対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

Hic Rhodus, hic salta!の表層と深層

2015-01-08 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!

 表に見えるのは「ここがロドスだ、ここで跳べ!」である。その下には「ここがロドスだ、ここで踊れ!」がある。さらにその下には「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」がある。

 
  踊るのか、跳ぶのか。

  跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇
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梯明秀のロドス

2015-01-07 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!に対して、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」という訳があることは、堀江忠雄の『マルクス経済学と現実』で初めて知った。堀江だけだろうと思っていたが、フォイエルバッハ『唯心論と唯物論』の訳者、船山信一(岩波文庫)も桝田啓三郎(角川文庫)も、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」であった。

 最近、もう一人増えた。梯明秀である。かれは『ヘーゲル哲学と資本論』のなかで、次のように述べていた。
マルクスは、ヘーゲルの学問的態度に反して、「彼の理論が実際にその時代を内に超越し、世界をそれが有るべきように建築する」のであるが、しかし、このマルクスの理論は、『資本論』の著作をまつまでもなく、つとに「彼の臆念のうちにのみ実存する」ことを止めて、世界の大衆のものになっていたのであった。それだからこそマルクスは、<ここがロードスだ、ここで踊れ>という箴言を、ヘーゲルによって教えられ、これを肝に銘じて、ヘーゲルとともに、その時代の内に在ったというわけである。すなわち二人は、現実に彼らの時代に制約され、そこに内在し、そこを跳び越えはしなかったのであるが、一方は、現実に「有るところのものが理性的である」と信じ、他方は、現実に「有るところのものは理性を喪失している」と見たところにおいて、われわれは、彼らのあいだの学問的態度の差異を、発見すべきであろう。
 「<ここがロードスだ、ここで踊れ>という箴言を、ヘーゲルによって教えられ」とは一体どういうことなのだろうか。通常は踊るsaltaを「跳ぶ」と誤解するのに、梯は跳ぶsaltusを「踊る」と誤解したのだろうか。いいかえれば、ヘーゲルが引用したHic Rhodus, hic saltus!を「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と捉えていたのだろうか。
 「ヘーゲルによって教えられ」とは、上のように直接的に教えられるとはかぎらない。間接的に教えられる場合もある。つまり、ヘーゲルは「跳ぶ」だが、マルクスは「踊る」と言い換えて継承した場合でも「教えられ」たことになる。

 いずれにしても、梯明秀はHic Rhodus, hic salta!を「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と捉えている。

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過渡期の箴言Hic Rhodus, hic salta!

2015-01-06 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!は普通には「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と読まれている。これに対して、マルクスが書いているのは「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」ではないかと私は問題提起した。
 いずれも文字どおりでなく、前者は踊るsaltaを「跳ぶ」、後者はロドスRhodusを「薔薇」と考えている。

 ラテン語に忠実に読めば、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」である。Hic Rhodus, hic salta!は過渡的な箴言であると考えている。

     跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇
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ロドスは前座、薔薇が真打ち2。

2014-12-28 | 跳ぶのか、踊るのか。
 マルクスが、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』や『資本論』で書いているHic Rhodus, hic salta!は、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」ではなく、「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」である。これが「跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇」で提起している仮説である。

 この問題提起に着目してもらう一つのきっかけとして「ロドスは前座、薔薇が真打ち。」という記事を書いた。補足しておこう。

 ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で、現実と理性の関係を説明するときに、ロドスと薔薇をの二つを取り上げている。初めにロドスを取り上げ、次にその言い替えとして薔薇を取り上げている。

    Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)
    Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)

 これまで『資本論』のHic Rhodus, hic salta!は、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と解釈されてきたため、ヘーゲルの箴言の二つの内、ロドスだけが着目され、薔薇がマルクスとの関係でほとんど注目されてこなかった。

 しかし、ヘーゲルの二つの箴言を『法の哲学』の序文に沿って読めば明らかのように、ヘーゲルが強調しているのは、ドイツ語で書いた薔薇の箴言の方である。

 それならば、マルクスがヘーゲルから引き継ぐものがあるとしたら、Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)ではなく、Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)ではないか。

 マルクスが Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)を、Hic Rhodus, hic salta! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)と訳して継承した可能性は大いにあると思う。
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ロドスは前座、薔薇が真打ち。

2014-12-23 | 跳ぶのか、踊るのか。
 ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で、現実と理性の関係を説明するとき、ギリシア語やラテン語でロドスを取り上げた。しかし、ヘーゲルが強調しているのは、ドイツ語の薔薇である。十字架における薔薇にこそ、現実と理性の関係が過不足なく対応しているのである。ドイツ語で表現していることが大切である。それはルターがギリシア語やラテン語の聖書をドイツ語に翻訳したのと同じようなものといえるのである。

 マルクスがヘーゲルから引き継ぐものがあるとしたら、それはロドスではなく、薔薇なのである。
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『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』英訳版のロドスと薔薇

2014-12-18 | 跳ぶのか、踊るのか。
 ロドスと薔薇の箴言を、日独仏英で比較してみよう。まず、日本語訳を引用しておこう。(伊藤新一・北条元一訳)
プロレタリア革命は、たとえば十九世紀のそれのように、たえまなく、自分じしんを批判し、自分のみちをすすみながらたえず立ちどまる。そしてふたたびあらたにやりなおすために、一見成就したものにたちもどる。自分の最初の試みの中途半ぱさ、よわさ、くだらなさを、残酷なほど徹底的にあざける。自分の相手をうちたおす、だがそれをするのは、ただ相手をして大地から新しい力をすいとらせ一そう巨大となって自分にふたたびたちむかわせるためにすぎないかのようである。自分の目的のばく然たる巨大さをまえにして、たえずあらたなたじろぎをおぼえる。こうしてついに一切のあともどりが不可能となり、事情そのものがこうさけぶ情勢がつくりだされる。――
   Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
   Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)
 箴言のところだけみてみる。

 独語
    Hic Rhodus, hic salta!
    Hier ist die Rose, hier tanze!
 日本語
    Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
    Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)
 仏語
    Hic Rhodus, hic salta !
    C'est ici qu'est la rose, c'est ici qu'il faut danser !

 独語はもちろんマルクスの原文である。日本語訳はその原文をそのまま引用し、日本語で注釈をしている。仏語訳は、ロドスはそのまま引用するが、薔薇は原文を示さず仏語を直接書いている。ここは、日本語訳の方が上手な翻訳といえるだろう。仏語訳も長くなるが、日本語訳と同じように、原文を引用し仏語の注釈すべきだろう。
    Hier ist die Rose, hier tanze!(C'est ici qu'est la rose, c'est ici qu'il faut danser !)

 しかし、仏語訳よりひどいのは英訳である。English translation by Daniel De Leon (Chicago: Charles H. Kerr & Company, 1907)
 冒頭の日本語訳と同じところを引用してみる。
Proletarian revolutions, on the contrary, such as those of the nineteenth century, criticize themselves constantly; constantly interrupt themselves in their own course; come back to what seems to have been accomplished, in order to start over anew; scorn with cruel thoroughness the half measures, weaknesses and meannesses of their first attempts; seem to throw down their adversary only in order to enable him to draw fresh strength from the earth, and again, to rise up against them in more gigantic stature; constantly recoil in fear before the undefined monster magnitude of their own objects—until finally that situation is created which renders all retreat impossible, and the conditions themselves cry out:

    "Hic Rhodus, hic salta!"
    "Here is Rhodes, leap here!"
 薔薇が消えて、ロドスだけなのである。ロドス、ロドスである。ヘーゲルとの関係が削除されてしまっている。せめて、“Here is the rose, dance here”ではないか。

 しかも、私の問題提起とまったく反対の書き換えである。私の主張は、薔薇、薔薇である。ヘーゲルとの関係を全面的に引き継いでいるのである。
     Hic Rhodon, hic salta!
     Hier ist die Rose, hier tanze!

   跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇

 マルクスの箴言。
     Hic Rhodus, hic salta!
     Hier ist die Rose, hier tanze!
 英訳の箴言。
     Hic Rhodus, hic salta!
     Here is Rhodes, leap here!

 Where has the flower gone? 
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入学式のなかのロドス

2014-12-16 | 跳ぶのか、踊るのか。
 「ロドス」で検索していたのだと思う。2013年度の立教大学入学式で、ロドスの箴言が使われていることを知った。総長の吉岡知哉氏の挨拶のなかにあった。新入生にこの箴言を送り、激励している。こういうふうにも使われるのかと思った。 
 挨拶の後半を引用する。
近代以降の社会は最大限の効率を求める社会です。情報通信技術とグローバル化が進む現代社会においては、効率化が極限にまで押し進められつつあります。けれども、人間の社会、人間と人間との関係において、効率性はごく一部に関わるものにすぎません。
そして、「学び問い考える」という、大学において最も基本的な営みは、言うまでもなく、効率性には還元できないものなのです。
現在、社会の変化が加速して行く中で、大学には既存の社会と同様の価値観と効率性が求められるようになってきました。もちろん大学も現代社会の構成要素ですから、社会の動向と無縁ではあり得ません。しかし大学が社会の中に存在している最大の意義は、その時々の価値観や効率から離れて、より大きな時間的・空間的なスパンで、全体を俯瞰する役割を負っているという点にあります。

しばしば大学で学ぶ知識は実社会では役にたたない、という言い方がされることがあります。皆さんも大学を出て外の社会で働くようになったときに、大学で学んだ知識が役に立たないと思うことがあるのではないかと思います。
しかし、皆さんが大学で真剣に学び、考えたのであれば、その知識が役に立たないということが、後悔と結びつくことは決して無いでしょう。そのとき皆さんは、大学で身に付けたものが、個々の知識を超えて、ものの見方、考え方であったことを実感するに違いありません。

さて、皆さんは次のようなイソップ寓話をご存じでしょうか。岩波文庫から引用します。

「国ではいつも、もっと男らしくやれ、とケチをつけられていた五種競技の選手が、ある時海外遠征に出て、暫くぶりで戻ってくると、大言壮語して、あちこちの国で勇名をはせたが、殊にロドス島では、オリンピア競技祭の優勝者でさえ届かぬ程のジャンプをしてやった、と語った。もしもロドスへ出かけることがあれば、競技場に居合わせた人が証人になってくれよう、とつけ加えると、その場の一人が遮って言うには、『おい、そこの兄さん、それが本当なら、証人はいらない。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ』」(中務哲郎訳『イソップ寓話集』)

この寓話には、「法螺吹」というタイトルがついていますが、私は、身の程知らずの法螺は吹かない方がいいと言いたいためにこの話を持ち出したのではありません。
また、イソップ寓話はこれに続けて、「事実による証明が手近にあるときは、言葉は要らない、ということをこの話は解き明かしてる。」と解釈をつけ加えていますが、ここではその解釈に従うつもりはありません。
19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で理性と現実との関係について語るときに、「ここがロドスだ、さあここで跳べ」というこの言葉を引いています。また、マルクスが『資本論』の中でこの言葉を使っていることも知られています。
解釈は色々あるのかもしれませんが、私はよく使われるように、「今この瞬間、この場所こそが、実力を発揮する場所だ」、あるいは、「今ここにある現実に、全力で向かい合え」という意味で用いたいと思います。

長い注釈になりましたが、皆さんが、「自由の学府」であるここ立教大学で全力で飛躍することを期待して、「ここがロドスだ、さあここで跳べ」という言葉を送り、祝福の挨拶といたします。

入学おめでとうございます。
 このロドスの箴言は、イソップのものと明確に区別され、的確に使われていると思う。「ここがロドスだ、さあここで跳べ」を「今この瞬間、この場所こそが、実力を発揮する場所だ」、「今ここにある現実に、全力で向かい合え」という意味で用いるのは、正しいと思う。そして、これはイソップものともヘーゲルのものとも違い、マルクスのものといってよい。しかし、マルクスは『資本論』でこの言葉を使っているというのは通説であって、誤っている。実際には、使っていないのである。マルクスはHic Rhodus, hic salta!と書いているだけである。これは「ここがロドスだ、さあここで跳べ!」ではないのである。また「ここがロドスだ、ここで踊れ!」でもないのである。
 これは私の「学び問い考える」過程から生まれた見解である。「跳ぶのか、踊るのか。――ロドスはマルクスの薔薇」を読んで考えてもらいたいと思う。

     跳ぶのか、踊るのか。――ロドスはマルクスの薔薇

 さて、吉岡総長の祝福を受けた新入生は、いま2年生になっている。かれらは「ここがロドスだ、さあここで跳べ」をおぼえているだろうか。
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跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 5

2014-12-10 | 跳ぶのか、踊るのか。
跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 5 

 5 ロドスの下向と上向

 最後に、Hic Rhodus, hic salta!(マルクス)とHic Rhodus, hic saltus!(イソップ)の関係をみることにする。

 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』にもどって、確認しておこう。先の引用はあえて、ラテン語の表現とドイツ語の表現に注釈を付けなかった。実際は、次のようになっているのである。
自分の目的のばく然たる巨大さをまえにして、たえずあらたなたじろぎをおぼえる。こうしてついに一切のあともどりが不可能となり、事情そのものがこうさけぶ情勢がつくりだされる。――
   Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
   Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)
 このように、19世紀のドイツで表現されたものが、時代を越え、国を越えて、20世紀の日本にまで来ると、マルクスが同じ一つのことを言っているのではなく、イソップとヘーゲルの二つを併置していると捉えられるようになるのである。
 確認しよう。ここには、次のような注が付いている。
 はじめの行のラテン語、ここがロドスだ、ここでとべ、はイソップ寓話の一つ(岩波文痺『アイソーボス寓話』第五一話)に由来する。「ロドス島のとびくらべでものすごくとんだ、ちゃんと証人がいる」といってほらを吹く人に、「証人なんかいりゃしない、ここがロドス島だ、ここでとんでみろ」という話である。すなわち、ここで実践してみせろの意。ところでつぎのドイツ語、ここにバラがある、ここでおどれは、ロドス島がロドンすなわちバラに由来した名でバラの花で有名な島であることから、ロドスにバラをひっかけたしゃれであって、ヘーゲルは『法律哲学』の序文で「ここがロドスだ、ここでとべ」をこう言いかえることができるといっている。マルクスはここでこのヘーゲルの文章を思い出して、前の句にこれをつけたのである。
 Hic Rhodus, hic salta! の「salta」が「跳べ」と読まれるようになったのは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』ではなく、『資本論』だっただろう。そもそも『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』は当時、マルクスの周辺の人が読んだだけで、ほとんど読まれていないと言っていい。しかし、『資本論』は多くの人に読まれたのである。

 『資本論』には、Hic Rhodus, hic salta!だけが書いてある。そして、次のような注釈がついている。「ここがロドスだ、さあ跳べ!」(向坂逸郎、岩波文庫)、「ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!」(大内兵衛・細川嘉六、大月書店)。ここに初めて、二番目の読み方が登場したのである。

 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』では無理だったろう。そこには二本の薔薇が並んでいた。『資本論』において、ヘーゲルの薔薇Roseと切り離され、単独でマルクスの薔薇Rhodusとして提起されて初めて、saltaは「跳ぶ」可能性をもったのである。『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』ではsaltaは「踊る」のままで、「跳ぶ」兆候はないのである。

 『資本論』のHic Rhodus, hic salta!も『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』と同じである。これはマルクスの頭の中では、「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」である。マルクスの内部では、これは積極的になったHier ist die Rose, hier tanze! である。Rhodusはマルクスの薔薇なのである。しかし、いったんマルクスから離れ、多くの人に読まれ始めると、Rhodusはロドス島とみえ、Hic Rhodus, hic saltus!と結びつく可能性が生まれたのである。そして、実際、saltaは、命がけの跳躍(salto mortale)をして、saltusになったのである。いいかえれば、saltaは「跳ぶ」に変わったのである。

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」はマルクスが作ったのではない。マルクスの頭の外で作られたのである。命がけの跳躍(salto mortale)はマルクスの頭の外で起こったのである。いいかえれば、マルクス主義の運動が作り出したのである。ラテン語には精通していないが、イソップの物語はよく知っている人たちが多くいたのである。

 それはマルクスの精神を否定するものではなく、マルクスの精神をより積極的に表現したのである。マルクスが、ヘーゲルのHier ist die Rose, hier tanze!をラテン語に翻訳したのは、ヘーゲルの精神を積極的にとらえ直すことにあった。このときマルクスは誤ってHic Rhodus, hic salta!と書いた。こんどは、正しい「踊る」saltaが「跳ぶ」saltusと誤って読まれ、Hic Rhodus, hic saltus!と重なることによって、このマルクスの精神は、さらに積極的に捉えられるようになったのである。

 マルクスの精神はマルクスの頭の外で補完され実現されたのである。

     Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここで跳べ!) 

 初めに『資本論』である。そこでsaltaが「跳ぶ」に変わった。次に『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』が読まれるようになって、二本の薔薇が、ロドスと薔薇に分かれる。「ここがロドスだ、ここで跳べ!」(イソップ)と「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」(ヘーゲル)が併置されていると解釈されるようになったのである。

 私の学生時代は1970年代前半だが、Hic Rhodus, hic salta!は、もっぱら「ここがロドスだ、ここで跳べ!」であった。『唯心論と唯物論』も読んだが、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」は目に入らなかった。「ここがロドスだ、ここで踊れ!」という訳があることは、堀江忠男を読むまでまったく自覚することはなかったのである。

 堀江忠男はHic Rhodus, hic salta!の成立過程を次のように捉えていた。(『弁証法経済学批判』参照)

 「Hic Rhodus, hic saltus!」(ここがロドスだ、ここで跳べ!)。Hier ist die Rose, hier tanze!(これが薔薇だ、ここで踊れ!)をラテン語に直した「Hic rodon, hic salta! 」。マルクスはこの二つを知っていて、前半Hic Rhodusと後半hic salta!を結びつけて、Hic Rhodus, hic salta!と書いた。それゆえ、これは「ここがロドスだ、ここで跳べ!」ではなく「ここがロドスだ、ここで踊れ!」
 そして、その考えを自然なものにするために、古代ギリシアまでさかのぼって、イソップの話を書き替えたのである。
 余談だが、ロードス島というのは、ギリシアの東南方の海上、トルコ半島の西南端に近い島で、紀元前から地中海貿易の要衝だったところである。したがって、芝居、奇術、踊りなどの興業が盛んだったらしい。アイソフォスの寓話のなかに、ロードス島で他人が真似のできないほどすばらしく踊ったという人にむかって「ここでロードス島だと思ってもう一度踊ってみよ」といった話がある。
 しかし、ロドスでは踊らないのである。ロドスでは跳ぶのである。踊るのは、薔薇。跳ぶのはロドスである。しかしマルクスの書いているラテン語は、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」である。堀江とは違った成立過程を提示しなければならないと思った。

 イソップのHic Rhodus, hic saltus!が、ヘーゲルによって独特な解釈をされ、Hier ist die Rose, hier tanze!なった過程をRhodusの下向ということにしよう。そして、ヘーゲルの薔薇が誤って翻訳され、ふたたびRhodusになり、Hic Rhodus, hic salta!になった過程を、Rhodusの上向としよう。
 ヘーゲルによる下向。イソップのロドスRhodusは、現実と置き換えられ、薔薇Roseとなる。他方、跳躍saltusは、存在するものを把握する(「to apprehend what is 」)行為として、踊れ tanzeになった。
 マルクスによる上向。ヘーゲルの薔薇は誤ってラテン語に翻訳されロドスRhodusとなる。他方、踊るtanzeは正確に翻訳されてsaltaとなったが、このとき踊るsaltaは、「和解」ではなく「挑戦」の色彩を帯びるようになった。

 そしてHic Rhodus, hic salta!はロドスRhodusを支点にして、Hic Rhodus, hic saltus!と関連するようになった。そして、Rhodusは、「薔薇」から「ロドス」に変わり、saltaは「踊れ」から「跳べ」に変わったのである。

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」は、一つの与えられた課題(task)に挑戦する人(自分でも他人でも)を鼓舞する箴言として把握されるようになっている。 
 これはイソップのHic Rhodus, hic saltus!(主張と行為)ともヘーゲルのHier ist die Rose, hier tanze!(現実と哲学)とも違っている。しかし、「踊る」saltaが「跳べ」と解釈されることによって、両者を複合した意味をもつようになったのである。
 「主張と行為」の関係の中に「現実と哲学」の関係が入り込み、また「現実と哲学」の中に「主張と行為」が入り込んで、両者が「課題と挑戦」を構成している。

     Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここで跳べ!)

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」は、ラテン語の意味としては誤った翻訳である。しかし、伝承されてきたイソップのHic Rhodus, hic saltus!とヘーゲルのHier ist die Rose, hier tanze!を止揚していて、歴史的にも文化的にも連帯している表現なのである。

 踊るのか、跳ぶのか。跳ぶのか、踊るのか。saltaの意味が振れる原因を、Rhodusと saltaの奇妙な結合に見出し、ロドスの下向と上向という過程が19世紀に起きたと想定することによって、Rhodusと saltaの謎を解こうとしたのである。

 以前(「踊るのか、跳ぶのか。」)は、肯定的理性・「to be」(このままでいい)と否定的理性・「not to be」(このままではいけない)を「踊る」と「跳ぶ」で区別していた。

    「踊る」 ―― 肯定的理性・「to be」(このままでいい)
    「跳ぶ」 ―― 否定的理性・「not to be」(このままではいけない)

いまは、「踊る」で区別できる。「踊る」のドイツ語表記tanzeとラテン語表記saltaである。

    「踊る」tanze(和解) ―― 肯定的理性・「to be」(このままでいい)
    「踊る」salta(挑戦) ―― 否定的理性・「not to be」(このままではいけない)

 日本語の「踊る」に着目すれば、「踊るのか、跳ぶのか。」では、肯定的理性・「to be」だけに限定されていた「踊る」は、いまはすべて(肯定的理性・「to be」と否定的理性・「not to be」)を含むようになっている。「踊る」の拡張が、以前との大きな違いである。

 ロドスでは踊らない。なぜならマルクスのHic Rhodus, hic salta!は、積極的になったHier ist die Rose, hier tanze!だからである。ロドスとは関係ないのである。
 踊るのは、薔薇。これはヘーゲルとマルクスが共有する認識である。Hier ist die Rose, hier tanze!とHic rhodon, hic salta! 。これはHic Rhodus, hic salta!の基礎である。
 跳ぶのはロドス。Hic Rhodus, hic salta!が多くの人に読まれはじめると、Rhodusを支点にHic Rhodus, hic saltus!と関連して、saltaは踊るから跳ぶに変わったのである。

    「踊る」tanze ―― 肯定的理性・「to be」(このままでいい)
    「跳ぶ」salta ―― 否定的理性・「not to be」(このままではいけない)

 踊るのか、跳ぶのか。跳ぶのか、踊るのか。揺れるのは、 Rhodusとsaltaの奇妙な結合に由来している。a garbled mixture of Hegel’s two versions ―― Hic Rhodus, hic salta!。

 あと一つ指摘して終わろう。

 マルクスが『資本論』の第1巻を仕上げようとしていたころ、ドイツの知識人たちは、ヘーゲルを「死せる犬」として取り扱っていた。これに対して、マルクスは、次のように述べている。
それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえしたのである。
 これを集約した表現が Hic Rhodus, hic salta! である。いまでは世界中で、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と読まれているが、マルクスが書いているのは、「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」なのである。ロドスはマルクスの薔薇なのである。     (了)
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跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 4

2014-12-09 | 跳ぶのか、踊るのか。
跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 4 

 4 マルクスのロドス

 こんどは、Hier ist die Rose, hier tanze!(ヘーゲル)とHic Rhodus, hic salta!(マルクス)の関係についてみていこう。
 マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(伊藤新一・北条元一訳)で次のように述べている。
自分の目的のばく然たる巨大さをまえにして、たえずあらたなたじろぎをおぼえる。こうしてついに一切のあともどりが不可能となり、事情そのものがこうさけぶ情勢がつくりだされる。――
   Hic Rhodus, hic salta!
   Hier ist die Rose, hier tanze!

 記事は、マルクスがラテン語とドイツ語を併記しているのを、ありえないが、まるで翻訳のようだと述べていた。私は次のように読み替える。

   as if it were a translation(まるで翻訳)を it was a translation(翻訳)に、
   it cannot be (ありえない)をit can be(ありえる)に。

 ヘーゲルのHier ist die Rose, hier tanze!を翻訳したものとして、Hic Rhodus, hic salta!を捉える。つまり、saltaはtanzeの訳で「踊れ」である。そしてRhodusはギリシア語でもラテン語でもあり得ないが、Roseの訳で「薔薇」である。ありえないはずの翻訳がありえたと想定する。Rhodusは、当時でも現代でも「ロドス」という島を指すが、saltaと初めて結びついたRhodusは、島の名前ではなく、薔薇なのである。マルクスはラテン語とドイツ語で、同じ一つのことを言ったのである。「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」と。マルクスの頭の中では、RhodusはRoseなのである。マルクスはrhodonのつもりでRhodusと書いているのである。
 rhodonはギリシア語の薔薇ροδονのローマ字表記である。ドイツ語では名詞を大文字で始める。それゆえrhodonではなく、Rhodon。ロドスの古名Rhodosなら一字違い、Rhodusなら二字違いである。it can be(ありえる)である。

 マルクスは Hier ist die Rose, hier tanze!(ここに薔薇がある、ここで踊れ!)をラテン語に翻訳しただけである。ラテン語の表現もドイツ語の表現も、英語の表現でいえば、Here is the rose, here dance!と言っているだけなのである。Hic Rhodus, hic salta!は、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を書いているマルクスの頭の中では、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」とか、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」という意味をもっていない。「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」なのである。

 なぜドイツ語の提示だけでなくラテン語に訳しそれを先に提示したのかといえば、それはヘーゲルの「法哲学」ではなく、「ヘーゲル法哲学批判」の立場を鮮明にしたかったからである。いいかえれば「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」の精神を、ミネルバの梟ではなくガリヤの雄鶏に、夕暮れではなく明け方に、和解ではなく挑戦において継承しようとする意志を表していると考えられるのである。ヘーゲルを継承しその先へ行くという姿勢を表しているのである。記事がいうa more active spin(もっと積極的な解釈)である。
 ヘーゲルが「存在するところのものは理性である」と見たのに対して、マルクスは「存在するところのものは理性を実現していない」と見たのである。マルクスは「世界が何であるか(what is)」を把握するだけでなく、「世界が何であるべきか(what it ought to be)」を展開しようとしたのである。

 Hic Rhodus, hic salta!というラテン語を正確に訳せば、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」である。しかし、マルクスはその意味の表現を意図したのではなく、あくまでも、Hier ist die Rose, hier tanze!の翻訳として提起したのである。もちろん、それはマルクスの内部においてだけ成立する。そしてマルクスは生涯にわたって、この間違いに気づかないのである。Hic Rhodus, hic salta!は、マルクスにとって、「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」なのである。ロドスはマルクスの薔薇なのである。

 しかし、マルクスの表現したHic Rhodus, hic salta!を他の人が読むと、薔薇の花はたちまちロドス島に変わることになる。薔薇がロドスに変わったあと、二つの読まれ方をすることになる。「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と「ここがロドスだ、ここで跳べ!」である。

 最初は「ここがロドスだ、ここで踊れ!」の方だったろう。フォイエルバッハの『唯心論と唯物論』(桝田啓三郎訳)には次のようなところがある。
すなわち私とは、ここで考えるこの個人、ここでこの肉体のなかで、とりわけ汝の頭の外にあるこの頭の中で考えるこの個人のことなのである。単に「ここがロドスだ、さあ踊ってみろ」といわれるばかりでなく、また、ここがアテナイだ、さあ考えてみろ、ともいわれるのである。
 「ここがロドスだ、さあ踊ってみろ」を正確にラテン語に翻訳すると、Hic Rhodus, hic salta!である。フォイエルバッハはマルクスの作ったラテン語の箴言を引用していると思われる。

 「ここがロドスだ、さあ踊ってみろ」には訳注がついていて、Hic Rhodus, hic salta!への言及がある。
 アイソポスの寓話、いわゆるイソップ物語にある寓話に由来する言葉。ロドス島ではオリンピック選手の誰にもまけないほど巧みな跳躍をしたといってホラを吹く競技者に向かって、市民の一人が、それならここがロドスだと思って跳んでみせろ、といった話から、hic Rhodus,hic salta(ここがロドスだ、ここで踊れ)という言葉が、なにごとでもひとに信じてもらいたければ人の目の前で事実を示して証明しなくてはならぬ、という意味の格言になって伝えられた。ここではこの格言的な意味ではなく、ヘーゲルが『法の哲学』の序で、個人が時代の子であるように、哲学も時代の子であって現在の世界を越えることはできないとして、ここでこのロドスで哲学しなくてはならぬと語ったのをもじって、ここにいるこの個人に結びつけているのである。(最初が大文字ではなく小文字になっているのは訳注にある通りで、引用の間違いではない。)
 この訳注には「跳ぶ」と「踊る」が混在している。「ここがロドスだと思って跳んでみせろ」の直後に、「ここがロドスだ、ここで踊れ」である。Hic Rhodus, hic salta!が掻き乱しているのである。
 桝田啓三郎はHic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここで踊れ!)が格言として伝えられたと述べているが、これは誤解である。格言として伝承されてきたのは、Hic Rhodus, hic saltus!の方である。そして、Hic Rhodus, hic salta!は1852年に、マルクスによって作られたばかりの表現なのである。

 注の後半に、「ここでこのロドスで哲学しなくてはならぬと語ったのをもじって、ここにいるこの個人に結びつけているのである」(二つの「ここ」・「この」には強調の傍点がある)とある。この指摘は正しいが、背景がまったく違っている。ヘーゲルのロドスは、Hic Rhodus,hic salta(ここがロドスだ、ここで踊れ)ではなく、Hic Rhodus, hic saltus!(ここがロドスだ、ここで跳べ!)である。
 
 ちなみに、フォイエルバッハは『唯心論と唯物論』を書いていたのは1863年から1866年のあいだと解説にある。ここの引用は、『資本論』(1867年)ではなく『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(1852年)からのものであることがわかる。 

 このように、マルクスのHic Rhodus, hic salta!は、マルクスの頭の外にある個人の頭の中では、違った意味に捉えられるのである。「ここがロドスだ、ここで踊れ!」が最初に現れた例である。

 「ここがロドスだ、ここで踊れ!」は、ラテン語の意味としては正しい翻訳である。しかし、伝承されてきたイソップの物語とはまったく切断されていて、歴史的にも文化的にも孤立した表現であるというべきだろう。 
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跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 3

2014-12-08 | 跳ぶのか、踊るのか。
跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 3

 3 ヘーゲルの薔薇

 あるのは次の三つの箴言である。この関係をどのように捉えるかである。

     Hic Rhodus, hic saltus!(イソップ)
     Hier ist die Rose, hier tanze!(ヘーゲル)
     Hic Rhodus, hic salta!(マルクス)

 まず、Hic Rhodus, hic saltus!(イソップ)とHier ist die Rose, hier tanze!(ヘーゲル)の関係をみておこう。

 ヘーゲルは『法の哲学』(藤野渉訳)の序文で、次のように述べている。
   Ἰδοὺ Ρόδος, ἰδοὺ χαὶ τὸ πήδημα.
   Hic Rhodus, hic saltus.
   〔ここがロドスだ、ここで跳べ〕
 存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人にかんしていえば、誰でももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を越え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を越え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な領域のうちにしか、存在していない。
 さっきの慣用句は少し変えればこう聞こえるであろう――

   ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。

 自覚した精神としての理性と、現に存在している現実としての理性との間にあるもの――まえのほうの理性をあとのほうの理性とわかち、後者のうちに満足を見いだせないものは、まだ概念にまで解放されていない抽象的なものの枷である。
 理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である、―― いったん彼らに、概念において把握しようとする内的な要求が生じたならば。
 ヘーゲルは「ここがロドスだ、ここで跳べ」の直後に、「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。」と続けている。このことから、ヘーゲルがこの箴言に読み込んでいるのは「哲学の課題」であり、「存在するものを概念において把握する」(to apprehend what is) ことであると捉えるのが妥当だろう。

 ヘーゲルはイソップの物語を知らなかったわけではないだろう。しかし、ここではその物語は捨象され、Hic Rhodus, hic saltus!だけがとり出されていることに注意しなければならない。そしてヘーゲルは「ロドス」と「跳ぶ」に特異な解釈をしている。イソップでは、ロドス島のなかの運動場とそこでおこなわれた走り幅跳びの「跳ぶ」が問題になっている。これに対して、ヘーゲルは、まずロドス島全体とその「跳ぶ」(「跳び越え」)を問題にしている。そして、その「跳び越えて外へ出る」ことが不可能なことをイメージさせることによって、哲学が時代を越え現在の世界を越え出ると考えるのは、妄想であり愚かであると指摘する。そしてそのような考え方を排除すると同時に、「跳ぶ」をロドスの内部に制限するのである。このように、ヘーゲルは、「存在するものを概念において把握する」(to apprehend what is) ことを表現するものとしてHic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)を取り上げているのである。

 ヘーゲルのHic Rhodus, hic saltus!は、端的にいえば、現実(ロドス)で、哲学せよ(跳べ)という意味である。そしてこのように変位された「ロドス」と「跳べ」に対して、言い替えが行われる。

     Rhodus ――  Rose
     saltus  ―― tanze

 言い替えをしたのは、哲学の課題の端的な表現としてHic Rhodus, hic saltus!を取り上げたが、それはあまりにもイソップの物語と違っている。そのために同じ内容をヘーゲル独自の表象で表わす必要を感じたからだろう。

     「ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。」

 これには次のような注が付いている。
 ギリシア語のロドス(島の名)をロドン(ばらの花)、ラテン語の saltus(跳べ)をsalta(踊れ)に「すこし変え」たしゃれ。ヘーゲルはここにギリシア語もラテン語も記してはいないが。
 いま改めてこの注を見ていると、おかしなことに気づく。ヘーゲルはラテン語の saltus(跳べ)をドイツ語の tanze(踊れ)に変えたのであって、salta(踊れ)に変えたのではない。ヘーゲルはギリシア語もラテン語も記してはいないのである。さかのぼって言えば、英文の記事(punning first on the Greek (Rhodos = Rhodes, rhodon = rose), then on the Latin (saltus = jump [noun], salta = dance [imperative].)も厳密にいえば正しくないのである。

 ちなみに、ギリシア語で、ロドス(島の名)はΡοδοςである。これをローマ字表記したのがRhodosである。また、ロドン(ばらの花)はροδονで、ローマ字表記がrhodonである。

 「十字架における薔薇」には次のような注が付いている。
 十字架は苦しみ、ばらは喜びのしるし。『宗教哲学』でも「現在の十字架のうちにばらをつむためには、おのれ自身に十字架を負わなくてはならない」と述べている。別のところでヘーゲルは「ばら十字架会の周知のシンボル」と記しているから、十七、八世紀ごろの神秘主義的な秘密結社「ロ-ゼンクロイツァー」Rosenkreuzerのシンボルからの示唆かと思われるが、メッツケによると、ルターの楯紋様が白いばらで取り囲まれた一つの心臓のまんなかに黒い十字架を描き、題銘に「キリスト者の心は十字架のまなかにあるときばらの花に向かう」とあるのを連想し、ルターにおいてはキリスト信仰の純粋な表現であったものがヘーゲルでは理性信仰になり、現実のもろもろの対立分裂のなかにおける和解の力としての理性のシンボルになるという。
 メッツケの解釈が正しいと思う。ロドス(島の名)をロドン(ばらの花)に変えるとき、ルター(の紋章「薔薇と十字架」)への同調があったのである。これはもっと強調されてよいと思う。

 「現に存在している現実としての理性」は「十字架における薔薇」といいかえられる。

 十字架は現実、薔薇は理性と対応している。「十字架における薔薇」は、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。」(What is rational is real; what is real is rational.)というヘーゲルの基本的な思想を象徴しているのである。

 「ここに薔薇がある、ここで踊れ」を省略しないで表現すると「ここに十字架における薔薇がある、ここで踊れ」である。ヘーゲルの薔薇は十字架における薔薇である。そして、理性を現在の十字架における薔薇として認識するとは、理性的なものを現実的なもののうちにおいてのみ把握するということである。

 ヘーゲルはイソップのHic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)を解釈して、次のように要約した。
     ロドス(現実)で、跳べ(哲学せよ)。

 Hier ist die Rose, hier tanze!も同じように、

     薔薇(現実)がある、踊れ(哲学せよ)。
である。

 しかし、薔薇の方が、内に秘められている理性と現実の関係が見やすくなっていて、美しく深みのある箴言になっているように思える。
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