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独エレクトローラ(EMI)のレハール「オペレッタ・シリーズCD」について

2015年02月26日 16時25分03秒 | ディスコグラフィ的な話題

 昨日の当ブログでの話題からの追補的な話題。

 皆様もご存知の通り、昨今のCD業界の離合集散は、目を覆いたくなるような惨状だが、冒頭の写真を見ていただきたい。BOX入りの5枚組CDで『レハール・オペレッタ集』である。すべてハイライトだが、もともとメロディの使い回しが多いオペレッタだから、セリフを飛ばして重複曲を外すと、だいたいは1枚のLPに収まるものだったことは、オペレッタ・マニアならご存知のとおりである。だから、この5枚組みも、レハールの代表作をほぼ網羅したものとなっている。現在、価格はネットで2000円前後という大バーゲンで、往年のEMI系・独エレクトローラ原盤の名盤が揃うというものだが、右上のマークに注目である。

 「W」をデザインしたこのマーク、「ワーナー・ミュージック」のマークである。名門EMIが無くなって、これに変わったのは、確か一昨年のことだったと思う。じつは、この5枚組、私は発売予告が出たときに、いち早く予約購入を申し込んでいたのだが、発売延期に次ぐ延期を繰り返し、確か2ヶ月ほど遅れて、やっと届いたのを憶えている。その時気付いたのが、まず、このマーク。予告では「EMI」だったのだ。ちょうど、世界中から順次「EMI」マークが一掃されだした時期に当たっていた。おそらく、パッケージの作り直しか何かがあっての遅れではなかったか、と思ったのだが、真相はどうだろう。

 その後、しばらくはEMIの音源が次々に「W」に変わってしまったが、これにはかなり抵抗があった。フィリップスマークが消え、ユニバーサルに統一されて、どれにも「DECCA」マークが付いている以上に、私にはショックだった。

 ところが、最近になって、どうやら同じワーナー系列のクラシックレーベルとして「エラート」の「E」マークが選ばれ、その展開から、今度は本家のエラート原盤物と区別するためか、EMI系は「真っ赤な」エラートマークに変わった。これで、フランス物などは、旧エラート原盤が昔ながらの「緑のE」、旧パテ原盤が「赤のE」となったわけだ。エラート・マークの「赤」にCD時代になってからのEMIの面影を見出すというのも、滑稽で哀しい。

 こうしたマークの変更、統合は、いったい、いつまで続くのだろう。

 思えば、20世紀になってレコード文化が発展していった時、ヨーロッパでは「電気屋さん」がレコード会社を牽引していった。日本でもそうだった。日本グラモフォンが発足当初は「富士電機」の子会社だったことを憶えている人は、もうほとんどいない。戦後のビクターには「松下」、そしてEMI系の再編にからんでは「東芝」の名が出てきた。コロムビアの建て直しには「日立」が入り込んだ。 

 昨今の再編で、ユニバーサルに、DG、DECCA、PHLIPSが収束し、ソニーにCBS、RCA、ワーナーにEMIとERARTとなって、文字通りエンターテインメントというか映画会社のような有様だ。マークは違えど、LP時代のオリジナル・デザインをひっぱり出しているところが、また、なにやら怪しげだ。

 この写真は左が今度の5枚組の1枚、右は私が30年ちかく以前に購入した『メリー・ウィドウ』のCD。オリジナルのLPをアレンジしたデザインのようだが、この時代は、そんなにオリジナルデザインにこだわりはなかった。今回、レハールの『この世は斯くも美しい』を加えてぎりぎり80分収録となったので、ルドルフ・ショックの写っている写真が加わっているが、おそらく、そのオリジナル盤の表紙から部分が取られているのだろう。オリジナルLPから、1、2曲の省略をして「80分}に収めているかも知れない。

 レーベルの離合集散の話など、どうでもいいことかも知れないが、それぞれの音源が最初に世に出た時の状態への探求だけは、忘れてはならないことだと思っている。

 とは言え、この5枚組はレハールのオペレッタを語る上で、重要なコレクションとして、お薦めである。

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METライブビューイング『メリー・ウィドウ』2015年公演から、このオペレッタの歴史的名盤に思いを馳せた

2015年02月25日 17時23分17秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 

 METライブビューイングの『メリー・ウィドウ』を東劇で鑑賞した。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での新演出公演、先日、1月17日の舞台を収録したものだ。スタッフ、キャストは以下の通り。
指揮:アンドリュー・デイヴィス
演出・振付:スーザン・ストローマン
配役
 ハンナ:ルネ・フレミング(ソプラノ)
 ダニロ:ネイサン・ガン(バリトン)
 ヴァランシエンヌ:ケリー・オハラ(ソプラノ)
 ロシヨン:アレック・シュナイダー(テノール)
  ほか
 私のお気に入りの演目なので期待して行ったのだが、正直なところ、かなり肩透かしを食った感じだ。決して出来が悪いわけではない。劇としては充分に楽しめた。だが、どうにも、からだの奥底からワクワクするといった音楽ではないのだ。何故だろう? そればかり、上映中に考え続けていた。
 演出は、ニューヨークの歌劇場にとってはお膝元と言ってよいブロードウエイのミュージカル演出でベテランといわれているスーザン・ストーローマン。彼女の堂に入った演出は、登場人物の細かな動作や、位置移動にまで及んでいると思われるもので、そのコミカルな味わいはなかなかのものだが、その動きで、例えば半世紀も前のジョージ・キューカー監督のミュージカル映画『マイフェアレディ』での「運がよけりゃ」の場面を思い出させたりもして、どこか類型的な観がついてまわる。もちろん、「マキシム」の場面のダンスも然り。ブロードウエイ・ミュージカルはこの50年ですっかり様変わりしたが、それを無理に押し戻して、50年代、60年代のロジャース=ハーマンシュタイン時代のミュージカルを想起させたが、どこか取ってつけたようではあった。だが、一番の問題はやはり、メトの舞台が大きすぎるということではないだろうか? このオペレッタはもっと、サロン的なコンパクトさが不可欠なのかも知れないと思った。
 このあたらしいプロダクションがそれなりに成熟するまで、もう少し待たなければならないのかも知れないと思ったが、問題は、音楽のほうだ。
 ご承知のようにアメリカの映画音楽は、ウィーン仕込みのオペレッタに大きく影響されている部分があるが、それは、全盛期のディズニーの長編漫画映画、例えば『ピーターパン』のような、あるいは『シンデレラ』のような夢見るサウンドに結実している。だから、メトのオーケストラ・サウンドで聴くオペレッタの音楽に期待していた。
 今回のMET公演での指揮者アンドリュー・デイヴィスはロンドン名物の『プロムス』の「ラスト・ナイト」でも、観客への語り掛けやアドリブの受け答えで会場を沸かせるなど、中々に芸達者なところを見せていたから、このオペレッタの指揮も期待していた。だが、出て来た音楽は、軽妙洒脱というよりダイナミック、甘くやわらかな音楽というよりガッチリと組みあがった音楽、といったもので、これには失望した。私の愛聴しているいくつかのCDのような、南ドイツの暖かな揺れ動く音楽でもなければ、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ風のヌケのよい軽快さでもなく、パリ・オペラコミークの華やかな喧騒とも違うのだ。分厚くボッテリとしたサウンドが、ここでは、どうにも座りが悪い。これはどうしたことか?
 このオペレッタも他のオペレッタと同じく、〈架空の〉異国情緒が満載だが、そこでの様式の異なる音楽の描き分けがなく、ヴィリアの歌へと連なる場面でも、繰り広げられるダンス音楽がどれも通り一遍だからリズムが走らない。ここで、「きちんとした音楽」を聴きたくはない。アンドリュー・デイヴィスという指揮者は、こんな大味な音楽をやる人ではないと思っていたから、ちょっと驚いてしまった。言わば、「インテンポのレハール」だ。やはり、小屋の大きさと細かな打ち合わせの演出で、「事故」を避ける無難な指揮に徹したのか、と残念に思った。
         *
 じつは、この翌日から、そんなわけで、『メリー・ウィドウ』のさまざまな録音を、久々にひっぱり出して聴いてしまった。
 私のお気に入りのひとつは、ハイライト盤だがフランツ・マルシャレク指揮のアカンタ盤。ハンナをインゲボルク・ハルシュタイン、ヴァランシエンヌをルチア・ポップが歌っている。ダニロはペーター・アレクサンダーだが、これがめっぽう芸達者。リズムのくずれ、メロディのゆらぎが何とも言えず魅力だ。もちろん二人の女声も最高に楽しめる。このアカンタのオペレッタ・ハイライトシリーズは、独RCAがラジオ音源でLPを出していた流れを汲むものだったと思う。旧西ドイツは、オペレッタのローカルな名盤の宝庫だ。
 だから、EMI系の独エレクトローラのオペレッタ・シリーズも私のお気に入り。『メリー・ウィドウ』は1960年代にヴィリー・マッテス指揮グラウンケ管弦楽団がある。ローテンベルガーのハンナ、エリカ・ケイトのヴァランシエンヌで、ロシオン役はニコライ・ゲッダだ。このクルト・グラウンケによってミュンヘンに設立されたオペレッタ専門といってよいオーケストラは、60年代に数え切れないほどのオペレッタ録音を残した楽団だが、ひとつとして駄盤が無い。
 そして独エレクトローラで1979年に録音されたのがハインツ・ワルベルク指揮ミュンヘン放送管のもの、ダニロにヘルマン・プライ、ヴァランシエンヌにヘレン・ドナートだ、これらドイツのローカル系録音の魅力は、何と言っても、その体内リズムのように血肉に同化した音楽の動き、加速度やテンポ・ルバートにある。そのあふれる魅力は、英EMIが大プロデューサー、ウォルター・レッグが心血を注いで製作したシュワルツコップ(ハンナ)、エーリッヒ・クンツ(ダニロ)、ニコライ・ゲッダ(ロシオン)らを起用した1953年のアッカーマン盤をいとも簡単に凌駕したはずだ。几帳面で生真面目なオペレッタ録音の典型である。
 おそらくレッグという完璧主義のディレクターは、このアッカーマン盤の「弱さ」に気づいたはずだ。1963年のマタチッチ指揮による再録音は、前作がモノラルだったから、というだけではなかっただろう。ダニロがヴェヒターに替わったがシュワルツコップとゲッダの布陣は変わらない。しかし、マタチッチのスラヴの血を良く理解した勢いのある音楽は、アッカーマンとまったく違う。
 確かに、それはレハール音楽の大事な要素ではあるが、そのレハールに強く聴かれるハンガリー系の、あるいはスラヴ系の、あるいはチャールダッシュ風の音楽の勢いは、オペレッタという音楽文化がアメリカに与えた影響全体の流れの中では、一部分に過ぎないように思う。
 ミュンヘンを中心とした南ドイツのオペレッタの温かさから、なぜ私はアメリカのハリウッド黄金時代のサウンドや、リチャード・ロジャース時代のブロードウエイ・ミュージカルを思い浮かべてしまうのだろう。まだ確証を掴んでいないので、単なる私見に過ぎないが、アメリカの映画音楽はウィーン仕込みのオペレッタを持ち込んだ亡命ユダヤ系音楽家の影響を強く受けたが、それは、こうしたレハールのものよりも、オスカー・シュトラウスやコルンゴールドの甘く揺らめく音楽、あるいはセンチメンタルな音楽が持つ豊かなサウンドの延長にあるものだと思っているのだ。
 だから、このマタチッチ盤も、レッグの懸命な努力にもかかわらず、私は、この曲の本当の魅力は出せていないと思っている。音楽的には、ドイツ語歌唱であるにもかかわらず、むしろ、サドラーズ・ウェルズ風の抜けのよい闊達な金官群と引き締まった弦の音楽が小気味よいものとなっている。(サドラーズ・ウェルズのオペレッタ録音は、50年代から60年前後まで、こちらもイギリスのローカル発売盤でいくつも聴ける。)ある意味では、その亜流ともいうべきものが、今回のアンドリュー・デイヴィスによるメト公演だったとも言える。
 ――と、ここまで書いてきて、少し、デイヴィスという指揮者を支えている音楽文化が理解できたような気がした。すると、アメリカ人の、あるいはブロードウエイが持っている音楽文化とのギャップが、今回の、取ってつけたような音楽を生んだのかとも思った。
 メトよ、指揮者の選択を誤ったのだ、と言っておこう。英語バージョン公演だからといって、ロンドンから指揮者を呼んだのが間違いだった?

 

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METライブビューイング『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で、レヴァインのワグナーを堪能した。

2015年02月10日 16時07分24秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 昨夕、東京・東銀座の「東劇」で、METライブビューイングのワグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を鑑賞した。
 指揮はジェームズ・レヴァイン、演出は最早〈伝説的な〉とも言えるオットー・シェンクによるリアリスティックかつオーソドックスな舞台。主なキャストは以下のとおり。
 ハンス・ザックス:ミヒャエル・フォレ(バリトン)
 ヴァルター:ヨハン・ポータ(テノール)
 エファ:アネッテ・ダッシュ(ソプラノ)
 ベックメッサー:ヨハネス・マルティン・クレンツレ(バリトン)
 ダフィト:ポール・アップルビー(テノール)
 ご承知のように、この楽劇は神話世界に材を採っていたワグナーが、珍しくも人間界を舞台にした作品だが、その分だけ、ことさらに象徴的なシチュエーションとストーリー展開にあふれた抽象性が際立っており、そのため、ことさらに渋くリアルな舞台の中で展開される「人間喜劇」の滑稽さが、さらにデフォルメされて楽しめた。そして、いつもながら、レヴァインの、読みの深いワグナー音楽の響かせ方から聞こえてくる明瞭な音楽が、じつに充実した一夜だった。いわば、全編に亘っての「ごった煮」のような人間喜劇が、ある巧妙な操り糸によって手繰り寄せられていく過程が、くっきりと浮かび上がってくる。これは壮観だ。特に第2幕の終盤の、長大なクレッシェンドというべき数分間における安定した刻みと咆哮との錯綜は圧巻で、その頂点からの弱音へと向かう音量というか音力の絶妙の調整には、心底感激した。このあたり、カイルベルトのバイエルン国立歌劇場盤(オイロディスク)が見事に聴かせるのを、私は愛聴してきたが、レヴァインとメトロポリタン・オペラ管弦楽団の底力を、改めて確信した。そして、第3幕前奏曲の密やかで艶やかな響きの美しさ! この深さ、豊かな陰影は、このコンビにして初めて成し得ることだと思う。(惜しむらくは、総奏で、やはり、「東劇」の音響設備の脆弱さが露呈してしまうことだ。)
 ザックス役のミヒャエル・フォレは、当初予定されていたヨハン・ロイターが降板したため、昨年メト・デビューしたばかりのところをレヴァインの推挙で代役となったそうだが、ザックス役は、一昨年、バイロイトで好評だったという。レヴァインの目に適ったものと見え、2018年のメト「指環」でヴォータン役が決まったと伝えられている。私自身は、私事めいて恐縮だが、まず、故ロリン・マゼールを思い出させる面構えにまず印象づけられたが、その歌もじつにいい。ニュアンスの豊かな表現がスパッと食い込んでくる音楽を持っている。じつに小気味良い。だから若すぎる、と不満をもつ人もいるかも知れないが、その観客を引き付ける力は、会場のスタンディング・オベーションにも現われていた。
 そのほか、特に私の印象に残ったのは、ベックメッサー役のクレンツレだ。この滑稽な役作りと、絶妙な調子っぱずれに歌うセレナーデや歌合戦での下手ぶりの名演技・名唱は大したものだと思う。とにもかくにも、6時間近い長丁場が、あっという間だった。
 今回の上映は今週の金曜日まで。

 なお、以前から思っていることだが、今回の字幕スーパーでも「ドイツの芸術」「芸術の~」と、英語でいうところの「アート」を「芸術」と訳しているが、これは、英語の「art(=アート)」が「芸術」であったり「技術」であったりするのと同じく、「技術」という訳語を当てるべきだと思っている。今日の日本でもしばしば言われる「技術立国」を目指しての「マイスター同盟」のようなものを、ワグナーは言っているはずだからである。

 

 

 

 

 

 

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