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ビゼーの珍しいオペラ『イワン4世』というのを偶然、見つけました。

2020年10月01日 20時15分25秒 | ディスコグラフィ的な話題

 

 これは、「うかつにも・・・・」という話。このブログの2016年2月12日に、私はメトロポリタンのライブ・ビューイングでのビゼー『真珠採り』について書いた。その際、音盤派を自認している私は、様々の全曲盤CDについて触れた。(そのブログのページは、検索で、私のフルネームと「真珠採り」で、簡単にたどり着けるはずである)

 そこに掲載したCD盤写真は、フルネ盤(これは、私の愛聴盤)が初出盤、デルヴォー盤がHMVクラシックスの普及盤などなどだが、もともとこの曲が大好きな私は、その後も、様々の盤を見つけては購入していた。その中には、フルネ盤の「DUOシリーズ」での再発盤もあるし、デルヴォーは逆に1988年のフランスEMI(パテ・マルコニ)盤(プレスは西ドイツ)というおそらくは初出盤もあった。買いなおし・買い足しだから、あまり気にも留めていなかったのだが、それがいけない! 昨日、何気なくデルヴォーのパテ盤CD(きょうのブログ冒頭の写真)を見ていて、表紙の右わきの文字に目が留まったのだ。

 既にご存じの方は、「なんと間抜けな・・・」と私のことをお笑いになるだろうが、「IVAN Ⅳ」(extraits)の文字。なんと、この2枚組CDは、先に触れたHMVクラシックス盤2枚組(46分34秒/57分49秒)と異なり、74分57秒/75分20秒も収録し、45分ほど増えているのは、1957年録音の『イワン4世』(ハイライト)が収録されているからなのだ。指揮はジョルジュ・ツィピーヌである。

 あわてて調べてみたら、すぐに中古レコードのエテルナ・トレーディングさんのサイトに行き当たった。仏コロンビアのモノラルLPがかなりの高額で出品されていて、どうやら、このCDと同様、オリジナルがモノラル録音で、しかも全曲盤はなく、ハイライト盤のみのようだ。このサイトの説明によると序曲などはなく、いきなりデュエットから開始されるというから、当時のLP盤の収録時間から考えて、このCDの45分ほどが、おそらくすべてなのだろうと思った。オリジナルのレコード盤は、例の「棒付き内袋」ジャケットで、デザインはカサンドル工房のデザインだそうだが、写真で見る限り、それほど欲しくなるデザインではないが、あわててCDで聴いた〈音楽〉は、コレクション価値が大だった。とても趣味の良い音楽が横溢している。

 これ、私にとっては、偶然の掘り出し物である。

 ちなみに、久しぶりにこのオペラ、聴きなおしてみたが、やはり、フルネ盤はいいな、と思った。デルヴォーもクリュタンスもロザンタールもプレートルも、イマイチである。

 ついでながら、ビゼーのローマ留学時代のオペラ『ドン・プロコッピオ』全曲盤CD(伊ボンジョバンニ盤)を20年近く前に購入して聴いているが、これにも、『真珠採り』同様、ビゼーの『交響曲』の旋律がでてきて、様々な意味で、この『交響曲』がビゼーの青春の原点なのだなァと感慨深かったのを覚えている。

 

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ニューヨーク・フィル時代のバルビローリを聴く/ピッツバーグ響とのスタインバーグの名演/グリゴリー・ソコロフは「気配」を聴く音楽の魅力だ

2020年05月12日 13時05分27秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、2020 年上半期分。まもなく発行される最新号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が逆順に読めます。

 

 

■バルビローリ、ニューヨーク・フィル時代の全貌を聴く6枚組BOX


 バルビローリは、1938年にアメリカに渡りニューヨーク・フィルの常任指揮者となったが、数年で詰め腹を切らされるように追われてイギリスに戻り、ロンドンではポストを得られずにマンチェスターのハルレ管弦楽団の音楽監督となって一生を終えた。一部の識者から〈バルビローリの暗黒時代〉と言われているニューヨーク・フィルとの録音を私が初めて聴いたのは、たしか1980年代になってブラームス「第2」、シベリウス「第2」カサドシュとのモーツァルト「ピアノ協奏曲27番」を立て続けにアメリカのLP化盤で入手した時だ。そのオケの掌握力が漲った即興的感興にあふれた、自在にうねる音楽に衝撃を受けたのを今でも思い出す。モーツァルトでさえ、その豊かな詩情の揺れ動きの逞しい音楽がはじけ飛び驚かされる。これほどの指揮をする人がなぜ、その後いわゆる一流のポストを得ることなく一生を終えたのだろう。ハルレ管は、彼が着任してから生涯を終えるまで、決して技量の優れたオーケストラにはならなかった。かんたんに言えば、「ヘタ」なオケだ。アンサンブルは不揃いで、ソロもパッとしない、と言ったら散々だが、それはもちろん、一流のレコード会社が残す録音の仕上がりとしては、というかなり高レベルの要求での話だが、それはバルビローリという人の「優しさ」が生む弱点であり長所でもあるものから生み出されているのだと、私は思っている。例えばクリーヴランド管を一流に押し上げたジョージ・セルは、団員を容赦なく解雇して入れ替えたというが、バルビローリは誰にも優しく接したといわれているから、それが、オケの技量にも響いているのだと思う。バルビローリの名盤といえば『イギリス弦楽合奏曲集』がEMIにあるが、そこでのエルガー『弦楽セレナード』で強靭な合奏力を聞かせるのはロンドン・シンフォニエッタである。ウィーン・フィルとのブラームス交響曲全集、パリ管とのドビュッシー「海」「夜想曲」、ロイヤル・フィルとのシベリウス「2番」、BBC響とのベートーヴェン『英雄』といった客演指揮の録音がいずれも素晴らしいのも、バルビローリのオケ掌握力の証だろう。ハルレ管に対して彼は優しすぎるのだ。だから、ひょっとするとニューヨーク時代にオケとの軋轢で相当に懲りた出来事があったのではないかとさえ邪推してしまうのだ。それはともかくとして、ニューヨーク時代のバルビローリは決して「暗黒」でも「不遇」でもない。私の世代のオールド・ファンには、そうした先入観を持った方が多い。そして、最近の若いファンは、録音の古さから敬遠する向きもあるだろう。だからこそ聴いていただきたいニューヨーク時代のバルビローリの全貌である。今回、ソニーから米RCAと米コロンビアへの全録音が復刻された。1938年から42年までのもので、すべて初出はSP盤だが、この時期にはアメリカの録音技術はかなり高度になっていてLPレコード初期と同等のものもあるから、どれも音質はおおむね良好である。

 

■スタインバーグのベートーヴェン「交響曲全集」は、細部をしっかり彫琢した秀演


 Covid-19(新型コロナウイルス)の猛威がCD流通にまで影響して、輸入新譜がいくつも未着なので、同音源の手持ちの旧譜で執筆する。前項でバルビローリ/ニューヨーク・フィルの悪評について書いたが、その背景に、前任の常任指揮者トスカニーニの横やりがあったのではないかという憶測もあるという。そう言われてみれば、少なくともそれぞれの音楽性は真逆と言えるかも知れない。そこで思い出したのがウィリアム・スタインバーグである。ドイツのケルンに生まれ、アメリカに帰化した正統派の指揮者で、トスカニーニのためにNBC放送が創設したNBC交響楽団のアシスタントを務めて頭角を現した指揮者だ。1952年から、トスカニーニの推薦でピッツバーグ交響楽団の音楽監督を務めたが、60年代に、驚異的なサウンドで知られる米コマンドの35ミリ・マグネチック・フィルムによるステレオ録音で、ベートーヴェン交響曲全集のLPが製作されている。2014年のCD化が少量、輸入販売されただけだったが、どういうわけか、ドイツグラモフォンが世界中で大量に流通させることになったらしい。私は手元にあるカナダのスタジオが製作した板起こしのCDの音質がかなり気に入っているが、トスカニーニの眼鏡に叶ったその指揮ぶりは、よく鳴らすオケで細部まで彫琢された即物的かつ堂々たる音楽である。各楽器の動きの明瞭さは、この時代の演奏では別格だ。マーラー補筆版の「第9」も、金管の補強がしっかり聞こえる。

 

■ひっそりとした音の気配に思わず耳をそば立てさせるグリゴリー・ソコロフのピアノ


 このところ、新譜発売を最も待ちわびていたのが、このソコロフの2枚組リサイタル盤だが、これも、原稿執筆段階でまだ届いていない。日本への到着が遅れているようで、発売が1週間ほど延期になったとメールがきた。ソコロフは、名前だけはずいぶん昔から聞いていたが、これまで関心を抱いたことはなかった。それが一夜にして変わったのが、偶然目にしたNHKの深夜枠での録画放映だった。2015年8月の仏プロヴァンス大劇場でのリサイタルを収録したものだから、再放送だったのかも知れないが、これが凄かった。映像監督はブルーノ・モンサンジョンである。よくできたプログラムである。バッハ『パルティータ第1番』に始まり、ベートーヴェン『ピアノソナタ第7番』シューベルト『ピアノソナタD784イ短調』シューベルト『楽興の時 全曲』と続く。決して声高にならず、ピアノの音の動きをじっと追い続けている間に、時がながれてゆく。暗い闇の中に浮かぶピアニストが奏でる微かな音の気配に、じっと耳をそばだてさせられ、私は深夜、テレビの前で釘づけになってしまった。まもなく私のもとに届くはずのリサイタル盤は2019年の各地でのリサイタルから再編されたもので、ベートーヴェン『ソナタ第3番』『パガテル/作品119』ブラームスの作品118と119の『小品』などを収めたCD2枚のほか、イタリア・トリノでの2017年リサイタルを丸ごと収めたDVDも付いているから楽しみである。

 

 

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英国ロイヤル・オペラ・ハウス/シネマシーズン2019/20『ドン・パスクワーレ』は必見!

2019年12月27日 12時58分26秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 今年の「英国ロイヤル・オペラ/シネマシーズン」の日本での上映日程はかなり立て込んでいる。1月中にオペラ、バレエ併せて4本、しばらく飛んで5月に4本、7月半ばから8月半ばまでの1か月間に4本といういう集中ぶりである。そのため、試写会も年内に既に3本あった。東宝東和の小屋の都合なのだろうが、今年はかなりあわただしいシーズンとなりそうだ。

 じつは、『ドン・パスクワーレ』の一週前に、今期の第1弾『ドン・ジョバンニ』も観ているのだが、それについては、後日に書く予定。上映が1月3日から9日なので、その前には済ませたいと思っている。

 『ドン・パスクワーレ』は、その翌日、10日から16日の上映が予定されている。順序が逆だが、つい先日観たばかりのこちらを先に取り上げる。キャスト、スタッフは以下のとおり。

 

ドン・パスクワーレ プリン・ターフェル

ノリーナ      オルガ・ペレチャッコ

エルネスト     イオアン・ホテア

マラテスタ     マルクス・ヴェルバ

 

指揮:エベリーノ・ピド

   コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団

演出:ダミアーノ・ミキエレット

 

 1980年代から、ドニゼッティ音楽の正統なサウンドの復権に取り組んできたエベリーノ・ピドの指揮だったので、最初から期待していたが、その期待通りのすばらしい公演だった。序曲における、流れるメロディとリズミカルに刻むメロディとの対比と加速度から、すでに、ドニゼッティ音楽の再現として完璧だと思った。細部まで内声部のメリハリが軽やかでくっきりしており、リズムの細かく正確なところなど、老いてますます確信にあふれた指揮ぶりを聴かせてくれた。

 じつは、私がピドのドニゼッティを聴いてすっかり耳を洗われたのは、1996年にリヨン歌劇場で行われた公演を収録した『愛の妙薬』(アラーニャとゲオルギュー)なのだが、そのあとで存在を知ったのが、1985年にイタリア放送が制作した世界初の映像版『ドン・パスクワーレ』である。指揮をしていたのが、若きエベリーノ・ピドで、オペラ映画仕立てのレーザー・ディスクだ。日本語字幕付きが「創美企画」から発売された。オケはシンフォニア・ヴァルソヴィア。こうして、まだろくに名前が知られていなかった若い頃から、ピドはドニゼッティ再評価の先陣を切っていたことを私が知ったのは、不覚にも、今世紀になってからのことだった。

 今回のコヴェントガーデンの舞台は、時代設定を変えた演出だが、おそらく1950年代あたりと思われる時代を生きた老人と、つい最近のデジタル機器に慣れ親しんだ若者との世代間ギャップのごときものが、シンプルでシンボリックな舞台に繰り広げられる説得力あるものだ。ピドの躍動感あふれる若々しい音楽が、老いてますます磨きがかかったピドのドニゼッティを聴かせる。10月24日の公演収録である。東京、神奈川、千葉、愛知、大阪、兵庫のTOHOシネマズ系で1月10日から16日までの上映だというが、これは、ぜひとも何度も鑑賞できる盤を制作発売してほしい名公演である。2006年のムーティ指揮によるラヴェンナ音楽祭DVDで観ている方なら、間違いなく耳が洗われるはずである。ムーティは、なんでもヴェルディにしてしまう。困った人である。


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カラヤン~ベルリン・フィルの1966年来日公演/トーマ・プレヴォのフルート・ソロ・リサイタル盤/ロト~レ・シエクルの『幻想交響曲』

2019年12月05日 15時29分39秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)
半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年まで15年間の執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、2019 年下半期分。まもなく発行される最新号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が逆順に読めます。
 
 
■「カラヤンとは何だったのか」を改めて突き付けられた
 1966年来日コンサートの記録
 

 この数年、NНKのライブラリーからの初CD化が頻繁に行われている。私は持論として、〈解釈を聴く〉という観点に立つならば、後世の聞き手は、演奏家が自身のベストを磨きぬいたと自負する正規の録音セッションによる演奏を、まず第一の基準とすべきと考えているが、こうしたライブ収録の記録から教えられること、気づかされることがあるのも、また、一つの真実である。だが、今回の一連の「カラヤン/ベルリン・フィル1966年来日コンサート・ツアー」の記録には、私自身、格別の感慨がある。1966年といえば、私が高校生だった頃、FMラジオにかじりついて音楽を聴いていた時期だ。それは、小学5年頃にレコードを購入し始めた私に、フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンからの影響が大きく残っていた時期でもあった。こう告白して、この時代からのレコード愛好家の多くが想起するように、私もいわゆる〈カラヤン嫌い〉のひとりだった。数年前、カラヤンは〈ドイツ魂〉の音楽家ではなく、〈オーストリア人気質の人〉なのだとあるところで書いて以来、私なりにカラヤンの実像が少しずつ見えてきているが、今回のまるで〈タイムカプセルのような〉一連のCD化で、確かめ算のように再確認したのが、カラヤンのベートーヴェンの奇妙な世界だった。なんで、あのように通り抜けるように音楽がゆるゆると進んでしまうのだろう。何かが、すっぽ抜けているのだ。ところが、札幌公演の『ドヴォ8』の自在な息づかいや、岡山公演のシューベルト、ブラームスでの、ブルーノ・ワルターを想起させるなだらかなフレージングの流麗な美しさは、どうだろう。この独特の香りは凄い。なんで、この素晴らしさに、当時気づかなかったのだろうと悔やんだ。そういえば、英デッカから発売されたウィーン・フィルとのブラームス、ベートーヴェンは好きだった。当時、私はそれを、カラヤンの力ではなく、オケの力だと思い込んでいた。そして、カラヤンが歌劇『ペレアス~』を除けば、わずか2曲しか録音を残していないドビュッシー作品(『海』と『牧神』)の豊麗な響き。この岡山公演も、細部で絡まりあう音のひだから巨大なものが湧き上がる感覚で、64年のDG録音から、EMIの77年録音、晩年のDG録音まで、一貫して揺るぎない確信に満ちた演奏を聞かせてくれる。最近、カラヤンがブラームス『ドイツ・レクイエム』に異常な執念を持って、何度も演奏し録音を残していることに気づいたが、そこでのカラヤンの思いの底にある拘泥が、少しわかりかけてきている。そしてリヒャルト・シュトラウス『メタモルフォーゼン』への執着にも注目している。それらは、カラヤンにとっての〈戦中〉すなわちナチ時代への悔恨なのではないかという仮説を私は立てているが、まだそれを確信するには至っていない。いずれにしても、1966年のカラヤン来日公演に話題を戻そう。言うまでもなくそのメインプログラムは『ベートーヴェン交響曲連続演奏会』であった。何と皮肉なことだろう。カラヤンはドイツ音楽の新たな守護神として祭り上げられてしまったのだ。だがその一方、この時期のカラヤンは、フランス派ヴァイオリンのクリスチャン・フェラスとの協奏曲録音もスタートさせている。それが何を意味するのか。半世紀前に感じたカラヤンへの違和感の正体を、私はまだ掴みかねている。
 

■フランス派フルートの名手、トーマ・プレヴォが
 初のソロ・アルバムで誘うドイツ・ロマン派音楽
 

 この長くフランス国立放送フィルで首席奏者だったトーマ・プレヴォは、経歴的にはフランス派のフルート奏者だが、彼にとって初のソロ・アルバムが、シューベルト『しぼめる花変奏曲』、シューマン『3つのロマンス』、リヒャルト・シュトラウス『フルート・ソナタ(原曲はヴァイオリン・ソナタ)』とドイツ・ロマン派作品でまとめられているのはなぜなのだろう。いささかノリが悪いと言ってしまうと申し訳ないが『しぼめる花~』の思索が勝ったと言って差し支えないほどに仄暗い開始に戸惑ったのは束の間のこと、深い闇に引きずりこまれるような独特の音楽に、次第に魅せられてしまった。だが、プレヴォの演奏の白眉は何といってもシューマンだ。これほどに深い耽溺をもってロマンへのあこがれをフルートで奏でた演奏を、私は初めて聞いたような気がする。この曲の私の愛聴盤は夕暮れを思わせるような哀愁に満ちたオーボエによるホリガー盤、そしていかにもフランス派らしい輝かしいフルートのランパル盤だが、ランパルと同じフランス派のはずのプレヴォのシューマンは、遅めのテンポで恐る恐る動く音楽の翳りから、明らかにドイツ・ロマン派の気配が色濃く漂ってくる。だからこそ、リヒャルトの青春の音楽ともいうべき『ソナタ』が、ドビュッシーの『美しい夕暮れ』のように迫ってくるのだ。ロマン派音楽の健在をうれしく思った最新アルバムである。

■フランソワ=グザヴィエ・ロトのレ・シエクルが問う
 『幻想交響曲』の古くて新しい響き
 

 カラヤン/ベルリン・フィルのドビュッシー『牧神~』をいくつも聴き比べていて、思わず、トーマ・プレヴォに話題が移って、今回の稿の方向が定まった観がある。今でもドイツとフランスのオーケストラの音色にはかなりの違いがあるが、1970年代のそれは、もっと明確なものだった。中でも、カラヤン率いるベルリン・フィルの、特に木管楽器群の音色は、かつてのドイツ系オーケストラの(例えばバンベルク響が、ずっと守っていたような)くすんだ響きが随分と薄れていったと思う。それもまた、カラヤンの脱ドイツ志向の結果だったのかも知れないと思うが、そういえば、ワインガルトナー以来、ミュンシュも含めて、ドイツロマン派的な雄渾さで押し出す傾向があるベルリオーズ『幻想交響曲』の演奏で、声を大にして、木管楽器群の鮮明な動きの強調を意図していた指揮者にドイツ系の巨匠オットー・クレンペラーがいたことを、私は以前から指摘している。フランソワ=グザヴィエ・ロト率いるレ・シエクルというピリオド楽器集団による演奏は、ベルリオーズの時代の響きの再現を求めたものだというが、原点に還ったという古い響きから、クレンペラーが語っていたこの曲の本質が思い出されたのは、決して偶然ではない。ただフランス風の響きをなぞっているだけの演奏とは違うのが、ロトの強みだ。内声部の偏執狂的な動きに、ベルリオーズの奇才ぶりが窺える。
 
 
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METライブビューイング2019-20 ネゼ=セガン指揮の『トゥーランドット』の斬新な響きの謎

2019年11月17日 16時16分27秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

先日、今期の「METライブビューイング」幕開けの上映を東劇で鑑賞した。昨年から音楽監督に就任しているヤニック・ネゼ=セガンの指揮で、メトでの定番、ゼフィレッリ演出のプッチーニ『トゥーランドット』である。今期のキャスティングは、以下の通り。

 

トゥーランドット/クリスティーン・ガーキー

カラフ/ユシフ・エイヴァゾフ

リュ―/エレオノーラ・ブラット

ティムール/ジェイムス・モリス

 

 ネゼ=セガンの『トゥーランドット』は、極めて個性的なものだった。そのことについては、もっと何度もくり返して映像を鑑賞しなければならないと思っているが、とりあえず、ここで備忘録的に書いておこうと思う。

 まず何よりも強調しておきたいのは、ネゼ=セガンの意図は、このオペラでは、プッチーニが晩年に目論んでいた「イタリア・オペラ的響き」からの脱却の方向が、より一層進んでいたことを提示していることだ。プッチーニの『西部の娘』は、20世紀音楽の旗手アントン・ウェーベルンが、その響きの斬新さの萌芽に気づき、そのことをシェーンベルクに書簡で報告していると伝えられているが、それは、その数年後に書かれた『トゥーランドット』では、さらに進んでいるのだ。

 明らかに、ネゼ=セガンは、イタオペ的な響きを注意深く避けていた。ドイツ的な、重心の下がった響きと、センシティブな軽やかに抜ける響きを、巧みに振り分け、共存させていた。そのために、第1幕の途中まで、少々、オケが騒々しくもあって戸惑ったが、その意図らしきものに気づいてからは、私の耳はかなり順応してきて、やがて、しばしば拍節感が行方不明になるような感覚の、独特なフレージング処理が、とても新鮮に思えてきた。

 リュ―の死のあたりから幕切れまでは、特にそうだった。旋律の、数珠つなぎな感覚のため、幕切れの寸足らずな物足りなさがなかった。例の、プッチーニの急死により、残されたスケッチ、メモなどを頼りに、アルファーノがオーケストレーションを完成させた部分である。

 じつは、この補完部分は、あまり話題にする人はいないが、初演を指揮したトスカニーニが、「くどすぎる」と嫌悪して、かなり削除してしまった形で上演され、トスカニーニの持ち前の頑固さで、「それが正しい」と主張し続けてリコルディ社が出版したため、今日のほとんど(いや、おそらく、ほぼすべて)の公演は、そのトスカニーニ短縮版で行われている。数年前に「ベリオ補完版」の公演が行われてDVDも発売されたが、これは、補完というよりも創作に寄っていて、わたしは疑問がある。

 冒頭、「なんどもくり返し鑑賞しなければ」と書いたのは、この微妙な違いを確認するのは容易ではないからだし、今期のネゼ=セガンの『トゥーランドット』の印象が、私の言う「いつもの寸足らずな感じ」がないのは、ひょっとすると、この「アルファーノ補完版」でトスカニーニが破棄した部分を、元に戻しているのかも? と一瞬思ったからなのだ。

 アルファーノ補完版を、一切の省略なしのフル・バージョンで聴くことができるCDが、私の知る限りでは、1つだけある。

 英DECCAが1990年に発売したもので、イギリスのソプラノ歌手ジョセフィン・バーストゥのリサイタル盤である。ジョン・モウセリ指揮スコティッシュ・オペラ管弦楽団との共演だが、その最後に収められた『トゥーランドット』フィナーレには、なんと、合唱団、テノール歌手まで加わり、「First recording of complete Alfano ending」と明記されている。

  このCDを数年前に聴いた時の印象に極めて近いものを、この日、ネゼ=セガンで鑑賞した際に感じたのである。

 私の印象では、とても、オーケストラ・ドライブだけで、あのフィナーレの聴きごたえは実現しないのではないか、と思ったということである。以前、マゼールがエヴァ・マルトンで残したウイーン国立歌劇場の公演を、このバーストゥ盤と数秒ごとに止めながら聴き比べてみたことがあるが、それを、ネゼ=セガンの公演が来年WOWWOWで放送されたら、録画して挑戦するしかあるまい。

 何はともあれ、今期の『トゥーランドット』は必見である。このオペラの世界観に、新たな視点を提供してくれた。

 

 

 

 

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