九鬼周造が提示した様相性の第三の体系の図は、次のような逆三角形だった。
様相性の第三の体系(逆三角形)この図に対する小浜善信の説明(「時間と永遠――永遠の現在」『九鬼周造の世界所収』)に対して、以前、疑問を述べた。図がダイナミックな構造をもつという指摘は正しいが、動き方は逆ではないか、と。すなわち、小浜はこの図を上(必然性)から下(偶然性)へと見ているが、九鬼周造自身は、下(偶然性)から上(必然性)へと見ていたのではなかったか、と。
小浜善信は『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』(昭和堂 2006年)でも、同じ見解を述べ、さらに、「逆三角形」を基礎にした展開図を提示している。これは、「可能的世界」の思想を加味して、九鬼の図を描き直したものである。
「逆三角形」(+可能的世界)わたしもまた、九鬼周造の「逆三角形」の展開図を提示している。(「弁証法試論」 補論6 弁証法と様相性)。これは、「偶然性の内面化」の思想を加味して、九鬼の図を描き直したものである。
「逆三角形」(+偶然性の内面化)九鬼周造の逆三角形に対する二つの展開図の違いを、確認してみようと思った。
こんど、『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』を読んでわかったことは、小浜善信は様相性の第三の体系の図として、逆三角形を取り上げているわけではないということである。かれは九鬼周造が提出する図の一つとして見ているだけなのである。
九鬼が『偶然性の問題』において「偶然性」の存在論理学的な構造を視覚的に説明するためにいくつか掲げる図式の中から、上のような「逆三角形」による構造表現を援用し、九鬼の基本的な思想構造を改めて確認してみよう。
「必然性」を表す実線は、いわば完全に無の影を排除した存在そのもの、生命の充溢といったようなもので、ダイナミックな無限者を示している。三線で囲まれた面(「可能性」)は頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動ないし胎動を内包する「可能性」であって、「必然性」自体が体内に孕む衝動である。そして頂点は、無(「不可能性」)の破線に墜落する不安に絶えず脅かされている。(『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』)
小浜善信は「偶然性」の存在論理学的な構造の図解として、様相性の第一の体系の図でもなく、また第二の体系の図でもなく、さらに、第三の体系の「円と接線」の図でもなく、「逆三角形」の図を選択している。それは、逆三角形の図が、もっとも「偶然」と「落ちる」(cadere, Zufall)の関係と相性がよかったからだと思われる。
小浜の説明が、上から下へと向かう理由である。
小浜善信は逆三角形の図を様相性の第三の体系の図としてとりあげているのではないことを強調しておこう。もちろん、文脈を無視するのが悪いわけではない。なぜなら、新しい意味と価値を創造することもあるからである。
しかし、小浜は、逆三角形の図を九鬼周造の文脈を無視してとりあげていることに、それほど自覚的ではないのである。というのは、「九鬼は無限逆三角形を用いて何を言おうとしたのか」と問うているからである。
逆三角形の図を、様相性の第三の体系として見ていないのだから、小浜は正確に表現することができない。そのため、自分が思い描く「偶然―邂逅論」を推定するだけになるのである。
どこからともなくやってきて、どこにあるとも知れず、どこへともなく去ってゆく我と汝とが、ゆくりなく邂逅する――「盲亀と浮木の出逢い」とはそういうことであった。しかし、そのような実存としての我と汝との、一期一会の邂逅であればこそ、いよいよ「遇無空過者」(遇うて空しく過ぐる者無し)、いや「遇勿空過者」(遇うて空しく過ぐる者勿れ)ということが言えるのであるまいか。九鬼の実存論の根底にはそのような偶然―邂逅論がある。無限逆三角形によって九鬼が言いたいのは以上のようなことだろう。
九鬼周造はといえば、次のように、下から上への動きを明確に述べているのである。
偶然性は、不可能性を表わす直線内においてその一点であると同時に、可能性を表わす三角形においてその頂点である。偶然性は虚無であると共に実在である。虚無即実在である頂点は生産点として三角形全体の存在を担う力である。三角形の底辺は発展的生産の終局として完成の状態にある必然性を表わす。偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致するのである。
わたしは、「偶然性の内面化」へと続く、九鬼周造の文脈を活かして捉えるべきだと考えているのである。
九鬼が『偶然性の問題』の結論とした「偶然性の内面化」には、次のような表現がある。
偶然性は不可能性が可能性へ接する切点である。偶然性の中に極微の可能性を把握し、未来的なる可能性をはぐくむことによって行為の曲線を展開し、翻って現在的なる偶然性の生産的意味を倒逆的に理解することができる。
不可能に近い極微の可能性が偶然性において現実となり、偶然性として堅くつかまれることによって新しい可能性を生み、さらに可能性が必然性へと発展するところに運命としての仏の本願もあれば、人間の救いもある。
小浜の展開図をくわしく見ておこう。
「逆三角形」(+可能的世界)最後に、「可能的世界」という思想をも加味して先の無限逆三角形の図を描き直し、九鬼哲学における「神と世界と人間(「私」)」について、その全体像を示せば、上図のようになるだろう。
「必然性(かならずしかあること)」とは、存在の100%の可能性、無限の可能性の充満、「無」を含まない「存在そのもの( esse ipsum )」、無限者、永遠、神(遊戯する神―原始偶然)などと言いかえることができる。
「可能性=P1 ~Pn (possibilia)」とは、神の思惟内容、非有のイデア・個物のイデア、可能的世界、すなわち別の在り方で在りうる世界、別の仕方で展開しうるような歴史的世界などと言いかえられる。
「偶然性(たまたましかあること):C1 ~Cn (偶然的・歴史的世界)」とは、たとえば、C1 は、シーザーがルビコン河を渡らなかったような歴史的世界、Cn-1 は、「私」が別の生涯を送るような世界、Cn は、人間が存在しないような世界、C10 は、現実世界とその中にある「私」の存在(「実存」)の現場、つまり「いま、ここ」、「永遠の今」などと言いかえられる。
「不可能性(否定的必然性)」とは、0%の可能性、すなわち「無」と言いかえられる。(『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』)
九鬼の逆三角形を、無数の離接肢のなかの一つとして、捉えているところに特徴があるといえるだろう。様相性の第三の体系とは、まったく別の世界になってしまっているが、九鬼周造の基本的な様相性の思想は、表現されていると思う。
わたしの展開図は、偶然性の内面化をわたしなりに解釈し、逆三角形の図に、複合論を結合させたものである。
「逆三角形」(+偶然性の内面化)「偶然性と不可能性の近接」と「可能性と必然性の近接」に止揚の論理の根拠を想定し、下から上への過程、すなわち〈偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致する〉過程を弁証法と見ているものである。
わたしの展開図も、様相性の第三の体系とは、まったく別の世界になっていると思う。
くわしくは、次を見ていただきたい。
小浜の「可能性」は、離接肢として、逆三角形の外部へ、右と左へと拡張していっている。わたしの「可能性」は、対話を通して、与えられた逆三角形の内部の下から上へと伸張していく。小浜の「偶然性」は、離接的偶然を強調している。わたしの「偶然性」は、仮説的偶然を強調している。
九鬼周造の逆三角形を基にした二つの展開図の位置づけを試みておこう。
『偶然性の問題』の結論は、次の二つの節から成り立っている。
1 偶然性の核心的意味
2 偶然性の内面化
小浜の展開図は1に対応し、わたしの展開図は2に対応しているといえると思う。小浜の図は「いき」な構造である。これに対して、わたしの図は、どうやら「野暮」な構造になっているようである。