対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

二つの展開図

2006-09-23 | 九鬼周造

 九鬼周造が提示した様相性の第三の体系の図は、次のような逆三角形だった。

     様相性の第三の体系(逆三角形)

 この図に対する小浜善信の説明(「時間と永遠――永遠の現在」『九鬼周造の世界所収』)に対して、以前、疑問を述べた。図がダイナミックな構造をもつという指摘は正しいが、動き方は逆ではないか、と。すなわち、小浜はこの図を上(必然性)から下(偶然性)へと見ているが、九鬼周造自身は、下(偶然性)から上(必然性)へと見ていたのではなかったか、と。

   逆三角形

 小浜善信は『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』(昭和堂 2006年)でも、同じ見解を述べ、さらに、「逆三角形」を基礎にした展開図を提示している。これは、「可能的世界」の思想を加味して、九鬼の図を描き直したものである。

       「逆三角形」(+可能的世界)

 わたしもまた、九鬼周造の「逆三角形」の展開図を提示している。(「弁証法試論」 補論6 弁証法と様相性)。これは、「偶然性の内面化」の思想を加味して、九鬼の図を描き直したものである。

      「逆三角形」(+偶然性の内面化)

 九鬼周造の逆三角形に対する二つの展開図の違いを、確認してみようと思った。

 こんど、『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』を読んでわかったことは、小浜善信は様相性の第三の体系の図として、逆三角形を取り上げているわけではないということである。かれは九鬼周造が提出する図の一つとして見ているだけなのである。

 九鬼が『偶然性の問題』において「偶然性」の存在論理学的な構造を視覚的に説明するためにいくつか掲げる図式の中から、上のような「逆三角形」による構造表現を援用し、九鬼の基本的な思想構造を改めて確認してみよう。

「必然性」を表す実線は、いわば完全に無の影を排除した存在そのもの、生命の充溢といったようなもので、ダイナミックな無限者を示している。三線で囲まれた面(「可能性」)は頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動ないし胎動を内包する「可能性」であって、「必然性」自体が体内に孕む衝動である。そして頂点は、無(「不可能性」)の破線に墜落する不安に絶えず脅かされている。(『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』)

 小浜善信は「偶然性」の存在論理学的な構造の図解として、様相性の第一の体系の図でもなく、また第二の体系の図でもなく、さらに、第三の体系の「円と接線」の図でもなく、「逆三角形」の図を選択している。それは、逆三角形の図が、もっとも「偶然」と「落ちる」(cadere, Zufall)の関係と相性がよかったからだと思われる。

 小浜の説明が、上から下へと向かう理由である。

 小浜善信は逆三角形の図を様相性の第三の体系の図としてとりあげているのではないことを強調しておこう。もちろん、文脈を無視するのが悪いわけではない。なぜなら、新しい意味と価値を創造することもあるからである。
 
 しかし、小浜は、逆三角形の図を九鬼周造の文脈を無視してとりあげていることに、それほど自覚的ではないのである。というのは、「九鬼は無限逆三角形を用いて何を言おうとしたのか」と問うているからである。

 逆三角形の図を、様相性の第三の体系として見ていないのだから、小浜は正確に表現することができない。そのため、自分が思い描く「偶然―邂逅論」を推定するだけになるのである。

どこからともなくやってきて、どこにあるとも知れず、どこへともなく去ってゆく我と汝とが、ゆくりなく邂逅する――「盲亀と浮木の出逢い」とはそういうことであった。しかし、そのような実存としての我と汝との、一期一会の邂逅であればこそ、いよいよ「遇無空過者」(遇うて空しく過ぐる者無し)、いや「遇勿空過者」(遇うて空しく過ぐる者勿れ)ということが言えるのであるまいか。九鬼の実存論の根底にはそのような偶然―邂逅論がある。無限逆三角形によって九鬼が言いたいのは以上のようなことだろう。

 九鬼周造はといえば、次のように、下から上への動きを明確に述べているのである。

偶然性は、不可能性を表わす直線内においてその一点であると同時に、可能性を表わす三角形においてその頂点である。偶然性は虚無であると共に実在である。虚無即実在である頂点は生産点として三角形全体の存在を担う力である。三角形の底辺は発展的生産の終局として完成の状態にある必然性を表わす。偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致するのである。

 わたしは、「偶然性の内面化」へと続く、九鬼周造の文脈を活かして捉えるべきだと考えているのである。

 九鬼が『偶然性の問題』の結論とした「偶然性の内面化」には、次のような表現がある。

偶然性は不可能性が可能性へ接する切点である。偶然性の中に極微の可能性を把握し、未来的なる可能性をはぐくむことによって行為の曲線を展開し、翻って現在的なる偶然性の生産的意味を倒逆的に理解することができる。

不可能に近い極微の可能性が偶然性において現実となり、偶然性として堅くつかまれることによって新しい可能性を生み、さらに可能性が必然性へと発展するところに運命としての仏の本願もあれば、人間の救いもある。

 小浜の展開図をくわしく見ておこう。

     「逆三角形」(+可能的世界)

 最後に、「可能的世界」という思想をも加味して先の無限逆三角形の図を描き直し、九鬼哲学における「神と世界と人間(「私」)」について、その全体像を示せば、上図のようになるだろう。

 「必然性(かならずしかあること)」とは、存在の100%の可能性、無限の可能性の充満、「無」を含まない「存在そのもの( esse ipsum )」、無限者、永遠、神(遊戯する神―原始偶然)などと言いかえることができる。
 「可能性=P1 ~Pn (possibilia)」とは、神の思惟内容、非有のイデア・個物のイデア、可能的世界、すなわち別の在り方で在りうる世界、別の仕方で展開しうるような歴史的世界などと言いかえられる。
 「偶然性(たまたましかあること):C1 ~Cn (偶然的・歴史的世界)」とは、たとえば、C1 は、シーザーがルビコン河を渡らなかったような歴史的世界、Cn-1 は、「私」が別の生涯を送るような世界、Cn は、人間が存在しないような世界、C10 は、現実世界とその中にある「私」の存在(「実存」)の現場、つまり「いま、ここ」、「永遠の今」などと言いかえられる。
 「不可能性(否定的必然性)」とは、0%の可能性、すなわち「無」と言いかえられる。(『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』)

 九鬼の逆三角形を、無数の離接肢のなかの一つとして、捉えているところに特徴があるといえるだろう。様相性の第三の体系とは、まったく別の世界になってしまっているが、九鬼周造の基本的な様相性の思想は、表現されていると思う。

 わたしの展開図は、偶然性の内面化をわたしなりに解釈し、逆三角形の図に、複合論を結合させたものである。

      「逆三角形」(+偶然性の内面化)

 「偶然性と不可能性の近接」と「可能性と必然性の近接」に止揚の論理の根拠を想定し、下から上への過程、すなわち〈偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致する〉過程を弁証法と見ているものである。

 わたしの展開図も、様相性の第三の体系とは、まったく別の世界になっていると思う。

 くわしくは、次を見ていただきたい。

   弁証法と様相性 

 小浜の「可能性」は、離接肢として、逆三角形の外部へ、右と左へと拡張していっている。わたしの「可能性」は、対話を通して、与えられた逆三角形の内部の下から上へと伸張していく。小浜の「偶然性」は、離接的偶然を強調している。わたしの「偶然性」は、仮説的偶然を強調している。

 九鬼周造の逆三角形を基にした二つの展開図の位置づけを試みておこう。

 『偶然性の問題』の結論は、次の二つの節から成り立っている。

   1 偶然性の核心的意味

   2 偶然性の内面化

 小浜の展開図は1に対応し、わたしの展開図は2に対応しているといえると思う。小浜の図は「いき」な構造である。これに対して、わたしの図は、どうやら「野暮」な構造になっているようである。


赤と白の『弁証法の系譜』

2006-09-16 | 弁証法

 しばらく前に、岐阜県図書館の開架にある『弁証法の系譜』は、赤い表紙の未来社の本から、白いカバーのこぶし文庫の本に替わった。本も新陳代謝をしているのだと思った。

 赤の『弁証法の系譜』(未来社、1963年)をはじめて手にしたのは、およそ10年前のことである。そのころ、わたしは許萬元によって与えられた問題を解くのに参考になりそうな本を手当たりしだいに読んでいた。「論理的なものの三側面」はこれまでどのように研究されてきたのかが最大の関心だった。

 「論理的なものの三側面」とは、ヘーゲルが『小論理学』のなかで述べている規定で、論理的なものには、1 悟性的側面、2 否定的理性的側面、3 肯定的理性的側面 の三つの側面があるという見解である。
 
 「論理的なものの三側面」を批判的にとりあげてある本を踏み台にしたかったのである。しかし、「論理的なものの三側面」を取り上げている本は少なかった。あっても、たんにヘーゲルの規定を反復するだけのものだった。全面的に否定していたのは、見田石介だった(「ヘーゲル論理学と『資本論』」)。しかし、これは、あきらかな誤解に基づいているように思え、参考にはならなかった。再考を求める複素過程論、読みづらい廣松渉(『弁証法の論理』)、くりかえし読む許萬元(『弁証法の理論』)、このような中で、上山春平の『弁証法の系譜』を手にしたのである。

 上山春平の「論理的なもののの三側面」へのアプローチには、二種類あるように思えた。一つは、哲学史に関連したものである。ヘーゲルが分類した近代哲学思想の三つの真理観のタイプ(イ ドグマ的な「悟性的形而上学」、ロ 懐疑的もしくは反省的な啓蒙哲学、ハ 反省知をしりぞける直接知の哲学)を、次のように、論理的なものの三側面と対応させ、ヘーゲル哲学を位置づけるものである。

  1 悟性的モメント       (イ) と (ハ) 
  2 否定的理性的モメント     (ロ) 
  3 肯定的理性的モメント   ヘーゲル哲学
 
 (イ) のタイプの例として、「大陸合理論」(ライプニッツ、ヴォルフ、デカルト、スピノザ)があげられている。(ロ)は、イギリス経験論とカントの批判哲学である。また、(ハ) の例は、「ロマン主義哲学」(ヤコービやシェリング)である。

 もう一つは、問題解決の過程と「論理的なものの三側面」と対応させるものである。

  1 悟性的モメント       「問題のない段階」
  2 否定的理性的モメント   「問題をもつ段階」 
  3 肯定的理性的モメント   「問題の解決した段階」

 わたしが関心をもったのは、後者である。複素過程論が「論理的なものの三側面」と関連し、弁証法へと展開していく方向をかいまみる思いがしたのである。

認識における「対立物の統一」の過程としての問題解決の過程こそ、弁証法論理学の固有の研究対象ではないか

Aufheben の過程にかんする論理的分析は、ヘーゲルによって残された弁証法論理学の最大の課題であった。

 これらの指摘は、わたしの試みを後押ししてくれるように思えた。

 しかし、上山春平は否定性を問題にしていないように思われた。すなわち、『弁証法の系譜』では、ヘーゲル弁証法の神秘性の原因である否定性が、問題になっていないように思われたのである。否定的理性的モメントの捉え方が、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)と内的に捉えられておらず、悟性的モメントに独断論的側面、また否定的理性的モメントに懐疑的側面を外的に対応させているだけのように思えたのである。

 わたしは、上山春平が考えを整理するために示した二つの図表に着目した。表1表2である。

 表1の「問題をもつ段階」において正と反を並立させていること、表2の「問題のない段階」が空白になっていることの意味( 表2´ )を考えつづけることになったのである。

 上山春平は、「問題解決の過程は、第二段階から第三段階への移行過程、つまりテーゼとアンチテーゼの対立からジンテーゼへの移行過程として規定することができる」と述べている。この「問題解決の過程」が、ヘーゲル弁証法の合理的核心である。これに対して、ヘーゲル弁証法の神秘的側面とは、「論理的なものの三側面」の三段階そのものである。わたしはこのように考えるようになった。いいかえれば、わたしは、表2にはヘーゲル弁証法の神秘性と合理的核心が混在しているのではないかと考えるようになったのである。

 「問題のない段階」(悟性的モメント)に空白を設定して、「論理的なものの三側面」の三段階の形式を整えているのは、上山春平が「論理的なものの三側面」(三段階論)を絶対的な基準と考えているからではないだろうか。

 これに対して、わたしは、「問題解決の過程」を基準にして、「論理的なものの三側面」(三段階論)を解体していく方向を選択した。ヘーゲルとは異なる認識の進行形式を模索していくようになったのである。

   弁証法試論 第5章  対立物の統一と対話 

 白の『弁証法の系譜』(こぶし文庫、2005年)は、『上山春平著作集第1巻哲学の方法』(法藏館、1996年)所収の「弁証法の系譜」を底本にしている。

 この本で特徴的なことは、考えを整理した図表のうち、表1が削除されていること、また、表2も、「問題の解決した段階」の行と「ヘーゲル論理学」の列が交差する枠に位置していた「 4) 絶対的理念 」が削除され、「問題のない段階」だけでなく、「問題の解決した段階」の空白も目立つようになっていることである。

 「白」で提示してある表は縦書きだが、「赤」の表と同じ横書きで示せば、次のようである。

  表2(白) 

 空白を強調すれば、次のようである。

  表2(白)´

 これは、わたしには、「論理的なものの三側面」と「問題解決の過程」が対応していないことを示しているように思える。いいかえれば、「論理的なものの三側面」(三段階)が解体され、意味がなくなっていることを示しているように思えるのである。
 
 上山春平は『弁証法の系譜』(こぶし文庫、2005年)の「解題」で、次のように述べている。(法藏館、1996年 の「解題」をすこしだけ書き直したもの)

 以上を要約すると、『弁証法の系譜』のテーマは、マルクス主義とプラグマティズムにおけるヘーゲル哲学の解体作業を手がかりとしながら、弁証法を問題解決の論理としてとらえ直すことにあった、と言うことができる。

 正確な自己認識だと思う。

 しかし、上山春平は問題解決の過程を表2(白)として示している。すなわち、これは、上山がいまだに「論理的なものの三側面」に束縛されていることを表わしているのである。

 弁証法は、「論理的なものの三側面」から完全に解放されなければならないと思う。


新しい弁証法的精神

2006-09-03 | 弁証法

 『孤独な探究者の歩み 【評伝】若き黒田寛一』(高知聰、現代思潮新社、2001年)のなかに、思いがけない名前があった。

 関根克彦である。かれは東大自然弁証法研究会のメンバーで、1953-5年ころ黒田と付き合いがあったという。また、1956-7年には、客観主義の克服について、黒田と論争をしている。意外な接点に思われた。

 わたしはこれまで関根克彦をバシュラール『新しい科学的精神』(中央公論社、1976年)の訳者として、知っていた。この本は、くわしい訳註が付いていて、ありがたかった。

 例えば、「水素のスペクトル線の二重項は、それをすでにアルカリのスペクトル線において見出していたのでなかったら、それを求めはしなかったであろう。」と本文にあると、次のような註が、付いているのである。

 これは、アルカリ多重項の発見が機縁となって実験家が水素の微細構造の探索に向かった、という歴史的事情を指しているが、バシュラールのこの文章は、パスカルの有名な文章の言いかえである。「お前が私をすでに見出していたのでなかったら、お前は私を求めはしなかったであろう。」(『パンセ』第553節)

 わたしは、本文からも、訳註からも学んだものである。1970年代の後半から80年代のことである。

 単に、知っていただけではない。わたしは『新しい科学的精神』を引き継ぐものとして、複素過程論を構想していたのである。

 知の形成過程とは、これまでの認識ではとらえられていない対象を把握しようとする人間の認識過程のことである。これはクーンがパラダイムの変化を、ケストラーがマトリックスの廃棄と再統合を取り出してきた過程でもあるだろう。またバシュラールが認識の微分と名づけた過程でもある。ようするにだれもが着目したくなるような魅惑的な過程なのである。認識の微分過程とは「修正され、拡張され、補完される」ことを通じて科学的思考が少しずつ形成されていく過程を指している。知の形成過程は「未知の世界との境界線上」にあり、進むべき方向を模索している過程であると確認しておこう。(『もうひとつのパスカルの原理』第4章 形成過程の条件)

 黒田寛一と関根克彦に接点があるなどと、これまで考えてもみなかったので、『孤独な探究者の歩み』のなかに、関根克彦の名前をみて、驚いたのである。
 
 しかし、高知聰がとりあげている二人の論争をたどってみて、わたしは自分の姿を関根克彦に見る思いがした。いいかえれば、わたしの立場は、黒田ではなく、関根の立場の延長線上にあると思った。

 関根克彦は、次のように述べている。(図書新聞1957年3月23日号 『孤独な探究者の歩み 【評伝】若き黒田寛一』より)

 黒田氏のように、「とりくむべき現実はたんに対象的・客観的現実だけではない」そのほかに「人間的現実」がある、として、互いに同格の・ないしは切り離された・二種類の「現実」を云々することは誤りである。対象的・客観的現実と別のところに、それとかかわりをもたない閉じた「固有の」領域として、人間的「現実」なるものが成立すると考え、その「思弁的」把握が哲学であると考えるなら、それこそ、観念論的哲学以外のなにものでもない。
 人間的現実が現実であるのは、ただ、人間が対象的・客観的現実の立ちむかうかぎりにおいて、である。この意味で、とりくむべき現実は、ただ「対象的・客観的現実」でしかありえないのである。

 関根氏のこの姿勢は、わたしが黒田寛一の「対象認識と価値判断」に対して疑問をもち、「指示表出と自己表出」に変換しようとした姿勢に通じるものがあると思った。わたしは、『もうひとつのパスカルの原理』第3章 認識の場所的構造 で、次のように述べているのである。

 科学は客観的認識であるだろう。ただし、客観性は最初から、あるいはある特定の立場によって保証されているのではなく、「論証を通じて詳細に客観化の方法を明らかにすることによってしか到達できない」(『新しい科学的精神』バシュラール著・関根克彦訳)のである。それは社会科学だけでなく自然科学でも同じである。科学を客観的認識ととらえたうえで、黒田が「対象認識と価値判断」で表現しようとした実質を考えていかなければならないだろう。

 また、関根氏の姿勢は、バシュラールの科学思想と通じていると思う。バシュラールは、『新しい科学的精神』のなかで、次のように述べている。

 このようにして、研究室において追求される客観的省察は、われわれを漸進的な客観化のなかに投げこむのである。そこでは、同時に、新しい経験と新しい思考とが実現される。明晰で決定的な知識の総和を一挙に得ようとする主観的省察とはちがって、客観的省察は進歩そのものであり、補完の必要をいつも予想している。科学者はプログラムを持つことによって行きづまりを脱し、一日の仕事を終えるときこう言う、「明日、私は知るだろう。」と。毎日くりかえされるこの言葉は、彼の信念を言い表わしている。

 関根克彦が黒田との論争のなかで主張していたのは、「漸進的な客観化」だったのではないかと、わたしは考えるのである。

 『孤独な探究者の歩み』のなかの関根克彦の名前は、思いがけない発見だった。それは複素過程論を構想するまだ若かったわたしを思い出させてくれたのである。わたしは、自分では気づかないで、黒田と関根を並立させていたのである。

 ところで、「明日、私は知るだろう。」に、関根克彦は次のような註を付けている。

 モンテーニュの有名な言葉に、「私は何を知っているか?」(Que sais-je?)というのがある。モンテーニュのこの消極的な懐疑に、デカルトは積極的な、方法的な懐疑を対立させた。バシュラールはこのデカルトをさらに乗り越え、「新しい科学的精神」の「非デカルト的認識論」を提唱する。モンテーニュの疑問形を肯定形に変え、同時に現在形を未来形にした標語――「明日、私は知るだろう。」(Demain,je saurai.)は、バシュラールの立場を象徴するものといえるだろう。

 親切な註といえるだろう。

 複合論は、矛盾と止揚ではなく、対話と止揚を主題としている。それは、非ヘーゲル的弁証法である。バシュラールに倣って、新しい弁証法的精神の標語を提出しておこう。その標語とは次のものである。

     「明日、私はつなぐだろう。」(Demain,j'unirai.)

 これは、わたしの信念を言い表わしているのである。

  『もうひとつのパスカルの原理』  

  「弁証法試論」第2章 認識の表出とバイソシエーション