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ロジェストヴェンスキー/レニングラードpo.がロンドンの聴衆を熱気と興奮へ導いた1970年9月の記録

2010年07月30日 10時44分51秒 | BBC-RADIOクラシックス
 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第2期20点の4枚目です。



【日本盤規格番号】CRCB-6044
【曲目】チャイコフスキー:交響曲第4番
            :ヴァイオリン協奏曲
【演奏】ロジェストヴェンスキー指揮レニングラード・フィル
    ミハイル・ワイマン(ヴァイオリン)
【録音日】1970年9月9日、1970年9月10日


■このCDの演奏についてのメモ
 このCDには、やがて1978年になってロンドンのBBC交響楽団の首席指揮者として迎えられるロシア(当時はソ連)の名指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが、それに先立つ7年前の1971年に、彼の国を代表するオーケストラ、レニングラード・フィルを引き連れて、ロンドンのプロムナード・コンサート(プロムス)に招待されて演奏した時のライヴ録音が収録されている。二晩連続の演奏会から、1曲ずつ選ばれているが、どちらも、会場となったロイヤル・アルバート・ホールの広い会場をゆるがす大音響が力強くとどろきわたる熱演だ。
 曲目が彼らの十八番のチャイコフスキーだけに、委細かまわずといった骨太さで大きな構えの音楽を堂々と披露しているのが、まず何よりのライヴならではの魅力だ。弦楽合奏の底力の威力は、このオーケストラ屈指のもので、その遠慮なく前へ前へとせり出してくる音楽が、イギリスの聴衆を沸かせている。
 「交響曲」では第1楽章が必ずしもこの曲の立体的な構造を十全に描き出したものとは言えないが、コーダ直前からの盛り上げには、有無を言わせないものがある。そして、第2楽章に至って、このオーケストラがただ者ではないことが本当に実感できる。木管の吹く旋律が直截に響き、余情を排してグイグイと迫る。弦楽の合奏力の見事さは、この大音量が荒々しさではなく艶やかさに裏付けられていることを思い知らされる。金管のタフさはもちろんだ。第3楽章での弦のピツィカートも、とてつもなく力強い。第4楽章の開始とともに、猛然としたスピードで怒涛のように音楽が前進する。確信に満ちた演奏は、彼らの自国の音楽伝統を高らかに歌い上げる大デモンストレーションとなって、ホール全体を占拠してしまう。これは、実にトンデモナイことが起こった晩の記録だ。
 それにしても、イギリスの聴衆の反応の素直さには感心する。最後の1音が鳴り響くなかから、もう待ち切れないとばかりに拍手が沸き起こり、場内はまるでサッカー会場のような騒ぎだ。こういう演奏を、したり顔しながらプロっぽくディテールについて語り出したならば、その場で蹴飛ばされてしまうだろう。
 次の「ヴァイオリン協奏曲」は、1926年オデッサ生まれのミハイル・ワイマンを独奏者に立てての、翌日の演奏。スピーカーの前に陣取って聴くしかない我々にとって、しかしこれは、「交響曲」の興奮をそのまま持続させてくれる、うれしい余韻だ。オーケストラは翌日になっても、疲れも見せず快調で、彼らの得意満面な顔が目に浮ぶようだ。2曲を通して聴くと、心地好い疲れでくたくたになり、充実感が残るうれしいCDだ。やはりチャイコフスキーを聴くのには体力と気力が必要だ、と思わず苦笑いしてしまう。(1996.1.28 執筆)


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ディーリアス作品の味わいを正当に表現したグローヴズ指揮「アパラチア」の、なだらかな演奏の魅力、他

2010年07月29日 10時33分59秒 | BBC-RADIOクラシックス


 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第2期20点の3枚目です。



【日本盤規格番号】CRCB-6043
【曲目】ディーリアス:高い丘の歌
          :アパラチア
          :河の上の夏の夜
【演奏】ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団、BBCシンガーズ他
    グローヴズ指揮ロンドン・フィル、
      BBC合唱協会、ゴールドスミス合唱ユニオン他、
      ジョン・ノーベル(バリトン)
プリッチャ―ド指揮BBC交響楽団
【録音日】1980年12月10日、1967年8月30日、1984年4月18日

■このCDの演奏についてのメモ
 ディーリアスの音楽は、音楽の劇性を構築的に積み上げて行くことで成り立ってきたドイツ・オーストリア系の音楽に慣れた耳で聴くと、とらえ所の不明瞭な音楽に聞こえてしまうことがある。ディーリアスの描く世界は、ゴシック建築的にそびえ建つものではなく、パノラマ的に横へ横へと広がってゆく世界だ。加えて、ディーリアスの作品の風景画的描写の私的な趣きの穏やかなまなざしが、なおさらに、ディーリアスの世界を、なかなかには眼前に迫ってこないものにしている。ディーリアスの音楽は、心穏やかに耳を傾ける者に静かに沁みこんでくるような世界だが、ひとたびその中に入り込むと、急に開ける地平はとても広く果てしがない。
 イギリス人のディーリアス好きは有名だが、それは海洋国イギリスの聴衆の心に触れるものがあるからかも知れないし、日本にディーリアスのファンが多いのも、同じ理由かも知れない。ディーリアスの世界を表現するには、彼の控え目な語法への深い共感が、なによりも大切だが、その点で、このCDに収められた3曲ではグローヴズの「アパラチア」が傑出した演奏を聴かせる。グローヴズの描くアパラチアはのどかな牧歌的気分の表出があふれ、華いだ曲想でも、なだらかな起伏を決して忘れない。音彩は豊かでカラフルな世界が広々と立ち現われるが、ぎらついたところがない。テンポもせきこまず、落着いた流れを保っている。濁りやベタつきのない理想的なディーリアスの演奏だ。
 イギリス人の専売特許のようなディーリアスを、録音当時BBC交響楽団の首席指揮者だったとは言え、ロシアの指揮者ロジェストヴェンスキーが指揮しているのを不思議に思われる方がいるかも知れないが、ここで演奏されている「高い丘の歌」はノルウェーの作曲家グリーグの影響を受けたものとされ、しかもロジェストヴェンスキーは1974年から78年まで、スウェーデンのストックホルム・フィルの指揮者をしていたのだから、この北欧の風景の印象で書かれたと言われる作品への共感にはそれなりのものがあるだろう。ただ、グローヴズのようななだらかな音楽ではなく、もう少しメリハリのくっきりした仕上りになっているところが、いかにもこのロシアの才人指揮者らしい。
 「河の上の夏の夜」のプリッチャードも好演だ。イギリスのオーケストラは一般的に木管の澄んだ響き合いが美しいが、ここでもそれが十分に生かされている。(1996.1.28 執筆)



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プリッチャード、ベートーヴェン第7の名演。シュナーベル仕込みの女流、フォーゲルとの共演も注目。

2010年07月27日 10時23分12秒 | BBC-RADIOクラシックス



 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第2期20点の2枚目です。



【日本盤規格番号】CRCB-6042
【曲目】ベートーヴェン:レオノーレ序曲第1番
           :交響曲第7番
           :合唱幻想曲
【演奏】ジョン・プリッチャ―ド指揮BBC交響楽団
    BBC交響合唱団、BBCシンガーズ
エディット・フォーゲル(ピアノ)
【録音日】1985年10月6日、1985年10月4日

■このCDの演奏についてのメモ
 ジョン・プリッチャードは、その初来日が人気指揮者バルビローリの急死による代役だったということもあって、日本での評価は決して高くなく、むしろ穏健な伴奏指揮者といったイメージで捉えられているふしもある。だが、イギリスでの評価は高く、その人気も戦後のイギリス指揮者の中では群を抜いていたという。
 その実力の一端は既に、このBBCのシリーズ中のブラームス「交響曲第2番」やエルガーの「交響曲第1番」で聴くことができるが、今回のベートーヴェンの「交響曲第7番」も、期待通りの名演を聴かせる。むしろ期待以上といってよい。前回発売されたブラームスなどでは巨大なロイヤル・アルバート・ホールでの演奏のために、オーケストラの楽員が互いに音を聴き合うといったアンサンブルの緻密さでは若干のマイナスがあり、プリッチャードの音楽の、抑揚の大きな呼吸の自然さ、力強さの手応えが、ともすれば、どろどろした残響のなかに埋没しかねなかった。
 今回のベートーヴェンの交響曲は、その点、BBCのスタジオでの放送用のセッションのため、各楽器のディテールもかなり明瞭でバランスもよいので、プリッチャードの大きな身振りの深々とした息づかいが、かなりかっちりとしたフレームを土台にした上での天性の即興性にあることを認識させる。管楽器の牽引力をバランス良く配した弦楽のうねりが、緊張の続く力強さを最後まで維持しているスケールの大きな演奏だ。最近の古楽的アプローチからは聴かれない、ベートーヴェンの劇性に全幅の信頼を置いた、自信あふれる音楽がうれしい。
 1921年にロンドンに生まれたプリッチャードは、指揮者としてはオペラ経験の長い人だが、それが彼の即興性に大きく寄与しているのかも知れない。晩年はこのBBC交響楽団の首席指揮者として1982年から89年の死の年まで活躍した。「交響曲第7番」は彼らの名コンビぶりがイギリスの音楽ファンを魅了していた時期の録音。前後に収められた「レオノーレ序曲第1番」と、ピアノと合唱を伴う佳品「合唱幻想曲」は、同じ時期のコンサート・ライヴからのものだ。ここでピアノを弾いているエディット・フォーゲルは戦前にウィーンでデビューしたオーストリア出身の女性ピアニスト。1912年生まれ。戦前からイギリスに移り住んで演奏活動を続けたが、戦後は専ら後進の指導に尽くした。名ピアニストのシュナーベル仕込みのベートーヴェン、ブラームス、シューベルトなどの演奏が高く評価されていたという。(1996.1.28 執筆)



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シベリウス:交響詩(音詩)「タピオラ」の名盤

2010年07月23日 10時54分39秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第47回」です。


◎シベリウス:「タピオラ」
 シベリウスの内部で次第に深められていった内省的傾向の、頂点とも言うべき傑作で、題名の〈タピオラ〉とは北欧神話〈カレワラ〉中の、森の神の領土を意味している。シベリウスはそれまでにいくつもカレワラ伝説に材をとった英雄譚などを交響詩化しているが、自身の内面へと自己の感性を深く下ろしていったシベリウスが、ここに至って大自然の象徴としての〈森〉そのものを主題として作曲してしまったということだ。
 マゼール/ウィーン・フィル盤は、そうしたシベリウスの心理的深みへと鋭く分け入った緻密で冷悧な演奏で、そこに近代人の閉塞的状況からの脱出口を見いだそうとする、感動的な演奏だ。これはマゼール/ウィーン・フィルにとっても「シベリウス・交響曲全集」の一連の録音で、最後に収録された曲だが、彼等の新しいシベリウス表現の最後を飾るにふさわしい演奏だ。
 カラヤン/ベルリン・フィルによる一九六四年盤も表現意欲の旺盛なアプローチで、この複雑に絡まり合う音の襞(ひだ)を丹念に追った名人芸的演奏。カラヤンは今世紀の音楽に対して時折、真摯な問題意識の発露を聴かせるが、それが、ここでもはっきりと聴きとれる。カラヤンが現代の病んだ抒情感覚に抱いていた危機意識について、気付かせる演奏だ。
 それらに比べるとベルグルンド/フィルハーモニア管盤は、実になだらかで聴きやすい叙景詩的表現で、北欧風の音彩の表出も的確な、親しみやすい演奏だ。これは、実に美しい風景画の世界だ。もともと、この曲は〈シベリウス管弦楽曲集〉を録音する時に避ける指揮者も多い難曲だが、ベルグルンドは幾度も録音している。それだけに細部まで確信にあふれた堂々たる表現で、少しも迷うところがない。一方の名演だ。フィルハーモニア管の機能的な優秀さに負うところも大きいだろう。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 自分自身の一昔前の原稿を読み返して、思わず「う~ん」と唸ってしまいました。7月13日の当ブログ「シベリウス:交響曲第2番」と合わせてお読み戴きたいと思っています。
 シベリウスの音楽については、まだ一般的な意味での20世紀の西洋音楽史上での位置づけが出来ていないわけですが、私自身も、まだ揺れています。ロマン派時代に肥大していった「過剰な自意識」が、マーラーを頂点として終息と整理に向かって言ったことは間違いないと思っていますが、シベリウスの音楽をその文脈に組み込んでしまうと、おそらくシベリウスの本質から離れてしまうのです。
 しかし、シベリウスが紛れもなく20世紀という自意識の芸術の大きなうねりのなかに居たことは確かなことなのです。この不思議な曲については、まだ聴きたい演奏、感じたい感覚、考えたいことが山ほどあります。
 



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V=ウイリアムズの2交響曲を真摯に指揮しているサージェントとストコフスキーのライヴ録音が伝えるもの

2010年07月20日 10時32分12秒 | BBC-RADIOクラシックス



 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第2期20点の1枚目です。



【日本盤規格番号】CRCB-6041
【曲目】ヴォーン=ウイリアムズ:交響曲第4番
               :交響曲第8番
【演奏】サージェント指揮BBC交響楽団
    ストコフスキー指揮BBC交響楽団

【録音日】1963年8月16日、1964年9月15日

■このCDの演奏についてのメモ
 イギリスを代表する交響曲作家、ヴォーン=ウィリアムズの交響曲を2曲収めたこのCDは、どちらも有名なロンドンのプロムナード・コンサート(プロムス)でのライヴ録音で、指揮者は4番がサージェント、8番がストコフスキーと異なるが、いずれもプロムスのメイン・オーケストラ、BBC交響楽団による演奏だ。指揮を担当している二人は、いずれもイギリス出身で、その後ロンドンとアメリカのフィラデルフィアと、活躍の場こそ異なるが、第1次、第2次、二つの戦争に挟まれた暗い時代を通過して、それぞれの地で、音楽的に優れていながら、分かりやすく親しみやすい演奏で大衆的人気を獲得してきたことでは共通する。その二人が、同じ時代を生き抜いてきたイギリスを代表する交響曲作曲家の作品を演奏しているわけだから、そこに同朋としての世代的共感があると考えるのは、自然なことだろう。
 「第4番」は、正にヨーロッパの不穏な時代の真っ只中で書かれた作品。サージェントの指揮が、いつになく鋭い咆哮で噛み付くように、時代の暗部を抉り出して開始される第1楽章。「サージェントにはイギリス紳士の折り目正しさがある」といった過去に貼られたレッテルで先入観を持って聴くと、度胆を抜かれる。終楽章のひた向きな厳しさからは、彼らに時代が落としていったものの重さが伝わってくる。
 一方の「第8番」は戦後の平和の中で書かれた作品だが、第1楽章から、暗くうごめくものと優しいなぐさめとが慌ただしく交差する曲想を、ストコフスキーが入念に描く。楽章を追ってカラフルで変化に富んだ音楽が展開され、ストコフスキーの語り口の巧さが、ひときわ鮮やかになるが、響きの隅々にまで慈しみにあふれた温かさが絶えず最優先して聴かれるのは、ストコフスキーとしてはめずらしい。作品に対する共感の深さが、そうさせるのだろう。
 この二つの演奏の録音年代は63年、64年と近接している。この時期は、日本で東京オリンピックが行なわれ、敗戦国である日本が奇跡的な経済復興を成し遂げたことを世界に喧伝する直前にあたる。世界は第2次大戦の傷を癒し、平和の中で高度成長へと突き進んでいた。そうした時期の録音であるということは、心にとめておいてよい。レコードの発売を念頭に置いていなかった二つの演奏のライヴ録音から、こうした過去の美しい〈ある日〉が切り取られて残ったことを喜びたい。(1996.1.28 執筆)


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ティペットのオラトリオ『我らが時代の子』はロジェストヴェンスキーによって「時代の子」として定着した?

2010年07月16日 13時10分38秒 | BBC-RADIOクラシックス

 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第1期30点の30枚目です。次回からは第2期20点のライナーノートを順次掲載します。


【日本盤規格番号】CRCB-6040
【曲目】ティペット:オラトリオ「我らが時代の子」
【演奏】ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団、BBC交響合唱団
    ジル・ゴメス(ソプラノ)
    ヘレン・ワッツ(コントラルト)
    ケネス・ウーラム(テノール)
    ジョン・シャーリー=カ―ク(バリトン)
【録音日】1980年10月15日

■このCDの演奏についてのメモ
 イギリス作曲界の長老、マイケル・ティペットの代表作「オラトリオ《我らが時代の子》」は、この作品そのものが、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害への抗議を背景にした〈時代の落とし子〉的作品だ。第2次世界大戦が勃発する直前の悲劇的エピソードに霊感を受けたかのように、作曲者自らが台本の執筆をして書き上げられたこの作品は、平和を希求するティペットの心情が切々と伝わってくる作品で、これまでは、1957年に英デッカに録音されたジョン・プリッチャード指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル他による演奏がよく知られていた。
 今回CDで初めて紹介されたこの演奏は、旧ソ連出身の名指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーがBBC交響楽団の首席指揮者に就任していた時期の録音。同交響楽団の創立50周年記念の演奏会のひとつとして行われたコンサートのライヴ収録盤だ。
 これまで知られていたプリッチャード盤は、録音された年代や当時のプリッチャード自身の年齢的若さもあってか、ストレートに怒りを叩きつけるような演奏だが、このロジェストヴェンスキー盤では、落ち着いた、陰影の細やかなニュアンスの間から、怒りや慟哭が悲しみとともに滲みでてくるといった趣きで、この濃密な音楽の気配からは、この曲が〈時代の落とし子〉にとどまらずに、平和を希求するすべての人のための使命を帯びて、普遍性を獲得しつつあることが感じられる。
 ティペットのラディカルな作品も、歳月を経て、〈怒り〉の音楽から〈祈り〉の音楽へと変貌してきたのだろう。この作品が将来、ひとつの時代の古典としてレパートリーに定着するとしたならば、このロジェストヴェンスキー盤の役割は大きいに違いない。(1995.9.16 執筆)

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ブリテン『シンフォニア・ダ・レクイエム』(鎮魂交響曲)のロジェストヴェンスキー/BBC響による熱演

2010年07月15日 11時12分56秒 | BBC-RADIOクラシックス


 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第1期30点の29枚目です。


【日本盤規格番号】CRCB-6039
【曲目】ブリッジ:管弦楽のための2つの詩
    ブリテン:交響組曲「グロリアーナ」
        :パッサカリア(「ピーター・グライムズ」より)
        :シンフォニア・ダ・レクイエム
    アルヴォ・ペルト:カントゥス――ブリテンの思い出に
【演奏】ノーマン・デル・マー指揮BBCノーザン交響楽団
    ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団
【録音日】1977年8月4日、1977年10月3日、1978年12月6日、
     1981年6月4日、1979年8月31日

■このCDの演奏についてのメモ
 今世紀のイギリスの偉大な作曲家のひとりであるベンジャミン・ブリテンの作品を中心に編成されたCD。
 冒頭にブリテンの師でもあるフランク・ブリッジの、洒落たウィットに富んだ作品を置き、ブリテンの作品を3曲挟んで、最後にブリテンの思い出に捧げられたアルヴォ・ペルトの現代作品を収めている。ペルトの作品は、当CDに収録された演奏がイギリスにおける初演。
 前半の2曲はノーマン・デル・マー指揮BBCノーザン交響楽団(現BBCフィルハーモニック管弦楽団)の演奏で、これは放送用の録音のようだが、後半のロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団による3曲は公開のコンサートのライヴ収録。ロジェストヴェンスキーの指揮で異常な緊張を孕んだBBC響の熱演による「シンフォニア・ダ・レクイエム」(鎮魂交響曲)が、このCDでは特に聴きもの。作曲者自身による指揮の名盤もあるこの名曲の演奏として、このロジェストヴェンスキー盤は貴重な名演奏のひとつとして残るだろう。
 旧ソ連の指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーは、1978年から82年まで、BBC交響楽団の首席指揮者だった。旧ソ連政府の横ヤリで、このポストを放棄させられ帰国するが、それまでの3年余に残されたこのオーケストラとの録音にも、この指揮者の明快で鋭い感性が息づいている。
 ノーマン・デル・マーは1919年に生まれたイギリスのホルン奏者、指揮者。王立音楽学校を卒業後、名指揮者トーマス・ビーチャムに見いだされ、ロイヤル・フィルのホルン奏者をしながら、やがて指揮者となった。夭折の天才ホルン奏者として有名なデニス・ブレインは親友だったという。BBCスコティッシュ交響楽団などで活躍し、後期ロマン派、特にリヒャルト・シュトラウスを得意としていたが、1994年には世を去った。(1995.9.15 執筆)



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シベリウス:「交響曲第2番」の名盤

2010年07月13日 11時29分47秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第46回」です。


◎シベリウス:交響曲第二番
 ロマン派的な傾向を強く残す第一番と、今世紀の交響曲としての大胆な試みに大きく踏み込んだ第三番との間にあって、第二番は、感情の振幅、心の動きの不連続な断絶の悲痛さといった現代的テーマへと踏み込んでいったシベリウス作品の、転換点として位置付けられるだろう。ここには、エモーショナルな高揚感の屈折がある。
 そうしたことを聴き手に充分に悟らせることに成功した先駆的演奏は、おそらく一九六〇年代に「交響曲全集」として完成したマゼール/ウィーンフィル盤だろう。壮麗なオケの響きを絶えず押しとどめながら内面の葛藤を抉り出すマゼールの演奏の異常な緊張は、発売当初は、この曲から北欧の自然や、作曲された時代の背景にあるフィンランド独立運動への熱い共感などを聴き取ろうとする人たちの反撥にもあったが、この演奏が持っている問題意識は、今日でも正当に理解されているとは言い難い。
 七〇年代半ばにC・デイヴィス/ボストン響で完成された全集盤の演奏は、各声部の響き合いの見通しのよさを更に推し進めたもので、その切り離された孤独な響きと重厚なボストン響の力強さの相乗作用に現代作曲家シベリウスの姿が重なり、感動的演奏となっている。
 こうした傾向の以前に一般的だった、ずっと率直な感情の高揚を描いた演奏としては、独特の粘りのあるフレージングを確保しつつ、全身で歌い上げたとも言えるほど情熱的なバルビローリ/ロイヤル・フィル盤は、オケも充分に鳴り切っている。
 ラトル/バーミンガム市響盤は、シベリウスの旋律を解体して、もう一度つなぎ直したといった、今日的で極めて斬新なスタイルの演奏だ。バルビローリのように一息に歌い上げるのではなく、主旋律は途切れ途切れだが、副旋律の効果的な鳴らし方や、内声部で刻むリズム音型の拍節感に敏感に反応する事で達成されたものだ。


【ブログへの再掲載に際しての付記】
 この、私の名盤選の旧稿再掲載は、予想通り、ドビュッシー、ラヴェルあたりから、「発売する側の事情に合わせて書いたものではなく、本質を突いたものだから、10年前の結論に書き加えることはほとんどない」と豪語したとおりにはならなくなってきました。
 その理由は簡単です。20世紀の音楽の真価が、創作する側の手を離れ、フリーハンドで演奏する側の手中に入ったのが、ほんの少し前のことだと言っても過言ではないからです。「同時代」の者の宿命です。私自身も、この10数年、様々な演奏を聴き続け、さらに、日本人の西洋音楽の受容史にまで関心と研究が及ぶにつれて、やっと見えてきたものがあるのが事実です。
 ですから、ほんとうは、渡辺暁雄/日本フィルの旧・新2種、ベルグルンドの歴代の録音、オスモ・ヴァンスカなどは、じっくりと聞き直さなくてはいけないのかもしれません。
 シベリウスについての見方は、私の中でまだ揺れています。その折り返し地点あたりで気付いたことをメモ書きしたものが、当ブログ2008年7月28日にupした「チェクナヴォリアンのシベリウス」です。ぜひ、ブログ内検索でお読みください。私のシベリウス観に修正を迫った演奏です。
 なお、文中のバルビローリ盤は、EMIの有名なハルレ管弦楽団との録音ではなく、リーダーズダイジェスト盤ですから、初CD化は米チェスキーだったと思います。リーダイはRCA系が絡んでいましたから、国内盤のLPレコードが70年代にビクターから発売されています。私が最初に聴いたのも、その盤ですが、後で、ボックス入りのリーダイ版「名曲集12枚組」をリサイクルショップで見つけました。中学生の頃には手が出なかったボックスなのです。 

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石黒浩己という作曲家・ピアニストのこと。

2010年07月07日 11時26分01秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)






 以下は、2年ほど前に、キングレコード系のレーベル「ベルウッド」から発売されたCD[規格番号:BZCS-3041]アルバムタイトル『うつろひ』のライナーノートです。まだ現役のCDですから、大型CD店の店頭、アマゾンなど通販サイトで購入できるCDですが、発売元のご了解をいただいて私のブログに掲載することにしました。このCDのライナーノートは、いわゆる西欧クラシック音楽がほとんどの私にとって、数少ない他ジャンルのCDへの執筆です。
 石黒浩己さんのピアノは、最近の言葉で言ういわゆる「癒しの音楽」の系統とみなされていますが、そのひと言で片づけられない独自の音楽語法のようなもの、響きの感覚があると思っています。以下の文中にもあるように、これからが、むしろ楽しみの人です。商業音楽に妥協し過ぎることなく、自分自身の感性にじっと耳を傾けられるような環境になるといいな、と、微力ながら応援しています。
 この2年前のアルバムが発表された後、彼は密かに「ソロ・アルバム」の制作を目論んでいたのですが、だいぶ形になりつつあると聞いています。音楽の真の魅力は、文中にもあるように、デジタル的なものではなく、不確かで不規則な動きを聴かせる「自然界」をどのようにして取り込むかという方向に向かっていますが、今、私が彼の音楽に対して言えることは、自分の中にある音楽に耳を傾けさせるような「何か」との対話の必要性です。彼の音楽に対する模索は、まだまだ続くでしょう。楽しみです。



■石黒浩己の「不思議な空間」の魅力

 私が石黒浩己のピアノをライヴで初めて聴いたのは、5年ほど前、東京・目黒の「ブルース・アレイ・ジャパン」でのことである。友人に誘われて行ったものだが、その時、はじめて聴いた彼の音楽の魅力をひとことで言えば、それは「循環していく音楽」、「ぐるりと一めぐりして元のところへ帰ってくる音楽」の魔力とでも言うものだろうか? そして演奏仲間たちに刺激され、姿を様々に変えて行く石黒のピアノの豊かな色彩――。その時、私は、石黒が「海」をテーマにした音楽をクリエイトしている「作曲するピアニスト」であること、そして、タイのプーケット島にあるリゾート・ホテルでの3年間の演奏活動の経験が、その底流にあることを知った。
 石黒浩己の音楽との衝撃的な出会いから、数年の歳月が流れてしまった。南国の海から帰ってきた石黒は、この日本という小さな国の音楽ビジネスの世界で、必ずしも恵まれていたとは言えないと思う。彼の音楽を愛する限られたファンに支えられて、石黒は弾き続けていた。そして彼の音楽はどんどん純化され、昇華され、磨ぎ澄まされていった。泉のごとく湧き続けていた、と言ってもいいだろう。
 石黒浩己の音楽は、とても気分がいい。乗せられ、広がり、前へ前へと、どんどん伸びてゆく。それは、彼の音楽が、孤独という絶対的な事実を知りながら、いつもそこから逃れるために、必死に仲間を求める音楽を演奏しているからだと思う。そしてそれは、「音楽」が人の心を揺さぶることを可能にする、たったひとつの真実でもあるのだ。
 石黒は、今回のアルバムに参加した仲間たちとの音楽を、本当に楽しんでいると思う。このメンバーとの「ブルース・アレイ・ジャパン」でのセッションは最高潮だったが、石黒は、この素敵な仲間たちとの演奏を、永遠に残したいと願い、それが実現したのがこのCDだ。音楽は、演奏するのも、それを聴くのも、一皮むけば孤独な行為なのだが、だれも、ひとりぼっちで居続けることはできない。ぼくらはいつも、ほんとうに分かり合える仲間を探し求めて、さまよい続けているのだ。このCDも、そうした仲間たちとの、大切な記録だ。それを聴ける私たちは、幸福だと思う。
 石黒浩己の音楽は、循環する環のように、ぐるりと回って元の位置に戻ってくる旋律が多い。それは、一種のだまし絵のように、音が浮遊している不思議な空間だ。最近の彼は、必ずしも「海」にこだわらず、木漏れ日や、風の音など、広く自然の「うつろい」に目を向けるようになった。デジタルで処理されてしまうものが全盛のこの時代、真に音楽的なものは、自然界の、機械で測れない空気感を捉えることなのだから、石黒浩己の仕事は、これからが楽しみである。(2008.7.29 執筆)



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