客 きみのブログにコメントを寄せた「青春の弁証法」さんは、自身のブログを開設していて、きみにふれているよ。読んでみたかい。
主 いや。コメントは、おれの「対立物」の捉え方に対する疑問を述べていたと思う。「違う」ものをそのまま「対立物」と考えるのは、おかしいのではないか、と。
客 オイラーの公式は指数関数と三角関数を統一するものだが、きみはそれを「対立物」の統一と考え、弁証法の一例とみる。これに対して、かれは「異なるもの」の統一にすぎず、弁証法ではないとみている。〈「背理=アンチテーゼ」を提出して議論(対話)を深めていくことと、異なる視点からなる論述を複合していくこととは区別されるべき事柄では無いでしょうか?〉
主 さっそく、かれのブログ「巨人の肩に乗る」を読んでみるよ。
ニュートンに引用された12世紀のフランスの学者・シャルトルのベルナール。その「われわれは巨人の(両)肩の上に乗っているようなもので、それゆえ多くを見、また遠くまで見ることができるが、それは自分が優れているからでも、身体が大きいからでもなく、われわれを支え、高く持ち上げてくれる巨人のおかげなのである。」という言葉どおりに、弁証法を学ぶ場合にも遠くまで見通せる視野を与えてくれる巨人の書物を手に入れるべきだと言える。
私が手に入れた巨人の肩は中埜肇の『弁証法』(1973年)である。 今から37年前に発刊されたこの古ぼけた新書の中には、至る所に目から鱗の弁証法に関する解説であふれている。私が中埜肇の『弁証法』を(上山春平『弁証法の系譜』や許萬元『弁証法の理論』とともに)手にしたのは、「弁証法試論」という嶋喜一郎さんのサイトに触発されてであった。とにもかくにも興味深く、新鮮な観点に溢れた嶋さんのサイトをより深く理解してみたいとの欲求が中埜肇の『弁証法』という「巨人の肩」に巡り合わせたのだろう。
嶋さんのサイトに散見される、「弁証法は対話をモデルとした思考方法」であるとか、「対立物の統一とは矛盾ではなく止揚」であるといった金言は、すべて中埜肇の『弁証法』に由来することが解ったし、それらの優れた観点を更に発展させていくための道筋すら『弁証法』は提示しているように思われる。
優れた書物とは、かようなものを指すのであろう。私は中埜肇の『弁証法』によって、嶋さんのいわゆる「複合論」というのは武谷三男の三段階論における「実体論」の部分であると理解できたし、「構造論」の部分でもあると了解できた。その上で、武谷三男の三段階論が(マルクス主義的な意味での)弁証法的だとされるのは、現象論ー実体論ー本質論という否定の否定の形式を螺旋状に進展するがゆえであろうと考えるので、「構造論」(複合論)の部分を弁証法の核心だと突出させても、その複合部分の相互浸透性に焦点を絞るのか、それとも相互規定性に焦点を合わせるのかで(マルクス主義的な意味での)弁証法的か否かは変わってくるように思われる。 (「巨人の肩に乗る」)
おれの「弁証法試論」もなかなかじゃないか。
客 しかし、きみの弁証法より中埜肇の弁証法を高く評価しているわけだ。巨人の肩だよ。武谷三段階論での位置づけは、もっと展開してもらわないとよくわからないが、きみに「実体論」を見る一方で、中埜氏に「本質論」を見ているのだろう。
主 実体論とはねえ。たしかに、おれは弁証法のモデルを提示している。これをたんに「構造論」と受け取っているのではないだろうか。この構造をつらぬいているのは、「対話」と「止揚」だよ。これを表現するためのモデルだよ。読み取れていないのではないかな。
客 かれの、きみに対する疑問は次のブログ(「弁証法の本質」)で明確になっている。きみの中埜肇批判に対して反論している。
『弁証法』において中埜肇は弁証法の本質について次のように述べている。
「私は弁証法というものを単なる「技術」から一歩進めて「方法」として、しかも「思考の方法」としてとらえるべきであると考える。すなわち弁証法は論理でもなければ、法則でもなくて、ひとつの「思考方法」なのである。しかも「弁証法」の語源は「対話」であった。さらにこの場合に、語源とはただ弁証法の言語的・歴史的な起源を示すだけではなくて、実はむしろそれの本質的な始元、言い換えればその意味内容の原点を示すものであると私は考えた。したがって弁証法は「対話をモデルにした思考」、すなわち本質的・根源的に「対話的思考」だということになる。これが弁証法を考察する場合の私の出発点である。」(p17)
「私はもっと根本に遡って、そもそも弁証法は論理ではなくて思考方法であると主張する。いずれにしても弁証法を対立の統一であるとか、正・反・合の三段階式発展であるとして形式的なものと解することが、実は弁証法の精神そのものを裏切ることになるということは明白であると言わなければならない。」(p57)
「対話の展開において重要な働きをするのは、形式ではなく、内容である。それと同じように弁証法も形式よりは内容を重んずる。いわゆる「正・反・合」というような形式に拘泥するのは、むしろ弁証法の真の機能を否定することになるであろう。弁証法は非形式的・実質的な思考である。」(p56)
以上のことからも明らかなように、嶋喜一郎さんの
「中埜肇は対話の特徴として「二個の主体」を挙げたが、弁証法の構造的な特徴を整理するとき、「二個の主体」を捨てている。このために、中埜の理想型は対話的思考として十分に展開されず、ヘーゲルの正・反・合という三つ組(トリアーデ)形式と結びついてしまった。これは中埜肇の理想型の核心にある考えである。」(サイト「弁証法を創作する」)
という指摘は根拠のない言いがかりでしかないことが諒解される。嶋喜一郎さんの中埜肇に対する傍若無人・無礼千万なる言動はここに留まるものではない。弁証法を「対話的思考」だと中埜の見解をパクっておきながら、弁証法的構造を有するとしてオイラーの公式を挙げている。オイラーの公式が指数関数と三角関数という異なる数理の複合によって成立してるところが弁証法的だと言うのだが、それならば何ゆえに「対話」を弁証法の本質として持ってきたのかが解らなくなる。答えは明白で中埜の見解をパクったからでしかないが、中埜肇においてはオイラーの公式は弁証法とは無関係なものであろう。
中埜にとっては「形式論理」と区別されるところの「対話による内容的発展たる弁証法」は、嶋喜一郎さんにおいては不明瞭で未分化な存在である。したがってオイラーの公式を含めた数学における形式論理を本分とする領域を弁証法的構造の代表として提示してくるのである。
主 なるほどね。〈「オイラーの公式と複合論」への案内〉へコメントしてきた理由がよくわかるよ。「中埜の理想型は対話的思考として十分に展開されず、ヘーゲルの正・反・合という三つ組(トリアーデ)形式と結びついてしまった」ことを、根拠のない「言いがかり」というようでは、たしかに、「弁証法的構造を有するオイラーの公式」は捉えられないだろうね。
客 しかし、きみの表現がまずいんだよ。きみが、「ヘーゲルの正・反・合という三つ組(トリアーデ)形式」というとき、「論理的なものの三側面」の規定を指し、とくに、中埜が弁証法の核心を「弁証法的側面・否定的理性的側面」に見ていることを意味していた。それをきみは「形式」ということばでまとめた。そのため、中埜氏は弁証法を形式とは全く考えていないのに(P56、57)、きみは正反対の見解を示していると勘違いされたのさ。
主 中埜氏が弁証法を形式とは全く考えていないわけではないのだよ。中埜氏は次のようにも言っているんだから。
「弁証法」ということばと正・反・合という三つ組(トリアーデ)形式とは歴史的にはヘーゲルにおいて初めて結びつくことになる。(ただし第一章で述べたように、対話の思想的構造を分析すれば、その本質上トリアーデ形式が必然的に導き出される。だからヘーゲル以前の弁証法の諸形態のなかで、「弁証法」がトリアーデと結びつけて考えられなかったことのほうがむしろ不思議なことだと言われなくもない。)P129
「本質上トリアーデ形式が必然的に導き出される」だよ。なにが「言いがかり」だよ。おれの「弁証法試論」を読んで、おれのより中埜肇氏の弁証法を高く評価するなんて、季節が逆もどりしているんだ。
客 次の「傍若無人・無礼千万なる言動」に移ろうよ。〈オイラーの公式が指数関数と三角関数という異なる数理の複合によって成立してるところが弁証法的だと言うのだが、それならば何ゆえに「対話」を弁証法の本質として持ってきたのかが解らなくなる。〉これはどうなの。
主 まったくおれの試みを理解していないと思う。中埜肇氏だけでなく、だれにとっても、オイラーの公式は弁証法とは無関係なものだ、これまでは。おれがはじめて関連づけているのだよ。弁証法の新しい理論を作ることによって。それを作るときに、弁証法は「対話をモデルにした思考」という中埜肇の弁証法が重要な契機になっている。
客 「対話をモデルにした思考」を「弁証法の共時的構造」(ひろがるかたち)に止揚したことだね。
主 そのとおり。オイラーの公式の成立過程は、「弁証法の共時的構造」と対応する。それゆえ対話を弁証法の本質とすることと、オイラーの公式の成立過程を弁証法的と形容することは、おれにとって、まったく自然なことだよ。かれは「オイラーの公式を含めた数学における形式論理を本分とする領域を弁証法的構造の代表として提示してくる」ことを、否定的にみている。しかし、あらゆる「論理的なもの」は、「形式論理」によって表現されるのだから、この領域にしか、弁証法は存在しないのだ。
客 「対話による内容的発展たる弁証法」は、「論理的なもの」の成立過程に登場する。そして、「論理的なもの」の成立と同時に、退場する。きみにおいては、弁証法は形式論理の背後に隠れ、形式論理を支えているというわけだね。
主 「対話をモデルにした思考」を中埜氏が展開しきれなかったのは、ヘーゲル弁証法に束縛されていたからだよ。ここを切り離して、「対話をモデルにした思考」を全面展開するのがおれの試みだ。
客 中埜氏の弁証法には、矛盾と対話が同居している。きみは、矛盾を捨て、対話だけを取り上げるというわけだ。中埜氏は対話の特徴を10個挙げたが、その2つだけを取り上げ、おれたちの立場を明確にしておこうよ。
主 中埜氏は、「対立と否定」と「媒介性と相補性」を並存させている。しかし、おれたちは、「対立と否定」はヘーゲルによる束縛と見て、これを排除する。そして、「媒介性と相補性」だけを「対話」の核心として取り上げ、弁証法の共時的構造として定式化している。
(「対立と否定」)
対話が成り立つためには、TaとTbとの間に、時間的な継起(前後)関係とならんで、一定の必然的な内容的連関が必要である。Taは有限であるから、みずからのなかに否定性(欠陥)を含む。その否定性が断定によって明確化される。この明確化にともなって、Taをそのままでは承認せず、またそれを補うようなかたちで、Taに対立するTbが喚起される。しかもこの時、ほかならぬTaに、ほかならぬTbが否定的に対立するのであって、両者の対立関係は明確に一義的である。
(「媒介性と相補性」)
TaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立の中で共存している。対立的共存の関係を相互媒介という。そして相互媒介の関係にあるものは、相互に補い合っている。対話するTaとTbとは相互媒介と相互補完においてある。
客 おそらく、「青春の弁証法」さんも、「対立と否定」と「媒介性と相補性」を並存させているのだよ。それが、「異なるもの」と「対立物」の違いにこだわる原因になっている。
主 差異と対立。差異が認められる2つの「論理的なもの」が初めにあれば、それぞれの自己表出と指示表出が関連しあって、「対立物」になっていく。最初、外的であったものが、内的になっていく。
客 かれは、もう一つコメントを寄せている。ケストラーのバイソシエーションは、創造性ある知的活動ではあるが、真理探究の方法ではない。それは真理と誤謬を弁別するというよりも、創造的な知的技術である、と。また、弁証法において合一されるのは反論・批判であって、まったく別種の論述ではない、と。
主 これはちょっと意外だね。おれたちの弁証法が対象とする領域は、きわめて狭いものと思ってきたが、反論・批判に限定していないのだから、けっこう広いんじゃないか。2つの「論理的なもの」があれば、それだけで弁証法の可能性はあるのだと思う。