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再び、「オーディオファイル」という用語について

2013年07月02日 14時54分37秒 | 雑文
コレクター仲間の今村享氏から、メールが届きました。やっぱり、詳しいですね。ありがとうございます。さまざま、納得しました。以下に今村氏のメール全文を掲載します。
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audiophileは比較的新しい言葉ですが、LP時代になって間もなく生まれ、少なくとも半世紀は経って、一応一般的に認知されるようになった用語と言えるでしょう。
辞書には‘ハイファイ愛好家’などの訳語が採用されていますから、確かに‘オーディオファイル・ファン’は‘ハイファイ愛好家のファン’という事になってしまい、無理やりこじつければ、誰かカリスマ的オーディオファイルが居て、その人のファンという、ちょっと違った意味になってしまいます(かなり強引な曲解ですが)。
しかし、実はこれが奇しくも‘オーディオファイル’アイテム蒐集家たちの実態を言い当ててもいるのです。
ご指摘のように、海外の通販リストにはaudiophileというコーナーが存在するものが多数あり、そこには様々な記号が付いています。
これ等の記号は、正に或る特定の雑誌に由来するものを指していて、それがThe Absolute Sound誌(TAS)の編集長、Harry Pearson氏(HP)が推奨するHPリストに載っているアイテムであるという訳です。
日本でも似たものがあった事を、多分覚えておられると思いますが、それは長岡鉄男氏の選んだ一連のレコードです。
このように、オーディオファイル・アイテムとは、特定の個人(HP)が推奨するアイテムの事であり、狭義には彼のリストに載ったもの、広義にはTASの中で言及された(HP以外の執筆者たちも含む)ものや、もっと広く解釈して、オーディオファイル・アイテムが多く存在するレーベル(マーキュリー、RCA、EMI、英デッカ等)を丸ごと載せるなどの方式を採っているようです。
つまり、今のオーディオファイルとは、特定のアイテム、或いは、それ等を含むレーベルを蒐集する趣味の人たちの事であり、昔の無邪気なハイファイ・マニアとは異なる人たちと言えるでしょう。
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――ということのようです。私が、「オーディオファイル・ファン」という珍妙な「日本語」を使ってしまい、その後、「オーディオファイル・アイテム」のファンだのと、試行錯誤してしまったのも無理からぬ事、というわけで、これからは、「オーディオファイル・マニア」とでも呼ぶことにしましょう。


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「オーディオファイル・ファン」???

2013年06月27日 10時30分10秒 | 雑文
 先日(6月21日)の「ストコフスキーの芸術」第3集に関しての「蛇足」の蛇足です。
 ブログのUPで、最初、文中に「オーディオ・ファイル・ファン」という表現を使ったところ、友人からメールで苦言が舞い込みました。
 「オーディオファイル、だけでオーディオ愛好家、という意味なので、みっともないから訂正されたほうが良いかも。」
――というものでした。「みっともない」と言われてしまって、私としては、「みっともない、と思うひとがいるのはまずいなァ」と思って、昨晩、訂正したのです。そのくだり、

 ストコフスキー・ファン、初期LP復刻CDファン、オーディオファイル・ファンの方々が購入するCD

――という部分ですが、その問題個所を「オーディオ愛好家」にしてから考え直し、結局「オーディオ・マニア」に直してしまったのですが、どうしても釈然としません。昨晩、私のブログのその個所をご覧になった方は、ご記憶があるかもしれません。でも、私が言いたいニュアンスから、どんどん離れてしまったのです。
 オーディオ愛好家、という人々は、私がレコードを集め始めた中学生時代から居ました。録音が優秀なレコードならば、どんなにヘボでイライラするような演奏でも感動できる人たちでした。たぶん、音楽ではなく、装置から再生される「ハイファイ音」に感動していたのでしょう。
 私が「オーディオファイル・ファン」と言ったのは、海外の中古レコードの目録などに、20年くらい前に忽然と現れたカテゴリー「オーディオファイル」に掲載されるアイテムにしか目が行かないような人たちのことを言いたかったのです。「ミクロコスモス」さんあたりのカタログだったように思います。「指揮者」「ピアニスト」「ヴァイオリニスト」別のページや、「RCA」「DECCA」「EMI」などレーベル別のページよりも前に陣取って、「オーディオファイル」というカテゴリーが作られ、そこでは、「犬が居る」「犬が居ない」「影付きの犬」「白い犬」(これ、マニアの方なら、すぐわかります)、「6個の目玉」「2個の目玉」(これも!)、そうしたことが細かく表示されていました。そんなことを気にして購入する人が増えてきたからだったわけですが、この「オーディオファイル」のカテゴリーに入るアイテム(盤)のファン、というのも、この時、間違いなく形成されてしまったのです。
 幸いなことに、長い間、エヴェレストはこのコーナーに入ってきませんでしたから(コマンドもそうでした)、5ドルから7ドルくらいでよく出回っていました。もっと安かったかも知れません。

 ――というわけで、私が伝えたかったニュアンスを生かすために、もういちど、指摘された部分を書き直しました。「オーディオファイル」アイテムのファン、です。みなさんのまわりにも、居るのではありませんか? 

【6月28日追記】
更に、更に熟考しました。「オーディオファイル・マニア」にしました。
結局、「オーディオファイル・ファン」に始まって、「~マニア」に落ち着いたわけです。
やっぱり、何かと問題がある、というか、からかわれる対象は「~マニア」になるということでしょうか?
「コレクターとマニアは大違い」をテーマにしたこともありますが……
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青弓社の新刊『クラシック知性主義』『クラシック野獣主義』に関連して、様々な推薦図書

2013年06月05日 16時14分00秒 | 雑文


 昨日のこのブログで、青弓社の今月の新刊『クラシック知性主義』と『クラシック野獣主義』についてご紹介しましたが、その最終ゲラ校正に併せて「執筆者のみなさまへ」として、面白い依頼がありました。
 この姉妹篇2点を出版したら、書店で関連書のフェアを展開するように各書店と交渉中、とかで、書店にプレゼンするために、「これは読んでおくべきだ」という推薦図書を少なくとも5点、できれば10点くらいあげてください、というものでした。もちろん出版社不問、和書・翻訳書不問、自著を入れてもかまわない、ということでした。

 このご依頼に、私は以下のような回答をしました。

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きょうの気分で思い付いたものに過ぎません。ちょっとこだわっているテーマにからんでいるだけです。「知」は「考察の基礎資料的な本」。「野」は「発想のヒントになる本」が私の基準。


《「知性主義」向け推奨図書》
●団伊玖磨『私の日本音楽史――異文化との出会い』(NHK出版)
●竹内貴久雄『ギターと出会った日本人たち――近代日本の西洋音楽受容史』(ヤマハミュージックメディア)
●小泉文夫『音のなかの文化』(青土社)
●佐川吉男『チェコの音楽』(芸術現代社)
●芳賀直子『バレエ・リュス――その魅力のすべて』(国書刊行会)

《「野獣主義」向け推奨図書》
●岩田誠『脳と音楽』(メディカル・ビュー社)
●チャールズ・ローゼン『ピアノ・ノート』(みすず書房)
●レッグ&シュワルツコップ回想録『レコードうらおもて』(音楽之友社)
●ロバート・チェスターマン『マエストロたちとの対話』(洋泉社)
●菅野沖彦『新・レコード演奏家論』(ステレオサウンド)
●竹内貴久雄『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア)
●シャルル・ミュンシュ『指揮者という仕事』(春秋社)
●吉田秀和『批評草子』(音楽之友社)
●山本茂『神童』(文芸春秋)
●和田旦『音と言葉のはざまで』(芸立出版)

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 以上のように、軽く流しただけだったのですが、友人の喜多見慧氏(彼は『知性主義』に一本寄稿しています。)が割と真面目にお相手しています。私の著書も入れてくれたので、「読んでね」とメールしてきたものです。面白かったので、彼の了解を得て、私のブログに掲載します。

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◎「知性主義」および「野獣主義」への共通推薦図書

1.雑誌「アルテス」(アルテスパブリッシング)創刊号における高橋悠治の「震災後の音楽などない」発言≪高橋悠治の真骨頂。胸のすく、あまりにもまっとうな発言。どうしてどうして彼の胸の激しい炎は消えていない≫

2.永井荷風の「ふらんす物語」(岩波文庫他)の、特に「付録」の音楽に関する記述≪畢竟、異文化との対峙、という視点で、日本の音楽評論は結局これを越えていない。海外での生演奏の体験回数を誇るだけの最近の書き手の楽天主義への、はるか過去からの大いなる皮肉≫

3.村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(講談社文庫)における「トロイメライ」に関する記述≪音楽が先入観によってしかなりたたない、という、音楽関係者が誰一人指摘し得なかった驚くべき鋭い指摘。もう一人の世界的に受けに入っている村上某の自分だけ判っているつもりのクラシック音楽に関するくだらない記述とは別次元。ジャズに対するブラジル音楽の優位についての文章でも判るように、この人はそうとう音楽の本質に肉薄していると思う。小説は漫画的だが≫

4.吉田秀和「たとえ世界が不条理だったとしても――新・音楽展望2000‐2004 」(朝日新聞社 )および「永遠の故郷」4部作(集英社)≪必ずしも吉田の著作の全てを肯定するものではないが、書けなくなった自分と、出発点に戻った方法論の再構築への真摯さ。音楽評論とは自らを語ることという意味で≫

5.長岡鉄男「ディスク漫談2 キメラの時代」≪私はオーディオでは決して長岡信者ではありません。が、「音楽については素人」を公言した彼の耳の確かさは大したものだと思います≫

6.竹内貴久雄「ギターと出会った日本人たち―近代日本の西洋音楽受容史」(ヤマハミュージックメディア)≪文献に対する徹底した視点と、一方、持論を展開するときの牽強付会を恐れぬ大胆さと勇気≫

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 青弓社さん。書店さんの関心が高まって、関連書フェアが開催されるといいですね。

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石黒浩己のニューアルバム『Canvas――風景の見える音楽』リリース後の初ライヴを聴きました。

2013年03月02日 12時07分42秒 | 雑文
 昨夜は、六本木のライヴ・スポット「ソフトウインド」で、作曲家でピアニストの石黒浩己とパーカッショニストの竹本一匹によるデュオがありました。私がライナー・ノーツを書いた新しいCDアルバム『CANVAS――風景の見える音楽』(キングレコード)が発売されたばかり、いつもの彼らのライヴ会場も、とてもいい雰囲気の熱気があふれていました。アルバムの詳細は、石黒浩己氏の公式HP
http://www.hirokiishiguro.com/canvas/index.html
にありますし、私の、かなり長めのライナーノーツも、曲目一覧に続けて全文掲載されていますから、きょうは、昨夜の演奏で思ったことをひとこと、ブログ風に。
          *
 アルバム完成までに、さまざまなことがあった石黒は、昨夜、いつになくよく歌うピアノを弾いていました。いわゆる癒し系ピアノのひとつと見なされている石黒の音楽ですが、私は改めて、石黒浩己は、ピアノに自分の心を投影しようとあがいている音楽家のひとりなのだと確信しました。単なる商業音楽になってしまっている「癒し」ではないのです。彼の、決して多いとは言えない熱心なファンが、昨夜も集結していましたが、彼ら彼女らが、それぞれの想いを抱いて石黒の音楽を聴いているのが、私にも感じられました。そして、いつになくよく歌っていたピアノに、竹本一匹のパーカッションが、とてもソウルフルに応えていました。ふたりで、とても濃い、たっぷりとした音楽になっていたのです。それは心地よい時間の流れを、私に与えてくれました。
 そういえば、だいぶ以前、竹本がいつになく石黒のピアノに切り込んで、かなり掻きまわしていた日の演奏の帰り、私が、「きょうはずいぶん突っ込んでたね」と声をかけた時のこと。竹本が小声で、「じつは石黒さん、きょう指の調子が悪くて、不安でへこんでたんです。内緒ですけど…」と教えてくれたことが忘れられません。友情に支えられたデュオ・ライヴの醍醐味です。
 クラシック音楽ではいつもレコード・CDに残された演奏を基準にして語っている私ですが、じつは、目の前に繰り広げられる演奏について語るのは、意識的に避けているという面もあるのです。感動は私の内にあればよいことで、音楽評論は感動を生みだす仕掛けとしての「解釈」を語るものだということ、そして、その「解釈の歴史」を語るものだというのが私の考えだからです。それは、舞踊家であった父親の仕事を幼いころから見ていて、本番前の打ち合わせ、演出のやり直しの面白さまでも舞台袖から見て、幼いころを過ごした私の「幸福」でもあります。
 だからこそ、なのです。昨夜は、「音楽は、例えば波頭の潮のしぶきのように、生まれるそばから消えていくものだ」ということを、久しぶりに実感した夜となりました。石黒の音楽は、私にとって、そういう接し方をさせてくれる音楽なのです。

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ラジオ番組『北山みつきの ゆったりゆらり』へのゲスト出演で、ハワイ生まれの日本民謡の存在を知りました

2013年02月28日 17時56分48秒 | 雑文


 先日、縁あって「ラジオ日本(JORF)」で、番組の収録がありました。毎週土曜日の朝7時35分から50分までの時間帯で、「北山みつきの ゆったりゆらり」という番組にゲスト出演します。
 ほんの2、3分間で2回、近々来日するチェロのクリスティーヌ・ワレフスカのリサイタルのPRの一環で出演する予定だったのですが、私が音楽文化史にも関心があるということや、ラジオ番組に慣れているだろうということから、急遽、予定が変わって、7、8分で2回分、と枠が広がってしまいました。お蔭様で、むかしCSの実験放送時代に、クラシック音楽専門チャンネルで『竹内貴久雄の銘盤・廃盤事典』を2年半ほどオンエアしていた頃を思い出して、楽しく過ごさせてもらいました。
 じつは、番組のパーソナリティである北山みつきさんが歌う新曲『あなたの笑顔~トゥトゥアロハ~』のCDが、4月24日に徳間ジャパンからリリース予定で、その歌に引用挿入されているのが、明治時代に日本を離れてハワイに移民した人々の労働作業から生まれた民謡『ホレホレ節』だということで、当日の打ち合わせの直前に私が聴いて、その感想を番組中でちょっとコメントする、ということになったのです。私自身、『ホレホレ節』という歌の存在を知りませんでしたが、後で家に戻ってからちょっと調べてみただけでも、なかなか奥深い歴史を持っていそうな予感がしました。もちろん、資料的に真面目に作られたCDや、フルコーラスを歌っているCDもありますから、北山さんの新曲は、ご本人のおっしゃるとおり「ホレホレ節の紹介ソング」という程度の挿入なのですが、北山さんの歌によって、こうした歌の存在が、より広く知られるようになるのも、意義あることかな、と思っています。
 北山みつきさんのオフィシャル・ブログは下記です。
  http://ameblo.jp/kitayama-mitsuki/

 ところで、当日の収録は、1回目放送分の終わりごろでワレフスカの話題に変わり、それを受けて、翌週分ではワレフスカの魅力について、たっぷり話しました。1回目の放送は今週末、3月2日、2回目の収録分は3月9日に放送されます。
 「ラジオ日本」は、「ラジコ」のニックネームで、パソコンやスマホでも聴く事ができますので、全国で聴く事ができるはずです。
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「石黒浩己+竹本一匹」のCDアルバムにエッセイを寄せました。

2012年12月18日 16時20分48秒 | 雑文
 このブログで以前紹介したことのある「ピアノとパーカッション」によるライヴ・コンサートを六本木のジャズ・スポットで展開している「石黒浩己」が、久しぶりにCDアルバムを出します。もちろんパーカッショニスト・竹本一匹とのデュオも含まれています。
 じつは、縁あって、今度もライナーノーツを執筆しました。エッセイ風にまとめたもので、私自身、とても気に入っています。彼らの音楽の居心地の良さが、自然に書き進めさせてくれたように思っています。年明け2月初旬にキングレコードからの発売で、タイトルは『Canvas――風景の見える音楽』です。ライナーノーツ全文は、関係者の了解をいただいてから、このブログ上で読めるようにするつもりです。石黒氏もすっかり気に入ってくれたようで、自分のホームページに載せたいと言っていましたので、そちらでも読めるようにしようと思っています。私のこれまでに書いた石黒浩己の音楽についての文章は、このページ左欄を下にスクロールして「このブログ内で検索」を「石黒浩己」にすれば読めます。
 石黒浩己の音楽は、もちろん、いわゆるクラシック音楽の持つシリアスな感覚とは異なりますが、リラックスした中に、彼の表現意欲を感じて、いつも楽しんでいます。六本木の「soft wind」という店ですが、何度も見かけた彼のファンは、いつも同じ窓際のカウンターに座って聴いていた私のことを覚えてくれているでしょうか。私にとっても、久々の、そして待ちわびていた石黒浩己のソロアルバムです。
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日暮菜奈さんの「絵画展」があります。

2012年09月22日 14時45分15秒 | 雑文



 6月に刊行されたばかりの、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)の表紙・ウラ表紙に使用したイラストを描いた日暮菜奈さんの「第2回 絵画展」が、下記にて開催されます。ぜひご覧ください。私も楽しみにしています。

10月20日(土曜日)、21日(日曜日)の2日間、
AM11時~PM6時まで
JR柏駅から徒歩7、8分のとても個性的な書店「ハックルベリーブックス」の2階、イベントスペースが会場です。地図、その他は下記にアクセスしてみてください。

http://www.huckleberrybooks.jp/map/access.html

 冒頭のポスターは、前回に続いて今回も、彼女のために展覧会の開催を企画したJR柏駅近くにある「rico」というジャズ・バーの橋本マスターのアイデアで作られたようです。店内に貼ってあるのをみてびっくりしました。私の本が幅を効かせていてお恥ずかしいのですが、愛情あふれるキャッチコピーが気に入ったので、ご紹介します。画像を拡大すれば、お読み戴けると思います。
 私も、その店で菜奈ちゃんと知り合いましたが、絵を描いていると知って、去年の展覧会を見に行ったのが1年ちょっと前だったと思います。橋本マスターは、なかなか面白い人物で、客の若いアマチュア・ミュージシャンにライヴコンサートの場として店を開放したり、この展覧会のような催しをしたり、と、とても「地域文化」を大切にしている人です。その彼の英断がなければ、私が菜奈ちゃんの絵に出会うこともなかったでしょう。酒席での「へー、絵をかいてるんだ」で終わってしまったような気がしています。
 思えば、その去年の絵画展で見た絵に、彼女の印象と少し違う違和感を覚えたのが、そもそもの始まりでした。「キミがほんとに描きたいものと違ってたんじゃない?」と話しかけたのは、それからずいぶん経ってからでした。すると、「ウン、そうなの…」みたいな発言があって、「じゃ、ここに好きに画いてごらん」と、目の前の私のキープボトルに、名前を書くためのマーカーペンで画いてもらった絵が、今回の私の著書の表紙を飾った絵に似たものだったのです。
 ちょうどそのころ、本の表紙をどうするかでいろいろ思いを巡らせていた私が、ひょっとしたらこれで決まりかも知れない、と思った瞬間です。
 菜奈ちゃんには、本が出来上がってから言われたひとことが、印象に残っています。
 「私がずっと昔から描いてきた、ほんとうに描きたいものを引き出してくれて感謝してる」といったふうなことだったと思います。でも、私としては、書籍編集者としてずいぶん長いこと仕事をして、その間、さまざまな新人と出会ってきましたが、今回、久しぶりにまた、編集者らしい若やいだ気持にさせてくれた菜奈ちゃんに、むしろ、私の方が感謝しています。
 今、計画を練っている次の本の表紙もお願いしようかな、と秘かに企んでいます。

【追記】
このところ、音楽以外の仕事なのですが、原稿執筆に追われていて、ブログの更新をしていません。申し訳ありませんが、もうしばらく、お待ちください。体調でも悪いのか、と何人かの友人に電話やメールをもらいました。ご心配おかけして申し訳ありませんでした。体調はとても良いのです。昨晩も奈菜ちゃんと飲みました!!
 そういえば、「音楽以外の……」で思い出しました。柏書房から刊行されたばかりの『江戸時代265年ニュース事典』という面白い本は、縁あって古くからお付き合いのある歴史作家・後藤寿一氏の執筆のお手伝いをしていたのですが、その本が先日届きました。まえがきに私の名前を記載して戴いているのですが、それがまた久しぶりに、「竹内喜久雄」でしたので思わず苦笑。「貴」と「喜」の問題は、私のブログの読者の皆さんはよくご存じと思います。私は、クレジット会社や、保険証書、役所の文書にまで、それこそ小学校入学以来、何度も、この誤記に遭遇しているのですから……。
 横道に、それてしまいました。でも、この『江戸時代……』、とても面白い本です。5200円の定価は、決して高くありません。私自身は、大正・昭和初期の文化を調べていて感じたことのルーツが、明治期どころか、江戸期に、既に萌芽があるという重要なことに気づかされました。「歴史」は奥深いものです。だから、たかだか100数十年のレコード史に残された演奏の変遷も、奥深いのでしょう。



 
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『クラシック幻盤 偏執譜』の編集作業、異聞――BBC-RADIO-CLASSICSの扱いについて

2012年07月12日 11時31分48秒 | 雑文


 久しぶりに「BBC-RADIO-CLASSICS」シリーズへのライナー・ノートの再掲載を再開しようと思って原稿を整え、upしようと思った瞬間、ちょっとひとこと付け加えようと書きはじめたら、あっという間に長くなってしまいました。つくづく、わたしは「ワン・センテンスのつぶやき」ができない人間なんだなぁと、思いました。

――というわけで、当初、【ちょっとひとこと】と題して、末尾に付け加えるつもりだったものを、独立させて、本日、掲載します。

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 「BBC-RADIO-CLASSICS」の再開です。89枚目ですから、いよいよラストスパートです。
 じつは、近刊の『クラシック幻盤偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に、この「BBC-RADIO-CLASSICS」のために書いた解説も収録しようという構想があったのですが、ページ数が膨大になってしまうので、いずれまとめたいと思っている「第3評論集」あるいは「第4評論集」に一気に100アイテムをまとめて掲載することにしました。その際には、もちろん、ブログでのいくつかの付記はもちろん、若干の註記的な加筆もするつもりですが、『偏執譜』の場合と同様に、元の原稿は、そのまま収録します。いつも言っていることですが、私の書き残したものは、執筆後数十年経っても、その資料的意味づけや、演奏論としての時代的位置づけに、ズレが生じていないからです。
 私としては、「BBC-RADIO-CLASSICS」のための一連の文章は、やはり、つまみ食いされるより、ひとつの塊りとして、お読みいただきたい、ということがあります。これは、書籍編集者として長年仕事をしてきた私の判断です。100本の原稿相互の関連が感得できるような「事項索引」も作成しなければなりません。本とは、そういうものだと信じています。第3評論集の基本テーマは、このBBCも含めて、作品解釈の地域差と、時代の変遷との関連にもうすこし目を向けた形にまとめたい、という野望があります。
 ついでながら、『クラシック幻盤 偏執譜』をお読みくださっている方にひとこと。同書15ページから17ページにかけて、いわゆる「売り手側」との感覚のギャップについて書いた文章、いわば、このBBCシリーズに対する私の考え方を収録しましたので、お読みいただければ幸いです。 
 では、明日から――。(明日は、バルビローリ指揮の、じつに不思議な魅力を持ったブルックナー演奏です。)



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リパッティのショパン『ワルツ集』録音年ねつ造説――異聞(今村享氏の調査を踏まえて)

2012年07月02日 18時54分35秒 | 雑文



 私の新刊『クラシック幻盤 偏執譜』(発行:ヤマハミュージックメディア)に収載の「リパッティ《ショパン/ワルツ集》録音年ねつ造説」について、今村亨氏から以下のメールをいただきました。私が知らなかった事がまた増えましたが、私が舌足らずだったこともありましたので、彼からのメール転載に続けて、私のコメントも一緒にupします。
 
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 リパッティのショパン:ワルツ集の録音時期について、どのように言及されて来たのか少し調べてみましたが、英コロンビアのオリジナル発売盤(33CX1032)のスリーヴノートは曲の解説だけで、録音の経緯どころか、リパッティに関してさえ一切触れていません。しかし、当時そうした録音の経緯を詳しくスリーヴノートに記載するのは極めて異例で、そうしたジャーナリズム的視点がスリーヴノートに導入されるようになったのはステレオ時代に入ってからだったのではないでしょうか?
 日本国内でのリパッティに関する理解がどうだったのかを調べてみると、手元にある昭和37年(1962年)発行の音友レコード名演奏家全集2「ピアニスト」の中の、リパッティについて書かれた項目では、ショパン:ワルツ集は「1950年7月にジュネーヴのリパッティの自宅で病苦を押して吹き込まれた最後の録音である。」と記され、当時の日本で、既にこのように理解されていた事が判りました。
 注目したのは、“リパッティの自宅”という記述で、竹内さんが86年の初CDに示されている録音データとして『偏執譜』にジャケ写と共に書かれた、“ジュネーヴのスタジオ”での録音という記載との相違です。
 また、同じ記事の中に、こうした話の出典の手掛かりとも思える、英グラモフォン誌1951年2月号にレッグが寄稿した「リパッティ追悼記」をかなり詳しく紹介した記述が見られますが、恐らく、録音の経緯についての理解は、このレッグの追悼記を訳した解説が前にあって、そこからリパッティの病気を押しての録音という伝説が生まれたのではないでしょうか?
 未だ想像の域を出ませんが、「病気を押しての50年7月録音説」は初出盤のスリーヴノートに記載があると考えるより、当時の音楽誌(「ディスク」「音友」等)に、レッグの追悼記についての何らかの言及があったと考える方が可能性が高いような気がします。
 ネット検索を幾つかのキーワードで行うと、英グラモフォン誌1951年2月号の記事が見つかりましたが、何故かレッグの寄稿ではなく、当時のレギュラー批評家によるもので、次のように記されていました。

「ディヌ・リパッティ」
 この輝かしい若手ルーマニア人ピアニストの死亡ニュースは、真にピアノ音楽に興味を持つレコード・コレクターたちに大きなショックをもたらすだろう。リパッティは未だ30代に入ったばかりで、彼が国際的名声を得たのは、第二次大戦後からに過ぎなかった。しかしながら、大戦前の日々、彼はフランス国内では既に知られた存在であり、ナディア・ブーランジュ女史とのピアノ・デュオ演奏のレコードを一枚乃至二枚録音していた。
 私は彼が1946年のミラノ・スカラ座再開記念コンサート・シリーズの一つにソリストとして出演し、ショパンのピアノ協奏曲を完全無欠な表現で弾ききった話を特権的に聞き出した。
 彼のレコードは2曲のピアノ協奏曲を含む次のようなものが既に発売されている:

●シューマン:ピアノ協奏曲/カラヤン指揮(Columbia LX 8624/7)
●グリーグ:ピアノ協奏曲/アルチェオ・ガリエラ指揮(Col. LX 8579/82) ※ショパン:ワルツ2番変イ長調「華麗なる円舞曲 op.34-1がフィルアップ
●ショパン:ピアノ・ソナタ3番ロ短調 op.58(Col. LX 8560/2)
●ショパン:夜想曲8番変ニ長調 op.27-2(Col. LB 63)
●ラヴェル:「道化師の朝の歌」(Col. LB 70)
●リスト:「ペトラルカのソネット104番」(Col. LB 68)

 筆者は2曲のピアノ協奏曲は全ての録音の代表盤であり、特にグリーグは他の演奏は考えられないと言って絶賛し、ソロ録音では「ペトラルカのソネット」がリパッティの表現を特徴的に表した名演だと記した後、丁度この月にリリースされたばかりの2点が紹介され、早く試聴したいと書かれています。

●バッハ:パルティータ1番変ロ長調 BWV.825(Col. LX 8744/5)
●ショパン:ワルツ全集(Col. LX 1341/6)

 グラモフォン誌51年2月号が発売された時点で、英コロンビアは未だLPの発売を行っておらず、紹介されているレコードは全て78回転SP盤ですが、注目すべき事実として、一番早い時期の発売盤である、ガリエラ指揮のグリーグに既にワルツ2番がフィルアップされている事があります。これと全集が同一録音なら、全集もほぼ47年制作と言って良いのではないかと思うのですが…

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 ここまでが今村氏のコメントです。ほんとうは、このあとにまだ数行あるのですが、さらに話がややこしくなるので、ここまでにします。以下は、私のコメントです。

 先日、今村氏と電話で話した時には、英コロンビアの33CXオリジナルについて、曖昧にお答えしてしまったのですが、私も所有していました。今村氏の指摘のとおり何も記載のない素っ気ないものでしたので、拍子抜けして、入手以来記憶から抜けていたのです。
 
 私は、新薬コーチゾンの投与によって死の直前に病いを押して録音された、という感動的エピソードを、日本盤の古いLPの記載から言及していますが、最初からイギリスで語られていたはずだ、と思っています。これは、今村氏が誤解しています。私がそう言う根拠は、日本国内初出(日本コロムビア盤)の解説のリプリントのはずの上野一郎氏の東芝盤解説です。(これは、当時の印刷テクニックからして、既存の不均等なインクむらのある印刷物から写真製版したものとみられるからです。)そこに、筆者名も出典も明らかにされていないのですが、とてつもなく詳細な録音に至るいきさつが記載され、その最後のところで、英国での発売直前の演奏評のごとき引用があり、その出典は「グラモフォン誌/1950年12月号」とありますから、私の解釈では、この号に詳細な「いきさつ」が掲載され、それを全文訳しながらも、著作権料逃れ的に出典ぼかしがあったのだと思っているのです。

 「とてつもなく詳細」というのは、スイスの医師からの「リパッティが演奏可能になったがそれは1、2か月程度」という連絡を受けたEMIのレッグが、大急ぎで以下の手配をしたというからです。

(1)仏コロンビアに米コロンビアが貸し与えてプラド音楽祭のカザルスを録音していた最新の機材を、ジュネーブに至急空輸する要請を行なった。
(2)新しいピアノをドイツからジュネーブに送らせたが、これは、戦後スイスへの第1台目の輸出だった。
(3)ジュネーブの放送局のスタジオを録音場所に確保するため、その間、放送局では、通常の番組編成を変更し、一定時間スタジオを空けて協力した。

 そのようなことまで詳しく昭和30年頃に上野一郎氏が解説しているのは、英語文献を読んでいるからとしか思えません。今村氏は1951年2月号の英「グラモフォン誌」は見ているわけですが、その2ヵ月前の1950年12月号に、上野氏の解説の根拠があるのではということです。なお、1986年の英EMIからの初CD化の際の解説のディテールが、上野解説にほぼそっくりなのは、言うまでもありません。つまり、1950年12月あたりに「ねつ造」された同じ文献から書き起こされているはずなのです。病いを押しての強行録音という感動エピソードの発信地は日本ではないはずです。

 「リパッティの自宅で録音」というのは、主治医が付きっきりで録音されたとか、毎日、何時から何時まで休憩を挟んだとかも、上記の上野氏の解説に詳しく書かれていますから、その辺を早とちりした人物が執筆したというだけでしょう。日本のレコード文献の記述では、よくある間違いです。

 しかし、それにしても、SP盤での「グリーグの協奏曲」に「ショパンのワルツ第2番」が付いていたとは初めて知りました。確かに演奏時間からして、SP盤4枚8面にカッティングすると7面まででグリーグが収まってしまいそうで、最後に5分ほどの小品を入れたくなりますから、生前のリパッティが「ワルツ第2番」のテイクだけは、しぶしぶ発売を了承していたのかも知れません。これが、一時期の東芝で1947年録音とされ、現在は1950年録音とされているスタジオ録音と同一演奏だったなら、私の仮説は真説になるなぁと思いました。「新発見の別テイク」と敢えて断わり1950年7月録音だと言っているものや、1950年の全曲録音が、1940年代末に発売されたSP盤グリーグにフィルアップできるはずはないのですから……。 
 まあ、でも、私としては、リパッティのショパンは、稀代の大プロデューサー、ウォルター・レッグが大ウソをついて守り抜いた演奏なんだ、と思って聴いている今が、幸せです。もう、真相追求など、どうでもよくなってきました。私が何よりも声を大にして言いたかったのは、レコードに残す演奏が、これほどに厳しく選別されていた時代が過去にあった、ということへの感動なのです。

 ――とは言いながら、SP盤、探してみましょうか? 何年かかるでしょう?


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私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)は、こんな本です。

2012年06月15日 12時36分48秒 | 雑文



 昨日は、ホッとして書いた「あとがき」を転載しましたが、本日は「まえがき」と「各章の中扉リード文」を転載して、どのような本なのかをご紹介します。下の写真(左)は昨日と異なり、帯をはずした状態の表紙です。私の歳若い友人、日暮菜奈さんのイラスト作品を、このところ、いつも私の本のデザインワークをお願いしている内山尭未さんにアレンジしてもらったものです。片隅に小さく入っている文字は「盤歴50年で聴き分けた20世紀の演奏記録」です。帯に連動させたキャッチフレーズとして入れたもので、正規のサブタイトルは付けませんでした。もう一枚の写真はウラ表紙。日暮菜奈さんのイラストをご覧ください。
 発売予定日は6月24日です。アマゾンなどでも、もう予約受付を開始しています。



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【まえがき】

 この本は、前著に続いて、これまでにクラシック音楽のCDや廃盤LPなど、様々な音盤について機会あるごとに書いてきたもののうち、演奏に関するものを中心に採録した。全体を四章に分け、間に長めのコラム風読み物三本を入れた。「インテルメッツォ」と名付けたのは、性格が違う各章に幕間を設けたかったからだ。
 第一章は、十五年間にわたって、詩誌『孔雀船』に掲載したものである。半年ごとに再発売盤も含めた新譜CDから私が自由に選択して書いたものだが、手を加えず、執筆した順にそのまま収録した。分野別に再編しなかったのは、CDも商品である以上、それが制作された時期の社会風潮や流行などの影響下にあった、ということを感じていただきたいからだ。テーマとなっているCDもその概要を添えて掲出してあるので、音盤探索の手がかりにしていただきたい。
 巻末に演奏家名で引ける索引を設けたので、この章の中だけでなく、本書全体を縦横に駆け巡って散在している様々な演奏家や指揮者たちを組み合わせて、お読みいただきたい。索引の項目の偏りからは、私のこだわりが見えるだけでなく、演奏家相互の関わりや影響などにも気付かれると思う。それぞれの演奏家が単独の存在ではなく、大きな歴史の流れのなかで相互に関連しあっているのが「演奏史」というものだからだ。これは、私自身が索引を仕上げて、改めて実感したことでもある。
 第二章は、世界中の中古LP市場から買い集めてきたコレクション仲間との対談を再録した。こんなことにまでこだわるのか、と呆れていただければ幸いである。
 第三章と第四章は、特定の指揮者・演奏家について書く機会があったものを再構成した。このところの私の関心が、録音媒体を手にした二〇世紀の演奏家たちの演奏スタイルの変遷に向いているので、そのことを意識した内容になっているとは思うが、書き落としたものも少なくない。改めて書き下ろしの機会があればと願っている。

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【各章の中扉リード文】

第1章 とっておきCDの15年史
     ――こんなおもしろいCDが発売されて、アッという間に消えました
 
詩誌『孔雀船』に年二回、その半年間に登場したCDの中から私が書きたいものを自由に採りあげて書いていたものを掲載順にそのまま集めた章。私が好むマイナーなアイテムが多いこともあって、既に入手困難盤になった物が多い。だが、ネット市場が発達したので、今では居ながらにして世界中、地の果てまで中古盤を探しに行くことができる。読者の皆さんの検討を祈る! 文末の「(○年○月)」の記載は、それぞれの文章の発表年月。

       *

第2章 LPレコード・コレクターズ対談
     ――「ここまで集めて ここまで聴いて」

古書街として全国に知られる東京・神田神保町のタウン誌の編集に協力していた頃、レコード・コレクターの今村亨氏との対談を連載していた時期がある。ずいぶん楽しいおしゃべりをしたが、その中から、特に充実している部分を収録した。章のタイトル「ここまで集めて、ここまで聴いて」は、連載時に私が命名したもので、当時から気に入っている。コレクターの心を単純に表現すれば、この一語しかない。

       *

第3章 指揮者たちのカレイドスコープ
     ――20世紀演奏のクリップボード第一

前著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』をまとめてから後の十数年間に、様々の機会を得て書いたものから、指揮者に関するものを集めて生年順に再編した。各項目タイトル下のリード文で、それぞれの出典を明示した。サブタイトルは、演奏の変遷を追ってきた私の立場からのもので、まだ、それぞれの現象の一部を拾い上げただけなので、この表現になった。もっと大きな流れを俯瞰できるようになりたいと思っている。

       *

第4章 器楽奏者たちのアイデンティティ
     ――20世紀演奏のクリップボード第二

第3章と性格は同様の構成だが、指揮者ではなく、演奏家のものを集めた。第3章では完全に生年順とすることで見えてくる時代の変遷があるが、こちらは冒頭にカルテットを置いたり、多少のジャンル分けをした。かなり偏りがあるが、これが前著からの十数年で私がこだわっていた演奏家の内、たまたま書く機会に恵まれたものということになる。むしろ第1章に散在している演奏家のほうが多種多様だと思う。


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第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』が、まもなく発売されます。

2012年06月14日 11時13分12秒 | 雑文


 このところの数ヵ月、ほとんど当ブログの更新ができませんでした。第二評論集の原稿整理に忙しくしていたからなのですが、やっと先週、印刷所に回しましたので、ほっとしたのもつかの間、その間に不義理していたもろもろが、どどっと押し寄せてきました。なにはともあれ、ひとつケリを付けたわけですが、それはまた、新たな課題を背負うことにもなりました。その辺りのニュアンスの一端は、アマゾンの、私の「著者ページ」のプロフィールを差し替えましたので、お読み戴いてお察しください。

 いつも申し上げていることですが、私は野放図なつぶやきはしませんので、以下に、下版直前の明け方、徹夜明けの頭をクリアにすべく家の周りを散歩しながら構想を練って(第一評論集をまとめた18年前と同じようなシチュエーション!!)、一気に即興で書き上げ、結局、一呼吸置いて、じっくりと推敲して完成させた「あとがき」を、以下に、そのまま転載することにします。

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おわりに

 この本は、私の「第二評論集」となる。第一評論集『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』をまとめてから、もう十八年が経過した。今回も、その間に様々な機会に書いたものから選択して構成したが、それは、私の立場が大きく変化していった期間でもあった。毎週々々、ラジオ番組で放送する稀少音盤を選んで解説する忙しさから解放され、新譜CDを紹介する雑誌から離れたことが大きかったと思う。クラシック音楽評論一辺倒の世界から距離を置き、大正・昭和初期の日本人の西洋音楽受容史へと関心の大半が移り、その視点から改めて、クラシック音楽の演奏史を意識するようになった。もともと私のスタンスは、演奏の歴史を丹念に辿ることだったし、名盤探しとはそういうものだと信じていた。「ただ珍しいものを集めるのが『マニア』で、『コレクター』は研究するんですね」と言っていたのは、私がコレクターとして敬愛する今村亨氏の言葉である。
 前著から今回の書までの間に、CD業界もずいぶん変質した。輸入盤攻勢が本格化したこと、メジャー・レーベルが旧譜の掘り起こししか出来なくなってきたこと、放送音源の大量流出、個性的な仕事をする小レーベルの発生、そして価格の大暴落である。
 前著を世に出した頃は、「録音された演奏」というものに基準も規範もルールもあったから、「名盤選」というものが成り立っていたのだと改めて思い出す。思えば、私がそのころ以降の放送音源盤、海賊盤などに、そして、そうした音源を追いかけまわす人々に関心を失ってしまったのは、際限もなく登場する音盤の「規範」のなさに理由があった。音楽も舞台芸術も、もともと、目の前で歌われ、演じられ、踊られて、消えてしまうものだった。それを繰り返し聴いたり観たりすることの意味を、児童舞踊家という父親の仕事を通して問い始めたのが、6、7歳の頃の私自身だったように思い出す。だからこそ、繰り返し繰り返し聴かれるべく作られたレコードという「もうひとつの演奏芸術」の成果を真剣に問うことの面白さに、私は、一時期魅せられていたのだ。「録音された演奏」とは、厳しく選別されて残されたもののはずだったからである。
 本書の「譜」とは、そうした選別を経たことを意味している。出版社の方が考えてくれた書名の中で私がこだわったのは、その一文字だけである。そして、次々に廃盤になってしまう現状を憂いている私を察して「幻盤」という言葉を付加してくれたのは、この本の制作に際して献身的な協力を最後まで続けてくれたヤマハミュージックメディア出版部の國井麻梨さんだ。國井さんはじめ、この出版に関わってくださった全ての方々に深く感謝している。

二〇一二年六月


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ニック・ヴァン・ブロスというピアニストを知りました。

2011年12月09日 14時20分00秒 | 雑文
 冒頭の写真は、ニック・ヴァン・ブロス(NICK VAN BLOSS)というピアニストの弾くバッハ『ゴルトベルク変奏曲』全曲のCDで、英ニンバス(NIMBUS ALLIANCE)から今年の1月に発売されたものです。「知ってますか?」と、日本クラウンのディレクター川村聡氏から電話があったのが、事の始まりです。ぜひ、私の感想が聴きたいというものでした。
 じつは、このピアニストはロンドン在住で、ジャパン・シンフォニアを指揮して意欲的な活動を続けている指揮者・井上喜惟氏の旧知の友人だそうです。井上氏は、「自分としては凄い演奏をするピアニストだと思っているが、周辺では評価が真っ二つに分かれて、全然だめなピアニストだと酷評する人までいるので、どういうことだと思っている」、ということで、川村氏に感想を求めてきたのだそうです。川村氏が、私にも意見を求めたら? と提案して、私のところに送ってくれることになったのです。
 以下は、それに応えて、私が井上氏に送った感想です。井上氏と川村氏の了解を戴いて、事のいきさつとともに公開します。ニック・ヴァン・ブロスは、現在ロンドンを中心にヨーロッパではセンセーショナルに注目されているそうですが、日本ではまったくといっていいほど、知られていないそうです。井上氏は、「このすばらしいピアニストをぜひ紹介したい」ということで、ジャパン・シンフォニアの来年の秋のコンサートへの協奏曲での参加を決めたそうですし、ソロ・リサイタルも決まりはじめているようです。私も楽しみにしています。

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「Nick van Blossの感想です」

井上喜惟様

早速聴いてみました。

表現意欲の豊かさには、強く魅かれました。
その大きな感情表出の揺れ幅の大きさからは、
このピアニストの音楽性の確かさも感じて、
共感するところは多々ありました。
でも、過剰なロマンティシズムの反動としての、
「削ぎ落された感情表出」の時代を経て、
今また、大きな感情の振幅を
再構築してみようという機運が高まっている時代にあって、
もう少し「自問自答」の逡巡がにじみ出て来てもいいのではないか
と思うほど、力任せにグイグイと弾き切っている箇所が
かなり聴かれるところに、このピアニストの
音楽体験としての経験不足を感じてしまいました。
「もっと怖がってもいい」と思いました。
それが少ないため、堂々と鳴り切るのですが、
色合いや匂いといった音楽のかげり――
陰影を生みだし損ねていると感じました。
ひとことで言えば、
モノクロ映画のような凄み、は感じますが、
これでいいのかなぁ、ということです。
こんなに音楽を大きく動かして、モノクロか?
という、不満はあります。
指揮者で言えば、若いころのバーンスタイン。

関心を持ったピアニストですから、
これからも注視していきたいとは思いましたが、
私は、ピーター・ゼルキンの1994年のRCA録音の方が、
こうした自在さを大胆に押し出した「ゴルトベルク」では、好きです。
例えば、第2変奏での突然の色合いの変化、
第6変奏に入っての沈み方、
あるいは第20変奏の決然とした開始など、
どこをとっても、空気(=気配)が濃密な音楽です。

色々書きましたが、
具体的な指摘でなく、
抽象的になってしまって、
申し訳ありません。

これからも、ご活躍ください。
晴海のトリトンでは、何度か聴かせて戴いております。
我が家には、井上さんのCDのコーナーのごときものもあります。
ブルノ国立フィルのCD、発売された当時、すぐ買って、
まだ大事にしています。アルメニア・フィルとの録音は、
興味深かった記憶があります。
お陰さまで、今度は、
ニック・ヴァン・ブロスという注目すべきピアニストの存在にも、
気づかせていただきました。

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以上が、私が井上喜惟氏に送ったメール全文です。

一部の人たちの間で、その演奏の是非をめぐって、
論争が巻き起こっているらしい、というご報告です。

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 「マニア」と「コレクター」は大違い!

2011年07月28日 11時09分33秒 | 雑文
 




 本日からしばらくは、2010年5月に発行された『クラシック・スナイパー/6』(青弓社発行)の特集「マニア大戦争」に際して併載されたアンケート「マニアが誇る一枚」のために書き下ろした原稿を転載します。私と平林直哉氏との最後まで噛み合わない対談がメインの読み物になっていた特集に併載されていたものです。編集人の許光俊氏にわがままを言って、「アンケート」とは言え、その趣旨を大幅に逸脱して「3枚」のLPを紹介するという、私が『クラシック・スナイパー』で続けている「名盤・奇盤の博物学シリーズ」のひとつになるような文章にしてしまったものでした。
 今回、青弓社さんのご了解をいただきましたので、当ブログに、分割してご紹介します。モノクロで掲載していたジャケット写真も、カラ―でご覧ください。

           *

 改めて、同特集を、対談を含めて読み直してみましたが、要するに私は、本日掲載する「前振り」部分に期せずして現れている通り、「マニア」ではなく「コレクター」なのですね。思えば、稀代の「愛書家」気谷誠氏に、「コレクターは自らのコレクションについて、語る義務がある」ということを教わり、『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)を上梓してから、何年経ったのでしょう。その後に様々の機会に書いたものもずいぶん溜まってきました。このブログで「分類・整理」「補遺」「自註」を続けてきましたが、そろそろ、書籍編集者としての私が、ウズウズしています。やっと、この半年ほど取り組んできた「大正・昭和初期文化」に絡んだ調査と執筆の仕事が一段落したのです。3・11震災で崩れていたCD棚の整理もほぼ終了し、(レコード棚は「完全無傷」なのです。重量がモノを言うのでしょう、とはコレクター仲間の言。)改めて関心のある演奏家やテーマ別に収蔵し直しつつあります。
 久しぶりに、音楽関連の大著をまとめたくなっています。

           *

 また、1行で済ませるつもりのご挨拶が、長くなってしまいました。本日は、青弓社にお渡しした原稿の「前振り」部分だけにします。 以下の部分に続けて、『クラシック・スナイパー』では3枚のLPについて書きましたが、各々長文なので、それらも明日以降、3回に分けて当ブログにUPします。このブログの読者の方は、ほんの一部しか『クラシック・スナイパー』の読者と重複していないようですが、(悲しいことに、そのくらい、紙媒体の読者の市場が小さくもなっているようですが)、既にお読みになった方も、ジャケット写真をカラ―で掲載しますのでお楽しみください。

 以下が、その原稿の「前振り部分」です。冒頭から、「マニア」と「コレクター」を混同しています。今回読み返して気づきました。青弓社さん、許さん、ごめんなさい。

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■マニアが誇る一枚/竹内貴久雄

 コレクターの「誇り」とは、「所有していることを誇る」のではなく、そのコレクションについて「どれほど語ることがあるか」なのだと思っています。その意味で、数千枚の「語るべきこと」を持ったレコードの中から、たった1枚だけを選ぶわけにもいかず、無理をお願いして、「きょう、私の目についた3枚」について、とりあえず書かせていただくことにしました。3枚あれば、私の考え方なり蒐集の方法論なりが、最小限ですが表現できると思ったからです。

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 きょうはここまで、です。



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「オリジナル・マスターテープ使用」というCD化への疑問と、いわゆる「盤起こし=板起こしCD」の奨め

2011年05月25日 15時09分27秒 | 雑文


 きょうは、往年の名演をどのような音源ソースで聴くか? という話題。
 先日、タワーレコードから、独自企画で制作・発売されたEMI系の音源の復刻CDがまとめて数枚届いた。もともと、一連のタワーの独自企画は、長らく廃盤になっているものが登場するので、それなりの役割を果たしてきたと思うが、細かいことを言っていてはキリがないし、せっかくの意欲的な動きに水を差しかねないので、いわゆる「CD化の音質」については、驚くほど見ちがえた出来栄えを称賛するとき以外は、なるべく話題にしないようにしてきたつもりである。
 つまり、レコード時代の古い演奏の場合、オリジナルのレコード音源を聴いている者にとっては、CD化は第二義的、かつ、便宜的な鑑賞素材に過ぎないというのは当たり前のことで、ことさら声高に言うようなことではないからだ。むしろ、タワー企画では、80年代以降の、初出がCDだったものでさえ廃盤が多いから、それらを再発売してくれることが、ありがたかった。
 だが、ここ数年、特定の「どうしても出ない」というものを除いて(じつは、それこそが「宝の山」なのだが…)、ほとんどの定評ある名盤が出揃ってしまったので、マスタリングを変更して「こっちがいい音だ」「いや、今度こそ」と、同じアイテムを繰り返し再発売する傾向が増えてきたように感じる。あるいは、オリジナルLPデザインを模した表紙に替えての再発売も増えてきた。それらも、私は、否定するつもりはない。明らかに情報量が増えた音質で見違えたものもあるし、愛聴盤など、その表紙そのものに愛着があったので、わざわざ買い直したものもあるくらいだ。
 だが、「オリジナル・マスターテープ使用」をキャッチフレーズにしているものが、最近目立つようになったが、これは、どうだろう。オリジナル・マスターテープは、音がいいのだろうか?
 私自身これまでに、各社のCD制作者と様々関わってきたので、CD化に際してのマスタリングの技術というかセンスによって、かなり音が変わってしまう、という経験があり、単純には言えないことだが、このブログの冒頭の写真をみていただきたい。これは、「ROYAL CLASSICS」というイギリスの廉価版シリーズで1994年に発売されたCDである。EMIの正規のライセンスで発売されたものだが、それ以前の1988年にEMIによってコンピレーションとデジタル・リマスタリングが行われていると表記されている。私は所有していないが、多分、80年代終わり頃、赤いプラケースで発売された英EMIのCDが、その初出CDではないかと思う。
 この写真のCDを私が自分のコレクションから引っ張り出したのは、
つい先日届いたタワー・オリジナル企画のCDの中に、同じ内容のヴァンデルノート指揮ベルリン・フィルの「ベートーヴェン序曲集」があり、そこに「オリジナル仕様としては世界初CD化」というような、微妙な謳い文句が踊っていたからだ。「そういえば、以前、CDになっていたな」と記憶があったので、棚から取り出したものだ。
 さっそく聴き比べてみたが、明らかに、20年近く昔の廉価盤の方が、しっかりとアタックしてくる音で抜けが良い。低音域の手ごたえも大きいし、全合奏での各パートの分離がしっかりしている。これは、おそらく、1960年頃録音のマスターテープが、1988年のCD制作時から更なる経年変化によって劣化してしまって、今回のマスタリングでは音質的に救いきれなかったということだろうと思った。
 こうしたことは、別にめずらしいことではない。だから私は、劣化してしまったマスターテープや原盤をありがたがって使用する意味は、ほとんどないと思う。これは、LPの再プレスでも同じ。劣化してしまったマザーを使って新たにプレスしても、切れ込みの甘くなってしまった音はもう元に戻せない。これは、10数年前に米エヴェレスト盤の再プレス盤が3500円か4000円くらいで発売された時に、私の所有していたオリジナル盤と比較して感じたことだ。
 そこで私は、初出当時のLPレコードを最良の装置で再生して制作する復刻CDが、手軽に往年の名演奏を聴くには、最も適した方法だと思うようになってきた。このところ、盤起こしによる「レーヌ・ジャノーリ」の名演復刻CDで、日本ウエストミンスターさんの仕事に関わらせていただいて、ますますそのことを強く感じている。半世紀以上経っても、LPレコードからは、しっかりとした手応えの音が響いてくる。 



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朝日新聞の書評と、アマゾンの欠品騒動で思うこと。

2011年04月14日 17時59分32秒 | 雑文


 手前みそな話題で恐縮ですが、昨年暮れにヤマハミュージックメディアから出していただいた私の近著『ギターと出会った日本人たち――近代日本の西洋音楽受容史』も、このたびの大地震に関連して、少々の混乱というかトラブルがありました。
 お気づきの方も居られると思いますが、この本の書評が3月27日の「朝日新聞」読書欄に掲載されました。逢坂剛氏によるもので、朝日新聞社のwebにもupされていますから、ネット上で、今でも読めます。

 http://book.asahi.com/review/TKY201103290192.html

 執筆した者として、とてもうれしい感想を戴き、感謝していますが、実は、この書評、事前に版元のヤマハさんから連絡があって、3月13日(日)の紙面に掲載が予定されていたものなのです。例の大地震の2日後です。地震報道一色の特別紙面になって、掲載が延期になったのです。でも、地震発生時、既に、版元からはまとまった冊数でアマゾンに出荷済みでした。
 延期になった書評が掲載されたのは、2週後の27日(日)ですが、それまで、「在庫あり」(地味な本ですから「過剰在庫」レベルだったはずです)だったアマゾンが、掲載当日からどんどん減りだして、「あと○冊」表示になって、ついに「在庫なし」「再入荷日不明」となるまでに2日もかかりませんでした。
 ところが、その後がいけません。版元の倉庫からは出荷済みのはずなのに、アマゾンではどういうわけか、ずっと「在庫なし」だったので、何度か「中古品」が出品され、それがすぐに消えるということが繰り返されていました。すると数日後には定価より高く3000円程で出現。これも少し経つと消えていました。その間にもヤマハでは「納品」を繰り返してはいたのです。後でわかったことによると、アマゾンの出荷倉庫(たしか浦安の方だったと思います)も被災していて混乱していたそうなのです。このあいだの日曜日だったと思いますが、6000円くらいまでになっていましたが、これには、かなり胸が痛みました。
 というわけで、おとといから、やっと復旧して、アマゾンも在庫があります。このブログをお読みになった方で、その間に定価よりも高く買ってくださった数人の方には、申し訳なく思っております。ありがとうございました。
 私もレコード、CDのコレクター魂の持ち主ですから、しばしばアマゾンで「在庫なし」になっていると、余計に欲しくなって、片っぱしから検索をかけたりしますので、お気持ちはわかります。ほんとうにありがとうございました。
 何はともあれ、先日、その書評を読んだという別の版元の編集をしている方から、「こういうところに着目してくれる人がいる、というのは、ジャンルを持った書き手には心強いことと思う」と言われ、私もその通りだと思いました。
 思えば、書籍編集者として私も数百冊の本を世に送り出してきましたが、いくつか、とても意外な地味な本が書評に取り上げられて、救われたことが何度かあったのを思い出しました。
 本も、CDも、決して BOOK off が言うように「聴きあきたCD、読み終わった本」 といった消耗品ではないのです。そして、もちろん、丁寧で、永く残したい仕事を紹介するオピニオンの大切さは、朝日新聞のような大メディアも、こうしたネット上の発言も等しく、大切なものだと思っています。実は、このブログからも、様々なことが広がっています。オピニオンのツールとして、このブログを大事にしたいと、自分の本の扱われ方で、改めて思い起こさせてもらいました。(本日、このブログは、開設してから1000日目を迎えました。)
 まとまりのない記事で、失礼しました。


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