対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

アルチュセール弁証法への疑問

2008-02-24 | アルチュセール

 アルチュセールが描こうとした唯物弁証法は、エンゲルスのものともレーニンのものとも違っている。特徴的なのは、ヘーゲル弁証法との断絶を強調している点である。

 アルチュセールは、唯物弁証法の3法則(量質転化の法則・対立物の相互浸透の法則・否定の否定の法則)や「資本論」=「大文字の論理学」という見方を強く否定している。

こうして、現実に構成されているマルクス主義の実践の場合にかぎり、ヘーゲルのカテゴリーはずっと以前から黙ってしまっている。そこでは、それらは「見出しえない」カテゴリーなのである。おそらくだからこそ、『資本論』全巻――フランス語版の八折本,二五〇〇ページのなかに見出される、ただ二つの文言(否定の否定と量の質への転化にかんする文章――引用者注)を、過去のかけがえのない聖者の遺骨にささげるような細心入念な信仰心によって、ひろい集めて、万人にそれを披露する人もいるのだろう。そしてまた、おそらくだからこそ、そういう人はこの二つの文言を補強するため、レーニンの別の文言、じつはただ一つの言葉、一つの嘆声を引合いに出す。レーニンのその言葉は、ヘーゲルを読まなかったために、半世紀にわたって人びとがマルクスをまったく理解しなかったと、きわめて謎めいた調子で断言している……。

 しかし、アルチュセールはヘーゲル弁証法の矛盾を引き継いでいる。「重層的に決定された矛盾」として、ヘーゲルとの違いを明確にするが、弁証法の基礎に「矛盾」を据えていることには変わりはないのである。

 マルクス主義の見地における矛盾の種差的な差異は、矛盾の「不均等性」あるいは「重層的決定」であり、この「不均等性」は矛盾のうちに、その実在条件を反映している。すなわち、つねに‐すでに‐所与の複合的な全体――それが矛盾の実在である――の種差的な不均等性の(支配関係をもつ)構造を反映している。矛盾は、そのように理解された場合、あらゆる発展の原動力である。

 ヘーゲル弁証法の根源的な前提になっている「始源的な単純な統一体」に対して、アルチュセールは「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」を対置した。そしてここに「矛盾の実在」を見ているのである。

 この立場は、次のようなアルチュセールの見方とどのように関係しているのだろうか。

しかしながら、この『弁証法』という本が書かれていたら、その本はわれわれにとってきわめて興味深いものであったろう。なぜなら、それはマルクスの理論的実践にかんする《理論》だったに相違ないからだ。換言すれば、マルクス弁証法の種差性はなにに存するか、というわれわれの問題の解決(実践状態で存在する)にかんする、まさしく理論上の決定的な形式だったに相違ないからである。その問題の実践的な解決、その弁証法は、それがおこなわれているマルクスの理論的実践のうちに存在している。理論的実践をおこなう場合、つまり、「所与のもの」を認識に転化する科学的な仕事をおこなう場合、マルクスがもちいている方法こそ、まさしくマルクス弁証法である。しかも、まさしくこの弁証法のうちに、マルクスとヘーゲルの関係という問題の解決、あの名高い「転倒」の現実が、実践状態でふくまれている。

 「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」は、科学研究の根源的な前提であり、そのまま受け入れられる。しかし、これは矛盾とはなんの関係もないのではないだろうか。このように「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」を把握しなおした方が、「弁証法」はマルクスの理論的実践にかんする《理論》だったに相違ないというアルチュセールの洞察に接近できるのではないだろうか。

 参考文献
   河野・田村・西川訳『マルクスのために』平凡社 1994年