goo

カイルベルト1953年バイロイトの『指輪』全曲/ネゼ=セガン『メンデルスゾーン交響曲全集』/福原彰美『ブラームス小品集』

2017年12月15日 12時45分12秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、今年下半期分。新春に発売される号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。(詩誌では字数制限に合わせて省略した部分がありますが、以下はオリジナル版です。)なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■カイルベルト一九五三年バイロイト《指輪》が超廉価で発売

 カイルベルトが初代音楽監督を務めたバンベルク交響楽団創立70周年記念のボックスアルバムを当欄で取り上げた時に、私は「一筆書きの音楽」という言葉を使った。この一九五〇年代には当たり前だった音楽が、その後の半世紀以上もの歳月を経てあらかた失われてしまったのを、私たちは体験してきたわけだが、そうした一筆書きの音楽が〈再生〉する可能性が、最近、ここかしこで予感されるようになってきている。次項で取り上げるネゼ=セガンもそのひとりで、ニューヨークのメト・オペラでのいくつかの公演を「ライブビューイング映像」で鑑賞して以来関心が高まってきたところで、メトの次期音楽監督就任が決まったとの報が入り、ますます期待が膨らんでいる。先日、来日して「NHK音楽祭」に手兵バイエルン国立管弦楽団を率いて参加したペトレンコもそうだ。これもまた、揺るぎない音楽が滔々と流れ続けて弛緩することのない大名演だったが、就任が決まっているベルリン・フィル音楽監督の地位が、この人の飾り気のない音楽の足かせにならないことを祈るばかりだ。少々脱線してしまったが、表題の「カイルベルト《指輪》全曲録音」の話題に進もう。これは、ワーグナー・マニアならご承知のように、五〇年代に毎年のようにバイロイト音楽祭で『ニーベルングの指輪』四部作を指揮していたカイルベルトの遺産のひとつだ。これもまた、滔々と流れる音楽が迸る名演である。じつは、カイルベルト/バイロイトの『指輪』四部作全曲(あるいは、その内のいくつか)の録音は他の年度のものがいくつも残されており、このあたりの情報に詳しい方ならば、五五年の「世界初のステレオ録音」の存在もご存じだろうと思う。数年前に突然「新発見」として英テスタメント社から発売されたので、購入された方も多いと思う。英デッカ社が当時の若きディレクター、ピーター・アンドリーに任せた正規のライブ収録だったが、アンドリーがこの直後に退社してライバルのEMIに移籍したせいか、あるいは、その後任として入社したカルショウが、スタジオ録音での『指輪』全曲録音をショルティ/ウィーン・フィルで企画したためか、お蔵入りとなっていたものだ。今回、私が取り上げるのは、それとは異なる五三年盤である。じつは、五五年ステレオ盤が登場した際、「全曲はともかく」と、少し遅れてだったと記憶しているが分売の『ワルキューレ』だけはしっかりと聴いてみた。そして、「ま、この程度のものか」といった感想で、そのままにしておいたのだ。今回、それよりも二年前の録音が、モノラルながら、全四部「ボックス入り12枚組」1800円程度で発売されたので、すぐさま飛びついて聴き比べたという次第。そして、本当のカイルベルトの真価に仰天したのだ。これこそが、「一筆書きの音楽」の神髄だ。わずか二年とは言え歌手も入れ替えがあり、同じ歌手では明らかな年齢的な衰えがあることも事実だが(五五年には第二キャスト盤もあるが、歌手陣は明らかに五三年盤が上。)、ひょっとすると、カイルベルトがマイクを意識しているのかと思うような取り澄ました部分が、この五三年録音には皆無だということが大きい。『ワルキューレ』は異演が多いから比較しやすいが、録音も優秀。五五年盤のステレオ音に負けていないだけでなく、第一幕冒頭からして、濃密な気配、空気感が凄い。ジークムントとジークリンデの二重唱から一気に駆け抜ける幕切れのアチェレラントの加速度では、名高いフルトヴェングラーのバイロイト『第九』を思い出させるほどのもの。この味わいは五五年盤では得られない。テスタメント盤で、言われているほどのものではないと思った方にこそ、聴いていただきたい貴重な遺産と信じて疑わない。

 

■ネゼ=セガンの「メンデルスゾーン交響曲全集」に聴く〈気配〉


 これは、以前当欄で採り上げた「シューマン交響曲全集」の姉妹編とでも言うべきもの。ヤニック・ネゼ=セガンがヨーロッパ室内管弦楽団を振ってのパリでの演奏会ツィクルスを収録したもので三枚組のアルバムである。ベートーヴェン以後、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンは、それぞれの苦悶の中で、ロマン派時代の交響曲の在り様を探り続けたが、それだからこそ、「全集」「全曲演奏会」といったアプローチには意味がある。『第1番』では、古典的なプロポーションからはみ出でくる音楽の軋みが興味深かったが、何といっても、新鮮な魅力に溢れていたのは『第2番《讃歌》』だ。この声楽付きの特異な音楽は全体をまとめ上げるだけでも至難の作品だが、例えばカラヤンの残した録音のように、優れた演奏からは極上の愉悦が得られる。比較的最近のものでは、私はクルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の録音、エド・デ・ワールト指揮オランダ放送フィルの録音などが印象に残っている。端正な構築を聴かせるマズア盤、優美でしなやかなデ・ワールト盤に対して、このネゼ=セガン盤は深く沈み込んだ中からじわじわと音楽が立ち上がる〈気配〉が素晴らしい。「第2曲」で声楽が加わると、そのカラフルであたたかな色香にあふれた世界からは、それこそ、楽園に遊ぶかのような幸福感が現出する。前項のカイルベルトに続いて、ここでも〈気配〉がキーワードとなってしまったが、この曖昧で怪しげな言葉は、音楽の魅力を解く重要な要素なのだ。音楽が人の心の間隙に入り込む瞬間の秘密を解く鍵が、そこにある。そのことについて、引き続き、次項で考えてみたい。

 

■福原彰美が『ブラームス・ピアノ小品集』で新境地


 ハイドン、モーツァルトを経てベートーヴェンが飛躍的に表現力を拡大させてしまったピアノ曲が、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス等をどれほど苦しめて来たかを私たちの世代は知っている。それは演奏する立場にとっても同じ苦しみだったと思うし、その苦悶を私自身は、ずっと辿りながら聴いてきたと自負している。自問自答のように閉じたブラームスのピアノ曲では、ことさら、その演奏スタイルの歴史に関心があったが、ここ数年ではニコラ・アンゲリッシュの一連の録音に注目していた。このピアニストのくっきりとした音楽の小気味よさは、例えばウィルヘルム・ケンプが表現した夢見るような世界よりも、ずっと引き締まった音楽の魅力だ。そこから放射される光は、確かに隅々までよく照らしてくれた。だが、何かが足りない、と感じてもいた。それを埋めてくれたのが、私にとって身近な存在でもある福原彰美だったのは、うれしいことである。これまで何度となく書いたことだが福原のことは、たまたまの出会いがあって個人的にも、その音楽的成長を見続けてきた。その福原の久しぶりのソロ・アルバムが、これである。ブラームスのピアノ小品「作品七六」「一一八」「一一九」に加えて二つの歌曲が福原自身の編曲によってピアノで奏でられるという意欲的なアルバム。「Acoustic Revive」というレーベルからの発売で、Amazonなどの通販でも入手できる。福原のブラームスからは、大柄な巨匠芸への憧憬を断ち切った潔さから生まれる淋しくも儚いブラームスの音楽が、きらきらと輝いて香っている。ワレフスカという一筆書きの音楽を守り抜いた稀有なチェロ奏者とのデュオ以来、ローゼン、アモイヤルなど様々な名手との共演を重ね、音楽の根源的な気配、空気感を敏感に感じ取った若い才能が、私に問いかけてくるものは大きい。思えば、福原の演奏に最初に魅せられた際に、私は「彼女のピアノには、ある種の畏怖の感覚がある」と表現した。それは、薄氷の上を爪先立って歩くような繊細さとして、新しい感性だと讃えたものだった。ここ数年、彼女は、かつてのそうした美質から離れて、〈大きな〉音楽を目指していたように思う。その福原が、強い打鍵力に支えられた本物のピアニッシモを奏でる実力を手にして、還ってきたのだと思った。「作品一一八」冒頭の大きな音楽のうねりと繊細な内声部との共存に、福原の新境地が象徴的に生きている。

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )