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『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評1957~1966』まえがき

2009年02月28日 19時38分19秒 | 音楽と戦後社会世相






 昨日まで、10回にわたってブログに再録した1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957~1966年』(音楽出版社)の冒頭に載せた「前書き」です。どんな本なのかがおわかりいただけるかと思い、掲載します。結果的に、私の「レコード批評雑誌観」が表われているようにも思います。なお、以下の文中にある「凡例」は、明日、このブログ上に掲載します。




■編集にあたって―――――――――――――竹内貴久雄

 クラシック音楽専門誌『LP手帖』は一九五七(昭和三十二)年一月の創刊号以来、一九八三年一、二月合併号までの二十六年間にわたって刊行された。創刊以来の編集長であり社主でもあったのは、長年にわたってクラシック音楽誌の編集に携わっていた故沢田勇。そして、その沢田を創刊準備の段階から、物心両面にわたって強力にサポートしたのが、音楽評論家の高橋昭、佐川吉男、田代秀穂(故人)であった。『LP手帖』は、この四名による、正に同人誌的な結合と高い理想に支えられて創刊された。
 四名は毎月、企画の立案から月評の選定、原稿執筆、寄稿依頼、編集作業、といった一連の仕事をこなしていった。企画会議が長引き、編集長宅で深夜に及んで議論が続くこともしばしばだったという。今にして思えば、『LP手帖』は、クラシック音楽を素材にした出版事業というよりも、クラシック音楽を愛するという、その一点を牽引車にして歩み続けた雑誌だったのかも知れない、という感慨が、かつて少年時代に読者としてこの雑誌に接していた私の中に浮かんでくる。
 私の友人に、「学生時代に沢田編集長に会った」という男がいる。彼が、東京銀座のレコード店でレコード探しをしている時のことである。『LP手帖』をたくさん抱えたひとりの年配の男性が入ってきて、「刷り上がったばかりです。よろしく」と言って店員と歓談を始めた。愛読者だった私の友人が話しかけたところ、その紳士はとても嬉しそうに笑顔を浮かべて、「それでは、今月は特別に」と言って、出来たばかりのその雑誌を一冊進呈されたという。名前は名乗らなかったそうだが、私の友人は、今でもその紳士を沢田編集長に間違いないと言い張っている。『LP手帖』という雑誌は、それほどに、〈会社〉という正体の見えないものではなく、それを発行している人、執筆している人の〈顔〉が見えてくる、〈体温〉を持った雑誌だった。
 月評欄に限らず、幅広いエッセイ、インタビュー、動向記事など、どれも、いわゆる便利ガイド的に平準化されたものではなく、執筆者の個性あふれる真摯な批評精神が漲っていて、評価するもの、批判するもの、いずれも論旨明快だった。特に、LPレコード時代の初期から、六〇年代の続々と新人演奏家が登場してきた時代は、『LP手帖』が最も輝いていた時代だったと思う。今でも、「あの頃の雑誌には元気があった」と語る人が多くいるのは、理由のあることなのだ。
 本書は、そうした『LP手帖』の創刊から十年間の月評から、編者が自由に選択して年度ごとに再編したものである。選択の基準については8ページの「凡例」に詳しいが、本誌の精神を伝えるためにも、敢えて、批判的な内容の記事や、執筆者が明らかに嫌悪していることが受け取れるレコードの評も、当時の時代風潮として、再読する意味を感じるものは積極的に採り入れた。それは、〈名演盤の評論史〉としてだけではなく、今日、明らかに低迷、停滞しているレコード・CD批評にとって指針ともなるはずである。かつて、レコード評は、これほどに書き手個人の営為であり、熱く語られるものであり、読者もそれに共感したり反溌しながら、一枚一枚のレコードにあふれるほどの愛情を注いで購入していたのだった。
 共感と反溌、この両者がなければ、それは評論ではなく単なる〈紹介〉である。今回の編集にあたって、私が最も大切にしたのが、このことだった。
 紙幅の制約から、あまり多くのことが出来なかったが、《CD世代の斜め読み》と題してコラム欄を設けたのも、そうした考えの延長にある。執筆者には、今の時代にCD評で活躍している方々をお願いした。レコード(CD)評は、いつも、それが書かれた時代とともにあるし、絶えず世代間のギャップや無理解にも晒される。そうしたことが伝わればと思い、寄稿されたままを掲載した。〈わけ知り顔〉の無難な意見は、むしろなるべく避けたつもりである。また、各人の意見に必ずしも私自身が賛成しているわけではない。賢明な読者ならば、あたかも〈タイム・カプセル〉がごとき本書もまた、往年の名演奏家の復刻CDのように毀誉褒貶がある、ということの一サンプルとして読んでいただけるだろうと期待している。
 各年度ごとに設けた冒頭の解説、および、各ページ左端の註解は編者の責任で執筆した。CDしか知らない世代の音楽ファンの方に、当時のことを少しでも知っていただこうという目的と、往年のファンの方には、長年信じ込んできた誤情報の訂正、整理をしていただこうと思っている。長い間には、錯覚が定着してしまっていることを、私自身も痛感しながら、今回、調査し直したことを告白する。
 本書は期せずして、レコード評の変遷に対する私の持論を精査するよい機会ともなった。私自身は、厖大な月評記事から一割にも満たない部分を拾い上げる今回の作業から得たものは大きかった。もし、選択された評にある種の偏りがあるとしたら、それが私の〈『LP手帖』論〉だとして、ご寛容いただきたい。本書もまた、ひとつの批評対象として生み落とされた〈個性〉であると自負している。



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クラシックレコード事情と社会世相(その10/いよいよ始まったレコード会社の「資本主義攻勢」)

2009年02月27日 07時52分16秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第10回」、最終回です。


◎昭和四十一年(1966年)

 昭和四十一年度(一九六六年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(交響曲)、沢田勇(一月~七月の管弦楽曲/一七センチステレオ盤)、垪和昌夫(七月~十二月の管弦楽曲/一七センチステレオ盤)、渡辺学而(一月~五月の協奏曲)、家里和夫(七月~十二月の協奏曲)、高橋昭(室内楽曲/器楽曲)、松永長男(声楽曲)、竹内昭一(一月~三月のオペラ)、松永長男(四月~七月のオペラ)、佐川吉男(八月~十二月のオペラ)、秋山邦晴(九月~十二月の現代音楽)、秋山竜英(十月~十二月)

 一九六四年頃から本格的に始まったグラモフォンの〈カラヤン・キャンペーン〉が、この年の春のカラヤン/ベルリン・フィル来日公演で頂点に達した。
 カラヤンは、ベートーヴェンの交響曲全集あたりから、グラモフォンの看板になり、〈グラモフォン完全専属〉〈カラヤン/ベルリン・フィルの最新盤は全てグラモフォンで発売〉といった広告が毎月のように登場した。コロムビア、ビクターの両老舗に、英デッカ=ロンドンのキング、EMIを手中に収めた東芝、といった強豪のなかで、いくらか影が薄かった日本グラモフォンが、やがて、今日のようなトップの座を獲得する長い道程のスタート時期と言ってよいだろう。
 誰がどこで言い出したものかわからないが、ベルリン・フィルは最高のオーケストラ、その音楽監督は最高の指揮者、そのレコードを出すグラモフォンがトップの会社、といった分かりやすい図式がいつとはなしに語られるようになっていったが、今になって、雑誌のバックナンバーを見ていると、確かに一九六四年頃からのグラモフォンの、カラヤンに集中したかの感のあるキャンペーンは、確かに〈絵になって〉いる。前年六月新譜だったカラヤン/ベルリン・フィルによる七枚組のブラームス全集の広告に、次のような文章が掲載されている。
 「カラヤン=ベルリン・フィルの素晴らしい名演をお届けします。この豊かなブラームスは、彼の持つ二つの側面、即ち古典的世界への志向と、情緒こまやかなロマン的資質との美しい糾れや調和を、微妙に流麗に描出し、しかも深遠で雄渾な表現の世界を創り出しています。この演奏の大成功の原因の一つは、カラヤンとベルリン・フィルの結びつきが、一層内面的に深化して、緊密な統一感を生み出しているからです。」
 わかったようでわからない相当に厚化粧の文章だが、力を入れていることだけはわかる。この文に続けて、「カラヤンとベルリン・フィルの新録音盤は、下記の〈運命/未完成〉(日本グラモフォンの要請で録音)をはじめ次々に発売される予定です。どうぞ御期待ください」とある。日本はこの頃から、世界のレコード市場の中の優良児になっていった。
 六月号の巻頭言に、「きくところによると、外来演奏家のレコードの売り上げは、空前のことだったらしい。他人の懐をあてにするわけではないが、そうした利潤を音楽愛好家に還元するような積極的な方策をこの際とるべきであろう。」(門馬直美)とある。そして、その提案のひとつと言えるものが九月号の巻頭言にある。
 「邦人演奏家の録音や日本人の作品のレコーディングは、日本コロムビアあたりで特に最近活発におこなわれているが、もっと各社も、この方面を開拓してみてはどうだろうか。(中略)やはり日本のレコード会社である以上、そうしたものを育て、保存する義務があるのではないだろうか。」
 おりしも、この年ビクターから《武満徹作品集》が発売された。




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クラシックレコード事情と社会世相(その9/レコード購入者を急増させた「パンチ穴」付きのバーゲン盤)

2009年02月26日 10時46分02秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第9回」です。


◎昭和四十年(1965年)

 昭和四十年度(一九六五年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(交響曲)、沢田勇(管弦楽曲/25センチ・17センチ盤)、渡辺学而(協奏曲)、高橋昭(室内楽曲/器楽曲)、松永長男(声楽曲)、東川清一(四月~六月の声楽曲)、福田達夫(四月、六月の声楽曲)、藁科雅美(オペラ)

 六〇年代に入って、急速にはずみのついた〈LPブーム〉によって、空前の売上を記録していたレコード界だが、そうした加熱した需要は、中古市場にも活況をもたらしたようで、この頃になると、中古レコード店の数は相当に増加していた。〈積んどくより、売り得〉といったキャッチフレーズの中古店の広告が、誌面にいくつも現れるようになる。 今でも営業している東京・銀座の〈ハンター〉の広告に、「バーゲン盤」という言葉があって、目にとまった。前年の四月号に掲載されている門馬直美の小文を見てみよう。
 「最近、レコードの廃盤というのが目立って多くなってきた。欲しいと思って買いにでかけると、もう廃盤になっているというのである。(中略)巷間では、いいと思ったレコードは、すぐに買うべしという声すらある。(中略)/ところが、おかしな現象がある。世にゾッキレコードというもののことだ。このレコードがどこからどのようにして店頭におかれることになったのか知らないが、ここに廃盤レコードがおさまっている。廃盤をさがすなら、ゾッキ・レコードをさがせということになる。学生たちや音楽愛好者たちは、結構、このゾッキ・レコードを利用している。しかも新品同様であり、値段も半額ぐらいである。レコード会社は一体何をしているのだろうと思えてくる。/ただ、このゾッキ・レコードは、レコード愛好者の数をふやすのには成功したようだ。ゾッキ・レコードも、こうなるといいのか悪いのかわからなくなる。」
 ここにいう「ゾッキ」はもともと古書界の用語だが、このゾッキ・レコードこそ、〈バーゲン盤〉のことだろうと思う。この商品は、数年前に起こった海外のレコード会社との原盤契約再編がからんだ番号切替や、実質値下げによる番号切替などでの旧規格番号のメーカー放出品だったと記憶している。これらには、ジャケットの隅にパンチ穴が付けられて不当返品を防止していたので、通称〈パンチ盤〉とも呼ばれ、筆者もそのひとりだったが、有難く買っていく人が多かった。一律半額というような売り方だったと記憶している。
 ところで、四月号の門馬直美の巻頭言に、次のような記述があった。
 「このごろは、レコード・コンサートの客の入りが目立って減ってきたそうである。小生自身、レコード・コンサートをあまり体験していないので、正確なことはわからないが、大きな都市ほどその傾向がでてきているという。(中略)レコードはひとりで楽しむものと考えられてきたのだろうか」
 想像の域を出ないが、おそらくその通りだったのではないだろうか。LPの急速な普及の背景には、家庭での再生装置の普及があったはずだからである。LPレコードのデモンストレーションの時代は終わっていた。テレビの普及とともに、街頭テレビが姿を消したのと同じことだろう。だが、だからと言って、誰もが、豊富なLPコレクションを持っていたわけではない。相変わらず名曲喫茶での未知の曲との出会いは有効だったし、同じ意味で、良質な音で聴けるFMラジオの本放送を望む声も高まっていた。FMは、かなり前に放送を開始してはいたが、いわゆる予備免許による実験放送という位置付けのまま、棚ざらしされていた。そのため、一日の放送時間が満足のできる状態ではなかった。




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クラシックレコード事情と社会世相(その8/17センチLPの隆盛と、30センチ「廉価盤」の登場)

2009年02月25日 10時06分47秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第8回」です。


◎昭和三十九年(1964年)

 昭和三十九年度(一九六四年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(交響曲)、沢田勇(管弦楽曲/二五センチ・一七センチ盤)、渡辺学而(協奏曲)、高橋昭(室内楽曲/器楽曲)、松永長男(声楽曲)、藁科雅美(オペラ)、植村耕三(音楽史、二月まで)

 《クラシック普及盤》としていた欄が、前年の四月号から《二五センチ・一七センチ盤》と替っている。これは、クラシックの普及は、まだ底辺が広げられるとみたレコード各社が、手軽に買える価格の商品として、三三回転の一七センチLPをシリーズ化して発売し始めたからだった。これも、レコードが高かったからで、今、一〇〇〇円以下で買えるCDがある中で、だれもCDシングルのクラシック・シリーズなど企画しないだろう。再発売音源ばかりなので本書には収録していないが、月評では毎月丹念に取り上げ、予算の少ないファンのためのガイド役を果していた。《未完成交響曲》や、《運命》、《アイネ・クライネ》、《熱情ソナタ》など一枚に全曲収まり、五〇〇円で買えた。
 しかし一七センチ盤のメリットは、それだけではない。短い曲の場合に、LPでは避けて通れなかった抱き合せ問題がない、ということもあった。一曲の序曲が聴きたいために、六曲も収録された序曲集を買うということがなくなるわけだ。せいぜい一曲がウラ面に付いているくらいで済む。ピアノやヴァイオリンなどの小品でも同じことが言えたが、それはSP時代の感覚に近いものだった。『LP手帖』誌からも、そうした視点の発言がでてきた。翌年十月号の「一七センチ・ステレオ盤ガイド」(小林利之)という特集記事だ。
 「一七センチ盤が、これほどの隆盛を見ようとは、ほんの二、三年前までは考えられもしなかった。(中略)クラシックは、LP出現以後、ネコもシャクシも交響曲、協奏曲、の大曲中心になってしまって、小曲などは、余白に入っているとか、あるいは、誰それのリサイタル盤と称して、十数曲の小品がつめこまれるというふうに、曲そのものを聴くのではなくして、演奏家のいろんな手すさびを、それらの曲で聴くという傾向に進んで来た。つまり、クラシックは三十センチ盤でなくては、レコードではないようにさえ扱われて来たのである。これは、はたして正しい音楽鑑賞のありかただろうか。そうではあるまい。世界の名曲は、三十センチ盤につごうのいい長さには、なかなか出来ていないのである。」
 このあと、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴きたいのに、たいていチャイコフスキーが付いてくるとか、「未完成/運命」の抱き合せで、未完成が静かに終わったあと、運命の第一楽章が轟きわたるのはおかしい、といった、なるほどといった意見が続く。「一曲一曲と、小曲で音楽に親しむという面白みが、LP以後、まったくと言ってよいほどなくなってしまったのである。」我が意を得たりと思ったファンは多かっただろう。
 一七センチ盤は、この後も続々と登場した。コンパクト盤という名称が次第に定着して、同時に、これまであった二五センチ盤は姿を消していった。二五センチ盤は、収録サイズとしては中途半端になってしまったからだった。
 しかし、そうした一七センチ盤一枚五〇〇円による低価格路線とは別の動きも、一九六四年に起こった。三〇センチ・ステレオの一二〇〇円盤の登場である。発端はビクター系で、RCA原盤のビクターとフィリップス系原盤のフォンタナから〈コンサート・ギャラ〉というシリーズで発売され、やがて各社から同様の価格盤が発売されるようになった。これまでの廉価盤とは異なり、レギュラーサイズによる廉価盤の初登場だった。




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クラシックレコード事情と社会世相(その7/巨匠時代の終焉とレコード業界事情の関係)

2009年02月24日 11時57分12秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第7回」です。


◎昭和三十八年(1963年)

 昭和三十八年度(一九六三年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(交響曲)、沢田勇(管弦楽曲/普及盤)、宇野功芳(五月までの協奏曲)、渡辺学而(六月以降の協奏曲)、上野一郎(九月までの室内楽曲/器楽曲)、高橋昭(十月以降の室内楽曲/器楽曲)、松永長男(声楽曲)、藁科雅美(オペラ)、植村耕三(音楽史)

 この年の二月には、いよいよEMI系の音源が東芝の〈エンジェル〉に統合され、東芝の攻勢は、全体の活況に大きな刺激になった。
 二月号の《交響曲》月評の冒頭には、次の一文がある。「依然として再発のレコードが多いが、新発売で面白いのも目につく。このまま新しいレコードの態勢を進めば、これからがいよいよ楽しみになるというところだろう。/レコード界のレーベルの分布図もそろそろ変化をみせてきた。東芝エンジェルがイギリスのコロムビア系を独占することになり、今年は大いにはりきり、大きな企画もたてたいと奮闘中である。」
 一方、発売音源が手薄になった日本コロムビアは、日本ウエストミンスターが末期に開始した〈ヴォアドール〉レーベルで道を開いた仏エラートの発売に力を入れはじめた。同じく〈ヴォアドール〉から出ていた英パイも発売するが、エラートの豊富な内容の方がはるかに光っていた。また、米エピックが、CBSグループ(米コロンビア)の関係から日本コロムビアに移ってきたので、これにも力を注いだ。エピックはジョージ・セル/クリーヴランド管がメインの演奏家だった。
 日本コロムビアの原盤供給先の減少はまた、国内制作の重視へと目が向いて行くことともなった。渡辺暁雄/日本フィルの《シベリウス/交響曲全集》や、岩城宏之/NHK交響楽団の《ベートーヴェン/交響曲全集》の完成は、こうした流れの延長上の成果だった。
 いずれにしても、一九六一年に空前の売上を出したレコード業界の上昇機運は続いており、日本は、アメリカと並んで〈レコードの売れる国〉となりつつあった。前年に発足した〈コンサート・ホール・ソサエティ〉も順調で、この年の広告には「すでに三〇万人が入会されました」とある。にわかに信じ難い数字ではあるが、好調であったことは間違いない。モノラル一一五〇円、ステレオ一三五〇円が頒布価格だった。
 レコードの売行き好調の背景にあるのは、演奏会主体のヨーロッパと違って、日本の音楽ファンが音楽を聴く機会は、圧倒的にレコードが大きなウェイトを占めてことがあるが、過剰ぎみの供給に対して、室内楽曲と器楽曲の月評を担当していた上野一郎の新年号の所感には、こんなくだりがみられる。
 「発売数に比例して今月はいいレコードが少なかった。思えばこんなにレコードが洪水のように出る国は、世界中どこを探してもない。英米のメージャー会社でも毎月の新譜はせいぜい十数枚どまりである。物量作戦も結構だが、そのために良いレコードが早急に姿を消してゆくのは残念である。」
 だが、今にして思えば、この一九六〇年代は、戦前からのいわゆる往年の名演奏家のレコードに対して、若い新しい演奏家による最新ステレオでの録音が矢継ぎ早に登場した時期でもあった。モノラルからステレオへの移行期というこの時期なればこその、チャンスを与えられた演奏家のフレッシュな感覚に、毎月のように触れられた幸福な時代だったとも言える。これほど新人が登場した時代は、それまでなかったのである。




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クラシックレコード事情と社会世相(その6/名曲喫茶の隆盛と中古レコード店の台頭))

2009年02月23日 09時51分52秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第6回」です。


◎昭和三十七年(1962年)

 昭和三十七年度(一九六二年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 宇野功芳(交響曲)、沢田勇(管弦楽曲/クラシック普及盤)、門馬直美(一月~七月、および十月以降の協奏曲)、矢島繁良(八月~九月の協奏曲)、上野一郎(室内楽曲/器楽曲)、松永長男(声楽曲)、藁科雅美(オペラ)、植村耕三(音楽史)

 前年に大きく動いたレコード界再編が、仕上げの段階に入った。キングレコードに移行が決定していた米ウエストミンスターが、いよいよ、四月には第一回の発売となった。英コロンビア系のEMI盤が、日本コロムビアから東芝に移行して〈エンジェル〉に統合されるのは、カウント・ダウンの時期に入っていた。日本ウエストミンスターが前年に発売を開始した〈ヴォアドール〉は、日本コロムビアに吸収の方向に動いていった。
 再編に伴って、手持ちの音源の再発売も増加し、月評の担当者は毎月悲鳴を上げていたようだ。誌面にもそれは反映しており、各担当者は巻頭の挨拶文で、その旨を吐露しているが、上野一郎の一文にこんなものがある。「新装再発で新譜リストにもう一度加え、改めてお客の認識に訴えるという戦法も、考えてみれば悪くはない。新装再発盤は大体旧盤より値段が安くなっているのも、当然とは云えいいことである。どうやら月評子ひとり忙しい目をする方が、皆さまのお役にたつらしい。」。
 実際、この時期には軒並みに番号切替で価格の見直しが行われ、三〇センチステレオ盤は一八〇〇円~二〇〇〇円、モノラル盤は一二〇〇円~一五〇〇円に落ち着いた。旧定価の三〇〇円から五〇〇円の値下げだったが、その背景には、LPレコード全体の普及率の上昇という要因もあった。前年の一九六一年は、小資本の会社解散の陰で、終わってみれば、日本のレコード史上はじまって以来の盛況だった。そこで、一九六二年の半ば、世界的な規模の会員制のレコード販売組織である〈コンサート・ホール・ソサエティ〉が日本でも発足した。
 売上げ上昇は、レコードのファン層全体を厚くしていったようで、この時期には以前からあった〈名曲喫茶〉が急増した。本誌にも多数の広告が掲載されている。どの店も最新の再生装置と豊富なLPレコードのコレクションで、客のリクエストに応じて聴かせてくれるほか、定時に新譜レコード・コンサートなどを行った。コーヒー一杯の値段は東京の場合で、おおむね五十円程度だった。この頃は、それだけあれば食事ができた。ラーメンならば四十円くらいだったと思う。肉屋で買うじゃがいもコロッケは、高くてもせいぜい一個十円という時代だった。筆者は、その頃、駅のスタンドそばを一杯十五円、てんぷら入りは五円増しで食べていた記憶がある。だから、一枚一五〇〇円のLPレコードは、めったに買えない贅沢品だったのである。
 そこで、この時代に都内にちらほらとあった中古レコード店は、ありがたい存在だった。新宿の〈トガワ〉や〈オザワ〉には、予算の乏しい学生や若いサラリーマンが大勢やってきていた。今の時代のようにプレミアム価格が付くわけではない。単なる〈お古〉である。半額以下が相場だった。
 ところで、一九六〇年にスタートした「日本レコード批評家賞」の選定はこの年までで、翌一九六三年度はとりやめになった。各誌が別々に年間の優秀レコードを決定することになったのである。『LP手帖』誌上では、どうして大同団結出来ないのかと嘆いているが、これは、その後の〈レコード批評〉文化の発展を阻害する、残念な出来事だったと思う。




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ピエール・モントゥのストラヴィンスキー/ドビュッシー

2009年02月21日 07時32分15秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)





 以下は、1996年9月3日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8945~46、二枚組)のために書かれたライナー・ノートです。2月6日付、および2月12日の当ブログに掲載したものの続編にあたります。これまでの3点で、モントゥは終わりでした。ライナーノート中の「モントゥーについて」の部分は、共通原稿でしたので省略しますが、私の解説原稿は、その部分を同時にお読みいただけることを前提にして記述してはいます。収録曲は、後半の「曲目解説」の通りです。このCDアルバムのための書き下ろしです。

■モントゥーの演奏に作品の原点を聴く

 ストラヴィンスキーのバレエ「ペトルーシュカ」と「春の祭典」は、後述しているように、このアルバムで指揮をしているモントゥーが初演をしている作品だ。したがって、それだけでも歴史的に意義のある録音なのだが、そのモントゥーの複数ある同曲の録音中でも、このボストン交響楽団との録音は、仕上りが最もよいものとして推奨できる。
 「ペトルーシュカ」の第1場、祭の雑踏の場面での様々な楽想が繰り出される中を、明快な響きで実に安定したテンポで貫かれている。そしてやがて開始される人形たちのユーモラスな踊りでの、ピアノのソロを取り込んでの軽妙さ。モントゥーの演奏は、この曲の背後に横たわるロシアの民族的素材の土臭さを感じさせないモダンな軽やかさ、洒落っけを前面に押し出したものだ。第4場でも、力みかえった重々しさから開放されて、豊かな管楽器の動きが自在に彩りを添えている。バレエ音楽の原点を聴かせる流動感を大切にした演奏だから、ペトルーシュカの悲劇がその中にほうり出されて、自然に浮き上がってくる。
 「春の祭典」も、この作品の革新性に対する過度の思い入れなどを感じさせずに、楽曲の隅々までよく聞こえてくる演奏だ。この録音が行われた1950年代には、まだこの曲は、ある種の荒々しさの強調が一般的で、それは特定のパートの突出やテンポの崩れを頻出させた。特に、第1部で余りにもエネルギッシュに全開してしまうと、第2部に入ってからの精妙な動きが聴き手の中で支え切れなくなるのだが、モントゥーの力の配分は的確だ。
 このモントゥー/ボストン響の録音は、これ以上付け加えるものもなければ、足りないものもない、と信じさせてしまうほどに、この現代音楽の古典の最も標準的な演奏として、これからも生き続けるだろう。
 ドビュッシーの「海」は、とても力強くシンフォニックな表現で鮮やかに描かれた演奏だ。ダイナミックな振幅がドビュッシーの一般的なイメージから大きく踏み出し、音楽がせり出してくる。この作品がドビュッシーの中ではひときわ骨太で構成的なスケール感を持っていることを思い知らされる。あたかも3楽章構成の交響曲のように、全曲がひとつながりのドラマとなって、〈夜明け〉や〈たそがれ〉、あるいは〈夜の香り〉を好んだドビュッシーが、〈真昼まで〉と敢えて題したこの作品の特異性を表現し切っている。
 ドビュッシーの音楽から、そうした鮮明さを引き出すモントゥーの特質は、「イベリア」でも、第1曲の速いテンポでのリズムの鋭い畳みかけとなって表われている。少々たて板に水といった観もあるが、第2曲でも輪郭のくっきりとした音楽で一貫している。そして第3曲。目の覚めるようなスペイン音楽の力強い躍動を、ドビュッシーの音楽から導きだした演奏だ。
 しかし、こうしたモントゥーのドビュッシーは、淡い水彩画のパレットのようなドビュッシー演奏を聴き慣れている耳には、さすがに「夜想曲」では抵抗があるかも知れない。明瞭でくっきりとしたラインがしっかりと聴きとれる第1曲「雲」は特にそう言えるだろう。だが、最近のドビュッシー神話を打ち破りつつある演奏を聴くと、モントゥーが残した録音が、どれほど「印象派の作曲家」という曖昧なレッテルに惑わされずに楽譜に書き込まれた本質を直視して、音楽を築き上げているかが理解される。しかもモントゥーの演奏は、細部がしっかりと聞こえながらも、細部の仕掛けに足元をすくわれずに、力強くとうとうと流れる音楽があふれ出てくるのだ。むしろ、これからの時代に向けて、ぜひとも聴いておきたい演奏だ。

         *

 このアルバムに収録された曲目の米RCAビクターでの初出LPについて記そう。
 「ペトルーシュカ」はLSC-2376及びLM-2376で1960年に、「春の祭典」はLM-1149で51年に発売された。「春の祭典」はもちろんモノラルのみ。
 一方ドビュッシーは「海」と「夜想曲」のカップリングのモノラル盤が1956年にLM-1939で先行発売され、63年に「夜想曲」のみ、ストラヴィンスキーの「火の鳥」(パリ音楽院管弦楽団)とのカップリングのステレオ盤VICS-1027が発売された。「イベリア」は、「映像」全3曲で1952年にLM-1197が初出。これもモノラル録音だ。「海」はステレオ録音だったが、ステレオLPの発売の時期を逸したまま、テープが紛失してしまったという新事実が最近になって伝えられた。RCAのプロデューサーだったジョン・ファイファーが証言したもので、冒頭の4分数秒のみPR用のステレオ・テイクが残っており、これは最近米盤CDで発売された。驚くほど鮮やかな録音だ。

■ピエール・モントゥーについて
 (省略)

■曲目についてのメモ

●ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)
 20世紀音楽の革新性を代表するひとり、ロシア生まれの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)は、バレエ「火の鳥」によって新進作曲家としての地位を確保した。その作曲を依頼したのは、当時パリ公演で成功しつつあった〈バレエ・リュス(ロシアバレエ団)〉を主宰していたセルゲイ・ディアギレフだった。ディアギレフのオリジナル作品を上演するという計画が、「火の鳥」で大成功したため第2作も依頼されたストラヴィンスキーが、次に着想していた「春の祭典」に取りかかる前に書き上げてしまったのが、この「ペトルーシュカ」だ。初演は1911年6月13日にパリのシャトレ座で、ピエール・モントゥーの指揮により行われた。曲は全4場からなり、次のように展開する。
 〈第1場〉謝肉祭の日の市場。祭の雑踏が描かれる。見世物小屋の老人が現われて笛を吹くと、ペトルーシュカ、踊り子、ムーア人という3体の人形が、それぞれユーモラスなロシア舞曲を踊り始める。
 〈第2場〉ペトルーシュカの部屋。粗末な部屋に押し込まれたペトルーシュカのところへ踊り子が入ってくる。ペトルーシュカは彼女の気を引こうとするが相手にされない。
 〈第3場〉ムーア人の部屋。第2場とは対照的な豪華な部屋。踊り子が入ってきて意気投合した二人はワルツを踊る。嫉妬心にかられたペトルーシュカが入ってきて、ムーア人につかみかかるが、追い出される。
 〈第4場〉謝肉祭の日の夕方。第1場と同じ雑踏の場面。突然、ムーア人に追いかけられてペトルーシュカが飛び出してくるが、切り殺される。驚く群衆に見世物師は、殺されたペトルーシュカが人形にすぎないことを説明し無造作に扱おうとするが、その時、見世物小屋の屋根の上にペトルーシュカの亡霊が現われる。

●バレエ音楽「春の祭典」(1913/21年版)
 前述のように、ディアギレフに依頼されて連続して作曲されたストラヴィンスキーのバレエ曲は、そのまま彼の3大バレエ曲となった。だが、この第3作の「春の祭典」の初演の日は、西洋音楽史上でも特に大書されるセンセーショナルなものだった。この大胆なリズムとオーケストラの咆哮は、聴衆を騒然とさせ、ヤジと怒号と賛辞が入りまじる騒ぎを起こして、しばしば音楽が聴き取れないほどだったという。1913年5月29日のパリ・シャンゼリゼ劇場。この音楽史に永遠に残る日に指揮棒を振り、聴衆に曲の最後まで聴くように叫んだ青年指揮者がピエール・モントゥーだった。
 曲は異教徒たちの太古の儀式の描写で、太陽神に捧げられるいけにえの処女たちが、死ぬまで踊り続けるというもの。曲は「第1部/大地礼賛」と「第2部/いけにえ」の2部に分かれている。

●ドビュッシー:交響詩「海」
 フランス近代の作曲家、クロード・ドビュッシー(1862~1918)のこの作品は便宜上「交響詩」と呼ばれるが、作曲者自身には「管弦楽のための3つの交響的素描」という副題を付けられ、全3曲から成っている。1905年に作曲され、同年10月に初演された。
 海をこよなく愛していたドビュッシーによる、海をモチーフにした作品だが、この作品の総譜初版の表紙には葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖波裏」が刷られている。大波の向うに小さく呑み込まれそうに富士が見える有名な作品だ。当時日本の浮世絵にも関心を示していたドビュッシーの書斎には、この北斎の写しが額に入れて飾られていたことが知られており、この作品の発想にも少なからず影響していると言われている。ドビュッシーの管弦楽作品の中では比較的量感の豊かな、大きな動きを聴かせる作品だ。各曲には次のような標題が与えられている。
 〈第1曲〉海の夜明けから真昼まで
 〈第2曲〉波のたわむれ
 〈第3曲〉風と海との対話

●「イベリア」~管弦楽のための映像より
 ドビュッシーにとって「映像」=「イマージュ」という言葉は大切なものだったようで、この題名でピアノのために第1集、第2集が書かれている。第3集が管弦楽のために書かれたもので、この「イベリア」はその中の第2曲にあたる。この他、第1曲が「ジーグ」、第3曲が「春のロンド」と題されているが、それぞれ別の時期に作曲、初演されており、後になってからまとめられた。3曲の内「イベリア」が最も長大で、全体が3つの部分に分かれている。題名が表わしているように、スペインのイメージを音楽化したもので、1910年2月10日に初演されている。3つの部分はそれぞれ次の標題が与えられている。
 〈第1部〉街々にて
 〈第2部〉夜の匂い
 〈第3部〉祭の日の朝

●夜想曲
 この作品は、最初の着想の時には「たそがれ時の3つの情景」という題が考えられていたようだが、最終的にこの「夜想曲」(ノクチュルヌ)となった。全3曲からなり、第3曲では女声合唱も加わる管弦楽曲だが、当初の構想では第1曲が弦楽合奏、第2曲が管楽合奏、第3曲が管弦楽、というものだったという。そうした名残りが仕上りにも表われており、各曲の響きがそれぞれ大きく性格を異にしていて、全合奏が注意深く避けられている。言わば水彩画のような淡い色彩の妙を聴き分ける美しい作品となっている。各曲は、それぞれ次の標題を与えられている。
 〈第1曲〉雲
 〈第2曲〉祭
 〈第3曲〉海の精(シレーヌ)




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クラシックレコード事情と社会世相(その5/塗り替わったレコード業界地図)

2009年02月20日 08時04分12秒 | 音楽と戦後社会世相
 




以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社/絶版)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第5回」です。


◎昭和三十六年(1961年)

 昭和三十六年度(一九六一年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(一月~六月はモノラル盤の交響曲/管弦楽曲/協奏曲、七月以降は全ての交響曲/管弦楽曲)、宇野功芳(一月~六月はステレオ盤の交響曲/管弦楽曲/協奏曲、七月以降は全ての協奏曲)、上野一郎(室内楽曲/器楽曲)、藁科雅美(声楽曲/オペラ)、沢田勇(「千円盤とドーナッツ盤」。八月より「クラシック普及盤」と改題)。また、七月から福田達夫による《音楽史》欄が開始された。

 レコード業界の地図が大きく塗り変り始めた年だった。日本ディスク(仏デュクレテ・トムソンを発売)、ユニバーサル(仏ディスコフィル・フランセ、仏オワゾリールを発売)、日蓄工業(米エピックを発売)が相次いで消滅。米エピックは日本コロムビアからの発売に移ったが、米エピック経由で発売されていた蘭フィリップス系の録音は、日本ビクター内にフィリップス・グループとして再スタート、新世界も日本ビクター内の部門になった。東京芝浦電気のレコード部が東芝音楽工業を発足させたのも、この年だった。
 米ウエストミンスターの本国での経営上のゴタゴタのあおりで、日本ウエストミンスターは新たにヴォアドール・レーベルを発足、仏エラート、英パイ原盤の発売を開始したが、結局翌年には日本コロムビアに吸収された。米ウエストミンスターは、ABCパラマウントの資本下に入って建て直しをはかり、日本ではキングレコードがウエストミンスターの発売を開始することとなった。
 ところで、この年は月評担当も流動的で、別枠だった《ステレオ新譜月評》がなくなり、それぞれの各ジャンルに吸収された。ただし、門馬直美の担当欄は《交響曲/管弦楽曲/協奏曲》となってモノラル盤のみを六月まで担当、ステレオ盤が宇野功芳(前年の、門馬の外遊休筆中に同ジャンルを三ヵ月間担当した)と分担していた。七月になってステレオ、モノラル兼任で《交響曲/管弦楽曲》が門馬直美、《協奏曲》が宇野功芳となり、これでやっと、各ジャンルごとの一人批評が確立した。次第にモノラルとステレオと同じ演奏のものが増えてきていたから、それは当然の成り行きでもあった。まず、年初に掲載された挨拶文(門馬)をみてみよう。
 「今月から、今までの交響曲と管弦楽のほかに協奏曲も担当することになった。しかし、レコードは何れもステレオではなくモノーラルである。モノーラルの枚数が幾らか減少してきているようだが、ステレオ攻勢ではこれもやむをえないことだろう。」
 ステレオ録音の意義に関しては、以下に紹介する上野一郎の小文(二月号掲載)が、当時の雰囲気や認識を伝えていて興味深い。
 「室内楽や器楽曲盤にステレオが増えて来たことはいいことだ。室内楽や器楽曲にはステレオの必要がないという説も、ある点ではうなずけないこともないが、しかしクワルテットやトリオをステレオで聴くと、音の幅や厚味が一層ライヴになって、ホールでナマの演奏を聴いているような気持ちになる。/ステレオは英独仏あたりでは案外伸びなやんでいると聞くが、日本では思いのほか普及の速度が早いようで、この調子では米に次いで、世界第二のステレオ国になるかも知れない。日本人の“初もの喰い”の性癖のしからしめるところかも知れないが、モノよりステレオの方が面白いのだから、良いものに食いつくのは決して悪いことではない。ハイ・ファイ熱、ステレオ熱と次々に熱病の流行するのは一向にかまわないが、レコードはなによりもまず演奏のよさが第一条件だということを忘れたくないものである。」




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クラシックレコード事情と社会世相(その4/「レコード批評誌」の競合時代)

2009年02月19日 09時55分18秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第4回」です。


◎昭和三十五年(1960年)

 昭和三十五年度(一九六〇年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(一月~六月、十月~十二月の交響曲/管弦楽曲)、宇野功芳(七月~九月の交響曲/管弦楽曲)、上野一郎(協奏曲/室内楽曲/器楽曲)、寺井昭雄(一月~六月の声楽曲)、藁科雅美(七月~十二月)、沢田勇(廉価盤)、永井二三男(ステレオ盤)ステレオ新譜月評は、永井の他に八月から耳野良夫(明らかに匿名と思われる)、十月から藁科雅美も加わった。
 この年は、新録音のほとんどがステレオ録音となった。ただ、まだステレオ再生装置の普及が充分ではなかったので、同音源のモノラル盤発売も盛んだった。時期をずらさずに、ステレオ、モノラル同時発売が増えてきたのも、この年あたりからだった。
 五月号に「編集部」の署名で、以下の《本誌の月評について》と題する小文が掲載されている。編集者の自負が感じられる。当時は、レコード批評誌相互での異論の応酬もあり、〈批評の多様性〉が機能していた。
 「本誌の月評は、レコード界で最も公平な論評の出来る立場にある批評家によって行われていますので、そういう観点からも厳正であります。しかし、批評家にはそれぞれの個性によって演奏者に対する好みがありますので、その批評に多少採点の上で甘い、辛いが生ずるのはやむをえません。だが、レコード評は極めて客観的に行っています。/こういう本誌の月評について、皆様のご感想を御寄せ下さい。参考にしたいと思います。」
 批評の〈客観性〉に関する実にのどかな考え方に時代を感じさせるが、「レコード界で最も公平な論評の出来る立場にある批評家によって行われていますので」というくだりは、当時の他誌(音楽之友社の『レコード芸術』/ディスク社の『ディスク』)を意識してのことと思われるが、その底流に何か出来事があったものか、調査しきれなかった。
 この年の十一月に、音楽之友社『レコード芸術』、ディスク社『ディスク』、音楽出版社『LP手帖』の三誌共同による《レコード批評家賞》の設置と第一回審査発表が行われた。以下は、その挨拶文である。
 「今日のレコード音楽のめざましい進展に伴い、わが国にも「ディスク大賞」を設置してはとの要望が、レコード界をはじめとして各方面からあがっております。/そのような気運もあり、先日レコード雑誌三誌の間で具体的に協議いたしました結果、本年は「レコード批評家賞」を今年度中に発売されたレコードの中から選定いたしました。なお本格的な賞は性急にこれを進めるためには多くの問題がありますので、充分な準備期間をもって慎重に当たろうとの結論に至りました。/それで去る十一月二十三日午後二時より、音楽之友社(本社)において月評担当者とそれに準ずる批評家のお集まりをいたゞき、審査員村田武雄、大宮真琴、岡俊雄、志鳥栄八郎、上野一郎、藁科雅美、佐川吉男、宮沢縦一、門馬直美、高崎保男、岡田淳、小林利之 以上十二名、〈欠席(編者註:文書による参加) 福原信夫、田辺秀雄、高城重躬〉によって十七点を決定いたしました。」
 また、村田武雄による「レコード批評家賞について」という一文もあり、そこでは、「このレコード批評家賞が骨子となって、今後はフランスのディスク大賞に準ずるような音楽家、文化人、ジャーナリストによる国を挙げての大規模な組織にして、」 と豊富を述べているが、結局続かずに消滅してしまった。


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クラシックレコード事情と社会世相(その3/ステレオレコードの本格発売元年!)

2009年02月17日 09時45分57秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第3回」です。


◎昭和三十四年(1959年)

 昭和三十四年度(一九五九年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 門馬直美(交響曲/管弦楽曲)、上野一郎(協奏曲/器楽曲/室内楽曲)、寺井昭雄(声楽曲/歌劇)。この他に、《千円でおつりのくるクラシック》というタイトルで一月から四月まで、《今月の廉価盤クラシック》というタイトルで五月から十二月まで、いずれも、さわだ・いさみ(沢田勇)が執筆している。また、五月号からは《ステレオ新譜月評》という欄が永井二三男の執筆で開始された。

 前年八月の日本ビクター、九月の日本コロムビアに続いて、各社から一斉にステレオ・レコードが発売されたのがこの年である。前年に発売された点数は、クラシックの部門ではビクターが九点、コロムビアが五点だったが、この年の終わりには、一応、各社合わせて一〇〇点近くの発売があった。これは、当時の全新譜の約一割にしか過ぎなかったが、既にオープン・リール・テープを凌ぐ普及ぶりだった。
 ちなみに各社の第一回ステレオ発売の時期をレーベル別に列記すると、テイチクが米デッカを二月、東芝がエンジェルとキャピトルを三月、キングがロンドンを三月、テレフンケンを六月、日本ディスクがデュクレテ・トムソンを四月、日本グラモフォンがドイツ・グラモフォンを四月、アルヒーフを十一月、日蓄工業がヴォックスを十月、エピックを十二月に発売させている。日本ウエストミンスターは翌一九六〇年一月だった。
 この時期は同じ内容のものがステレオとモノラルと両方で出ることもあった。ステレオ装置を持っていないファンのために、ステレオ録音の演奏と同じものを、モノラル盤でも発売していたわけだが、それは、ステレオ装置の普及とともに、一九六三年頃にはほとんど行われなくなった。『LP手帖』誌がこの年、《ステレオ新譜月評》を独立させたのは、各社のステレオ盤発売が出そろいつつあったからだが、それを、別の担当者が月評しているため、同じ演奏が、モノラルとステレオの二種登場する場合も出てきた。本書への収録にあたっては、興味深い記述が双方にあるものは、敢えて両論を掲載してある。
 五月号の第一回《ステレオ新譜月評》の冒頭に、執筆担当の永井二三男の考え方が掲載されている。
 「今月からステレオ月評を担当することになったので、最初に私がステレオをどんなに考えているかを明らかにして置きたい。/今までモノラルしか聞かなかった人がステレオに首をつつこむ。どうしても左右の音の移り変りとか言ったものに興味をそそられる。ステレオ・セットをアッセンブリイしたとき、こんな風なレコードはたしかに便利だ。しかし、ステレオで再生されたものが音楽であるとき、果して行きすぎた対比を左右のスピーカーに求めるのは正しい態度だろうか。又そんな風に録音されたレコードであったとき、それをステレオ効果のよいレコードと評すべきであろうか、疑問を抱かずにはいられない。特殊な場合を除いて、演奏会場の最上の席にあなたを連れて行ってくれるのが最良の録音とその再生である事を頭に入れて置いて欲しい。かってLPの初期に一部音響好みの人士から喜ばれた所謂ドン・シャリ趣味の音が、よい録音、再生だ……とされていた事を考え併さないわけにはいかない。そんな観点に私が立っている事を考えながら、今後のステレオ月評を見て頂きたい。」
 今読めば、当たり前のことと思われるかもしれないが、ステレオLPの黎明期、派手な分離で面白おかしく聴かせられていた時代にこれほどの正論を述べた人は少なかった。




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クラシックレコード事情と社会世相(その2/1958年)

2009年02月15日 07時35分13秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説の一部です。このブログでは2月14日が第1回掲載。今日は「第2回」です。

◎昭和三十三年(1958年)

 昭和三十三年度(一九五八年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 志鳥栄八郎(交響曲/管弦楽曲/協奏曲)、杉浦繁(器楽曲/室内楽曲)、寺井昭雄(声楽曲/歌劇)。《千円でおつりのくるクラシック》という廉価盤紹介欄は、一月から七月までの執筆が佐川吉男、八月の休載を挟んで九月から十二月はさわだ・いさみ(沢田勇)が執筆している。また、前年からあった高橋昭の執筆による《現代音楽/音楽史》欄は、一月号で終了した。

 本書に収録した月評の冒頭に「日比谷で聴いたカラヤンとベルリン・フィルの演奏は一生忘れられない」とある。今日と違い、来日演奏家を聴く機会はわずかしかなかったから、当時の音楽ファンは、その少ない機会には貪るように聴いていた。楽譜から想像したり、話に聴いていただけの音楽がいくつもあり、レコードは貴重な情報源だった。
 今でこそ〈本場物の演奏〉という言葉は手垢にまみれたものになってしまったが、この時代、レコードでしか聴いたことのない音楽、レコードでしか接したことのない演奏家を聴いていた人々にとっては、ウィーンの演奏家がウィーンで録音したウィーンの室内楽、フランスのオーケストラによるフランス音楽の響きなど、どれも、「そうか、ほんとうは、こういう音楽だったのか」といった思いで聴くものだった。当時、〈本場物〉という言葉には大きな意味と重みがあったことを念頭に置いておかないと、この時代の批評文の底流にある感動や真意を読み落としてしまう。
 ところで、この時代にはまだ、町のレコード店ではSPとLPが並行して売られていたが、急速にLPが主流になってきていた。最後まで残っていた流行歌のジャンルのSP新譜が終了したのが、この昭和三十三年。三三三メートルの東京タワーが完成したのもこの年だった。新年号に春日無線工業の一ページ広告が掲載されている。後に〈トリオ〉そして〈ケンウッド〉となるが、当時は〈トリオ〉ブランドのハイファイ・アンプも作っている〈春日無線〉だった。「音楽ファン待望のFM放送が 愈々始まりました……」とあって、FMチューナー(FM-一〇〇)とFM付3バンドトライアンプ(AF-R五)が宣伝されている。説明文には、「FM放送の音質の素晴らしさは、これまでの放送と比較して、レコードならLPとSPの相違と云えましょう。」とある。おそらく、これほどにわかりやすい説明はなかっただろう。FM放送はまだモノラルだったが、レコードは、この年の八月に、日本ビクターから国産初のステレオレコードが発売された。
 だが、このことで、昭和三十三年を〈ステレオ時代の幕開け〉とするのには、多少疑問がある。というのは、《音楽テープについて》と題する田辺秀雄の小文が一月号にあり、そこには「テープ時代来るとか、近い将来LPはテープにとって変られるだろうということが近頃のレコード界の大きな話題になっている」とある。これは、一九五四年頃から始まったオープン・リールの磁気テープによるステレオ(当時は立体音響と言った)音源の発売が、アメリカやイギリスで大ヒットしていたからだ。LPレコードの発売が国際的にも一九五八年からなのに、その四年も前のステレオ録音が存在するのは、そうした背景による。LPレコードが一本の溝に右・左別々の情報を記録するための方式の完成に手間取っている間のことで、結局、テープはあっという間にステレオLPに圧倒されてしまうが、ステレオに最初に親しんだ人々はテープで聴いていたということは、記憶に留めておきたい。




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クラシックレコード事情と社会世相(その1/1957年)

2009年02月14日 12時13分19秒 | 音楽と戦後社会世相





 以下は、1999年の秋に出版された私の編・解説書『歴伝・洋楽名盤宝典――精選「LP手帖」月評・1957年~1966年』(音楽出版社)の各年度ごとの概要解説です。膨大な新譜月評をすべて読んで、今日の時点で読んでも興味深い評を厳選して20分の1くらいにしてから、注解を加えた本でした。私としては、それぞれの年がどういう状況だったかを伝える必要を感じたので、セレクションを終えた後で、即興的に書き下ろした「各年度の概要」です。戦後社会史的にも面白い仕上がりになっていると思いますので、当ブログで、新しく「音楽と社会世相史」というカテゴリーを興して10回に分けて掲載します。なお、この新カテゴリーの開始に伴って、以前掲載した分も、いくつかカテゴリー移動をさせました。


◎昭和三十二年(1957年)

 昭和三十二年度(一九五七年)の『LP手帖』新譜月評担当執筆者は、以下の通りとなっている。
 田代秀穂(交響曲/管弦楽曲/協奏曲/室内楽曲/器楽曲)、杉浦繁(管弦楽曲/協奏曲)、高橋昭(管弦楽曲/器楽曲/声楽曲)、内山文夫(声楽曲)。
 このメンバーで一月の創刊号月評はスタートしたが、二月の第二号からは、声楽曲が寺井昭雄に代り、また、そのほかの全ジャンルの新譜評が、特集記事以外、田代秀穂の単独執筆となり、十二月号まで続いた。このほかに、《現代音楽・音楽史》の欄が高橋昭の担当で、《千円でおつりのくるクラシック》の欄が佐川吉男の担当で、いずれも三月にスタートした。なお、この年は五月に欠号がある。
 往年のレコード・ファンならば、「田代秀穂」と記名されたLPを、必ず何枚かお持ちだろうと思う。LP時代の初期に精力的に執筆をしていた。月評欄には、この一九五七年度しか登場していないのが残念だが、それにしても、この一年の広範囲な活躍には、目をみはるものがある。

 この一九五七年は、カラヤン/ベルリン・フィルの演奏を、日本で初めて聴くことができた年だった。今と違って、海外の一流演奏家、まして一〇〇人を擁するオーケストラを聴くことなど、夢のような出来事だった。このことについては、一九五八年の項でも触れているのでご覧いただきい。本誌十二月号の『ベルリン・フィルハーモニーの印象』(執筆/渡辺護)と題する寄稿に「ワグナーやブラームスやシュトラウス(の作品の演奏)は、作曲家がこういうオーケストラの為に書いたのだなと云う感を深くした。」「ワグナーの妖艶な音とブラームスの北ドイツ的な渋い音色の相違をこれほどまでに見事にきき得たことはない。」といった記述がある。
 ところで、《千円でおつりのくるクラシック》を担当している佐川吉男が、翌年になってから、この欄の在り方が変質してきたことに反省の弁を執筆している。当時の様子がよくわかる興味深い内容なので、以下に一部を紹介する。なお文中の用語〈MP〉は二五センチLP、〈EP〉は一七センチ四十五回転盤のこと。二五センチ盤は十インチ盤とも言った。
 「元来このセクションは〈千円でおつりのくるクラシック〉も収集ガイドのつもりで誕生したものだった。同時にまた、こういう手軽に買えるポピュラー名曲からききはじめてクラシックの無限の宝庫の扉を開こうとする若いレコードファンへの道しるべの役も兼ねたものだった。(略)/当時はまだコロムビアのダイアモンド・シリーズも出ていなかったし、どの会社もまだこの種の廉価盤に力を注いではいなかった。それで、このやり方でも毎月MPとEPの新譜の主なものを殆んどマークすることが出来たのである。それがいつとはなしにぼくにMP・EPの月評を書いているような錯覚を起させた。/ところがその後情勢は変った。ダイアモンド・シリーズに集まった予想外の人気はレコード界のこの一年間の最大のトピックになり、他社もそれに刺激されて、このところ千円以内で買えるクラシック盤の新譜の数が激増の一途を辿りつつある。このセクションの担当者もつい成行につられて、とり上げる枚数だけを徒らにふやしてしまい、一枚当りの紹介がスペエスの点でも内容の点でも次第にお座なりになってしまった。他誌の月評とおんなじことをやっていたのでは、本欄の所期に反することは明らかで、発売枚数が何倍になろうとも、読者の懐具合がそれに比例してあたたまるものでは決してないということをぼくは忘れていた。この機会に深く読者諸君にお詫びしたい。(以下略)」



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ピエール・モントゥのフランク、R・シュトラウス、ショーソン、ほか

2009年02月12日 10時06分52秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)






 以下は、1996年9月3日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8943~44、2枚組)のために書かれたライナー・ノートです。おそらく、1996年10月新譜だったと思います。つい先日、2月6日付の当ブログに再掲載したものの続編にあたります。そのため、ライナーノート中の「モントゥーについて」の部分は、共通原稿でしたので省略します。収録曲は、後半の「曲目解説」の通りです。曲目解説も、このCDアルバムのための書き下ろしです。

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■モントゥーの多彩な芸術を聴く

 このアルバムに収められた中では、フランクの「交響曲 ニ短調」の録音が、モントゥーの名演盤として以前から特に名高いものだ。またこれは、アメリカのオーケストラとの録音ではボストン交響楽団とサンフランシスコ交響楽団との録音がほとんどのモントゥーとしては、めずらしくシカゴ交響楽団との録音であることでも、ことさらに注目された録音だ。演奏は、モントゥーとしては、いつになくゆったりとしたテンポで、じっくりと描いていこうとする傾向が強い。これは、作品の持ち味に対する解釈の結果であるだけでなく、シカゴ響のオーケストラ技術の高度さにかなりの信頼を置いた結果とも言えるだろう。
 シカゴ響のアンサンブル能力は、現在でもしばしば全米一と言われるが、それは、この録音の時期にも言えることだった。第2楽章での各パート間の受け渡しが滑らかで、ゆるやかなテンポでも決して弛緩せず、間断なく連なっていく音楽は、モントゥー自身がオーケストラの響きに耳を澄ませているかのような見通しのよい響きだ。第3楽章に入ってからのしなやかで均質な弦楽の響きも美しく、モントゥーの演奏の魅力が、楽章を追って次第に確かなものになって行く。
 全曲の響きの配分もかなり考え抜かれているようだ。響きの重心が第1楽章では比較的低いようだが、楽章を追うごとに高めへと移動していくように感じられ、それはあたかも、徐々に魂が浄化されていくような感覚を生んでいる。モントゥーという名人がシカゴ響という名器を手にした演奏として、モントゥーの数ある録音の中でも異彩を放っている。
 なお、この録音のアメリカでの初出LPレコードは録音された1961年に発売されたLSC-2514で、この時モノラル盤LM-2514も同時発売された。
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 リヒャルト・シュトラウスの「死と変容」は、モントゥーが1950年代の初頭までのかなりの年月を音楽監督として過ごしたサンフランシスコ響との退任後、そして最後の録音にあたる1960年の録音だ。甘美な優しさにあふれた導入部から開始され、荒々しい主部に突入しても混濁のない響きを維持したまま力強く突き進む。どこかしら底流に明るい大らかさを宿した演奏だ。
 ところで、この録音はなぜかLPレコードの発売が延期されて、1960年録音にもかかわらず、米盤初出LPは69年発売のVICS-1457だ。カップリングは同時期にサンフランシスコ響で録音されていたワーグナー「ジークフリート牧歌」だった。音楽監督を52年に退任後、久しぶりの古巣への客演の際の録音だが、この2曲が結局、同オーケストラとの最後の録音となった。
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 ショーソンの2曲はどちらもモノラル録音だが、かなり良好な録音状態だ。やや翳りを帯びた粘着質のショーソンの「交響曲」の抒情性は、ふとした途切れ目に光る豊かな色彩が大切だが、モントゥーの演奏からは、そうした変化の綾が所を得て響いてくる。多少スペクタクルな仕上りに傾斜しているが、これは、モントゥー/サンフランシスコ響のコンビが長年培ってきた全般的な特質でもある。この録音は米盤初出LPはLMナンバーで1952年に発売された。
 「愛と海の歌」もLMナンバーで1954年にLPが発売されているが、この時のB面はピアノ伴奏によるデュパルク、プーランクなどの歌曲となっている。いずれも歌手はスウォザード。モントゥの同曲唯一の録音だが、全盛期を過ぎたスウォザードの歌唱が十全とは言い難いのが残念だ。広々とした伸びやかさをもったモントゥーの指揮がショーソンの抒情精神にしっかりとした芯を与えてはいる。
                    *
 最後に収録されたサン=サーンスの「ハヴァネラ」は、ヴァイオリン独奏のソ連のレオニード・コーガンがアメリカを訪れた際のアメリカ・デビュー録音。もちろんメインの曲は別で、ハチャトリアンの「協奏曲」。この「ハヴァネラ」は余白に収められた作品だ。初出LPはモノラル盤先行で1958年発売のLM-2220だった。ステレオ盤は65年になってからVICS-1153で初発売されている。名ヴァイオリニスト、コーガンとの唯一の共演盤で、ハチャトリアンの「協奏曲」よりもリラックスしているこの「ハヴァネラ」の方が柔軟な演奏だが、コーガンにしてはどこか遠慮がちに弾いているところがもどかしく、それはモントゥーの指揮ぶりにも多少なりとも相手の出方をうかがうようなところがあって興味深い。控え目に要所々々を押さえていく的確な伴奏ぶりに、モントゥーの技が冴えている。

■ピエール・モントゥーについて
 (省略)

■曲目についてのメモ

●フランク:交響曲 ニ短調
 セザール・フランク(1822~90)は、ベルギーに生まれた作曲家だが、その生涯のほとんどをパリで過ごし、フランス系の作曲家として、独自の位置を占めている。サン=サーンスらと「国民音楽協会」の結成に参画して、フランス音楽での器楽の復興に尽力した。ダンディ、ショーソンらの逸材を育成したことでも知られている。
 音楽史的にはフランス系作曲家の主流の位置を占めているが、一方、1858年から終生パリの聖クロチルド教会のオルガニストを務め、また、1872年以降パリ音楽院のオルガン教授として後進の指導にあたるなど、オルガンとの縁も深く、J.S.バッハを初めとするドイツ音楽の影響も見られる作曲家だ。フランクの最高傑作とされるこの「交響曲 ニ短調」でも、オルガン的な重厚な響きや深い精神性を聴きとることができる。
 「交響曲 ニ短調」は全3楽章からなる作品。終楽章で、それまでの楽章の主題が再現されて全体を統合する、循環形式と名付けられた方法が大きな特徴だ。各楽章の構成は次のようになっている。
〈第1楽章〉レント(ニ短調、4分の4拍子)~アレグロ・ノン・トロッポ(ニ短調、2分の2拍子) ソナタ形式
〈第2楽章〉アレグレット(変ロ短調、4分の3拍子) 3部形式
〈第3楽章〉アレグロ・ノン・トロッポ(ニ長調、2分の2拍子) ソナタ形式

●R.シュトラウス:交響詩《死と変容》 作品24
 ドイツ後期ロマン派最後の大作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)は、ワーグナー以降最大のドイツ歌劇の作曲家だが、同時に、近代管弦楽法の大家として、数多くの交響詩も作曲している。この「交響詩《死と変容》」(しばしば《死と浄化》とも訳される)は有名な「交響詩《ドン・ファン》」の書かれた翌年に完成したもので、この時、作曲者は25歳。作曲家として、また指揮者として、その名声を不動のものにしつつあった充実した時期の作品だ。
 この作品は、死の床に伏す病人の怯え、心の葛藤、やがて訪れる精神の救済、浄化を様々なモチーフを駆使して描いたもので、先に作曲のアイデアがあり、それに合わせてプログラムとなる詩が書かれている。死の床の病人を描く導入部に始まり、ソナタ形式的な主部は死との闘争、生への執着が表現され(提示部)、生涯を追想する(展開部)が、再び死との闘争へと引き戻され(再現部)、容赦のない死の一撃。コーダでは、曲の初めから見え隠れしていた〈変容=浄化〉のモチーフが美しく響きわたる。

●ショーソン:交響曲 変ロ長調 作品20
 エルネスト・ショーソン(1855~99)は、フランクの項でふれたように、フランスに起こった国民音楽協会運動を通じて、ダンディとともに、最もフランクの影響を受けた作曲家のひとりだ。この作品はサン=サーンス「第3交響曲」、ダンディ「フランス山人の歌による交響曲」、フランク「交響曲 ニ短調」に続いて、1889年から91年にかけて書かれたショーソン唯一の交響曲。フランクの用いた循環形式の影響が見られるが、ショーソンらしい沈鬱さと甘美さに彩られたメランコリックな曲想を持つ作品となっている。各楽章の構成は次のようになっている。
〈第1楽章〉レント(変ロ長調、4分の4拍子)~アレグロ・ヴィーヴォ(変ロ長調、4分の4拍子) ソナタ形式
〈第2楽章〉トレ・ラン(非常にゆるやかに)(ニ短調、4分の4拍子) 3部形式
〈第3楽章〉アニメ(活気を持って)(変ロ長調、2分の2拍子) ソナタ形式

●ショーソン:「愛と海の歌」作品19
 ショーソンは、フランクの影響下で交響曲や器楽曲もいくつか作曲しているが、得意としていた分野は、むしろ歌曲だった。この分野では、ショーソンの繊細な抒情性が美しく花開き、彼のもうひとりの師マスネーや、深く傾倒していたワグナーの影響を聴くことができる。
 ピアノ伴奏の歌曲が多いなかで、「愛と海の歌」はショーソンにとって、2曲しかない管弦楽伴奏の歌曲であるだけでなく、ショーソンの代表作ともなった傑作だ。10年の歳月を経て完成したと言われており、フランス近代歌曲の傑作のひとつにも数えられている。曲は中間部にオーケストラのみによる間奏曲を挟み、前後2部に分れ、それぞれが3つの部分から成立している。歌詞はモーリス・ブショールに拠る。

●サン=サーンス:《ハヴァネラ》作品83
 カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)の残したヴァイオリンのための小品として、有名な「序奏とロンド・カプリチオーソ」と並ぶ名作。「ハヴァネーズ」とも呼ばれる。ハヴァネラとは、スペイン舞曲のひとつだが、元来はラテン・アメリカのキューバに起こった民俗舞曲。現在のキューバの首都ハバナの名称から名付けられた。それぞれに特徴的な3つの主題が独奏ヴァイオリンを中心に華やかに展開される。


【このブログへの再録に際しての付記】
 ショーソンの2曲のみ、解説中に初出LP番号が記載されていないのは、このブログに再録するために読み返していて、矛盾に気づいたので、とりあえず曖昧な記述に書き直して掲載しているからです。もう一度調べなおして、後日、該当部分の記述を修正しておきます。申し訳ありません。




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当ブログの「コメント」へのご返事

2009年02月10日 11時32分30秒 | 雑文





 井上日召様。貴方が、私の2月3日付のブログになさった昨晩のコメント中のまじめなご質問に、ご返事しなければなりませんね。
 私は、匿名で無責任なことを書くわけには行きませんから、いずれ、「オドノポゾフ」に関しては、もっと真剣に書かなければと思いながら、過去の「メモ書き」を、とりあえず私自身が忘れないためにと、ブログに掲載しただけだったのですが、貴方の鋭い質問に遭って、いささか緊張しています。まじめに音楽を語るときにだけ見せた貴方の鋭さ(……「匿名の貴方」が、私の想像通り、ずっと昔に,、私と音楽談義に花開かせていた貴方であると仮定して……)は、相変わらずですね。
 「ヴァイオリン奏法上の…」と書いてしまいましたが、私としては少しフライング気味の表現でした。私がそうした表現をしたのは、あの頃、ウィーン・フィルにめっぽう詳しい人や、ヴァイオリン奏法にやたらとうるさい人などが周辺にいたので、その影響が残っていたのでしょう。「奏法」と私が当時書いている以上、誰かと運弓法などで、私なりに考えるヒントをもらった発言があったのでしょう。今となっては、「奏法」という言葉で言い切る自信は、ありません。ただ、あのメモ書きで私が考えていたことは、「音楽性」という曖昧な言葉で言えば、当時の「ウィーン」のローカル性は、ザハリッヒなものへとどんどん傾斜していたと思っています。そのことを「オドノポゾフ」の不幸から、考えてみたかったのです。
 いつか、「オドノポゾフ」を正面からきちんと論じます。それまで、ごめんなさい。

 もうひとつ。 私の1月18日付のブログ記事への、貴方からの投稿にも、ご返事します。
 私の、以下の記述への反論でしたね。

この時代は、「録音された演奏」というものに、基準も規範もルールもあったから、そうした本が成り立っていたのだと、改めて思い出しました。思えば、私が最近の放送音源盤、海賊盤、などに、そしてそうした音源を発掘して面白がっている人たちに興味を失ってしまったのは、その「基準」の無さに理由があるのでしょう。

 貴方の反論の趣旨の一部分は、最近のCD業界のひとつの真実を言い得ているとは、もちろん思います。そして、貴方を含めて「そうした音源を発掘して面白がる」ことを、私が頭から軽視しているわけでもありません。
 ただ、貴方が「あのようなマニアには基準がないと言うけど、彼らには明確な基準があります」と反論なさっているところは、私の文章の読み違えです。私が「基準も規範もルールもあった」と言っているのは、「録音という形態で残すべき演奏」そのものです。
 例えば、戦前のレッグの苦労を考えてみてください。世界中に予約頒布を募り、やっと1000セット(だったと思います)の予約が集まって、レッグは100年後、200年後にも、この時代の人類はこうした音楽を聴いていた、と自信を持って残せる最高のものを作る、と意気込んでキャストを決め、綿密なリハーサルの末、貴重な資材を少しでも無駄にしないように大切に使いながら、それでも納得の行かない部分は一度録音を済ませたものを破棄してまでして録り直す。そうまでして「魔笛」全曲録音が残されたのですから。
 「録音された演奏」とは、それほどに厳しく選別されたものだったと言いたかったのです。演奏会場のロビーで、「きょうはイマイチだね」「なんかきょうはルーティンしてるだけだ」「きょうの気合いは凄いね」などと下馬評する感覚でCDを次々に聴くというのは、たった一〇数枚の自分の所有するレコード全部を大事に抱えて、夏休みに母方の親戚の家(大きな寺でした)に1ヶ月ほど逗留し、スクラッチ・ノイズの位置まで諳んじてしまった小学生時代を生きてきた私には、信じられないのです。
 私は、ほんとに「名盤選」の原稿を、一時期、真剣に書いていたのです。それは、昭和30年代、40年代を過ごした人なら皆、経験があるはずですが、聴き比べでおなじ曲のレコードなど買えないから、名曲喫茶で聴かせてもらったなどという思い出のない人にはわからないことかも知れません。あの当時のレコード雑誌の「新譜月評」は、大切な情報源だったのですし、そこに登場するレコード演奏は、いずれも、それぞれのレコード会社が、自社を代表する盤として世に出したものでした。それを選ぶのです。皆、真剣でした。真剣でなければならなかったのです。
 私が中学生の頃(東京オリンピックの頃です)、「レコード芸術」誌の新譜月評の記述に疑問を持つようになりました。そして、いつか自分の手で、正しい評を書きたい、と思うようになったまま大人になったわけです。 だから、「レコード芸術」誌が、月評のあり方、月評誌とレコード会社との関係のあり方について考え直したいという若い編集者が現れて、いろいろあったあの頃、私も、最後の可能性を夢見ていたということなのです。
 これはまた、別の話。
 レコードは、「選ばれた極くわずかの残されるべき演奏が残されたものだった」、という時代が過去にはあった、ということが「基準も規範もルールも」の真意です。 ただ、だからと言って、それら選ばれた演奏が、最近の馬鹿みたいな「つるつる」「ぴかぴか」ではないのは、貴方もご存知のとおりです。それも当然です。

 もうこの議論はやめましょう。






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チャイコフスキー『交響曲 第4番/第5番/第6番』

2009年02月07日 17時43分42秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)




 以下は、1996年8月26日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8941~42)のために書かれたライナー・ノートの後半です。モントゥ~ボストン響のチャイコフスキー『交響曲4~6番』という内容で、演奏についての部分は、昨日掲載しました。
 2枚組で1枚の価格程度というシリーズのはしりで、演奏についてだけでなく、書き下ろしで曲目解説も依頼されました。当時としては最も新しい情報で書きましたから、「名曲事典」などからの流用で記述の誤りを踏襲してしまっているものよりも情報としては正確だと思います。当時、ドイツで出版された「チャイコフスキー」の伝記の翻訳出版の話が浮上していて、その関係で、たまたまいくつか調べていたと記憶しています。久しぶりに読み返しましたが、割合コンパクトにまとまっているので、このブログにも掲載します。

■曲目についてのメモ

 チャイコフスキー(1840~1893)は、バイロンの詩に基づく《マンフレッド交響曲 作品58》を別にして、いわゆる番号付きの交響曲は6曲書いている。そのうち後半の3曲が特に高く評価されており、しばしば「後期3大交響曲」と呼ばれるが、それは、「第4番」に至ってチャイコフスキーの個性的作曲技法が、一際、豊かな発展を聴かせるからだ。

●交響曲第4番ヘ長調 作品36
 「交響曲第4番」は1877年から翌78年にかけて書かれ、献辞は「わが最良の友へ」となっている。ここに言う「友」とは、当時チャイコフスキーへの定期的な経済的援助を開始したフォン・メック夫人を指している。フォン・メック夫人とチャイコフスキーとは決して直接会おうとはせず、文通のみによる交際が13年余にわたって続いた。
 この曲が書かれた1977年は、フォン・メック夫人による援助の申し出があった年だが、それだけではなく、様々の出来事によって、チャイコフスキーの人生で大きな転換となった年だ。突然の結婚と破局、自殺未遂、傷心のドイツ、スイス、イタリアへの旅行と紆余曲折が続くが、作曲活動の方は、歌劇「エフゲニ・オネーギン」が完成し、中断していた「交響曲第4番」も結局、その年の12月になってから、旅行先のイタリアでようやく再開され、完成した。ロシア暦での年末だが、西洋暦では既に1878年の1月になっていた。
 「第4交響曲」は、この間の作曲者の実生活での紆余曲折を反映するような告白めいたプログラムが、フォン・メック夫人に宛てた作曲者自身の書簡によって残されている。それは、今日では、チャイコフスキーがフォン・メック夫人向けに誇張し、脚色したものと考えるのが妥当だろう。書簡は「あなたひとりにだけ、作品の意味を説明したい」と書き出され、大仰な調子で綴られているが、この作品が「第1楽章冒頭の〈宿命〉の主題によって、全体が支配されている」という記述は、作品の構造を説明したものとして、額面通りに受け取ってよいだろう。
 各楽章は次のような構成になっている。

〈第1楽章〉アンダンテ・ソステヌート ヘ短調 4分の3拍子~モデラート・コン・アニマ ヘ短調 8分の9拍子 ソナタ形式
〈第2楽章〉アンダンテ・イン・モード・ディ・カンツォーナ 変ロ短調 4分の2拍子 3部形式
〈第3楽章〉ピチカート・アスティナート アレグロ ヘ長調 4分の2拍子 スケルツォ
〈第4楽章〉アレグロ・コン・フォコ ヘ長調 4分の4拍子 ロンド風の自由形式による終曲

●交響曲第5番ホ短調 作品64
 チャイコフスキーは、〈宿命の動機〉を巧みに用いて、絶望と夢の織りまざったスケールの大きいドラマを「第4交響曲」で書き上げた後、幾度か次の交響曲を書こうと試みる。ところが、大規模な管弦楽曲としては「組曲第1番」、「第2番」、「第3番」「第4番」の他、「イタリア奇想曲」、「弦楽セレナード」、「マンフレッド交響曲」などがあるにもかかわらず、交響曲の作曲は結局果せず、10年に及ぶ長い空白期間を持つこととなる。
 「第5交響曲」は1888年に至り、わずか3ヵ月ほどで書き上げられたが、その背景には、1885年の「マンフレッド交響曲」の作曲や、一時自信を喪失していた指揮活動の再開、それに伴っての自作交響曲演奏会、そして高まる名声の中、1988年に行われた指揮者として初のドイツ楽旅などが影響していただろう。曲は「第4交響曲」で成功した構造と基本的に似通っており、宿命との闘争から勝利へというパターンだが、前作に比べて、過剰な感情表現を純器楽的な形式のなかに収めようという意図が感じられる。
 各楽章は次のような構成になっている。

〈第1楽章〉アンダンテ ホ短調 4分の4拍子~アレグロ・コン・アニマ ホ短調 8分の6拍子 ソナタ形式
〈第2楽章〉アンダンテ・カンタービレ・コン・アルクーナ・リチェンツァ ニ長調 8分の12拍子 3部形式
〈第3楽章〉ヴァルス アレグロ・モデラート イ長調 4分の3拍子 3部形式
〈第4楽章〉アンダンテ・マエストーソ ホ長調 4分の4拍子~アレグロ・ヴィヴァーチェ ホ短調 2分の2拍子 ソナタ形式

●交響曲第6番ロ短調 作品74《悲愴》
 チャイコフスキーの創作の頂点であり、最後の完成した作品となった6番目の交響曲は、作曲者自身によって《悲愴》と名付けられた。前作「第5交響曲」の完成から5年後の1993年の8月に完成し、同年10月16日作曲者自身の指揮により初演された。
 チャイコフスキーは作品の出来に絶大な自信を持っていたようで、初演直後の不評にも動じなかったが、初演のわずか9日後に53年の生涯を閉じた。当時ロシアで流行していたコレラに感染しての死とされたが、その死因について、死の直後から様々の憶測が生まれていた。結局のところ、1991年にロシアの文化史家ポズナンツキーが、これまでの自殺説、謀略説などを一蹴し、コレラによる病死ということで決着したようだ。 残された作品「《悲愴》交響曲」は、終楽章がこれまでの交響曲の歴史でも稀有と言ってよい、暗く陰欝な雰囲気に蔽われた緩徐楽章となっており、極めて個性的な作品となっている。
 なお、この楽章は近年、初演時と現行楽譜との間で、速度標語が異なっていると言われたが、少なくとも筆者が目にした初演のプログラムの写しには、はっきりと現行楽譜と同じ「アダージョ・ラメントーソ」の文字がある。
 各楽章は次のような構成になっている。

〈第1楽章〉アダージョ ロ短調 4分の4拍子~アレグロ・ノン・トロッポ ロ短調 4分の4拍子 ソナタ形式
〈第2楽章〉アレグロ・コン・グラーチァ ニ長調 4分の5拍子 3部形式
〈第3楽章〉アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ ト長調 4分の4拍子 2部形式
〈第4楽章〉アダージョ・ラメントーソ ロ短調 4分の3拍子 3部形式



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