3 廣松弁証法の消去
廣松渉は「動く物体の電気力学」に「弁証法における体系構成法」を指摘するが、自身で論点を縮小していく。さきに引用した「我田引水」は次のように続いている。
わたしたちは弁証法を下向の過程に位置づけている。対話も下向の過程で問題にするのである。上向の過程において対話的構制を扱う必要はなく、弁証法は体系構成法とはまったく違っている。わたしたちが体系構成(上向の過程)にみるのは形式的な論理過程だけである。
廣松渉は「動く物体の電気力学」に「弁証法における体系構成法」を指摘するが、自身で論点を縮小していく。さきに引用した「我田引水」は次のように続いている。
我田引水の譏りを憚らずに言えば、右にみるごとき「端初」(原理)の定立、ならびに、当の″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開は、筆者が別稿「弁証法における体系構成法」において詳論した構制とまさに照応するかたちになっている。――筆者としては、勿論、アインシュタインの体系構制が十全に弁証法的であると強弁する心算もなければ、況んやアインシュタインが当の構制法を自覚的に採っていると誣いる趣意もない。しかし、第三者的・結果的にみるとき、相対性理論の論理的構制が、筆者がマルクスの「上向法」を推及するかたちで謂う「弁証法的体系構成法」と、或る一定の射影において、構図的・図式的には、吻合する一面をもつことまでは逸せないように思う。廣松渉の「原始函数の整型と充当」は、マルクスの「下向と上向」に対応する。原始函数の整型は下向に対応する。また、その充当は上向に対応する。廣松は弁証法を上向の過程で問題にする。廣松は『弁証法の論理』のなかで次のように述べていた。
"原始函数"の整型は、いかに周到におこなわるべきだとしても、所詮は論理必然的な定立ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定立された"原始函数"から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。弁証法的展開は上向の過程で想定され、対話も上向の過程で問題になっている。「当事主体」と「われわれ」、「著者」と「読者」といった契機を絡めた対話的構制はヘーゲルの Nachdenken (結果論的思考)にもとづいた考え方である。『弁証法の論理』の展開の特徴は、このような対話的構制が文体として反映されていることである。これは形骸化した認識の現われである。
これは、われわれの弁証法的展開の論理にもほかなりませんし、そこでは「当事主体」と「われわれ」、それに「著者」と「読者」といった契機を絡めた対話的構制が問題になり、遡っては、そもそも論理とは何ぞやということの省察から必要になります。
わたしたちは弁証法を下向の過程に位置づけている。対話も下向の過程で問題にするのである。上向の過程において対話的構制を扱う必要はなく、弁証法は体系構成法とはまったく違っている。わたしたちが体系構成(上向の過程)にみるのは形式的な論理過程だけである。