以下は、30年ほど昔、1995年に発売されたCDのために書いたライナー・ノートの全文です。当時、個性的で意欲的な復刻盤リリースをいくつか出していたミュージカル・ノートという会社からのもので、原盤はEMI。東芝EMIを退社した幸松肇さんが手掛けた復刻シリーズのひとつです。
このバルビローリの「エロイカ」について以前、酒席で私が言ったことが気になっていた友人が、たまたま中古店で英DUTTON社製の復刻盤を見つけて購入し、「今さらながら、聴いてみて、いい演奏だった」ということで、私が執筆した文章を読みたい、と言い出したので、引っ張り出した次第。
前もどこかに書きましたが、私、長く出版社の編集者をしていた時の習性か、それとも、パソコンでの編集作業の草分けを自認しているせいか、自分の書いた原稿のデータは、オアシス、一太郎、書院のころから、全部、テキストデータにして、保存しているのです。これまで、そのうちの半分以上は、いくつかの単行本に収録しましたが、以下のものは、未掲載だったかも知れません。その友人が記憶にないようなので、ブログにも載せてないのでしょう。
以下に再掲載するに当って、読み返してみましたが、いつもと同様、演奏論としても名盤紹介としても、30年経過しても直すところがありませんので、そのまま掲載します。(先の友人だけにメールで送って済ませるより、ブログ上で多くの方に読んでいただく方が有意義でしょう。)
ただ、私自身としては、このライナー・ノートで展開している「ベートーヴェン演奏観」から、その後30年経って、世の中の風潮だけでなく、ずいぶんと私自身の感覚が変化していることも事実です。今、新しく書き起こせば、また違う角度から、別の論考が生まれることも、確信しています。それでも、1995年当時の私の見方、そのものは不変ですが。
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■バルビローリの個性的名演の復活
サー・ジョン・バルビローリの隠れた名演が、やっと正規にCD化されて発売された。日本には熱心なバルビローリ・ファンが多いが、そうしたファンの間で、しばしば話題となっていた〈CD化待ち〉の筆頭と言ってもよかったもののひとつが、このBBC交響楽団との《英雄》交響曲だった。
もちろん、それには少なからず理由がある。バルビローリにもいわゆる珍曲、珍盤といった特殊なレパートリーの録音は他にも様々あるが、ベートーヴェンの交響曲というメジャーな作品であることが、その理由の第1だ。しかも、バルビローリのベートーヴェン作品の録音は極端に少ない。また、オーケストラがBBC交響楽団というのも、バルビローリの録音には他に見当たらないことが理由として挙げられるだろう。
もちろん、めずらしいというだけで、この演奏が長い間〈語り草〉になっていたわけではない。この演奏が、バルビローリという稀有な個性の指揮者の美質を、最も端的に表したものだからこそ、一度でもこの演奏を耳にしたバルビローリの良き理解者の間で話題になり続けたのだと思う。
だが、別の言い方をすれば、この演奏は、バルビローリの音楽を愛する人々でなければ、なかなかに容認できない程の個性を備えており、この演奏によって、場合によってはベートーヴェンのこの交響曲を誤解してしまうという危険さえ孕んでいるとも言える。「バルビローリ」という〈森〉に踏み入ることが出来るかの試金石と言っても過言ではないだろう。これは、徹底してバルビローリ流に染め上げられたベートーヴェンなのだ。
バルビローリにとって、ベートーヴェンは決して得意なレパートリーではなかったと思う。得手不得手より、好き嫌いのレベルで、好きではなかったかも知れない。録音で残されたものも私の知る限り、戦前はともかく、戦後の録音では、この《英雄》の他には、ハルレ管弦楽団との「交響曲第1番」「第8番」「レオノーレ序曲第3番」「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(独奏:ミンドル・カッツ)、が英パイ・レコードから出ていたのが、バルビローリ指揮のベートーヴェン録音の全てだったと思う。
その中で、当盤のBBC響との《英雄》はバルビローリのゆったりとして、しかも揺れ動くテンポ設定や、しばしば音楽の流れを停滞させてまで朗々と響かせる豊潤な歌い回しが、最も成功している。それは、バルビローリ/ウィーン・フィルの名演、ブラームスの交響曲を思い起こさせるほどのものだ。
このテンポで歌い継いでいくには、やはり、当時のハルレ管の技量では無理があるだろう。贅沢を言えば、ウィーン・フィルでなかったのが残念だが、それでも、BBC響とで残されたこの録音の仕上がりには、バルビローリが求めている音楽の表情を実現する、ぎりぎりの遅いテンポが達成されている。
だが、このバルビローリが作り上げた音楽の表情は、決して、一般的に言われているような意味でのベートーヴェン的音楽ではない。ベートーヴェンの〈音の建築家〉的な組み立てから大きく離れて、よく歌い、揺れ動き、深々と全身で呼吸するバルビローリの世界が、伸びやかに、広々とした中に息づいている、というべきだろう。
特に第2楽章の演奏時間で5分10秒を過ぎたあたりからの優しく温かな表情、7分経過以降の金管の堂々とした咆吼などは、このベートーヴェンの作品が、すっかり面目を一新してしまっている。古典的な構築的アプローチをかなぐり捨てて、ロマンの淵を彷うように歩み続けるバルビローリの独壇場だ。ここには、〈形式〉の枠にとらわれ切れなかったベートーヴェンの〈ロマン主義的傾向〉がデフォルメされて表現されている。
このバルビローリの演奏を、ベートーヴェンの標準から大きく踏み外していながらも、ひょっとしたらベートーヴェンの本質の一端を、むしろ根源から説き明かしているのかも知れないと思って聴き始めるのは、このあたりだろう。
終楽章は更に、バルビローリのスタイルが徹底している。この楽章を、変奏形式による各段ごとの描き分けよりも、全体をひとつながりの内面のうねりで聴かせようというバルビローリの意図が際立っており、音楽の停滞をも厭わないコーダに入ってからの極端に遅いテンポによる進行は、正にバルビローリならではの独創的な演奏だ。最近遅いテンポのベートーヴェンとして話題になったジュリーニ/スカラ座管の演奏のような、音楽の構造の襞(ひだ)を丁寧の追っていくスタイルとはまったく違う。あくまでも〈ロマン的気質〉の大胆な発露がバルビローリの特徴だ。BBC響も、音楽が弛緩しないで底力がある。極めて個性的だが充実したベートーヴェン演奏と言えるだろう。こうした演奏が、良好な音質のCD化により手軽に聴くことができるようになったことを喜びたい。
■LP時の発売についてのメモ
バルビローリ/BBC響の《英雄》は1967年に録音された後、ASD-2348の番号で翌68年3月新譜として英EMIより発売されているものがオリジナルLPだ。ほぼ同じ時期に米エンジェルでもS-36461の番号で発売されているが、なぜか、日本ではその当時発売されていない。
その後、70年代の半ばにイギリスでは廃盤となってしまうが、日本では逆に79年6月新譜のEAC-30327として、東芝EMIのセラフィム・エクセレント・シリーズ(蝶々の写真を使用したジャケット・デザイン)の1枚で登場した。アメリカでは番号の切り換えもないまま80年代まで現役盤だった。
だが、いずれもCD時代の80年代には市場から姿を消して、長い間世界中で廃盤のままだった。今回の東芝EMI/ミュージカルノートによる久々の復活発売は、正規盤としては世界初CD化と思われるが、同時に音質的にも、輝かしさ、音場の広がりなど、CD化による改善さえ感じられる出来栄えとなっている。
なお、前項で述べた英パイ録音のベートーヴェンは、「第1/第8」が1986年に一度、英PRTからCD化されたが、まもなく廃盤となっている。
■ジョン・バルビローリについて
ジョン・バルビローリは1899年12月2日にロンドンで生まれ、1970年7月29日に来日を目前にして同じくロンドンで世を去ったイギリスの名指揮者。
戦前のSPレコード時代から、クライスラー、ミルシティンなどの伴奏指揮で、その名を見かける。30歳代の1937年から5年間トスカニーニの後任としてニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督として活動。その間にいくつかの交響曲の録音を残しているが、ニューヨークを辞任して帰国、イギリスのマンチェスターにあるハルレ管弦楽団の音楽監督に就任した。
この地方都市のオーケストラの育成に尽力して49年にはサーの称号を贈られているが、世界のレコード市場では長い間マイナーな存在になっていたなかで、64年に英EMIに録音したベルリン・フィルとのマーラーの「交響曲第9番」を境に活発なレコーディング活動を開始したが、その6年後の1970年に世を去ってしまった。これからという時の突然の死が惜しまれるが、柔らかく懐ろの深い地味な音楽の、独特の味わいが晩年の芸風として愛されている。
19世紀的な纏綿としたロマンティシズムとは一線を画して、節度と折り目正しさを保ちながら、豊かに全身を賭けて歌うロマンの大きなうねりが、多くのファンを魅了した。特に、ブラームス、マーラー、シベリウスなどの交響曲、エルガー、ディーリアスなどのイギリス音楽の演奏で独自の境地を示した。
■BBC交響楽団について
BBC交響楽団は、1930年にイギリス放送協会(BBC)の専属オーケストラとしてロンドンに創設された。第2次世界大戦までは、エードリアン・ボールトの主席指揮の元で、水準の高い演奏活動を行い、ワインガルトナー、トスカニーニ、ワルターらの客演や、現代音楽を積極的に紹介するという方針からストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク、プロコフィエフなどとの共同作業をすすめるなど、いかにも音楽商業都市ロンドンの放送事業の一環としてのオーケストラらしい活動を行っていた。
しかし、第2次大戦で人事的にも経営的にも大きな打撃を受け、戦後しばらくは低迷期を迎えた。このオーケストラが再び充実した活動を行うようになったのは、1963年にオーケストラの名トレイナーとしても定評のあるアンタル・ドラティが主席指揮者に就任してからだ。ドラティの薫陶で再建されたBBC響は67年にはコーリン・デイヴィスへと主席指揮者がバトンタッチされた。このバルビローリとの録音は、このオーケストラがそうした第2期を迎えていたころの録音だ。同じ頃にコーリン・デイヴィス指揮による《田園》の録音などもあり、この時期にBBC響がベートーヴェンの交響曲で世界に真価を問えるほどの自信を取り戻しつつあったことが窺える。
なお、現在のBBC響は、アンドルー・デイヴィスが主席指揮者を務めている。
■演奏曲目について
●ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調《英雄》作品55
1802年から1804にかけてのベートーヴェンにとって30代前半の作品。古典派の形式から大きく踏み出して飛躍的発展を成し遂げた交響曲。同時期にベートーヴェンは、ピアノ・ソナタでは《熱情》を書き上げ、やはりスケールの雄大な世界へと踏み出している。
初演は1805年4月7日にアン・デア・ウィーン劇場で行われている。
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ。ソナタ形式で、長大な展開部を持っている。提示部の反復が指示されているが、省略されることも多い。当CDでも省略されている。
第2楽章 アダージョ・アッサイ。自由な3部形式による楽章だが、〈葬送行進曲〉の名が与えられている。この交響曲で唯一の緩徐楽章だが、その規模は第1楽章に匹敵する。
第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ。スケルツォ楽章で、中間部のトリオでは3本のホルンが活躍する。
第4楽章 変奏曲形式による楽章。主題にはベートーヴェンが好んで使用した自作「プロメテウスの創造物」の旋律が選ばれている。ソナタ形式的展開、フーガ的展開がとりいれられた独自の手法によっている。
(1995.4.10 竹内貴久雄)
以下の写真は、現在の私のコレクション。下の写真が「ミュージカル・ノート盤」。上の左が英DUTTON盤、上、右は2018年にワーナーからリマスター発売されたイギリス盤。