「自然は数学で書かれた書物である」というガリレイの言葉はよく知られている。吉永良正氏は、『アキレスとカメ』(講談社 2008年)のなかで、このガリレイの言葉のなかの「数学」は、「数字」の方が正確ではないかと述べていた。感心した。
ガリレイは物体の運動を問題にするとき、大きさと形だけに着目して、色や匂いなどは無視していいとしました。前者が、後にいう第一性質、後者が第二性質です。ポイントは、第一性質は数量化が可能であること。これによって、物体の運動が数字に置き換えられ、ひいては数学的な計算に還元できるようになったわけです。「自然は数学で書かれた書物である」というガリレイの言葉の真意はそこにあると思います。微積分が誕生する以前の話ですから、数学とはいっても十分な解析ができるほどの道具立てはまだありませんでした。ですから、この言葉、「自然は数字で書かれた書物である」と言い換えたほうが、より正確かもしれません。
「万物のアルケーは数である」というピュタゴラスの思想と、どこか響き合っていると思いませんか。
この部分を読んでいるとき、ある記憶が甦ってきた。おそらく、「数学」の「学」と「数字」の「字」、「学と字」がきっかけになったのだろう。
記憶とは、『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明全著作集6 勁草書房 1972年)のなかに見つけた誤植のことである。「文字」とあるべきところが「文学」となっていたのである。
吉本隆明全著作集6 71ページ
後ろから3行目に、2箇所ある。
誤植とみるのは、次のような文字論の展開を正当と考えるからである。
文字の成立によってほんとうの意味で、表出は、意識の表出と表現とに分離する。あるいは、表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味でうまれるのである。文字にかかれることによって言語表出は、対象化された自己像が、自己の内ばかりではなく外に自己と対話するという二重の要素が可能となる。(89ページ)
文学と文字は違う。数学と数字も違うのである。
思いがけない寄り道となった。ガリレイの言葉が、もともとは「数字」で、誤って「数学」と伝えられてきたとしたら、たのしいと思う。