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ハンブルク放送交響楽団を初め、ドイツの放送オケをめぐるさまざまなことがわかりました。

2011年11月25日 15時23分18秒 | ディスコグラフィ的な話題


 昨日の私の質問に、早速、レコード・コレクター仲間の今村亨氏から返事がメールされてきました。以下に、全文、掲載します。冒頭、「座ったまま」とは、このところ当ブログで掲載が続いている山田俊幸氏の「病院日記」=「寝たまま書物探偵所」をもじったものです。
 今村氏からは、以前、私が自分のことを「どうやら私は《マニア》ではなく《コレクター》らしい」と発言した時に、「そうですよ、マニアは珍品を血眼になって買い集める人のことですが、コレクターは、買い集めたものを分類、分析する人のことだから」と言われたのを思い出しました。その彼と《コレクター道》を極めようと対談したものなども収録して、来年春に、久しぶりに私の「名盤コレクション」を語りつくした単行本の出版が決まりました。1994年の『コレクターの快楽――クラシック愛聴盤ファイル』(洋泉社)以来、18年ぶりの「クラシック音盤本」です。その間、演奏の変遷史を踏まえて、多くの視点を見出してきたつもりです。その意味では「総決算」の第一弾と認識しています。詳細は追って、このブログでもお伝えします。
 では、以下、今村氏のレポートをお読みください。

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 面白いコメントですね。今まで見過ごして来た事柄を改めて見直す良いきっかけになりました。大分長くなったので2つに分けてコメントします。“寝たまま”と云う訳には行きませんが、手が届く範囲の資料だけで、ほぼ“座ったまま”纏めてみました。

 レントさんご指摘の通り、ハンブルク響は1957年に創設された、ハンブルク・フィル(1896年発足: 母体のシュターツオーパー管は17世紀の創立)、NDR響(1945年創設)に続く同市第3のオケで、初代の常任指揮者はフルトヴェングラーと同世代のオペラ指揮者、ロベルト・ヘーガーが、61年まで務めました。レントさんが言及されたヘリベルト・バイセルはこれまでで最も長く常任を務めた(1972~86)第4代指揮者で、現在の常任は2009年からジェフリー・テイトが務めていますが、ここで肝心なのは、ビアンカの録音で共演したオケが、このハンブルク響だったのかという事だと思います。
 鋭い方なら既にお気付きのように、現在のハンブルク響の創立は1957年ですから、ビアンカの録音が行われた1955年夏には、未だ同オケは存在していない事になります。つまり簡単に結論から言えば、両者は別の団体と云う事になってしまいますが、それでは、ビアンカと共演したオケは何なのかと云う疑問は相変わらず残ります。
 これについては、一つの推論に過ぎませんが、現在のハンブルク響と繋がりがある可能性も考えられるのです。
 ハンブルク響は年20回ほどハンブルク国立(州立)歌劇場でオペラやバレエ公演を行っているようですが、国立(州立)歌劇場には17世紀に創設されたシュターツオーパー管があり、そのコンサート・オーケストラはハンブルク・フィルとして広く知られていて、両者の関係はウィーン国立歌劇場管とウィーン・フィルのようなもので、やはりハンブルク・フィルにもウィーン・フィル同様に、参加しないメンバーが存在し、ビアンカと共演したのは、この正式なハンブルク・フィルではなく、シュターツオーパー管の外のメンバーではなかったかと考える事も可能です。
 ビアンカの当時の経歴には海外ではハンブルク・フィルとコンサートで共演したと記され、米MGM盤のライナーノートにも、「1955年6月末に、ハンブルク“プロ・ムジカ”響の特別コンサート“オール・ガーシュインの夕べ”にソリストとして登場した…」とあるので、このオケが臨時編成だったにせよ、ハンブルク・フィルと云うか、同歌劇場管のメンバーによるものだったのではないかと想像されるからです。
 そして、もしかすると当時からハンブルク“フィル”に対し、もう一方を“響(シンフォニカー)”と呼ぶ別の団体がある程度常設に近い形で活動していたのかも知れないと考える事も出来るのではないでしょうか。
 現在のハンブルク響が1957年10月の創立だとしても、元になるオケがあった事は充分考えられますし、むしろそう観る方が妥当でしょう。それが、このビアンカと共演したオケだった可能性も否定出来ないのではないでしょうか。
 勿論全く別の、ミュンヘンのグラウンケ響のような、ユルゲン=ワルターの私設オケかも知れませんが…

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 竹内さんご指摘の通り、ドイツの放送響の名称はなかなかややこしいのですが、ハンブルクには有名なNDR(北ドイツ放送)響があり、レントさんが言及されたハノーヴァー放送フィルも同じ北ドイツ放送局のオケですが、1950年の創立ながら元々ライトクラシックが主なレパートリーのハノーヴァー放送フィル(ランパルのモーツァルト『フルート協奏曲』で読響を指揮したウィリー・シュタイナーやベルンハルト・クレーが常任を務めていた)とNDR響を混同する事は、まず無いと思います。
 ハンブルクには1920年代から放送局があり、ナチスの第三帝国時代も接収されて放送を続け、所属のオケも活動していましたが、第二次大戦後に同市を占領した英国軍が、新しい放送局を設立し、BBCに倣って所属するオケの編成を同市近郊に住んでいたイッセルシュテットに依頼したので、彼は旧放送響のメンバー等から新しいオケを組織し、1945年夏(11月とも)に最初のコンサートを行いました。この放送局は最初北西ドイツ放送局(NWDR)と呼ばれ、同局には2つのオケが所属し、両方ともNWDR(北西ドイツ放送)響と呼ばれていましたが、その後北西ドイツ放送局が1955年に、ハンブルクを本拠地としてニーダーザクセンとシュレースヴィヒ/ホルシュタイン、及びハンブルクを所管する北ドイツ放送局(NDR)と、ケルンを本拠地としてノルトライン/ヴェストファーレンを所管する西ドイツ放送局(WDR)に分割されたので、それぞれオケも、北ドイツ放送響と西ドイツ放送響と呼ばれるようになりました。
 しかし、フランクフルトを本拠地とするヘッセン放送局が以前は西ドイツ放送局という名称だったので、同局所属のオケもやはり西ドイツ放送響と呼ばれていた為、指揮者との関係から両者が容易に区別出来るドイツ国内はともかく、国外では西ドイツ放送響をケルン放送響、ヘッセン放送響をフランクフルト放送響と“通称”で呼ぶのが一般的になりました。

 現在は、ドイツ国内にある12の放送響とその通称は以下の通りです。

・NDR(北ドイツ放送局)所属のハンブルク放送響(NDR響)と、ハノーヴァー放送フィル
・WDR(西ドイツ放送局)所属のケルン放送響(WDR響)ともう一つのケルン放送管
・SWR(南西ドイツ放送局)所属のシュツットガルト放送響(SWR響)とバーデンバーデン/フライブルク放送響
・BR(バイエルン放送局)所属のバイエルン放送響と“ミュンヘン放送管”と呼ばれるバイエルン放送管
・MDR(中部ドイツ放送局)所属のライプチヒ放送響
・SR(ザールラント放送局)所属のザールブリュッケン/カイザースラウテルン放送響
・hr←何故か小文字(ヘッセン放送局)所属のフランクフルト放送響(hr響)
・ベルリン放送局所属のベルリン放送響

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 以上が、今村さんからのメールの全文ですが、これによって、米ヴォックスの「ハンブルク・フィル」や「プロムジカ響」なる表記に、またまた「???」が点灯してしまいました。瑣末なことはほどほどにしたいものです。

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ソンドラ・ビアンカのデイスコグラフィにいただいたコメントから、つい……

2011年11月24日 16時23分07秒 | ディスコグラフィ的な話題
だいぶ以前に当ブログにUPした「ソンドラ・ビアンカのディスコグラフィー、初公開!」にまたコメントが届きました。ただいま公開の処理をしましたが、こうした内容には、様々、興味深いコメントが寄せられる傾向にあるようです。今回もそうでした。「レント」様、ありがとうございます。以下に、そのコメントを転記します。

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・コメントが届いた記事のURL
http://blog.goo.ne.jp/kikuo-takeuchi/e/3249fe62fea22939841d16afb637af16

・コメントを書いた人
レント

・タイトル
ハンブルクのオケ

・コメント
 ハンブルク交響楽団は確か実在するオケで日本にも来ていたヘリベルト・バイセルが指揮していたと思います。ヴォックスへの録音もありました。但し、ここに出てくる録音上の「ハンブルク交響楽団」と同一団体だったかは不明ですが。
 また、「ハンブルク放送響は最近は北ドイツ放送響と名乗っている」というのは少々ニュアンスが不正確で、元々「北ドイツ放送響」が正式名称(それ以前は北西ドイツ放送)で、「ハンブルク放送響」の名称の方がイレギュラーだと思います。要は、正式名称「デンマーク放送響」を「コペンハーゲン放送響」とLP表記上しているような類ですかね。
 北ドイツ放送局で言えば、ハンブルクとハノーバーにオケをもっていたはずなので、これらを考証していけばわけがわからなくなることになるかもしれませんが。

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 コメントはここまでです。
 私が興味深く感じたのは、「ハンブルク交響楽団」は実在するオーケストラではないかということ。古い記録を調べてみようかと思いました。ただ、日本では昔から、いわゆる興業屋さんが通りのいい名前を与えて日本公演を仕切ることがありますから、要注意です。(今でも、「ウィーンなんとかアンサンブル」とか、「ロシア○○フィルハーモニック管弦楽団」といった感じで…)。ヘリベルト・バイセルという指揮者も知りませんでした。VOXというアメリカ資本のマイナーレーベルのヨーロッパ録音というのも、どうでしょう。「ハンブルク・フィルハーモニー」は「ハンブルク国立歌劇場管弦楽団」のコンサート時の名称、ケルン・ギュルツェニッヒ管弦楽団が、同じくケルン歌劇場管のコンサート時の名称ですが、メンバーが中途半端で、録音用にエキストラも混じっていると、その土地の名に「交響楽団」を付けたりして、実在しないオケ名が登場することはドイツ国外で発売されるレコードなら、なんでもあり、だったかもしれません。
 その意味では、むしろ、「放送交響楽団」と付くと、勝手はできません。
 「ハンブルク放送響は、最近、北ドイツ放送響と名乗っている」と私が書いたいるようですが、それは、確かに不正確です。が、それは、「北西ドイツ放送局と言っていたものが、最近、北ドイツ放送響と名乗るようになった」と言いたかったのです。ただ、レント氏もお書きになっているように、同局はハンブルクとハノーヴァーとにオーケストラがあったはずなので、「ハンブルクの北西ドイツ放送交響楽団」「ハノーヴァーの北西ドイツ放送交響楽団」というのを略して、「ハンブルク放送交響楽団」と表記する習慣が、日本やアメリカにあったようです。(「ハンブルク」と入っていないのは、ランク落ちの「ハノーヴァー」のオケを隠すためだという説までありました。(――と、ここまで書いて、「ハノーヴァー」は「西部ドイツ放送局(ケルン放送局です)の所属だったかな?と不安になりました)いずれにしても、ややこしいことだらけです。また間違っていたら申し訳ありません。今村さん、これ、目に入ったら、教えてください!
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神坂雪佳、川端龍子等のモダン内装提案――山田俊幸氏の「病院日記」(第19回)

2011年11月22日 13時08分43秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は、10月3日に書かれて、私の携帯にメール送信されていたものですが、この一部が『産経新聞』大阪本社版の文化欄に掲載予定とのことで(山田氏は、以前から、同紙にコラムを寄稿していたと思います。)、当ブログへの全文掲載は1ヵ月先にしてほしいと注記されていたものです。「産経新聞」に掲載されたコラム(浪花おもしろ図鑑)は、下記で読むことができます。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111112/wlf11111213420011-n1.htm


寝たまま書物探偵所(19)・・・神坂雪佳、川端龍子等のモダン内装提案 by 山田俊幸


 大阪で本の処分をしたが、一冊二十円にしかならなかった。古本屋さんの付け値以上の価値があると思って買い集めた本たちだから可哀相なことをした。せめて手元に残ったものだけは、それなりの価値を付けてあげたいと思う。今回は、そんな残った雑誌の一つだ。
 『汎工芸』という雑誌が、大阪から出ている。発行人は柴崎風岬(俊吉)。この雑誌、もともとは漆の業界紙『日本漆器新聞』だったのだが、昭和八年、「工芸と建築と塗装の総合」雑誌として、時代の要求を受けて『汎工芸』と改題し、雑誌にリニューアルしたものだった。
 改題したのは、昭和八年十一月号から。この秋、大阪には台風が上陸、電車が横倒しになったり、小学校の体育館の屋根が落ちたりと、甚大な被害をもたらした。雑誌は、それから間なしの発刊だった。
 雑誌の前身の『日本漆器新聞』も、関東大震災直後の大正十二年末から始まっているという。とするなら、いずれも自然災害に縁があるといえるだろうか。当然のこと、編集は被災後の「生活スタイル」の提案となってくる。関東大震災の後、時代の流れは文化住宅が一般となって、生活全般も洋風があたりまえになってきた時期だ。和服を決定的に変えたのは、白木屋の火災だったと言われる。昭和八年の雑誌へのリニューアルは、そんな流れを追い風にした誌面の一新と改題だったのだろう。
 改題号は、おりからの国民行事だった帝展を取り上げている。だが、雑誌の最大の協力者に高村豊周(とよちか)がいることは、より興味深い。豊周は、高村光雲の息子、光太郎の弟である。大正十五年に仲間と工芸団体「无型(むけい)」を立ち上げ、造型運動の最前衛にいた。それが『汎工芸』に深く関わっていたようだ。改題号に寄せて、短歌がある。「すみよしにすみてすぐなるものいひにすべてをすすむすぐせなるらむ」。発行者の風岬は、大阪の住吉区に住んでいた。
 この雑誌でとりわけ興味深いのは、福田平八郎の芦の絵が表紙となった昭和十一年九月発行号だろう。福田平八郎の表紙絵は、「浪速の芦」という大阪住吉区に住む柴崎風岬へのやはりオマージュだろう。その号の、巻頭アートページに興味深い写真図版が掲載されていた。
 もっとも、図版には、「新造成上つた京都夷川宮崎店の外観」「新築記念の為め九月一日から六日まで婚儀調度及工芸品の展覧会を此の店舗で開かれた。」と写真説明があるだけで、そこには詳しい紹介がない。よく分からないなりに写真を見てゆくと、どうやら京都の夷川にあった「MIYAZAKI(宮崎)」という店の新築ビルで行った展覧会のようだ。写真図版は、四つほどの展示ブースを写していて、これには驚いてしまった。

(1)神坂雪佳氏を主とせる室内装飾/作品 神坂雪佳、清水六兵衛、伊東陶山、山鹿清華、江馬長閑、鈴木表朔、三木表悦、神坂祐吉
(2)橋本関雪氏を主とせる室内装飾/作品 橋本関雪、高橋道八、三浦竹泉、河村蜻山、根箭忠緑、奥村霞城、川島新三郎
(3)川端龍子氏を主とせる室内装飾/作品 川端龍子、津田信夫、北原千鹿、富本憲吉、高村豊周、高村光太郎、各務鉱三、遠藤順治、山崎覚太郎、村越道守、豊田勝秋、広川松五郎、内藤春治
(4)煎茶室/南苑老人、長尾雨山、竹内栖鳳、橋本関雪、清風与平、堆朱楊成、三好弥次兵衛、高橋道八、三浦竹泉、山本しょう園

 以上、いずれもモダン・スタイルの内装だが、わたしはこんな展覧会はまったく知らなかった。
 画家、図案家が提案する室内装飾。しかも、京都はいかにも京都らしい一級の工芸家が調度をこしらえるが、雪佳の内装はモダニズムである。東京の龍子の協力者を見ても驚く。豊周、松五郎、覚太郎、春治と无型メンバーを並べ、そこに高村光太郎、富本憲吉が加わる。なんという、前衛の提案だろう。
 雑誌を見すすめると、この展覧会の記事が見つかった。記事によるとこうだ。「『近代を基調とせる婚儀調度及家具展』/婚儀調度に於て既に知られて居る京都の宮崎タンス店では、今春早々からの計画で夷川の本店を改築中の処、漸く予定の如く竣工し九月一日から三日間同所に於て、/近代を基調とする婚儀調度から家具装飾の新築記念展覧会を開催し、次の項目を以つて各方面へ案内状が配布された。/伊藤小波先生案 婚儀調度/宇都宮誠太郎先生案 婚儀調度/橋本関雪先生を主とせる室内装飾/神坂雪佳先生を主とせる室内装飾/川端龍子先生を主とせる室内装飾/懸賞募集図案による家具と装飾/西川一草亭先生作 絵と花/佳都美会々員作 慶事用工芸品/其他婚儀調度「数種」/尚ほ外に、抹茶席、各宗家好み及び煎茶席、長尾雨山先生好み、関雪先生竹林屏風添へ」と記されている。
 ここに連なった名前を見ても、すべての室内装飾の写真を見たいのだが、残念ながら四点の写真しか掲載されていない。しかも、小さくて不鮮明だが、片鱗だけでも遺してくれたのが有り難い。

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富本憲吉刻・津田青楓画の、謎の版画雑誌を追う――山田俊幸氏の「病院日記」(第18回)

2011年11月17日 11時59分45秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 以下は、私の携帯に10月19日に到着したものとその日の夜遅く到着した続編とを合わせて、1本としました。かなり長文のエッセイになってしまいましたが、これは私ごのみの、わくわくさせる内容のエッセイです。久しぶりに、山田氏の底知れぬ「力」を感じました。退院まぢかの快挙だったと言えるかもしれません。山田氏の怪我入院というアクシデントに感謝! と言ったら叱られるでしょうけれど。


寝たまま書物探偵所(18)・・・富本憲吉刻・津田青楓画の、謎の版画雑誌 by 山田俊幸

 九月に入ったばかりのこと。ちょうど入院生活に慣れかけたあたりのことだ。わたしの入院をまったく知らないキュウセイさんから携帯に電話がかかってきた。「富本憲吉の版画表紙の本は、必要ですか?」と。富本憲吉のものが出たら教えてほしいと話していたので、そのための電話だったのだが、その本については怪我の前にすでに聞いていたらしい。思い出すと、その時は、「仕入れが高いので安くはありません」と言い、値段もその時ははっきりしないので、あまりはかばかしい返事をしなかったらしい。頼んでいたのに情けないことだが、「見せてよ」くらいの返事だったろう。それが、即売会の目録が近くなり、見にも来ないが(わたしとしては、見にゆけない)、どうするのか、目録に載せていいのか、ということでの電話だった。
 具体的にいろいろ尋ねると、件の本は版画雑誌なのだと言う。版画雑誌ならば、価格が高いのも仕方がない。とりわけ同人雑誌の版画入りはキュウセイさんが大好きのものだから、山田書店、えびな書店という本屋さんと競り合うためには、市場でだいぶ頑張ったのだろうと推察した。その頑張りが、値段に反映しているのだろう。そして、聞いたことは、「富本憲吉だと思って買ったのだけど、富本刻と書いてあって、原画は津田青楓らしい」とのことだった。
 奇妙な取り合わせの本で、電話ではらちが開かない。富本刻、青楓画のイメージがまったく湧いてこない。見なくては分からないのだが、とりあえず富本憲吉記念館の山本茂雄さんに連絡して、これこれの雑誌があるのだが、と言うと、記念館に送ってみてほしいと言われた。キュウセイさんにはそれを知らせて、もし記念館で不必要であったら、山田が引き受けるとの一言を入れて、送ってもらった。
 その後、キュウセイさんも即売会で忙しかったりしたらしく、記念館に雑誌が着いたのは十月になってから。送られた雑誌は、山本さんにはピンと来なかったらしく、元気になったら一度見てほしいとのことだった。と言われても、外出の許可をとって、さすがに一人で奈良まで行く自信はない。院内は歩けても、東京の病院に変われないのはそれが理由だった。医者からは、寝た生活ばかりでなくそろそろ外出で社会適応を、とも言われている。散歩と車での移動に堪えられるかが、直近の問題となっているのだ。そんな話を山本さんにすると、本も見せたいから車を出して外出の付き添いをしてくれると言う。奈良までは一時間ほど。どれだけ車に堪えられるかという外出の試みを、十二日に行なった。
 結果は、まだまだ脚に痛みが走り十全ではないが、外出にはちょっと自信がついた。まあ、回復には向かっているようではあった。

             *

 さて、雑誌の話である。誌名は不明。表紙には[版画号]とあるだけ。この雑誌、誌名はおろか、ほとんど出版情報がない。雑誌の発行所は「青丹社」とあるだけで、発行場所も発行年も不記載。手がかりがまったく記されていないのだ。目次には「木版」「歌と詩」が分けられ、誌面にそれがほぼ交互に載せられている。しかも、聞いた名前の歌人も版画家もいない。山本さんが雑誌を見て、あれっと思ってしまう理由は分かる。しかも、その本文版画の出来もいま一つなのだ。富本らしいと言うと、表紙と裏表紙の壺の絵くらいで、どうみても初見で高い評価は付けられないものだ。裏表紙も、壺の絵だから富本らしいというので、表現からは疑問を呈するべきだろう。収載の版画の質も高くはない。何なのだ、これは。である。
 ただ、そんな謎の状態なので、この雑誌、我が書物探偵稼業を刺激するところがおおいにある。山本さんが持っていっていいと言うので、これ幸いと雑誌を借り受けて、また病院で寝たまま探偵と洒落込んだ。
 目次を見ると、「木版」に名が載っているのは、表紙・富本憲吉氏、裏絵・久保田幽花君とあり、後は幽花と胡の人の名が並ぶ。裏表紙の絵は、久保田幽花という人物だったらしい。「歌と詩」には、海老名氏、辻井弓心、幽花(久保田)、南秋、征矢彦(水木)、五十四郎(上村五十四楼)、宮本秋水、松本もみ。いずれも、富本の知友リストには見当たらない人々である。
 そんな中で、発行所が分からないかと雑誌から地名に関わる記載を探すと、「たが為にかくは悶はん我が心生駒が里の夕くれころ」の一首が気になる。目次からすると幽花かもしれないが、作者名はない。歌われた生駒は奈良である。そして、富本の生家のある安堵の町は、生駒郡ではなかったか。そうするなら、奈良での発行かもしれない。とすると、「青丹社」はセイタン社と読むのではなく「アオニ社」と読むとすっきりする。「あおによし奈良の都」である。それを思い浮かべさせるのだ。
 この雑誌を、そのように「青丹よし奈良」発行(発信)と決めつけると、見えてくるものが多少ある。巻頭には胡の人の小版画があり、その下に、「この集をオロして私は岡山に行かねばならぬ何うか此の誌の成長を諸君に願て置く」のメッセージがある。さらに巻末にも、「此の集は売るんじやない 青丹社へ賛成の諸君に頒つんだ 僕等何の位損をしても関はん」と書きつける。こうした熱いもの言いは青年特有だ。それから推測するなら、「胡の人」と称している人物は、相当若い人物、学生ではないかと想像できる。「岡山」に行かなければいけないと言うのは、高校進学か大学進学のことに違いない。と、そこまで見てゆくと、この雑誌、木版画の質が低いとか、絵がつまらないとか言うレベルではない、木版画の歴史においての重要な位置が浮かび上がってくるのである。
 一言で言うと、奈良の中学校あたりで「版画」の制作グループがあったらしい、ということなのだ。しかも、富本憲吉と関わって。
 従来、創作版画の始まりは山本鼎の「刀画」であり、『方寸』だということになっていた。だが、わたしからすると、山本鼎にも『方寸』にも、当時は積極的なオリジナルな「版画」意識が見えず、そうは言えないだろう、と得心が行かなかった。それよりは、イギリス帰りの富本憲吉と南薫造が試みた木版画が、版画でなくては出ないオリジナルな表現を出したと考えていたのだ。とは言え、小野忠重を祖述する近代版画の展覧会は、依然と山本鼎の刀画を始まりとしていた。わたしは富本説をいくつかの場で展開し続けたが、最近ようやく儀礼的に富本憲吉を版画の流れの初期に入れるようになってきた。だが、ほとんどと言っていいのは、富本の史的重要さを考えてではない。単に富本憲吉が「版画を作ってしまった」から、展示せざるを得なかっただけなのだ。この美術館の対応は悲しい。
 木版に関しての富本の重要さは、山本茂雄さんからの示唆と、南薫造の記念館で版木を見てからのことだった。松濤美術館での展覧が先駆けとなっている。松濤の瀬尾さんがやった「創作版画の誕生」展が、唯一、富本、南を遇した展覧会だった。だが、それから富本憲吉の版画の研究が進んだわけではない。すでに言ったが、版画の展覧会と言うと富本版画を並べはするが、それについて論じたり、版画史的に整理したものはほとんどない状態なのだ。版画研究者がたくさんいるにも関わらず、である。
 富本憲吉は、ロンドンの私費留学の帰国後、奈良の自宅を拠点としてさまざまな工芸の発信をする。木版画はその中でも重要な一つだった。その手がかりは、南薫造への手紙に残されている。

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 富本憲吉が版画と取り組んだのは、ロンドンからの帰国後である。南薫造への手紙をたよりにすると、明治44年1月25日に「木版の色づりウマク行つたナー」と言う一文から始まって、美術新報社の展覧会の展示ディスプレイを考え、版画には茶の壁面がいいだろうと提案。4月10日には展覧会の入場券と栞をかねる版画を制作。会期中の4月22日に「展覧会は先ず成功の方だらう。ひつぢの群れ(拾五円)が野の人に売れた」と書く。「野の人」は翻刻者の推測だが、もし野の人ならば高山樗牛の弟、「斎藤野の人」だろうが、残念ながら斎藤野の人は42年に亡くなっている。別人だろう。
 ここで注意すべきは、「ひつぢの群れ」の版画である。展覧会からしばらくたった6月14日に、「僕は此の頃何むにもせずに木版ばかり。それと云ふのは近頃水彩でやるより木版の方が良い様に思はれる。最近のもの御覧に入れる。此れは版を用ふる皿(山田註:「版を用ふる画」ではないか?)。風景を木版にやつた処女作。South Kensingtonにある仏人のやつたヒツヂの木版が目にちらついてやつて見たくて仕方がないのでやつた。ツマラヌものだが望の半分はやれたつもりだ。」と書く。
 この、売れたひつぢの群れと、目にちらついてやったヒツヂが同一作品かどうかは、時期もズレていて不明だが、いずれもフランスの版画家アンリ・リビエールのヒツヂの作品からインスピレーションを受けたものにちがいない。同一作品であるなら、展覧会で野の人に売った一点の他、南用にも摺ったものだろうか。サウス・ケンジントンの美術館つまりV&Aは、富本、南共通の思い出のある場所でもある。リビエール版画の印象も共通の記憶だったかもしれない。
 版画の歴史と言うなら、ここでは富本側からだけでなく、南も同様に作っているのだから、南の側からも見なければ片手落ちだろう。だが、如何せんわたしの手には南の情報が全く入ってこない。広島県美で南の資料の整理を進めたとも聞くが、ネットかなにかで調べられるのだろうか。従ってここでも富本側の一方的情報によることにする。
 さて、富本は同じ6月に、多色摺り木版で「雲」の図を作成している。そして、7月8日に「今朝やつたものを御めにかける。ドローイングを木版にしたもの。/「壺その五(なむきん)」/といふ名。」と、これは単色墨摺りの版画を封入。8月18日には、小屋を描いた多色摺りの小版画を南に送っている。
 じつは富本はこの時期、三宅克己の水彩画にも関心をもち、図案ではなく水彩画に入れ込んでいた。従って、水彩の風景画を木版で起こすことに喜びを覚えていたようだ。ドローイングの木版化も、その延長線上にある。そして、この時期の作品で、多色摺り木版の技術がほぼ完成していたことを、わたしたちは知っておく必要があるだろう。その前提を理解しておかなければ、富本がこの後展開する、稚拙に見える図案木版の意味をまったく取り違えることになる。
 富本の大きな転換は、この後に訪れてくる。水彩の木版化、ドローイングの木版化が、「木版」という表現に次第に変化し、そして「模様」へと転じていくのだ。
 次の年、明治45年の5月1日には、「太平洋画会に変な焼画や木版画が列べてあるとか」と言い、木下杢太郎の『和泉屋染物店(いずみやそめものみせ)』の表紙を木版でやったと書く。この本の装幀には、富本の原版画を伊上凡骨が装幀用に彫り直したものが用いられた。
 そして、11月26日、「三越流の模様や外国の雑誌、ドイツの下等の模様が入り混じつて居る東京に居られる兄に注意を要する事を書きそえる事を光栄とする」と、模様=図案の現在を書き記す。「模様」がこの時期から主軸になったからだ。
 三越流というのは、杉浦非水のセセッション図案が登場する前の橋口五葉などの元禄模様あたりを指すのだろう。外国雑誌はこの時期だから、大方アールヌーヴォ・デザインの紹介雑誌。ドイツは、『装飾と工芸(ドイッチェ・クンスト・ウント・デコラション)』あたりの図案なのだろうか。1910年代だから、ウイーン・セセッション・デザインなのかもしれない。アール・ヌーヴォと言い、ウイーン・セセッション・デザインと言い、流行のデザインである。富本は流行のそれらを、「注意を要する」と言う。それなら、何が求められるのか。それは、富本自身が仕事の中で、木版の模様とともに証明することになる。
 富本の転換後の仕事は目まぐるしく、また、精力的だった。東京に出るべきかとも迷うが、結局は奈良法隆寺近くの安堵を拠点とする。仕事は、版画ばかりでなく、革工芸、刺繍、木彫と多岐にわたる。だが、その中でも、富本がとりわけこだわったのは、やはり「模様」と直結した木版画だった。

            *

 話が長くなったが、今回発見された雑誌『(仮題)青丹 版画号』は、富本のその時期のものなのだ。発行所は、前回に推定したように「青丹(あおに)よし奈良」から、奈良の生駒山が望めるあたりと推定。発行年も不明だが、詩歌の末尾に「一二。六、一九四一(一九一四、に訂正)」「一九一四、六」の制作日があるから、大正3年の夏あたりと考えられる。とすると、この年は三笠、田中屋での展覧会と図案研究所の開設があった年である。一般的には、楽焼きが制作の中心になった年とも言われる。その時期の版画雑誌への協力だった。
 表紙の版画だけの協力だが、それが奇妙なことに津田青楓の原画に依る、と言うのだ。
 巻末の一文を書き写そう。
 「此の集は売るんじやない 青丹社へ賛成の諸君に頒つんだ 僕等何の位(どのくらい)損をしても関はん。/今度記念にもと思つて編集皆を引き受けて遣りました木版には印刷屋もずいぶん手古摺りました。/絵と文字とは没交渉だから其の心算で読んで頂き度い這ナ小冊子だが随分骨が折れた表紙絵は青楓氏筆富本氏刀其他は自画自刀だ。/ぢや之れでお訣れ致します何だか。/此の地を去りともない。/―胡の人―」
 富本憲吉と津田青楓は、南宛書簡に「それから津田君からは未だ何むとも手紙が来ぬが今日あたりはたしか京都で展覧会をやつて居る筈」(明治45年4月7日)と見えるのが初めだろう。7月27日には「津田君に団扇をうつて貰つた金で安芸へ行かふと思ふて居たのが(略)」と書き、さらに津田が借りたという海辺の家に誘われたとも言う。急速に親密の度を深めている。団扇とは、この時、富本は肉筆団扇も制作し、それも話題になっていたのだ。それを、津田青楓が売ってくれたらしい。
 さらに、翌大正2年5月1日から6日まで、大阪三越では富本、津田の『美術工芸品展覧会』が開催された。この展覧会が好評だったことは、「私の楽焼の図案が面白いというのでよく売れました。売行は百三十円でした。」と、富本が回想をしていることでも分かる。これに対する津田青楓側の気持ちは、すでに『富本憲吉と西村伊作の文化生活』のパンフレットに書いたから再度は触れない。若者たちには濃密な熱い時間かこの時にはあったのだ。
 『(仮題)青丹 版画号』はその次の年(大正3年)の刊行だ。富本憲吉と津田青楓との合作があっても、不思議ではない。しかも、表紙版画は、富本が津田青楓に売ってもらったという団扇の図だ。よくよく因縁めいている。
 この、団扇の中の人物図を見た時、わたしはどこかで見たと思った。チャイナ服の女の子が下駄を履いて手を広げている図だ。周りにはチューリップの花盛り。そんな稚拙な絵が団扇の中に描かれる。けれども、なかなか思い出せない。ありがちなことだから、しばらくは仕方がないとあきらめていた。山本さんから雑誌を預かり、しばらくして、ようやくあれではないかと思うものがあった。とは言え、病院暮らしの身。山本さんに電話をかけて、調べてもらうこととなった。
 わたしが思い出したのは、二十年近く前に三重県立美術館で行われた『二十世紀美術再見』という展覧会だった。この展覧会には、ひょんなことでわたしが絡むことになる。そのきっかけを作ってくれたのは山本さんだった。これについては、別の機会に書こう。
 この展覧会は、わたしの強い要望で、学芸員の土田真紀さんがたくさんの装幀本を展示してくれた。書物は工芸と考えて欲しい、と言うのがわたしの言い分だった。土田さんは、そんなわたしの提案を見事に実現してくれた。現在、「本」を美術品として並べることは当たり前になっているが、当時はそんな時代ではなく、本画主義の時代だ。なにかと大変だっただろう。
 その展示物の中に、青楓の似た図があったように思ったのだ。山本さんにお願いしたのは『ル・イブウ』という雑誌。イブウは、木菟(みみずく)である。カタログを調べてもらったら、どんぴしゃり。同じ図だった。
 大正2年の刊行である。
 つまり、富本は大正2年に津田青楓が『ル・イブウ』に寄せた表紙絵を、今度は『(仮題)青丹 版画号』のために、団扇絵図に仕立て直して版画としたのであった。たしかに、津田青楓の絵は借りられているが、版画の表現は間違いなく富本憲吉のものである。彫り残しや、枠のラインのわざと行う断ち切りや彫り込み、いずれも見事なものだ。やや小ぶりで押し出しはないが、富本版画の優品として良いだろう。
 ところで、この雑誌、もう一つ書いておくべきことがある。それは「版画号」ということについて。
 この雑誌メンバーをわたしは、奈良の若い人々。高等学校学生くらいと推測したが、その学生たちが、版画と文字の冊子(雑誌)を作っているのは、驚きである。わたしは持論として、雑誌のコマ絵が自刻の創作木版になったという仮説を立てている。その推論を証拠立てるような版画なのだ。
 版画のいくつかは小杉未醒の線の細いコマ絵よりは、竹久夢二のザクッとしたコマ絵に近い。まさに大正のコマ絵スタイルなのだ。それを彼等が自刻したという。ただ、あきらかにコマ絵と違うのは、ぶきっちょながらも富本的彫り残しや断ち切り、彫り込みが見られるということなのだ。小杉未醒のコマ絵は、筆を主としたものだから突然の断ち切り、彫り込みは少ない。だが、富本の画面作りには、この彫り残し、断ち切り、彫り込みが、画面の空気感を左右する。雑誌メンバーたちは、その富本の技術を真似ているのだ。とすると、この冊子が明らかにすることは、安堵の富本の周辺に一時期ではあったが、版画のグループが存在したということなのだ。
 同じ頃、東京でも夢二周辺に版画を試みる若者たちが集まっていた。彼等が版画の新世紀を築くのだが、奈良で富本と版画制作を共有していた若者たちがいたことは、まったく知られてはいない。しかも、彼等はコマ絵ではなく「版画」を意識した制作をしていたのだ。版画の歴史を埋める、一つの大事な事実がこの雑誌によって明らかになったと言ってよい。
 このように、この冊子が富本周辺で作られたことを証拠立てるものは、他にもある。一見して富本かと思う裏絵のカップの図(久保田幽花)は、まちがいなく富本制作の楽焼きだし、「ロシヤダンス」(胡の人)も、富本の近くにあったものかもしれない。
 富本が奈良に持ち帰ったものは多い。明治44年7月28日の南宛の手紙に富本はこう書いている。
 「絵が出来き上つたら一時奈良へ来ないか。/(略)/奈良と云ふても天平の推古ばかりでない。ロシヤの音楽、アビシニアの銅、一寸眼さきの変つたものをイミテーシヨンながら御覧に入れるつもり。」
 今は失われたものが多いだろうが、その片鱗は富本憲吉記念館で見ることができる。だが、その記念館も今年度で閉館すると言う。文化を支える行政がない国だから仕方がないが、支援をしてくれる団体や企業もないことが残念だ。

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リルケと女性たちとビオ・ソフィア――山田俊幸氏の「病院日記」(第17回)

2011年11月16日 11時08分35秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は、10月11日に私の携帯に到着した山田俊幸氏のエッセイです。


寝たまま書物探偵所(17)・・・リルケと女性たちとビオ・ソフィア by 山田俊幸

 猪狩さんからの「午後のメール」、「~キッペンブルグのリルケ途中までですが読んでます」とのメールがあった。5日のことだ。すでに4日のメールで、読みはじめたと書いていたので、これを見て、猪狩さんはニーチェからリルケに行ったのかと、わたしとしてはちょっと感激をしていた。
 病院で不自由だろうに(それはわたしも同様なのでよく分かる)、ハインリッヒ・マン編集の『ニーチェの言葉』と、キッペンベルクの『リルケ』がよく手元にあったと、これも感激なのだが、猪狩さんの選択の順序がルー・ザロメの遍歴と同じなのが面白いと思った。しかも、『ニーチェの言葉』の翻訳は確か原田義人ではありませんかとメールしたら、そうだと言われ、猪狩さんが原田義人の訳でニーチェを読んでいることも、わたしをもっと嬉しくさせた。原田義人は、加藤周一や加藤道夫、福永武彦、白井健三郎などと同世代で、戦後すぐの翻訳を担った人だ。わりと若くして亡くなっていて、評論集がたしか遺稿として残されている。わたしはこの人の翻訳書も集めたことがあって、大好きな翻訳者なのだ。そして、キッペンベルクのリルケ。星野慎一の訳だ。戦後すぐのリルケ・ブームの中で翻訳された本だが、猪狩さんの読んでいるのは、「世界の人間像」という選書に収められたものだ。これは、平凡社の「世界教養全集」(?)だったかを真似して角川書店が出した選集だが、今からすると、平凡社の収載は教養を元としたオーソドックスな編集、それに対して角川書店は、それとかちあわないように人間的魅力ということで伝記を集めた類似品の「隙間」選集と言ってよい。ではあるが、現在ではけっこう読み難くなっている伝記が収められていて、この選集、なかなか便利なものなのだ。キッペンベルクのリルケがその中に入れられたのは、やはりリルケの芸術家としての生き方が当時共感を得ていたからだろう。時代は、詩の季節、リルケの季節だった。
 猪狩さんは言う。
 「リルケの基本文献を山田さんに話をするのもおこがましいですが……。リルケの死生観、とりわけ独特の「死」の観念が綴られた章は、同時代を生きた女性の感覚が直に感じ取れます。後々も様々な女性との遍歴があるようですが。」と。
 言うとおり、わたしなどは二十世紀を女性原理の時代だと思っている。ルー・ザロメがニーチェを覚醒させ、十九世紀末に神の時代を終わらせたように、リルケの人間としての死の二十世紀もまた、ルー・ザロメによってもたらされたのであった。その後のリルケも、女性たちとの感応の中で、自分を支えていったように見える。
 ジグムンド・フロイトからユングへ。帝国主義から原始共産主義へ。都市から田園へ。男性原理から女性原理へと、二十世紀は大きく舵を取ったのである。猪狩さんの言い方を借りるなら「女性の感覚が直に感じ取れる」時代になったのである。
 ビオ・ソフィア(生の知)は、生死が人間のものとなった時に生まれる。有名なニーチェの「神は死んだ」は、「神を殺してしまった」、ということなのだ。そこから、人間として生きること、人間として死ぬこと、という「生の知」の在り方が問われることになる。ドイツのユーゲント・シュティールは、青春の生命の溢れとともに、つねに死、あるいは喪失感が表裏で現れ出ている。ハインリヒ・フォーゲラーの詩画集『あなたに』は、まさにそうした人生をなぞった本だった。この流れは、ウィーン分離派の装飾画家とも見られがちなクリムトにも言えるだろう。ベートーベンのフリーズ。ここにも画家のビオ・ソフィアを見るべきだろう。クリンガーの版画連作、ベックリンの「死の島」。美術史家がなんと言おうと、このビオ・ソフィアを避けて語るわけにはいかない。
 猪狩さんが、ニーチェとリルケに感じ取ったものは、世紀末、あるいは自身の転換期に対してビオ・ソフィアが問い掛ける問題だったのだと思う。そう考えると、「朝夕めっきり寒くなってきました 。入院中ですが、体調にはくれぐれも気をつけて下さい。車椅子ですか?猪狩」と書いてきた猪狩さんが向き合っている問題は、わたしなどよりははるかに大きいのだろう。
 研究対象としてのニーチェは、あらゆる所で論じられている。だが、ニーチェを自分の問題としてとらえた論者は少ない。そんな中、日本の思想が若かった時に出版された一冊の本の名をここで挙げておこう。中沢臨川の『嵐の中』。猪狩さん、持っていますか。


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高村光太郎の書く福永武彦と山田風太郎の書く堀辰雄――山田俊幸氏の「病院日記」(第16回)

2011年11月14日 15時48分44秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 以下は、10月8日に私の携帯に到着した山田俊幸氏のエッセイです。


寝たまま書物探偵所(16)・・・高村光太郎の書く福永武彦と山田風太郎の書く堀辰雄 by 山田俊幸



 長たらしい表題だが、今回は、この話。
 病院で、古雑誌の中から戦時中の『歴程』昭和19年3月号を見つけて読んでいた。表紙素描は庫田テツ。この雑誌、詩人たちの集まりだが、巻頭に逸見猶吉の、大東亜戦下再び建国の佳節にあひてとか、空の記念日のために、とか言う時局詩が載る。「大日本帝国二千六百年……大東亜戦下、けふ再び建国のよき日にあひ」というフレーズにすべてが要約されるだろう。この逸見を『歴程』の創設者という高橋新吉説(一般的には草野心平)があるが、雑誌全体に、この逸見のトーンがただよっている。この流れで見ると、小野十三郎が「石炭(いし)搬ぶ海のほとりで」で展開する詩も、戦時下の郷土詩運動(ファシズム・ドイツのハイマート運動の日本化だろう)に繋がると思わせる。「いま。/大和の国。/宇田郡。/鎧岳の南西面。/聳え立つ/石灰安山岩の柱状節理にあたつている。/残照よ。/濃き紫の。/その陽よ。」。あるいは「天平雲」の、「より高き寒き空に/雲ありて古し」。逸見のようなあからさまな時局詩ではないが、そうも読み取れる詩ではある。高橋新吉も、「能褒野(のぼの))神社」「敢国(あえのくに)神社」「中山神社」「稲田神社」「吉備津神社」を歌っている(稲田と吉備津は随筆)。そして伊藤信吉も、愛国百人一首を、今日の糧として讃えている。
 こんな中で、高村光太郎は当然時局発言と、つい偏見でそう見てしまうが、そうではない。「彫刻その他(二)」は、短文二つを収める。相馬御風の令嬢からもらったさざれ石の美しさから始まった智恵子が集めた九十九里の貝殻の話。それと、詩の韻律の話だ。
 その詩の韻律の話に、「夜(第六歌)」という挿韻詩が載っている。
 「花は地に終(つひ)の美を夢みる夜(よ)/光に翔けて行く翼のむれ/時黒檀の部屋に燃えくづれ/影を移す輝きのウエヌスよ//われを焚(や)くいのちのふるさと 於於/われに笑む遠い記憶よ眠れ/空の露忘却の鉄に濡れ/北河 天狼 五車 夜の女王//ここにともしびの孤独の宴(うたげ)/錬金の暗い調べをささげ/たち迷ふ憤怒の霊をくだす//吹く笛のたくみに物はふるへ/夕波に浮ぶウテナのゆくへ/天の乙女にさかづきを差す」
 高村光太郎の詩ではない。「若い友の一人である象徴詩人福永武彦君は数年来の試作の結果、今夏あたり、かなり完成した脚韻を自由に使つて詩を書いた。一行十五音、四四三三行の定型詩であるが、脚韻は二綴音までを揃へてイる。脚韻形式には数種を用ひられるが、いづれもあり勝ちな無理を感じない。今はこれについての意見は述べず、ただ一例を引いて置くにとどめる」」と、高村光太郎が書いたように、福永武彦の詩なのだ。
 福永がこの時期に高村光太郎と接近していたとは、うかつながらまったく知らなかった。しかも高村光太郎は、福永がソネットの韻律詩を作る過程に立ち会ったらしい。これは、戦後になって、マチネ・ポエティック運動として成立するが、その前史として面白い。
            *
 小学館の矢沢さんが持ってきてくれた本に、山田風太郎の『戦中派焼け跡日記 昭和21年』(小学館文庫)がある。名前だけ聞いて、読んだことのない人だったが、この日記、けっこう面白かった。昭和21年というと、わたしの生まれる一年前。戦後の混乱した時代だ。その価値紊乱の時代と、いつも節を曲げながら生き延びる不快なヤカラをも、みごとに写している。
 だが、ここで取り上げるのはそれではない。風太郎の読書である。
 若い日、人はだれでも読書家だった。山田風太郎も、復員後、医学を目指す山田誠也と言う学生で、読書し、小説にも力のある学生だった。
 その風太郎が、モーパッサン、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、チェホフ、ニーチェを読み、神を語り、人間を語るが、やがて、時代の作家である永井荷風や尾崎一雄などとともに探偵小説雑誌『宝石』を求める(5月8日)。それが、風太郎の人生航路の転機となったのだろう。『宝石』に投稿した原稿を機に、推理小説家山田風太郎ができるのである。
 そんな時期、風太郎は、六月に「青春彷徨」(五日)、十月に「秋の徒歩旅行」(十一日)とヘルマン・ヘッセを読んでいる。そして、十月二十二日の日記に、次のように書く。
 「堀辰雄『聖家族』『ルウベンスの偽画』『あひびき』読。日本のヘルマン・ヘッセか(?)」と。
 以後、積極的に「姨捨」(二十五日)、「かげろふの日記」(二十八日)、「ほととぎす」(二十九日)、「麦藁帽子」「挿話」(十一月一日)、「菜穂子」(四日)と、続けざまに堀辰雄を読み継ぐ。半端ではない読み方だ。これらの作品を一冊にした本はないから、戦争末期に出て、戦後も生き残った本を風太郎は見つけたのだろう。わたしは病院暮らしだから調べることもできないが、新潮社の『聖家族』、養徳社の『姨捨』、創元社の『かげろふの日記』、『菜穂子』などが思い浮かぶ。はたして、どれだろうか。ちょっと調べたい気が起きてきた。
 こんな記事は堀辰雄研究者のだれも書きそうにないから、ここでメモっておこう。需要史には、大事な資料なのだが。


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吉川霊華の軸――山田俊幸氏の「病院日記」(第15回)

2011年11月10日 19時03分10秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 もう退院して元気を回復しつつある山田氏が、病床から10月5日に送信してきたものです。退院後は忙しいようで、何も送ってきませんから、はやく滞貨一掃してしまわないと、私のブログ本来の姿に戻れませんので、急ピッチで転載を続けます。あと5回分で終わりだったと思います。



寝たまま書物探偵所(15)・・・吉川霊華の軸 by 山田俊幸

 丸橋さんが、えびな書店店主が書いた本をもってきてくれたことを前回書いたが、その時、一緒に『視覚の現場・四季の綻び』という雑誌の第10号もいただいた。丸橋さんが関東大震災について書いている号だが、中に吉川霊華について書いているのが目についた。
 吉川霊華は魅力的な日本画家で、その線描の美しさは比類がない。鏑木清方の文章で知り、たまたまデパートの古本市で出会ったのは幸運だった。たしか、銀座松坂屋の古本市で、少し前に知りあった丹波屋さんという書画屋さんに出たのだと思う。画題は重苦しくけだるい気分に満たされた貴人が琵琶を弾ずる絵で、決して元気の出る絵ではないが、好ましい。自題共箱で、霊華らしく難しい題がついていたが、今は病院ゆえ確認もできない。そんなものを皮切りに、さほど人気のなかった霊華を、出るたびにぽつぽつと集めていった。競争相手もいなかったと思う。買えるとはいっても、渓仙と比べるとさすが東京画壇の線の画家だ。淡彩でもそれなりの値はしていた。
 それと同時に、霊華が私淑したという冷泉為恭、浮田一恵の資料も読みはじめた。為恭の軸は高価で買えなかったが、一恵だけは法然上人絵伝という巻物を得た。そんな中で、霊華の全画集も高価で手が出なかったが、古い霊華画集の類はいくつか、なんとか手に入れることができた。そんなこともあって、いっとき、飯田呉服店の売り立て図録を、錦糸町西武の源喜堂のコーナーから全部集めてもらったこともある。渓仙と霊華の作品目録を新作の売り立て目録と骨董の目録のコッピーで作ろうと思ったのだ。その類もせっせと集めた。今から思うと異常な執着だった。だが、わたしの研究の流儀というのは、そうしたものだったのだ。そういう意味では、論文でも出来るくらいの資料は手に入れていたが、それに手をつけなかったのは、わたしの気まぐれ癖と怠惰以外のなにものでもない。軸は六軸くらいにはなったはずだ。
 古い霊華の画集を見ると、収集家の名前が記されている。最高の霊華コレクションは鈴木新吉らしいが、天金という銀座の天麩羅屋もだいぶ集めていたらしい。だが、いつ頃のことか、店の火事で焼いてしまったという。この話を書いているのは、天金の息子だった池田弥三郎さんだ。随筆で読んだことがある。池田弥三郎さんは、学生時代、講義を受けたので、知っていれば霊華のことをとうぜん聞いたはずだが、わたしが霊華を知ったのは卒業後だった。
 戦後、あるいは画集の編纂時だったのかもしれないが、霊華の文集をまとめた人がいる。私家版のようだったが、それも手に入れた。いつか使うと長い間置いていたが、残念だが大阪処分で救い出すことはできなかった。一冊二十円として市場で売られた。よく知られた霊華の関わる表紙絵は、『早稲田文学』にある。それとは別に、口絵の仕事をした一冊を手に入れたことがある。キュウセイさんに薦められたのではなかったか。署名は今は分からないが、これはまだあるはずだ。霊華のこういう仕事は珍しい。また、顕彰会の依頼だったのだろう。忠臣蔵の一場面なども描いている。
 極め付きの霊華の珍品は、大阪の大学に赴任した時、ピエかなにかで知った京阪守口のデパートの古本市で手に入れたものだ。吉川霊華と平福百穂のハガキを四葉ほど張り込んだ紙で、百穂のハガキはなんとか読めるが、霊華のそれはまったく歯が立たなかった。情けないが仕方がない。もったいないだけである。
 『視覚の現場・四季の綻び』に霊華の箱書きについて書いているのは、鶴見香織という人。東近美の人らしい。知らない人だが、霊華の軸を三百数十見たという。それで箱書きの謎に突き当たったのだ。霊華は今は人気がないが、当時はそれなりの画家だ。贋物も多いと聞く。わたしのものも真贋は判然としない。研究は大変だろう。この人、青木茂さんなら知っているかもしれない。青木さん、知り合いなら、資料提供しますと、伝えてください。と言っても、病院の声、青木さんに届くかどうか。


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「えびな書店店主の記」から思い出したことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第14回)

2011年11月01日 11時21分41秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は山田氏から私の携帯に、10月5日に送信されてきたものです。

[私の余計な付け足し]
 今回分では、明治、大正期の作家・芸術家たちの底流にある「男色傾向」というか、そうした風潮――最近、私が愛用する言葉で言えば「時代の気分」とでもいったことに関しての発言と証言が、とても懐かしいものでした。私自身にも記憶や実感のあるエピソードなのです。私自身は昔から、そして今でも、「クリエイテイヴな人間は異性に煩わされるより、同性ととことん自分の内面世界を極めようとする者が多い」と思っていますから、それほど特別な事とは思っていません。ただ、それぞれの時代に、それなりの特徴があったとは思います。
 初めの方に出てくる「伊勢丹の古書市」は、そのころもう私は中古レコードのコーナー方にばかり行っていました。今にして、惜しいことをしたと思わないでもありませんが、山田氏と私との基礎的な蓄積の差とか関心の方向の違いは、既にこのころ始まっていたのだとも思いました。(by 竹内)


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寝たまま書物探偵所(14)・・・「えびな書店店主の記」 by 山田俊幸

 先日、病院に見舞いに来てくれた丸橋さんが、蝦名規『えびな書店店主の記』(港の人・四月と十月文庫1、2011年6月26日発行)を持ってきてくれた。えびな書店の目録『書架』の後書きを中心にまとめた本だ。
 わたしがえびな書店を知ったのは、たぶん伊勢丹の古本市ではなかったかと思う。それも、その古本市の始まりの頃だったろう。その頃の伊勢丹は版画堂さんなんかも出ていて、絵に興味のあるわたしなどには出物の多い古本市だった。そんな中で、えびな書店は、画家の片鱗の伺える装幀画だとか、書簡の類が、わたしなどにも買える値段で出ていた。そういう点、まことにありがたい本屋さんだった。まだまだ、肉筆画は、どの画家のものでも高価な時代だったから。
 伊勢丹のえびな書店からは、細々(こまごま)としたものをずいぶん買わせてもらった。当時、入れ込んでいた富田渓仙の年賀状とか、岡鹿之助の装幀原画とか、橋本関雪が外遊中に日本に連れて来たドイツ少女のインサイダー書簡とか、じつに様々で多様なものをもとめた。もっとも、そうしたものをじゅうぶんにその後生かしきれてはいないのが悩みだ。だけれども、今年の暮れ、岡鹿之助だけは上原近代美術館の岡鹿之助展で、ようやく展覧されるらしい。それが、多少の救いになるかもしれない。

 蝦名さんの書いた本は、『書架』で一度は読んだもののはずだが、また一冊本にまとまってみると、けっこう新鮮だった。自分の古本体験、あるいは記憶とクロスする部分もある。こういう本は、そうした面白さなのだろう。
 例えば、こんな話が出ている。会津八一が好きな蝦名さんは、「会津八一とリヒテル」で、「またその書簡に充ちている厳しさと優しさもわたしを酔わせる。人間として立派なのである。(略)早稲田のある先生が、同人雑誌にせよ八一男色説を唱えているのを読むのは、いささか不愉快なのである」と書く。それに異論はないのだが、蝦名さんを不愉快にさせたのは、早稲田の先生である丹尾安典先生。同人雑誌とは、『一寸』だ。それにはわたしも参加しているからなんとも微妙な位置にいる。丹尾の男色説が違うというだけの論拠があるわけではないし、事実で言うならば、いくつかの本を読むなら、あるいは多少そうした傾向があったのかもしれない。だが、それは明治に生まれ大正に芸術家として活動した人達に共通した「趣味(テースト)」だったろうと、わたしなどは考えている。
 わたしが学生の時、『文藝春秋』だったかに、折口信夫のそうした傾向を書いた「我が師折口信夫」という小説が出され、スキャンダル的話題を呼んだことがある。学生たちの噂は短絡的である。話題は、折口門下の先生方に及び、消息通だった死んだ横田章はいかにも見てきたように、折口信夫と西角井正慶と高崎正秀の話をしていた。「三人で学校の門を出て、渋谷の駅まで歩いて行くんだそうだ。そしていつも駅にくると、高崎帰れ、西角井来い、と言うんだそうだ」と。横田の話が見てきたようだったのは、父親が同じ國學院だったからだろう。この話も、父親世代の噂だったにちがいない。そんな横田も、いつも一緒に連れ立って行動をしていたわたしと、あの二人おかしいんじゃないのと女子学生から噂されていたのだから、らちもないことだ。
 あの出版に関してみごとだったのは、岡野弘彦さんだった。岡野さんは最後の内弟子で、雑誌が出た直後から学生たちからはあれこれと取り沙汰されていた。わたしたちは岡野さんの新古今和歌集の講義を受けていたが、講義に入る開口一番、雑誌のことに触れ、「わたくしの時には、そうしたことはありませんでした」と、その時だけはしっかりと学生の顔を見ながらしゃべり、その後は天井を見ながら語るいつものスタイルで、講義に入った。忘れられない瞬間である。
 こんな折口信夫の傾向は、じつはこの時に初めて明かされたことではなく、室生犀星がすでに書いていたことを後で知ることになる。『我が愛する詩人たちの伝記』の中でだ。
 その犀星にしても、萩原朔太郎との間でそんな傾向があったことを、日夏耿之介が書いている。朔太郎が、鎌倉の日夏をしきりに訪ねた時期があったらしい。そんなあるとき、日夏のもとに突然犀星が来て、「ぼくは君に嫉妬を感じるな」と言って帰ったと言う。
 良し悪しは別だろう。江戸時代の武士階級の共同、協力という一体意識「一所懸命」には、この男色関係が大きく関与していると、いつか滝川政次郎先生から聞いた。同心という組織は、まさにそれ(男同士の恋愛関係)を人工的に作った組織だと言う。明治の近代化で、その男色は表面上は消えたようにみえる。だけれども、大正に入ると新しい宗教も含め、小さな閉じたセクトやコロニー、友人関係といったものが芸術家を大きく育てることになる。こうした強い人間関係には、男色的な親密な要素が多少必要だとも言えるだろう。大正時代にあらわれた「趣味(テースト)」と言ったのは、そうした意味である。スキャンダル的な男色論は噴飯だが、考えるべきことではあるのだ。

 蝦名さんが中央公論の画廊でやった青山二郎の装幀展も見た。その時は、だれが集めたのか知らず、すごいものだと思った。1989年のことらしい。
 1992年の『書架』の第十五号には、カラーで古賀春江の水彩画が出ているという。これは、前の年だかの錦糸町西武の古本市で出たものだろう。そこでは、「山田さん、一足ちがいで古賀春江を逃しましたね」と言ったのは、岩切信一郎君だったかもしれない。錦糸町西武は、源喜堂書店が目録から当日の出物まで、びっくりするような価格で出品するので、わたしたちには有り難い古本市だった。そこに、なんと古賀春江が出たというのだ。「あまり面白くない水彩画だったけれど、中川紀元の鑑定がありました」とも言われた。値段も、二十万前後のようで、いかにも源喜堂らしい値付けだった。これは目録にはなかったから、会場で追加されたものにちがいなかろう。誰が買ったのかなあ、と聞くと、蝦名さんだと言われた。わたしが行った時には蝦名さんの姿はなかったから帰った後だったらしい。
 これについては、本の二カ所で触れている。「古賀春江の水彩画を得てしばらく掛けていたことがある。いずれを表と裏にすべきか分からないが、とにかく一枚の片面には短い髪の自画像、もう一面には風景が描かれていた。パウル・クレーを知る前、シュルレアリストの一人に後年組み入れられるとは本人も予測がついていない、やや腺病質らしい十六、七歳の面貌がそこに映し出されていた。自画像が四、五点しか確認されていない古賀の発展を知る貴重な資料であるには違いないが手元に残そうという気は起こらなかった。」(「原勝四郎の絵を見た最初」)と書いているのがそれだろう。そしてそれは、目録の「カラーに古賀春江の十六、七歳ごろの水彩の自画像を載せていますが(裏が風景で、中川紀元のシールがついていました)、これは即売会で見つけたものです。利をむさぼろうとしたのが天の罰するところとなって売りあぐね、結局地元に近い美術館に寄贈するところとなりました。」(「開業二十年まで」)と、美術館に収まったらしい。岩切信一郎君の言うように山田にはまったく残念だったが、結果は蝦名さんのもとに行ってよかったのだ。

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