goo

ティペットの80歳を祝うコンサート・ライヴで聴くアサ―トン指揮「三重協奏曲」の名演

2012年06月28日 13時00分37秒 | BBC-RADIOクラシックス



 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログでは、このシリーズの特徴や意義について書いた文章を、さらに、2010年11月2日付けの当ブログでは、このシリーズを聴き進めての寸感を、それぞれ再掲載しましたので、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 ――と、いつも繰り返し掲載しているリード文に続けて、以下の本日掲載分は、同シリーズの88枚目。

  ========================


【日本盤規格番号】CRCB-6099
【曲目】ティペット:「三重協奏曲」
       ~ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロと管弦楽のための
    ティペット:「聖アウグスティヌスの幻影」
       ~バリトン独唱・合唱と管弦楽のための
【演奏】デイヴィット・アサートン指揮ロンドン・シンフォニエッタ
       エルンスト・コヴァチッチ(vn)
       リヴカ・ゴラーニ(va)
       カーリン・ジョルジアン(vc)
       ジョン・シャーリー・カーク(br)
       ロンドン・シンフォニエッタ合唱団
【録音日】1985年1月20日


■このCDの演奏についてのメモ
 このCDは、現代イギリス作曲界を代表するマイケル・ティペットの、80歳を祝うロンドン・シンフォニエッタの特別演奏会の記録だ。1985年1月20日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールで行われた。
 曲目はティペットの代表作のひとつとして知られている『アウグスティヌスの幻影』と、1979年に書き上げられ80年に初演されていた『三重協奏曲』だが、80年代以降、最近に至るまでのティペットの作品の傾向から推察すると、むしろ『三重協奏曲』が作曲者の晩年の境地を伝える代表作となる可能性が高いように思う。特に二つの間奏曲と、それに挟まれた第3部の美しさは比類なく、第1部の激しさを浄化している。ティペットは、未だ〈現在進行形〉の作曲家なのだ。
 この作品への聴衆の関心の高さを一面で表わすものとして、同曲のCDが既に90年録音の英ニンバス盤と、95年録音の英シャンドス盤の2種発売されていることがある。ニンバス盤は作曲者自身の指揮(ヴァイオリンは当アルバムと同じコヴァチッチ)によるもので、オーケストラはBBCフィルハーモニー。シャンドス盤はリチャード・ヒコックス指揮ボーンマス響によるものだ。発売順では最後になったが、当アルバムの演奏は、CDとなって私たちが聴けるようになったのは今回が初めてでも、イギリス国内では当然、過去に放送されており、広く知られていたもののはずだ。これまでに発売された2種の録音は、当アルバムのアサートンによる演奏を踏まえたものと言ってよいだろう。
 アサートン盤の演奏は、この曲の真価を広く知らしめるに大きな貢献をしたはずだと確信できるほどに見事なもので、アサートンの好サポートを得た独奏者相互の緊迫感のある音楽が、もぎたての果実のようなみずみずしさを湛えている。二つの間奏曲での切り詰められた各パートの鮮明さ、リズムの粒立ちのよさも特筆できる。このあたりを作曲者自身の指揮した盤と比較すると、アサートンがスコアの深部を掘り起こしていることが聴き取れる。これはアサートンの才能の一端をも表わすアルバムだ。
 デイヴィッド・アサートンは、1944年生まれのイギリスの指揮者。1968年にコヴェントガーデン王立歌劇場(ロイヤル・オペラ)に史上最年少の指揮者として登場した戦後イギリスの俊英。同年に20世紀音楽の紹介を主な目的としたロンドン・シンフォニエッタを創設、自ら音楽監督として意欲的な活動を開始した。最近はオペラ分野に力を注ぎ、イギリス・ナショナル・オペラでの活動が96年から始まった。(1997.1.28 執筆)

【当ブログへの再録に際しての付記】
1905年1月2日生まれのマイケル・ティペット(Sir Michael Kemp Tippett)は、1998年1月8日に、その長い生涯を終えた。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

グリュミオー・トリオ/オイストラッフ/アンサンブル・ウィーン=ベルリン/オハン・ドゥリアンの復刻CD

2012年06月25日 16時35分53秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)




 昨晩書き終えたばかりの、詩誌『孔雀船』の「リスニング・ルーム」欄のための原稿です。15年以上前から、半年に一度、その間にリリースされたCDの中から、私が気になったものを採りあげて執筆している欄です。月刊の新譜紹介雑誌などに書いていた時のように売る側の思惑に配慮する必要もないので、私好みのCD短評が蓄積されたので、先日発行されたばかりの第2評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア)にも一章設けて、そっくり15年分を再録しました。
 その章のサブタイトルは「こんなおもしろいCDが発売されて、アッという間に消えました」というものでしたが、つい半年前の『孔雀船』に掲載して当ブログにも再録したものまで加えました。じつは、以下の今回分も、もう少し早く書き終わっていたら収録してしまうつもりでした。再発モノだからということもありますが、「いくらなんでも、すぐに消えました、は、どうですか?」という周辺の人の危惧もありましたが、私は問題ないと思っていました。
 最近のCD市場事情を物語っているのかも知れません。6月8日に発売されたばかりの「タワーレコード・ヴィンテージ・コレクション」ですが、私が以下で採りあげたアイテム、もう品切れ店がでているようです。ほんとに、たいへんな時代です。
 なお、以下の写真は、『孔雀船』への掲載用にグレースケールでスキャニングしたものなので、モノクロです。申し訳ありません。




■グリュミオー・トリオのシューベルトを聴き直して
 ユニバーサル・ミュージックから「アルテュール・グリュミオーの芸術」として第二期分が多数リリースされた。意識的にモーツァルト以外の室内楽を聴き直して見たが、その中で、ことさら印象深かったのが、写真のCDだった。後半に収められたシューベルト「弦楽三重奏曲D581/D471」が、とにかくすばらしい。一九六〇年代の録音で、ヤンツェル&ツァコ夫妻のヴィオラとチェロとで絶妙のトリオ演奏を繰り広げていた絶頂期の録音だが、それに比べると、同じ頃の録音とは言え、今回のCDで冒頭に収められた「ピアノ五重奏曲《ます》」は、曲の終わりまで、音楽の運びにまったく馴染めなかった。グリュミオー・トリオの三人に、イングリッド・ヘブラーのピアノとジャック・カツォランのコントラバスが加わっているのだが、それがおそらく、言葉は悪いが違和感の元凶だ。ヘブラーの音楽が向かっている方向とグリュミオーが目指す音楽の息使いが、明らかに異なっているとしか感じられない。記憶を辿ってみても、私の周辺で「ます」をヘブラー&グリュミオーで話題にしたことは、一度もなかったと思うが、それは多分、当然のことだったのだ。それに比べて、このCDで第6トラック、「三重奏曲」が始まった瞬間に変化する音楽の空気感のすばらしいこと! 正に「音楽の愉しみ」だ。呼吸している空気が違う人との「ます」は、このCD全体の印象を壊しているとさえ思う。再発売・組替えアルバムの弊害である。




■オイストラッフのドビュッシー/ラヴェル、フィリップス録音
 「完璧な」と形容される驚異的なコントロール技術で、二〇世紀のヴァイオリン演奏を塗り替えたと言ってよいダヴィッド・オイストラッフが、フィリップス系に残した一九六六年パリのスタジオ録音。二十四年ぶりのCD再発売だが、タワーレコードのみでの発売の「ヴィンテージ・コレクション・プラス」の一枚だ。このCD、有名なオボーリンのピアノでのベートーヴェンのソナタと同時期の録音だが、これだけがオリジナルは仏シャン・ドゥ・モンドの二枚のLPだった。CD化以降に「フィリップス原盤」となった。ピアノは、全てフリーダ・バウアー。ドビュッシーのソナタ、プロコフィエフの「五つのメロディ」、ラヴェルのソナタ、イザイの無伴奏ソナタ第三番が収められているのだが、そのきっちりと見事なヴァイオリンが、それぞれの曲に個有の〈匂い〉を感じさせず、どれもが同じ出自の音楽のように洗い落されている感覚に、改めて、オイストラッフが二〇世紀に残した足跡の意味を考えた。古典派もロマン派もフランス近代も二〇世紀音楽も、同じように弾き切ってしまうのがオイストラッフの最大の特徴。それによって二〇世紀の後半に私たちの耳が洗われたことは事実だ。同時代の様々な演奏家の、微細な音彩の変化を聴き分けながら薄氷を踏むように進む不安定な音楽の匂いを懐かしみながら、改めて西側に衝撃的に登場してきた五〇年代当時のEMI録音で、オイストラッフの音楽を聴き直してみた。



■カトリーヌ・ドヌーヴが語るドビュッシー「ビリティスの歌」
 これも「ヴィンテージ・コレクション・プラス」の一枚。そして、このアルバムもまた、個有の音楽の喪失感という点では、そのプラス、マイナスの両側面から、様々な感慨が生まれた。演奏はウィーンとベルリンの様々のオーケストラのトップ奏者を集めた「アンサンブル・ウィーン=ベルリン」で、ラヴェルとドビュッシーの器楽曲が収められたもの。いずれも、これまで長い間、それぞれの個性的な演奏を個別に聴いていた曲ばかりだが、それらが、続々に鋭く切り込んで、休む間もなく聞こえてくるのは、少々辛い。どうして、それぞれの音楽が持っていた匂いというか、言葉では表わし難い「気配」とでも言うべきものが消えて、畳みかけてくるのだろう。特にラヴェルの「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」は、ラヴェルの曲ではなく、たとえばバルトークの作品だ、と思って聴けば、じつに見事で立派な演奏だ。その禁欲的でモノトーンの響きの厳しさは傑出しているし、様々に新たな発見のあるアルバムではあるのだ。ただ、ラヴェルの「序奏とアレグロ」とドビュッシーの「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」が同じように聞こえる、と、心して聴くべきアルバムだ。それは、カトリーヌ・ドヌーヴが後録音で朗読の参加をしている「ビリティスの歌」も同じなのだが、それでも、「六つの古代碑銘」でお馴染みのメロディが、久しぶりに本来の朗読付きの形で、しかも見事に音楽的な語りで聴けるのはうれしい。




■オハン・ドゥリアンという指揮者が居たことを思い出した
 このCDもタワーレコードの「ヴィンテージ・コレクション」の一枚だが、これは昨年暮れに発売されたもの。このアルバムに収められたショスタコーヴィッチ「交響曲第一二番《一九一七年》」を指揮しているオハン・ドゥリアンの追悼盤としてのリリースだった。ドゥリアンは、数年前にチェクノヴォリアン指揮アルメニア・フィルのことを書く必要があって調べていた時に、同フィルの歴代指揮者の中で重要な一人として出てきた名前で、その時も、そういえば、そんな名前の指揮者が昔いたなと思い出して、そのままになっていた人だった。影がうすいのは、このゲヴァントハウス管を振ったフィリップス盤がほとんど唯一と言えるほど、極端に録音の少ない指揮者だからだ。これは日本だけの事情ではなく、どこの国のカタログも似たような状態だ。ほとんど無名に近い忘れられた指揮者が、それでいて話題になるのは、このショスタコーヴィッチの交響曲第一ニ番の録音ひとつの故と言えるだろう。私自身、この印象的なジャケットデザインで思い出したほど、正に「この一曲」の人なのだ。ことさらに祝典的でファンファーレの連発銃のような特異な音楽にすっぽりとはまり、推進力を剥き出しにした直情的な指揮ぶりを聴くと、確かに忘れられない。この曲をドゥリアンで聴くと、少々大げさに表現すれば、弦楽合奏でさえ打楽器のように叩きつけてくる音楽に割り切られてしまうから驚く。こういう演奏があってもいいとは思うが、さて。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

ラトランド・ボートンの「ケルト交響曲」(交響曲第2番)を、エドワード・ダウンズ指揮の名演で聴く

2012年06月19日 12時10分04秒 | BBC-RADIOクラシックス



 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログでは、このシリーズの特徴や意義について書いた文章を、さらに、2010年11月2日付けの当ブログでは、このシリーズを聴き進めての寸感を、それぞれ再掲載しましたので、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 ――と、いつも繰り返し掲載しているリード文に続けて、以下の本日掲載分は、同シリーズの87枚目。

  ========================


【日本盤規格番号】CRCB-6098
【曲目】ボートン:交響曲第2番「ディエ―ドゥリ」(ケルト交響曲)
    ボートン:交響曲第3番 ロ短調
【演奏】エドワード・ダウンズ指揮BBCフィルハーモニー管弦楽団
【録音日】1985年12月1日、1983年4月14日

■このCDの演奏についてのメモ
 ラトランド・ボートンの二つの交響曲という、めずらしい作品を収めたCDだ。イギリス版のカタログでも第3交響曲がヴァーノン・ハンドリー指揮ロイヤル・フィルで英ハイペリオンから発売されているだけのようで、第2交響曲は、今回のアルバムへの収録が、現在唯一の録音のようだ。私自身、今回のアルバムによって初めて聴くことのできた作品だが、これは思わぬ拾い物。幻想に満ちた牧歌的な世界がひろびろとひろがる美しい作品だ。BBC-RADIOクラシックスのシリーズには、こういう未知の作品との出会いがあることも魅力だ。
 「第2番」の冒頭を聴き始めただけで、北欧の音楽に通じる少し寒々とした澄んだ響きが、駆け足で滑り込んでくるような美しさで耳を捉える。親しみやすい旋律が、軽やかに駆けまわるような展開は、とてもすがすがしい。演奏も、深々とした呼吸に支えられた大きな広がりを持ったもので、細部にこだわらず一気に推し進めていく大らかさで、ざっくりと描いていく。この、大地に根ざしたような確かな手応えは、なかなか求めようとしても得られるものではない。
 「第3番」もダウンズ指揮の演奏の基本的な姿勢は変らない。こちらの作品の方が物語的展開をベースにしていない作品なので、多少形式的な厳格さがあるようだが、ダウンズの演奏は、ここでも、瞬間々々を精一杯全開して歌い上げてしまうので、聴いているこちらもそれにつられて、その場の感興の盛り上がりに率直に随いていくことになる。実にあけすけな音楽だが、それが隙だらけになったり空まわりしないのは、ダウンズが掴んでいる音楽が、素朴な感情の発散に素直な姿勢で貫き通されているからだろう。アダージョ楽章での野太い流れのたくましさにも、それは表われている。演奏家の持ち味と作品の個性が幸福な合致を聞かせる録音のように思う。
 エドワード・ダウンズは、1924年バーミンバム生まれ。ロンドンの王立音楽院を卒業。現在はロイヤル・オペラ・ハウスの首席指揮者として活躍しているが、このCDの録音の頃は、BBCフィルハーモニーの首席指揮者に就任していた。このオーケストラと、ロマンティックな作風を持ったイギリス近代のあまり知られていない作曲家の作品を、精力的に紹介していたようで、バックスとバントックの作品を収めたCD(CRCB-6069)でも好演していた。BBCフィルハーモニーは、かつてBBCノーザン交響楽団という名称で活動していたBBC放送局傘下のオーケストラのひとつ。マンチェスターを本拠地にしている。(1997.1.28 執筆)

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)は、こんな本です。

2012年06月15日 12時36分48秒 | 雑文



 昨日は、ホッとして書いた「あとがき」を転載しましたが、本日は「まえがき」と「各章の中扉リード文」を転載して、どのような本なのかをご紹介します。下の写真(左)は昨日と異なり、帯をはずした状態の表紙です。私の歳若い友人、日暮菜奈さんのイラスト作品を、このところ、いつも私の本のデザインワークをお願いしている内山尭未さんにアレンジしてもらったものです。片隅に小さく入っている文字は「盤歴50年で聴き分けた20世紀の演奏記録」です。帯に連動させたキャッチフレーズとして入れたもので、正規のサブタイトルは付けませんでした。もう一枚の写真はウラ表紙。日暮菜奈さんのイラストをご覧ください。
 発売予定日は6月24日です。アマゾンなどでも、もう予約受付を開始しています。



====================

【まえがき】

 この本は、前著に続いて、これまでにクラシック音楽のCDや廃盤LPなど、様々な音盤について機会あるごとに書いてきたもののうち、演奏に関するものを中心に採録した。全体を四章に分け、間に長めのコラム風読み物三本を入れた。「インテルメッツォ」と名付けたのは、性格が違う各章に幕間を設けたかったからだ。
 第一章は、十五年間にわたって、詩誌『孔雀船』に掲載したものである。半年ごとに再発売盤も含めた新譜CDから私が自由に選択して書いたものだが、手を加えず、執筆した順にそのまま収録した。分野別に再編しなかったのは、CDも商品である以上、それが制作された時期の社会風潮や流行などの影響下にあった、ということを感じていただきたいからだ。テーマとなっているCDもその概要を添えて掲出してあるので、音盤探索の手がかりにしていただきたい。
 巻末に演奏家名で引ける索引を設けたので、この章の中だけでなく、本書全体を縦横に駆け巡って散在している様々な演奏家や指揮者たちを組み合わせて、お読みいただきたい。索引の項目の偏りからは、私のこだわりが見えるだけでなく、演奏家相互の関わりや影響などにも気付かれると思う。それぞれの演奏家が単独の存在ではなく、大きな歴史の流れのなかで相互に関連しあっているのが「演奏史」というものだからだ。これは、私自身が索引を仕上げて、改めて実感したことでもある。
 第二章は、世界中の中古LP市場から買い集めてきたコレクション仲間との対談を再録した。こんなことにまでこだわるのか、と呆れていただければ幸いである。
 第三章と第四章は、特定の指揮者・演奏家について書く機会があったものを再構成した。このところの私の関心が、録音媒体を手にした二〇世紀の演奏家たちの演奏スタイルの変遷に向いているので、そのことを意識した内容になっているとは思うが、書き落としたものも少なくない。改めて書き下ろしの機会があればと願っている。

======================

【各章の中扉リード文】

第1章 とっておきCDの15年史
     ――こんなおもしろいCDが発売されて、アッという間に消えました
 
詩誌『孔雀船』に年二回、その半年間に登場したCDの中から私が書きたいものを自由に採りあげて書いていたものを掲載順にそのまま集めた章。私が好むマイナーなアイテムが多いこともあって、既に入手困難盤になった物が多い。だが、ネット市場が発達したので、今では居ながらにして世界中、地の果てまで中古盤を探しに行くことができる。読者の皆さんの検討を祈る! 文末の「(○年○月)」の記載は、それぞれの文章の発表年月。

       *

第2章 LPレコード・コレクターズ対談
     ――「ここまで集めて ここまで聴いて」

古書街として全国に知られる東京・神田神保町のタウン誌の編集に協力していた頃、レコード・コレクターの今村亨氏との対談を連載していた時期がある。ずいぶん楽しいおしゃべりをしたが、その中から、特に充実している部分を収録した。章のタイトル「ここまで集めて、ここまで聴いて」は、連載時に私が命名したもので、当時から気に入っている。コレクターの心を単純に表現すれば、この一語しかない。

       *

第3章 指揮者たちのカレイドスコープ
     ――20世紀演奏のクリップボード第一

前著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』をまとめてから後の十数年間に、様々の機会を得て書いたものから、指揮者に関するものを集めて生年順に再編した。各項目タイトル下のリード文で、それぞれの出典を明示した。サブタイトルは、演奏の変遷を追ってきた私の立場からのもので、まだ、それぞれの現象の一部を拾い上げただけなので、この表現になった。もっと大きな流れを俯瞰できるようになりたいと思っている。

       *

第4章 器楽奏者たちのアイデンティティ
     ――20世紀演奏のクリップボード第二

第3章と性格は同様の構成だが、指揮者ではなく、演奏家のものを集めた。第3章では完全に生年順とすることで見えてくる時代の変遷があるが、こちらは冒頭にカルテットを置いたり、多少のジャンル分けをした。かなり偏りがあるが、これが前著からの十数年で私がこだわっていた演奏家の内、たまたま書く機会に恵まれたものということになる。むしろ第1章に散在している演奏家のほうが多種多様だと思う。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』が、まもなく発売されます。

2012年06月14日 11時13分12秒 | 雑文


 このところの数ヵ月、ほとんど当ブログの更新ができませんでした。第二評論集の原稿整理に忙しくしていたからなのですが、やっと先週、印刷所に回しましたので、ほっとしたのもつかの間、その間に不義理していたもろもろが、どどっと押し寄せてきました。なにはともあれ、ひとつケリを付けたわけですが、それはまた、新たな課題を背負うことにもなりました。その辺りのニュアンスの一端は、アマゾンの、私の「著者ページ」のプロフィールを差し替えましたので、お読み戴いてお察しください。

 いつも申し上げていることですが、私は野放図なつぶやきはしませんので、以下に、下版直前の明け方、徹夜明けの頭をクリアにすべく家の周りを散歩しながら構想を練って(第一評論集をまとめた18年前と同じようなシチュエーション!!)、一気に即興で書き上げ、結局、一呼吸置いて、じっくりと推敲して完成させた「あとがき」を、以下に、そのまま転載することにします。

   ======================

おわりに

 この本は、私の「第二評論集」となる。第一評論集『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』をまとめてから、もう十八年が経過した。今回も、その間に様々な機会に書いたものから選択して構成したが、それは、私の立場が大きく変化していった期間でもあった。毎週々々、ラジオ番組で放送する稀少音盤を選んで解説する忙しさから解放され、新譜CDを紹介する雑誌から離れたことが大きかったと思う。クラシック音楽評論一辺倒の世界から距離を置き、大正・昭和初期の日本人の西洋音楽受容史へと関心の大半が移り、その視点から改めて、クラシック音楽の演奏史を意識するようになった。もともと私のスタンスは、演奏の歴史を丹念に辿ることだったし、名盤探しとはそういうものだと信じていた。「ただ珍しいものを集めるのが『マニア』で、『コレクター』は研究するんですね」と言っていたのは、私がコレクターとして敬愛する今村亨氏の言葉である。
 前著から今回の書までの間に、CD業界もずいぶん変質した。輸入盤攻勢が本格化したこと、メジャー・レーベルが旧譜の掘り起こししか出来なくなってきたこと、放送音源の大量流出、個性的な仕事をする小レーベルの発生、そして価格の大暴落である。
 前著を世に出した頃は、「録音された演奏」というものに基準も規範もルールもあったから、「名盤選」というものが成り立っていたのだと改めて思い出す。思えば、私がそのころ以降の放送音源盤、海賊盤などに、そして、そうした音源を追いかけまわす人々に関心を失ってしまったのは、際限もなく登場する音盤の「規範」のなさに理由があった。音楽も舞台芸術も、もともと、目の前で歌われ、演じられ、踊られて、消えてしまうものだった。それを繰り返し聴いたり観たりすることの意味を、児童舞踊家という父親の仕事を通して問い始めたのが、6、7歳の頃の私自身だったように思い出す。だからこそ、繰り返し繰り返し聴かれるべく作られたレコードという「もうひとつの演奏芸術」の成果を真剣に問うことの面白さに、私は、一時期魅せられていたのだ。「録音された演奏」とは、厳しく選別されて残されたもののはずだったからである。
 本書の「譜」とは、そうした選別を経たことを意味している。出版社の方が考えてくれた書名の中で私がこだわったのは、その一文字だけである。そして、次々に廃盤になってしまう現状を憂いている私を察して「幻盤」という言葉を付加してくれたのは、この本の制作に際して献身的な協力を最後まで続けてくれたヤマハミュージックメディア出版部の國井麻梨さんだ。國井さんはじめ、この出版に関わってくださった全ての方々に深く感謝している。

二〇一二年六月


goo | コメント ( 2 ) | トラックバック ( 0 )

バルビローリ、渾身のプロムス・ライヴで聴くシベリウス「第5」とニールセン「不滅」

2012年06月06日 13時23分21秒 | BBC-RADIOクラシックス



 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログでは、このシリーズの特徴や意義について書いた文章を、さらに、2010年11月2日付けの当ブログでは、このシリーズを聴き進めての寸感を、それぞれ再掲載しましたので、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 ――と、いつも繰り返し掲載しているリード文に続けて、以下の本日掲載分は、同シリーズの86枚目。

  ========================


【日本盤規格番号】CRCB-6097
【曲目】シベリウス:交響曲第5番
    ニールセン:交響曲第4番「不滅」
【演奏】ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
【録音日】1968年8月9日、1965年7月30日

■このCDの演奏についてのメモ
 バルビローリは、BBC-RADIOクラシックスのシリーズには初登場だが、イギリスの指揮者の中でもとりわけファンの多い指揮者だ。そのロマンティックな歌にあふれた芸風が愛されているからだろうが、そうしたバルビローリ・ファンにはぜひとも聴いていただきたいアルバムだ。曲目はいずれもバルビローリの得意曲で、したがって、これまでのレパートリーを広げるものではない。そして、オーケストラが長年にわたって首席指揮者をしていたハレ管弦楽団だから、これまでのスタジオ録音盤と同じコンビだ。だが、今回はライヴ録音という楽しみがある。
 バルビローリのファンならばよくご承知のように、当時のハレ管は、メジャー・レーベルに録音するオーケストラとして、決して技術的水準の優れたオーケストラではなかった。どちらかというと、バルビローリのイギリス国内での人気が、EMIというメジャー・レーベルのオーケストラ起用の最低基準に特例をもたらしたふしがある。だから、録音や編集の段階での補正は、かなり行われていたのではないかと思われる。バルビローリ・ファンからはお叱りを受けそうだが、現実に、ハレ管との英ニクサ(英パイ)というマイナー・レーベルへの録音と、EMIへの録音とを聴いてみて、そう感じることがある。これは、バルビローリ・ファンのひとりとしての私の、偽らざる感想としてお許しいただきたい。
 さて、そこで、今回のライヴ盤だ。
 これまで発売されたスタジオ録音について、先に記そう。シベリウスの交響曲第5番は、1957年にハレ管と英ニクサに録音(その後、英パイに移り、やがてEMIからCDで復刻発売)し、66年に同オーケストラとEMIに再録音している。ニールセンの《不滅》は59年の英ニクサ録音がある。これに、今回のライヴ盤が加わったわけだ。どちらも、スタジオ録音では到達できなかったロマンティックな音楽の起伏の自然な盛り上がりが、ライヴ盤で顕著に聴かれるのが何よりうれしい。
 例えば、第1楽章の10分経過あたりからのじわじわとテンポが速まっていく生きた感覚は貴重だ。いたるところでくっきりと聴きとれる対旋律も、これまでさほど深い意味付けを感じなかったが、実はほんとにバルビローリはそうしたことに意味を求めていないようだ。旋律の太い流れに身をゆだねていればよいのかもしれないと思わせるような、甘美でしかも沈んだ歌に専心した第2楽章など、随所で「これがバルビローリだ!」と言いたくなる。自然体のバルビローリ盤の登場をよろこびたい。(1997.1.28 執筆)


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )