対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

中山正和のHBCモデル2

2024-04-18 | ノート
HBCモデルの下半分だけを取り出した図を示せば次のようになる。

これは言葉のない状態を表す。動物の行動のモデルだが、人間でいえば、言語を発する前の人類とか、生まれてまもない赤ちゃんの状態である。

ここで、海を前にした人類なら「う」という自発的に有節音が発声されて、新しい局面になる。赤ちゃんなら「あーあー」だろう。
ここに自己表出を想定したのである。このとき、コトバ記憶W・Sと言語検索W・Rは空白で枠だけがある。イメージ記憶I・Sとコトバ記憶W・Sを結ぶ多数の線はなく、I・Sから1本の線が空白のW・S、空白のW・Rを伝わって、→計画と表示されているところ「う」や「あーあー」は出現する(と想定できる)。これを端緒として、コトバ記憶W・Rがイメージ記憶I・Rに対応して形成され、I・RとW・Rの対応が密になっていく。

中山正和のHBCモデル1

2024-04-17 | ノート
こんど中山正和『演繹・帰納 仮説設定」(1979年)を読み直していて、HBCモデル(Human Brain Computer)に着目した。自己表出の出現の背景に脳髄や神経系の発達があるからである。HBCはヒトの脳のモデルである。脳の働きを分類・整理したものである。これは大脳生理学や子どもの成長の過程との対応も考えられている。モデルの下部構造は動物と共通している。
それは次のようなものである。


記号の説明  脳との対応
S→O(Stimulus→Output、刺激→反応)  脳幹・延髄系 
I→O(Image→Output、イメージ→反応) 大脳辺縁系  
I・S(Image-Storage、イメージ記憶)   新皮質系(右半球)
W・S(Word-Storage、コトバ記憶)    新皮質系(左半球)
W・R(Word-Retrieval、言語検索)    前頭連合野系

S→Oは「いのち」と名付けられている。S→Oは自然システムに組み込まれたいのちの働きを表わす。I→Oは「肉体の学習・刷り込み」である。例えば、灯を見るという視覚的刺激が行動に結びついていくこと。そして、過去の経験を新しい事態に適応させるために記憶装置I・Sが出現して、刺激→出力に幅が出る。
(引用はじめ)
動物は刺激を受けると〔S→O〕(いのち)の働きによって、自動的に〔I・S〕の中を探し、過去の経験をイメージとして引き出し、その中に現在の状態改善に役立つものがあれば、これを〔S→O〕に返して行動に移す。
(引用おわり)
動物は、「生きていること」に「たくましく生きていくこと」が加わり、さらに「うまく生きていくこと」ができるようになる。
モデル図の下半分である。

庭を歩くツグミを見ていた

2024-04-16 | 庭に来る鳥
鳥のキョッ、キョッという鳴き声が聞こえた。窓を開けると、花桃の枝に止まっていた鳥が地面に飛び降りた。頭部に白い部分が見え、ムクドリと思ったが、鳴き声との違和感があった。地面を歩く姿を追っていると、ツグミ(鶫)だとわかった。

しばらく前に、草刈りをしたのに、もう伸びてきていると思う。

コトバとイメージが喚起したもの

2024-04-15 | ノート
「自己表出はアブダクションである」を展開してきた。アブダクションと言語は密接に関係があると考えてきた。これまでカテゴリー「アブダクション」において、中山正和のアブダクションの理解を評価してきている。中山は「いのちの知恵」という魅力的な表現をしていた。しかし、あらためて考えてみると中山のアブダクションの理解とこちらのアブダクションの理解は両立しないことに気づいた。中山にとってアブダクションは推論ではない。「発見」や「気づき」として言語を媒介しないものと想定している。この違いをはっきりさせておきたいと思った。

中山は演繹・帰納と仮説設定の違いを自身が提起したHBCモデル(Human Brain Computer、脳のモデル)で区別している。このモデルを使って、中山との違いを明確にしたいと思う。
このモデルで強調されているのは、コトバとイメージの違いである。(モデルは後で取り上げる。)

中山との相違を明確にしようとしていたら、イメージとコトバに関連するおぼろげな記憶がよみがえってきて、何だろうと思った。それは『もうひとつのパスカルの原理』(2000年、文芸社)にあるように思えてきた。探してみると、それは6章「形成過程論」の冒頭にあった。そこは言語の自己表出と対応させて認識論を展開していく問題意識を明確にしていく箇所だった。
「表現されない認識」を印象的に記述しているものとしてJ・モノ―(『偶然と必然』)を取り上げていた。すこし長いが、引用する。
(引用はじめ)
「たしかに、すべての科学者は、かれらがものを考えているさいに、言葉よりももっと深いレベルで考えていることを自覚したことがあるに違いない。それは、視覚的な意味での映像(イメージ)を辛うじてつくり上げることしかできないような、形とか力とか相互作用とかいうものの助けを借りてシミュレートされた想像上の架空な経験なのである。私はあるとき、架空の想像上の経験に注意を集中したあまり、何ものも意識から消え去って、ただ自分が一個のタンパク質分子に同一化してしまっているのを知って驚いたことがある。しかしシミュレートされた経験の意味がはっきりしてくるのは、そのときではなくて、それが象徴的に表現されてからのことである。じっさい、シミュレートするときに使った非視覚的映像は、象徴とみなすべきではなく、むしろこういってよければ、架空の経験によって直接与えられた主観的かつ抽象的な現実とみなすべきであると私は思う。とにかく日常のことではシミュレーションを行ったすぐあとに言葉がつづき、それは思考そのものと混ざっているように見え、シミュレーションという過程は、言葉で完全に蔽い隠されてしまっている。しかし、多くの客観的観察が証明しているように、人間の認識機能は―――複雑な機能の場合でさえも―――言葉と(あるいは、他のいかなる象徴的表現手段とも)直接に結びついているわけではない。」
(引用おわり)
4章まではよく読んだが(「試行」70,71号に掲載された分)、それ以降はあまりよく書けていないという気後れがあって、読んでみようという気になれなかった。今度、読んでいて、なかなか頑張っていたじゃないかと思い、むかしの自分に元気をもらった感じがした。5章「対応論と等価変換理論」、6章まではなんとか行けていると思った。

そして、驚いたことには、5章の1対応論に、ハンス・セリエ『夢から発見へ』の引用があった。
(引用はじめ)
創造そのものはいつも無意識なものだ。その産物の証明と探究だけが、意識的な分析を呼び起こす。本能は考える方法を知らないままに思考をつくる。知能は思考の使い方を知っているが、それを作ることはできない。
(引用おわり)
ここに中山正和の「演繹・帰納・仮説設定」を止揚する契機があると思ったのである。

ギボウシの葉が出てきた

2024-04-12 | 庭の草木
ギボウシ(擬宝珠)の葉っぱが出てきていた。この葉が広がって、茎が伸びてくる。

これまでギボウシの芽(3月)、茎の伸長・つぼみと花(6月)を投稿していた。そのあいだを埋めておこう。

ドウダンツツジの花が咲いている

2024-04-11 | 庭の草木
ドウダンツツジの漢字表記は二つある。一つは「灯台躑躅」。これは、ツツジの枝分かれの状態が「結び燈台」(燭台)に似ているかとことからの名付けられたものである。もう一つは「満天星躑躅」である。これは漢名が元のようで、白い花が咲いているようすを満天の星に見立てたものである。今日のドウダンツツジには満天星躑躅をあてたい。


自己表出はアブダクションである9

2024-04-10 | ノート
吉本は3)の段階が可能になった背景として、
1器官的・生理的な次元の発達(自然としての人間存在の発達)と2意識の次元の強化・発達(自己を対象化する能力の発達)を挙げている。すなわち、有節音声を発することによって脳髄や神経系の構造が整っていく過程と並行して、音声が意識に反作用を及ぼし心的な構造が強化していった過程を想定している。
そして、次のように述べている。
(引用はじめ)
あるところまで意識は強い構造をもつようになったとき、現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発することができるようになり、それによって逆に対象の像を指示できるようになる。このようにして有節音声は言語としての条件をすべて具えるにいたるのである。有節音声が言語化されていく過程は人間の意識がその本質力のみちをひらかれる過程にほかならない、といえる。
(引用おわり)ゴシックは引用者  ここまで8と重なる

有節音声は逆の対応づけによって発せられていることが明記されている。
対象→有節音声
が、逆転して
有節音声→対象(像)
になることが指摘されている(ここで「逆」を「左右」で強調すれば、右脳から左脳への信号が逆転して、左脳から右脳へと通じるようになったのである)。
自己表出は『言語の本質』で指摘されている「思考バイアス」の特徴を示している。本家の自己表出もアブダクションといってよいだろう。

言語の発生と進化の過程を整理しておこう。
まず、脳髄と神経系の構造の発達がある。次に、これと並行して、心的な構造の強化がある。有節音声の「反射」から「象徴」への変化によって、指示表出は対象を直接ではなく、対象像を媒介して、対象を指すようになった。言語の発生とともに、対象との一義的な関係をもたなくなる一方で、類似するさまざまな対象を類概念として包括できるようになった。それは人間の特異な心的構造を強化していったのである。

特異な心的構造の一つをあげれば、推論の可能性だろう。まず、アブダクション推論が端緒の自己表出として可能になった。次にディダクション(演繹)、その次にインダクション(帰納)が可能になっていったと思われる。

自己表出の導入を確認しておこう。
(引用はじめ)
この人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭を言語の自己表出(Selbstausdrückung)として想定することができる。自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積してもはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。
(引用おわり)ゴシックは本文
自己表出は「与件にうながされて自発的に表出する」ものとして、また「幻想の可能性」として想定されている。幻想とは非現実的な心的現象である。自己表出は言語の現実離脱の水準を決定して、人間の本質力を拡大していくものとして想定されていたのである。
言語の発生と進化の模式図を再び提示して考察を終わることにしよう。


アイリス・ジャポニカの由来

2024-04-09 | 庭の草木
今日、サザンカの下をみると、シャガが咲いていた。去年より、1週間ほど遅い。しかし、調べてみると、今年が例年通りで、去年が早かったようだ。

シャガ(著莪)の学名は、Iris japonica(アイリス・ジャポニカ)という。Irisは、ギリシャ語の「虹」で、アヤメ属をさす。どうしてjaponica(日本の)がついているかといえば、リンネの弟子のカール・ツンベルク(スウェーデン)が江戸時代に日本に来たとき、シャガ(著莪)を見つけ、本国に帰って命名したことによる。しかし、シャガは中国からの帰化植物で、日本に自生していた植物ではない。

自己表出はアブダクションである8

2024-04-08 | ノート
『言語の本質』では、言語の起源・進化の基礎に「アブダクション推論」が挙げられている。このきっかけは、チンパンジー「アイ」の実験の動画だったようである(著者のうち今井むつみの気づき)。動画は次のようなものだった。
(引用はじめ)
アイは訓練を受けて、異なる色の積み木にそれぞれ対応する記号(絵文字)を選ぶことができる。黄色の積み木なら△、赤の積み木なら◇、黒の積み木なら○を選ぶという具合である。アイはこれをほぼ完璧にできるという。訓練のあと、時間が経ってもその対応づけの記憶は保持されていた。/しかし動画後半の展開は衝撃的だった。今度はアイに記号から色を選ぶように指示した。(中略)アイは訓練された方向での対応づけなら難なく正解できるのに、逆方向の対応づけ、つまり異なる記号にそれぞれ対応する積み木の色を選ぶことがまったくできなかったのである。
(引用おわり)

人間の子供なら、逆方向の対応づけはできる。異なる記号にそれぞれ対応する積み木の色を選ぶことは難なくできる。アイはどうしてできないのだろう。人間にとって当たり前のことが動物にとっては当たり前ではない。この断絶は本質的なのではないだろうか。ここに着目するようになった。

逆方向の対応づけが可能なのは、ことばの形式(音や文字)と対象の間の双方向の関係があるという洞察が人間には備わっているからではないか。「逆方向への一般化こそが、特定の音が対象の名前なのだという理解を支えている」という理解にたどり着く。

しかし、翻って考えてみると、これは論理的には正しくない。「AならばX」は「XならばA」ではないからである(「吉本隆明は詩人である」は「詩人は吉本隆明である」ではない)。逆方向への一般化は、前提と結論をひっくりかえしてしまう推論(「対称性推論」)であり、アブダクションと関係のある非論理的な推論である。

アイが対象→記号を学習しても、記号→対象を選べないのは、論理的には正しく、子どもが選べるのは論理的には正しくないのである。そこで対称性推論を、ヒトと動物を分かつ思考バイアスと特徴づけ、これをアブダクション推論と想定した。それまでは対称性推論に着目した実験はなかった。

そこで、
1動物はアブダクション推論をするのか、
2乳児は生まれたときからアブダクション推論をするのか
を、実験(生後8か月のヒト乳児33人と成体のチンパンジー7個体)を考案して、確認した。1は否定的、2は肯定的な結果となり、言語を持つヒトと持たない動物を区別する契機としてアブダクション推論が決定的であることを実証し、子どもの言語習得の過程としても、言語の進化・起源としてもアブダクション推論を想定できると考えた。

言語の起源と進化にはアブダクション推論がある。その目印は「逆方向の対応づけ」、「逆方向への一般化」である。自己表出はアブダクション推論なのだろうか。

吉本隆明の三段階論の3)の段階は、「音声はついに眼の前に対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるようになる段階である。」

吉本は3)の段階が可能になった背景として、
1器官的・生理的な次元の発達(自然としての人間存在の発達)と2意識の次元の強化・発達(自己を対象化する能力の発達)を挙げている。すなわち、有節音声を発することによって脳髄や神経系の構造が整っていく過程と並行して、音声が意識に反作用を及ぼし心的な構造が強化されていった過程
を想定している。
そして、次のように述べている。
(引用はじめ)
あるところまで意識は強い構造をもつようになったとき、現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発することができるようになり、それによって逆に対象の像を指示できるようになる。このようにして有節音声は言語としての条件をすべて具えるにいたるのである。有節音声が言語化されていく過程は人間の意識がその本質力のみちをひらかれる過程にほかならない、といえる。
(引用おわり)ゴシックは引用者

つづく

ヒヨドリが花びらを啄んでいた

2024-04-05 | 庭に来る鳥
庭のハナモモ(花桃)は満開間近になっている。窓から見ていると、花びらをヒヨドリが啄みに来ていた。

しばらくすると、レンギョウ(連翹)の方に飛んで行った。

こちらは花がだいぶ散って、葉が出はじめている。ヒヨドリはここでも花びらを啄んでいた。