対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

表出の分節化

2009-06-27 | 吉本隆明

 アインシュタインの思考モデルや相対性理論に関する廣松弁証法を検討していくなかで、「下向と上向」の問題が浮上してきた。

 『もうひとつのパスカルの原理』(私家版1990年、文芸社2000年)において、わたしは下向的分析と上向的総合という質の異なった2つの認識過程を引き継ぐために、表出過程を抽出過程と構成過程に二重化した。

 言語の表出は、「幻想の可能性」として想定されていた。わたしは「幻想の可能性」を「判断の可能性」に移行させたところに認識の抽出過程を、また「推論の可能性」に移行させたところに認識の構成過程を想定したのである。

 このように二重化することによって、表出の形成過程を描こうと試みたのである。

 形成過程を把握するとき、表出の分節化は必要だと思われる。もちろん、複合の全過程はまったく変わらない。選択から混成までの過程が抽出過程、混成から統一までの過程が構成過程になるだけである。そして、複素数のモデルも変わらない。

 表出は、抽出と構成に分かれる。アインシュタインの思考モデルでいえば、抽出は上昇する曲線であり、「自伝ノート」のことばでいえば、「原理の発見」である。構成は下降する直線であり、「構成的努力」である。

 アインシュタインの思考モデルを確認した後、それを念頭に置いて、次の文章を読んでもらいたいと思う。『もうひとつのパスカルの原理』第6章 形成過程論の後半部分である。

〈  新しくひとつの認識が提出されるとき、これまで私たちの知っていた知識の中ではただ潜在していただけのものが、かれの認識においては顕在し主題となり展開されていることを、私たちは理解できる。私たちはかれが何かを発見したのだと思う。私たちがまだ見ていなかったところをかれはずっと凝視していたのだと思う。かれの認識はこれまでの認識の延長であると同時に、これまでの認識とは断絶していると考えるのが妥当であろう。かれの認識がこれまでの認識と断絶していなかったら私たちは新しいとは思わないし、これまでの認識の延長ではなかったら私たちは理解できないのだから。

 把握するとはいうまでもなく抽出過程と構成過程を最初から最後までたどることである。抽出過程とはいわば問い方であり、構成過程とはその答え方である。かれが要請されるのは新しい対象にたいする見方であり、隠れた結びつきの発見である。かれは対象にたいする新しい判断の可能性をつかみ、抽出過程をたどる。そしてこれまでの認識の水準を堀り下げる。そのとき客観的認識からはみでていたちょうどその分だけ見方は転位しているだろう。このときかれの立つ場所は断絶し孤立している。ここで対象はかれだけにとって存在している。かれは獲得した断絶的関係を内在化した新しい推論の可能性をつかみ、構成過程をたどる。そしてこれまでの認識の水準を上昇させていくのである。そしてかれは対象にたいする新しい判断と推論の可能性を私たちに客観的認識として示すのである。こうしてかれが最初にとらえた対象が私たちのものともなるのである。         

  形成過程にまつわる延長性と断絶性について述べておくことにしよう。知の断絶性の契機は抽出過程にあり、延長性の契機は構成過程にあるだろう。なぜなら、これまでの客観的認識をはみだしている対象と直結しているのは抽出過程だからである。また対象にたいする新しい判断と推論を客観的認識として提示するのは構成過程だからである。

  認識は表現を包みこまなければならないと考えてきた。ここで逆のことを考えてみよう。つまり吉本隆明の表出論において正しく認識論が捨象され、表現は認識を包みこんでいるのかどうかをみておこう。着目するのは次のところである。

  ある時代の社会の言語水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出性において、わたしたちの意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急激なまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きるのである。しかし、指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によって決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている。このようにして言語の本質にまつわる永続性と時代性、また類としての同一性と個性としての差別性は、言語の対自と対他の側面としてあらわれる。

  ここで吉本は言語の本質にまつわる永続性と時代性、類としての同一性と個性としての差別性を指摘し、これを言語の対自的側面(自己表出)と対他的側面(指示表出)に分けている。言語の本質にまつわるものとして永続性と時代性、類としての同一性と個性としての差別性──いいかえれば延長性と断絶性──を捉えているところをみれば、表出論において認識論は正しく捨象されているといえるだろう。しかし自己表出に永続性や類としての同一性を、また指示表出に時代性や個性としての差別性を位置づけているところをみると、表出論は認識を包みこんでいないといわなければならないだろう。

  吉本は表出をひとつの過程として捉えている。それゆえかれの手のなかには自己表出と指示表出しかない。このような制限のもとで永続性と時代性、また類としての同一性と個性としての差別性を区別するので、自己表出に永続性や類としての同一性を、また指示表出に時代性や個性としての差別性をみるのだろう。しかし表出(自己表出と指示表出)だけでは永続性と時代性、同一性と差別性を分離するには無理があるといわなければならない。このふたつを明確に分離するには、表出を抽出過程と構成過程とに二重化し、抽出過程に時代性や個性としての差別性を、また構成過程に永続性や類としての同一性を位置づけすべきなのである。

 表出の形成過程を掘り下げてみよう。言語の表出論に正確に表現されていないのが、この表出の形成過程である。これが言語の自己表出に空白をもたらしているのである。そしてこの空白を埋めようとして、たとえば菅孝行は自己表出を主体表出と誤解したのではないだろうか。私たちが何ごとかを言おうとするとき、まず抽出過程が作動しはじめる。そしてこのとき時代性や個性としての差別性、つまり断絶性が刻印されるのである。それは直接に表出の対他的側面(指示表出)に現れてくるわけではない。それは抽出過程の対自と対他の両側面つまり自己抽出と指示抽出の両方に現れるのである。そして次に構成過程をたどることによって永続性や類としての同一性を獲得する。それは直接に言語の表出の対自的側面(自己表出)に現れているわけではない。それは構成過程の対自と対他の両側面つまり自己構成と指示構成の両方に現れているのである。

  抽出過程と構成過程が、事実上ひとつになっているのが表出過程である。認識の自己抽出・自己構成の指示的展開において、断絶性を内在化する抽出過程を捨象して、構成過程だけをみれば、言語の表出論が現れるのである。

  もちろん吉本は表出の形成過程を最初から最後までたどっているといえるだろう。それは文学の価値を検討する個所でじぶんの試みを次のように述べていることからもわかる。「問題の提出の仕方を変えないかぎりは、すでに文学(芸術)の理論が、文学(芸術)に与えた価値や、狙いは、ある幅のなかに包括させることができるのである。それゆえ、本当にこの課題にせまる前提は、文学(芸術)についての問題の提出の仕方であり、この仕方だけが、理論にとってはいつも未知数のものとして存在している。もしもわたしたちの企てを、他とわかつ特質があるとすれば、すでに既知の幅のなかにある問題の提出の仕方をとらなかったという前提に根拠をおいている」。しかし私がここで強調しているのは、その全過程が言語の表出論には正確に表現されてはいないということである。もしも現実的な与件と自発的な言語の表出までが千里の径庭ならば、吉本は五百里の径庭を架橋しただけなのである。〉

 形成過程に着目するとき、表出の分節化は必要ではないだろうか。


「双子のパラドックス――弁証法1905(Ⅰ)」への案内

2009-06-13 | アインシュタイン

 1年ほど前、特殊相対性理論の形成過程と複合論(新しい弁証法の理論)は相性がいいのではないかと思い、参考になりそうな文献を読みはじめた。

 読みすすめていくうちに、これまで挙げてきた複合論の例よりも、わかりやすく展開できるのではないかと思うようになった。アインシュタインを通して、これのまで議論を見直し、発展させてみようと思った。

 双子のパラドックスは、相対性理論において、運動系の時計の遅れに関して提出されたパラドックスである。それはアインシュタインの時計のパラドックスを1911年にポール・ランジュバンが双子をモデルに仕立てたものだという。次のようなものである。

 双子の兄弟がいる。兄は光速に近いロケットで宇宙旅行に出かけ再び地球にもどってくる。弟は地球にとどまっている。弟から見ると、兄が運動系にいるため、兄の時間が遅れているように見える。すなわち、兄が地球にもどったとき、兄の方が弟より若い。一方、運動が相対的であることを考えると、兄から見れば、弟の方が運動系にあるため、弟の時間が遅れているように見える。すなわち、双子が再会したとき、弟の方が兄より若い。弟から見るときと兄から見るときとでは、結果が逆になっている。

 しかし、ここでタイトルとして提示する「双子のパラドックス」は、このような運動系における時計の遅れに関するものではない。わたしは、この「双子のパラドックス」ということばを借りて、弁証法の新しい理論を展開してみたいと思うのである。

 弁証法は、現代ではヘーゲル・マルクス主義の考え方が主流である。しかし、歴史的に見ると、さまざまな立場があり、今日の主流の考え方は、たかだがこの150年ほどのもので、きわめて制約されたものだと思う。

 わたしの試みは、「弁証法」の語源である「ディアレクティケー」の可能性を探究していると言えると思う。これまで展開してきた複合論を特殊相対性理論の形成過程を通して見直してみたいのである。

 さて、わたしは「双子のパラドックス」に、運動系の時間の遅れではなく、違った内容を盛り込もうと考えている。それは、アインシュタインが1905年の論文で提示した2つの原理、すなわち、(特殊)相対性原理と光速度一定の原理のことである。

 わたしはこの2つの原理を「双子」と見る。しかも、この「双子」は、ガリレオの相対性原理とマクスウェルの方程式のなかの光速度の一定性という別の「双子」によって「混成」された「双子」とみるのである。

 「双子」は、わたしが提起している弁証法の新しい理論の核心にあるものである。

 相対性原理と光速度一定の原理を、双子と呼ぶのは、わたしが初めてだと思う。しかし、2つの原理をパラドックスと呼ぶのは、わたしが初めてではない。2つの原理とパラドックスと関連させたのは、アインシュタイン本人である。『特殊および一般「相対性理論」について』(金子務訳)に、次のようにある。

 さて、前述のバラドックスはこう表現できる。古典力学で使用される、一つの慣性系から他の慣性系へ移る場合の事象の空間座標と時間の結合規則に従えば、二つの仮定
  一、光速度の不変性
  二、法則(特に光速度不変の法則)は、慣性系の選び方とは無関係であること(特殊相対性原理)
 は、(両方ともそれぞれ経験によって支持されているのにもかかわらず)たがいに両立しえないものなのだ、と。

 「双子のパラドックス」ということばの指示する内容を、運動系の時間の遅れから、特殊相対性理論の核心である2つの原理へと変える。これを基礎に新しい弁証法の理論を展開したいと思う。

 2008年に書いた相対性理論に関する記事を「双子のパラドックス――弁証法1905(Ⅰ)」として 、まとめた。

 「表出論のゆくえ2008」 「1905年における光の粒子性と波動性について」(試論14)と重なっているが、「時間の同調の定義と偏微分方程式について 」が入っている。 また、これまで「熱力学か、電磁気学か」で割愛していた写真(「自伝ノート」に対する訂正)をいれている。

 「双子のパラドックス――弁証法1905 」というタイトルは1年前に浮かんできたものである。このタイトルのもとで、相対性理論の形成過程の把握と弁証法の理論の見直しをやろうと思ってきた。今回はその第一声である。
 
 「双子のパラドックス」ということばから「宇宙旅行」ではなく、「相対性原理と光速度一定の原理」が連想されるようになる。そして、それが「弁証法」と結びつく。そんな日が来ればいいなあと思う。わたしの夢である。

 目次は、次のようになっている。

  目次      

   はしがき
   1 内的類似性の拡張
   2 時間の同調の定義と偏微分方程式について
   3 熱力学か、電磁気学か
   4 相対性理論の形成と武谷三段階論
   5 アインシュタインの思考モデルと2つの基準
   6 2つの基準の包摂
   7 表出のなかの悟性と理性
   8 「論理的なもの」とアインシュタインの認識論
   9 弁証法の場
   10 1905年における光の粒子性と波動性について
   11 表出論のゆくえ

     双子のパラドックス――弁証法1905 (Ⅰ)