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ライブビューイング2018‐19の『連隊の娘』は、この作品の決定版。

2019年04月17日 15時02分54秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 ドニゼッティ『連隊の娘』を、今年のメトロポリタン歌劇場ライブビューイングで、先日鑑賞した。これは期待以上の仕上がりで、じつに幸福な気分になって帰宅した。

 

3月2日の公演を収録したもので、スタッフ、キャストは以下のとおり。

 

演出:ロラン・ペリー

指揮:エンリケ・マッツォーラ

マリー:プレティ・イェンデ(ソプラノ)

トニオ:ハヴィエル・カマレナ(テノール)

シュルピス:マウリッツィオ・ムラーロ(バスバリトン) ほか

 

 とにかく、こんなに愉快で楽しく、観終えてからしばらく、幸福な気分に浸れる『連隊の娘』は初めてだ。もともと、この作品は、セリフ交じりのコミック・オペラ的なフランス語劇だから、演出的に遊びの要素が入り込みやすいものではあるのだが、今回のロラン・ペリー演出は、さらに傑出した楽しさだった。

 ロラン・ペリーは、グラインドボーンでの『ヘンゼルとグレーテル』も、リヨンの『天国と地獄』も楽しかったが、どれにも共通しているのは、その子供のような屈託のなさだろう。マンガチックと言ってもいいような滑稽でポップな舞台は、この荒唐無稽で誇張に満ちた不思議なストーリーに、とてもよく似合っている。思えば、かのゼフィレッリが舞台美術を担当した2003年のスカラ座公演の映像でも、そのポップな舞台が現れていたのを思い出す。あのようなことが可能な作品なのだ。

 そして今回のMETライブビューイングは、指揮のマッツォーラが作り上げる音楽の流れが、また、じつに素晴らしい。のびやかなオーケストラの響きに導かれたマリー、トニオ、シュルピスの生き生きとして弾む歌声、舞台中を駆け回り飛び上がって歌う彼らの動きが、舞台のポップなイメージにとてもよく馴染んでいた。

 だが、何より私が感動したのは、先日(3月13日付の当ブログ)の『カルメン』で感じたパッチワーク的な継ぎはぎ感とは正反対の、ドニゼッティが目論んだ音楽的展開が見事に達成されていることだった。荒唐無稽なストーリー展開のすべてが、ひとつながりの音楽劇として、音楽的展開の中で完結しているのだ。だから、セリフ場面でも、決して音楽的な断絶がない。

 それを実現したマッツォーラの指揮の力量には、ほんとうに舌を巻いた。だからこそ、歌手たちが、あれほどに生き生きと弾んでいるのだ。彼らが、安心し切って歌っているのが、よく伝わってきた。歌だけでなく、ィェンデも、カマレナも、ムローラも、じつに達者な役者ぶりでもあった。私は、今回の公演映像を『連隊の娘』鑑賞での一押しとすることに、ためらいはない。1986年のサザーランド以来、30年を経て、ついに現れた決定版だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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カラブチェフスキー指揮フェニーチェ歌劇場の2001年東京公演『椿姫』の革新性は、当時、理解されなかった? 最近のヴェルディ演奏は脱トスカニーニ?

2019年04月06日 21時58分53秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 「ロイヤル・オペラ」での2019年の『椿姫』について書き終えたこの欄を読み返して、この日の印象によく似た映像があったような気がしてコレクション棚をじっと眺めて思い出したソフトがあった。2001年のフェニーチェ歌劇場の日本公演の記録映像である。「BUNKAMURA」での6月30日の収録で、パイオニアLDCから、DVDで発売されている。

 指揮は当時音楽監督だったカラブチェフスキー、ヴィオレッタをテオドシュウが歌っている。このDVDを観た際の感想を記した私のメモが解説書の裏に貼ってあった。まったくのメモ書きなのだが、今回のロイヤル・オペラの感想とそっくりなので我ながら驚いた。下記にそのまま転記する。

 

・音楽に芯がある

・恰幅のいい朗々と鳴る音楽

・流れがいい

・三人がしっかり組み合った充実した音楽が豊かで、彫りの深い表情の歌唱。

・近年のヴェルディ再考のさきがけ

 

 このメモ書きにある「近年」は、私が2、3年前からオペラを丁寧に聞き直し始めているので、その頃、マゼール盤と比較したくて聴いた際のことだと思う。

 いずれにしても、このDVDの仕上がりは、改めて観てみたが、確かに出色のものである。高く評価する人がほとんどいないようだが、もっと知られていいものだと思いながら、何気なく、初めてライナー・ノートの黒田恭一氏の解説を読んで、合点がいった。

 黒田氏のような旧世代の評者の理解を越えたスタイルで、斬新な『椿姫』が繰り広げられていたということだったのだ。多くのファンが、その言辞に惑わされてしまったということだと言ってしまっていいと思う。黒田氏の解説を引用しよう。

「カラブチェフスキーが指揮してきかせてくれる第1幕への前奏曲をきいて、びっくりなさる方は多いに違いない。トスカニーニ以降、といっていいと思うが、ヴェルディの音楽は、総じて速めのテンポで演奏されることが多い。」

 ここまで読んだ時、私は、マゼールの2種ある映像、つい先日のネゼ=セガンのテンポなどを思い出して、そちらの方向に話が行くものと思った。だから、この後の黒田氏の論の展開に、あぜんとした。

 「しかし、カラブチェフスキーは、あたかも時代が逆行したかと思われるような、ゆったりしたテンポで前奏曲を演奏している。近年、ほとんどどこでも耳にすることのなくなった、この先を急がず、思い切り甘美な旋律をうたわせた前奏曲の演奏は、古き佳き時代の、いわば伝統的なオペラを彷彿とさせるものである。」

 この黒田氏の、私から見れば「途方もない勘違い」は、さらにエスカレートしていく。

「旋律的な美しさをきわだたせようとするカラブチェフスキーの方法が前奏曲だけでとどまるはずもなく、全曲が叙情的な視点でとらえられて進展していく。このようなカラブチェフスキーの、いくぶん保守的といえなくもない流儀によった表現が、近年の、劇的な起伏をたっとんだ演奏になれた耳には平板に感じられたとしても不思議はなかった。」

 散々な物言いである。私が、「革新的」と捉え、その後、現在のスタイルへと移り変わってきたさきがけがカラブチェフスキーであるという見方と真逆である。もっと早くに、この記述に気づいていれば、生前の黒田氏とどこかで論争が出来たのに、と、感慨深いものがあった。

 もう半世紀以上も、さまざまな演奏を比較検討してきている私が、最近、ますます確信していることに、「偉大な作曲者は、いつも時代の数歩先を行き、優れた演奏者が50年ほど遅れてその作品の秘密に気づき、鑑賞者は、さらに50年遅れてその演奏の価値に気づくのではないか」というのがある。文化史でも言えることだが、「50年」は、世代が入れ替わる目安なのだ。その意味では、トスカニーニの影響は長すぎた、ということかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

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英国ロイヤル・オペラ・2019年「椿姫」の圧倒的な説得力

2019年04月05日 09時30分10秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

本日、4月5日から全国のTOHOシネマズ系で公開される『椿姫』は、歌手、指揮、演出がしっかりと組みあって、圧倒的な説得力で迫ってくる舞台を見せてくれた。先日、ネゼ=セガン/メトロポリタン歌劇場の新演出でライブ・ビューイングの『椿姫』を鑑賞したばかりだったが、今年は『椿姫』の当たり年である。スタッフ、キャストは以下のとおり。

 

演出:リチャード・エア

指揮:アントネッロ・マナコルダ

 

ヴィオレッタ:エルモネラ・ヤオ

アルフレード:チャールズ・カステロノボ

ジョルジュ・ジェロモン:プラシド・ドミンゴ

 

2019年1月30日公演の収録である。

 

ヤオのヴィオレッタは定評があるものと聞いていたが、これほどとは思わなかった。名演技・名唱で、途方もなく存在感・説得力がある。リチャード・エアの演出は、例の有名なショルティが、このコヴェントガーデン(ロイヤル・オペラ)で収録した公演以来のもので、もう25年間も続いている演出版である。その寸分違わぬ舞台を、ショルティの指揮で歌うアンジェラ・ゲオルギュウと思わずニ重写しにして鑑賞してしまった。

 私は、このゲオルギュウは、少々小うるさく聞こえて、決して好きではない。彼女の良さが、声、しぐさ共にぴたりとハマっているのは『愛の妙薬』だと思っている。あれはいい。

 そして、指揮のマナコルダ。これが、またいい。この指揮者、亡きアバドのマーラー・チェンバー・オーケストラ創設の協力者にしてコンサート・マスターだったというヴァイオリニストで、最近では、メンデルスゾーン『交響曲全集』の録音を完成したというが、これほど音楽がよく流れて、オーケストラを自在に歌わせられる指揮者だとは知らなかった。太いラインのタフな音楽に、細心の注意を払ってからみつく旋律を巧みに操る名人である。心理の変化・転換点に、とても敏感に反応する指揮ぶりには驚いた。ヴェルディの音楽のせわしない変わり目、入れ替わりが、見事に一息の大きな波となって、豊かに弧を描くのを聴いていると、自然にドラマの中に沈み込んで行くから不思議だ。じつにタフな音楽であり、これが、トスカニーニ以来の「せっかちなヴェルディ像」を豊かな地平へと広げ始めた最近のヴェルディ演奏の一つだと思った。

 やはり、ヴェルディは、先日も書いたように、音楽監督パッパーノが振らないほうがいい?

 アルフレードを歌ったカストロノボも、よく伸びる声で応えていてよかった。キャラクターも合っていると思う。だが、出色は父親ジェロモン役で登場したドミンゴの風情だ。ヴィオレッタを説得する場面も、謝罪する終幕も、私は、これほどに説得力のある父親像を聴いたことがなかった。さすが、年の功である。ドミンゴが、低くなった声に合わせてレパートリーを増やしてでも、いつまでも歌い続けられる幸せを感じていると最近言っていたことが、彼の本心から出た言葉なのだと、改めて素直に感動した。

 今年のロイヤル・オペラ『椿姫』は、歴史あるリチャード・エア版『椿姫』の決定版となるものと信じている。

 

 

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英国ロイヤル・オペラ・ハウス『スペードの女王』で納得できる、チャイコフスキー音楽集大成の凄み

2019年03月18日 10時45分20秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

先週、15日から、全国のTOHOシネマズ系で上映している2018/19シネマシーズンの作品を観てきました。ご報告が遅くなりましたが、これも見ごたえのある公演の映像でした。別のところでも書きましたが、やっぱりパッパーノはイタリア物やフランス物よりも、重厚なドイツ物、そしてロシア物のほうが、サウンドのまとめ方や音楽の鳴らし方が合っているように思いました。

 そういえば、パッパーノがEMIに録音した聖チェチリア音楽院管とのチャイコフスキーの後期3大交響曲も、思い切りのいい秀演でした。

 『スペードの女王』のスタッフ・キャストは以下の通り。当初の予定のゲルマン役アントネンコが急病で降板というアクシデントでの公演でした。

 

演出:ステファン・ヘアハイム

指揮:アントニオ・パッパーノ

ゲルマン:セルゲイ・ポリャコフ

エレツキー公爵:ウラディミール・ストヤノフ

エヴァ・マリア・ウエストブロック

伯爵夫人:フェリシティ・パーマー

 

 まずは、評価が高かったと聞くヘアハイムの演出。これに舌を巻いた。じつに納得の行く方向である。舞台上にチャイコフスキーが登場し、最後まで、舞台の他の人物たちにまとわりついてドラマが進む。ヘアハイムによれば、音楽誕生のきっかけとなる着想から解き明かし、作曲の過程を重視して具体化した結果だという。こうして、このオペラ世界のすべてが、作曲家の妄想の中にある、とする舞台が実現した。

 これは、オペラと呼ぶにはあまりにもシンフォニックで巨大なこの『スペードの女王』という音響世界を舞台に乗せる最良の方法かも知れない。例えば、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』もそうだ。「歌劇場」という物理的空間からはみ出してしまう世界を、どう表現するかは、最近、安易にCGで広げているものが多いが、そんな簡単なものではない。

 肝心の「音楽」だが、パッパーノが、この壮大な音楽、チャイコフスキーが自身の音楽の集大成を目論んでいたのではなかったかと私が思っていた『スペードの女王』の音響世界を、文字通り劇的でシンフォニックな音楽にまとめ上げていた。細部に聞こえる音楽の断片、ちりばめられた音楽の波動のコラージュが巨大な音響へと展開して行ったとき、不思議なノスタルジーを感じて、思わず感動してしまった。やはり、この音楽は、ドラマチック音楽の天才チャイコフスキーが心血を注いだ集大成のひとつなのだ。

 惜しむらくは、ゲルマン役の声量が今いちで突き抜けないことだったが、全体としては好演。先月だったか先々月だったかにNHKーBSで放映した『スペードの女王』でイライラさせられていただけに、改めて、演劇の国イギリスのオペラの底力を満喫した。

 

 

 

 

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期待を裏切られた2018-19METライブビューイングの『カルメン』、指揮者の力量に疑問

2019年03月13日 14時52分09秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

先日、もはやメトロポリタン・オペラの「定番」と言っていいリチャード・エア演出の『カルメン』が、今期はヨーロッパ各地で好評のクレモンティーヌ・マルゲーヌのカルメン役で上演され、その2月2日公演が、さっそくライブビューイングで上映されている。私は今週の月曜日3月11日に鑑賞した。スタッフ・キャストは以下の通り。

 

演出:リチャード・エア

指揮・ルイ・ラングレ

 

カルメン:クレモンティーヌ・マルゲーヌ(メゾソプラノ)

ドン・ホセ:ロベルト・アラーニャ(テノール)

ミカエラ:アレクサンドラ・クルジャック(ソプラノ)

エスカミーリョ:アレクサンダー・ヴィノグラドフ(バス)ほか

 

 歌手は、それぞれ、それなりに好演だったと思う。ところが、全体の印象というと、これがいけない。各々が個人プレイが突出していて、オーケストラの動きに溶け合わないのだ。と、いうより、オーケストラの響きが、歌手を大きく包み込んで舞台を動かすという感じがないので、とにかく、音楽がバラけて聞こえ、アンサンブルとしてまとまっていない。要するに、集中力がないのだ。ベテラン、アラーニャのドン・ホセを中心に、カルメン、ミカエラ、エスカミーリョそれぞれをあいてに二重唱あとまりはいいのだが、それがアンサンブルとして集中した高揚感が生まれてこない。これは不思議な感覚だ。メトの公演の収録映像で、これほどイライラしながら見たのは、ほんとうに久しぶりだ。

 ルイ・ラングレの指揮ぶりに原因があるのだと思う。各幕の前奏曲など、丁寧なのはいいのだが、音楽のラインがレントゲン写真のように骨格が透けて見える鳴り方で、アリア的な部分からレチタティーボ旋律に別のメロディラインでドラマを煽るところに移るあたりで音楽的につながらず、ブツンブツンと途切れてしまう。ビゼーのメロディラインを大きく動かしてゆくドラマチックな逞しさが消えてしまっているというか、全員でひとつのものに向かっていくといったまとまりが、聴こえてこないのだ。少なくとも、一昨日、鑑賞した限りでは、そうとしか感じられなかった。これは、来年、WOWWOWでの放送をチェックして、確認しなくてはならない。ルイ・ラングレの音楽づくりは、一昨日、東劇での上映を1回だけ鑑賞した限りでは、きちんとしていて、きれいに整理整頓された音楽によって、全体のバラバラ感が際立ってしまったように思う。

 翌日、同じ演出のメトでの2009年公演(ネゼ=セガン指揮、ガランチャのカルメン、アラーニャのドン・ホセ)の推進力に溢れた音楽を再確認し、併せて、2014年公演のディスクも再生して観た。

 2014年はラチヴェリシュヴィリのカルメン、アントネンコのドン・ホセで、指揮はエラス=カサドだ。これも、まったく同じ舞台だが、音楽の印象はまったく異なる。こちらは、ラングレを聴いた翌日の印象では、かなり散らかった音楽といった感じなのだが、ビゼーの音楽の芯は野太く響き、大きく動いて鳴っていた。

 そこで、にわかに気になってきたのが、同じビゼーのオペラでも、『真珠採り』と異なる『カルメン』の成立までの事情だった。

 『カルメン』はメロディを付与されていない多くのセリフ場面を含む「オペラ・コミック」として初演され、それらのセリフに音符を付してレチタティーボ化をする途中でビゼーが没しているということだ。引き継いで完成させたのはビゼーの友人ギローだ。アルルの女第2組曲をまとめたことでも名が残っている。私の手元に1950年にアンドレ・クリュイタンス指揮パリ・オペラ・コミック座による録音があって、1970年頃から、私のレコード・コレクションになっているものがあるが、それも引っ張り出して聴いてみた。

 うまく表現できないが、『カルメン』には、どこか、音楽的に「継ぎはぎ」のようなところがあって、それを補って余りあるほどの劇性が内包された音楽なのではないかということだ。

 これはまた、「音盤派」を自任する私としては、ラングレ指揮の公演の放送を待ってエアチェックし、何十回もくり返し比較鑑賞しなければ、ほんとのところはわからないということかも知れないと思った。

 

 

 

 

 

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METライブビューイング2018‐19の『アドリアーナ・ルクヴルール』に大感動! これは凄い!

2019年03月01日 15時06分41秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 2月22日の上映初日に鑑賞したのだが、またしても、ここに感想をUPするのが遅くなってしまった。昨日、いったん、ほとんどの館は上映が終了したが、東京・東銀座の「東劇」だけはもう一週、3月7日まで上映されている。いずれ、8月ごろにアンコール上映が、そして、「WOWWOW」での放映が来年にはあると思うが、東京周辺にお住まいの方は、時間をやりくりしてでも鑑賞することをお勧めする。それほどに、久しぶりの「大収穫」だった。

 チレアは、今日、ひんぱんに上演されるオペラは、この『アドリアーナ・ルクヴルール』しか残さなかった。とても丁寧な作曲をする職人肌の作曲家で、その凝りに凝った仕上がりは、じつに見事だ。これ一作で精魂尽き果てたとしてもおかしくないほどの力作で、完成度が高い。「まぐれ当たりの一発屋か」などとタカをくくっていると後悔する。「ヴェリズモ・オペラ」の系列に組み込まれているが、私は、そうした括りから大きくはみ出して、20世紀初頭のグランドオペラ黄金時代の最後を飾る傑作のひとつとして、『トゥーランドット』と並ぶ傑作ではないかと思っている。優美で甘美な旋律、にぎやかで楽しい旋律、ダイナミックで劇的な旋律、それらが巧みに配置されたゴージャスな響きが堪能できる。

 ライブビューイングは、2019年1月12日、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演された舞台を収録したもので、スタッフ、キャストは以下のとおり。

 

演出:デイヴィット・マクヴィカー

指揮:ジャナンドレア・ノセダ

アドリアーナ・ルクヴルール:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ)

マウリツィオ:ピョートル・ペチャワ(テノール)

ミショネ:アンブロージョ・マエストリ(バリトン)

ブイヨン公爵:マウリツィオ・ムラーロ(バス・バリトン)ほか

 

 私は、このオペラは1980年代の終わりにミラノ・スカラ座で上演されたプロダクションのレーザー・ディスクで観たのが最初だ。ミレルラ・フレーニがタイトルロールのものだが、音楽的な意味で「すごい曲だな」と舌を巻いたのは、レナータ・スコットがレヴァインの指揮で、ロンドンでスタジオ録音された2枚組CDである。今回のメトは、ノセダの指揮で、オーケストラの緻密さ・繊細さ・ゴージャスさは、何一つ不満がなかった。ノセダは、オケの煽り方が、じつにうまい。それに応えるオケも、よく鳴っている。私は、10年ほど前から、オペラ・ハウスのオーケストラで、一番充実した艶のある響きを持ったオケだと思っている。つまり、「ウィーン・フィル以上だ」と思っているのだが、どうだろう。

 幕間のインタビューで、ラジオ中継のディレクター氏が、メトで歌った歴代のルクヴルール役について語っていたが、さすがだ。ティバルディ、カバリエ、フレーニ、そして、スコットである。今回、このキラ星かがやく系譜にネトレプコが加わったというわけである。

 このネトレプコはよかった。彼女に合った役柄なのだ。もちろん、フレーニとはまったく違うキャラ立ちだが、公妃役が、あのラチヴェリシュヴィリだから、正に、四つに組んでの大相撲。有名な第2幕ラストの二重唱での激突は見ものである。

 私は、本質的にはフレーニの可憐さ儚さが好みなのだとは思う。だから、時折聞かれるネトレプコの重い声で吠えるように発せられる歌が気にならなくはないのだが、それでも、彼女の存在感、迫力は、とてつもなく説得力がある。演出も、ネトレプコありの流れで、太く逞しい。これからしばらくは、このスタイルがスタンダードになるかも知れないし、メトでもおそらく、早々に再演されるだろうと思う。忘れてはならないのが、ルクヴルールを娘のように慈しむ舞台監督ミショネの、哀感に満ちた役回りの巧みな配置だ。このペーソスは美しい。このオペラ世界全体が、豊かに肉づけされている。

 久しぶりに、映像付きのオペラの醍醐味を味わった。

 

 

 

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メトロポリタン歌劇場、〈ネゼ=セガン時代〉の幕開けを感じさせた『椿姫』

2019年02月22日 14時55分09秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

このところ、音楽以外の仕事ですっかり時間を取られてしまっていたので、数年前から将来を期待していたネゼ=セガンが、メトロポリタン歌劇場の音楽監督に抜擢されて最初のシーズンが始まっているというのに、ゆっくりと書いていられない状況が続いている。先日ブログupした「ワレフスカ・プレミアム・リサイタル」の推薦文を仕上げるのがやっとだったが、私の書いているものを以前から読んでくださっている方なら、そこで語った演奏史における「ネオ・ロマンティシズム」という言い回しと、このところ私がこだわっている「劇場指揮者の時代」というキーワードとの関連に気づいていただけたと思う。

 ネゼ=セガンの音楽の〈生き物のような動き〉は、正に、考え抜かれた音楽の成果が「音楽の生まれる現場」で〈生体反応〉した結果なのだ。詳細に書いている時間がないので申し訳ないが、先日の「METライブビューイング」で鑑賞した、〈新音楽監督ネゼ=セガン〉の指揮するヴェルディ『椿姫』は素晴らしい出来だった。ヒロインはディアナ・ダムロウ。アルフレードにファン・ディエゴ・フローレスを配した新演出版である。大胆な読み替えが話題になったことのあるマイケル・メイヤーの演出だが、意外にオーソドックスな色調で重厚な舞台でありながら、ストーリー展開上の各人物の出入りや距離感がすっきりとしたわかりやすくスマートな流れにまとめられた今回の演出は、「椿姫」の舞台として、しばらくのあいだ定着するものになるだろう。

 幕間に流れたダムロウらとネゼ=セガンとのリハーサルでのやり取りにも現れていたが、この「椿姫」は、おそろしく丁寧な進行の音楽となって提示されていた。それは、細心の注意を払って開始される第一幕の序奏からして、それを予感させた。

 ヴェルディの音楽の特徴でもある、せっかちな転換では、そうした音楽的な切れ目をことさら鮮明にして、ひとつひとつピン留めするようなネゼ=セガンの指揮に、ダムロウもフローレスもピタリと随いてゆく。だからこその、幕切れに向かっていくヴィオレッタの心の浄化が、音楽として息づいてくるのだ。最初と最後の幕との前奏曲の響きの違いが、これほど鮮明に描き分けられて聞こえたこともなかった。意図の明確な若き音楽監督のオーケストラ・ドライブに、ベテラン歌手が全力で向かった秀演だった。今後のメトに期待している。

――というわけで、相変わらず多忙を極めているのだが、これから「METライブビューイング」に出かける。本日が初日の「アドリアーナ・ルクヴルール」。デイヴィット・マクヴィカーによる新演出、アンナ・ネトレプコのタイトルロールだが、さて、私の愛聴ソフト、ミレルラ・フレーニのスカラ盤(LD)や、レナータ・スコットがレヴァインと録音したCDに、どこまで迫れるか? 指揮はこのところ快調のジャナンドレア・ノセダである。ネトレプコに関しては、私は、このところ、やや「?」が点灯中。ちょっと強引かなァ、と思うことがあるのだが。

 

 

 

 

 

 

 

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まもなく上映されるロイヤル・オペラ・ハウス『ラ・バヤデール』を2014年マリインスキー劇場と比較して

2019年01月10日 22時29分58秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

「ロイヤル・オペラ・ハウス/シネマシーズン 201819」の第3弾が118(金曜日)に東宝シネマズ系の全国映画館で封切りとなる。演目は昨年1113日のバレエ公演『ラ・バヤデール』である。先日、昨日、いち早く鑑賞して思うところがいくつかあったのでご報告する。

 『ラ・バヤデール』は、『ドン・キホーテ』と並んで、レオン・ミンクスが作曲したバレエ音楽としてでは名高い作品だが、正直なところ、音楽だけを聴いているといささか退屈な、工夫の乏しい音楽なので、私もバレエ付きの映像でしか聴いたことのない音楽である。今回と同じコヴェントガーデン(英国ロイヤルオペラ)の公演の2009年公演(確か、NHKが放送していたように思う)の映像DVDが市販されているが、私はWOWWOWで何度か放送もしているマリインスキー劇場の2014年公演の映像が気に入っていた。

 マリインスキーのものは、初演されて以来のマリウス・プティパの振付を再現したもの、ということになっているが、初演が日本でいうと明治時代の初期に行われたのだから、もちろん映像があるわけではなく、紙の上での記録と語り継がれてきた記憶を繋ぎ合わせたものということになる。ロシア帝室バレエの基礎を切り開いたプティパの依頼で作曲された作品で、もちろん初演はロシアのマリインスキー劇場である。

『ラ・バヤデール』は当時のオリエンタリズムが横溢した作品で、いささか怪しげな古代インドが舞台となっている物語。この作品が、パリやロンドンで知られるようになるまでにはかなりの年月がかかったらしいが、ひょっとすると、むしろ日本のほうが、早かったかも知れない。何しろ、大正時代には日本海を渡って舞鶴港経由で京都、大阪方面にロシアの最新の芸術、文化動向が伝わってきていたのだから。そういえば、「インド舞踊」などのオリエンタルな動作が日本のレビュウなど舞踊界に入ってきたのは、いつごろからなのだろう。

 それはともかくとして、『バヤデール』の一番の見どころは、何といっても「第2幕」の幻想場面だろう。今回のロイヤル・オペラの公演映像でも、そこは、マリインスキーの公演とほとんど変わっていない。じつは、バレエ・ファンならご存知の方も多いことだが、ロイヤル・バレエのものは、30年ほど前の1989年に初演されたナタリア・マカロワ版である。ナタリア・マカロワはロシア(当時のソ連)から亡命してきたバレリーナ。彼女が自分の学んだ「伝プティパ」の振付を元に改作したものなのだ。今ではこれが、ロイヤル・バレエでの定番として根付いているというわけである。

 じつは、今回のロイヤルの公演を見始めて、第1幕では少々、辟易してしまったというのが正直な感想だ。もともとプティパの時代以来の「マイム」をバレエのつなぎにしてストーリーを説明する手法が、最近になって否定される傾向が出てきているようだが、マカロワ版は、むしろ、そうした小芝居の付け足しが目立つ振付だ。要するに「饒舌」なのだ。好意的に見れば、彼女は、この三角関係を描いた物語の底流になっている愛憎劇を、しっかりと描きたかったということなのだろう。

 だが、私としては、伝プティパのマリインスキー版第1幕での、上手(かみて)と下手(しもて)それぞれのグループの入退場の処理などの様式美や、思わずオペラ『サムソンとデリラ』や『ノルマ』の生贄を囲む祭礼場面を思い出してしまった円陣を組んでの踊りの完成度の高さなど、「これぞ古典」と唸らせるものだった。

 第1幕は、そんなわけで興ざめだったのだが、第2幕での見事に完成された群舞の幻想美に、伝プティパの美しさと寸分違わぬマカロワ版の美しさを発揮して、いよいよ最終幕。ここで、マカロワ演出の愛憎劇の意味が、しっかりと伝わってきて納得した。そして幕切れに来て、これはマリインスキー劇場の2014年公演映像を越えた感動のクライマックスだと思うに至った。記憶が不確かなので申し訳ないが、今回の公演は、以前のものとライティングなどは、より高度になっているように思うが、どうだろう。技術や機材がどんどん進化しているから、それもありうることかと思う。もちろん、衣装は、以前のものを踏襲しているのだが。

 いずれにしても、私は、ナタリア・マカロワという伝説的なバレリーナが、亡命してまで必死に守り、伝えたかったものの大きさを改めて知った。老境に達してきた彼女だが、今回の公演でも、まだ、若い踊り手たちを熱心に指導し続けたという。カーテンコールで、主演のプリンシパルに招き入れられて舞台袖から登場したマカロワの姿に、思わず私も心の中で惜しみない拍手を送った。

 

 

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ワーグナー『ワルキューレ』上演史についての私的覚書

2018年12月18日 15時09分10秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 

二年ほど前から縁あって、あるサークルで「映像ソフト」によるオペラ鑑賞会での解説を数か月置きにしている。既に10作品ほど、解説書の文章を執筆しているが、その中に『ワルキューレ』もあるので、先日の補足を兼ねてここに抜粋して掲載する。

冒頭からの大半は、老練なオペラ・ファンの方々にとっては自明のこととは思うが、文の構成上、残しておいた。後半の「上演史」あたりからは、このブログの読者の方々にとってもご興味を持っていただけると思う。この部分は、『ワルキューレ』という作品の特異性から「上演史」となったもので、通常は「音盤派」を自認している私の立場から「音盤史」としているものだ。これを機会に、今後、順次、他の演目への執筆分も掲載してゆく予定だ。

 

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§『ワルキューレ』の特異性

『ワルキューレ』は、歌劇の大改革を目指していたワーグナーが、自ら「楽劇」と名付けた新形式の音楽劇の集大成として完成した「一大叙事詩、四部作」の一角を占める作品。ドイツや北欧で古くから語り継がれている神話的な内容の物語をもとにワーグナー自らが台本を書き上げたもので、四部作全体は『ニーベルングの指環』と名付けられた。『ラインの黄金(序夜)』『ワルキューレ(第1夜)』『ジークフリート(第2夜)』『神々の黄昏(第3夜)』という3時間、4時間を要する4つの楽劇を、4日間にわたって続けて鑑賞することを原則とする壮大な作品だが、それぞれを独立した作品として鑑賞することも可能なので、しばしば単独での上演もされている。中でも『ワルキューレ』は人気が高く、4作の中で上演回数も録音・録画ソフトの数も、ともに最多で全ワーグナー作品の中でも1、2を争う人気作品である。

 しかし、単独での鑑賞が可能であるとはいえ、作品の成立過程を見ればわかるように、ワーグナー自身が第4作から遡るようにして四部作としてしまったことにも象徴される「因縁譚」であり、複雑に絡み合った「いきさつ」への理解が求められる作品であることは否定できない。そのため、今回の作品解説にあたっても、その点を十分に配慮した。直接的なストーリー展開よりも、それらの背景にあるものの方が重要なのである。

 『ワルキューレ』という作品は、壮大な構想の作品でありながら、その世界は極めてシンプルな構成の作品とみることもできる。それは、当時あたりまえのように組み込まれていた「合唱」の場面がないこともそうだが、いたるところで長い「二重唱」場面が多用され、「室内オペラ」のような趣きを持たせていることを指摘すれば十分だろう。『ワルキューレ』は対話劇であり、問答劇なのである。だが、楽器編成からもわかるように、仕上がった「音響」「演奏時間」は、当時の常識を大きく超える巨大・長大なものとなった。


§物語の発端から『ワルキューレ』の物語に至るまで

 『ワルキューレ』を理解するには、四部作の第1作『ラインの黄金』で明かされる「指環」の秘密を、まず知っておかなくてはならない。愛を断念した者だけが、ライン川の川底に眠る黄金から〈世界を支配する指環〉を作ることができるというものだ。それを知った小人族=ニーベルング族のアルベルヒは、愛することを捨て去り、ラインの黄金を奪って逃走するが、神々の中の王として君臨しているヴォータンが、自分たちのための壮大なワルハラ城建設を請け負った巨人族の兄弟に支払う報酬として、アルベルヒが指環の力で集めた財宝を横取りして渡そうとしたことから、話がねじれていく。指環と財宝を奪い取られたアルベルヒは指環に呪いをかけるが、指環を巡って巨人族の兄弟が殺し合いを始めるのを目の当たりにして、大神ヴォータンは指環に恐ろしい呪いがかけられていることを知る。これが、ワーグナーが描いた「愛」と「欲望」の相克であり、愛を捨てた「支配欲」「権力欲」が世界を滅亡させるという思想の表明である。

 このままでは、やがて神々に終焉の日が訪れてしまうと恐れたヴォータンは、知恵の女神エルダとの間に娘ブリュンヒルデをもうけ、他の女神たちとの間に生まれた8姉妹とともに、勇敢な死を遂げた英雄を戦場から連れ帰る女性戦士「ワルキューレ」たちの軍団を組織し、一方で、指環を取り戻すために下界を自由に動ける人間の双子兄妹ジークムントとジークリンデを作る。


§『ワルキューレ』のあらすじ

 『ワルキューレ』の幕が上がると、舞台は嵐の夜である。ヴェルズング族の青年ジークムントが、戦いで傷ついた体をかばいながら森の中を逃げてたどり着いたのは、敵対するナイディング族のフンディングとその妻ジークリンデが住む家だった。ここで、お互いに兄妹とは知らずに出会ったジークムントとジークリンデの二人が愛し合い、逃避行に至るのが第1幕である。

 ご承知の方も多いかと思うが、『ワルキューレ』のレコード・CDには、昔から、この『第1幕全曲』というアルバムが多かった。また『第3幕全曲』とするアルバムや第3幕の『ヴォータンの告別と魔の炎の音楽』を収めたアルバムも多かった。いずれも、音楽的な流れとしてまとまった魅力があるからで、いつも『第2幕』は軽んじられていた。しかし、次の『第2幕』こそが、ストーリーの展開では重要な転換点を成す部分なのである。

 続く第2幕。神々の長であるヴォータンは、たとえ妻を寝取られたフンディングとの戦いであっても、息子ジークムントを英雄にしたい。しかし結婚の女神である妻フリッカの〈正論〉に言い負かされ、ブリュンヒルデにジークムントへの肩入れを禁じたヴォータンだった。だが、近親相姦とはいえ兄妹の真実の愛に打たれたブリュンヒルデが、父ヴォータンの命に背いたところで第2幕は終わる。

 第3幕は「自分の行動は恥ずべきことですか」と迫るブリュンヒルデの訴えと、それを「許すことは出来ない」と言わざるを得ないヴォータンの苦悩が中心となる。フンディングとジークムントとの決闘に於いて、自分の命令に背きジークムントに加勢したブリュンヒルデを罰さなければならないヴォータンは、彼女を岩山の頂きに眠らせ、その周囲を炎で覆い尽くすことにする。この炎を越えてきた真の英雄だけが、ブリュンヒルデをその眠りから目覚めさせることができると宣言。ヴォータンの告別の歌が張り裂けそうに響き、幕となる。


§『ワルキューレ』理解のためのキーワード

(1) 「示導動機(=ライトモチーフ)」

ワーグナーは、従来の「アリアとレチタティーボ」という言わば「歌とセリフ」が交錯する音楽の流れで成り立っている「歌劇」に一貫性を持たせる方法として、「示導動機(ライトモチーフ)」という概念を持ち込んだ。特徴的な旋律断片が、特定の登場人物、場面、事物、想念を象徴して使用され、オーケストラが深くかかわって劇の進展に寄与し、変化しながら繰り返される。そして、ひとつの幕を通じて音楽は途切れることなく続き、個々の独立した歌がない。これをワーグナーは「楽劇」と名付けた。声による「歌」ではなく、オーケストラと一体化した多様な表現の真価が問われるのである。

(2) 「トネリコの木」と「ノートゥング」

第1幕に登場する「トネリコの木」には、未だに誰にも引き抜かれたことがない一本の剣が刺さっている。それはヴォータンがジークムントのために用意しておいたもの。ジークムントが見事にこの剣を引き抜き「ノートゥング(=苦難)」と名付ける。その瞬間にオーケストラで鳴り渡るメロディは「ノートゥング」を表すライトモチーフである。

(3ワルキューレ」

劇のタイトルともなっている「ワルキューレ」とは、ヴォータンが本妻フリッカとは別の何人かの女神との間にもうけた9人の娘たちのこと。羽根つきの鉄兜、槍、盾を装備した兵士で、その仕事は「戦場で勇敢な死を遂げた人間」を神の居城ワルハラに連れ帰ることである。やがて起こるはずの「指環」争奪をめぐる戦いに備えるというヴォータンの遠大な計画の一環である。9人のワルキューレたちの筆頭がブリュンヒルデ。彼女は、『ニーベルングの指環』全編を通じたヒロインともいえる存在である。

(4)「神話の中の近親相姦」

親子や兄弟姉妹との肉体関係を意味するいわゆる「近親相姦」は、獣性への逆戻りとして古くからタブー視されている行為だが、エジプト神話やギリシア神話、そして日本神話に於いてもしばしば、それらしき記述が見受けられる。そうした神々には許される行為、言わば「神話的特権」を与えられた兄妹がジークムントとジークリンデの二人であるというのが、この『ニーベルングの指環』に流れる「英雄性」を高めていると見ることができる。

 そうした価値観は、じつは『ワルキューレ』に続く楽劇『ジークフリート』では、ヴォータンから見てその娘であるブリュンヒルデと、同じく娘であるジークリンデから生まれた息子ジークフリートという伯母と甥との関係へも進展していくのである。もちろん、そうなってゆく背景には、ヴォータン自身も、大勢の妻を持つ「神話的特権」の持ち主だということがある。

(5)「バイロイト祝祭劇場」「バイロイト音楽祭」

「バイロイト祝祭劇場」は、ワーグナー信奉者だったバイエルン王ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが自身の作品を上演する理想の劇場として、現在のバイエルン州の小都市バイロイトに建設された。ワーグナー作品の理想的な音響を実現できるように設計され、同劇場竣工後の作品では、その舞台の寸法に合わせて、歩く時間まで計測して作品が書かれたともいわれている。1872年に着工し1876年に竣工。最初の演目が『ニーベルングの指環』全四部作だった。

 この建物は現存しており、今でも毎年、7月末から8月末までの約1ヵ月間、ワーグナー作品だけを上演する「バイロイト音楽祭」が開催されている。しかもワーグナーの死後、代々ワーグナーの子孫が運営を引き継いで現在に至っているので、ここで行われるワーグナー作品の新演出が常に話題になるという状況が、事の是非はともかくとして、1950年代からずっと続いている。


§『ワルキューレ』の上演史と「バイロイト音楽祭」

 『ワルキューレ』は1870年の単独初演の後、『ニーベルングの指環』四部作の第2作としての連続公演による初演を、1876年にようやく迎えることができた。この年に竣工したバイロイト祝祭劇場で行われた「第1回バイロイト音楽祭」の演目だった。この公演には資金提供者でもあった当地バイエルン王ルードヴィッヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世などの国賓をはじめ、リスト、ブルックナー、チャイコフスキーなど著名な音楽家が招待され、観客も多数来場して賑わったが大赤字だったといわれている。そのため、第2回は延期され1882年まで開催されなかった。翌年にはワーグナーが世を去っている。第2回が行われた1882年以降、多少の休催を挟みながらも継続していた音楽祭だが、第一次世界大戦の影響により、ちょうど日本の大正期にあたる1915年から1923年までは開催されていない (現在のように毎年『指環』全四夜が上演されているわけではなく、全四夜の再演は1896年のことだった)。

 再開後の1930年に画期的な出来事が起こった。ミラノ・スカラ座で評価の高かった指揮者トスカニーニの招聘である。ドイツ人以外の指揮者がバイロイトに初めて呼ばれた。ワーグナーの息子ジークフリート・ワーグナーと、その妻ウィニフレッドの尽力によるものだった(ただ、この年にジークフリートは世を去ってしまった)。トスカニーニは若き日にヴェルディの薫陶を受け、プッチーニとも親交のあった20世紀を代表する偉大な指揮者のひとりだが、バイロイトへの登場はヒットラーのナチス政権の台頭を嫌って2年間だけで終了、以前から関係のあったニューヨークへと渡ってしまった。

 私は、いわゆる「バイロイト詣で」をするワーグナー信奉者ではないので、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がワーグナー演奏の世界標準となっていると見ているが、そうした方向へと向かっていった背景には、このトスカニーニの渡米が大きく関わっていると考えている。トスカニーニのワーグナー演奏の特質は同時期のドイツ系指揮者とかなり肌合いが違うことが、残された古い断片的な録音を聴いているだけでもわかる。トスカニーニによるメロディラインがくっきりと聞こえてくるクリアなワーグナー音楽は、ドイツ系の指揮者の重厚なサウンドとは、かなり趣が異なるのだ。これは、戦前のメトロポリタン歌劇場でのライヴ放送収録の全曲録音でも、ボダンツキー指揮の『神々の黄昏』(1936年)やラインスドルフ指揮の『ワルキューレ』(1940年)で確認することができる。

 トスカニーニが去った後、バイロイト音楽祭は、熱烈なワーグナー・ファンだったヒットラーによる擁護によって終戦直前の1944年まで続けられたが、そのことから第二次世界大戦後には、ユダヤ系音楽家のワーグナー演奏拒否が長く続くこととなる。この問題が根本的に解決したのは、つい最近のことと言ってよい。

 第二次世界大戦中にヒットラー政権との蜜月時代を続けた責任者は、ジークフリート・ワーグナーの未亡人ウィニフレッドだった。彼女を追放して1951年、戦後初のバイロイト音楽祭が開催された。中心となったのが、ワーグナーの孫にあたるヴィーラント・ワーグナーヴォルフガング・ワーグナーの兄弟である。

 ヴィーラントによって再開された戦後初の『指環』は、深刻な資金不足もあって極めて簡素なセットによる暗示的な舞台演出だったが、その「空っぽ」の舞台の斬新さがかえって前衛的と評価された。これが「新バイロイト様式」である。ハンブルク国立歌劇場の音楽監督ヨーゼフ・カイルベルトが指揮をし、その後1955年まで指揮をして録音も残されている。この簡素な舞台を、カラヤンは否定して自身の演出舞台を1967年のザルツブルク音楽祭旗揚げ公演で実践したが、その映像化の実現を待たずに世を去ってしまった。50周年を記念する2017年ザルツブルク音楽祭では。ティーレマン指揮ドレスデン歌劇場のプロダクションで、そのカラヤン演出の『ワルキューレ』が再現され、NHKでも放送されたが、この指揮者特有の上滑りな音楽が空回りするばかりで、音楽的には物足りないものだった。

 カイルベルトの後1950年代後半はクナッパーツブッシュが『指環』の指揮を数年続けたが、60年代にはカール・ベームが担当。どちらもライヴ録音のレコードが残されている。

 その後『指環』四部作を中心としたワーグナー作品の公演は、ヴィーラントとヴォルフガングによる演出が、しばらくの間は交代で行われて「新バイロイト様式」が定着したが、1966年にヴィーラントが世を去って以降、運営面でその遺族とヴォルフガングとの対立が次第に表面化、結局、同族経営の問題点が指摘され、1973年にドイツ連邦政府、バイエルン州政府主導でワーグナー家も加わった「ワーグナー財団」が設立されて今日に至っている。

 財団化以降も総監督の座に留まったヴォルフガングによって1976年、ピエール・ブーレーズ指揮パトリス・シェロー演出による『指環』公演が行われ、その斬新な「読み替え」で物議を醸したのは有名な出来事である。その後、改訂が毎年施され1980年の公演映像はレーザーディスクが発売され、その後DVD化されて今でも鑑賞することができる。音楽的には精緻で清澄な響きの優れた演奏だが、読み替えによる現代劇的要素を持たせた演出の斬新さには抵抗がある。

 その後では、メトロポリタンのジェームズ・レヴァイン、ベルリン・ドイツ・オペラのダニエル・バレンボイム、バイエルン歌劇場のキリル・ペトレンコなどが印象に残るバイロイト音楽祭の指揮者だが、最近はドレスデン歌劇場のクリスティアン・ティーレマンが中心的存在となっているようだ。 

 バレンボイム指揮ハリー・クプファー演出など、現代社会の政治状況を投影する手法も多くなっていった。ある意味でそれは、争いを繰り返し、絶えず国境線が書き換えられたヨーロッパの歴史を踏まえてワーグナーが作曲した思いを具体化する作業であると見ることもできるが、そうした現代演出は、ワルキューレたちの行動が戦場からの死体運搬そのものに見えたり、遺体安置所のようだとする批判も強い。

 現在は、2009年の総監督ヴォルフガング引退の後を継いだ二人の娘、カタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナーという異母姉妹の抗争も起こって、主導権争いからカタリーナ自身の演出家デビューが行われたりしているが、1980年代以降、「バイロイト音楽祭」の動向は〈聖地バイロイト〉に留まらず、ヨーロッパの多くの歌劇場に影響を与えるようになった。〈聖地〉でのワーグナー作品の大胆な読み替えによって〈タブー〉がなくなったということだ。1989年の映像が残されたバイエルン歌劇場のサヴァリッシュ指揮レーンホフ演出はその好例だが、1999年のオランダ・ネーデルランド・オペラのプロダクションによるハルトムート・ヘンシェン指揮ピエルレ・アウディ演出などは、その奇妙な抽象性に思わず首を傾げてしまう。こうした傾向は今でもヨーロッパの各地に根強く残っているようだ。

 1990年代に至っても伝統的なスタイルでの上演を行っていたのがニューヨークのメトロポリタン歌劇場である。ウィーン出身のオットー・シェンク演出によるものだが、ここも、数年前には新演出に代わった。新演出に代わる前のオットー・シェンク版は1988年にジェームズ・レヴァインがメトロポリタン歌劇場で行った公演の記録が、いち早くレーザーディスクで発売され、現在もDVDで入手可能である。オーソドックスで具象的な(すなわち、「森」も「山」も普通に登場する)オットー・シェンク演出は、初めての鑑賞には最適であるとともに、1980年代からバイロイトに度々登場しているレヴァインの指揮する音楽が、ジェシー・ノーマンの名唱もあって、豊かな表情でワーグナーの世界を聴かせる演奏となっている。

 一方、話題の「シルク・ド。ソレイユ」での演出で注目を浴びたロベール・ルパージュ演出のメトロポリタンの最新版は「ライヴヴューイング」で全世界に放映された。日本でも映画館での放映後、テレビで何度も放送されたので、ご覧になった方も多いと思うが、オーソドックスな意味での『指環』の神話的世界観は確保されているものだ。この演出版は、「四部作」通し上演ではないが、今期、「ワルキューレ」のみの上演が行われ、「ライブビューイング」上映が5月に予定されている。


§『ワルキューレ』の音盤史

 今回の解説では、「上演史」の大半が、そのまま「音盤史」となった感がある。文中の太字の指揮者、演出家と録音・録画年で検索していただければ、現在でも比較的容易に入手できるはずである。このほか、レコード史に残るものとしてゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニーによる英DECCAの『指環』四部作CDが世界で初めて発売されたステレオ録音として金字塔的存在である。また、独オイロディスクのヤノフスキ指揮ドレスデン歌劇場の録音は、四部作初のデジタル録音である。



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英国ロイヤル・オペラ・ハウス、2018/19『ワルキューレ』でパッパーノが真価を発揮

2018年12月16日 23時03分13秒 | オペラ(歌劇)をめぐって
 
 
 
「英国ロイヤル・オペラ・ハウス」シネマシーズンの今期2018/19は、バレエはロイヤルバレエの定番となった『マイヤーリング(うたかたの恋)』で幕を明けたが、オペラはワーグナー『ワルキューレ』である。年明け早々の1月11日(金)から、全国の東宝東和系の指定館で全国上映されるが、先日、12月14日にいち早く鑑賞する機会を得たので、そのご報告をしよう。
 10月28日上演の映像記録で、スタッフ、キャストは以下の通りである。
【演出】キース・ウォーナー
【指揮】アントニオ・パッパーノ
【出演】スチュアート・スケルトン(ジークムント)
    エミリー・マギー(ジークリンデ)
    ジョン・ランドグレン(ヴォータン)
    ニーナ・ステンメ(ブリュンヒルデ)ほか
 キース・ウォーナーの演出は2005初演以来のもので、賞賛と非難が相半ばしたまま再演が繰り返されているもののはずだが、話には聞いていたものの、細部まで丁寧に映像鑑賞したのは、今回が初めてだった。指揮はコヴェントガーデン王立歌劇場(英国ロイヤルオペラ)の音楽監督となって数シーズン目を経たアントニオ・パッパーノである。
 じつは、パッパーノという指揮者は、私にとっては思い出深い名だ。最初に聴いたのはまだ彼が駆け出しの頃、ウィーン国立歌劇場のいわゆる当番指揮者陣の一人に加わった直後、プッチーニ『マノン・レスコウ』を指揮する日だった。旅行中だった私がたまたま居合わせて、飛び込みで500円そこそこの安価なチケットで入場し、その活きのよい指揮ぶりに将来を期待して、その名を記憶したのが始まりである。その彼が、ベルギーの「モネ劇場」の音楽監督を経てコヴェントガーデンに君臨するようになったのは周知のことだと思う。ただ、私自身は、モネ劇場でのマスネ『マノン』全曲録音などにはあまり納得できず、むしろ2010年前後に聖チェチリア音楽院管弦楽団と精力的に録音していた一連の交響曲録音、とりわけ、チャイコフスキーの交響曲の怒涛のような勢いある指揮ぶりを称賛していたように記憶している。
 思わぬ方向へと、記述が脱線してしまった。ただ、私は、コヴェントガーデンでのパッパーノの仕事全部の映像を鑑賞しているわけではないが、例えばプッチーニ『トスカ』では、そのいささか乱暴で強引な音楽の進行に疑問を持っていたのだ。
 「ところが!」である。今回の『ワルキューレ』は素晴らしかった。パッパーノがプッチーニよりワーグナーに向いているとは、意外なことのようだが、じつは、そうではない。パッパーノが紡ぎだす音楽の「息継ぎ」の見事さが、ワーグナーの音楽の流れに、しっかりと寄り添っているのだ。ブリュンヒルデを歌ったニーナ・ステンメが幕間のインタビューで語った言葉を借りるなら、「一歩一歩登っていく山のような旋律」を長い息づかいで歌い継いでゆく様は、じつに音楽的な充実感のある展開だ。各動機が重なり合い数珠つなぎになって繰り出される。個々の歌手も、これなら安心して歌えるというものだ。かつて、1980年代くらいまで、ワーグナー音楽の演奏が、ともすれば各動機がトランプのカードをとっかえひっかえ次々と出してゆくような「動機の展示会」になってしまったことを思えば隔世の感がある。ブーレーズのバイロイト登場あたりからの傾向ではあるが、パッパーノのそれは、私がこの10年ほど聴いた中でも秀逸の鳴りだったと言ってよいように思う。骨太で巨大な響きながら、細部がよく鳴っている。
 第3幕では冒頭から幕切れまで、殊更に様々な旋律要素や和音が途方もなく組み合わされ、最も複雑な動きをオーケストラが奏でるが、それを曇りなく振り分ける指揮者の力量には舌を巻いた。それでいて、大きく自然な感情の高揚が得られるのは、パッパーノが本質的な意味での「カンタービレの指揮者」だからなのだろう。これは、ワーグナー演奏としては決してドイツ的ではない斬新さだが、往年のトスカニーニのワーグナーやプッチーニに通じるものか、とも思う。ひょっとすると、パッパーノの骨太なカンタービレは、どうやらプッチーニでは「せっかち」で「厚塗り」の響きになってしまうようだ。
 キース・ウォーナーの演出については、私は支持者に回った。いかにもシェイクスピア演劇の国イギリスならではの、演劇的な意味合いで成功した演出だと思った。
 もともと、『ワルキューレ』は対話劇であり、室内劇的な展開を持っているドラマだ。それを最大限に生かす方向に徹したものと言えるだろう。各登場人物相互の関係が、図式的に手に取るように描き分けられ、心理劇としてわかりやすい演出に仕上がっている。登場者の服装が現代的なことがしばしば揶揄されるが、確かに、そのことによってストーリー全体が「神話的」ではなくなっているかもしれない。ある意味では「家庭争議」のようになってしまっているとも言えるのだが、それもまた、この演出が狙った「室内劇」の皮肉な成果だということもできるだろう。
 何はともあれ、この『ワルキューレ』は、ワーグナーが苦手な向きをも釘づけにすることは間違いない。わかりやすい演出と壮麗で巨大な音楽がバランスよく同居した『ワルキューレ』としてお勧めする。
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METライブビューイング2018-19『アイーダ』は必見! ルイゾッティの緻密な指揮で聴くヴェルディの新鮮な魅力

2018年10月28日 19時51分28秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

一昨日、金曜日の夜、「東劇」で早々と今期のメトロポリタン最新公演の「ライブビューイング」を観てきました。10月6日にニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で行われた公演の録画、スタッフ・キャストは以下の通りです。

 

指揮:ニコラ・ルイゾッティ

演出:ソニヤ・フリゼル

 

アイーダ:アンナ・ネトレプコ

アムネリス:アニータ・ラチヴェリシュヴィリ

ラダメス:アレクサンドロス・アントネンコ ほか

 

 今回の上演の圧倒的なレベルの高さについては、別の機会にゆっくりと論じたいと思っているが、とりあえず、感じたことを2、3書き留めておきたい。

 まず、一番に思ったことは、この『アイーダ』というオペラが、ヴェルディの作品群のなかで後期に属するのだということを、これほど強烈に感じた〈上演記録〉は、この日が初めてだったということだ。これは、細部の折り重なった旋律、各楽器の音色の描き分けの妙を的確に表現してのけたルイゾッティの指揮と、それに応えきれるメトのオケの技量の成果だ。ヴェルディのオペラにおけるオーケストラの響きでは、『リゴレット』以降、ことさらに近景と遠景のごとき音色と音量の描き分けが重要になってきた、と私は考えているが、それを明確に意識させられる上演記録が、ようやく登場したと思えた今回のメト公演である。これは、20年以上前のミラノ・スカラ座で、マゼールが実現しかけていた音楽の方向だと思うが、今回の成果は、メトの緻密なアンサンブルに負うところが大きい。

 そして、そうした精緻なオケの響きの中から立ち上がる各歌手たちの声の抜けのよさと見事なバランスに感動した。このオペラで最も重要なのは〈三重唱〉という音楽に際して、その構造を一転の曇りもなく聞かせることなのだ。アムネリス、アイーダ、ラダメス、今回のメトでのこのトリオは、しばらく、最強の組み合わせとなるのでは、と思った。

 そして何より嬉しかったのは、どうも最近は〈力づく〉で強引に歌うようになったかな? と少々疑問を感じていたネトレプコが、実に美しく軽やかで澄んだ声を響かせていたことだ。オケの繊細な響きに、しっかりと溶け込んでいた。

 こうした彼らの美質が最高度に発揮されたのが幕切れの地下牢の場面。これには思わず息を呑み、涙腺が熱くなってしまった。昨年のザルツブルクのムーティ指揮の『アイーダ』(NHKがBSで放映していた)が吹き飛んでしまった。(今回のメトの『アイーダ』は来年、WOWWOWで放映するはずだから、絶対にエア・チェック! である。)

 私は一足先にプレミア試写で鑑賞させていただいたが、本上映が、11月2日からの1週間、全国の指定映画館で始まる。これは必見だ。なお、東京・銀座「東劇」のみ、11月15日までの2週間の上映となる。

 

【追記】(2018年11月4日)

 このブログUP直後に、友人から電話をもらって「アイーダ、そんなに良かったのか」と問われたので、私の表現で伝え切れないところがあったかと思いながら、「三重唱」の聞こえ方を、私は思わず「きれいな三角形を描くように響く」と表現した。これは気に入った。じつは、その際に、ヴェルディの響きについて、私は以前、「誤解」していたというようなことを語った。そのことについて付け加えることで、私の真意がより伝わると思う。

 この「誤解」とは、あそらく大方のヴェルディ好きが高く評価している部分だ。とかく、元気がいいとか、勢いがあるとか言われる音楽傾向のことだ。わたしは、それをしばしば「せっかち」「ためが足りない」「おおざっぱ」と言っていた。ところが、ヴェルディの最後の作品『ファルスタッフ』を、最晩年のカラヤンが指揮したライブ映像で聴いて、その、あまりに室内楽的な精緻で軽やかで澄んだ音楽に耳を洗われた思いをして、あわてて様々なヴェルディ演奏を遡って聴きなおし始めたのは、ほんの2、3年前くらいからだ。そして、おそらく私と同じで、プッチーニ好きでヴェルディは苦手だったはずのマゼールが残した数少ないヴェルディ作品の録音・録画が、私に解答へのヒントを与えてくれた。明らかにマゼールは、カラヤンの『ファルスタッフ』が実現した世界を、今世紀に入ってからの『椿姫』の録画では目指しているし、古い『ルイザ・ミラー』のDG録音にも、その萌芽が聴かれる。

  多くの評者が、ヴェルディの演奏を語る際に「勢い」や「歯切れのよさ」を称えるのは私と真逆の評価だが、それを私は、100年以上にわたって続いたヴェルディへの大きな誤解の産物だと考え始めている。私が、先日のメトの『アイーダ』を高く評価しているなかで、「ムーティが吹き飛んでしまった」と書いたのは、そういう意味だし、ネトレプコが「力づくで強引な」歌ではなかった、と積極的に讃えたのも、すべて、そこから来ている。マゼールの『アイーダ』を引き合いに出したのも、そうしたことが背景だ。

 今年のメトの『アイーダ』は、ヴェルディの音楽が染みついている人々に、そのイメージへの大きな転換を迫り、目を開かせる公演記録のひとつなのだと思う。しばらく、こうしたヴェルディ音楽を牽引した指揮者二コラ・ルイゾッティのこれまでの仕事を振り返りながら、今後の動きを注目しようと思っている。

 ヴェルディも没後100年以上になって、やっと私たちは、新たなヴェルディ像にたどり着く入口に立っているのかも知れない。

 

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◇付記◇

 なお、今回の記事執筆を機に、当ブログに新たに「オペラ(歌劇)をめぐって」というカテゴリーを起こしました。冒頭、タイトルの下の日付右側のカテゴリー名称をクリックすると、これまでに私がオペラを話題にしたコラムがまとまって読めるようになりましたので、ご利用ください。

 

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METライブビューイング「エフゲニ・オネーギン」を観て――これは「新しい音楽が生まれる軋み」なのか「勘違いの駄演」なのか

2017年05月24日 17時50分33秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日、東京・東銀座の「東劇」で「METライブビューイング」の新作、チャイコフスキー『エフゲニ・オネーギン』を観た。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で4月22日に公演されたばかりのもので、キャスト・スタッフは以下のとおり。

 

オネーギン:ペーター・マッティ

タチヤーナ:アンナ・ネトレプコ

レンスキー:アレクセイ・ドルゴフ

オリガ:エレーナ・マクシモア ほか

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指揮/ロビン・ティチアーティ

演出/デボラ・ワーナー

 

 オネーギン役が、当初に予定していたホヴォロストフスキーから、この役を歌い込んでいることで知られるペーター・マッティに交代しての上演だったが、メトでは初となるネトレプコのタチヤーナが、ひときわ話題になった公演である。ネトレプコは確か2年ほど前から、この役に取り組んでいたと思うが、私は初めて聴いた。指揮は若手のティチアーティで、最近、グラインドボーンの指揮者に就任したという。

 公演の仕上がりとしては、演出も、舞台装置、衣装もそれなりにオーソドックスでまずまずのものだが、私としては、愛蔵盤レーザー・ディスクのシカゴ・リリック・オペラの1984年の記録の壮麗な舞台に及ぶものではないと感じた。そして、肝心の、音楽の仕上がりに、今回のメトの公演には、大いに疑問が生まれた。

 もともと私は、前述のシカゴ・リリック・オペラにおけるフレーニ、ドヴォルスキー、ギャーロウというベストと言ってよいキャストを得てバルトレッティの指揮する音楽が、このチャイコフスキーの特異なオペラ世界を見事に伝えてくれていると思っていたので、少々、勝手が違った、というのが正直なところだ。

 私は、『エフゲニ・オネーギン』は、オペラ作家としてのチャイコフスキーにとって、いわば、習作というか、試作品の類だと思っているのだ。すなわち、チャイコフスキーの〈本格的なオペラづくり〉は、これに続く『オルレアンの少女』を経て『スペードの女王』で開花し、次の『イオランタ』で、完全にチャイコフスキー流のオペラ書法が完成した、ということだ。それは、ちょうどバレエ音楽が『白鳥の湖』ではパリ伝統のバレエ音楽の書法からかなり逸脱した奇形さをともなっていたのに対して、『くるみ割り人形』や『眠れる森の美女』では、ずっとバレエ音楽の書法がこなれてきたのに似ている。チャイコフスキーは、オペラもバレエも、最初は劇音楽としては奇異なくらいに変則的な、シンフォニックな音楽として書き始めている。

 じじつ、チャイコフスキー自身も、『エフゲニ・オネーギン』を「オペラ」と呼ぶことに疑問を感じたのか、「叙情的シーン(場面/情景)」と名付けている。このオペラを観る者は、このことを忘れてはならない。

 バルトレッティの指揮するオーケストラの響きを聴いてみて欲しい。そこでは旋律がこだまのように響き合い、歌手たちのアンサンブルが溶け合っている。この対話の多いオペラが、声とオーケストラの響き全体の中から生まれ出てくることが、第一幕冒頭のタチヤーナとオルガの対話、夫人と乳母の対話から、すぐに、「それ」と伝わってくる。だから、各幕がそれぞれ、ひとつながりの抒情詩のようにしみ込んでいるチャイコフスキー音楽の特徴が生きてくるのだ。

 こうした演奏スタイルは、おそらく、それなりの歴史を持っているはずだ。1958年にヴィシネフスカヤをヒロインに得て巨匠ボリス・ハイキン指揮ボリショイ歌劇場管で録音されたものは、私自身はもう50年近く昔に抜粋版のメロディアのLPレコードで聴いたのが最初だが、レーザー時代の到来で、「オペラ映画版」で全曲を手に入れたのは、ずいぶん後のことだった。そして、同じ時期には、名盤として名高いショルティ指揮コヴェントガーデン歌劇場の録音も、同様に音源の転用による映画版が発売されている。シカゴ・リリック・オペラのものは、初の公演ライブ収録版だったと思う。だが、いずれの演奏も、私が指摘する特徴を、大なり小なりとも持っている。おそらく、それが、この曲(オペラ)演奏のコンセンサスだったと思う。つまり、「わかっている人」は、皆、そうしていた――のではないだろうか? 念のため、1988年のトモワ・シントウが歌うエミール・チャカロフ指揮ソフィア音楽祭の録音も引っぱり出したが、いささか乱暴ではあっても、傾向は同じだ。

 だから、私の知る限り、今回のメトの音楽づくりは、かなり異質なものだと言ってよい。それが、率直な感想である。

 当日の私のメモには、こんな言葉が踊っている。

――それぞれの歌声が溶け合わず、それぞれの個人のキャラが立っている

――チャイコフスキーの、この曲の特徴が生かされていない

――グランド・オペラに近づけてしまった?

――グランド・オペラ風な転換にはムリがある

――1幕2場のネトレプコの絶唱は凄いが、シンフォニックなつながりが途絶える

――指揮者が、個人プレイの歌手たちを御し切れていないのか?

 じつを言うと、このメモ断片の終わりの2行あたりから解き明かしていこうと、昨日の夕刻までは考えていたのだ。だが、「ひょっとすると、これは、あたらしい『エフゲニ・オネーギン』が生まれるための軋みなのかもしれない」と思うようになったのは、ベテランのマッティが幕間のインタビューで洩らしたひと言が気になっていたからだ。このオネーギン役を何度もこなして当たり役としているマッティが、代役に刈りだされて初めて組んだネトレプコのことを、「彼女がグイグイ押してくるので、自分の音楽が変わった」というようなことを言っていたのだ。

 だから、一晩の間に私のなかに大きな「?」が育ってしまったのだ。

 このチェイコフスキーの〈習作〉〈試験的作品〉であるはずの『エフゲニ・オネーギン』から、その底に眠っているものを抉り出そうと、ネトレプコや若い指揮者がチャレンジしていると見るか、あるいは、わかっていない歌手のわがままと、それを抑え切れなかった未熟な指揮者とによる破綻と見るか、ということだ。

 これは、この音楽の最近の演奏をたくさん探し出すと同時に、おそらく来年になってから「WOWOU」でオンエアされるはずの今年のメト公演を、何度も鑑賞して確かめるしかあるまい。

 

 (じつは、先日「WOWOW」で再放送された『メリー・ウィドウ』を見て、最初の印象とかなり違っていることに気付いて、ちょっと反省し、弱気になったことが関係している。これについては、いずれ、別の機会に。何はともあれ、私は、やはり、「繰り返し視聴」の〈音盤派〉なのだと、そして、「聞き比べ」の〈推敲派〉なのだと思い知った。第一印象だけに頼ってはいけないのだ。)

 

 

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このごろ思っていること。「METライブビューイング」のこと、「映像オペラ鑑賞会」のことなど。

2017年05月23日 15時04分34秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 この「竹内貴久雄の音楽室」でも、数年前から時折、「METライブビューイング」を話題にしているが、じつは、3,4年ほど前に映画評論をしている友人に声を掛けてもらって以来、ほぼ毎回、観るようになっている。「METライブビューイング」とは、ご承知のように、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の公演を映像収録して、いち早く全世界いたるところの映画館の大スクリーンで鑑賞するという主旨のもので、私自身の「鑑賞日記」としても意味のあることだと思っていたから、最初の内は何とか時間をつくってこの欄にも載せるようにしていた。だが、『唱歌・童謡120の真実』の執筆に気をとられて中々はかどらないまま、いつの間にか、書きたかったことのメモばかり、もう10本以上も溜まってしまった。

 ひとつには、なるべくなら推敲に推敲を重ねてから公けにしたいという生来の編集者癖から、かんたんにブログにUPできないということもあるが、「演奏史」「音盤史」の視点を明確にしたいという欲求が出てきて、手間のかかる方向にはまり込んでしまったのが一番の理由だ。その日に聴いたものをアップデートで感想として書くことを躊躇するのは、「音楽文化史家」などと名乗ってしまったからでもあるが、実際、どれを聴いても(観ても)、目の前の演奏(公演)に至る歴史のプロセスが見え隠れしてしまって、熟考してから発言したいと思うようになったことも事実なのだ。もう20年以上前に出版した『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)の「はしがき」で、様々の同曲異演が「点から線になり、面が見えてきた」と書いていることが、ますます実感となってきている。

 じつは、昨年から、知人を介して知った「オペラ映像」の鑑賞サークルで、年に4回ほど、解説をするようになった。月に一度の会に150人ほどが参集する本格的な団体で、登録会員は200名近いという。そこで配布する「手引き」も執筆しているが、必ず「音盤史」を掲載することにしている。これまでにラヴェル『スペインの時』『こどもと魔法』、ウエーバー『魔弾の射手』、ヤナーチェク『イェーファ』などを鑑賞したが、今後の予定は、『サムソンとデリラ』(サン=サーンス)、『ファウスト』(グノー)、『ラ・ボエーム』(プッチーニ)、『愛の妙薬』(ドニゼッティ)、『ノルマ』(ベルリーニ)、『ワルキューレ』(ワーグナー)と続く予定。3ヶ月に一度くらいのペースだが、もう下調べを始めている。既に終了した分については、当ブログへの掲載も考えているし、それを中心に、「ライブビューイング」の短評も交えて、また1冊、まとめたいと思っている。もっとも、その前に、ヤマハミュージックメディア(4月から「ヤマハミュージックホールディングス」だったかに社名が変わったらしいが)さんと、私がライフワークと決めた「日本人の西洋音楽受容史」三部作の2冊目(1冊目は『ギターと出会った日本人たち』として既刊)を来年春までに完成させるとお約束しているので、もちろん、それが終わってからになるが、少しずつ、オペラの音盤史を書き溜めて行きたいと思っている。

 きょう、こんなことを話題にしているのは、昨晩もライブビューイングで『エフゲニ・オネーギン』を観たからなのだ。増え続けるメモを前にして、これは何とかしなければ、と決心した次第。こうして公けにすれば書き始めるだろう、と自分の怠け心を叱咤激励するつもりでの公言である。黙って書きはじめれば良いものを、こんな風に敢えて書くのも、編集者時代からの「自註癖」。ご寛容いただきたい。

 ――さて、本日は、ここまで。明日はまず、『エフゲニ・オネーギン』。音盤史としては、1958年のボリス・ハイキン指揮ボリショイ劇場、ヴィシネフスカヤの名唱、1974年のショルティ/コヴェントガーデンあたりから。久しぶりにひっぱり出したのは、夕べ帰宅した深夜。それは、昨晩のメトに感動したから? 不満だったから? それは明日、お伝えする。一晩、熟考。

 

 

 

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METライブビューイング2015-16第6作プッチーニ「トゥーランドット」を観て。(音盤派のオペラ鑑賞記)

2016年03月03日 17時04分05秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日、東京・東銀座の東劇で、METライブビューイング2015-16の第6作、プッチーニの『トゥーランドット』を観てきた。1月30日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたばかりのものの収録で、キャスト、スタッフは以下のとおり。この半年ほど、縁あって『トゥーランドット』を映像で観る機会が重なっていたので、ことさらに思う事も多々あったので、それらをいくつかを書き連ねてみよう。

 

指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:フランコ・ゼフィレッリ
振付:チン・チャン

 

トゥーランドット:ニーナ・ステンメ(ソプラノ)
カラフ:マルコ・ベルティ(テノール)
リュー:アニータ・ハーティッグ(ソプラノ)
ティムール:アレクサンダー・ツィムバリュク(バスバリトン)

 

 スタッフ一覧を見てお気づきの方も多いと思うが、これは、世界に冠たるメトロポリタン歌劇場が1987年から上演しているゼフィレッリ演出の伝統の舞台である。すでに過去に発売されたDVDで幾度も鑑賞している人も多い。実際、私が観た日にも、客席のあちらこちらで、その話が交わされているのが聞こえてきた。この演出の舞台装置の豪華さがよく話題になるが、私は、この演出の最大の成果は、チン・チャンの振付による「京劇」の舞台を思わせるような、あるいは、時として、中国曲舞団を思い出させるような舞踏場面的演出を、全体にふんだんに取り込んだことだと思っている。
 ゼフィレッリが残したこの演出のもうひとりの功労者である振付師チャン・チン氏が、今回のライブビューイングの幕間インタビューに登場したので、思わず見入ってしまった。もう70歳になったという彼女は、ゼフィレッリから突然依頼を受けたときのことを、淡々と語っていたが、その言葉の端ばしから、この二人が、ある芸術的必然で結ばれていたのだということが感じられた。ゼフィレッリにとって、あの第一幕の、途方もない大群集の大合唱の中から、リューとティムールが忽然と浮き出てくる瞬間を支える視覚的処理と音楽的処理を両立させるものとして、かつて観た中国の音楽劇の要素を取り入れる事は、絶対的な条件だったのだと思う。そして、有名な第2幕第2場の、まばゆいばかりの宮殿の場面。ライトが一斉に点いて大歓声が客席から漏れるお決まりの瞬間。これが、伝統的演出の、伝統たる所以である。

 

▲メトロポリタン初演の1987年から22年後、2009年のメト公演を収録したBD。指揮はネルソンスに代わっているが、基本の演出はゼフィレッリのもの。この演出が、レヴァイン指揮で残されている1987年映像から進化を遂げて、完成の域に達したことが伝わってくる舞台だ。

 

 だが、せっかくの伝統に水を差すようだが、もうそろそろメトも、この、ある意味で「完成された」ゼフィレッリ演出を超える手立てを考えなくてはならないだろう、と思ったのは、おそらく私だけではないだろう。

 数ヶ月前だったと思うが、NHK-BS放送の深夜枠で、2015年ブレゲンツ音楽祭の『トゥーランドット』を放送していたが、その演出、衣装、舞台上での人物の配置や動きを、新鮮な驚きを持って観た。たまたま、その数週間前だったと思うが、ズービン・メータが北京の「紫禁城」を舞台に見立てて行なったフィレンツェ五月音楽祭の引越し公演DVDを観る機会があったので、なおさらだった。ブレゲンツの「湖上舞台」での幻想的な上演の印象が消えないまま、その後、今度は、人に勧められて2001年ミラノ・スカラ座の『トゥーランドット』まで観てしまった。プレートル指揮、浅利慶太演出版だ。メータもプレートルどちらも、どうにも消化不良だったのは、音楽的にもさることながら、加えて演出のやりきれない陳腐さだ。浅利演出には、同じスカラ座での『蝶々夫人』の舞台のような潔い鋭さがなくて、何か中国的な要素への媚のごときものまで感じてしまった。その点、ブレゲンツの演出は中々のものだった。
 ある意味で、ゼフィレッリ演出は、不動のスタンダードという地位を得たのだと思う。だがそれは、いずれ、それを受け継いだ者たち自らが、乗り越えなければならないのだ。数年後のメトでの『トゥーランドット』新演出の登場を期待しよう。

       *

 ――と、演出のこと、舞台のことはさておき、今期のメトの『トゥーランドット』の音楽上のことについて。
 今期メト版『トゥーランドット』の最良の収穫は、なんといっても二人のソプラノの素晴らしさだ。まず、アニータ・ハーティッグのリュー。これは、ほんとに美しく儚[はかな]げな魅力があふれ出ていた。一途さがいたいたしいほどのか細い顔から、芯のある伸びのある声でメトの大合唱から抜け出てくる。そして、「お聞きください、王子様」の名唱――。圧巻は第三幕、リューの死に至る「氷のような姫君の心も」だ。思えば、稀代のオペラ作家プッチーニもまた、この名旋律を書いたところで息絶えたのだと思った瞬間、不覚にも涙腺が緩んでしまった。これまでに私が見、聴いた最も美しいリューの歌声だ。これだけでも、今年度の『トゥーランドット』は価値がある。
 そして、ニーナ・ステンメのトゥーランドット姫。このワーグナー作品で何度か聴いたソプラノは、この姫役に、新たな魅力をかもし出した。もともと、プッチーニの革新的な作品の極めて個性的な役柄であるこの役には、イタリアオペラにはめずらしく、ドラマチックなワーグナー歌手が合うとしばしば言われるが、今回のステンメは、それだけにとどまらず、終盤では、氷のような心の溶け出した後の屈折した心情の裏に隠れた乙女の恥じらいをも、表現し得ていた。この落差は、プッチーニが書いた音楽上の書法にも合致している。演技としての表情やしぐさだけでなく、第2幕と第3幕との音楽的な大きな違いが、くっきりと歌い分けられているのだ。
 これほどの二人の歌唱だからこそ、惜しいのがカリニャーニの指揮する全体のサウンドの平板さだ。じつは、このところヨーロッパ各地の歌劇場にしばしば登場しているというこの人、先に触れたブレゲンツ音楽祭の公演でも、ウィーン交響楽団とプラハ歌劇場合唱団を振っている。その時から感じていたことだが、カリニャーニの指揮には、いかにもイタリアオペラといった押し出しの良さはあるが、こまやかさが欠けている。分厚い絵の具を塗りたくったような響きで絢爛たる音の洪水となっているのだが、それらが細心の注意深さできめ細かく配置されている様子が、丁寧に扱われていないのだ。
 こうしたアプローチならば、音盤派の私としては、1955年録音のアルベルト・エレーデ指揮サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団盤(英デッカ=ロンドン)を越えたものはない、と思っている。エレーデのメロディアスなオーケストラ・コントロールは超一流だし、何しろリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』『エレクトラ』で名高いインゲ・ボルクのトゥーランドットにテバルディのリュー。とにかくよく通る声のデル・モナコのカラフと、歌手陣にも文句がないという決定盤である。

 

 ←エレーデ盤


 これを「いや、ちょっと待てよ」と思わせてくれたのが1981年のカラヤン盤だ。そして、その方向に向かって決定的に、このプッチーニ最後のオペラのイメージを修正させられたのが、マゼール指揮の1983年~84年シーズンのウィーン国立歌劇場プレミエ公演の記録である。これはCDもLD(その後DVD)も発売された。


 ←カラヤン盤

 ←マゼール盤

 

 マゼール盤の凄さは、プッチーニの『トゥーランドット』が、まぎれもない20世紀の作品であることを実感できるところにある。この作品が生まれた1924年、日本は大正から昭和に変わる時期。既に第一次世界大戦は収束し、翌1925年にドイツではアルバン・ベルクの革新的なオペラ『ヴォツェック』が初演される。プッチーニはこうした時代の流れの中、先行するワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の和声に刺激を受け、更に、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』の書法に嫉妬していたと言われている。そうした、かつての時代のイタリアオペラの限界を感じながら一作一作を慎重に書き続けていたプッチーニが、最後に目指した新しいサウンド実験が随所に刻まれていることを、マゼールの棒はつぶさに引き出している。これは、マゼール盤と同じくエヴァ・マルトンがタイトルロールを歌ったレヴァイン指揮の1987年メト盤DVDでは、やはり食い足りない。
 せっかく、ニーナ・ステンメとアニータ・ハーティッグという逸材を組み合わせて起用し成功しているメトなのだから、今度はもっと才能ある若い指揮者と演出家を大抜擢して、新しい世界を見せてくれることを期待している。

 

  

 

▲1987年にメトロポリタン歌劇場で行なわれたレヴァイン指揮によるぜフィレッリ演出のDVD。同演出初登場の年の公演。今年の公演は、2009年版に限りなく近く、この演出バージョンが年月を重ねて進化したのだということが実感できる。

 

【付記】(2016.3.23)

ハーティッグに夢中になったあまりに、マゼール盤でのリュー役のリチャレッリのことをないがしろにしてしまった。彼女のリューは、映像を離れて声を聴くだけでも、その儚げな美しさが伝わってくる名唱。か細い声の使い方が、とにかくうまい!彼女をその2年前の録音でトゥーランドット役に起用しているカラヤンは、間違っている! 何を考えていたのか、と思ってしまう。エヴァ・マルトンのタイトルロールと言い、配役は、完全にマゼールの勝ち!

 

 

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METライブビューイング2015-16のビゼー『真珠採り』は、新たなスタンダード!(音盤派のオペラ鑑賞記)

2016年02月12日 15時03分29秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日、東京・東銀座の東劇で「METライブビューイング2015-2016」のビゼー『真珠採り』を観てきた。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でエンリコ・カルーソーがナディール役を歌って以来、新演出での100年ぶりメト再演だという。その初日、1月16日の公演を収録したものを、わずか2、3週間後、東京に居ながらにして字幕スーパー付きで観ることができるのだからありがたい。キャスト、スタッフは以下のとおり。

 

レイラ:ディアナ・ダムロウ(ソプラノ)
ナディール:マシュー・ポレンザーニ(テノール)
ズルガ:マリウシュ・クヴィエチェン(バリトン)
高僧ヌーラバット:ニコラ・テステ(バスバリトン)

(指揮)ジャナンドレア・ノセダ
(演出)ペニー・ウールコック

 

 オペラ『真珠採り』はビゼーの若書き、25歳の作品だが、美しく魅惑的な旋律と、異国趣味あふれる力強いエネルギーに満ちた傑作だと20年くらい前には思うようになったが、決して広く親しまれている作品ではないと思う。だが、そうは言っても、メトで100年ぶり、というのも極端な話だ。音盤派の私の感覚では、少なくともフランスに於いては相当に人気があるようで、モノラル時代のクリュイタンス指揮パリ・オペラコミーク盤から、フルネ盤、デルヴォー盤といった具合でフランス系の録音だけは目白押し。デルヴォー盤が特に人気が高く、LPレコード時代にはフランスでも何度も、パッケージ・デザインを変えて登場している。

 だが、じつは、私が最初に『真珠採り』に親しんだのは、恥ずかしながら、リカルド・サントス楽団が演奏する『真珠採りのタンゴ』なのだ。第1幕の有名なナディールの夢見るようなアリア「耳に残るは君の歌声」のメロディをそのまま使ったもので、この楽団の最大ヒットでもあるはずだ。まだ私が小学校の高学年か中学生になり立ての昭和36、37年(1960年代初頭)、フルトヴェングラーに夢中だったころで、フランス物と言えば、ミュンシュの『幻想交響曲』をレコードが擦り切れるほど繰り返し聴き、オーマンディ、フィラデルフィア管のビゼー『アルルの女』を、グリーグ『ペール・ギュント』のB面で聴いていた時期である。『真珠採りのタンゴ』は、舞踊家だった父が振付をして使用するつもりで買って帰ってきたもののひとつだった。父は同じリカルド・サントス楽団の『オレ・ガッパ』が使い易かったようで、私の記憶に『真珠採りのタンゴ』の振付が抜けているが、音楽は私のお気に入りになって、何度も聴いた。解説でビゼーのオペラの中のアリアのメロディだと知っていたから、その時からオペラ全曲を、いつの日か聴きたいものだと思っていた。

 たぶん、デルヴォーの全曲盤(東芝EMI)を私が初めて聴いたのは、1980年代になってからだったと思う。その後に、フィリップスのフルネ盤や、仏パテのクリュタンス盤などモノラル盤の存在を知ったが、日本ではようやくデルヴォー盤が70年代に発売されたままだったような記憶がある。日本では殆ど聴かれない作品だった。そうした事情は、アメリカも似ていただろう。二重唱の名曲が多いこのオペラは、アメリカでは古くから『真珠採り』のデュエット・アルバムは発売されても、全曲盤はなかなか作られなかったようだ。メトの100年ぶり再演というのも、それなりに理由のあることなのだ。

 

 写真はフルネ盤CD初出と思われる90年代初頭の欧州盤。この時期に日本ではたくさんのフルネのフィリップス録音が発売されたが、このアイテムは日本では発売されなかったと思う。

 ひょっとすると国内で発売された唯一のLPレコードがデルヴォー盤だが、CDの国内盤は欧州にかなり遅れた。1987年に仏EMIから発売されたが、私は買いそびれていて、写真のものはその後90年代になってからのCD。英EMIが「HMV CLASSIC」というロゴを用いて、いくつかのめずらしいアイテムを発売した中に、このデルヴォーによる「真珠採り」全曲が含まれていた。

 

 そして、私自身も、『真珠採り』というオペラの真価にほんとうに耳を洗われたのは、デルヴォー盤を耳にした時より更に遅く、プレートル指揮パリ・オペラ座盤を90年代になって偶然聴いてからのことだ。レイラ役をコトルバスが歌っているEMIの仏パテ録音である。
 プレートルという指揮者とビゼーの輪郭のくっきりとした音楽との相性の良さについては、別のところ(RCAのプレートル「ビゼー曲集」CD解説。第二評論集に収載)で詳しく言及しているので、ここでは繰り返さないが、私は、このプレートル盤が理想的な演奏だと思っている。それほどに、プレートル盤は私の中に、このオペラ像をしっかりと築き上げた。CD化された英EMI盤が、今でも比較的簡単に入手できるので、お勧めである。


 プレートル盤は、仏パテからLP発売後、英EMIでCDが2、3回発売されている。写真は英EMI系の廉価盤「クラシック・フォー・プレジャー」シリーズのCD。何と、デルヴォー盤と同じ16世紀の画家の「真珠採り」という絵を使用している。ちょっと調べてみたら、ルネサンス後期マニエリスム期のイタリアで代表的な画家のひとりアレッサンドロ・アローリの「真珠採り」という有名な絵だった。

 

           *
 例によって前置きが長くなってしまったが、今回のメトの『真珠採り』は、じつに素晴らしかった。それは、まず、ジャナンドレア・ノセダの、スコアを丹念に読み込んだ確信にあふれた指揮の成果を挙げなくてはならない。それがあってこそ、それぞれの歌手たちが、伸び伸びと歌うことができる。ノセダは、幕間のインタビューで、このビゼーの創り上げたオペラ世界をヴェルディ、プッチーニへと連なる傑作と絶賛しつつ、詳細な検証の末に、このオペラが、恍惚とした魅惑の夢の第一幕から、大きくうねりにうねる海の波の音楽へと移行し、やがて終幕で炎の音楽へと昇華して行くのだというようなことを述べていたが、そうしたビゼー音楽ならではの大きな振幅のあるドラマを、求心力を持ってまとめ上げた手腕は、正に、私がプレートル盤で感じて以来のもの、いや、それ以上と言ってよい。この音楽のダイナミズムこそが、ビゼーの真骨頂なのだ。
 だが、それを更に確実なものにしているのが、粒揃いの歌手陣と、しなやかさと底力を兼ね備えたメト伝統の合唱の力だ。特にダムロウが凄い。第一幕での〈祈り〉から、〈慈しみ〉、〈燃え上がる愛〉と、さまざまの場面の女心を演じ分けてしっかりと聴かせる。第二幕のアリアは本当に美しかった。豊かで美しく、しかも力づよい。思わず聞き惚れてしまった。聞くところによると、ダムロウは既にヨーロッパのオペラハウスでこの役を歌って好評を得ているそうだが、今回のメトからの出演交渉に際して、メト総裁に直談判して、今回の100年ぶりの再演決定に持ち込んだという。彼女にとっても、このレイラ役は、今後、大切に育てて行く役柄になるものと思われる。一方、彼女を取り合う二人の男たちは、二人とも若い頃からメトで鍛えられ育てられた歌手だという。息もぴったり合っており、レイラを交えてさまざまに組み合わせが変わりながらの二重唱が多用されるこのオペラのアンサンブル・オペラとしての醍醐味を満喫できるものとなっている。
 演出は、オーソドックスな面を大事にしながらも、斬新で大胆なもので、音楽の変化と場面転換がうまく連動し、このオペラハウスの良さが随所に現われたものとなっていた。私は、今回の『真珠採り』を観て、「メトに新しいスタンダード作品が誕生した」と思った。『カルメン』と並ぶビゼーの人気演目に成長するのではないかと思ったのである。「ライブビューイング2016」の『真珠採り』は、これから、要チェックである。

 

【付け足し】 

 この項を書き終えてから、どうしてももう一度ゆっくりと聴き比べをしたくなって、クリュイタンスのCDをネット検索していたら、タワーレコードで発売しているクリュタンスの56枚物BOXセットに収録されているのを発見した。何の解説書もない同じデザインの紙ジャケに1枚ずつ収まっているだけの素っ気無いものだったが、このVENIASというレーベルの「Andre Cluytens The Collection」第3集は、クリュイタンスが残したオペラ全曲盤ばかりをそろえたもので、グノー、ビゼーはもちろん、ムソルグスキー、ワグナーまで網羅され、しかも、EMI系の正規盤だけではなく、放送録音も収めているという稀少アルバム。どれも音は自然で、かなりいい。EMIでモノラル、ステレオの2回制作されたものは、両方とも収録するという念の入れようだ。1枚あたり200円程度という超廉価盤なので思わずクリックしてしまったが、これは、いい買い物だった。

 そして、これが到着した時に、私のCD棚のフランス物のあたりを眺めていて発見したのが、下の写真のマニュエル・ロザンタール指揮の「真珠採り」だ。すっかり忘れていたが、この良好な放送録音も、このオペラ演奏史を語る上で、重要なはずだ。いずれ、ゆっくりと聴き返さなくてならないが、それをする前に、メトが、今年よりももっとすばらしい「真珠採り」を上演するかも知れない、とも期待している。

 

 (3月7日追記、同8日一部修正)


 

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