対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

梯明秀のロドス

2015-01-07 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!に対して、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」という訳があることは、堀江忠雄の『マルクス経済学と現実』で初めて知った。堀江だけだろうと思っていたが、フォイエルバッハ『唯心論と唯物論』の訳者、船山信一(岩波文庫)も桝田啓三郎(角川文庫)も、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」であった。

 最近、もう一人増えた。梯明秀である。かれは『ヘーゲル哲学と資本論』のなかで、次のように述べていた。
マルクスは、ヘーゲルの学問的態度に反して、「彼の理論が実際にその時代を内に超越し、世界をそれが有るべきように建築する」のであるが、しかし、このマルクスの理論は、『資本論』の著作をまつまでもなく、つとに「彼の臆念のうちにのみ実存する」ことを止めて、世界の大衆のものになっていたのであった。それだからこそマルクスは、<ここがロードスだ、ここで踊れ>という箴言を、ヘーゲルによって教えられ、これを肝に銘じて、ヘーゲルとともに、その時代の内に在ったというわけである。すなわち二人は、現実に彼らの時代に制約され、そこに内在し、そこを跳び越えはしなかったのであるが、一方は、現実に「有るところのものが理性的である」と信じ、他方は、現実に「有るところのものは理性を喪失している」と見たところにおいて、われわれは、彼らのあいだの学問的態度の差異を、発見すべきであろう。
 「<ここがロードスだ、ここで踊れ>という箴言を、ヘーゲルによって教えられ」とは一体どういうことなのだろうか。通常は踊るsaltaを「跳ぶ」と誤解するのに、梯は跳ぶsaltusを「踊る」と誤解したのだろうか。いいかえれば、ヘーゲルが引用したHic Rhodus, hic saltus!を「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と捉えていたのだろうか。
 「ヘーゲルによって教えられ」とは、上のように直接的に教えられるとはかぎらない。間接的に教えられる場合もある。つまり、ヘーゲルは「跳ぶ」だが、マルクスは「踊る」と言い換えて継承した場合でも「教えられ」たことになる。

 いずれにしても、梯明秀はHic Rhodus, hic salta!を「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と捉えている。


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