対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

『わが青春のサッカー』

2017-12-11 | 堀江忠男
市の図書館は毎年、不用となった図書や雑誌を無償で譲渡している。一室に図書と雑誌を並べてあるので、市民は気に入った図書や雑誌をそれぞれ一人につき10点まで持ち帰ることができる。この土日に無償譲渡会を開催していた。日曜日に本を返却しに行ったついでに、物色していたら、『わが青春のサッカー』(堀江忠男著、1980年、岩波ジュニア新書)があった。この本は以前開架にあって、堀江忠男に興味を持っていたころ、手にしたことがあった。堀江忠男は経済学者としてだけでなく、サッカー選手(1936年、ベルリン・オリンピック出場)、サッカー指導者(釜本邦茂や岡田武史らを育てる)としても活躍したことを知って驚いたことがある。わたしも高校時代はサッカー部だったが、G県の県大会レベルだった。
サッカーをめぐる堀江忠男の自叙伝を読んでみることにしよう。

「濁り」と「論述あいまいの虚偽」

2007-09-15 | 堀江忠男

 ヘーゲルとマルクス主義の弁証法を「濁った弁証法」と名付けた。そして、マルクスの「逆立と転倒」に対して、「混濁と透析」という図式を提出した。

  濁った弁証法

 弁証法はヘーゲルとマルクス主義にあっては濁っている。誤った外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それを透析しなければならない。

 濁りの原因は矛盾の肯定(矛盾律の否定)にある。濁りがどこで発生するのかといえば、推論の過程の歪みにしか求められないのである。

 堀江忠男は、マルクス主義に引き継がれたヘーゲル弁証法の核心は「矛盾律否定と錯覚された論述あいまいの虚偽」だと主張している。ここで「虚偽」( fallacy )とは「うそいつわりとかペテンとかいう意味ではなく、論理学上の誤り、議論の妥当性を失わせる欠陥」ということである。

 『マルクス経済学と現実 ――否定的役割を演じた弁証法』(学文社 1979年)と『弁証法経済学批判――ヘーゲル・マルクス・宇野の「虚偽」』「早稲田大学出版部1975年)を読みながら、これまで「濁り」といっていたものは「論述あいまいの虚偽」に起因していると考えればよいのだと思った。堀江は弁証法の新しい考え方を模索することには関心はなかったようだが、ヘーゲルやマルクス主義の弁証法に対する批判は正確で徹底しているように思える。とくに、『資本論』を取り上げ、マルクスの弁証法を批判しているところは、興味深い。

 ヘーゲルとマルクスから、2つの「虚偽」を取り上げておこう。

 1 ヘーゲルの「虚偽」

 「相関諸規定においては、矛盾は直接に姿を現わす。上と下、右と左、父と子などと無限にあるが、これらのごく平凡な例は、すべて一方のうちにその対立をふくんでいる。上とは下でないものである。上は下でないと規定されているにすぎないが、しかも下があるかぎりにおいてのみある。そしてまたその逆である。」(『大論理学』第2巻本質論)

 こういう「対立」を、ヘーゲルは矛盾律否定であるかのように、説明する。「〔対立物の〕おのおのは、第一に他者があるかぎりにおいてある。……第二に、それは他者がないかぎりにおいてある。」対立物の一方は、他方があるからあるのだし、同時に、ないからあるのだ、というのだから、文面だけみれば、明らかに矛盾律否定の論理によってでなければ、対立は理解できない、という意味になる。しかし、ヘーゲルがいおうとしていることの内容は、他方があるからある、という場合には、たとえば、上は下があるからあるのだということであり、他方がないからある、という場合には、下は上のなかにはないのだ、上とは別物だ、ということなのである。
 同一主語にかんして「上は下があるからあり、同時に下がないからある」といえば、明白な矛盾律侵犯の、内容的に意味をなさない命題である。しかし、ヘーゲルの話の内容は、上、下という二つの主語に分け、矛盾律を守って論述すれば、よくわかることである。だが、ヘーゲルは、この区別をはっきりつけず、したがって、単なる相関関係を矛盾律の否定と混同してしまうのである。これはむしろ論述あいまいの虚偽(fallacy of amphiboly)にもとづく「見せかけの矛盾」とでも呼ぷべきものであろう。

 これは、基本的に、松村一人の指摘と同じものである。(弁証法試論 第4章  新しい弁証法の基礎 3 松村一人の矛盾論参照)

 2 マルクスの「虚偽」

 「資本は流通から発生しえないのと同様に、流通において発生しえないのでもない。それは流通において発生しなければならぬと同様に、流通において発生してはならぬ。……ここがロードス島だ、ここで踊れ!」
「彼の貨幣の資本への転化は、流通部面においておこなわれるのであり、しかも流通部面においておこなわれるのではない。流通の媒介によっておこなわれる。――というのは、商品市場で労働力を購買によって条件づけられているからである。流通においておこなわれるのではない。――というのは、流通は生産部面でおこる価値増殖過程を準備するにすぎぬからである。」

 マルクスのいおうとする内容は、――価値増殖は流通部面で(労働力の購買によって)準備され、生産部面で(労働者が剰余価値を生みだすことによって)おこなわれる――ということにすぎない。ここには、矛盾律否定の論理の入りこむ余地はない。ところが彼は、流通部面で準備されることを、「流通の媒介によっておこなわれる」から「流通部面でおこなわれる」という。つまり、準備と実行とを言葉の魔術で等置してしまったのである。それならば、私は東京駅で新大阪行の超特急の切符を買ったら、私は切符購入という行為の媒介によって新大阪へいくのだから、切符を買ったことは、(まだ私が東京にいるのに)新大阪へ着いたことだ、といってもよいことになろう。
 マルクスのここの議論は、主語にかんするあいまいさがあるために、いっそう混乱してくる。「貨幣の資本への転化」は、流通(購買)―生産―流通(販売)の全過程にわたることがらであり、価値増殖は、生産過程のみでおこることがらであって、はっきり区別されなければならない。右の引用文には、事実、この二つの主語が出ている。ところがマルクスは、「貨幣の資本への転化」という一つの主語しか出ていないかのように取りあつかって、「貨幣の資本への転化」は流通部面ではおこなわれないという。しかし、「貨幣の資本への転化」が主語ならば、それは、流通(購買および販売)、生産の全過程を通じておこなわれるのである。ここにも、矛盾律否定の論理を適用する余地はない。マルクスは「手品はついに成功した」というが、内容を調べてみれば、あるものは、彼自身の議論があいまいなために生まれたみせかけの「矛盾の論理」だけなのである。

 これは、堀江忠男がはじめて指摘したのではないだろうか。たいへん新鮮に感じられる。補充しておけば、「貨幣の資本への転化」の「独自の・内的な・不可避的な弁証法」なるものの実態は、〈第一に、「あることの前提条件=そのこと自体」という誤り、第二に、「貨幣の資本のへの転化」(全運動)および「価値増殖過程」(その一部)という二つのことがらを、言葉の定義をはっきりさせないで、一つのことがらのように論ずるという誤り、この二重の誤りによって、「行なわれるのであり、行なわれるのではない」という言い方が正しいかのような錯覚を与えているだけのことである。〉
 
 ヘーゲルの場合もマルクスの場合も、矛盾律の否定は原理的にありえない。もしも矛盾律が否定されているように見えるならば、「論述あいまいの虚偽」に起因する錯覚なのだという主張である。

 矛盾律を前提にした弁証法。これがわたしが求めている「澄んだ弁証法」である。これをヘーゲルの「論理的なものの三側面」を再構成することによって、実現しようとしている。

 わたしは「論理的なものの構造」として自己表出と指示表出を想定した。これは直接には、吉本隆明の「言語」の構造(自己表出と指示表出)に基づいているが、マルクスの「商品」の構造(価値と使用価値)と対応させているものである。また、対話のモデルを作るとき、「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」で出てくるリンネルと上着の関係を参考にしている。リンネルと上着の価値関係から出現する関係に対話のモデルを求めたのである。

   弁証法試論 第6章 複合論

 新しい弁証法のモデルを、『資本論』に求めていて、きわどいのである。わたしの試みは濁っているのだろうか。わたしはいま足下を点検しているところである。


濁りの引き継ぎ

2007-09-01 | 堀江忠男

 堀江忠男は『マルクス経済学と現実 ―― 否定的役割を演じた弁証法』(学文社 1979年)のなかで、次のように断言している。

弁証法こそが、『資本論』の経済学を生みだしたもっとも本質的な方法論的な基底であることはまちがいないが、その弁証法自体が、客観的な現実認識と単純明快な論理構成の妨げになったことも、まぎれもない事実である。

 堀江はこれを具体的に立証している。かれの展開は納得できるものである。

 堀江忠男を読みながら、ヘーゲルとマルクスがつながったと実感した。限定していえば、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」(「論理的なものの三側面」)と「貨幣の資本への転化」がつながったのである。

 共通するのは、「反対の諸規定への移行」あるいは同じことだが「矛盾律の否定」である。『資本論』(大内兵衛・細川嘉六監訳 大月書店 1968年)から、二つ引用しておこう。

商品生産および商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。(第22章)

つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。
 こうして、二重の結果が生じた。
 貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ![Hic Rhodus,hic salta!](第4章)

 濁った弁証法が引き継がれた場面である。


幻視のなかの弁証法

2007-08-18 | 堀江忠男

 堀江忠男は、マルクスが『資本論』でヘーゲル弁証法の合理的核心とよんでいたものは、「一言でいえば、矛盾であった」と明言している。(『マルクス経済学と現実 ―― 否定的役割を演じた弁証法』学文社 1979年)

 合理的的核心が、矛盾? はじめ意外に思われたが、これまでに自分が書いた「ヘーゲル弁証法の合理的核心」についての記事を読み直してみて、堀江氏の認識と基本がずれているわけではないとわかった。間違ってはいない。しかし、どこかはっきりしないのである。例えば、わたしは「ヘーゲル弁証法の合理的核心 ――主題と変奏」のなかで、次のように述べている。

 マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ています。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられます。

 いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ています。これは、間違いないと思われます。

 「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」とは、矛盾のことだから、基本は押さえてはいるのである。しかし、わたしはマルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心として見ていたものを矛盾とは言っていないのである。

 堀江忠男氏の見解を確認しておこう。「第十五章 マルクスの弁証法的経済学の内在的再検討」で次のように述べている。

 マルクスが『資本論』第一巻のドイツ語第二版へ書いた「あとがき」のなかの有名な一節から話を始めよう。

 「弁証法がヘーゲルの手でこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態を初めて包括的かつ意識的な仕方で叙述したということを、けっして妨げない。弁証法は彼にあっては逆立ちしている。人は、合理的核心を神秘的外被のうちに発見するためには、それをひっくり返さなければならぬ」

 この"核心"なるものは、一言でいえば、矛盾であった。ヘーゲル『小論理学』の第百十九節の補注に「一般に世界を動かすものは矛盾である。」という言葉がある。レーニンは『哲学ノート』で、ヘーゲル『大論理学』から次のような個所抜書きしている。「矛盾はあらゆる運動と生動性の根元であり、あるものは自分自身のちに矛盾をもっているかぎりにおいてのみ運動し、推進力と活動性をもっている。」「矛盾は……あらゆる自己運動の原理であり、あらゆる自己運動は矛盾の現示にほかならない。」これについて、レーニンは次のような評注を書きこんでいる。「運動と"自己運動"、…… "変化" "運動と生動性" "あらゆる自己運動の原理" "運動"および"活動"の推進力"――"生命のない存在"と"まさに反対のもの"――これが、あの"ヘーゲルぶりの"、すなわち抽象的でひどくわかりにくい……ヘーゲル主義の核心であることをだれが信ずるであろうか?ところが、人はこの核心をこそ発見し、理解し、"救出し"殻からとりだし、純化しなければならなかったのであって、このことをマルクスとエンゲルスはじっさいになしとげたのである。」
 このようにわれわれは、マルクスが、ヘーゲルから、自然および社会の弁証法的発展の根本原因としての矛盾の概念を、継承したことを知りうるのである。

 堀江の引用のなかで、ヘーゲル・マルクスのものは知っていたが、レーニンの評注は知らなかった。この評注は説得力がある。たしかに、ヘーゲル・マルクス・レーニンとたどってみると、マルクス主義がヘーゲル弁証法の合理的核心として矛盾を捉えていたことがわかる。

 なるほど、と思う。しかし、ヘーゲル弁証法の合理的的核心が矛盾でいいのだろうか。

 わたしは「濁った弁証法」のなかで次のように述べている。

 ヘーゲルとマルクス主義の弁証法。逆立と正立の二つの弁証法に共通しているのは「矛盾」と「否定の否定」(「論理的なものの三側面」)が中心におかれているということである。

 合理的核心が矛盾ということだったら、合理的核心の名の下で、「矛盾」と「否定の否定」(「論理的なものの三側面」)が継承されていて当然である。しかし、これは、マルクス主義が、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握していないという文脈の中で述べたものである。

 わたしがヘーゲル弁証法の合理的核心としてみているものは、マルクス・レーニンのものとは違っているのである。合理性と矛盾は両立しない。これがわたしの立場である。マルクスの弁証法(「矛盾」)を歴史のなかの弁証法とすれば、わたしの弁証法(「対話」)は幻視のなかの弁証法である。

 幻視のなかで、わたしなりに弁証法を探究してきて、ヘーゲル弁証法の合理的核心として対話を想定する一方で、歴史のなかの弁証法は否定されるべきだと考えるようになったのである。

 幻視のなかの弁証法は、矛盾律を前提にした弁証法である。わたしは「対話」に照準を合わせ、「論理的なものの三側面」を解体し組み替える。

 幻視のなかの弁証法にとって、ヘーゲル弁証法の合理的核心とは、一言でいえば、矛盾ではなく、対話なのである。