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江戸川乱歩賞の玖村まゆみ作品評に思う「文学は絵空事」論争――山田俊幸氏の「病院日記」(第20回)

2011年12月27日 12時27分06秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 以下は、9月の初めごろから当ブログにひんぱんに掲載した「寝たまま書物探偵所」と称する文章(山田俊幸氏が怪我入院に際して、退屈の余りに携帯で発信し続けていたものを、当ブログに転載していました。ブログの表題は、私が勝手に付けました。)の最後の受信文、10月21日到着分です。うっかり掲載し忘れていましたが、今回分を最後に山田氏は無事退院しました。
 この間、私も、彼の博識ぶりにずいぶん刺激されました。掲載が続いている間、音楽話が遠のいてしまいましたが、それなりに楽しんでくださった方も多くいらっしゃったようです。山田氏とは、今年は、大正から昭和にかけて、多くの女学生の心を捉えた「セノオ楽譜」を中心とした時代史をまとめたいと思っています。

寝たまま書物探偵所(20)・・・江戸川乱歩賞の玖村まゆみ『完盗オンサイト』と千野隆司さんの新刊『お寧結髪秘録 秘花二日咲き』 by 山田俊幸

 ちょっと前に、フックンとシメチャンという年少のお友達が見舞いに来てくれた。その時、フックンが、病床の読物ですと言って、今年の江戸川乱歩賞の本を持ってきてくれた。フックンの以前の趣味がミステリーと合わなかったので(余計なお世話だが)、たぶん奇妙な顔をしたのだろう。フックンはすぐにそれを察して、姉の知り合いの人で、サイン本なので持ってきました、と説明をしてくれた。作家をフックンはじかに知っているわけではないのだが、お姉さんは授賞式にも招かれたというのだから、姉の方はたいそう受賞者とは仲がいいのだろう。とは言っても、そのフックンも、宝塚のトップだった和央ようかと同級で仲がよかったというからうらやましい。一度、和央ようかがデビューした頃だろう、フックンに宝塚に誘われたことがある。だが、その頃は宝塚にさほど関心もなく、やだよと断ってしまったのだから、マヌケな話だ。今頃、会っておけばよかったなどと言っているのだから、さらに情けないことこの上ない。でも、残念だ。
 さて、フックンの持ってきてくれたのは、ク村まゆみ『完盗オンサイト』(講談社、8月刊行)。姓の「く」の字は王編に久。「王久」が合体して一字になったもの。たぶんコンピュータなら出るのだろうが、携帯でこの字を出すのは困難。ペンネームに難しい漢字を使うのは止めてほしい。これは、賞の選評でだれも言っていないから、わたしから言っておこう。と言った上で、サインに押された印章にあらためて見入ると、なんと本人の手彫りと思われる「王久」の合体漢字が押されている。あれあれ……だ。本人には、こだわりのある漢字なのでした。余計なお世話でしたね。
 選評から先に読む。すると、まず最初に内田康夫の文章が飛び込んできた。僕が最低点をつけた作品がなんとみごとに受賞したと言うのだから驚く、と書かれている。
 わたしは、その物言いの直接さに驚いてしまったのだが、ひょっとしたら冗談かとも思った。だが、決して冗談ではなく、非常に真面目に驚いていることに、さらに驚いた。その文面からは、「困惑」や「呆れる」というより、何を考えて受賞させたのだという「怒り」が見えている。半端ではない怒りだ。その半分は選考委員会に向けられているようなのだが、かわいそうに当然のように作者にも向けられてしまっている。ちょっと、「とばっちり」めいて、かわいそうだ。
 内田康夫のこれも、わたしからすれば、わたしのペンネームへの注文同様、余計なお世話の類いだと思うのだが、それが理由になったのだろう、次回の選考委員の名に内田康夫の名はない。これは内田康夫を乱歩賞の選考委員から辞めさせた小説となってしまったのだ。
 もっとも、内田康夫の言い分も分からないわけではない。
 選評を引くとこうだ。
 「人間の美意識というか審美眼というか感受性というか、そういったものがいかに千差万別であるかを、いやというほど思い知らされた。僕が最低点をつけた『クライミング ハイ』がなんと、みごと受賞したというのだから驚く。この作品の本質は「皇居内の盆栽」「ロッククライマー」「三人の病人」を三題噺的に組み合わせたことに尽きる。(略)その他の設定がすべて「絵空事」で表現力に欠ける。マンガの原作程度にしか評価できない。小説は所詮絵空事だから何でもありということなのか……といまだに「?」のまま。」
 これを読んでいて、なんか昔のリアリズム論争や、「文学は絵空事か」の議論を思い出してしまった。「くそリアリズム」などと言う言葉が飛び交った時代のことだ。「小説は所詮絵空事だから何でもありということなのか」などは、その時の議論とも近い。これはしばしば繰り返される議論だが、この議論でいくなら、大江健三郎にリアリティはあるのか?という議論にもなる。好き嫌いは別として、大江健三郎の小説は絵空事である。だが、ノーベル賞委員会が作品のリアリティを認めた作家でもある。川端康成もそうだ。川端の『雪国』は「絵空事」ではないのか。
 内田康夫の立場と真っ向対極に立つのが京極夏彦。京極は、これもどこかで聞いたような発言だが、「基本的に小説は何をどう書いてもいいものである。書かれている内容がどれほど荒唐無稽であろうと非現実的的であろうと、それは一向に構わないだろう。」と、内田の発言を逆なでするような選評を書く。絵空事でいいと言っているのだ。それを読んで、内田はこれが嫌だったんだなと思う。わたしの世代では、リアリズム論も閉口だが、絵空事は困るね、という内田の立場をとってしまうに違いない。でも、この作品について言うと、ちょっと違うな、である。
 わたしの読後感を書いてしまうと、この小説、絵空事なのだが、決して内田康夫が言うように作品のリアリティがないとは思わなかった。
 小説に、読み手がリアリティを求めることの方がどうかしているのだ。もし、リアリティを求めるならば、小説のリアリティとは、本来、小説の外側(作家と読者の接触点)にあるのではなく、小説の内部にあるのだと言うことを知るべきだろう。
 という意味では、この小説くらい主人公の世界を形成した(小説内部世界リアリティを持った)小説は、応募作の中では稀かもしれない。誰かが、視点の分裂を指摘していたが、そこだけは作者が小説内部のリアリティを維持できないところだった。内田に、マンガの原作程度、と呼ばれたが、マンガ、アニメに、どれだけ文学の才能が流れたか。そういう意味で言うなら、「ク村まゆみ」という作家が、自分内部のリアリティ(小説世界の構築)さえ築けたら、もっとおもしろい読物をもたらしてくれるだろう。マンガの原作に行かなくてよかった作家なのだ。
 とは言え、この作者に唯一の失敗があるとすると、ミステリーの賞に応募してしまったことかもしれない。話とアイディアはすこぶる面白かった(つまり、楽しめるエンターテイメントなのだ)が、ミステリーとしてはどうか、というのは残る。
 新しいミステリーの型、とは、ちょっと言えないかな。
              *
 ところで、『小説推理』の新人賞受賞からだいぶになるが、千野隆司さんから新しいシリーズの新刊が送られてきたらしい。それを、東京の自宅から病院に持ってきてくれた。『お寧結髪秘録 秘花二日咲き』(静山社文庫、10月刊)という新シリーズだ。前作の『寺侍市之丞』(光文社文庫)が9月刊だから、ずいぶん早い仕事である。次々と書き続けているわけだ。
 去年のことだったか、奈良の杉瀬さんの焼き物展が表参道の桃林堂であった。その時、飲みましょうというので、杉瀬さんと浅草のどぜう屋駒形で会うことにした。そこに千野さんを誘った。杉瀬さんは飲むし、千野さんもずいぶん飲めるようになっていて、わたしだけがだけが相変わらずの下戸というところだった。
 学校教師を辞めて小説一本になった時、月一冊を目途に書いていく、と千野さんは言っていた。無理だよ、と思ったが、口に出しては言わなかった。だが、なかなか思い通り行かないのではないか、この時は心配で、無理しないほうがいい、などと言ったが、千野さんはそのペースで書き続けてはいたらしい。月一冊にならないのは、出版社の都合と言うことだ。まったくの、余計なお世話だった。
 乱作が筆を荒れさせるという考えがある。だが、乱作で荒れるような筆ならとっくに荒れているのである。乱作の中に、一見、絵空事に見えはするが、作者独自の世界がそのうち仮構される。そう思っている。それが物を書くことのおもしろいところだ。
 池波正太郎の「剣客商売」を読んで、あれは「拳銃無宿」かマカロニ・ウエスタンのパクリだから怪しからんとは、誰も言わない。そんなことは、皆知っているのである。それは池波流の作品内リアリティがあるからだ。作品内部が、作者独自の世界となっているからだ。時代考証などではない。拳銃が刀に代わっただけだが、築かれた世界はウエスタンではない。もっとも、「荒野の七人」もマカロニ・ウエスタンも、ウエスタン大好きな黒澤映画のパクリだから、何が本家だか分からない。とにかく、自分の作品ごとに世界を築くことなのだろう。
 月一冊を、早いと考えるのは、仕込みが間に合わなくて、中で瑕瑾が大量に出るからだろうが、瑕瑾はないにこしたことはないが、何処までいっても、どんなにあっても、瑕瑾は瑕瑾なのだ。学生の頃、三田村なにがしが、銭形平次の時代考証がなってないと呆れ顔で言うのを聞いたことがある。それで平次物の魅力は半減もしなかった。作品の魅力とは、物語世界の魅力で、つまり構想力で、ぐいぐい引き込まれてしまうものなのだから。今回の乱歩賞の作品もそうなのだ。
 こんなところでの引き合いは申し訳ないが、わたしは造本家大家利夫の本造りや富本憲吉の仕事で、量産の意味を再認識した。やはり、造りたい(書きたい)ものはたくさんあるし、その質を保持するためにも量産という技術力は必要なのだ。
 千野さんの前作の「寺侍シリーズ」は、現代という時代に合わせて、不況時代の経営を前面に出したものだった。新機軸と言えるだろう。もっとも、以前食べ物場面が急に多くなった時、出版社の希望だろうと言ったら、その通りだと言われたが、これもあるいは出版社側の要請だったかもしれない。そして今回は、人の恨み晴らします、という短編連作。これも千野さんとしては新機軸だ。
 わたしとしては、千野さんの魅力は人情物にあると思っているが、こうした自分の持ち味とは切れたところにある作品も必要だろう。とりわけ、今度のお寧(しず)物は、映像化しやすそうで、千野さんの特性は薄まったが、その試みは良しとしよう。
 とは言っても、千野さんの筆が生き生きとするのは、子供が出てくる時だ。わたしが本当に読みたいのは、そんな時代小説なのだ。

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ニック・ヴァン・ブロスというピアニストを知りました。

2011年12月09日 14時20分00秒 | 雑文
 冒頭の写真は、ニック・ヴァン・ブロス(NICK VAN BLOSS)というピアニストの弾くバッハ『ゴルトベルク変奏曲』全曲のCDで、英ニンバス(NIMBUS ALLIANCE)から今年の1月に発売されたものです。「知ってますか?」と、日本クラウンのディレクター川村聡氏から電話があったのが、事の始まりです。ぜひ、私の感想が聴きたいというものでした。
 じつは、このピアニストはロンドン在住で、ジャパン・シンフォニアを指揮して意欲的な活動を続けている指揮者・井上喜惟氏の旧知の友人だそうです。井上氏は、「自分としては凄い演奏をするピアニストだと思っているが、周辺では評価が真っ二つに分かれて、全然だめなピアニストだと酷評する人までいるので、どういうことだと思っている」、ということで、川村氏に感想を求めてきたのだそうです。川村氏が、私にも意見を求めたら? と提案して、私のところに送ってくれることになったのです。
 以下は、それに応えて、私が井上氏に送った感想です。井上氏と川村氏の了解を戴いて、事のいきさつとともに公開します。ニック・ヴァン・ブロスは、現在ロンドンを中心にヨーロッパではセンセーショナルに注目されているそうですが、日本ではまったくといっていいほど、知られていないそうです。井上氏は、「このすばらしいピアニストをぜひ紹介したい」ということで、ジャパン・シンフォニアの来年の秋のコンサートへの協奏曲での参加を決めたそうですし、ソロ・リサイタルも決まりはじめているようです。私も楽しみにしています。

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「Nick van Blossの感想です」

井上喜惟様

早速聴いてみました。

表現意欲の豊かさには、強く魅かれました。
その大きな感情表出の揺れ幅の大きさからは、
このピアニストの音楽性の確かさも感じて、
共感するところは多々ありました。
でも、過剰なロマンティシズムの反動としての、
「削ぎ落された感情表出」の時代を経て、
今また、大きな感情の振幅を
再構築してみようという機運が高まっている時代にあって、
もう少し「自問自答」の逡巡がにじみ出て来てもいいのではないか
と思うほど、力任せにグイグイと弾き切っている箇所が
かなり聴かれるところに、このピアニストの
音楽体験としての経験不足を感じてしまいました。
「もっと怖がってもいい」と思いました。
それが少ないため、堂々と鳴り切るのですが、
色合いや匂いといった音楽のかげり――
陰影を生みだし損ねていると感じました。
ひとことで言えば、
モノクロ映画のような凄み、は感じますが、
これでいいのかなぁ、ということです。
こんなに音楽を大きく動かして、モノクロか?
という、不満はあります。
指揮者で言えば、若いころのバーンスタイン。

関心を持ったピアニストですから、
これからも注視していきたいとは思いましたが、
私は、ピーター・ゼルキンの1994年のRCA録音の方が、
こうした自在さを大胆に押し出した「ゴルトベルク」では、好きです。
例えば、第2変奏での突然の色合いの変化、
第6変奏に入っての沈み方、
あるいは第20変奏の決然とした開始など、
どこをとっても、空気(=気配)が濃密な音楽です。

色々書きましたが、
具体的な指摘でなく、
抽象的になってしまって、
申し訳ありません。

これからも、ご活躍ください。
晴海のトリトンでは、何度か聴かせて戴いております。
我が家には、井上さんのCDのコーナーのごときものもあります。
ブルノ国立フィルのCD、発売された当時、すぐ買って、
まだ大事にしています。アルメニア・フィルとの録音は、
興味深かった記憶があります。
お陰さまで、今度は、
ニック・ヴァン・ブロスという注目すべきピアニストの存在にも、
気づかせていただきました。

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以上が、私が井上喜惟氏に送ったメール全文です。

一部の人たちの間で、その演奏の是非をめぐって、
論争が巻き起こっているらしい、というご報告です。

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