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ラローチャ、晩年のモーツァルト

2009年01月31日 10時13分02秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)





 以下は、アリシア・デ・ラローチャの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲「第27番&第19番」を収めたBMGビクターのCD新譜発売に際してのライナー・ノート再録です。フロッピーのデータでは1997年6月8日に執筆が完了しているようですから、たぶん、その年の7月発売ではないかと思いますが、確認していません。このCD、あまり話題になっていないと思いますが、とてもよい演奏です。(書いてあるとおりです!)


■モーツァルト晩年の心境の理想的再現

 アリシア・デ・ラローチャによる、9番及び、19番から27番の計10曲に限定された「モーツァルト/ピアノ協奏曲選集」を締めくくる今回のCDは、ラローチャのピアノ演奏の魅力を伝える記録として、長く聴かれ続けるものとなるに違いない仕上りとなった。 もともとラローチャの「モーツァルト/ピアノ協奏曲」には70年代の終わりから80年代の初頭にかけて、数曲の録音があった。その中には27番も含まれていたが、今回の録音は、まるで別人のような演奏だ。
 もちろん、ラローチャの類まれな粒立ちのよく揃った音のみずみずしさ、軽々とした高域の、珠の転がり行く果てにまで辿り着くような浮揚感など、ラローチャらしさは何ひとつ変わっていない。それなのに、今回のCDには何故か、前回の録音とまったく異なったものを感じる。それは、〈気配〉と言ってもよいような空気感だ。
 モーツァルトの最後の「ピアノ協奏曲」となった27番は、不思議な作品だ。最晩年の作品ではあるが、決して年老いたとは言えない30代の終わりに書かれた作品だが、なぜかピアニストが老境にさしかかったときに、美しい演奏を残す傾向がある。これまでにも、バックハウス、ギレリス、カーゾンなどが、それぞれの境地を聴かせる録音を残している。そこに共通するのは、自身の音楽を聴衆に聴かせようという強い意志のぎらつきのない、力みのとれた境地と言っていいだろう。おそらく、この作品には、作意や意識操作を根底から拒絶するものが内在しているのだと思う。作曲者自身が、そうした無垢の境地に辿り着いているからに違いない。
 私の知る限りでは、若い時期にこの作品に果敢に挑戦して成功しているのは、逆説的なことに、完全に確信犯として作品に作意の限りを尽くして対しているエッシェンバッハやバレンボイムなどだ。彼等が今日、指揮者として活躍しているのは、偶然ではない。
 ラローチャが、今回の録音で27番の世界を、これほどまでに自然に湧き出る泉のような演奏で成功させているのは、彼女が真正なピアニストであることの証明だ。自身の肉体の一部と言えるほどの一体感を達成したピアノは、確実に、音の粒のひとつひとつがくっきりと立ち、ころころと転がり出てくるみずみずしさは清らかで力みのない音楽を導き出す。若き日の濁りのないピアノの特徴をそのままに、これほどまでに美しく老いたピアニストを、私は初めて聴いたような気がする。これこそが、天空と交信していたとさえ思わせるモーツァルトの晩年の、純真で邪念のない心境の理想的な再現と信じて疑わない。デーヴィスの音のよく摘まれた的確な伴奏も特筆もので、この最上のモーツァルトにふさわしい。
 カップリングの19番は、充実した管弦楽と自在感にあふれたピアノとのやりとりが、モーツァルトの天賦の才が書かせた〈冗舌〉を、ひときわ豊かで楽しいものにしている。これもまた、屈指の名演だ。



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1996年/ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート(マゼール)ライナーノート

2009年01月29日 12時37分37秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)






 以下は、1996年の「ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート」のCD(BMGビクター)のライナー・ノート演奏論部分の全文です。昨日、このブログに掲載した「ふたつのマゼール論」の半年ほど前に書いたものです。NHKの生中継で聴いて原稿を書き、BMGビクターの担当者に渡したのは1月5日、仕事始めという日でした。(今では毎年、「ごあいさつ」などの予定原稿を先に書いての印刷ですが……。)この時期の私のマゼール観が、この文章に既に表われています。これをじっくりと考え直したものが、昨日のブログ掲載の後半部だったようです。
 なお、私を含めて、老眼に差し掛かっている方々にも正確にお読みいただけるよう、今回、試しに文字の大きさをすこし上げました。


■現代を映す鏡としての
 「ニューイヤーコンサート」


 このCDは1980年の初登場以来86年まで連続7回、そして1994年の復帰から1年の空白を置いて通算9回目となったロリン・マゼール指揮による「1996年ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート」の記録だ。今回の登場で、戦後の指揮者では創始者のクレメンス・クラウスを抜いて、「ニュー・イヤー」の代名詞となった観のあるウィリー・ボスコフスキーに次ぐ、歴代第2位の出演回数を記録してしまったマゼールだが、そのためかどうか、今年のマゼールは、初登場の1980年にも匹敵する成果を上げた。
 一昨年のニュー・イヤー復帰はいくらか力みの残る硬さが気になったが、今年のマゼール/ウィーン・フィルは凄い。昨年夏のザルツブルク音楽祭での彼らのマーラーの「第5」がCS放送でオンエアされたのを聴き、新時代の到来を予感させられたが、マゼール/ウィーン・フィルは、まちがいなく新たな世界を築きつつある。正に記念すべき元年のコンサートというにふさわしく、このところ観光コース化してしまったニュー・イヤー・コンサートを、その眠りから目覚めさせる力を持っていた。音楽の輪郭を大きくえぐる大胆不敵な抑揚、緩急のくっきりした落差が力強い。《ウィーンの市民》や《フェニックスの羽ばたき》では、音楽の太い流れの手応えもずっしりと伝わる。《くるまば草》では音楽が途切れ、ためらいながら、なかなか前に進めないと見せて最後で全開してゆく。実に「あざとい」ウィーン音楽が聴かれる。
 これらは、ある意味で1950年代を最後に最早、身体から自然に湧き出てくるウィーン音楽が誰にも表現出来なくなった時代にあっての、頭で描くキッチュなウィーンではあるのだが、今年のマゼールは、ゆったりとしたテンポ設定の悠然とした音楽をベースに、細部までよく表情の彫り込まれた造形を徹底して磨きあげている。それは相変わらずの、音楽の形が目に見えてくるような細かな指揮棒の動きと表裏一体のものだが、以前のように、それが窮屈に聴こえてこないのは、マゼールの棒がしばしば息つぎをするように止まり、そこで「待ち」の余裕を持つようになったからだ。その分だけオーケストラは十分に呼吸でき、自然で伸びやかな響きの堂々とした音楽が生まれた。
 マゼールの演奏スタイルの変遷は、現代に生きる私たちが失ってしまったもの、例えば自然に口を突いて出てくる歌、訳もなく心がなごみ涙する、そうした音楽の原初的感動を再構築する「方法論」の歴史だ。それは、何の苦もなく高らかに感動を歌い上げる自信を失ってしまった現代人の、屈折した感性そのものなのかもしれない。 昨年暮にBMGからリリースされた「マゼール/ヴァイオリン・ソロ・リサイタル」という不思議なアルバムに寄せたマゼール自身の言葉が示唆に富んでいる。彼は、そのアルバムを長い音楽生活で最も個人的な「音楽的告白」であるとして、「私はこの録音を、音楽の美しさが人々の心をうち、演奏家と聴衆双方が目に涙を浮かべていたようなヴァイオリンの演奏が行なわれていた、幸福な時代の思い出に捧げたい」と書いている。これは、表現を変えれば、今の時代は、このような音楽が演奏できないという告白でもある。そう言えば、ヨハン・シュトラウスの伝統にならって、と言うマゼールのヴァイオリン片手の指揮には、どこまでも借物のような照れくささがつきまとっている。
 おそらくマゼールは現代の指揮者の中で、だれよりも早く、今日の音楽の不幸の源に気付き、だれよりも切実にそこからの脱出を願い、試みている。マゼールは、だれよりも真剣に、真正面からウィーンの美しい夢を描き、同時に、その屈折に敏感に反応して夢の脆さをも克明に聴かせようとする。ウィーン音楽が、過去の佳き時代の単なる再現ではなく、「今」を生きる私たちの夢の屈折を映し出す鏡だからだ。そしてそれは、落日のオーストリア帝国を生き抜き、古き佳きウィーンの栄光を描き続けたヨハン・シュトラウスの、屈折した夢とも重なり合う。ヨハンが世を去ったのは1899年だが、それから 約100年を経て新たな世紀転換期に差しかかろうという新時代を象徴するのが、マゼール/ウィーン・フィルの活動だと言っても過言ではない。
 蛇足ながら、このCDは録音から発売までが史上最短という、異例のスピードでリリースされるという。これは、ウィーン・フィルの録音を久しぶりに手掛けるBMG・RCAレーベルの意気込みの表われでもあるだろう。マゼール/ウィーン・フィルの録音は、今後もBMGで予定されているという。1950年代末から60年代初頭のカラヤン/ウィーン・フィルの録音以来、久々のウィーン・フィルのRCAレーベルへの本格登場だが、それもまた新時代の幕開けにふさわしい。




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ふたつの「ロリン・マゼール論」

2009年01月28日 13時54分20秒 | クラシック音楽演奏家論




 先日このブログの「カテゴリー分け」をやっとしましたが、そうしたら、私がこだわり続けている「マゼール」論を、一度も掲載していないことに気づきました。そこで、今回は、これまで書いたものでは一番まとまっているものを掲載します。前半が1996年6月発行の洋泉社ムック『クラシック名盤・裏名盤事典』に収録されたもの。執筆はこの年の4月頃でしょう。後半は洋泉社ムック『新・クラシックの快楽』という、たくさん売れた『クラシックの快楽』の一部を改訂して再刊したものに収録されています。私の「マゼール論」と「ラトル論」は、『新~』にしか載っていません。執筆は1996年7月22日です。
 いずれにしてもどちらも12年以上前の原稿ですから、バイエルン放送響の音楽監督になった頃までのマゼールです。文中、未CD化と書いているDG盤は、まとめてCD化されました。バイエルン時代以降のマゼールに関してはまだまとめて書いていませんが、当ブログで数日後に、散発的に書いたものをとりあえずいくつか掲載するつもりです。


■ロリン・マゼール論《『クラシック名盤・裏名盤』バージョン》

 時代の先端の感性というものは絶えず変貌してゆくが、ひとりの演奏家個人の変貌の振幅は、たいていの場合、決して大きなものではない。ところが、マゼールは、その中で数少ない例外だ。マゼールは自身の過去を否定しながら、大きな振幅で別人のごとくに変貌する。それが、彼の天才たる所以だが、それが、ことさらに、マゼールの変貌の真意を分かりにくくさせている。
 マゼールは、大きく分けてこれまで既に3回の変貌を通り越して、おそらく、昨年あたりから、4度目の変貌が始まっている。マゼールは次々と別の場所へワープしているわけだから、昔は良かったなどと言って、最初のマゼールのイメージから一歩も動かないでいると、完全に置いてきぼりを喰ってしまうことになる。
 マゼールの変貌の最初は70年代だ。第2次大戦後に戦後世代に突き付けられていた「ロマン派的抒情精神の再構築」という命題に、最も先鋭にチャレンジしていたマゼールは、その役割に自ら終止符を打ち、バランスのとれた響きの中での、新たな普遍性の獲得を模索する世界にワープして行った。それには、ベルリン、ウィーンという戦前からの音楽伝統の中心地から、アメリカのクリーヴランドへの転身という状況の変化も手伝っていただろう。1972年の秋のシーズンからのクリーヴランド管弦楽団の音楽監督就任以降、マゼールは、それまでのラディカルな演奏スタイルから次第にバランスのよい響き合いへと変貌して行くが、それがひとつの完成したスタイルを獲得して、室内楽的な緻密さを押し出すに至ったのは就任5年後の77年秋から開始されたCBSへの「ベートーヴェン交響曲全集」だと思う。
 そして、次の変貌は80年代にウィーン国立歌劇場の総監督就任決定を機に始まったニュー・イヤー・コンサートへの7回連続出場や、「マーラー全集」の完成によって明らかになった。抒情精神の断裂の執拗なまでの強調だ。
 3度目の変貌は、新しい「シベリウス全集」をピッツバーグ響とで開始した90年代。ここに至ってマゼールは、現代の抒情精神がその内向性を深めて、精神世界の分裂に行きつくところにまで追込んでしまったが、それをまた自らの手で収束を図りつつあるのが最近の活動だ。クリーヴランド時代の半ば頃から芽を出していたオーケストラの自発性との折り合いの付け方が、以前のように先回りせずに、オーケストラの行方を待つスタイルに変ってきているのだ。
 再びヨーロッパのポストを得て、バイエルンとウィーンに腰を落着けつつあるマゼールが、誰よりも磨き込んできた指揮棒の技術を捨てた時、この戦後の演奏史の変遷をひとりで先取りしてきた天才が、戦後50年の演奏芸術のキーワードで在り続けた「抒情精神の復興」の方法に解答を見出す時なのだ。それは、この半世紀をかけて最も遠回りをしてきたマゼールという指揮者の大きな振幅、ブーメランの航跡のような活動の、次世代に橋渡しする総決算となるはずだ。マゼールを聴くこと、聴き続けることは、マゼールが自らに課した自己変革の道程を受け入れる事でもあるのだ。

●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調op.93、同第3番変ホ長調op.55《英雄》/クリーヴランドo.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR9526]録音:1978年および77年
●マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》、同第7番ホ短調《夜の歌》/ウィーンpo.
[米CBS/M3K42495]録音:1982年および84年
●シベリウス:交響曲第2番ニ長調op.43、同第6番ニ短調op.104/ピッツバーグso.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR1495]録音:1990年および92年


■ロリン・マゼール論《『新・クラシックの快楽』バージョン》

 戦後世代の指揮者として録音歴だけでも、1957年という早いスタートだったマゼールは、既にデビューから40年以上経過している。それは戦後史そのものとも言えるのだが、マゼールの歴史は、戦後の演奏スタイルの変遷の、最も先鋭な部分の象徴でもある。絶えず時代の一歩先を行き、変革の先頭を歩んできたのがマゼールだ。
 1930年にパリ隣接のニュイイに生まれ、幼児期にアメリカにわたって成長したマゼールが、指揮者として正式にデビューしたのは留学先のローマでの1953年。その4年後にベルリン・フィルを振ってのレコーディングがドイツ・グラモフォンで行われた。日本を含む世界中の音楽ファンに、マゼールは、そのわずか27歳の若い才能の存在を示した。第2次世界大戦終結後、10年を経て、〈突然変異種〉のように驚嘆を持って迎えられたのがマゼールだった。
 デビュー当時の録音で、現在CDで手軽に聴けるのはストラヴィンスキー「火の鳥」組曲(ベルリン放送響、57年録音)くらいだが、それだけでも、当時のマゼールの異才ぶりが伝わってくる。スコアの各段が明瞭に分割されて響き、様々な仕掛けが的確に挟み込まれる。音楽の流れは裁断され、噛み付き合い吠え合いながら進む。ここでは音楽が、終幕に向かってひとつながりのドラマへゆるやかに昇華していくといった安定はない。どの瞬間も、切り立った断崖の淵に立っている。
 それは、ドイツ系のクラシック音楽の正統的なレパートリーでも同じだ。古いLPで当時のベートーヴェンやブラームスの録音を聴くと、当時の状況の中での、マゼールの突然変異ぶりが、さらに理解できる。オーケストラは、ベルリン・フィル。ドイツ精神の牙城としてフルトヴェングラーが君臨してきたベルリン・フィルが、その主の死後3年ほどしか経っていなかった時期の録音として、マゼールの演奏は、実に大胆不敵だ。それは、明確な意図を露わにしたアーティキュレーションやフレージングだけでなく、オーケストラの響きの構築にまで表われている。
 このことは、その5年後、1963年から翌年にかけて、ウィーン・フィルと英デッカ(ロンドン)に録音された「チャイコフスキー交響曲全集」でも確認できる。おそらく、1950年代から60年代にかけてのマゼールが目論んでいたのは、感情の起伏に素直なドラマの再現への決別だったはずだ。それは、戦前の巨匠たちが聴衆とともに育んできた絶対的な価値としての〈ロマン〉を、相対的に捉え返そうとする試みだった。
 マゼールのチャイコフスキーは、ためらいもなくおおらかにうたい上げるものではなかった。熱を帯びた感情の高揚は屈折し、絶えず検証されながら進行する。はにかみ屋の熱血青年。しかし、それは、マゼールひとりに限らなかった。時代は戦後世代全体に、音楽がロマンティシズムを表現することの意味を問い、疑問を発していた。照れわらいを浮かべながら愛を語り、小首をかしげながら、真実は一つではないはずだ、と感じていたのが、それを聴く私たちの世代だった。マゼールは、この時、戦後世代の感性の代弁者だったのだ。だが、少し早く、そうしたロマンの解体作業に着手していたマゼールは、やがて自ら、その収拾作業に入ってしまった。
 マゼールの演奏スタイルは、1970年代に入って大きく変貌した。戦後世代としての最初の役割をまっとうしたマゼールは、自ら、その役割に終止符を打ったのだ。70年代の半ば以降マゼールは、次第に細部の強引なまでのデフォルメが後退し、立体的な彫りの深さ、輪郭の明瞭さが、透けて見えるような響きの中で聴こえるようになった。音楽が軽々として自在さを持ち始めたのが、この時期だ。75、76年録音の「ブラームス交響曲全集」や、77、78年録音の「ベートーヴェン交響曲全集」が、かつてのベルリン・フィルとの録音と比べて、まるで別人の演奏のようなのに、今更ながら驚かされる。緊密な室内楽のようなアンサンブル集団、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督への就任が、それをより確実なものにしているが、それは、キャリアのスタートを伝統の真っ只中のベルリン、ウィーンを中心に始めたマゼールが、ヨーロッパの伝統を外から眺めるアメリカに育ったという原点に、立ち戻ったということでもあった。
 だが、ロマン派的情念との対決を続けたマゼールが、70年代の半ば以降、バランスのとれた響きの中での新たな普遍性の獲得を模索し始めたのは、この時代が要求していたことでもあった。マゼール/クリーヴランドの「ベートーヴェン交響曲全集」の明るさ、軽快さは、ティルソン・トーマスの室内管弦楽団盤や、やがて、古楽器演奏へと連なっていく。マゼールの70年代の変貌は、正に〈時代を映し出す鏡〉としてのマゼールそのものであり、マゼールが、いつの時代でも、その時代の〈現在〉であり続ける数少ない音楽家であることを予感させたのだ。 マゼールの変貌を象徴する録音に、2種のベルリオーズ「幻想交響曲」の録音がある。77年のCBS盤と、82年のテラーク盤だ。前者はこの曲の病的なグロテスクさを局限にまでおしすすめた演奏の代表盤だが、一転して後者は、響きの凹凸を刈り込んだバランスのよさへと傾斜している。その後の「幻想」の演奏が、アバド、プレヴィン、ハイティンク、デイヴィスらによって、安定したテンポと十全な響きが確保されてきたのは、偶然ではない。今日、マゼールが三たび、この曲を録音したならばどうなるか、興味は尽きない。
 80年代に再びウィーンのポストを得たマゼールは、ウィーン・フィルと「マーラー全集」をスタートさせるが、やがて行政当局と衝突して一時ウィーンを去ってしまう。この時得たポストがアメリカのピッツバーグ交響楽団。ここでは2度目の「シベリウス全集」が開始された。その双方に共通しているのは、抒情精神の断裂という、ここ数年継続して現代人の社会的病理として関心が持たれていたテーマの深化だった。切れ切れの歌は悲痛だが、マゼールはそれを容赦なく晒した。その息づまる苦しさは、シベリウスで最後の発売となったCDに収録の初期作品「カレリア組曲」にさえ表われている。
 無邪気さを冷やかに見つめるもうひとりの自己。この複眼的視点のアイロニーが消えつつあるのが、ウィーンとミュンヘンに拠点を移し、三たびヨーロッパの伝統に身を置いた最近のマゼールだ。オーケストラの自発性に委ねる部分を増しているのは、自己閉塞的状況からの脱出が、私たちの未来に向けての、時代のテーマだからだ。時代の気分を先取りしてきたマゼールの次の変貌が期待されるのだ。




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1月9日掲載分の、後日談

2009年01月27日 17時43分36秒 | 雑文


「雑文」というカテゴリーを作って気楽になった、というわけでもありませんが……。
1月9日掲載分の4枚目のCD「潮田益子のバルトーク」ですが、ブログにも書いた、オリジナルLPレコードを所有している友人と、先日、飲んでいたら、このブログの話が出て、「あのレコードを持っている友達って、誰ですか?」、と来ました。自分も持っている、と言うのです。私は、あんたから借りてCD-Rを作ったんだよ、と言いました。そして、忘れている程度なんだったら、私に譲るべきだ、と言いました、もちろん、……。もともと、一緒に中古レコード屋で漁っているときに、私の目の前で持って言ったのに忘れているとは……。私はそのレコードが800円で売られていたことまで覚えています。……というわけで、彼はいさぎよく、私に譲ると言いました。あれ、酒の上での話ではないですよね!!! 今度、持ってきてくださいね。




 
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「青春プレイバック・エッセイ」異聞・「ハワイアン」と「ビッグバンド」のことなど

2009年01月27日 00時27分35秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録を、21日から6日間続けました。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものでした。
 以下はその再掲載を終えての雑文です。「6回目」に「付記」として書き始めたのですが、例によってまた、長くなってしまいそうだったので、別建てにしました。どうも思い出に関わる話が長くなる傾向で、困ったことですが、合わせてお読みいただけるとうれしいです。

【ブログへの再掲載を終えての付記・自注】

 「第5回」「第6回」の収録曲は、「歌のない流行歌」のカラオケと言ったって、最初から歌詞のない曲もあるじゃないか、と思っている方も多いでしょう。しかし、この原盤レコードが発売された時代は、これらの曲に「日本語歌詞」をつけて歌うことも多かったのです。『魅せられしギター』は小林旭が歌っていたような気がしますが、確認していません。ひょっとしたら『黒い傷跡のブルース』だったかも知れません。前奏がオリジナルにそっくりのアレンジだったはずです。前奏のあと、いきなり歌いだすので、びっくりします。

 「ハワイアン」では、当時のものとしては森山加代子が「パラキン」と一緒に歌ったものがいくつか復刻CDになっていますが、それとは別に古い10インチLPがありました。たぶんデビュー・アルバムで、そこに収録されている『月影のナポリ』の日本語歌詞は、その後、彼女自身も再録音している有名な「漣健児バージョン」とは別の歌詞です。たぶん「幻の歌詞」のひとつに数えられるのではないでしょうか?

 「第6集」の曲目は、しばしばビッグバンドの演奏曲にもなりましたが、日本のビッグバンドでは、私は「原信夫とシャープス&フラッツ」よりも、「宮間利之とニューハード」の方が好きでした。一昨日の「第5集・ハワイアン」のところでちょっと触れた「ハイカラな音楽にめっぽう詳しかった」私の伯父が、「それならば、トミー・ドーシー楽団を聴いてみろ」とよく言っていたのを、今でも覚えています。その伯父は、もう数年前から、ある病院でずっと寝たきりで、話をすることも出来ません。先日、病室に訪ねていったのですが、もっと当時のことを聞いておけばよかったと悔やみました。伯父は、戦後、急に自由に聴けるようになったいわゆる「ハイカラ音楽」を、むさぼるように聴いていたひとりだったのでしょう。大正期にブームになったそうした音楽の担い手たちが、昭和初期から始まった、日増しに厳しくなる「戦時下」に耐えていたわけです。「空白の15年」という愚かな時代が、日本の西洋文化移入の歴史の中にあることを、忘れてはなりません。「大正期の音楽傾向」が、ぽっかりと、その時期を飛ばして、戦後に直結しているのには、驚くしかありません。

 「第6回」に登場するホテルは、もちろん九段下の「グランドパレス」です。28階にバーラウンジがあります。

   「あの頃」、渋谷から靖国通りを神保町の古書店街までしばしば一緒に歩いたのは、現在、帝塚山学院大学教授で、大正期、昭和初期の美術、文芸動向を研究している山田俊幸氏。山田氏には、愛書家の研究をしていた気谷誠氏(昨年10月2日付の当ブログをご覧ください)も紹介してもらいました。実は最近になって、その気谷氏が晩年に計画していた大正期の「セノオ楽譜」の研究の続きを、私なりに始めました。

 同じく「第6回」に登場する銀座の裏通りを私と一緒に歩いた中学生は、現在、北星学園大学教授で、岩波から『マーラー辞典』を出版した山我哲雄氏。山我氏は『聖書』研究の第一人者です。彼とは一時期、ずいぶんたくさんの音楽を聴きましたが、私のマーラー体験は、彼のレコードコレクションから始まっています。彼は、その頃から(つまり中学生のころから)、「聖書が分からないとマーラーがわからない」と口癖のように言っていました。

 最初に「グランドパレス」のバーラウンジで会った仕事の打ち合わせの相手とは、「ウィキぺディア」のカテゴリー「日本の出版社の歴史」中の『泰流社』の項目に私との関係が書かれている「西村社長」です。彼はニューオオタニのメインバーのカウンターを普段は使っていたのですが、その日、私の別件の用事が九段の方であったので、それなら、と指定された場所でした。


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「カテゴリー」分け、始めました!

2009年01月26日 18時19分02秒 | 雑文




お気づきの方は少ないと思いますが、実は、このブログ、やっと「カテゴリー分け」をしました。まだ、仮の大ざっぱな分け方に過ぎませんが、とりあえず、以下の通りです。

1)新譜CD雑感(クラシック編)
2)クラシック音楽演奏家論(再録)
3)ライナーノート(ウエストミンスター編)
4)コラム・エッセイ(邦楽・ポップス)
5)コラム・エッセイ(クラシック)
6)雑文
7)ディスコグラフィ


1)は詩誌『孔雀船』に半年おきに、私が書きたいものを自由に書いているものです。過去のものに遡って掲載している「アーカイヴ」です。

2)このカテゴリーは、各雑誌、ムック、単行本などに過去に掲載したものです。今現在は分類せず、全部一緒です。いつ、どこに掲載したか、何について書いたかなどで、いずれは細かく分けなければならないと思っています。

3)「CD」という商品に付せられた「ライナーノート」は、読む方の便宜も考えて、これからもレコード会社別に、それぞれカテゴリーを起こすつもりです。

4)および5) なんらかの形で、既に公に発表されているもので、つまり、いまさら、書き直せない、取り消せない、撤回できない、という責任のある「雑文」を、とりあえず、2ジャンルに分類して掲載しています。つまり、「出典」のある再掲載ものです。2)と同様に、他の方がブログで引用したりなさっているものが一部の抜き書きだったりしているので、全文を掲載するものです。

6)気まぐれに書いてしまった文章です。普通は、こうしたものを「ブログ」と言うのでしょうか? 私の意識としては「未定稿」のメモ書きです。

7)こだわっている演奏家の、私が自分のコレクションの発展に伴ってつくるディスコグラフィーです。かつて、私の著書で「ガリエラ」「フィルクス二ー」などのものを作りました。このブログでは「ソンドラ・ビアンカ」のものを掲載しています。そのうち、また、面白いものを掲載します。




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'70年代のムード音楽定番曲

2009年01月26日 12時42分15秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 まだまだ、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。……と言って先日、21日から始めて、ついに、きょうは第6回、これで終わりです。お付き合いくださった方、ありがとうございます。


■第6集「ひとりお洒落にアダルト・ムード」(収録曲)

1)酒とバラの日々
2)スターダスト
3)ムーンリバー
4)虹の彼方に
5)いそしぎ
6)星に願いを
7)あなたと夜と音楽と
8)タラのテーマ
9)ある愛の詩
10)慕情
11)魅せられしギター
12)枯葉
13)太陽がいっぱい
14)ラブ・ミー・テンダー
15)エデンの東
16)ブーべの恋人
17)雪が降る
18)煙が目にしみる


■大人のムードが似合う場所

 中学生だったか高校生だったかの頃、今でも東京・九段下にそびえ立つ高層ホテルを見上げながら、大人になってサラリーマンになったら、こんなホテルのバーラウンジで、ひとり静かにグラスを傾けたい、などと思ったものだ。あるいは、銀座の一本裏の通りを、学校帰りに歩きながら(というのは、西銀座の中古レコード店や、新橋近くの輸入LP専門店などに行く通り道だったからだが)、開店準備で開け放たれたナイトクラブのドアの隙間からベルベットを貼りめぐらせた店内を覗きながら、いつか、こんな店で生のバンド演奏を聴いてみたいなどと思っていた。
 学校は校則で出入りを禁じていたけれど、銀座の「ACB(アシベ)」でグループサウンズを聴いたり、新宿の「ピットイン」でジャズを聴いたりはしていたが、「大人のムード」への憧れがあったのだ。年頃の高校生のほとんどが陥るように、私も人並に訳知り顔の大人への反発があったから、暗闇のなかでタバコを吸いながらジャズレコードを聴くという生活もしていたけれど、それでも、どこかで、「大人のムード」への憧れがあったのだと思う。映画もよく観たし、ミュージカルのLPや、スクリーンムードのLPもよく聴いたが、あの、豊かでゴージャスな響きが、たまらなく好きだった。
 数年の後、サラリーマンとなってしばらく経ったころ、仕事の打ち合せで先方に指定された場所が、偶然にも、かつて見上げていた高層ホテルのバーラウンジだったのには驚いた。忘れていた思いが一気に吹き出して、わくわくしながら夕方会社を出たのを、今でも憶えている。少し早めに到着した私は、先方が連絡済みだったので、すぐに窓際の席に案内された。
 その日はもう初夏だったので、日没前だった。私は次第に夜になっていく街を見下ろしながら、水割りのウイスキーグラスをゆっくりと飲んで待った。やがて、先方が現れ、打ち合せもそこそこ終わりかけた頃、天井のスピーカーから小さめに流れていた音楽が止み、ピアノ・トリオの演奏が始まった。曲は『スターダスト』。その時はじめて私は、自分が大人の仲間入りをしたような気持ちになった。学生気分が抜け、良くも悪くもささくれ立ったキツイ音楽とはちがう「お洒落」な音楽を身の回りに置く大人に、私自身が日和った瞬間でもあったのだが、その時の不思議に幸福な気分は忘れられない。
 今でも私は、そのホテルのバーラウンジに時々行く。だが、ピアノ演奏が始まると、いつも「スターダスト」か「星に願いを」をリクエストする図々しさだけは、身に付いてしまったようである。






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戦後ニッポンと「ハワイアン」

2009年01月25日 09時40分59秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 相変わらずで、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(先日、21日から始めて、きょうは第5回、あと残り1回となりました。) 


■第5集「かわいいあの娘とフラ・フラ・ムード」(収録曲)

1)アロハ・オエ
2)スウィート・レイラニ
3)夕日に赤い帆
4)ワイキキの浜辺で
5)バリバリの浜辺
6)舟を漕いで
7)マウイチャイムス
8)レイ・アロハ・レイ・マカマエ
9)ラハイナ・ルナ
10)珊瑚礁の彼方
11)ブルーハワイ
12)真珠貝の歌
13)月の夜は
14)カイマナ・ヒラ
15)フキウラ・ソング
16)タイニー・バブルス
17)小さな竹の橋
18)マリヒニ・メレ

■あこがれのハイカラ音楽だった「ハワイアン」

 「ハワイ」は今でも海外旅行の定番のひとつだが、観光地ハワイが戦後の日本人にクローズアップされたのは、昭和23年のヒット曲『憧れのハワイ航路』からだろうと思う。だが、この時期は「出船のドラの音」と歌詞にもあるとおり、船での旅だった。ハワイは戦後まもなくから長い間、最も行きたい外国であり、一番近いアメリカでもあったと思う。
 ハワイ人気の過熱は、当然のことながらハワイ音楽のブームも呼んで、日本人によるハワイアン・バンドがいくつも結成されていった。ナイトクラブの舞台には、そうしたハワイアンバンドがひっきりなしに登場していたという。ハイカラな音楽のひとつとして定着していたのだと思うが、私自身はその頃のことは、父親や叔父に聞いていたにすぎない。
 私が子供心にも憶えているのは、そうしたハワイアンのブームが落ち着いてきて、彼らが引続きハワイアン一筋で活動を続けるのか、それとも別のジャンルへと進出するのかの岐路に立っていた頃の流行歌世界だったのだろうと思う。坂本九や九重佑三子を生んだ私が大好きだったパラキンこと「ダニー飯田とパラダイス・キング」が、以前はハワイアンバンドだったと教えてくれたのは、ハイカラな軽音楽にはめっぽう詳しかった叔父だったし、「愛して愛して愛しちゃったのよ」なんて、口ずさむと親や先生に叱られたヒット曲の「和田弘とマヒナスターズ」も元ハワイアンだという。おとなになってから分かったことなのだが、その後のムード演歌の源流を溯って行くと、戦後のハワイアンブームに行き当るらしい。ハワイアンは、戦後ニッポンのハイカラな音楽の〈窓〉として、大きな役割を果したようだ。
 もちろん、その後もハワイアン一筋で活動を続けたグループもたくさんあったわけで、最近になって再びウクレレやフラダンス教室が活況となっているのも、そうした根強い支持者が活動を続けてきたからだろう。
 私個人の記憶では、遊園地やデパートの屋上のアトラクションで見たり聴いたしたハワイアンの印象が強烈だ。そしておとなたちと同じように、ハワイは行ってみたい外国となった。昭和36年に「トリスを飲んでハワイへ行こう!」という懸賞付きでウィスキーが売り出されたときには、父親にトリスを飲んでくれとせがんだものだ。まだ戦後政策の名残りで、海外旅行が自由に出来なかった時代だった。日本人の海外渡航が自由化されたのは昭和39年のこと。翌年、日本航空が初めてジャルパックを発売したのだった。



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何も恐くなかった「同棲時代」と「22歳の別れ」

2009年01月24日 01時19分04秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 まだまだ、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(先日、21日から始めて、きょうは第4回です)


■第4集「涙の青春センチメンタル・ムード」(収録曲)

1)神田川
2)フランシーヌの場合
3)白いブランコ
4)バラが咲いた
5)ひなげしの花
6)時には母のない子のように
7)忘れな草をあなたに
8)22才の別れ
9)赤い風船
10)空に星があるように
11)涙をおふき
12)同棲時代
13)なのにあなたは京都へ行くの
14)さよならをするために
15)純潔
16)禁じられた恋
17)夕日が泣いている
18)上を向いて歩こう


■一緒に暮らしたあの日々が…

 喜多条忠の作詞による『神田川』をカラオケでせつせつと歌い上げる人は、昭和40年代も後半を過ぎて、50年代に入ろうかという時期に学生だった人か、勤め始めた人と思って間違いない。今でこそ、バスルーム、エアコン付きのアパート、ワンルーム・マンションが普通のひとり暮らしになってしまったが、私の学生時代は、風呂無しが当たり前だったから、みんな銭湯に通っていた。
 銭湯の前は、どちらかの長風呂に待たされている若い男女が、いつもちらほらと居たものだった。「オーイ、出るぞー」と洗い場から隣の女湯に向けて大声を上げて出て行くのは、決まって年配のおじさん。僕ら若いモンは照れくさくって、そんなことなど出来なかった。せっかく時間を決めておいたのに、と思いながら、じっと待っていた。「洗い髪が芯まで冷えて」も、じっと待っていた。それが青春時代というものだった。
 『神田川』の歌が生まれたのは昭和48年のことである。同じ年に『同棲時代』も誕生している。同題の上村一夫の劇画のヒットから出来た歌だったが、そもそも「同棲」という言葉そのものが、この劇画によって定着した感があったほどだ。
 考えてみれば、あの時代、私たちの多くの仲間たちは、一生の結婚相手を見出すために、「同棲」という名の予行演習をしていたのだった。時代は大きく変りつつあった。親が選んだ相手と見合いするよりも、「ともだち」の延長で同棲し、小さなアパートを借りてやがて結婚し、それでも専業主婦にならず二人とも働いてお金を貯める。そんな女性の何人かがそのまま職場に残り、今で言うキャリアウーマンとなった。歌詞にもあるように、若かったあの頃は何も恐くなかったのだ。そのまま、ずっと今日に至っているカップルも少なくないだろう。
 だが、そんな時代をほろ苦く思い出す人も、数多いと思う。「卒業までの半年で」は、とても答えを出せなかったひともいるだろうし、「過ぎた日のほほえみも、かなしみも、みんな君にあげる」と言ってしまった人もいるだろう。出会いがあれば、別れもある。そんなことを歌い込んだ名曲が伊勢正三の『22才の別れ』だった。昭和50年に生まれたこの曲に涙の青春時代を感じる人は、絶対に心優しい人に違いない。別れてしまったのは何故だろう、と思い出しても仕方のないことだ。17本の誕生日のローソクが22本に増えた年までの5年間とは、まさに《同棲時代》そのものなのだ。



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朝まで語り明かした'70年代の深夜喫茶

2009年01月23日 07時32分35秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)





 また、きのうの続き、です。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(先日、21日から始めて、きょうは第3回です)


■第3集「情熱の青春プレイバック・ムード」(収録曲)

1)小さなスナック
2)白い珊瑚礁
3)あの素晴らしい愛をもう一度
4)私の彼は左きき
5)空に太陽がある限り
6)あの時君は若かった
7)失恋レストラン
8)ジョニーへの伝言
9)バラ色の雲
10)ひと夏の経験
11)17才
12)さらば友よ
13)襟裳岬
14)ひとりじゃないの
15)水色の恋
16)ブルーシャトー
17)色づく街
18)それはキッスではじまった


■朝まで語り明かした深夜喫茶

 今では24時間営業のファミリーレストランが当たり前になってしまったが、昭和40年頃にそんなものがなかったことは、70年安保闘争や全共闘の時代に学生生活を送った方ならば、誰でもご存じだろう。
 もちろんコンビニエンス・ストアもなかった。コンビニ1号店と言われる「セブン‐イレブン」が東京都江東区豊洲にオープンしたのは昭和49年5月15日のこと。チェーン展開はまだまだ先のことだったが、そもそも、店名の由来が「朝7時開店、夜11時閉店」から採られていることや、初期のテレビCMのセリフが「開いててよかった!」だったことなど、今コンビニに深夜たむろしている子たちには想像もつかないことだろう。この時代、街は夜8時を過ぎるころにはほとんどの商店が入口を閉ざし、翌朝9時、10時になるまで開かなかったのだ。
 この時代に大都会で学生生活を送った方ならば、「深夜喫茶」「深夜スナック」という言葉を憶えておいでだろう。コーヒー・紅茶にトーストくらいしかメニューになかった「純喫茶」(今にして思えばスゴイ表現!)と異なりスパゲッティやピラフなどまで置いている「軽食喫茶」のいくつかが、夜中までの営業を許可されていたのだろう。初電が動き出す頃まで、ねばることが出来た。
 私などもそのひとりだったが、そんな店で朝まで級友やサークル仲間と語り明したものだ。思えば、あの頃はみんな議論が大好きだったし、たぶん、真剣だった。朝まで、尽きることもなく眠気と戦いながら口角泡を飛ばしてのディスカッションは、たわいもない恋愛論だったり青臭い文学論だったり、あるいは過激な政治論だったりと留め度がなかったが、その熱い論戦の中には、いつも音楽が流れていた。終電を逃して、ひとり取り残されてしまった時には、朝まで文庫本を読んでいたりもした。シーンとした図書館よりも、音楽とざわめきのある喫茶店のほうが集中して本が読めるようになったのも、この頃に付いたクセだろうと思う。
 話のよくわかるアニキのようなスナックのマスターがいたりもした。もちろん、カップルも現れた。「夜明けのコーヒー、ふたりで飲もうね」というノリである。現在の私の女房殿とも、そんな日があった。「朝までカレと一緒だったの」というのは、この時代、これほどに健全だった……こともあったのである。そして、《それはキッスではじまった》というカップルもたくさんいた。そんな時代だった。



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「みんな夢の中」だった昭和40年代

2009年01月22日 11時17分23秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)






 きのうの続き。
 『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文の再録です。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。毎日、1話ずつの掲載ですので、6日間だけ、お付き合いください。(きょうは第2回です) 

■第2集「やさしく、しっとりラブラブ・ムード」(収録曲)

1)夜霧よ今夜も有難う
2)くちなしの花
3)瀬戸の花嫁
4)知りすぎたのね
5)いいじゃないの幸せならば
6)恋の奴隷
7)北の宿から
8)長崎は今日も雨だった
9)雨の御堂筋
10)昔の名前で出ています
11)ブルーライト・ヨコハマ
12)みんな夢の中
13)君は心の妻だから
14)夜と朝のあいだに
15)今日でお別れ
16)別れの朝
17)また逢う日まで
18)夢は夜ひらく


■みんな夢の中だった?

 誰のエッセイだったか忘れてしまったが、東京オリンピックが開催されテレビ中継されているのを、当時、東京・上野の定食屋で見ていた時のことを書いているのを読んだことがある。
 テレビの画面は柔道で、図体のデカイ外国人に日本人が次々に投げ飛ばされているところだった。外国人はオランダのヘーシンク選手。ヤマシタもヨシダも、やわらちゃんもいなかった昭和39年のことである。柔道ニッポンも形無しだった。その時、ちびりちびりと燗酒を飲みながら焼魚定食を食べていた初老の客がぽつりと言った「あいつらは喰ってるものが違うからなぁ」との嘆きに心底共感した、というものだった。日本はまだまだ貧しいのだということを思い知らされた、という趣旨だった。
 けれども、この年に中学三年生だった私は、当時の日本を貧しいとは思っていなかった。これは、おそらく世代の違いなのだろうと思う。オリンピックの年に既に社会に出ていた世代と、日本の高度成長期の入口というこの時期に、まだ社会に出ていなかった私の世代とは、世の中の現象の受けとめ方が違っていたのだと思う。オリンピックに合わせて都市整備が進み、高速道路の開通もあって、街は活気に満ちていた。
 私が子供から学生、社会人となっていく過程は、日本の経済がどんどん右肩上がりになっていった時代だった。憶えておいでの方も多いと思うが「5桁昇給」という、今となっては夢のような言葉が生まれたのも、私が社会人になってまもなくのことだった。
 だから、昭和40年代の流行歌は、どれもみな、ゆったりと大らかなムードに溢れている。底意地が悪かったりしないのだ。誰もが優しいし、ガツガツ、ギスギスしていない。
 ちょうど昭和40年代の半ばの1970年が世にいう70年安保の年で、前年1969年10月には有名な「新宿争乱」(「騒乱」ではない!)があったが、その新宿は西口再開発の真っ最中。翌1970年には高層ビルが姿を見せ始めた。ほとんどの人が新宿争乱を過去の出来事にしてしまい、オープンしたばかりの京王プラザホテルや住友三角ビルに登り、遥か下に広がる新宿駅西口地下広場(デモやヤジ馬を道路交通法で規制するために、「地下通路」と改称してしまったが)のぽっかりと開いた口を、未来都市が実現したかのように、そしてその未来都市が更に発展を続けると信じて眺めていた。同じように今、これからの日本を生きて行く「平成世代」は、新しい丸の内や、汐留、六本木の超高層から、未来の夢を描いているはずなのだ。



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夢の電化生活とレコードプレーヤー

2009年01月21日 19時11分29秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 先日、子供のころの思い出をちょっと書き始めてしまったせいか、5~6年前に『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文を思い出してしまいました。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。本日より毎日、1話ずつ掲載します。6日間だけ、お付き合いください。
 アッ! ついでながら、私のカラオケ・デビューは、1974年の秋ごろ、新宿、要通り、または末広通りにあったスナックで、曲目は『くちなしの花』。編集仕事の先輩に無理やり連れて行かれて、です。もちろん、マスターがレコードをかけるカラオケで、指先で器用にレコード針の針先を降ろして曲の頭出しをして、ちょっとつかえると数小節分を戻すなんていう名人芸を、この目で見ました!


■第1集「今夜はサイコー!居酒屋ムード」(収録曲)
1)ラブユー東京
2)愛して愛して愛しちゃったのよ
3)自動車ショー歌
4)ゆうべの秘密
5)恋の季節
6)小指の思い出
7)あなたならどうする
8)四つのお願い
9)いい湯だな
10)星のフラメンコ
11)笑ってゆるして
12)X+Y=LOVE
13)オー・チン・チン
14)どうにもとまらない
15)グッド・ナイト・ベイビー
16)ここがいいのよ
17)ふりむかないで
18)柳ヶ瀬ブルース

■夢の電化生活とレコードプレーヤー

 もうずいぶん昔のことになってしまったから忘れてしまった人も多いと思うが、昭和40年代(1965~74年)は、それ以前の昭和30年代とは対照的に、日本のあらゆる分野が急成長し、目に見えるように豊かになっていった時代だった。アメリカ製のホームドラマを見ながら指をくわえて憧れていた冷蔵庫や洗濯機などの電化生活は、ちょっと父親が奮発してくれれば、我が家にも実現したし、テレビやステレオの普及率も急速に高まっていった。それは、1964年の「東京オリンピック」に向けて、日本中が一丸となって推し進めてきたものが一気に花開いた結果だ、とオトナたちは自慢していた。
 音楽を取巻く環境にも、大きな変化があった。昭和33(1958)年には「音質が断然いい」というFM放送が開始され、ステレオレコードは第1回発売があったが、これらが一般の家庭で高嶺の花でなくなるのも、昭和40年代の10年間だった。昭和40年代も半ばを過ぎた私の学生時代には、級友の学生下宿にFM付きのラジオと、中古の白黒テレビくらいがあるのは、それほどめずらしくなかった。
 実は、クラシックやジャズの分野に数年遅れて、最後まで残っていたSPレコードでの流行歌の新譜製造が全廃されたのは昭和35(1960)年だったという。EPレコード(ドーナッツ盤)とLPレコードがかかる新式のプレーヤー(当時は「電蓄」と言った!)の普及状況からの決定だったのだろう。電蓄が昭和40年代には、もはや高嶺の花でなかったことは、昭和30年代の「電化三種の神器(=白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」に代って、この頃さかんに言われ始めた「新三種の神器」に選ばれていなかったことでもわかる。新しい三種の神器は「3C」と謳われ、それはカラーテレビ、クーラー、カー(自家用車)の頭文字「C」から生まれた言葉だった。
 そうなのだ。車は高嶺の花だった。まだお台場も幕張メッセも後楽園ドームもなかったあの時代、東京・晴海の「見本市会場」で行われた自動車ショーがなつかしいぼくらは、小林旭の歌で大ヒットした《自動車ショー歌》も、よく憶えている。車と女は、見ているだけでも楽しかった……、のである。東京オリンピックが行われた1964年のヒット曲だ。
 オリンピックの宴のあと、数年が経ち、晴れてサラリーマンになったぼくらニッポンの企業戦士は、だれも《ふりむかないで》豊かなニッポンをひた走り、もう《どうにもとまらない》という高度成長時代を生き抜いてきたのだった。




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●ドヴォルザーク「交響曲第7番」を聴く3枚

2009年01月18日 09時18分53秒 | 私の「名曲名盤選」
「第7」は最もドイツ的な作品で、直接にはブラームスの第3交響曲の影響が大きく、構築的でよく書き込まれた作品だ。
 マゼール盤は、そうしたブラームスとのかかわりを意図的に引出したユニークさが、作品の本質にうまくはまっている。第1楽章での流麗さとブラームス風のとつとつとした音型との対比が鮮やかに決まり、ぎくしゃくした動きで繰り返し情熱をぶつけるようなブラームス・サウンドの終楽章まで、一貫してブラームスの影を想起させる濃厚な演奏に徹している。中間楽章でのキメの細やかな表情付けも、ウィーン・フィルののびやかな音色の中に生きている。
 ノイマン/チェコ・フィルは、この曲を自国の音楽伝統に引戻した演奏で、奇妙なローカリズムが居心地悪そうに漂っている。若書きの習作交響曲のように聞こえたりもするから、作曲者自身が意識していたのは、こんな水準なのかも知れない。マゼールがリッパすぎるという人は、この演奏の方が親しめる。少なくとも、発想はボヘミア的で、サウンドは重厚なゲルマン、といったクーベリック/ベルリン・フィル盤のねじれ現象を聴くよりは、ずっと素直な気持で聴ける。スメタナ「我が祖国」を何度聴いてもOKというボヘミア・フリークへのお勧めはノイマン。
 マゼールのドイツ音楽的アプローチを、マゼール的ひねり技ではなく、もう少しオーソドックスな正攻法で、というなら、意外といいのがアンドルー・デイヴィス/フィルハーモニア管の録音だ。これは掘出しもの。

《曲目についてのコメント》
 ドヴォルザークという田舎の作曲家が、次第に洗練されていくという〈進化論〉を当てはめると誤解する。独自の音楽語法を完成させていった彼は、むしろ晩年に、真にボヘミア的な世界を花開かせた。「第7」は、その道程にある作品だ。

《CDデータ》
ロリン・マゼール指揮ウィーンpo.[Po-グラモフォン/POCG3204]録音:1983年
ヴァツラフ・ノイマン指揮チェコpo.[Co-スプラフォン/COCO75507]録音:1981年
アンドルー・デイヴィス指揮フィルハーモニアo.[米SONY/SBK67174]録音:1979年
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閑話休題――こどものころの名盤選ゴッコを思い出して

2009年01月18日 09時15分30秒 | 雑文
 以下は、昨日ブログにUPしたものの関連として掲載します。フロッピーに残っていた日付データでは、執筆完了は「1996年3月11日午前1時53分」です。『クラシック名盤・裏名盤事典』(洋泉社ムック/絶版)用の原稿ですから、『レコード芸術』誌にフランクの「交響曲」の名盤選の原稿を書いた3年後くらいかと思います。

 この時代は、「録音された演奏」というものに、基準も規範もルールもあったから、そうした本が成り立っていたのだと、改めて思い出しました。思えば、私が最近の放送音源盤、海賊盤、などに、そしてそうした音源を発掘して面白がっている人たちに興味を失ってしまったのは、その「基準」の無さに理由があるのでしょう。音楽も舞台芸術も、どちらも、もともと、目の前で歌われ、演じられ、消えてしまうものですが、それを繰り返し繰り返し聴いたり見たりすることの意味を、父親の仕事を通して問いはじめたのが、6、7歳ころの私自身だったように思い出します。だからこそ、「繰り返し繰り返し聴かれるべく作られた」「レコード」という「別の演奏芸術」の意味を真剣に問う面白さに、私自身、ほんの一時期魅せられていたのです。

 小学生になりたての私に、当時はまだ珍しかった「電気蓄音機」のお古を与えてくれた父親に、今、感謝しています。私はそれを使って、父親が持っていたSPレコードをレコード専用棚に分類整理して収める手伝いまでしました。児童舞踊家という職業柄、童謡レコードが多かったのですが、様々のジャンルがありました。見本盤も各社から毎月送られてきましたから、いつの間にか、同曲異演を聴き比べて、父親に報告するような生意気な子供になっていました。たぶん、我が家にテレビがやってくる昭和33年より前の話です。市丸と勝太郎の小唄を聴き比べたり、川田正子と川田孝子で、同じ童謡を聴き比べたり、ビクターの録音が妙に「カンカン」と響くスタジオの音で気になったり、いろいろありました。私、昭和30年代の子供のころから、名盤選ゴッコしてたのですね。

 思い出話を続けていてもキリがないので、もう、やめます。


【2011年2月9日 追記】

 このあとに続けて、フランクの交響曲の名盤選で言及したアンドルー・デイヴィス関連として、「ドヴォルザーク:交響曲第7番を聴く3枚」という原稿がブログ掲載されていましたが、今回、切り離して別カテゴリーとしました。後々の混乱を避けるため、投稿日時を偽装して、この前半部分の3分後投稿としましたので、日付順にブログを読むと、ちゃんとつながるはずですし、それぞれ別のカテゴリーで呼び出せるようにもなりました。


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アンドルー・デイヴィスを聴く3枚

2009年01月17日 12時27分13秒 | 「指揮者120人のコレを聴け!」より




 以下は、1998年6月に発行された『指揮者120人のコレを聴け!』(洋泉社ムック/絶版)に掲載したものです。このブログで昨年末に、いくつも再掲載しましたが、もうこれが、同書からの再録は最後のはずです。「アンドルー・デイヴィス」も、原稿執筆後に、ずっと現役で活躍を続けた人ですから、「バレンボイム」の項で書いたことと同じ問題があります。つまり、最近のアンドルーの演奏を追いかけていないのです。あくまでも、執筆時点での私の「アンドルー・デイヴィス観」だとしてお読みください。最近の彼については「いずれ」の宿題です。その前に、「最近のバレンボイム」について考えるほうが先です。ニューイヤーも終わったことだし……。実は、録画をしたまま、まだ、ちゃんと見ていないのです。そろそろCDが発売されてしまいますね。


■アンドルー・デイヴィス Andrew Davis (1944~ )

●略歴
 1944年イングランド南東部ハートフォードシャー州出身。ケンブリッジのキングズ・カレッジでオルガンを修めて卒業後、ローマ聖チェチーリア音楽院で67年から2年間、フランコ・フェラーラに指揮法を学ぶ。70年BBC響で指揮者デビュー。74年カナダのトロント響の音楽監督。88年にグラインドボーン音楽祭音楽監督、89年にはBBC響首席指揮者に就任。90年代にはプロムスの人気指揮者としても活躍。

●アンドルー・デイヴィスについて
 アンドルー・デイヴィスの名前を私が聞いたのは、1977年CBS録音のヤナーチェク《利口な牝狐の物語》組曲と《タラス・ブーリバ》のLPが発売された時だったと記憶している。オーケストラはカナダのトロント響だった。既にコリン・デイヴィスが広く知られていたので、〈二人目のデイヴィス〉として、後塵を拝する存在で、だった。いまだに、「もうひとり、なんとかデーヴィスという人がいましたね」などと言われる。損な人だ。
 しかし、ほぼデビュー盤とも言えるヤナーチェクの時から、その紡ぎ出す音楽の響きの純度の高さ、豊かな音楽の息づかいがきらりと光る指揮者だった。その頃、アンドルーはまだ30歳代の前半だった。当時私は聴きもらしていたが、古いカタログによれば、このヤナーチェクの国内盤発売に10ヵ月ほど先立って、フランク『交響曲ニ短調』が発売されている。オーケストラはイギリスのフィルハーモニア管弦楽団(録音当時の名称はニュー・フィルハーモニア管)で、録音は75年11月。新人好きの私に、発売当時の記憶がないのは、おそらく、コリン・デイヴィスと混同していたからだろう。ほんとに目立たない人だった。
 実はフランクの交響曲は、私の場合は、数年前に『レコード芸術』誌の名盤選の原稿を書く時に、手元にある十数種では納得が行くものが2枚しかなく、3枚目の選のために未知の演奏を探し求めて聴いたのが最初だ。(国内盤は廃盤だったが輸入CDがあった。)その時の原稿では「各主題、動機をくっきりと聴かせ、重苦しくない響きを確保しながら、充分な粘りある音楽のうねりを聴かせてくれる。感性と情熱の均衡のとれた演奏。」と表現したが、その印象は、今でも変わらない。ご承知のように、オルガンの名手でもあったフランクの交響曲は、その壮麗な響きの書法のベースに「オルガン」があるわけだが、アンドルーの指揮ぶりには、そのことへの深い理解があるようだ。前記の執筆時には知らなかったが、後日、アンドルーがオルガンを弾いたCDのあることを知り、アンドルーの演奏のベースにあるものを納得したのを憶えている。
 この時期のアンドルーの名盤としては、同じくニュー・フィルとのドヴォルザーク交響曲《第7》《第8》がある。これもまた、響きの澄んだ構成感のなかに歌が溢れた演奏だ。 アンドルーは、80年代にはトロント響の職を辞して故国イギリスでの仕事に専念するようになる。グラインドボーン音楽祭音楽監督、BBC響の首席指揮者に80年代末には相次いで就任。イギリスを代表する人気指揮者となる。
 イギリスは、音楽の楽しみを享受することにかけては世界でも有数の聴衆を抱えた国だ。そのことは、有名なプロムナード・コンサート(プロムス)の最終日の熱狂的な盛り上がりを聴けばよくわかる。小難しい理屈を並べて煙にまこうとしても、底の浅い音楽はすぐに聴衆に見破られてしまう。芯の部分が自然な、音楽の豊かさ、楽しさから発信されていなければ、ロンドンっ子は納得しない。加えて、スマートで、洒落ていて、時折ドキリとするユーモアにあふれていなければならない。
 今、それが出来る第一人者がアンドルー・デイヴィスだ。IMPから限定頒布された《Music and Speeches from the Proms》は歴代の「プロムス」最終日のスピーチ集だが、その最後のトラックにアンドルーのスピーチが収録されている。なかなか達者な役者ぶりが聴かれる。これだけのことがやれる人なのかと再認識したが、アンドルーの幅の広い音楽性は、英CARLTON:30367-00632で発売されているガーシュイン作品を収めたCDにも発揮されている。これはアンドルー・デイヴィス・アンド・フレンズと表記されたトロント・ラグタイム・アンサンブルの演奏で、アンドルーはここで、ピアノとハープシコードによる軽妙洒脱でウィットに富んだガーシュインを聴かせてくれる。
 このところ、テルデックでエルガー作品などイギリス音楽の秀演をいくつもリリースしているが、それにとどまらず、スタンドードなオーケストラ作品も、もっと聴いてみたいと思う。私は当日聴きもらしてしまったが、生きた音楽が豊かに息づいたすばらしいベルリオーズ《幻想交響曲》の演奏が、93年5月28日に東京の人見記念講堂で行われた。幸い放送録音が残され、英BBCの音楽雑誌の付録でCDが発売された。こんなに音楽を聴いていることそのものが楽しくなるような演奏には、最近はなかなか出会うことがない。


 ●アンドルー・デイヴィスを聴く3枚

○フランク:交響曲ニ短調/フィルハーモニアo.
[米CBS-ODYSSEY:MBK46276]1977年録音

○エルガー:《ミュージック・メイカーズ》他/BBCso., BBCcho.
[独TELDEC:4509-92374-2]1994年録音

○ベルリオーズ:幻想交響曲/BBCso.
[英BBC Music Magazine VOLⅡ-No.1:BBC-MM113]1993.5.28(東京・人見記念講堂ライヴ録音)




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