対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 3

2014-12-08 | 跳ぶのか、踊るのか。
跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 3

 3 ヘーゲルの薔薇

 あるのは次の三つの箴言である。この関係をどのように捉えるかである。

     Hic Rhodus, hic saltus!(イソップ)
     Hier ist die Rose, hier tanze!(ヘーゲル)
     Hic Rhodus, hic salta!(マルクス)

 まず、Hic Rhodus, hic saltus!(イソップ)とHier ist die Rose, hier tanze!(ヘーゲル)の関係をみておこう。

 ヘーゲルは『法の哲学』(藤野渉訳)の序文で、次のように述べている。
   Ἰδοὺ Ρόδος, ἰδοὺ χαὶ τὸ πήδημα.
   Hic Rhodus, hic saltus.
   〔ここがロドスだ、ここで跳べ〕
 存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人にかんしていえば、誰でももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を越え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を越え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な領域のうちにしか、存在していない。
 さっきの慣用句は少し変えればこう聞こえるであろう――

   ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。

 自覚した精神としての理性と、現に存在している現実としての理性との間にあるもの――まえのほうの理性をあとのほうの理性とわかち、後者のうちに満足を見いだせないものは、まだ概念にまで解放されていない抽象的なものの枷である。
 理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である、―― いったん彼らに、概念において把握しようとする内的な要求が生じたならば。
 ヘーゲルは「ここがロドスだ、ここで跳べ」の直後に、「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。」と続けている。このことから、ヘーゲルがこの箴言に読み込んでいるのは「哲学の課題」であり、「存在するものを概念において把握する」(to apprehend what is) ことであると捉えるのが妥当だろう。

 ヘーゲルはイソップの物語を知らなかったわけではないだろう。しかし、ここではその物語は捨象され、Hic Rhodus, hic saltus!だけがとり出されていることに注意しなければならない。そしてヘーゲルは「ロドス」と「跳ぶ」に特異な解釈をしている。イソップでは、ロドス島のなかの運動場とそこでおこなわれた走り幅跳びの「跳ぶ」が問題になっている。これに対して、ヘーゲルは、まずロドス島全体とその「跳ぶ」(「跳び越え」)を問題にしている。そして、その「跳び越えて外へ出る」ことが不可能なことをイメージさせることによって、哲学が時代を越え現在の世界を越え出ると考えるのは、妄想であり愚かであると指摘する。そしてそのような考え方を排除すると同時に、「跳ぶ」をロドスの内部に制限するのである。このように、ヘーゲルは、「存在するものを概念において把握する」(to apprehend what is) ことを表現するものとしてHic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)を取り上げているのである。

 ヘーゲルのHic Rhodus, hic saltus!は、端的にいえば、現実(ロドス)で、哲学せよ(跳べ)という意味である。そしてこのように変位された「ロドス」と「跳べ」に対して、言い替えが行われる。

     Rhodus ――  Rose
     saltus  ―― tanze

 言い替えをしたのは、哲学の課題の端的な表現としてHic Rhodus, hic saltus!を取り上げたが、それはあまりにもイソップの物語と違っている。そのために同じ内容をヘーゲル独自の表象で表わす必要を感じたからだろう。

     「ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。」

 これには次のような注が付いている。
 ギリシア語のロドス(島の名)をロドン(ばらの花)、ラテン語の saltus(跳べ)をsalta(踊れ)に「すこし変え」たしゃれ。ヘーゲルはここにギリシア語もラテン語も記してはいないが。
 いま改めてこの注を見ていると、おかしなことに気づく。ヘーゲルはラテン語の saltus(跳べ)をドイツ語の tanze(踊れ)に変えたのであって、salta(踊れ)に変えたのではない。ヘーゲルはギリシア語もラテン語も記してはいないのである。さかのぼって言えば、英文の記事(punning first on the Greek (Rhodos = Rhodes, rhodon = rose), then on the Latin (saltus = jump [noun], salta = dance [imperative].)も厳密にいえば正しくないのである。

 ちなみに、ギリシア語で、ロドス(島の名)はΡοδοςである。これをローマ字表記したのがRhodosである。また、ロドン(ばらの花)はροδονで、ローマ字表記がrhodonである。

 「十字架における薔薇」には次のような注が付いている。
 十字架は苦しみ、ばらは喜びのしるし。『宗教哲学』でも「現在の十字架のうちにばらをつむためには、おのれ自身に十字架を負わなくてはならない」と述べている。別のところでヘーゲルは「ばら十字架会の周知のシンボル」と記しているから、十七、八世紀ごろの神秘主義的な秘密結社「ロ-ゼンクロイツァー」Rosenkreuzerのシンボルからの示唆かと思われるが、メッツケによると、ルターの楯紋様が白いばらで取り囲まれた一つの心臓のまんなかに黒い十字架を描き、題銘に「キリスト者の心は十字架のまなかにあるときばらの花に向かう」とあるのを連想し、ルターにおいてはキリスト信仰の純粋な表現であったものがヘーゲルでは理性信仰になり、現実のもろもろの対立分裂のなかにおける和解の力としての理性のシンボルになるという。
 メッツケの解釈が正しいと思う。ロドス(島の名)をロドン(ばらの花)に変えるとき、ルター(の紋章「薔薇と十字架」)への同調があったのである。これはもっと強調されてよいと思う。

 「現に存在している現実としての理性」は「十字架における薔薇」といいかえられる。

 十字架は現実、薔薇は理性と対応している。「十字架における薔薇」は、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。」(What is rational is real; what is real is rational.)というヘーゲルの基本的な思想を象徴しているのである。

 「ここに薔薇がある、ここで踊れ」を省略しないで表現すると「ここに十字架における薔薇がある、ここで踊れ」である。ヘーゲルの薔薇は十字架における薔薇である。そして、理性を現在の十字架における薔薇として認識するとは、理性的なものを現実的なもののうちにおいてのみ把握するということである。

 ヘーゲルはイソップのHic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)を解釈して、次のように要約した。
     ロドス(現実)で、跳べ(哲学せよ)。

 Hier ist die Rose, hier tanze!も同じように、

     薔薇(現実)がある、踊れ(哲学せよ)。
である。

 しかし、薔薇の方が、内に秘められている理性と現実の関係が見やすくなっていて、美しく深みのある箴言になっているように思える。

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