竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

『論語』の新しいカテゴリー分け「学・立・観・共・知」は、江戸時代からの「仁・義・礼・智・信」「忠・孝・悌」と入れ替われるか?

2019年05月29日 13時59分25秒 | 「論語」をめぐって

 私は、音楽評論、音楽文化史研究とは別に、中国の古典である『論語』についての著作もいくつかあり、論語全篇を小中学生向けにわかりやすく翻訳しています。そうしたことを始めたいきさつについては、このブログの「『論語』をめぐって」というカテゴリー名称をクリックしていただければおわかりいただけると思います。書籍編集者として長年様々な書籍を扱ってきた私としての視点からの仕事とご理解ください。

 私の『論語』解釈の基本にあるのは、『論語』は「平等で公平な富の分配」という価値観に貫かれた「平和」と「自由」を謳った最古の「民主主義の書」といったものです。それは、原始的な共産主義と言ってもいいようなものです。その私の『論語』の現代語訳を使用して、『毎日小学生新聞』が月曜から金曜までの連載まんが『論語くん』(作:三谷幸広)を開始してから、今年で6年目の新学期を迎えました。最初の頃の読者は、もう高校生になっているはずですが、未だに、読者の人気投票で第1位だと聞いています。うれしいことです。

 じつは、そんな私に、ある人を介して、少年少女向けの『論語エッセイ』の編集依頼が昨年ありました。そうしたもので有名なものには、『次郎物語』の下村湖人が書いた『論語物語』がありますが、私としては、新機軸を打ち出そうと試行錯誤の末、「論語五徳」である「仁・義・礼・智・信」をもじって「学・立・観・共・知」というカテゴリー分けを発案しました。これは、以下のようなものです。

「学」――学ぶことの大切さを確認する

「立」――ぶれない生き方を確立する

「観」――物事の見方、観察力を養う

「共」――ひとりでは生きて行けないことを知る

「知」――知識・教養を身に着ける

 ご存知の方も多いと思いますが、「論語五徳」は江戸時代からの『論語』教育の根幹を成す教えです。そして、この五徳に加えて「忠・孝・悌」を加えるに至って、論語を利用した「道徳教育」は完成したのです。

 私は、書籍編集者の長年の勘から、『論語』の各篇は、ある種の意図を担った「編集著作物」だと見て行くことが大事だと思っています。各篇ごとに意図の違いが見え隠れしているのですが、その解説書となると、さらに、それぞれの時代の要請に寄り添ってカテゴリー分けやら解釈による捻じ曲げがあったりしているように思います。

 そして、もうひとつ、「道徳教育」という観点では、戦後の民主教育における「道徳」とは「人としての優しさ」「ヒューマニズム」「博愛」といったものであるはずだと思っています。

 ――というわけで、私自身は、上記のカテゴリー分けは、第二次大戦後の時代に相応しい「民主主義の書」としての『論語』を読み解く画期的なアイデアだと思っていましたので、その構成を依頼された『論語エッセイ』の発刊までは公表を控えていたのです。その書の刊行が諸事情によって取りやめとなって、伏せておく必要がなくなりましたので、本日公表することとしたものです。

 じつは、毎日新聞社さんの英断で、論語本文の「書き下し文」と「現代語訳」を小学生に読んでもらうということを始めたわけですが、この足掛け6年の間に、「論語の原文と訳文を毎日切り抜いてノートに貼っている」とか「書き写している」とか「そらんじている」とかいうお手紙を頂くことがあって、私もずいぶん勇気づけられました。そこで、現在、秋までには発行するつもりで、私の執筆した「書き下し文」と「意味訳」だけを、原典どおりに収録する、少年少女向けの「論語全文」書籍の組版作業が進んでいます。

 発行日が正式に決定次第、ここにも発表しますが、その次には、せっかく閃いた新しいカテゴリー分けを使った読み物にも取り掛かりたいと思っています。

 蛇足ですが、私は小学生時代には、学校の図書室で放課後、『毎日小学生新聞』で毎日のように連載まんが『がんばれゴンベ』(作:園山俊二)を読み、下村湖人『論語物語』を読んだりしていました。その私が・・・と感慨深いものがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


METライブビューイング2018‐19『ワルキューレ』は、フィリップ・ジョルダンの導き出すワーグナー・サウンドが新鮮

2019年05月15日 11時30分40秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日、鑑賞したばかりの今年のメトの『ワルキューレ』について、覚え書き程度だが、少々書いておこう。

 3月30日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場収録である。2011年の初演ですっかり話題になった「巨大マシーン」を駆使するロベール・パサージュによる演出版。今期は『ワルキューレ』のみの上演だ。

 スタッフ、キャストは以下の通り。

 

指揮:フィリップ・ジョルダン

演出:ロベール・パサージュ

 

ジークムント:スチュアート・スケルトン(テノール)

ジークリンデ:エヴァ=マリア・ウエストブルック(ソプラノ)

ブリュンヒルデ:クリスティーン・ガーキー(ソプラノ)

ヴォータン:グリア・グリムスリー(バスバリトン)

フンディング:ギュンター・グロイスベック(バス)

 

 このブログでは、昨年12月19日に、コヴェントガーデンにおけるロイヤル・オペラの『ワルキューレ』について書いている。パッパーノ指揮の今期公演だ。そちらも合わせてお読みいただくと、私の『ワルキューレ』観が、おわかりいただけると思うが、私としては、今回のメトでのジョルダンの作り上げたワーグナー・サウンドのライトな感覚がなぜか気に入ってしまった。

 それは、ロイヤル・オペラと同じくジークムントを歌ったスチュアート・スケルトンが、ロイヤルでは他の歌手と比較して少々力不足のように聞こえていたのが、メトでは水を得た魚のようにみずみずしい魅力をたたえて歌い切っていることに象徴されるように思う。ジョルダンが紡ぎ出すクリアでヌケが良く、そして暖かでもある第1幕。やわらかく揺れる音楽は、親し気な眼差しで春の暖かさを思わせ、ジークムントとジークリンデの兄妹が、まるでフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』を思い出させるように夢みる幸せな兄妹のように感じられたのだ。これは決して突飛な連想ではない。

 その音楽が、幕を追うごとに巨大化し、春の暖かさから厳冬へと推移して行くのは、正に壮観だった。ジョルダンの音楽は、底力のある音から、芽のよく摘まれたキメの細かな音色までじつに多彩であり、表現の幅が大きい。それに応え得たオーケストラの技量にも改めて感心した。

 ロイヤル・オペラでのニーナ・ステンメのブリュンヒルデには圧倒されたのだが、メトのガーキーもなかなかの歌い手。フンディング役のグロイスベックも、ワーグナー歌手としての今後が、ますます期待できる。室内オペラ的な対話劇・心理劇として、ヴォータンとフリッカのやり取りでの歌唱も秀逸。

 もうひとつ、書き加えることがあるとするなら、その対話劇を理解する上で欠かせない「字幕」の翻訳のわかりやすさだ。このところ、メトでのドイツ物は岩下久美子氏の訳なのだが、その見事さには、いつも感動している。以前の字幕からではどうにも理解できなかった様々なことが、いつも、ストンと腑に落ちる。学生時代から始まり、私が務めていた出版社を退社してしばらくは、夫君の岩下眞好氏ともども、友人として長いお付き合いだった。2年ほど前だったか、岩下氏の葬儀で10数年ぶりにお会いし、それきりになったままだが、相変わらずよい仕事を続けていると思い、また、その字幕によって新たに気づかされることの多さに感謝している。

 少々プライベートな話に脱線してしまったが、今期のメトの『ワルキューレ』は、またひとつ、あたらしい世界の誕生を感じさせた。