goo

メトロポリタン歌劇場、〈ネゼ=セガン時代〉の幕開けを感じさせた『椿姫』

2019年02月22日 14時55分09秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

このところ、音楽以外の仕事ですっかり時間を取られてしまっていたので、数年前から将来を期待していたネゼ=セガンが、メトロポリタン歌劇場の音楽監督に抜擢されて最初のシーズンが始まっているというのに、ゆっくりと書いていられない状況が続いている。先日ブログupした「ワレフスカ・プレミアム・リサイタル」の推薦文を仕上げるのがやっとだったが、私の書いているものを以前から読んでくださっている方なら、そこで語った演奏史における「ネオ・ロマンティシズム」という言い回しと、このところ私がこだわっている「劇場指揮者の時代」というキーワードとの関連に気づいていただけたと思う。

 ネゼ=セガンの音楽の〈生き物のような動き〉は、正に、考え抜かれた音楽の成果が「音楽の生まれる現場」で〈生体反応〉した結果なのだ。詳細に書いている時間がないので申し訳ないが、先日の「METライブビューイング」で鑑賞した、〈新音楽監督ネゼ=セガン〉の指揮するヴェルディ『椿姫』は素晴らしい出来だった。ヒロインはディアナ・ダムロウ。アルフレードにファン・ディエゴ・フローレスを配した新演出版である。大胆な読み替えが話題になったことのあるマイケル・メイヤーの演出だが、意外にオーソドックスな色調で重厚な舞台でありながら、ストーリー展開上の各人物の出入りや距離感がすっきりとしたわかりやすくスマートな流れにまとめられた今回の演出は、「椿姫」の舞台として、しばらくのあいだ定着するものになるだろう。

 幕間に流れたダムロウらとネゼ=セガンとのリハーサルでのやり取りにも現れていたが、この「椿姫」は、おそろしく丁寧な進行の音楽となって提示されていた。それは、細心の注意を払って開始される第一幕の序奏からして、それを予感させた。

 ヴェルディの音楽の特徴でもある、せっかちな転換では、そうした音楽的な切れ目をことさら鮮明にして、ひとつひとつピン留めするようなネゼ=セガンの指揮に、ダムロウもフローレスもピタリと随いてゆく。だからこその、幕切れに向かっていくヴィオレッタの心の浄化が、音楽として息づいてくるのだ。最初と最後の幕との前奏曲の響きの違いが、これほど鮮明に描き分けられて聞こえたこともなかった。意図の明確な若き音楽監督のオーケストラ・ドライブに、ベテラン歌手が全力で向かった秀演だった。今後のメトに期待している。

――というわけで、相変わらず多忙を極めているのだが、これから「METライブビューイング」に出かける。本日が初日の「アドリアーナ・ルクヴルール」。デイヴィット・マクヴィカーによる新演出、アンナ・ネトレプコのタイトルロールだが、さて、私の愛聴ソフト、ミレルラ・フレーニのスカラ盤(LD)や、レナータ・スコットがレヴァインと録音したCDに、どこまで迫れるか? 指揮はこのところ快調のジャナンドレア・ノセダである。ネトレプコに関しては、私は、このところ、やや「?」が点灯中。ちょっと強引かなァ、と思うことがあるのだが。

 

 

 

 

 

 

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ワレフスカのチェロを聴くプレミアム・リサイタルが、東京で、たった一日だけ開催されます。

2019年02月20日 13時42分44秒 | ワレフスカ来日公演の周辺

 

 不確定な「可能性」の話として聞いていた日本で久しぶりに行われる「クリスティーナ・ワレフスカ」のチェロ・リサイタルが、実現することになったと聞いたのは、今年に入って数週間経ったころだったと思います。もちろん、ピアノは「福原彰美」です。来月、3月23日(土曜日)午後2時からのマチネ公演、場所は渋谷の「オーチャード・ホール」です。主催は「ビルボード・ジャパン」ということです。

 詳しいいきさつは聞いていませんが、このところ、台湾の財団の関係者に熱心なワレフスカの支援者がいることから、ひんぱんに台湾でのコンサート・ツアーが実現しているので、その途上での立ち寄りが急に決まったということではないかと思います。もう70歳を越えて、高齢に差し掛かっている彼女ですから、航空機での移動に負担もあり、ひょっとすると、「ワレフスカのチェロ」の、あの途方もなく豊かで大きな音楽を聴く機会も最後になってしまうかもしれないな、と、ふと思ってしまいました。たった一日の日本でのリサイタルです。

 じつは、このリサイタルへの「推薦文」を寄稿しました。先日、後援の朝日新聞紙面にも大きな広告が掲載され、そこにもありますから、既にご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、当ブログへの掲載のご了解をいただきましたので、以下に掲載します。ビルボード・クラシックのホームぺージに掲載されているものとも共通です。

 


〈ネオ・ロマンティシズム演奏〉の到来

音楽文化史家・音楽評論家 竹内貴久雄

 

ワレフスカが世界の音楽市場に華々しく登場したのは1970年代初頭である。世は正にレコード全盛時代。「スタジオで録音される音楽」は、次第にミスのない正確なアンサンブル、精緻で解析的な演奏の誘惑に侵されていった。しかも、二度にわたる大戦以後、私たち鑑賞者の世界も、感情の自由な発露であるはずのロマンティシズムへの懐疑に向かっていた。そんな時代の変化から距離を置き続けて自らの「無垢な音楽」を守り抜いていたワレフスカが、36年ぶりに日本に姿を現したのが2010年の来日コンサートだ。その日ピアノを担当した福原彰美は、ワレフスカの二回り、三回り後の世代という若さだったが、以来、このコンビは不動のものとなった。当時、福原が呟いた「ワレフスカさんの大きな音楽に随いてゆくのに夢中だった」という言葉にこそ、世界のレコード市場から身を引いてワレフスカが守り抜いた振幅の大きな音楽と、それを全身で受け止められるピアニストの感性との〈生体反応〉が凝縮されている。私は、この二人が奏でる音楽に、演奏芸術における「ポスト・モダン」の先にもあるはずの「ネオ・ロマンティシズム演奏」の到来を確信している。


【追記】

本日のブログUPは、だいぶ前にカテゴリー分けしておいた「ワレフスカ来日公演の周辺」に収めました。タイトル下の「カテゴリー」欄にカーソルをクリックすると、文中の「奇跡の来日」など、一連のワレフスカ関連文が読めます。ひとりでも多くの方が、ワレフスカの音楽に触れていただけることを願っています。

 


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )