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METライブビューイング「セヴィリアの理髪師」から、思いがけない「ディスク談義」に展開してしまいました

2015年01月30日 13時25分41秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日の「蛇足」の部分を読んで、「何のこと」と思われたり、「例のあれだろう」と思われたり、さまざまな方がいらっしゃると思う。ロッシーニ作品の「使いまわし」に関することである。

 じつは、私の『セヴィリアの理髪師』体験というか、ずっと長年にわたって親しんできた音源は、もう50年近く以前から聴いている「マリア・カラス盤」なのだ。アルチェオ・ガリエラ指揮のEMI正規録音。私にとっては、これが基準である。私のことを古くから知っている友人たちならお見通しのことだろうが、それ以外ではアバド指揮のレーザー・ディスクを購入して鑑賞した程度で、それ以外の『セヴィリア~』を丹念に鑑賞したことがない。だから、フィナーレに、ここ数年(あるいは数十年)前から、『チェネレントーラ』のフィナーレで有名なアリアの旋律が「流用されて歌われる」のが主流となっている(らしい)ことが、私の中では欠落していたのだ。

 だがこれは「逆」で、「セヴィリア」の旋律を「チェネレントーラ」で流用しているのだという話まで横行しているので、私はすっかり戸惑ってしまった。

――さて、ここで私の言っていることの意味が、伝わらないかも知れないと思う。

 じつは、カラス~ガリエラ盤のフィナーレでは、『チェネレントーラ』の旋律は歌われていないのだ。だから、私の「感覚」では、「今回は、拡大延長バージョンで歌われている」となるわけだ。

 『セヴィリア』が『チェネレントーラ』より前に書かれているので、「チェネレントーラに流用された」と、今ではほとんどの文献に書かれているが、ほんとにそうだろうか? これが私には疑問だ。

 ひょっとしたら、チェネレントーラのために書いた旋律を、後に、改定版セビリアに流用して、フィナーレを充実させたのではないだろうか? ということである。  何しろ「セヴィリア」の初演当時は、同じストーリーで同題名の別の作曲家の作品が横行していたので、ロッシーニ作品は『アルマヴィーヴァ伯爵の恋、あるいは無用な用心』だったはずだ。それが人気作品となって再演に次ぐ再演となって今日、ロッシーニの代表作『セヴィリアの理髪師』になったわけだから、その間に、他の人気曲の使いまわしで拡大バージョンが出来ていてもおかしくはない。少なくとも、EMI正規録音の「全曲盤」が「短縮バージョン」で作られたというのは納得いかない。何か根拠がなければならないのだ。だから、ある時期までは、カラス盤の版がスタンダードだったのではないかと考えるわけだが、どうだろう。

 そう言えば、ショパンの遺作(これも、近年は別人の作という研究成果が発表されているが…)に『ロッシーニの主題による変奏曲』というフルート(ピアノ伴奏)曲があり、これも、私は1960年代の終わりころから、ランパル盤で愛聴しているので、耳にタコのついたメロディだが、これが今回話題にしているアリアの旋律だ。私はもちろん「チェネレントーラ」に現われて感激したのが、「セヴィリア」より先である。「セヴィリア」では伯爵が歌うテノールの曲だが、「チェネレントーラ」ではソプラノの歌だから、当然、フルートで奏でられる。そして、昔から、どの文献でも、ロッシーニの「チェネレントーラ(シンデレラ)」からの旋律による、と解説されていた。今では「偽作」とされているから、それこそ眉唾ものだが、ショパンが「チェネレントーラ」でシンデレラ物語を観て感激して書いた、というエピソードまで用意されていた。あの旋律=チェネレントーラという時代は長かったのかも知れない。

 

 (以上、新しい情報以外に、○○盤では歌っている、●●盤では歌っていない、といった情報でもけっこうですので、お寄せいただけると幸いです。以前、このブログ内のどこかでも書きましたが、日本の「名曲事典」の類は情報が古過ぎるものが多いので、参考になることが少ないのです。)

 

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METライブビューイングのロッシーニ「セヴィリアの理髪師」は現代喜劇のデジタルなテンポ感にあふれていた

2015年01月28日 14時06分47秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 昨年11月末にニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で上演されたばかりのロッシーニの傑作オペラ・ブッファ『セヴィリアの理髪師』を、きのう、東京・東銀座「東劇」でのライブビューイング上映で鑑賞した。
 今回の演出は、このところブロードウエイ・ミュージカルでも注目を浴び続けている鬼才バートレット・シャーによる「再演」とのことだが、私は初めて観た舞台だった。外見上の最大の特徴は、オーケストラ・ピットを囲みこんだ迫り出し舞台だが、私は、まず、舞台上の各歌手たちのピタリとタイミングを合わせた細かいジェスチャーや表情、舞台上を所狭しと動き回りながら開け閉めするたくさんの部屋扉など、そのコミカルでリズミカルな動きの闊達さに驚いた。
 イザベル・レナードのロジーナのお転婆娘というか、ヤンキー・ガールのようなテキパキとしたテンポ感・切れの良さは正に現代的で、ローレンス・ブラウンリーのアルマヴィーヴァ伯爵、クリストファー・モルトマンのフィガロ、マウリッツオ・ムラーニのバルバロともどものドタバタ劇が、あたかも現代喜劇の舞台を観ているような感覚で、進行する。その切り替え、転換の瞬間芸のような切れ味は、指揮のミケーレ・マリオッティの手際にも負っているはずだ。マリオッティの指揮する音楽は、ただでさえその差がはっきりしているロッシーニの音楽の緩急を、ことさらにクッキリさせ、ゆるやかな部分と快速な部分との中間がない、極めて切り替えの素早い、デジタルな音楽づくりで押す若さが聴きものだ。
 思えば、ロッシーニの音楽そのものに、こうした音楽を受け入れるだけの懐の深さがあるわけだが、それをここまで活かしきった演出と歌手、オーケストラ、指揮者の力に脱帽した。「リリカルな古典」と思っていた『セビリアの理髪師』が、衣装や装置を無理に現代に置き換えるような「無用な努力」をしなくても、これほどに新鮮さを獲得できるのだ、と証明して見せた快挙である。メト(MET)のオペラの若々しさにこそ、オペラの未来が大きく拓けているように、ますます思うようになった。
 マリオッティは、私は詳しく知らないが、ロッシーニを得意としている指揮者だという。確か、今期のMETでは、春にはロッシーニの珍しい作品『湖上の美人』も振る。この作品は、私は、ポリーニが「指揮者デビュー」をしたCDで全曲を聴いただけだが、かなり肌合いの異なるロッシーニ世界を、次はどのように聴かせてくれるか、今から楽しみだ。
 蛇足だが、幕切れ直前は他のロッシーニ作品からの人気曲の使い回しの大幅延長バージョンの充実フィナーレで楽しめる。何が聴けるかは、当日のお楽しみとしよう。何はともあれ、とりあえずの各映画館での上映は、今週金曜まで。お急ぎを――

 

■上記「蛇足」に関連して、2015年1月30日付けで「追記」をUPしましたので、お読みください。 

 

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コメントをくださった方々へのお詫びと、ディーン・ディクソンのCDについての続報など

2015年01月14日 17時33分19秒 | ディスコグラフィ的な話題

以下、まずは、2013年7月19日付の当ブログ「CD化されていたディーン・ディクソンのガーシュイン録音」に対してのコメントを、到着順に3本、転記します。なぜ、そんなことをするのかについてのご説明。
じつは、下記の2つ目のコメントを戴いたのが3日前のことですが、それに気づいたのは昨日でした。それは、私の古くからの書籍編集者仲間で友人の木村正行氏が、私宛の賀状の誤記についての他愛のない弁命を、ブログのコメント欄に入れたので読んでほしいと言ってきたことに始まります。
この2ヵ月ちかく、さまざまの事が重なってしまって時間が取れず、ブログの更新どころか、コメント欄のチェックもしないまま推移していましたので、そんなムリヤリの要求でもなければ、コメント欄のチェックは更に数日遅れてしまっていたでしょう。それでも、木村氏の要望があってから2日後のことでした。
彼のコメントは私信に類するものなので公開扱いはしませんが、その時、未開封のコメントが何本も貯まっているのに気づいたというわけです。下記の2本目のコメントもそのひとつで、文面でお分かりのように、その木村氏のお知り合いのようです。じつは、この方も、私からのレスポンスがないことに不安を感じられたのか、ほぼ同じ内容のコメントが、翌日にも到着していました。そのように2度、3度送信なさった方が、他にもいらっしゃるのには、ほんとうに恐縮してしまいました。古くは10月末あたりからコメントをくださった多くの方々に、深くおわびいたします。
下記に引用したコメント以外では、「ソンドラ・ビアンカ」についての情報が多かったのですが、これについても、なるべく早急に、この場でご返事なり、私からの情報の返送をします。
また、映画「危険な月光」へのコメントへのご返事も、この場で詳報しなければなりません。
なお、下記の引用コメントの最初のものは、昨年の春にいただいたもので、私としては「どんな演奏?」と問われた答えを「ひと言」では表現できないままになっています。申し訳ありません。以前、当ブログ内で書いたと思いますが、いずれ「ディーン・ディクソン論」を書かなければ、と思っており、そこで納得の行く言及をしたいと考えています。それまで、お許しください。今、ずいぶん昔に聴いた時の印象だけを言えば「素っ気ない演奏」の範疇にあると思いますが、そうした演奏の意味について、私自身が、このところ考え直していることがありますので、(それは、昨日、この場にupしたものも含め、最近の当ブログ内カテゴリー「新譜CD雑感」を4、5本遡ると、お気づきになる方も居られると思います。)間違った印象かも知れません。

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以下、2013年7月19日付の当ブログ「CD化されていたディーン・ディクソンのガーシュイン録音」に対してのコメントの転記です。

タイトル:ディーン・ディクソン
投稿者:GABBY 


2014-04-26 09:29:18


ヴィヴィアン・リブキンの検索でたどりつきました。ウエストミンスターから出ていたモーツアルトのピアノ協奏曲、ディクソン指揮、リブキンピアノのLPもお持ちだと思いますが、どんな演奏なのでしょうか。聞いてみたいなと以前から思っているのですが、CD化される気配はまったくないようです。


タイトル:ディーン・ディクソン
投稿者:Tarakowski


2015-01-10 22:19:06


初めまして。木村正行さんから紹介されて覗いてみました。ディクソン、N響に一時客演していましたね(齢がばれる)。ガーシュウィンのは持っています。最近ヴンダーリヒがテオ・アダムらと歌っているヘッセン放響の第九の指揮がディクソンで感激しました。レーベルはaudite まだ入手可能です。


タイトル:Tarakowskiさんへ
投稿者:竹内貴久雄


2015-01-13 11:30:54


コメント投稿に気付くのが遅れました。申し訳ありません。上記のほかにも、12月に入ってから、何人もの方からコメントを(私信の類なので公開処理はしませんが)戴いていて、それらも貴重な情報だったのですが、投稿に気付いたのがまとめて全て一昨日で、そのご返事もまだしていないという状況です。このコメントのあとで、すぐ、久々に、このブログを更新しますので、それで事情をお察しください。原稿の執筆で追われていたのです。
年末は散々でした。毎日新聞の「小学生新聞」で毎日掲載している「論語」の監修で、かなり時間を取られました。私、もともとが時間をじっくりかけてまとめ上げる書籍の編集者が長く、ずいぶん昔に月刊雑誌の経験がある程度でしたから、月曜から金曜まで出ずっぱりの連載など、初体験でした。「年末進行」も、月刊や単行本ペースとはまるで違っていました。ここで楽屋落ちも何ですが、年末は、相当早い段階で1日に2日分ずつ「降版」(これも新聞業界用語ですね。出版業界では「下版」と言っています。)するので、クリスマスのころはもう、成人の日あたりのゲラを眺めていました。
それはともかくとして、きょうもまだ野暮用であたふたしているので、さまざま、懸念の解消は今週末までかかりそうです。
というわけで、申し訳ありません。ディーン・ディクソンについても、近いうちに、必ず書きます。それまで、ごめんなさい。「第9」ともう一枚とも、私も買いました。表紙がヴンダーリッヒのアップ写真なので、イヤですね。

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ご覧のように3本目のコメントは、私のつまらない弁命ですが、以下に補足します。

ヴンダーリヒの「もう1枚」というのは、これです。

 



「第9」と同様に、ヴンダーリヒが前面に出てきて嫌ですが、仕方なく購入しました。曲目は、ストラヴィンスキーの『朗読付きメロドラマ《ペルセフォネ》」です。但し、原典のフランス語版ではなくドイツ語版です。1960年11月11日のヘッセン放送局によるライヴ録音です。
ディーン・ディクソンは、レコードで発売された音源でCD化されたものがほとんどない人ですが、私がこれまでブログで触れていないものでスタンダードな作品のものとしては、写真の「リスト交響詩集」もあります。


これは米ウエストミンスターと英ニクサの業務提携で制作されたレコードがオリジナルで、各々から1954年にLPレコードが発売されています。オーケストラ名は変名になっていますが、現在は「ロイヤル・フィル」が実態だったとされている、シェルヘンやロジンスキーが振っているのと同じパターンです。ところが、このCDでは、「ロンドン交響楽団」と誤記されています。
英NIXAとPYEを受け継いだ「英PRT」初期のCD(1986年)で、デジタル・リマスター担当者がMichael J. DUTTONとなっていますが、あまりいい音ではありません。曲目は『前奏曲』『フン族の戦い』『マゼッパ』『オルフェウス』の4曲。LP時の収録順のままです。


いよいよ、ディーン・ディクソンのディスコグラフィを作らなければ、という気持ちが高まってきました。

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ケント・ナガノと日本の「唱歌」/オーマンディ・サウンド再認識/ルフェビュールの真骨頂/カサドシュ再聴

2015年01月13日 11時37分18秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)
半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。一昨年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、昨日書き終えたばかりの昨年下半期分です。いつものように、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログに先行掲載します。なお、当ブログのこのカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。


ケント・ナガノで聴く「唱歌集」の不思議な懐かしさ
 ケント・ナガノという日系のアメリカ人指揮者に私が注目したのは、いつのことだっただろうか。少なくとも二十年以上は前のことだったと思うが、最初にケント・ナガノを聴いたのは、ロンドンのアンサンブルを振ってのストラヴィンスキー『兵士の物語』のはずだ。ロック系のスティングが語り役だった。その豊かで積極的な音楽に感心して、その後の欧米での活躍を、ずっと注目し続けていたが、彼の音楽に例えば小澤征爾や若杉弘に感じるような「日本人」らしい感性を聴くことはなかった。九十年代の終わりごろだったと思うが、親しかったレコード会社の制作担当者と会話した時、「ケント・ナガノはアメリカ生まれのアメリカ育ちで、日本語はまるで喋れないはずですよ」と聞いて、妙に合点がいったのを憶えている。そのナガノがいつの間にか日本に生まれ育ったピアニスト児玉麻里と結婚して一児の父になっていると聞いたのが数年前のことだ。この『唱歌集』は、二〇〇六年にモントリオール交響楽団の音楽監督に就任して以来、実現を強く希望していた企画だそうだが、やっと昨年秋に、カナダ「ANALEKTA」から発売された。ナガノは、わが子のために母親である児玉麻里が口ずさむ「CHILDREN SONG」に魅せられたという。心の深部に眠っていた感性が共振しているナガノの音楽は、どこまでも優しく、やわらかい。彼が、演奏活動のもう一方の拠点ドイツでの仕事で信頼している名ソプラノ、ディアナ・ダムロウも、単音節の日本語を、美しい発音でしっかりと歌っている。



オーマンディ・サウンドの奇跡を再確認した「カルメン」「アルル」
 一九五〇年代後半から六〇年代にコロンビア・レコードから発売された音源が、オリジナルLPジャケットの再現とともに、ソニーから大量にCD復刻された。これは、その一枚で、ビゼー『カルメン組曲』『アルルの女組曲』にポンキエルリ『時の踊り』が収められている。キャッチフレーズに「LP時代に誰もが聴いた」とあるのは、正にその通り! なのだが、私の場合は少々事情がちがう。私のいわゆる「盤歴」は、小学五年生だった昭和35(1960)年を基点にしているが、その最初に自分の小遣いで買ったレコードがグリーグの『ペールギュント組曲』。これは一〇インチ盤。それを確か翌年になって、B面に『アルルの女組曲』が収まった三〇センチ盤に買い替えたのだ。オーマンディの『アルル』のステレオ録音(今回の復刻)は一九六三年に行われ、『パリの喜び』とのカップリングでの発売だから、当然、私が一九六一年に購入した『アルル』はモノラル旧録音である。だが、長い間、私の『アルル』鑑賞の基準だったオーマンディの演奏の響きは、今回の復刻盤でも健在だった。そして、中学生になってから学校の音楽室にあったレコードを幾度もかけて、結局私自身は購入しないままだった『カルメン』ともども懐かしく聴いて、改めて「オーマンディ・サウンド」の凄さを思い知った。とにかく隅々まで各々の楽器がよく聞こえ、全部鳴り切っている。そのゴージャスなサウンドの鮮やかさは「奇跡」と言うほかない。こんな演奏はもう二度と生まれない。無国籍な音響世界なのだが、これは、それを超えて最高に音楽的だ。



イヴォンヌ・ルフェビュールの真価を初めて知った
 このピアニストの名前を始めて聞いたのは、確か一九七〇年代の初頭だったと思う。フルトヴェングラーのLPレコードが、正規録音から大きく外れて、続々と放送録音の類が〈発掘〉され始める少し前。まだ遠慮がちに、それでも「新発見」と大書され「EMI=エンゼル」のマークつきで発売されたモーツァルト『ピアノ協奏曲二〇番』の一九五四年ライヴ録音の独奏者としてだった。地の底を這うようなベルリン・フィルの鬼気迫る音の中から、スーッと立ち現れるピアノが印象に残ったが、そのほかの演奏に触れることなく過ぎていたピアニストだった。その彼女のピアノをまとめて何枚かのCDで聴いたのは十数年前のこと。フランスの「FY」というマークのSolsticeというレーベルで、彼女は最晩年、ここにたくさんの録音を残した。とてもよく考え抜かれたラヴェルやドビュッシー演奏だと思った記憶があるが、そこに登場したのが、この英テスタメントから初発売された一九六一年と六三年のBBC放送による録音。曲目はラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」フォーレ「夜想曲第六番」「舟歌第六番」「夜想曲第十三番」シューベルト「十五のワルツ」、そしてドビュッシー「前奏曲集第二集(全曲)」である。どれも、じつに鮮やかな色彩があふれた演奏で、この羽のように軽く音が舞い、まばゆい光が見え隠れする演奏こそが、彼女のピアノの真骨頂なのだと確信した。鳴り物入りで次々に「新発見」と称する凡演を聴かされることが多くなったが、これは、久々に後世に残すべき記録だ。録音のコンディションもいい。



ロベール・カサドシュとロスバウトの「皇帝」を聴き直した
 このところ様々なレーベルの音源を、独自のコンセプトで超廉価でリリースしている「newton(ニュートン)」からの注目の一枚。一九六一年録音のベートーヴェン『ピアノ協奏曲第五番《皇帝》』と六四年ライヴ録音の『ソナタ第二八番』という組み合わせ。「皇帝」は、私自身は七〇年代からフィリップス系の「フォンタナ」の一〇〇〇円盤(日本語で曲名から謳い文句まで大書されたクリーム地のジャケット)で聴いていたが、ソナタのほうは一九七八年が初出のようだが記憶がない。カサドシュは米コロンビアが契約していたピアニストだったが、六〇年代にはヨーロッパではフィリップスから米コロンビア音源が発売されていたので、その関係で、カサドシュの録音がフィリップスから出ていたのだろう。オケは、フィリップスが自由に使えた「コンセルトへボウ管弦楽団」。ロスバウトの明瞭な音楽にしっかりと随いて、軽やかで澄んだ響きの伸びやかな音楽を聞かせる。だが何よりも、この演奏を大きく特徴付けているのは、カサドシュの徹底して楷書体の、一音一音くっきりと隈取っていく音楽の運びだ。それでいて音がやわらかい。硬直した音楽とは対極の、自在な音楽の澄み切った心境が感じられる。このピアノだからこそ、ロスバウトはオーケストラに薄い響きの確保を要求しているのだと納得するまでに、それほどの時間はかからない。昔、この演奏を聴いて、これほどに感動した記憶がない。ピリオド演奏をいろいろ聴いた耳が、この演奏の真価に気付かせたのかも知れない。ぜひ再聴をお勧めする次第。
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