対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

束縛された偶然性

2006-05-21 | 九鬼周造

 九鬼周造の『偶然性の問題』に対するいくつかの疑問は、沢田允茂の『現代論理学入門』の立場に立つことによって、簡潔に整理できることに気づいた。一言でいえば、九鬼周造の偶然性の問題設定はヘーゲルが批判した形式論理学(アリストテレスの形而上学的解釈に由来する、堕落した形の形式論理学)に束縛されているのではないかということである。
 
 九鬼周造の偶然性に対する基本的な疑問は、次の二つである。(「弁証法と様相性」参照)

  1 偶然性の定義は「独立なる二元の邂逅」だけでいいのではないか。すなわち、〈「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙の邂逅〉という形容はいらないのではないか。
  2 九鬼の「偶然性の内面化」は、対話のできない「偶然性の内面化」ではないか。

 この立場の違いは、ヘテロの立場とパラの立場の違いということができる。すなわち、「独立なる二元」を、九鬼周造がテーゼとヘテロテーゼと考えるのに対して、わたしはテーゼとパラテーゼと考えていることにある。

 ヘテロとは、アンチが「矛盾」を背景にしているのに対して、「反対」を背景にしている関係として想定されているものである。これに対して、パラは、論理的な対立以前の対立を指示するものとして、わたしが想定した関係である。アンチの反立、へテロの他立に対して、パラは並立である。

 九鬼がヘテロ(他立)の立場で偶然性を問題にするのに対して、わたしはパラ(並立)の立場で問題にすべきではないかと主張しているのである。(「アンチとヘテロとパラ」参照)

 九鬼周造は「抽象の哲学」と「現実の哲学」を区別し、抽象の立場では偶然性は問題にならず、現実の立場において初めて問題になることを主張している。抽象の立場とは、エレア派(パルメニデス)の立場である。また、現実の立場とは、ヘラクレイトスの立場である。この二つの立場の違いは、「反対の一致」を認めるかどうかによって区別されるといっている。

 要するに抽象の立場をとる哲学は同一律を基礎として必然性の闡明のみを計る傾向がある。それに反して現実の立場をとる哲学は同一律の絶対的適用を認めないことをしばしばその特色とし、反対のものの間になお関係をつけて行こうとする。また、反対のもの、多様なものの同時的成立を認める。そうして現実の中の偶然性を見逃さないようにする。エレア派の哲学とヘラクレイトスの哲学とはちょうどこの二つの反対の立場のよい代表者である。そうしてこの二つの立場の中の一方は生成を一切排斥する存在を主張し、他方は固定的な存在を一切排斥する生成を主張しようとする。(「講義 偶然性」)

 九鬼周造はこのように区別して、現実の立場の優位を強調して、ヘラクレイトスの立場で「偶然性」を問題にする 。現実の立場で九鬼が強調しているのは、同一律の絶対性を認めないということである。

エレア派が生成を否定したのは、生成の概念の中には存在と非存在が同時に肯定されなければならなかったからである。すなわち同一律を絶対に主張したからである。ヘラクレイトスは同一律の絶対適用を認めないから存在と非存在とが同時に成立し、したがって生成が肯定される。そうして生成は肯定されるのみならず、原本的で、継続的で、永遠である。「すべては[一切は]流れる」。万物の本質は変化極まりなき火である。こういう現実に即する立場はものの偶然性を見逃さない。パルメニデスは多様を否定し抽象的な[力強い必然性が存在を帯でひきしめる]と考えたがヘラクレイトスは具体的な偶然性に眼を向けた。(「講義 偶然性」)

 「現實の立場はものの本質には同一律は必ずしも適用出來ないといふ考を有つてゐる。」これが九鬼周造の姿勢である。ここに堕落した形の形式論理学(アリストテレスの形而上学的解釈に由来する形式論理学)の束縛を見ることができる。

 正当な形式論理学は、同一律を否定しない。沢田允茂は次のように述べている。

事物の生成変化を命題の形式で把えるか、または命題の変形としての数学的方程式で把えるかのいずれかであれば別に同一律、矛盾律を否定しなくても十分に変化を把握することは出来る。否むしろこの場合同一律や矛盾律等を原理としてではなくとも前提または規則として認めなければ却って変化を把握することすら不可能となるであろう。通常の命題の中では我々は「存在する」、「存在しない」の他に「動いている」、「変る」、「…になる」等の原始的述語で「存在しているもの」、「存在していないもの」及び「変化しているもの」を日常的不便さなしに立派に表現し描写している。我々は「鉄橋の上に列車が在ると同時に無い」と言うことをしないで「鉄橋の上を列車が走っている」と言うことで十分に満足しているのである。存在、無、生成に関する語はいわば同列の原始的述語であり、決して生成を前二者の綜合として用いているのではない。(『現代における哲学と論理』)

 生成変化や偶然性を捉えるのに、同一律を否定する必要はまったくないのである。
 
 九鬼周造の「偶然性の問題」が提出されたのは1930年代だが、九鬼の姿勢は現代にも引き継がれている。例えば、木岡伸夫は次のように述べている。(「テキストとしての偶然性」(『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房 )

 「抽象の哲学」は、こうして「現実の哲学」に取って代わられる。現実の立場とは、物の本質には同一律が必ずしも適用できないということを認める考え方である。つまり、甲と非甲が両立する状態を認める立場であり、「反対の一致」を認める立場である。反対と矛盾は同じではない。

 九鬼は「反対の一致」 ( coincidentia oppositorum ) という哲学史上の理念に訴えるが、形式論理学に背いて弁証法に飛躍することはしないし、形而上学的伝統に対して「アンチ」の姿勢で臨むこともない。彼が提起するのは「ヘテロ」の存在、つまり同一者に対する「他者」、もしくは「差異」の存在である。すでに見たように、「ヘテロ」とは定立に対する他立である。他立と定立は矛盾せず、したがって定立を否定しない。差異を主張することは、同一性を否定するものではない。否定するのは、同一律が絶対であるという見方、それのみである。九鬼が拠って立とうとするのは、まさしくこうした「ヘテロ」の立場である。

 しかし、木岡伸夫が同一律を九鬼とまったく同じように考えているかといえば、あいまいなところもある。というのは、かれは、次のようにも述べているからである。

 「有るものは有る。無いものは無い」という自己同一の思惟において、有と無、存在と非存在とは、たがいに両立することのない「矛盾」の関係に立つと考えられる。しかし、それは現実の立場からみれば、〈反対=他立) の関係にほかならない。「存在と非存在とが同一のものでもあれば、また同一でないものでもある」というヘラクレイトスの考えをパルメニデスは非難するが、他立の関係において存在と非存在は両立する。しかもそれは、「反対の一致」を認める立場であるから、同一律・矛盾律を排除することもないのである。

 反対と矛盾は違うから、「反対」の一致を認めることは、矛盾律を排除することもないという言い方はできるのかもしれない。しかし、反対の「一致」を認めるのだから、同一律は排除していることになっているのではないだろうか。同一律は必ずしも適用できないというのが妥当ではないだろうか。しかし、ここでは、「反対の一致」にもかかわらず、同一律・矛盾律の絶対性が擁護されているように見える。

 また、木岡伸夫は九鬼周造が「形式論理学に背いて弁証法に飛躍することはしない」と想定している。しかし、同一律に関していえば、この評価はまったく逆ではないかと思われる。すなわち、九鬼は、現実の立場では、同一律の絶対的適用を認めないと述べているのだから、形式論理学に背いて、弁証法に飛躍しているのである。九鬼周造は偶然性を弁証法として問題にしているのである。

 しかし、注意しなければならないのは、この「弁証法」は沢田允茂の指摘する「疑似論理学」だということである。

 「反対の一致」を主張し、同一律の絶対的な適用を認めないのは、「抽象の立場」を克服しようとする努力の現われである。しかし、これは、同一律や矛盾律を、主語と述語の同一性と解釈し、概念と事物を対応させるという誤った論理と存在の立場からの要請というべきものである。いいかえれば、対応するのは、概念と事物ではなく命題と事実(事態)であるとする立場に立てば、まったく必要のない努力というべきものである。

 同一律は絶対的に適用されるべきものである。その意味では、木岡伸夫のあいまいな態度が正しいのである。誤った解釈の同一律の適用を制限するのではなく、誤った解釈の同一律の基礎を見直すべきなのである。必要なのは、正当な形式論理学の立場に立つことである。

 沢田允茂によれば、同一律を「AはAである」、矛盾律を「Aは非Aでない」とする表現は、古代(元来のアリストテレス)でもなく中世でもなく、近代の形式ということである。また、同一律、矛盾律を事物の性質のように表現する仕方は、古代中世にはほとんど見られず、中世末期から近代にかけて多く見られるという。(『現代における哲学と論理』参照)
 〈「甲は甲である」という同一律〉という表現は、古めかしく古代ギリシアの時代から継続して用いられてきたと思われるかもしれないが、実はつい最近のことだったのである。

 九鬼周造は「抽象」と「現実」の立場をパルメニデスとヘラクレイトスの立場によって区別した。しかし、この二つの立場は、沢田允茂の場合、「概念」と「事物」を対応させるという誤った関係に基づいた、誤った立場にほかならない。エレア派は概念のもつ固定性をそのまま事物に反映させ、ヘラクレイトスは事物のもつ流動性をそのまま概念に反映させたのである。すなわち、それは、疑似存在論と疑似論理学である。エレア派(抽象の立場)を捨て、ヘラクレイトス(現実の立場)を選ぶという関係ではなく、いずれも克服すべき立場なのである。沢田允茂は次のように指摘している。(『現代における哲学と論理』)

「AはAである」とか「Aは非Aでない」と言うときAは何を意味するのであろうか。それは「人間」であってもいいし「太郎」であってもいいし「赤」、「善良」等の性質を表わす語であってもいい。形式的にAの内容を規定することはここでは不可能である。そして「太郎」とか「バラ」という言葉は言葉として固定されているにも拘らず、太郎は変化し生長して行きバラもまた花咲きしぼんで土と化する。概念の方はAならばAであり、Aが非Aであることは出来ない。しかし事物は変化生成するが故にAは非Aであると言わねばならなくなる。

元来対応出来ないものを対応させたのである。従ってこの間の不一致を一致させる(命題と事実との一致をモデルとして)為には二つの途しか残されていない。固定的であり不動不変の概念に対応するものとして生成変化する事物の世界の背後に不動不変のイデヤや実体を想定し、これが真に存在するものであり我々の概念はこれを反映するとか、これに基礎をもっているとか考えることであり、他は論理の諸原理を否定して、変化生成する現実の事物の世界と同じく我々の概念の世界に形式論理学の諸原理を破る一つの変化の論理を仮定することである。

対応することが既に無意味な疑似問題である概念と事物(命題と事実又は事態でなくて)を一致させんが為に、一方に於いては概念の固定した影を事物の世界の背後に投射してこれを実在の世界とし、今度は逆に、我々の概念の世界はこの世界に象って形成されたものとする疑似存在論が創られ、他方に於いて変化する事物の世界をそのまま概念の世界に反映させ、論理的思考をば概念の発展とみて、概念の発展の中に同一律、矛盾律を破る新な論理を想定しこれこそまさに客観的実在を正しく反映している、と考える疑似論理学が形成される。>

 対応するのは概念と事物ではなく、命題と事実(事態)である。このような言語と認識の見方に対する根本的な立場の移行によって、沢田允茂は、疑似存在論(パルメニデス――プラトン)と疑似論理学(ヘラクレイトス――ヘーゲル)を克服する方向を指示しているといえるだろう。

 九鬼は、ヘーゲル弁証法にあるのは矛盾ではなく反対である、また、アンチテーゼではなくヘテロテーゼであると、主張している。(「講義 偶然性」)「アンチとヘテロとパラ」参照
 ヘーゲルは「現実の立場」に立っているのである。九鬼周造の「偶然性」は、ヘーゲル弁証法と相性がよいのである。

 九鬼周造の偶然性はヘテロの立場で設定されている。しかし、ヘテロの立場は堕落した形の形式論理学が基礎になっている。そこでは、同一律も偶然性も束縛されているのである。解放されなければならない。偶然性はパラの立場で問題にする必要があるといえるだろう。パラの立場は『現代論理学入門』の立場である。


追悼・沢田允茂

2006-05-05 | 学問

 先月、沢田允茂氏が亡くなった。わたしは、読み始めたばかりだった。『現代論理学入門』(岩波新書)に展開されている論理学・弁証法・記号論に対する見解に興味をもち、『哲学の基礎』(有信堂)や『現代における哲学と論理』(岩波)などで、理解を深めようとしていた。「弁証法試論」の基礎を固める契機になると考えていたのである。高齢だが健在なのだろうか、と思っていた矢先の、訃報だった。

 『現代論理学入門』の初版は1962年である。わたしが持っているのは、2004年の51刷である。よく読まれているのである。しかし、これまでわたしはまったく知らなかった。「正方形の複合」をまとめるさいに、論理学の基礎を学ぶ必要にせまられ、はじめて手にしたのである。とっつきにくかったのだが、それでも読んでいると、ところどころで感動する場面があったのである。

 大きな刺激になった。弁証法に関心をもつ者のなかで、わたしだけが沢田允茂氏を知らなかったのだと思われる。

 以下に、啓蒙され、関心をもった四つの軸とそれに関連する箇所を引用しておこう。

 1 論理学は進化する

 かつてのニュートンの時代の古典物理学が現在の量子物理学に発展したとき、後者は前者をその特殊な一つの場合としてふくむ、より包括的な体系として受け入れられた。これと同じ事態が形式論理学にも起こったのである。伝統的論理学において形式化されているものはすべて現代の数学的論理学においても同じく形式化されるけれども、後者において形式化される、たとえば「AはBより大であり、BはCより大であるならばAはCよりも大である」、「すべて日本人は東洋人である。ゆえにすべての日本人の頭は同時に東洋人の頭である」というような推論は、明らかに真であるにもかかわらず前者の伝統的な論理学の体系のなかでは、形式化することができない。(『現代論理学入門』)

 2 ヘーゲルが批判した「形式論理学」は、堕落した形の形式論理学である。

 長い間、ヘーゲル主義者とマルクス主義者とを問わず、弁証法的方法論を主張する哲学者たちは、形式論理学はその原理とされていた同一律や矛盾律の故に弁証法とは相容れない無効な論理であり、弁証法が代表する真の論理学に於いてはこれらの原理は否定されねばならない、と単純に信じていた。このような問題設定は伝統的な形式論理学に於ける同一律や矛盾律の誤った解釈そのものに根差している。
 同一律や矛盾律を「花は花である」、「赤は赤である」とか「花は花でないものではない」「赤は非赤ではない」の如くに主語概念と述語概念との間の同一性や無矛盾性として解釈することに問題があるのである。このような概念の同一性や無矛盾性を直ちに花や赤という現実の存在者の自己同一性と無矛盾性と解して、花が花でないもの(果実)になるような現実の生成を把えることが出来ないと考えることに問題があるのである。(『現代における哲学と論理』)

これらの原理はどこまでも命題と命題との間の関係として現わされるのであって、(主)語と(述)語との間の関係として、ましてや物それ自身の性質として表わされているのではない。したがって同一律、矛盾律をみとめるからといって決して世界が固定した世界であるなどという主張がなされているわけではない。これらの原理を「AはAである」というように解釈し、さらに実在の事物の自己同一性を現わしているのだ、という解釈することは論理学の解釈でなくて、論理と存在との誤った対応のさせ方にもとづいた世界の誤った解釈である。(『現代論理学入門』)

 3 対応するのは、概念と事物ではなく、命題と事実(事態)である。

我々がバラと呼んでいる対象は事物であるが、そのバラが赤いというのは事実または事態である。(『現代における哲学と論理』)

「AはAである」とか「Aは非Aでない」と言うときAは何を意味するのであろうか。それは「人間」であってもいいし「太郎」であってもいいし「赤」、「善良」等の性質を表わす語であってもいい。形式的にAの内容を規定することはここでは不可能である。そして「太郎」とか「バラ」という言葉は言葉として固定されているにも拘らず、太郎は変化し生長して行きバラもまた花咲きしぼんで土と化する。概念の方はAならばAであり、Aが非Aであることは出来ない。しかし事物は変化生成するが故にAは非Aであると言わねばならなくなる。元来対応出来ないものを対応させたのである。従ってこの間の不一致を一致させる(命題と事実との一致をモデルとして)為には二つの途しか残されていない。固定的であり不動不変の概念に対応するものとして生成変化する事物の世界の背後に不動不変のイデヤや実体を想定し、これが真に存在するものであり我々の概念はこれを反映するとか、これに基礎をもっているとか考えることであり、他は論理の諸原理を否定して、変化生成する現実の事物の世界と同じく我々の概念の世界に形式論理学の諸原理を破る一つの変化の論理を仮定することである。対応することが既に無意味な疑似問題である概念と事物(命題と事実又は事態でなくて)を一致させんが為に、一方に於いては概念の固定した影を事物の世界の背後に投射してこれを実在の世界とし、今度は逆に、我々の概念の世界はこの世界に象って形成されたものとする疑似存在論が創られ、他方に於いて変化する事物の世界をそのまま概念の世界に反映させ、論理的思考をば概念の発展とみて、概念の発展の中に同一律、矛盾律を破る新な論理を想定しこれこそまさに客観的実在を正しく反映している、と考える疑似論理学が形成される。(『現代における哲学と論理』)

 4 わたしたちの知識のすべてがそのまま実在の反映であったり、世界の事実と一対一の対応をもっているわけではない。

 説明のための理論は多くの関連をもった網の目のようなものだ、ということを前章で説明した。この論理の網、すなわち理論の体系をよく見ると、経験的な事象を説明するための理論であるにもかかわらず、その中には経験から直接に得られないような、そしてその意味で、経験の世界の中には、それに対応するような事実が存在しないところの多くの概念が含まれていることがわかる。絶対温度、熱量、波動関数などという物理学上の概念はもとより、意志とか良心、知性などの心理学的概念は、他と区別されて特別にそのような語でよばれるところの事実がこれに対応しているというようなものでなくて、ある物理現象、ある心理現象を説明するための仮説である。仮説というものは経験の世界の事象をそのまま忠実に私たちに伝えてくれる知識ではなくて、そのような事象を説明するために私たちが作った論理的構成概念 logical construct である。(『哲学の基礎』)

例えばカメラのフィルム面にうつった映像はカメラの外の景色の文字どおりの反映であり、フィルムの上に見出されるものは、すべて外の世界に対応せられ、世界の事物に対応しないようなものは一つもないはずである。しかし、このような外の世界の映像をうつしだすために、カメラにとって必要であったレンズ、暗箱、シャッターや絞りの機構などいっさいのものはカメラ以外の世界の中に対応物をもたない。このようなメカニズムをも含めて、カメラの中に見出されるすべてのものが世界の反映であり、世界の中にその対応物をもつと考えることがおかしいと同じように、カメラの距離計やシャッターやレンズにあたる私たちの知識、例えば数学や論理の法則が実在の(いわばほんものの)法則の映像や反映である、と考えるのは馬鹿げている。(『哲学の基礎』)

 以上、関心をもった四つの軸を示した。

 明晰判明な思考をめざす姿勢、的確な比喩、幅の広い文体(例えば、『考え方の論理』と『現代における哲学と論理』の間)、論理学と弁証法との関係、言語の働きに対する見方など、学ぶことは多いのである。

 新しい弁証法の基礎を、これまで、岩崎武雄と松村一人に依拠して提示してきたが、この基礎は沢田允茂で補完していくことができると思われる。

 朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。(『論語』より)

   「弁証法試論」 

   「弁証法試論」第4章 新しい弁証法の基礎