goo

プレートル/バンベルク交響楽団によるビゼーの「プリミティブ」な魅力

2010年09月24日 17時00分07秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)





 以下は、先月(8月25日)に国内初CD発売されたばかりの2枚組CDアルバムのライナーノートとして執筆したものです。RCA盤(独オイロディスク原盤)ですが、タワーレコードとの共同企画で、2枚組1800円(税別)というものです。
 ビゼーの音楽の魅力を余すところなく伝えたと言ってよい「超」が付く名演の、うれしい登場です。タワーレコードのみの発売の限定盤です。かなり好調のようですから、売り切れる前にお早めに! 
 曲目は以下の通りです。いずれもビゼー作曲です。

交響曲ハ長調
「カルメン」組曲
「アルルの女」第1組曲、第2組曲
序曲「祖国」
小組曲「子供の遊び」
    
 演奏の特徴については、以下のライナーノートをお読みください。(少々長くて申し訳ありません。でも、大事なことだけを書いたつもりです。) 


■音楽の「力」を引き出す指揮者プレートルのプリミティブな魅力

 ジョルジュ・プレートルは、いつの間にか「世界最長老指揮者」の仲間入りをしてしまった。今から半世紀ほど前の1960年代に、プレートルという「若い」指揮者の新鮮な魅力に初めて触れた記憶のある音楽ファンにとって、このことには格別に感慨深いものがあるだろう。プレートルの登場は、あの時代にとって、ひとつの若さの象徴であった。
 プレートルの経歴を振り返ってみよう。
 ジョルジュ・プレートルは1924年8月14日にフランドル地方の一部であるベルギー国境に近い北フランスのヴァジエに生まれた。パリ音楽院で学び、第2次世界大戦の終結後から、マルセイユ、トゥールーズ、リヨンといったフランス国内の歌劇場指揮者を務め、やがてパリ・オペラ=コミーク座でのリヒャルト・シュトラウス『カプリッチョ』の指揮でパリ・デビューを果たし、同オペラ=コミーク座で1959年、プーランクのモノ・オペラ『声』の初演によって高い評価を得た。
 プーランク作品の指揮で信頼を得たプレートルは、それ以後、数多くのプーランクのオーケストラ作品の録音を手掛けるようになったが、その一方、ロンドンのコヴェントガーデン、ニューヨークのメトロポリタン、ミラノのスカラ座などの有名歌劇場に次々に初登場し、1960年代から70年代にかけてはオペラ全曲録音で気鋭のオペラ指揮者として活躍し、パリ・オペラ座の音楽総監督にまでなった。だから、その方面でご記憶の方も多いはずだ。ビゼー『カルメン』全曲録音の名盤のひとつとして名高いマリア・カラス晩年のEMIステレオ録音も、プレートル指揮である。
                 *
 正直なところオペラ分野が苦手な私は、最初プレートルの名前をEMI系の仏パテ録音で、一連のプーランクを中心としたフランス近・現代作品の指揮者として認識していた。極彩色の輪郭がくっきりとしたプレートルの力強い演奏が、繊細でセンシティブ(敏感・神経過敏)なものと思い込んでいたフランス音楽に、大胆でプリミティブ(原初的、素朴)な面が色濃く存在することを教えてくれた。だが、今にして思えばそれは、20世紀のアート・シーン全体を覆っていたあるムードのひとつでもあったと思う。
 いずれにしても、そうしたプレートルの「骨太」なサウンドのフランス音楽は、とても新鮮だった。その極め付けが、1969年にボストン交響楽団とでRCAに録音されたベルリオーズ『幻想交響曲』だったと思う。そして、この頃にはEMI系の仏パテで、創設されて間もないパリ管弦楽団を指揮してのドヴォルザーク『新世界交響曲』も録音されている。この抒情的な思い入れを排した音の運動体そのもので進めて行くような演奏も、往年のドイツ・オーストリア圏の指揮者と大きく異なる個性を持ったプレートルの特徴だ。テンポの動きだけで勝負しているかのような演奏だが、それがぶっきら棒にならず、爽快な音楽性を保持している。これこそが、プレートルである。
                 *
 経歴から見てプレートルは、いわゆる劇場指揮者の系譜に属する人だと思うが、プレートルの生命力にあふれた指揮は、劇場という「現場」に育てられたものかもしれない。それがプリミティブな感覚と結びついて、魅力あふれる闊達な運動性を持った音楽となったのではないだろうか。
 いずれにしても、プレートルは1980年代の半ばになって、再び、コンサート指揮者として、いくつかの録音活動を再開した。首席客演指揮者となったウィーン交響楽団との録音が独テルデックで行われ、ここでもベルリオーズ『幻想』がかなり話題になった。今回CD化されたバンベルク交響楽団とのビゼー管弦楽曲集も同じ時期のもので、折からのデジタル時代の到来に伴って、初出時にはLPレコードとCDと両方のメディアで発売された。オリジナルは独オイロディスクで1枚ずつ単売だったが、今回、オリジナルとおりの曲目構成による2枚組として、国内盤としては初めて発売される。各々の収録時間が短かめなのは当時のCDの常で、LPの収録時間に合わせていたからである。
                 *
 ところで、プレートルの名前が、最近ことさらに取りざたされるようになったのは、2008年、2010年と、2度にわたって「ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート」の指揮台に立ってからのことだと思う。同コンサートは、1980年代に世界中に衛星生中継されるようになって、にわかにクラシック音楽界の一大イベントと化したが、1960年代には、ウィーン・フィルのコンサートマスターだったウィリー・ボスコフスキーが毎年指揮をしていた一種ローカルなお祭りだった。現在のようにライブ録音が毎年発売されるということもなく、NHKのFMラジオが数日遅れで到着した録音テープを放送するようになったのでさえ、いつごろからだったか思い出せない。1960年代とは、そんな時代だった。その1960年代に、いったい誰が今日のニューイヤー・コンサートの世界同時衛星生中継や、フランス人、プレートルが指揮台に立つといった事態を想像できただろう。
 かつて西洋クラシック音楽の演奏は、各都市それぞれの文化を背負ったものだった。ウィーンにはウィーンの音楽文化が、そして、プレートルの活躍したパリにはパリの音楽文化があった。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは、1980年から始まったマゼールの指揮から衛星生中継を開始したと記憶しているが、それがこの一大イベントのグローバル化の始まりだった。そう考えると、プレートルというフランス系指揮者のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートへの登場は、西洋クラシック音楽演奏の変容の歴史の一面を表す出来事でもあったと思えてくる。
 観光イベント化してしまったウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートが次第にマンネリ化し、音楽が本来持っていた「勢い」とでもいうものが薄れてしまった時、プレートルの活気にあふれた演奏はとても有効だった。2008年には若干の戸惑いが双方にあったが、2010年には、ほんとうにオケが「よく鳴っていた」。そうした「音楽の力」を思い出させてくれるのがプレートルの魅力だ。最近の若手指揮者のようにコンクールを勝ち上がってくるような「純粋培養系」ではなく、オペラ小屋仕込みの手ごたえのある音楽の力だ。
 この「ビゼー管弦楽曲集」は、バンベルク交響楽団という、第2次大戦後の社会にあって稀少な、プリミティブな音色が保存されていたオーケストラを素材にして、ビゼーという輪郭のくっきりとした豊かに鳴る音楽が演奏されている。プレートルの個性と、ビゼーの音楽の特質がぴったりと符合した名演盤である。
 なお、『アルルの女』で見事なサクソフォーンを聴かせるミシェル・レイデルトは1949年生まれのフランスの名手で、パリ音楽院のデュファイエ門下の俊英。1970年代から80年代に、ヨーロッパの多くのオーケストラのコンサートにゲスト奏者として招かれている。

goo | コメント ( 1 ) | トラックバック ( 0 )

ピエール・モントゥのストラヴィンスキー/ドビュッシー

2009年02月21日 07時32分15秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)





 以下は、1996年9月3日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8945~46、二枚組)のために書かれたライナー・ノートです。2月6日付、および2月12日の当ブログに掲載したものの続編にあたります。これまでの3点で、モントゥは終わりでした。ライナーノート中の「モントゥーについて」の部分は、共通原稿でしたので省略しますが、私の解説原稿は、その部分を同時にお読みいただけることを前提にして記述してはいます。収録曲は、後半の「曲目解説」の通りです。このCDアルバムのための書き下ろしです。

■モントゥーの演奏に作品の原点を聴く

 ストラヴィンスキーのバレエ「ペトルーシュカ」と「春の祭典」は、後述しているように、このアルバムで指揮をしているモントゥーが初演をしている作品だ。したがって、それだけでも歴史的に意義のある録音なのだが、そのモントゥーの複数ある同曲の録音中でも、このボストン交響楽団との録音は、仕上りが最もよいものとして推奨できる。
 「ペトルーシュカ」の第1場、祭の雑踏の場面での様々な楽想が繰り出される中を、明快な響きで実に安定したテンポで貫かれている。そしてやがて開始される人形たちのユーモラスな踊りでの、ピアノのソロを取り込んでの軽妙さ。モントゥーの演奏は、この曲の背後に横たわるロシアの民族的素材の土臭さを感じさせないモダンな軽やかさ、洒落っけを前面に押し出したものだ。第4場でも、力みかえった重々しさから開放されて、豊かな管楽器の動きが自在に彩りを添えている。バレエ音楽の原点を聴かせる流動感を大切にした演奏だから、ペトルーシュカの悲劇がその中にほうり出されて、自然に浮き上がってくる。
 「春の祭典」も、この作品の革新性に対する過度の思い入れなどを感じさせずに、楽曲の隅々までよく聞こえてくる演奏だ。この録音が行われた1950年代には、まだこの曲は、ある種の荒々しさの強調が一般的で、それは特定のパートの突出やテンポの崩れを頻出させた。特に、第1部で余りにもエネルギッシュに全開してしまうと、第2部に入ってからの精妙な動きが聴き手の中で支え切れなくなるのだが、モントゥーの力の配分は的確だ。
 このモントゥー/ボストン響の録音は、これ以上付け加えるものもなければ、足りないものもない、と信じさせてしまうほどに、この現代音楽の古典の最も標準的な演奏として、これからも生き続けるだろう。
 ドビュッシーの「海」は、とても力強くシンフォニックな表現で鮮やかに描かれた演奏だ。ダイナミックな振幅がドビュッシーの一般的なイメージから大きく踏み出し、音楽がせり出してくる。この作品がドビュッシーの中ではひときわ骨太で構成的なスケール感を持っていることを思い知らされる。あたかも3楽章構成の交響曲のように、全曲がひとつながりのドラマとなって、〈夜明け〉や〈たそがれ〉、あるいは〈夜の香り〉を好んだドビュッシーが、〈真昼まで〉と敢えて題したこの作品の特異性を表現し切っている。
 ドビュッシーの音楽から、そうした鮮明さを引き出すモントゥーの特質は、「イベリア」でも、第1曲の速いテンポでのリズムの鋭い畳みかけとなって表われている。少々たて板に水といった観もあるが、第2曲でも輪郭のくっきりとした音楽で一貫している。そして第3曲。目の覚めるようなスペイン音楽の力強い躍動を、ドビュッシーの音楽から導きだした演奏だ。
 しかし、こうしたモントゥーのドビュッシーは、淡い水彩画のパレットのようなドビュッシー演奏を聴き慣れている耳には、さすがに「夜想曲」では抵抗があるかも知れない。明瞭でくっきりとしたラインがしっかりと聴きとれる第1曲「雲」は特にそう言えるだろう。だが、最近のドビュッシー神話を打ち破りつつある演奏を聴くと、モントゥーが残した録音が、どれほど「印象派の作曲家」という曖昧なレッテルに惑わされずに楽譜に書き込まれた本質を直視して、音楽を築き上げているかが理解される。しかもモントゥーの演奏は、細部がしっかりと聞こえながらも、細部の仕掛けに足元をすくわれずに、力強くとうとうと流れる音楽があふれ出てくるのだ。むしろ、これからの時代に向けて、ぜひとも聴いておきたい演奏だ。

         *

 このアルバムに収録された曲目の米RCAビクターでの初出LPについて記そう。
 「ペトルーシュカ」はLSC-2376及びLM-2376で1960年に、「春の祭典」はLM-1149で51年に発売された。「春の祭典」はもちろんモノラルのみ。
 一方ドビュッシーは「海」と「夜想曲」のカップリングのモノラル盤が1956年にLM-1939で先行発売され、63年に「夜想曲」のみ、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(パリ音楽院管弦楽団)とのカップリングのステレオ盤VICS-1027が発売された。「イベリア」は、「映像」全3曲で1952年にLM-1197が初出。これもモノラル録音だ。「海」はステレオ録音だったが、ステレオLPの発売の時期を逸したまま、テープが紛失してしまったという新事実が最近になって伝えられた。RCAのプロデューサーだったジョン・ファイファーが証言したもので、冒頭の4分数秒のみPR用のステレオ・テイクが残っており、これは最近米盤CDで発売された。驚くほど鮮やかな録音だ。

■ピエール・モントゥーについて
 (省略)

■曲目についてのメモ

●ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)
 20世紀音楽の革新性を代表するひとり、ロシア生まれの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)は、バレエ「火の鳥」によって新進作曲家としての地位を確保した。その作曲を依頼したのは、当時パリ公演で成功しつつあった〈バレエ・リュス(ロシアバレエ団)〉を主宰していたセルゲイ・ディアギレフだった。ディアギレフのオリジナル作品を上演するという計画が、「火の鳥」で大成功したため第2作も依頼されたストラヴィンスキーが、次に着想していた「春の祭典」に取りかかる前に書き上げてしまったのが、この「ペトルーシュカ」だ。初演は1911年6月13日にパリのシャトレ座で、ピエール・モントゥーの指揮により行われた。曲は全4場からなり、次のように展開する。
 〈第1場〉謝肉祭の日の市場。祭の雑踏が描かれる。見世物小屋の老人が現われて笛を吹くと、ペトルーシュカ、踊り子、ムーア人という3体の人形が、それぞれユーモラスなロシア舞曲を踊り始める。
 〈第2場〉ペトルーシュカの部屋。粗末な部屋に押し込まれたペトルーシュカのところへ踊り子が入ってくる。ペトルーシュカは彼女の気を引こうとするが相手にされない。
 〈第3場〉ムーア人の部屋。第2場とは対照的な豪華な部屋。踊り子が入ってきて意気投合した二人はワルツを踊る。嫉妬心にかられたペトルーシュカが入ってきて、ムーア人につかみかかるが、追い出される。
 〈第4場〉謝肉祭の日の夕方。第1場と同じ雑踏の場面。突然、ムーア人に追いかけられてペトルーシュカが飛び出してくるが、切り殺される。驚く群衆に見世物師は、殺されたペトルーシュカが人形にすぎないことを説明し無造作に扱おうとするが、その時、見世物小屋の屋根の上にペトルーシュカの亡霊が現われる。

●バレエ音楽「春の祭典」(1913/21年版)
 前述のように、ディアギレフに依頼されて連続して作曲されたストラヴィンスキーのバレエ曲は、そのまま彼の3大バレエ曲となった。だが、この第3作の「春の祭典」の初演の日は、西洋音楽史上でも特に大書されるセンセーショナルなものだった。この大胆なリズムとオーケストラの咆哮は、聴衆を騒然とさせ、ヤジと怒号と賛辞が入りまじる騒ぎを起こして、しばしば音楽が聴き取れないほどだったという。1913年5月29日のパリ・シャンゼリゼ劇場。この音楽史に永遠に残る日に指揮棒を振り、聴衆に曲の最後まで聴くように叫んだ青年指揮者がピエール・モントゥーだった。
 曲は異教徒たちの太古の儀式の描写で、太陽神に捧げられるいけにえの処女たちが、死ぬまで踊り続けるというもの。曲は「第1部/大地礼賛」と「第2部/いけにえ」の2部に分かれている。

●ドビュッシー:交響詩「海」
 フランス近代の作曲家、クロード・ドビュッシー(1862~1918)のこの作品は便宜上「交響詩」と呼ばれるが、作曲者自身には「管弦楽のための3つの交響的素描」という副題を付けられ、全3曲から成っている。1905年に作曲され、同年10月に初演された。
 海をこよなく愛していたドビュッシーによる、海をモチーフにした作品だが、この作品の総譜初版の表紙には葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖波裏」が刷られている。大波の向うに小さく呑み込まれそうに富士が見える有名な作品だ。当時日本の浮世絵にも関心を示していたドビュッシーの書斎には、この北斎の写しが額に入れて飾られていたことが知られており、この作品の発想にも少なからず影響していると言われている。ドビュッシーの管弦楽作品の中では比較的量感の豊かな、大きな動きを聴かせる作品だ。各曲には次のような標題が与えられている。
 〈第1曲〉海の夜明けから真昼まで
 〈第2曲〉波のたわむれ
 〈第3曲〉風と海との対話

●「イベリア」~管弦楽のための映像より
 ドビュッシーにとって「映像」=「イマージュ」という言葉は大切なものだったようで、この題名でピアノのために第1集、第2集が書かれている。第3集が管弦楽のために書かれたもので、この「イベリア」はその中の第2曲にあたる。この他、第1曲が「ジーグ」、第3曲が「春のロンド」と題されているが、それぞれ別の時期に作曲、初演されており、後になってからまとめられた。3曲の内「イベリア」が最も長大で、全体が3つの部分に分かれている。題名が表わしているように、スペインのイメージを音楽化したもので、1910年2月10日に初演されている。3つの部分はそれぞれ次の標題が与えられている。
 〈第1部〉街々にて
 〈第2部〉夜の匂い
 〈第3部〉祭の日の朝

●夜想曲
 この作品は、最初の着想の時には「たそがれ時の3つの情景」という題が考えられていたようだが、最終的にこの「夜想曲」(ノクチュルヌ)となった。全3曲からなり、第3曲では女声合唱も加わる管弦楽曲だが、当初の構想では第1曲が弦楽合奏、第2曲が管楽合奏、第3曲が管弦楽、というものだったという。そうした名残りが仕上りにも表われており、各曲の響きがそれぞれ大きく性格を異にしていて、全合奏が注意深く避けられている。言わば水彩画のような淡い色彩の妙を聴き分ける美しい作品となっている。各曲は、それぞれ次の標題を与えられている。
 〈第1曲〉雲
 〈第2曲〉祭
 〈第3曲〉海の精(シレーヌ)




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ピエール・モントゥのフランク、R・シュトラウス、ショーソン、ほか

2009年02月12日 10時06分52秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)






 以下は、1996年9月3日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8943~44、2枚組)のために書かれたライナー・ノートです。おそらく、1996年10月新譜だったと思います。つい先日、2月6日付の当ブログに再掲載したものの続編にあたります。そのため、ライナーノート中の「モントゥーについて」の部分は、共通原稿でしたので省略します。収録曲は、後半の「曲目解説」の通りです。曲目解説も、このCDアルバムのための書き下ろしです。

 ――――――――――――――――――――――――――


■モントゥーの多彩な芸術を聴く

 このアルバムに収められた中では、フランクの「交響曲 ニ短調」の録音が、モントゥーの名演盤として以前から特に名高いものだ。またこれは、アメリカのオーケストラとの録音ではボストン交響楽団とサンフランシスコ交響楽団との録音がほとんどのモントゥーとしては、めずらしくシカゴ交響楽団との録音であることでも、ことさらに注目された録音だ。演奏は、モントゥーとしては、いつになくゆったりとしたテンポで、じっくりと描いていこうとする傾向が強い。これは、作品の持ち味に対する解釈の結果であるだけでなく、シカゴ響のオーケストラ技術の高度さにかなりの信頼を置いた結果とも言えるだろう。
 シカゴ響のアンサンブル能力は、現在でもしばしば全米一と言われるが、それは、この録音の時期にも言えることだった。第2楽章での各パート間の受け渡しが滑らかで、ゆるやかなテンポでも決して弛緩せず、間断なく連なっていく音楽は、モントゥー自身がオーケストラの響きに耳を澄ませているかのような見通しのよい響きだ。第3楽章に入ってからのしなやかで均質な弦楽の響きも美しく、モントゥーの演奏の魅力が、楽章を追って次第に確かなものになって行く。
 全曲の響きの配分もかなり考え抜かれているようだ。響きの重心が第1楽章では比較的低いようだが、楽章を追うごとに高めへと移動していくように感じられ、それはあたかも、徐々に魂が浄化されていくような感覚を生んでいる。モントゥーという名人がシカゴ響という名器を手にした演奏として、モントゥーの数ある録音の中でも異彩を放っている。
 なお、この録音のアメリカでの初出LPレコードは録音された1961年に発売されたLSC-2514で、この時モノラル盤LM-2514も同時発売された。
                    *
 リヒャルト・シュトラウスの「死と変容」は、モントゥーが1950年代の初頭までのかなりの年月を音楽監督として過ごしたサンフランシスコ響との退任後、そして最後の録音にあたる1960年の録音だ。甘美な優しさにあふれた導入部から開始され、荒々しい主部に突入しても混濁のない響きを維持したまま力強く突き進む。どこかしら底流に明るい大らかさを宿した演奏だ。
 ところで、この録音はなぜかLPレコードの発売が延期されて、1960年録音にもかかわらず、米盤初出LPは69年発売のVICS-1457だ。カップリングは同時期にサンフランシスコ響で録音されていたワーグナー「ジークフリート牧歌」だった。音楽監督を52年に退任後、久しぶりの古巣への客演の際の録音だが、この2曲が結局、同オーケストラとの最後の録音となった。
                    *
 ショーソンの2曲はどちらもモノラル録音だが、かなり良好な録音状態だ。やや翳りを帯びた粘着質のショーソンの「交響曲」の抒情性は、ふとした途切れ目に光る豊かな色彩が大切だが、モントゥーの演奏からは、そうした変化の綾が所を得て響いてくる。多少スペクタクルな仕上りに傾斜しているが、これは、モントゥー/サンフランシスコ響のコンビが長年培ってきた全般的な特質でもある。この録音は米盤初出LPはLMナンバーで1952年に発売された。
 「愛と海の歌」もLMナンバーで1954年にLPが発売されているが、この時のB面はピアノ伴奏によるデュパルク、プーランクなどの歌曲となっている。いずれも歌手はスウォザード。モントゥの同曲唯一の録音だが、全盛期を過ぎたスウォザードの歌唱が十全とは言い難いのが残念だ。広々とした伸びやかさをもったモントゥーの指揮がショーソンの抒情精神にしっかりとした芯を与えてはいる。
                    *
 最後に収録されたサン=サーンスの「ハヴァネラ」は、ヴァイオリン独奏のソ連のレオニード・コーガンがアメリカを訪れた際のアメリカ・デビュー録音。もちろんメインの曲は別で、ハチャトリアンの「協奏曲」。この「ハヴァネラ」は余白に収められた作品だ。初出LPはモノラル盤先行で1958年発売のLM-2220だった。ステレオ盤は65年になってからVICS-1153で初発売されている。名ヴァイオリニスト、コーガンとの唯一の共演盤で、ハチャトリアンの「協奏曲」よりもリラックスしているこの「ハヴァネラ」の方が柔軟な演奏だが、コーガンにしてはどこか遠慮がちに弾いているところがもどかしく、それはモントゥーの指揮ぶりにも多少なりとも相手の出方をうかがうようなところがあって興味深い。控え目に要所々々を押さえていく的確な伴奏ぶりに、モントゥーの技が冴えている。

■ピエール・モントゥーについて
 (省略)

■曲目についてのメモ

●フランク:交響曲 ニ短調
 セザール・フランク(1822~90)は、ベルギーに生まれた作曲家だが、その生涯のほとんどをパリで過ごし、フランス系の作曲家として、独自の位置を占めている。サン=サーンスらと「国民音楽協会」の結成に参画して、フランス音楽での器楽の復興に尽力した。ダンディ、ショーソンらの逸材を育成したことでも知られている。
 音楽史的にはフランス系作曲家の主流の位置を占めているが、一方、1858年から終生パリの聖クロチルド教会のオルガニストを務め、また、1872年以降パリ音楽院のオルガン教授として後進の指導にあたるなど、オルガンとの縁も深く、J.S.バッハを初めとするドイツ音楽の影響も見られる作曲家だ。フランクの最高傑作とされるこの「交響曲 ニ短調」でも、オルガン的な重厚な響きや深い精神性を聴きとることができる。
 「交響曲 ニ短調」は全3楽章からなる作品。終楽章で、それまでの楽章の主題が再現されて全体を統合する、循環形式と名付けられた方法が大きな特徴だ。各楽章の構成は次のようになっている。
〈第1楽章〉レント(ニ短調、4分の4拍子)~アレグロ・ノン・トロッポ(ニ短調、2分の2拍子) ソナタ形式
〈第2楽章〉アレグレット(変ロ短調、4分の3拍子) 3部形式
〈第3楽章〉アレグロ・ノン・トロッポ(ニ長調、2分の2拍子) ソナタ形式

●R.シュトラウス:交響詩《死と変容》 作品24
 ドイツ後期ロマン派最後の大作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)は、ワーグナー以降最大のドイツ歌劇の作曲家だが、同時に、近代管弦楽法の大家として、数多くの交響詩も作曲している。この「交響詩《死と変容》」(しばしば《死と浄化》とも訳される)は有名な「交響詩《ドン・ファン》」の書かれた翌年に完成したもので、この時、作曲者は25歳。作曲家として、また指揮者として、その名声を不動のものにしつつあった充実した時期の作品だ。
 この作品は、死の床に伏す病人の怯え、心の葛藤、やがて訪れる精神の救済、浄化を様々なモチーフを駆使して描いたもので、先に作曲のアイデアがあり、それに合わせてプログラムとなる詩が書かれている。死の床の病人を描く導入部に始まり、ソナタ形式的な主部は死との闘争、生への執着が表現され(提示部)、生涯を追想する(展開部)が、再び死との闘争へと引き戻され(再現部)、容赦のない死の一撃。コーダでは、曲の初めから見え隠れしていた〈変容=浄化〉のモチーフが美しく響きわたる。

●ショーソン:交響曲 変ロ長調 作品20
 エルネスト・ショーソン(1855~99)は、フランクの項でふれたように、フランスに起こった国民音楽協会運動を通じて、ダンディとともに、最もフランクの影響を受けた作曲家のひとりだ。この作品はサン=サーンス「第3交響曲」、ダンディ「フランス山人の歌による交響曲」、フランク「交響曲 ニ短調」に続いて、1889年から91年にかけて書かれたショーソン唯一の交響曲。フランクの用いた循環形式の影響が見られるが、ショーソンらしい沈鬱さと甘美さに彩られたメランコリックな曲想を持つ作品となっている。各楽章の構成は次のようになっている。
〈第1楽章〉レント(変ロ長調、4分の4拍子)~アレグロ・ヴィーヴォ(変ロ長調、4分の4拍子) ソナタ形式
〈第2楽章〉トレ・ラン(非常にゆるやかに)(ニ短調、4分の4拍子) 3部形式
〈第3楽章〉アニメ(活気を持って)(変ロ長調、2分の2拍子) ソナタ形式

●ショーソン:「愛と海の歌」作品19
 ショーソンは、フランクの影響下で交響曲や器楽曲もいくつか作曲しているが、得意としていた分野は、むしろ歌曲だった。この分野では、ショーソンの繊細な抒情性が美しく花開き、彼のもうひとりの師マスネーや、深く傾倒していたワグナーの影響を聴くことができる。
 ピアノ伴奏の歌曲が多いなかで、「愛と海の歌」はショーソンにとって、2曲しかない管弦楽伴奏の歌曲であるだけでなく、ショーソンの代表作ともなった傑作だ。10年の歳月を経て完成したと言われており、フランス近代歌曲の傑作のひとつにも数えられている。曲は中間部にオーケストラのみによる間奏曲を挟み、前後2部に分れ、それぞれが3つの部分から成立している。歌詞はモーリス・ブショールに拠る。

●サン=サーンス:《ハヴァネラ》作品83
 カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)の残したヴァイオリンのための小品として、有名な「序奏とロンド・カプリチオーソ」と並ぶ名作。「ハヴァネーズ」とも呼ばれる。ハヴァネラとは、スペイン舞曲のひとつだが、元来はラテン・アメリカのキューバに起こった民俗舞曲。現在のキューバの首都ハバナの名称から名付けられた。それぞれに特徴的な3つの主題が独奏ヴァイオリンを中心に華やかに展開される。


【このブログへの再録に際しての付記】
 ショーソンの2曲のみ、解説中に初出LP番号が記載されていないのは、このブログに再録するために読み返していて、矛盾に気づいたので、とりあえず曖昧な記述に書き直して掲載しているからです。もう一度調べなおして、後日、該当部分の記述を修正しておきます。申し訳ありません。




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

チャイコフスキー『交響曲 第4番/第5番/第6番』

2009年02月07日 17時43分42秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)




 以下は、1996年8月26日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8941~42)のために書かれたライナー・ノートの後半です。モントゥ~ボストン響のチャイコフスキー『交響曲4~6番』という内容で、演奏についての部分は、昨日掲載しました。
 2枚組で1枚の価格程度というシリーズのはしりで、演奏についてだけでなく、書き下ろしで曲目解説も依頼されました。当時としては最も新しい情報で書きましたから、「名曲事典」などからの流用で記述の誤りを踏襲してしまっているものよりも情報としては正確だと思います。当時、ドイツで出版された「チャイコフスキー」の伝記の翻訳出版の話が浮上していて、その関係で、たまたまいくつか調べていたと記憶しています。久しぶりに読み返しましたが、割合コンパクトにまとまっているので、このブログにも掲載します。

■曲目についてのメモ

 チャイコフスキー(1840~1893)は、バイロンの詩に基づく《マンフレッド交響曲 作品58》を別にして、いわゆる番号付きの交響曲は6曲書いている。そのうち後半の3曲が特に高く評価されており、しばしば「後期3大交響曲」と呼ばれるが、それは、「第4番」に至ってチャイコフスキーの個性的作曲技法が、一際、豊かな発展を聴かせるからだ。

●交響曲第4番ヘ長調 作品36
 「交響曲第4番」は1877年から翌78年にかけて書かれ、献辞は「わが最良の友へ」となっている。ここに言う「友」とは、当時チャイコフスキーへの定期的な経済的援助を開始したフォン・メック夫人を指している。フォン・メック夫人とチャイコフスキーとは決して直接会おうとはせず、文通のみによる交際が13年余にわたって続いた。
 この曲が書かれた1977年は、フォン・メック夫人による援助の申し出があった年だが、それだけではなく、様々の出来事によって、チャイコフスキーの人生で大きな転換となった年だ。突然の結婚と破局、自殺未遂、傷心のドイツ、スイス、イタリアへの旅行と紆余曲折が続くが、作曲活動の方は、歌劇「エフゲニ・オネーギン」が完成し、中断していた「交響曲第4番」も結局、その年の12月になってから、旅行先のイタリアでようやく再開され、完成した。ロシア暦での年末だが、西洋暦では既に1878年の1月になっていた。
 「第4交響曲」は、この間の作曲者の実生活での紆余曲折を反映するような告白めいたプログラムが、フォン・メック夫人に宛てた作曲者自身の書簡によって残されている。それは、今日では、チャイコフスキーがフォン・メック夫人向けに誇張し、脚色したものと考えるのが妥当だろう。書簡は「あなたひとりにだけ、作品の意味を説明したい」と書き出され、大仰な調子で綴られているが、この作品が「第1楽章冒頭の〈宿命〉の主題によって、全体が支配されている」という記述は、作品の構造を説明したものとして、額面通りに受け取ってよいだろう。
 各楽章は次のような構成になっている。

〈第1楽章〉アンダンテ・ソステヌート ヘ短調 4分の3拍子~モデラート・コン・アニマ ヘ短調 8分の9拍子 ソナタ形式
〈第2楽章〉アンダンテ・イン・モード・ディ・カンツォーナ 変ロ短調 4分の2拍子 3部形式
〈第3楽章〉ピチカート・アスティナート アレグロ ヘ長調 4分の2拍子 スケルツォ
〈第4楽章〉アレグロ・コン・フォコ ヘ長調 4分の4拍子 ロンド風の自由形式による終曲

●交響曲第5番ホ短調 作品64
 チャイコフスキーは、〈宿命の動機〉を巧みに用いて、絶望と夢の織りまざったスケールの大きいドラマを「第4交響曲」で書き上げた後、幾度か次の交響曲を書こうと試みる。ところが、大規模な管弦楽曲としては「組曲第1番」、「第2番」、「第3番」「第4番」の他、「イタリア奇想曲」、「弦楽セレナード」、「マンフレッド交響曲」などがあるにもかかわらず、交響曲の作曲は結局果せず、10年に及ぶ長い空白期間を持つこととなる。
 「第5交響曲」は1888年に至り、わずか3ヵ月ほどで書き上げられたが、その背景には、1885年の「マンフレッド交響曲」の作曲や、一時自信を喪失していた指揮活動の再開、それに伴っての自作交響曲演奏会、そして高まる名声の中、1988年に行われた指揮者として初のドイツ楽旅などが影響していただろう。曲は「第4交響曲」で成功した構造と基本的に似通っており、宿命との闘争から勝利へというパターンだが、前作に比べて、過剰な感情表現を純器楽的な形式のなかに収めようという意図が感じられる。
 各楽章は次のような構成になっている。

〈第1楽章〉アンダンテ ホ短調 4分の4拍子~アレグロ・コン・アニマ ホ短調 8分の6拍子 ソナタ形式
〈第2楽章〉アンダンテ・カンタービレ・コン・アルクーナ・リチェンツァ ニ長調 8分の12拍子 3部形式
〈第3楽章〉ヴァルス アレグロ・モデラート イ長調 4分の3拍子 3部形式
〈第4楽章〉アンダンテ・マエストーソ ホ長調 4分の4拍子~アレグロ・ヴィヴァーチェ ホ短調 2分の2拍子 ソナタ形式

●交響曲第6番ロ短調 作品74《悲愴》
 チャイコフスキーの創作の頂点であり、最後の完成した作品となった6番目の交響曲は、作曲者自身によって《悲愴》と名付けられた。前作「第5交響曲」の完成から5年後の1993年の8月に完成し、同年10月16日作曲者自身の指揮により初演された。
 チャイコフスキーは作品の出来に絶大な自信を持っていたようで、初演直後の不評にも動じなかったが、初演のわずか9日後に53年の生涯を閉じた。当時ロシアで流行していたコレラに感染しての死とされたが、その死因について、死の直後から様々の憶測が生まれていた。結局のところ、1991年にロシアの文化史家ポズナンツキーが、これまでの自殺説、謀略説などを一蹴し、コレラによる病死ということで決着したようだ。 残された作品「《悲愴》交響曲」は、終楽章がこれまでの交響曲の歴史でも稀有と言ってよい、暗く陰欝な雰囲気に蔽われた緩徐楽章となっており、極めて個性的な作品となっている。
 なお、この楽章は近年、初演時と現行楽譜との間で、速度標語が異なっていると言われたが、少なくとも筆者が目にした初演のプログラムの写しには、はっきりと現行楽譜と同じ「アダージョ・ラメントーソ」の文字がある。
 各楽章は次のような構成になっている。

〈第1楽章〉アダージョ ロ短調 4分の4拍子~アレグロ・ノン・トロッポ ロ短調 4分の4拍子 ソナタ形式
〈第2楽章〉アレグロ・コン・グラーチァ ニ長調 4分の5拍子 3部形式
〈第3楽章〉アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ ト長調 4分の4拍子 2部形式
〈第4楽章〉アダージョ・ラメントーソ ロ短調 4分の3拍子 3部形式



goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ピエール・モントゥのチャイコフスキー

2009年02月06日 14時57分59秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)




 以下は、1996年8月26日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8941~42)のために書かれたライナー・ノートです。2枚組で1枚の価格程度というシリーズのはしりです。演奏についてだけでなく、書き下ろしで曲目解説も依頼されましたが、当時としては最も新しい情報で書きましたので、「名曲事典」などからの流用で記述の誤りを踏襲してしまっているものよりも情報としては正確だと思います。当時、ドイツで出版された「チャイコフスキー」の伝記の翻訳出版の話が浮上していて、その関係で、たまたまいくつか調べていたと記憶しています。久しぶりに読み返しましたが、割合コンパクトにまとまっているので、このブログにも掲載します。ただ、全体が長くなってしまうのと、ブログの趣旨も混乱してしまうのとで、明日、別個に掲載することにします。

■モントゥーのチャイコフスキーを聴く

 ピエール・モントゥーの残したチャイコフスキーの交響曲演奏は、後期の3大交響曲に限られているが、いずれも、端的な表現で音楽の構造を的確に捉えた演奏だ。その虚飾を排したさっぱりとした展開から、チャイコフスキーの熱っぽいドラマが大きくせり出してくるといった、極めて純器楽的な演奏と言えるだろう。
 チャイコフスキーの後期の3つの交響曲は、いずれもドイツ・ロマン派系の多くの作曲家の交響曲と同じく、作曲者の人生観のようなものが色濃く反映している。そこに焦点をあてて感情の起伏を大きく描いていくのが、第2次世界大戦後もしばらく続いていた伝統的な演奏スタイルだった。そこでは響きはあくまでも弦を主体にしており、大きくうねる音楽がロマン派の精神を高らかに歌い上げていた。その中にあって、1950年代後半に録音されたこのCDアルバムのモントゥー盤は、当時としてはかなり斬新な演奏だ。そして、今日に至っても新鮮な魅力を失うどころか、むしろ新たな発見がある理由が、そこにある。
 例えば、「第4交響曲」の第1楽章。序奏の〈宿命の動機〉の提示の後、第1主題が8分の9拍子で現われるが、その内声部の不安定な動きが刻明に聴きとれることに驚く。このモントゥーの演奏が、それだけにとどまらず、最近の解析的な演奏と一線を画しているのは、じわじわと早まってゆくテンポの揺れが名人芸的で、生き物のように自在なことだ。
 第2主題でも、木管の動きに大らかにまとわりつく弦楽器の旋律がくっきりとしたラインを確保して、長調に転ずる第3の主題を導き出して全体を統合している。展開部での第1主題と宿命の動機の闘争でも、混濁のない鮮明さが守られ、再現部の第2主題の管楽器の響きからはエレガントな香りが漂ってくる。弦と管とのバランスのとれた抜けのよい響きを確保したコーダまで、モントゥーは、くっきりとした枠組みのなかでエモーショナルな高揚を表現する。これほどに人間的な温かさを維持しながら、モダンでスマートなチャイコフスキーを実現できる指揮者はいない。
 こうした特徴は第2楽章のチャーミングな木管の響きや、ピチカートで表現される第3楽章の、躍動感にあふれつつテンポが自然に変化していくあたりにも共通している。終楽章の華やかさも、見事なオーケストラ・コントロールから生まれた成果だ。チャイコフスキーが失意の果てにたどり着いて、この作品を完成させたイタリアの地の陽光を思わせるような明るさが実現されている。
 他の曲の演奏も、モントゥーの表現の骨子は同じだが、「第5番」はモントゥーのチャイコフスキーでは唯一、複数の録音が残されているので、オーケストラによる仕上りの違いを比較することができる。色彩感の豊かさでは当CDのボストン響との録音が群を抜いている。これは当時、シャルル・ミュンシュを音楽監督に迎えて、戦後の黄金時代を築いていたこのオーケストラの、当時の実力でもあるが、RCAが誇るリヴィング・ステレオの録音技術にも負うところも大きいだろう。
 ちなみに、このアルバムの一連のチャイコフスキー録音は、「第6番」「第5番」「第4番」の順に行われたが、オリジナルの米RCAで「第6番」は1956年にモノラル盤が先行発売され(LM-1901)、ステレオ盤は59年の発売(LSC-1901)。RCAが1958年春に第1回ステレオ発売を行った直後に発売された最初期盤にあたるのは「第5番」だ(LSC-2239/LM-2239)。1959年に録音された「第4番」は、翌60年に発売されている(LSC-2369/LM-2369)。日本では日本ビクターから「第6番」のモノラル盤が、早々と1955年12月に発売されたが、ステレオ盤の発売は、いずれもアメリカより数ヵ月遅れたようだ。

■ピエール・モントゥーについて

 今世紀を代表する大指揮者のひとりピエール・モントゥーは、1875年4月4日にパリで生まれた。1896年にパリ音楽院をヴァイオリンで首席卒業したが、在学中の12歳から指揮の勉強もしていたという。卒業後パリ・オペラ・コミーク管弦楽団やコロンヌ管弦楽団のヴァイオリン奏者を務めたが、やがて指揮者に転向。1911年に「コンセール・ベルリオーズ」を結成、同時にディアギレフが率いるロシア・バレエ団の指揮者ともなり、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」「春の祭典」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の初演の指揮を担当、今世紀の音楽史上の重要な証人のひとりとなった。作曲家からの厚い信頼を得ていたが、特にストラヴィンスキーは、モントゥーの死を悼んでの作曲もしている。
 1917年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場の指揮者に就任した後、第2次世界大戦前にボストン交響楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、パリ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団などで活躍、サンフランシスコとは、戦後の1952年まで関係が続いた。その後はフリーで活躍し、LP時代になってからも多くの録音を様々なオーケストラと行った。最晩年の1961年から死の64年まで、80歳を超える高齢にもかかわらずロンドン交響楽団の首席指揮者を引き受けて、生き生きとした力強い演奏を維持していたが、1964年7月1日に、静養中のアメリカ、ハンコックの自宅で、愛妻に看取られて静かに世を去った。
 モントゥーは、主観を排し、楽譜に込められた意図を的確に引き出す優れた手腕を持っていた。レパートリーは広範で、それぞれの音楽のスタイルに応じて、表情や色彩の豊かさ、躍動するリズムの冴え、大胆なテンポの変化などを使い分けるところに、真の職人としての見識を感じさせた。19世紀に生を受けて今世紀の前半から活躍していた指揮者では、ドイツ精神主義とまったく離れたところに立脚しながら、スケールの大きい音楽を実現したほとんど唯一と言ってよい稀有な大指揮者だった。




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ラローチャ、晩年のモーツァルト

2009年01月31日 10時13分02秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)





 以下は、アリシア・デ・ラローチャの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲「第27番&第19番」を収めたBMGビクターのCD新譜発売に際してのライナー・ノート再録です。フロッピーのデータでは1997年6月8日に執筆が完了しているようですから、たぶん、その年の7月発売ではないかと思いますが、確認していません。このCD、あまり話題になっていないと思いますが、とてもよい演奏です。(書いてあるとおりです!)


■モーツァルト晩年の心境の理想的再現

 アリシア・デ・ラローチャによる、9番及び、19番から27番の計10曲に限定された「モーツァルト/ピアノ協奏曲選集」を締めくくる今回のCDは、ラローチャのピアノ演奏の魅力を伝える記録として、長く聴かれ続けるものとなるに違いない仕上りとなった。 もともとラローチャの「モーツァルト/ピアノ協奏曲」には70年代の終わりから80年代の初頭にかけて、数曲の録音があった。その中には27番も含まれていたが、今回の録音は、まるで別人のような演奏だ。
 もちろん、ラローチャの類まれな粒立ちのよく揃った音のみずみずしさ、軽々とした高域の、珠の転がり行く果てにまで辿り着くような浮揚感など、ラローチャらしさは何ひとつ変わっていない。それなのに、今回のCDには何故か、前回の録音とまったく異なったものを感じる。それは、〈気配〉と言ってもよいような空気感だ。
 モーツァルトの最後の「ピアノ協奏曲」となった27番は、不思議な作品だ。最晩年の作品ではあるが、決して年老いたとは言えない30代の終わりに書かれた作品だが、なぜかピアニストが老境にさしかかったときに、美しい演奏を残す傾向がある。これまでにも、バックハウス、ギレリス、カーゾンなどが、それぞれの境地を聴かせる録音を残している。そこに共通するのは、自身の音楽を聴衆に聴かせようという強い意志のぎらつきのない、力みのとれた境地と言っていいだろう。おそらく、この作品には、作意や意識操作を根底から拒絶するものが内在しているのだと思う。作曲者自身が、そうした無垢の境地に辿り着いているからに違いない。
 私の知る限りでは、若い時期にこの作品に果敢に挑戦して成功しているのは、逆説的なことに、完全に確信犯として作品に作意の限りを尽くして対しているエッシェンバッハやバレンボイムなどだ。彼等が今日、指揮者として活躍しているのは、偶然ではない。
 ラローチャが、今回の録音で27番の世界を、これほどまでに自然に湧き出る泉のような演奏で成功させているのは、彼女が真正なピアニストであることの証明だ。自身の肉体の一部と言えるほどの一体感を達成したピアノは、確実に、音の粒のひとつひとつがくっきりと立ち、ころころと転がり出てくるみずみずしさは清らかで力みのない音楽を導き出す。若き日の濁りのないピアノの特徴をそのままに、これほどまでに美しく老いたピアニストを、私は初めて聴いたような気がする。これこそが、天空と交信していたとさえ思わせるモーツァルトの晩年の、純真で邪念のない心境の理想的な再現と信じて疑わない。デーヴィスの音のよく摘まれた的確な伴奏も特筆もので、この最上のモーツァルトにふさわしい。
 カップリングの19番は、充実した管弦楽と自在感にあふれたピアノとのやりとりが、モーツァルトの天賦の才が書かせた〈冗舌〉を、ひときわ豊かで楽しいものにしている。これもまた、屈指の名演だ。



goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

1996年/ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート(マゼール)ライナーノート

2009年01月29日 12時37分37秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)






 以下は、1996年の「ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート」のCD(BMGビクター)のライナー・ノート演奏論部分の全文です。昨日、このブログに掲載した「ふたつのマゼール論」の半年ほど前に書いたものです。NHKの生中継で聴いて原稿を書き、BMGビクターの担当者に渡したのは1月5日、仕事始めという日でした。(今では毎年、「ごあいさつ」などの予定原稿を先に書いての印刷ですが……。)この時期の私のマゼール観が、この文章に既に表われています。これをじっくりと考え直したものが、昨日のブログ掲載の後半部だったようです。
 なお、私を含めて、老眼に差し掛かっている方々にも正確にお読みいただけるよう、今回、試しに文字の大きさをすこし上げました。


■現代を映す鏡としての
 「ニューイヤーコンサート」


 このCDは1980年の初登場以来86年まで連続7回、そして1994年の復帰から1年の空白を置いて通算9回目となったロリン・マゼール指揮による「1996年ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート」の記録だ。今回の登場で、戦後の指揮者では創始者のクレメンス・クラウスを抜いて、「ニュー・イヤー」の代名詞となった観のあるウィリー・ボスコフスキーに次ぐ、歴代第2位の出演回数を記録してしまったマゼールだが、そのためかどうか、今年のマゼールは、初登場の1980年にも匹敵する成果を上げた。
 一昨年のニュー・イヤー復帰はいくらか力みの残る硬さが気になったが、今年のマゼール/ウィーン・フィルは凄い。昨年夏のザルツブルク音楽祭での彼らのマーラーの「第5」がCS放送でオンエアされたのを聴き、新時代の到来を予感させられたが、マゼール/ウィーン・フィルは、まちがいなく新たな世界を築きつつある。正に記念すべき元年のコンサートというにふさわしく、このところ観光コース化してしまったニュー・イヤー・コンサートを、その眠りから目覚めさせる力を持っていた。音楽の輪郭を大きくえぐる大胆不敵な抑揚、緩急のくっきりした落差が力強い。《ウィーンの市民》や《フェニックスの羽ばたき》では、音楽の太い流れの手応えもずっしりと伝わる。《くるまば草》では音楽が途切れ、ためらいながら、なかなか前に進めないと見せて最後で全開してゆく。実に「あざとい」ウィーン音楽が聴かれる。
 これらは、ある意味で1950年代を最後に最早、身体から自然に湧き出てくるウィーン音楽が誰にも表現出来なくなった時代にあっての、頭で描くキッチュなウィーンではあるのだが、今年のマゼールは、ゆったりとしたテンポ設定の悠然とした音楽をベースに、細部までよく表情の彫り込まれた造形を徹底して磨きあげている。それは相変わらずの、音楽の形が目に見えてくるような細かな指揮棒の動きと表裏一体のものだが、以前のように、それが窮屈に聴こえてこないのは、マゼールの棒がしばしば息つぎをするように止まり、そこで「待ち」の余裕を持つようになったからだ。その分だけオーケストラは十分に呼吸でき、自然で伸びやかな響きの堂々とした音楽が生まれた。
 マゼールの演奏スタイルの変遷は、現代に生きる私たちが失ってしまったもの、例えば自然に口を突いて出てくる歌、訳もなく心がなごみ涙する、そうした音楽の原初的感動を再構築する「方法論」の歴史だ。それは、何の苦もなく高らかに感動を歌い上げる自信を失ってしまった現代人の、屈折した感性そのものなのかもしれない。 昨年暮にBMGからリリースされた「マゼール/ヴァイオリン・ソロ・リサイタル」という不思議なアルバムに寄せたマゼール自身の言葉が示唆に富んでいる。彼は、そのアルバムを長い音楽生活で最も個人的な「音楽的告白」であるとして、「私はこの録音を、音楽の美しさが人々の心をうち、演奏家と聴衆双方が目に涙を浮かべていたようなヴァイオリンの演奏が行なわれていた、幸福な時代の思い出に捧げたい」と書いている。これは、表現を変えれば、今の時代は、このような音楽が演奏できないという告白でもある。そう言えば、ヨハン・シュトラウスの伝統にならって、と言うマゼールのヴァイオリン片手の指揮には、どこまでも借物のような照れくささがつきまとっている。
 おそらくマゼールは現代の指揮者の中で、だれよりも早く、今日の音楽の不幸の源に気付き、だれよりも切実にそこからの脱出を願い、試みている。マゼールは、だれよりも真剣に、真正面からウィーンの美しい夢を描き、同時に、その屈折に敏感に反応して夢の脆さをも克明に聴かせようとする。ウィーン音楽が、過去の佳き時代の単なる再現ではなく、「今」を生きる私たちの夢の屈折を映し出す鏡だからだ。そしてそれは、落日のオーストリア帝国を生き抜き、古き佳きウィーンの栄光を描き続けたヨハン・シュトラウスの、屈折した夢とも重なり合う。ヨハンが世を去ったのは1899年だが、それから 約100年を経て新たな世紀転換期に差しかかろうという新時代を象徴するのが、マゼール/ウィーン・フィルの活動だと言っても過言ではない。
 蛇足ながら、このCDは録音から発売までが史上最短という、異例のスピードでリリースされるという。これは、ウィーン・フィルの録音を久しぶりに手掛けるBMG・RCAレーベルの意気込みの表われでもあるだろう。マゼール/ウィーン・フィルの録音は、今後もBMGで予定されているという。1950年代末から60年代初頭のカラヤン/ウィーン・フィルの録音以来、久々のウィーン・フィルのRCAレーベルへの本格登場だが、それもまた新時代の幕開けにふさわしい。




goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )