対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「弁」証法 

2014-10-30 | 弁証法

 『ロゴスの名はロゴス』に、戦後の漢字改革で、違う意味の漢字を無理に一つに統合してしまった結果、混乱が生じている例として「弁」が取り上げられている。
 ある編集者は、本来「多ければ多いほどますますうまく処理できる」という意味の「多々ますます弁ず」を、「多弁」つまり「おしゃべり」と誤用していたという。
 「多々ますます弁ず」の「弁」と「多弁」の「弁」は、もともとは別の字で、前者は「辨」、後者は「辯」だった。「辨」は処理する。「辯」はしゃべる。これを「弁」としたため、誤用が生じたのではないかと呉智英氏は推測した。
 呉氏は次のように述べている。

 現行の「弁」は次の四つを兼用している。
●弁    かんむりの一種。
●辨(弁) 処理する。「辨償する」「国連難民高等辨務官」「多々ますます辨ず」など。
●辯(弁) しゃべる。「辯論大会」「辯解する」「東北辯」など。
●瓣(弁) 花びら。「花瓣」「安全瓣」など。  それぞれの字の中央をみれば意味は区別できるはずだ。「瓣」「刀(立刀)だから、処理する。「辯」は「言」だから、しゃべる。「瓣」は「瓜」だから、切った形が花びら。これらを「弁」に統一するのに無理があったのだ。
 似た名前の職業「辨理士(弁理士)」と「辯護士(弁護士)」も、字の違いで区別ができるはずだ。辨理士は特許の出願を処理する。辯護士は法廷でしゃべる。一目瞭然ではないか。
 ロゴスの名はロゴスの例である。

 しかし、一方、「辨」と「辯」を「弁」に統一するのに有理だったものが一つあるといいたいと思う。弁証法である。戦前には、「辯證法」と「辨證法」との二つの表現が用いられていた。私は「弁証法」を「対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物を統一する技術」と捉えている。対話の契機を「辯證法」に、統一の契機を「辨證法」に対応させれば、「辯」と「辨」を「弁」に統一した「弁」証法は弁証法の核心を表現しているといってよいのである。「弁」は「辯」と「辨」を止揚しているとみるのである。
 こちらもまた、ロゴスの名はロゴスの例ではないだろうか。

  参考   弁証法とディアレクティケー


ロゴスの名はロゴス

2014-10-29 | 自己表出と指示表出

 『ロゴスの名はロゴス』のなかで、呉智英氏は「言葉の本体は論理」であると主張している。

言語学にも国語学にも素人の身でありながら、文筆を職業とすることで言葉を追うはめになり、言葉の本体は論理だと知った。ヨハネ福音書冒頭の「初めに言葉ありき」は「初めに論理ありき」とも訳せるのである。言葉の名は論理。(言葉と論理にはそれぞれロゴスとルビがふってある。引用者 注)

 この立場から呉氏は日本の言論界に見られる言葉に関する無知を、文化・歴史・国際政治、そして何よりも論理に関する無知と関連させている。

 この言葉についてのエッセイは、蘊蓄に富んでいる。それはそれで興味がわき勉強になるのだが、ここで取り上げたのは私のこれまでの試みがこの「ロゴスの名はロゴス」に反映しているのではないかと思ったからである。

 私は吉本隆明氏の言語論を手本として「論理的なもの」に対して、自己表出と指示表出という構造を想定した。ここで、「論理的なもの」とは、理系文系を問わず、理論・主張・規定・見解・意見・公式など、なにかについての認識が表現してあるもので、人間の認識を媒介するものを指している。ヘーゲルは『小論理学』で「論理的なものの三側面」という規定を提出しているが、その「論理的なもの」と関連させたものである。

 ロゴスの名はロゴス。この同語反復。その心は自己表出と指示表出である。