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METライブビューイング、今期の『蝶々夫人』は、定番となったミンゲラ演出の最良の成果かも知れない

2024年07月01日 14時31分13秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 ご報告がすっかり遅くなってしまい、2週連続上映の東劇でも、残すところ、あと3日となってしまったので申し訳ないが、今期のメトでのアスミック・グリゴリアンの蝶々さんで上演された『蝶々夫人』は、ほんとうにすばらしかった。そのことについて、以下にメモ的に記載しておこうと思う。

 舞台は、もうお馴染みとなったアンソニー・ミンゲラ演出による幻想的な世界である。文楽人形を登場させての、日本文化に西欧人なりに、このオペラの世界に理解を示したミンゲラの演出も、初登場以来、既に17年も経過しているという。私自身も、ライブビューイングで何度も見ているが、この蝶々さんの「覚悟の死」にフォーカスした演出の美しさの背後にある蝶々さんの力強さ――それは、軽薄なアメリカ人青年ピンカートンとの対比として、おそらくプッチーニが最も描きたかったものではなかったか、と最近思うようになったのだが――を表現するのに、アスミック・グリゴリアンのダイナミックなソプラノこそが、最もふさわしいと思った。彼女の絶唱は力強く、まさに感動的で、このオペラの初演がリリコ・ソプラノの歌手で失敗し、初日だけでスコアを引き上げてしまったプッチーニが、3カ月後のブレシアでの改作初演ではワーグナー歌手に交代させての上演とした理由が、よく伝わってくる。 

 グリゴリアンと同じく、これがメト・デビュー作品となったという中国系の女性指揮者シャン・ジャンも、積極的にグイグイとせり出してくるオケの低弦の響きが充実しており、このオペラが、決して小ぢんまりとしたものではなく、正にグランド・オペラなのだということが納得できる。もちろん、細部の小さな音に耳を傾ける繊細さも、様々な引用メロディが隠されている内声部の動きのきめ細かさにも、抜群の冴えを聞かせる。なかなかに才能に溢れた指揮者だと感じた。

 これは、日本語字幕付きで市販ソフトを発売して広く普及させるべきものだと思った。新たなスタンダードとなるべき公演映像だと思う。

 

 じつは、1カ月ほど前にも、このグリゴリアンが蝶々さんを歌う公演映像を見ている。コヴェントガーデン王立歌劇場での、今年3月26日上演を収録したもの。「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2023ー24」として東宝系で上映されているものの一つである。

 もちろん、演出の舞台がちがうものだが、ケヴィン・ジョン・エドゥセイという指揮者がおざなりなので、グリゴリアンも、メトのような存在感がない。やはり、よい指揮者に追い込まれて発揮される「何か」が、あるのとないのとでは、まったく違ってしまうのだ。(例えば、パッパーノの指揮でトスカを歌ったゲオルギューのライヴ映像のように――。)しかも、このコヴェントガーデンの舞台は、最後の幕で登場するピンカートン夫人が、どうにも不似合いで、あっけに取られてしまった。

 現われたピンカートン夫人が、蝶々さんよりも背の低い小太りの黒人女性、というのは、どうにも、説得力がなさすぎる。私が気に入っている『蝶々夫人』の映像ソフトに2018年グラインドボーン音楽祭での公演を収録したものがある。これは時代を曖昧にした演出で、第2次大戦後の進駐軍時代の日本を想起させる面もあるが、そこに登場する領事シャープレス役が、キング牧師を思い出させるような苦悩する黒人男性、現れたピンカートン夫人は、小柄の蝶々さんを見下ろすような細身で長身の白人女性というもの。それだけで、絵になっていた。視覚的な印象とは、そういうものでもある。コヴェントガーデン上演のキャスティングは、どうにも納得が行かなかった。そもそも夫人役は、ひと声しか歌がないといってもよい改作台本なのだから、なおさら、である。

 

 なにはともあれ、「あわれで悲しい蝶々さん」から脱却した、「覚悟の死」を力強く歌い上げる蝶々さんとして、グリゴリアンの蝶々さんは、新たなスタンダードとして今後定着しそうな予感がある。

 

 

 

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■シュヒター/N響の貴重な録音/チェリビダッケのウインナ・ワルツ/ロト/ギュルツェニッヒ管のブル9/ストコフスキーのBBC放送録音

2024年06月22日 10時23分41秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて詩誌『孔雀船』に掲載し始めて、もう30年を越えたようです。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、2024 年上半期分。まもなく発行される最新号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が読めます。

 

■シュヒター/N響の貴重なステレオ録音が一挙に発売


1959年3月からの3年間NHK交響楽団の常任指揮者として、このオーケストラの基礎を磨き上げたウィルヘルム・シュヒター/N響のレコードは、黛敏郎『涅槃交響曲』を昔から持っているくらいだったが、今回ビクターから2枚組CDで発売されたのは、シュヒターが帰国した直後に発売された3枚のLPレコードのすべて。ほとんどが初CD化である。曲目はラヴェル編『展覧会の絵』/モーツァルト『フルート協奏曲第2番』(独奏は吉田雅夫)/ワーグナー『ローエングリン第3幕前奏曲』/ベルリオーズ『序曲・ローマの謝肉祭』/ベートーヴェン『コリオラン序曲』/ブラームス『ハンガリア舞曲1・2・5・6番』/ドヴォルザーク『スラブ舞曲10番』/グリーグ『ノルウェー舞曲2番』/モーツァルト『ドイツ舞曲K600―5・602―3・605―3』である。2枚目の冒頭に収録されている『ローエングリン』を聴いて、N響のアンサンブルの溌剌とした響きに、すっかりうれしくなってしまった。自信にあふれ、伸びやかに歌い切ってゆく『ローマの謝肉祭』も若々しい。正に、日本のオーケストラの〈青春時代〉である。舞曲もそれぞれの音楽様式を弾き分けながら、生命力も失っていない好演なのだが、『展覧会の絵』で、さすがにシュヒターの指揮が色彩感に無頓着なのは仕方がないだろう。モーツァルトの協奏曲では、吉田の妙技が聞ける。昭和初期から、日本人の独奏は、それそれの楽器で傑出した奏者が生まれている。問題は〈アンサンブル〉だった。

 

■チェリビダッケの「ヨハン・シュトラウス」がライヴ音源で登場


珍しいものが出た。セルジュ・チェリビダッケが指揮する「ヨハン・シュトラウス集」である。こういう軽い小品を指揮しているとは知らなかった。1981年、82年、83年のシュトゥットガルト放送交響楽団の「ball(舞踏会、夜会)」の録音を集めたもので、曲目は『アンネン・ポルカ』『皇帝円舞曲』『こうもり序曲』『ピチカート・ポルカ』『トリッチトラッチ・ポルカ』『ポルカ・雷鳴と電光』『ワルツ・ウィーン気質』『ジプシー男爵・入場行進曲』『ポルカ・狩り』『ワルツ・南国のバラ』の10曲である。この「ball」は放送局の番組名のようで拍手は入っていないようだったが、7曲目から最後までの1983年の録音だけに拍手が入っている。しかも、最後の曲の拍手だけが異様に長い。この年だけは聴衆を入れていたのかとも思うが、何か胡散臭い。いずれにしても、時折、ガタンと何かの音が入っているから、それほど厳密なセッション録音ではない。しかし、それにしても、じつに不思議な音楽である。一曲一曲が、フレーズの隅々にまで神経が張り巡らされたようにまったく〈隙〉を見せずに進行してゆく息苦しさ。この〈くそ〉が付くような〈丁寧〉さ! やっぱり「チェリ」は2級の巨匠だったんだなァ、と改めて思った。これを「巨匠芸」と称える人の気持ちがわからない。一時「隠れていた巨匠」として突然、評価が高まった指揮者だったが、「細部へのこだわり」は、CD時代の〈病い〉だったと思う。久しぶりの、この指揮者のCD登場で、そんなことを考えてしまった。

 

■ロト/ギュルツェニッヒ管のブルックナー『第9』に学ぶ


かなり乱暴な表現で申し訳ないが、チェリビダッケの演奏が高い評価を得はじめた頃は、やたらオーケストラの細部の聞こえ方に関心が寄っていた。その流れで、ジュリーニの遅いテンポがもてはやされたり、インバルのマーラーを、コンサート会場で「スコア」をめくりながら、「あ、このパートが聞こえた!」と感心する人がいたり、と、十把一絡げにしてして、「末端肥大症ブーム」と揶揄する向きもあった時代だった記憶がある。じつは、〈原則として〉私は、この3人の指揮者は苦手だったから、私も、彼らを十把一絡げにしていた組かも知れない。だが、この3人に共通する〈流行現象〉があったことは事実で、かつて名ディレクター、ウォルター・レッグが「100年後にまで残る演奏」と表現した「名演」に、彼らがどこまで迫れるかと問われた時、私なら、「ほんの数枚あるか?」と返答するなァと思った。ロトという指揮者が取り沙汰され始めて、もう十五年ほどになるだろうか? この人も突然話題になったので、また、一過性のブームだろうとタカをくくっていたのを「不覚だった」と反省したのが、遅ればせに3年ほど前に聴いた2009年録音の『幻想交響曲』。細部までよく聞こえる音楽ながら、生き生きとした音楽の〈気配〉がいい。友人に誘われて来日公演でブルックナー『第4』を聴いて、改めて、全体を包み込む音楽の〈空気感〉に驚いた。「細部を鳴らす」「内声部を聴く」というのは、こういうものだったのか、と思った。この新鮮な音楽を、この歳になって学んでいる。

 

■ストコフスキーBBCレジェンドが6枚組ボックスで再発売


「細部のデフォルメ」といえば、ストコフスキーはその〈元祖〉かも知れない。様々なオーケストレーションの変更や、古くはオーケストラの配置まで〈いじった〉が、それらについて、私は再三あちらこちらに書いて、それぞれの音楽作品の〈本質的な魅力〉を的確に伝えようと工夫したものだという方向で支持してきた。おそらく、その発端は、当時の拙劣なレコード録音技術を補うことから始まったと思っているが、どうだろう。今日の録音技術、再生技術でストコフスキーはどうしただろう、と思うことがある。そのストコフスキーが育て上げたフィラデルフィア管弦楽団を引き継いだ指揮者オーマンディが、各パートがクリアに聞こえる指揮技術で名人奏者をズラリ揃えた録音を残したことも、最近『モノラル録音集成BОX』を聴いて再確認した。ストコフスキーの「遺産」も聴き直していたが、『BBCレジェンド』シリーズで発売された6枚をまとめたBOXが発売されたので再購入。その中に聴き落としていたマーラー『復活』があった。最晩年のRCA盤とオケは同じロンドン響だが、こちらは1963年プロムスのライヴ。ずしりとした手応えの分厚いオケの響きがストコフスキーらしい好演。思えばストコは、マイクの性能が相当によくなった晩年にも、ナショナル・フィルとの『オーロラの結婚』(『眠れる森の美女』の編曲版)で、オーケストラ・サウンドの可能性を模索していたのを思い出した。ストコやオーマンディが一生を賭けた世界について、もう一度考えてみたいと改めて思った。

 

 

 

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METライブビューイングの『つばめ』に、作曲者プッチーニ自身の「青春」へのノスタルジーを聴く

2024年06月03日 16時10分45秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 最近、やっと、話題にする人が増えてきたが、『蝶々夫人』と『トゥーランドット』に挟まれたあまり上演されることのない『つばめ』は、まちがいなくプッチーニの隠れた名作だと思う。

 いつか、詳しく論じたいと思っているが、とりあえず、以下にメモ書きする。

 

 このオペラは、男の庇護から自立しようとする女の、儚い夢を描いたストーリーなのだが、それは、「夫婦」という「装置」に縛られているすべての男と女の夢なのか? と、おもわず思ってしまった。それは、プッチーニの、いつもの名旋律の魔術かもしれない。相変わらず、プッチーニは、恋をしている瞬間の、途方もない感情の高揚の表現が、ほんとうに、うまい!

 円熟した作曲テクニックによって、さらに、複雑に折り重なる様々なメロディを織り上げて、聴く者を掴んで離さない。

 ヒロインのエンジェル・ブルーが、いつの間にか、どんどん太目になってしまっっているのが、見る前には不安だったが、相変わらずの天性のチャーミングなかわいらしさだから、許せるか?

 オケをドライブする期待の新星スペランツァ・スカプッチという女性指揮者は、ゴージャスな響きと全体が透けて聞こえる室内楽的な繊細な響きとのバランスが見事で、小劇場での軽歌劇(ウィーン風オペレッタ)として企画されたこのオペラの出自としての音楽と、大合唱での豊麗なグランドオペラ的な響きとを、うまく振り分けて、じつによくまとめている。

 それにしても、このオペラ、ヒロインが、「私は昔、パリの町の片隅で、貧しいお針子だった。でも、優しい学生たちが仲良くしてくれて楽しかった」みたいな話をして、『ラ・ボエーム』を思い出させるのは、憎い設定だ。そして、「今は、堕落した女となって、恥辱と黄金に囲まれて暮らしている」などと、『椿姫』のヴィオレッタのように呟くとは……。

 プッチーニが、清く貧しく暮らしていた自身の学生時代を思い返しながら『ラ・ボエーム』の最後の幕を作曲していて、思わず五線紙の上に涙を落した、という逸話を思い出してしまった。

 やっぱり、プッチーニは、いい。

 老いてなお、青春の日々を忘れずに、時折、思い出されている人に、ぜひ、ご覧いただきたいオペラだ。今週の木曜日までの上映だが、東京・銀座の「東劇」のみ、1週間延長で来週の木曜日まで。

 

 

以下、付け足し。

 最近は、過去をとやかく言わない、という生き方が当たり前になってきているし、事実、私の世代は、「学生時代に、いろいろあった」というのがフツーになりつつあった時代だったから、このオペラのストーリー解釈も、ずいぶん変わってきている。

 幕間インタビューで、そのあたりをはっきりさせていなかったが、今回の演出は、明らかに、いわゆる「高級娼婦」という一時期の社会の風俗から生まれた職業を明確化せず、単に、裕福な男性をパトロンにして優雅に暮らしている夫人、といった程度にとどめているように思う。そして、ちょっとした「冒険」から生まれた出来事を、すべて元のさやに収めて終える、というものではなく、どうなるか、あとは、見ている観客の想像に任せる……というところまで踏み込もうとしているように、私には見えた。

 このオペラ、もう一歩進んで、最近の社会の在り様に近づけてもいけるような気がしたのは、私だけ?

 

 

 

 

 

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早稲田大学の秋講座は、今年も「オペラ」がテーマです。

2024年05月18日 19時51分18秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 昨年に続いて、早稲田校での「エクステンションセンター講座」です。社会人向けオープンカレッジですから、どなたでも受講できますので、ご興味のある方は、ぜひご参加ください。

 まだ、詳細を考えていませんが、前回のテーマが好評だったので、また、「映像ソフトで鑑賞するオペラ」をテーマにしました。講座タイトルは『名作オペラの魅力を「ライブ映像」で考察する』といった感じにします。

 じつは、日本の西洋音楽受容史をテーマにして掘り進めているので、その方面の入口として、私としては既にまとまった成果を得ている『唱歌・童謡120の真実』(ヤマハ・ミュージック刊)を基にした「唱歌・童謡史」をテーマにした講座も、私の所蔵している「初出音源」を視聴覚教室を使って聴きながら進めたいと思っているのですが、それは、別の機会になりそうです。

 今秋の講座では、私が所有する映像ソフト(いつのまにか、900点近くになってしまいました!)を駆使して、「同じ作品でも、版、演出、舞台装置、衣裳、指揮者、歌手、……などで、こんなにもちがう」ということを見てみたいと思っています。

 内容詳細も、6月には大学事務局にシラバスを提出しますので、ここに公開します。

 日程は、昨年と同じで、9月25日(水曜)から、毎週水曜日、午後3時5分~4時35分の90分講座、11月13日までの全8回となりました。

 

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METライブビューイング2023-24『アマゾンのフロレンシア』の響きに、ロマン派音楽の現代化の可能性を感じた

2024年02月05日 15時17分38秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先週、東劇で、今期のメトの意欲作ダニエル・カターン作曲の『アマゾンのフロレンシア』を鑑賞した。カターンは1949年メキシコ生まれの作曲家。オペラは、この『アマゾンのフロレンシア』が1996年10月に初演されて脚光を浴びたものの、60歳を越えて間もない2011年、新作のオペラの作曲中に、惜しまれながら急逝してしまったそうだ。私は初めて知ったが、このオペラはヒューストン・グランド・オペラが委嘱した作品だそうで、主要な歌劇場からの初の委嘱作だったというから、他にオペラ作品がどれほどあるかわからないが、この作品は、間違いなく、長く残る作品だと思う。ちなみに、少なくとも1988年に作曲されたオペラが1作あるほか、ミュージカルの作曲も手掛けている人ということだけは、とりあえず、調べていてわかった。

 メトは、ゲルブ総裁が「私たちの使命のひとつに、現代の作品を発掘して世界に届けることがある」と言って、このところ、スタンダード名曲への偏重を避けて、現代作品をいくつか採り上げてきたが、その中でも出色の1作だと思う。先日は、ニューヨーク・シティ・オペラでの初演作、今回がヒューストン・オペラでの初演作、ときたから、いずれは、かつてメノッティに新作を委嘱したように、メト自身が、後世に残る新作の委嘱をするだろうと期待したい。

 『アマゾンのフロレンシア』は好評だった初演以後も、各地での再演が散発的に続いていたそうで、調べたらマイナー・レーベルながら、2018年に全曲録音のCDがあるらしい。これも、探してみようと思った。

 今、いくつも仕事が重なってしまっているので、以下はとりあえずの備忘録。いずれ、このCDも入手して、ゆっくり考えてみたいと思っている。

 『アマゾンのフロレンシア』は、大型蒸気船に乗り込んでアマゾン川の上流へと人々が分け入って行くという幻想的な物語。船の終着点には大きな劇場があり、そこで行なわれる歌手のコンサートへと皆が向かっているのだが、その船には当の歌手も乗り合わせているという不思議な設定のようだったが、それで、合っているだろうか?

 根底にあるのは、「過去に失った愛との再会を追い求めるロマン劇」といったところかとは思う。しかし、幕が上がっての冒頭から、音楽監督ネゼ=セガンの指揮棒から紡ぎ出される音楽の雄大な広がりに、まず、度肝を抜かれてしまった。じつに大きくふくらむ不思議な音楽で、それは、くりかえし、くりかえし風船を膨らませ続けるような音楽といった感覚で、同じようなフレーズが何度も押し寄せてくる様は、表現が適切ではないかも知れないが「ロマン派音楽のメロディのミニマル・ミュージック」といった感覚である。場違いだとは思いながらも、テイリー・ライリーやスティーヴ・ライヒの音楽を思い出してしまったのだ。

 舞台設定が船の甲板上ということもあって、絶えずゆらゆら揺れる音楽が、じつに自然で、常に揺れ続けている感覚に陥るとでもいったところか? 終始、漂よう音楽が、第1幕の終り、座礁するまで続いていたような気がする。和音進行では、プッチーニ最晩年の『トゥーランドット』フィナーレあたりにほのかに聞こえるもの、ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』にも聴かれたような音楽の流れが聴かれた。

 後半、第2幕。難破船のはずが、ふたたび航海を再開する,のは、私たちが「近代」の社会で失ってしまったものの復権を象徴していたのかも知れない。

 終着点。劇場の建物と明かりが見えてくるフィナーレの場面には、不覚にも、訳も分からずに感動してしまった。大地と空、川、あたりの空気、そして歌。すべてが一体となる感動の幕切れ。それは、彼らが失っていたものとの、再会の瞬間だったはずだ。

 

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 もう一度鑑賞したいと思った作品との出会いだったことだけは、まちがいないのですが、どうにもまとまりません。とりあえず、メモ書きで申し訳ありません。上映は、今週の木曜日までですが、東京・銀座の「東劇」は1週間延長で、来週の木曜日(15日)までのようです。

 METライブビューイングのテレビ配信、このところ「WOWWOW」が怪しいのですが、しっかり、来年、放送してほしいですね。メトの放送をしないのなら、もう「WOWWOW」の契約は打ち切ろうと思っています!

 

 

 

 

 

 

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