、旧ソビエト連邦の崩壊によって、長期間にわたったロシア支配から自立したウクライナ共和国を代表する作曲家の作品の紹介だ。
 もちろん世界初録音の作品だが、日本ではこのふたりの作曲家そのものが初登場ではないだろうか? 演奏しているウクライナを代表するオーケストラ、オデッサ・フィルハーモニーも世界のCD市場にとっては、おそらく当アルバムがデビュー盤であり、指揮のホバート・アールも、これがデビュー盤というわけで、初物づくしもここに極まれり、といったところだ。
 だが、このアルバムは、ただ単に「めずらしい」のひと言で終わってしまうCDではない。これはASVレーベルで順次系統立てて発売されていく〈ウクライナ音楽シリーズ〉の第1弾であり、現在もASVからのリリースが続いている〈アルメニア・フィル・シリーズ〉と同様に、新しい音楽体験をさせてくれるものに育って行くに違いない。

■ウクライナのリボフ、そしてオデッサ
 ウクライナ共和国は西はポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアに接し、南は黒海に面している。当アルバムに収められた作品の二人の作曲家コレッサとスコリークは共にリボフ州に生まれた。州都リボフはオーケストラもオペラ・ハウスもあり、優れた音楽学校もある音楽都市で、この西の国境に近いリボフからは、共和国の首都キエフや黒海に面したオデッサまでよりも、ハンガリーのブダペストの方が近いくらいだと言えば、この街のおよその位置関係がお分かりいただけると思う。
 一方、黒海沿岸で最も有名な都市のひとつ、オデッサは、めざましい文化の歴史的舞台であったことで広く知られている。オデッサの街が遺産として受け継いでいるのは、ウクライナとロシアの文化だけではなく、ユダヤ、ギリシア、トルコ、フランス、イタリアの文化でもあるという。
 19世紀の終わり、オデッサは、数多くの優秀な音楽家たちが訪れた文化の一大中心地だった。当時、プーシキンやゴーゴリをはじめとする文学者も、この地に居を定めていたが、ヴァイオリンの名教授ピョートル・ストリアルスキ、彼の弟子であったダヴィード・オイストラッフやナタン・ミルシテインなどは、オデッサに生まれ育った音楽家たちだった。ミッシャ・エルマンもオデッサ音楽院の出身だ。正に一時期オデッサは、名ヴァイオリニストの宝庫だった。
 そして、ウクライナ共和国中部のドニエプロペテロフスクの出身者には、ヴァイオリンのレオニード・コーガン、チェロのピアティゴルスキーなどがいる。ウクライナが多くの優れた弦楽奏者を輩出していることには驚かされる。このCDシリーズは、そうした〈弦楽〉の国、ウクライナの現在を世界に伝えるものと言えるだろう。
 (筆者注:地名表記はロシア名が定着しているのでそれに従ったが、例えば「リボフ」をウクライナ人は「リヴィーフ」と呼ぶ。英字綴りも最近「l'vov」から「liviv」に訂正されているようなので、いずれは日本でも表記の見直しが行われるかも知れない。)

■ミコラ・コレッサと、その作品
 ミコラ・コレッサは、1903年にウクライナ、リボフ州のサンボルで生まれた。〈ウクライナ音楽の父〉とも讃えられる作曲家、指揮者で、リボフの高等音楽院教授として、後進の指導にも尽力した。1993年12月6日には、90歳の誕生日を祝う式典が盛大に行われた。
 コレッサは、リボフで学んだ後、チェコのプラハ音楽院でヴィテスラフ・ノヴァークに作曲法を学んだ。帰国後は、作曲活動の他、リボフ交響楽団、リボフ・オペラとバレエのための劇場の指揮者を歴任。リボフに指揮者養成所も創設した。コレッサの多くの教え子のなかには、キエフ・オペラ座の芸術監督を永年にわたって勤めた故ステファン・トゥルチャクや、当CDの後半の作品の作曲家ミロスラフ・スコリークらがいる。
 コレッサの音楽のスタイルは、バルトークや今世紀前半のフランスの作曲家たちから影響を受けた作曲技法に、コレッサ独自の特徴を結びつけたものとされている。

●「交響曲第1番」
 4楽章構成の作品で、その各々に作曲家自らがタイトルをつけている(別項参照)。
 各楽章に描写的なタイトルが付けられているのは、当時のソ連邦共産党中央委員会の命令(スターリン時代の1948年に発布)に従ったからだと、作曲者自身が語っている。中央委の命令は、「作曲家、作家、並びに他のあらゆる芸術家は、ソビエトの一般民衆に理解しやすい作品を提供すべきであり、作品の内容をよく伝えるタイトルをつけることで、より一層作品を身近なものにしなければならない」というものだった。
 「交響曲第1番」にコレッサがつけたタイトルは、創作時に予め入っていたわけではなく、当時の政治状況が反映した結果ではあるが、各楽章の雰囲気にはよく似合ったものとなっている。なお、第2楽章の「オプリスキ」とはカルパチアの山々に出没する山賊で、彼等は金持ちから金品を奪い、貧者に分け与えた。コレッサが「民衆の仇を討つ者」のなかで表現したものは、スターリン時代の共産党中央委員会によって、肯定的に見られたに違いない。
 この作品は、1950年、リボフ交響楽団によって作曲家の指揮のもとに初演された。

■ミロスラフ・スコリークと、その作品
 ミロスラフ・スコリークは1938年、リボフ州に生まれた。師事したコレッサと同じく、彼もまた、作曲家にして指揮者、教育家として活躍し、現在もリボフの高等音楽院で教授を勤めるほか、キエフ音楽院でも教鞭をとっている。
 スコリークの場合は、コレッサがプラハで学んだのとは異なり、1960年代にモスクワ音楽院で学んでいるが、それが、世代の相違以上に二人の作風を色分けているようだ。スコリークの音楽の特徴は、ウクライナ土着の音楽を基礎にしながらも、それを20世紀の様々な作曲技法との結合で再構成するところから生まれてきているようだ。
 いずれにしても、コレッサとスコリークに共通するのは、東欧諸国との国境に沿ったカルパチア山脈に接するリボフの風土へのこだわりだ。これは、同じウクライナ国内でも、中央のキエフや、黒海を望むオデッサとは相当に異なる環境だろうと思われるが、彼の地のこと故、我々日本人は地図の上で想像するしかない。少なくとも、単純にこのアルバムの演奏を同国人の演奏と即断することは、慎みたい。

●「ハッサル三部作」
 この作品は、セルゲイ・パラザノフ監督の映画「忘れられた祖先の亡霊たち」(原作はミコラ・コツビンスキーの小説)のために、1965年に作曲されたオーケストラ作品をもとにしている。演奏会用の作品に改作するにあたって、三つの場面に再構成された。
 第1曲「幼年時代」は、ふたりの子供たち、イヴァンとマリーシュカの無邪気な遊びを描いている。第2曲「イヴァンとマリーシュカ」は、ふたりの間で育まれる愛の感動的なシーンに相応しいもの。第3曲「イヴァンの死」では、マリーシュカの死後、感覚と意識のすべてを失っていくイヴァンのドラマが展開される。
 題名の「ハッサル」とは、カルパチアの山中で暮す人々のことで、この作品は、このハッサルに伝わる特徴あるメロディやハーモニー、そしてリズムなどを十分に活用して作曲されているという。

●「管弦楽のための《カルパチア協奏曲》」
 この作品も、カルパチア山脈地域の民謡の音楽的要素と現代音楽のテクニックとが融合された作品であり、スコリークの作品のなかで最も知られたもの。1972年に書かれている。
 単一楽章からなるこの曲は、たがいに好対照をなす四つの部分で構成され、スコリークはそのひとつひとつのなかで、カルパチア山麓の色彩豊かな変化に富む風景を、音によって表現している。第2曲と第4曲では、オーケストラの各パートが、民俗楽器の雰囲気を表現している。また、楽譜には、ツィンバロン(ウクライナ、カルパチア地方で最もポピュラーな楽器)の使用が明記されてもいる。

■指揮者ホバート・アールについて
 このウクライナの作曲家の作品をウクライナのオーケストラが演奏したCDの指揮者が、カリブ海に臨む南米ベネズエラの首都カラカス出身と聞くと、意外に思われるかも知れない。しかも、このホバート・アールは、アメリカの名門プリンストン大学に在学中に〈イシドール&ヘレン・ザックス記念賞〉を音楽の分野で受賞し、1983年に主席で卒業したという経歴を持っている。同年ヨーロッパにわたり、ウィーン音楽アカデミーにおいて指揮法を学び、ザルツブルクではフェルディナンド・ライトナー、タングルウッドではバーンスタインや小沢征爾に師事している。
 1987年には自らのアンサンブルを創設し、ニューヨークやヨーロッパ各地で様々な作曲家の初演や、今日ではほとんど埋もれてしまっている19世紀末から今世紀初頭にかけて作られた作品の紹介といった意欲的な仕事に取り組んでいる。
 ホバート・アールとオデッサ・フィルハーモニーとの協演は1991年に始まった。翌年には音楽監督に就任し、オデッサ・フィルを率いての世界演奏旅行も行っている。
 1994年3月16日、ホバート・アールは外国人として初めて、〈ウクライナ優秀芸術家〉の称号を与えられた。
 このCDの演奏を聴く限り、アールは音楽の骨格の掴み方がかなり的確で、シャープで知的な指揮ぶりが感じられる。音色やリズムの変化に敏感に反応しながら、全体をよくまとめているので、初めて聴く作品ながら、充分に納得できる演奏を達成している。コレッサの「交響曲第1番」の第1楽章では、フランス近代音楽の、例えばショーソンを思わせるような響きがゆるやかに拡散してゆき、スコリークの「協奏曲」では逆に、様々な音要素が散発しながら収束していく。作風の描き分けや全体の見通しが確立している指揮ぶりだ。個性派の若手指揮者として、いずれはスタンダードなレパートリーも聴いてみたいものだ。

■オデッサ・フィルハーモニー管弦楽団
 オデッサ・フィルハーモニーは1936年に創立され、ラクリンやテミルカーノフ、ザンデルリンクといった指揮者たちと活動してきた。共演したソリストには、ダヴィッド・オイストラッフ、イーゴリ・オイストラッフ、エミール・ギレリス、エフゲニ・キーシン、ワジム・レーピンなどがいる。
 ホバート・アールは、1991年に、オデッサ・フィルハーモニーの主席指揮者に任命され、モスクワ、サンクト・ペテルブルク、キエフ、リボフなどの各地で大々的な成功をおさめた。
 1992年、アールは、新たにオデッサ・フィルハーモニーの音楽監督に就任し、同年、ブレゲンツの春の音楽祭やウィーン楽友協会においては、最高の賛辞をもって迎えられた。1993年にはアメリカ合衆国に演奏旅行に出かけ、各地で熱狂的な歓迎を受けて、さらに翌年は、ドイツのケルン、イギリスのロンドンをまわり大成功をおさめた。1995年1月には、オーストラリアのパースの音楽祭でも絶大な評価を与えられた。
 数多くの弦楽奏者を生んだ国のオーケストラらしく、弦楽アンサンブルの美しさはかなりの水準だ。金管セクションの中東的な薄い響きは、このオーケストラがレパートリーを広げる上で障害となっているが、もともと音楽性の豊かな集団のようなので、アールのような良い指導者のもとでの、これからの発展が期待できる。




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