対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

廣松弁証法7

2015-04-30 | 弁証法
3 廣松弁証法の消去

廣松渉は「動く物体の電気力学」に「弁証法における体系構成法」を指摘するが、自身で論点を縮小していく。さきに引用した「我田引水」は次のように続いている。
我田引水の譏りを憚らずに言えば、右にみるごとき「端初」(原理)の定立、ならびに、当の″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開は、筆者が別稿「弁証法における体系構成法」において詳論した構制とまさに照応するかたちになっている。――筆者としては、勿論、アインシュタインの体系構制が十全に弁証法的であると強弁する心算もなければ、況んやアインシュタインが当の構制法を自覚的に採っていると誣いる趣意もない。しかし、第三者的・結果的にみるとき、相対性理論の論理的構制が、筆者がマルクスの「上向法」を推及するかたちで謂う「弁証法的体系構成法」と、或る一定の射影において、構図的・図式的には、吻合する一面をもつことまでは逸せないように思う。
廣松渉の「原始函数の整型と充当」は、マルクスの「下向と上向」に対応する。原始函数の整型は下向に対応する。また、その充当は上向に対応する。廣松は弁証法を上向の過程で問題にする。廣松は『弁証法の論理』のなかで次のように述べていた。
"原始函数"の整型は、いかに周到におこなわるべきだとしても、所詮は論理必然的な定立ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定立された"原始函数"から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。
これは、われわれの弁証法的展開の論理にもほかなりませんし、そこでは「当事主体」と「われわれ」、それに「著者」と「読者」といった契機を絡めた対話的構制が問題になり、遡っては、そもそも論理とは何ぞやということの省察から必要になります。
弁証法的展開は上向の過程で想定され、対話も上向の過程で問題になっている。「当事主体」と「われわれ」、「著者」と「読者」といった契機を絡めた対話的構制はヘーゲルの Nachdenken (結果論的思考)にもとづいた考え方である。『弁証法の論理』の展開の特徴は、このような対話的構制が文体として反映されていることである。これは形骸化した認識の現われである。
わたしたちは弁証法を下向の過程に位置づけている。対話も下向の過程で問題にするのである。上向の過程において対話的構制を扱う必要はなく、弁証法は体系構成法とはまったく違っている。わたしたちが体系構成(上向の過程)にみるのは形式的な論理過程だけである。

ハルジオン

2015-04-27 | 日記
春に咲く紫苑(しおん)で、春紫苑(はるじおん)。花は姫女苑(ひめじょおん)に似ている。つぼみが垂れ下がるのがハルジオン。春女苑 (はるじょおん)という別名もある。


アマドコロ

2015-04-26 | 日記
甘野老。地下茎がヤマノイモ科の野老(トコロ)に似ていて甘味があることに由来する。「野老」は野の老人である。節がありひげ根がつく地下茎を老人に見立てたもの、海の「海老」に対する野の「野老」。試したことはないが、若芽・地下茎は食べられ甘いという。葉と花を噛んでみると青臭いが、味わっていると確かに甘みを感じる。




アマドコロもフキもスギナも地下茎。地下は立体交差しているのだろう。

ナミアゲハ

2015-04-25 | 日記
黄色のアゲハ蝶には2種類ある。ナミアゲハとキアゲハ。見分けるには前翅の付け根の模様に着目するという。ナミアゲハは縞模様、黒い線がはっきりしている。キアゲハは縞ではなく一様な灰色。ナミアゲハ、漢字で書くと並揚羽。よく見かけるナミ(並)のアゲハらしい。

小松菜の花

蜜柑の葉

廣松弁証法6

2015-04-24 | 弁証法
廣松は『相対性理論の哲学』と『弁証法の論理』を整合させるために、アインシュタインの2つの原理と自身が想定する原理(ローレンツ変換)を一体化する。
畢竟するに、アインシュタインは「原理」として、原始的・基本的″函数″態を措定し、この″函数″の″充当的展開″の手法を採ることにおいて、彼の思念する″演繹的展開″を成就しているのである。が、このさい、「原理」の定立が二義的二重性を帯びる所以となる。彼が「経験的事実の厖大な複合体に即して、確然と定式化されうる一定の普遍的徴標を観取」し、それを「一般化して定式化」するかぎりでの「原理」措定、つまり、特殊相対論における両原理の提示、この第一段は、謂うなれば経験的事態の現相論的記述に類するものである。この直接的な措定では、よしんばミニマルなエンドクサの追認と称され得ようとも、まだ″函数態″の相で確然と定式化されるには到っていない。そこで、当の「経験的事実の一般化的定式」が表現する「事態」について、その「可能性の条件」を確定していく手続を介して、それの存立構造を″函数態″の相で明示的に「確然と定式化」する。この規定を俟って、即自態にあった「端初」(原理)が対自態となり、この″原始的・基本的"″函数〃 の提示が第二段の「原理定立」を意味する次第なのである。
我田引水の譏りを憚らずに言えば、右にみるごとき「端初」(原理)の定立、ならびに、当の″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開は、筆者が別稿「弁証法における体系構成法」において詳論した構制とまさに照応するかたちになっている。
第1段階がアインシュタインの2つの「原理」であり、廣松は「経験的事態の現相論的記述に類するもの」・「ミニマルなエンドクサの追認」と捉える。直接的な措定である。第2段階が″函数態″の相で明示的に「確然と定式化」された「原理」(ローレンツ変換式)である。第1段階(「即自」)・第2段階(「対自」)という関係を想定することによって、アインシュタインの2つの原理とローレンツ変換を一体化する。アインシュタインの2つの原理をローレンツ変換まで引き延ばす一方で、第1部の終りのローレンツ変換を冒頭の2つの原理まで遡らせるのである。「原理」の定立が「二義的二重性」を帯びるのである。

″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開とは、第2部のマックスウェルの電気力学がローレンツ変換を満たしていることを指している。すなわち、マックスウェルの電気力学(aα2β2 )が、ローレンツ変換axy(=aα1β1 )と同じ構造の異なった現われであることを指している。

廣松弁証法5

2015-04-23 | 弁証法
アインシュタインの「原理」をカッシーラーの函数概念で捉えることは正しい。しかし、これを2つの原理ではなくローレンツ変換にみることは間違っている。
廣松渉は『弁証法の論理』のなかで次のように述べている。
"原始函数"の整型は、いかに周到におこなわるべきだとしても、所詮は論理必然的な定立ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定立された"原始函数"から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。
原始函数の整型は論理必然的な定立ではないと断定しているのである。しかし、『相対性理論の哲学』ではこれがあいまいになっている。廣松は第1部「運動学の部」(2つの原理からローレンツ変換の定式を導く)を「原理の探究」つまり「原始函数の整型」と考えている。『弁証法の論理』では原始函数の整型は論理必然的な定立ではないと述べているのだから、廣松は第1部「運動学の部」を論理必然的でないものと捉えていることになる。これは間違っている。2つの原理(相対性原理と光速度一定の原理)からローレンツ変換を導いていく過程は、論理必然的だと考えられるからである。

廣松弁証法4

2015-04-22 | 弁証法
このような展開が可能になるのは、廣松渉がアインシュタイン自身の「原理」に対する見解を排して、カッシーラーの函数概念でアインシュタインの「原理」を解釈したことによっている。
アインシュタインの「原理」は、本人の建前はどうであれ、カッシーラー流にみれば、「個々の観測から抽き出された経験的命題ではなく」「物理学的概念形成のための一つの規則 (Vorschrift 指針)にすぎない。
この「展開」の論理構制をみるためには、「端初」=原理なるものの性格を顧みておかねばならない。―― アインシュタインは「原理」は論理必然的な手続で措定されるものではないこと、それは帰納的手続によって取出されるものですらないことを自覚していた。「研究者は、経験事実の厖大な複合体に即して、確然と定式化されうる一定の普遍的徴標を観取することによって、普遍的原理を、謂うなれば自然から偸聴(ablauschen)〈廣松は、「偸聴」に「ぬすみぎき」とルビをふっている。―― 引用者注〉しなければならない」と彼は言う。そして、このようにして「観取」(erschauen)される「原理」は、「経験的事態を一般化して定式化したもの」にほかならない、とも言う。
問題は、この「一般化して定式化」されたものであるが、それが普通の意味での経験的諸事実の現相的記述とは次元を異にする事は更めて言うまでもない。この原理定立の場面での構制をアインシュタイン本人は明識しなかったかぎりで、一方では帰納法的な抽出ではないとネガティヴに述べ、他方では「観取」「偸聴」という比喩的な言い方に止めているが、われわれ第三者の見地からみれば、それは 「概念形成」(Begriffsbildung)の機制に関して、ヘルマン・ロッツエやエルンスト・カッシーラーが夙に説いている方式での 「補完的」(ersetzend)「函数概念化的」な一般化的定式にほかならない筈である。
アインシュタインの「原理」をカッシーラーの函数概念によって解釈しローレンツ変換に「原理」を見る。そして、「原理の探究」と「その原理から流出する諸帰結」を第1部「運動学」と第2部「電気力学」に対応させる。これによって廣松は「動く物体の電気力学」に弁証法の体系構成法を読み取っているのである。